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金沢・中央通町⑥江戸時代の旧法船寺町と旧富本町

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【中央通町】

江戸時代の法船寺町は、元禄時代に「法泉町」と記した文書(史料:元禄6年(1693)侍帳)もありますが、町名は前出の浄土宗法船寺にちなむものと思われます。三壺記によると、法船寺が移転する以前(史料:貞享2年(1685)の寺社由緒書)村地内の河原で、一部は武家の宅地になっていたとあり、寛文11年(1671)には法船寺町”(史料:国事雑抄)が確認されています。町のほとんどが町人地ですが、一部、武家宅地、町付足軽の組地がありました。

 

(法船寺)

(文政3年の法船寺町の図・建物の法船寺)

 

文化8年(1811)の金沢絵図名帳には、町の中に大野用水分流(古車川)が通り2町17間(約250m)余りの通りを挟む両側町で、家数は138軒(内武家22)、町人の職業は、古金古手商10軒、青物商6軒、畳刺6軒、大工5軒、魚鳥商5軒、道具商4軒、批商3軒、団子商3軒、鍛冶職3軒、傘屋3軒、ほかに菓子屋、葉茶屋、薬屋、小間物屋、豆腐屋などの生活用品の店など40数軒日雇(かせき)12軒、他に料理屋1軒、風呂屋2軒、そして町医師が1人と、町名が表すように真ん中に法船寺があり、門前の住人の6割以上が商売人で、後は職人とわずか武家の家来や奉公人が住む下町的風情の町だったようです。

 

(現在の旧富本町)

 

富本町は、元は法船寺町の小名で、法船寺町の五差路の下の北西部が富本町

と呼ばれていました。後に富本町と長町一部、そして法船寺町との出会い地を広小路として町立した(史料:「又新斎日録」加賀藩史料)とあります。享保(1716~1736)の頃から、すでに広小路(広見)と呼ばれていたそうです。明治4年(1871)に宝船寺町に吸収され、広小路の名は消えます。当時は「ヒロコウジ」と「ヒロショウジ」と、

どちらで呼ばれていたかは定かでは有りませんが、金沢では、現在「広小路」と云えば江戸時代には無かった野町広小路が有り、こちらは「ノマチヒロコウジ」と呼ばれています。)

 

(旧法船寺町)

(文政の法船寺町・広小路・富本町の図)

(現在の旧広小路辺り・左の道は旧長町4番丁、右は旧法船寺町通り)

 

江戸時代の富本町は、文政6年(1822)に正式に町立します。広小路から北西の帯刀町に続く通りの両側町の地子町でした。当時は、今の中央通りの道路幅は狭く、南西の西馬場に至る通り通称鍔屋小路(角家は茶や質、道具を商う鍔屋清兵衛居宅)があり、南西は西馬場前、北東には武家屋敷が有りました。文政6年(1823)に法船寺町の北西部分を分立しました。

 

(寛文の地図と現在の地図・今昔金澤より)

(現在の旧西馬場入口)

 

鍔屋清兵衛:金澤古蹟志の記事に、亀尾記に依ると、鍔屋清兵衛法船寺檀家で、茶道の金森宗和の子孫と書かれています。昔、法船寺がこの地に移転し造営した頃、この地が初めて町地になると清兵衛が家を建て、法船寺町の早創の人だと伝えられているとあり、それから数代連綿して、代々茶商で後に多角化したようですが明治9年(1876)従来の邸宅を売却し、この地を退去したと有ります。旧邸は、法船寺町広見旧西馬場入口の角家だったと書かれています。)

 

(金沢町名帳より)

(イは法船寺町・ロは富本町・金澤町名帳より)

 

この項おわり

 

参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 「石川県の地名・日本歴史地名体系第17巻」著若林喜三郎 高澤裕一 株式会社平凡社 平成3年10月発行 「金沢町絵図名帳」金沢市立玉川図書館 平成8年3月発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』デジタル版 日本人名大辞典など


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