【千日町】
千日町の町名は、寛文11年(1671)8月の「改作旧記」普請会所の書出や元禄9年(1696)の「地子町肝煎裁許附」にも記載されていますが、“金澤古蹟志”には寛文以前から千日町と称していたと書かれています。この町名は千日山雨宝院の開祖雄勢が諸国行脚の途中伊勢神宮に千日参詣し、満願後の文禄4年(1595)にこの地に来て朽ちた寺を再興した故事に由来していると伝えられています。
(犀川大橋詰の現在地にあったと云う、朽ちた寺の起源は700年代にさかのぼり、白山を開山した泰澄大師が開いたと伝えられています。)
(雨宝院)
(千日町の石柱)
金沢において一寺を創立した開祖雄勢は、千日の勤行を全うした縁故から千日山雨宝院を号したという。慶安2年3月21日雄勢96歳で遷化し、墳墓を石川郡泉野に築き、世人は千日塚と呼びました。亀尾記に、雨宝院は右宝・左宝の両童子を安置していて、寺の名称が散草書で書かれていたから、ある人が、誤って両宝院と書くところを”両“が”雨“になったと云う説がありますが、これは誤りで、雨童子より起こった院号であると金澤古蹟志で森田柿園は云っています。
(寛文7年の金澤図・古今金澤より)
臥龍山徳龍寺
千日山雨宝院向かいの浄土真宗大谷派のお寺で、鎌倉期、天台宗寺院として卯辰山に開山しました。浄土真宗に改宗後、元和2年(1616)前田家の命にて当地に移転し、本堂は享保期(1716~36)の様式を残していると云われていて、今の金沢東別院の本尊は当徳龍寺より移転されたものです。建築家故谷口吉郎家や芸術院会員だった彫刻家故吉田三郎家の菩提寺でもあります。また、犀星が子供心にも希に見る美女と言っている明烏敏の従妹、子照(こてる)の嫁ぎ先で、犀星は時折、俳句の投稿で中央紙(新聞)を見るためと云って、よく出入りしていたと伝えられています。
(徳龍寺)
千日町は、藩政期雨宝院門前と現在の金沢市千日町・野町2丁目・中村町・白菊町の犀川左岸に位置し、犀川大橋下流の河原に沿った通りの両側町で地子町でした。高畠用水に架かる橋を境に用水沿いの町を千日前末新と呼ばれていました。明治3年(1870)千日前末新から旧西側町(現中村町・御影町)が成立し、同4年(1870)雨宝院門前が千日町に編入し150軒になります。
(中村高畠用水:現在は、桜橋左岸の取水口から暗渠を流れ新橋の少し上左岸の取入口から用水になります。用水はすぐ二手に分れ一方は東力用水になど、いくつかに分流し、もう一方は中村高畠用水になります。古く天正年間(1573~92)からの農業用水です。もとは中村用水と高畠用水は別のものですが、大正7年(1918)取り入れ口が1つになり今の名称になりました。延長は約4,5km。)
(用水取入口の記念碑)
(用水)
享保18年(1733)4月28日に雨宝院から出火し、現在の千日町・石坂町・野町辺りを類焼。被害は537軒とあります。この辺りは犀川大橋の橋詰で、郡部の農民が畑の作物や薪などを馬に付けて来て、売り渡したらしく繁盛していたそうです。
(千日町の通り)
文化8年(1811)の金沢町名帳によると家数は139軒。その内武家は53軒。町人は大工5人、紺屋と竹・籠細工・傘細工が各3軒、仕立物細工4軒、たばこ2軒、鍛冶1軒と職人は21軒。商人は室・秕商売、古手買、綿打、髪結、豆腐・湯葉、団子、茶、味噌、醤油、刻みたばこ、炭、油絞、道具、小間物、古金、魚鳥、蕎麦、荒物など19軒。そして苧絈、稼八、ぼて振、稼ぎ人(かせき)が18軒と変わった職業の土嚢ならず水を入れる袋を作る水嚢師、焼き物の上絵描など、地子町ですが武士と町人が同居の町でした。
(旧裏千日町・室生犀星記念館)
(裏千日前町:千日町の中間から西に入る小路の両側町で地子町でした。西に五十人町があり、町名は千日町の裏に位置しているので、そのように呼ばれたようです。町名成立の時期なども未詳ですが、現在、金沢の三文豪室生犀星の記念館のところで、ここが犀星の生誕地で、後に雨宝院の住職室生真乗の養嗣子となります。)
拙ブログ
室生犀星➀犀星のみち
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11936787716.html
室生犀星➁まなこ鋭き蛙かな
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11937908841.html
室生犀星③照道少年
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11939064280.html
千日塚伝説
千日塚は、現在の金沢市泉野町(旧地黄煎村)にありました。金沢千日町雨宝院の寺記に、雄勢という僧が、伊勢大神宮に千日の参籠をして、文祿4年(1595)8月本国に帰り、千日山雨宝院を建て、慶安2年(1649)3月21日九十六歳で石川郡泉野の原で入定しました。よってその塚を千日塚と云ったとあり、加賀古跡考には、白山社へ千日詣を行い、願満ちてこの塚を築いたと云う、越登賀三州志には、寛永14年(1637)から19年まで伊勢へ参詣し、往来、つつがなく千日の数に満ちたから、その意趣を刻して碑を建てたが、後に破損して享保14年(1729)に改建したとあり、改建は事実であろうが、碑には、下記の碑文が刻まれていたそうです。
(泉野町の千日塚地蔵は、昭和30年(1955)、老松が風害などを受け整地の際、護摩供養を行い、下記の伊勢両大神宮五千日大願成就の塚碑と雨宝院内の宝篋印十輪堂の横に移し供養したとあります。平成7年(1995)3月金沢市弥生公民館新館10周年記念誌記載。)
寛永十四年五月吉日 奉供養伊勢両大神宮五千日大願成就 為ニ親得説平等利益。 願主加賀金澤雨宝院雄勢
・上記は、碑の文面。”ニ”“説”“雄勢”が欠字になっていて緑の文字は推測のようです。 |
しかし、ここは伊勢の両大神宮の遙拝所で有ったと思われます。したがって、上記に書かれている諸説はすべて誤りか?千日塚というのも五千日塚を省略したものであろうと「加能郷土辞彙」の編者日置謙氏は書いています。
(雨宝院の雄勢の死を、「加能郷土辞彙」には入定と書かれています。入定は真言宗に伝わる伝説的信仰で、原義は単に「禅定に入る」という意味ですが、真言宗の入定伝説には、僧侶が地中の石室の中の木の箱で坐禅を組みながら、ひたすら読経し即身成仏とし入滅。御仏を掘り出すのは、それから千日後。即身仏で高僧の死をいう。「金澤古蹟志」には僊化と書かれています。僊化の意味は、正しくは遷移化滅で、略して遷化と云いますが、お隠れになるとも表現します。元々は仏教のものではなく漢語に由来するもので、本来、僧俗問わず高い地位にある人物が亡くなった場合に意味するものでした。曹洞宗では、「示寂」という言葉を用い、日蓮正宗では、「遷化」は、法主および能化の死を表す言葉で、大僧都以下の僧侶には普通「逝去」という言葉が使われているそうで、加能郷土辞彙の入定と金澤古蹟志の僊化に引っかかり調べてみましたが・・・?)
(現在の船場河戸あたり)
船場河戸(ふなばかわと)
現在の千日町入口より、300mほど下の町家裏から犀川にくだる場所を船場河戸と呼び、犀川大橋を架け替える時、ここに船橋を架ける習わしになっていたとあり、”金澤古蹟志”に萬治3年(1660)の大橋架け替えの時の記事には、萬治以前より船橋を架ける旧例があり、船橋を緤げる鎖は、佐久間盛政時代のものだと伝えられていると有ります。
(現在の千日町・googliマップより)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 「石川県の地名・日本歴史地名体系第17巻」著若林喜三郎 高澤裕一 株式会社平凡社 平成3年10月発行 「金沢町絵図名帳」金沢市立玉川図書館 平成8年3月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行