【千日町・白菊町】
旧西側町は、前回も書きましたが、藩政期は千日前末新と呼ばれていましたが、明治3年(1870)千日前末新と犀川の川沿い今の中村町・御影町(藩政期石川郡米丸組中村)の一部で旧西側町が成立します。当時の町域は犀川左岸の川沿い中村高畠用水取入口から昭和の初めまで、今の御影橋手前まで、その後犀川の川沿いが町化し、戦後の地図には御影橋の下流まで西側町になっていました。しかし、あの昭和の町名変更の実施で、昭和42年(1967)9月1日と昭和44年(1969))2月1日の2度に渡り千日町・中村町・御影町に吸収され今はその町名はありません。
(新橋と用水取入口辺り)
(犀川左岸アイビー辺り、手前までが今の千日町)
(千日町の通り、右に敬栄寺前の榎が見える)
(藩政期の千日前末新は、大橋下流の河原に沿った片側町で地子町でした。この千日前末境から町端(石川郡中村)に至ったと「金澤古蹟志」に書かれています。現在の千日町は、犀川左岸沿いの中村町のプチホテルアイビー(中村町)の上隣の道を挟み犀川上流が千日町。千日町の通りは、西の中村高畠用水沿いが白菊町で、千日町は、犀川側の片側町で、浄土真宗大谷派周光寺(中村町)を境に犀川上流方向が千日町になっています。)
(傘屋の前の榎)
(松田傘店)
千日町の今も残る名店松田傘店
金沢でただ一軒の和傘店で、昔は分業で30もの工程を1人で一本一本手作りしています。雨雪の過多の金沢で育まれた伝統を受けて、手入れが良ければ50年も使うことができるそうです。金沢和傘の材料は、真竹とエゴの木、楮で、傘の中心部に楮から作られた和紙を四重に張り、破損しやすい部分を補強し 他の和傘に比べて丈夫なのが特徴で、最盛期には 118軒の傘屋があり、金沢傘として県内外に売られていましたが、洋傘の普及により 現在は一軒となっております。
(向(白菊町側)の「えのき」は樹齢4~500年と共いわれています。)
旧石坂五十人町
犀川左岸の大橋より千日町から西に入ると縦横数町に延びる両側町で、西に明治5年(1872に成立した一部元五十人町を吸収して成立した白菊町があります、町名は藩政期、足軽五十人組の組地の1つで、石坂を冠しているのは三社(地名)と区別するためであったと金澤古蹟志に書かれたもので、また、同書には五十人組は、初代利家公が越中府中で鉄砲之者50人と小頭五人を召抱えて以来の名称だとあります。
(今の旧五十人町)
(延宝の地図・小幡宮内、前田平太夫の下屋敷も見える)
延宝の地図には、小幡宮内の下屋敷とありますが、五十人組の組地になったのは、宝永3年(1706)小幡氏が知行没収されて屋敷が上地となったのちと推定され、その後、鉄砲組の縮小から割場足軽組地のなったものと思われます。
(裏五十人町:千日町の通りから南に入り、五十人町の西、北石坂新町の北に位置し、五十人町の裏にあったのでこの様に呼ばれていたのでしょう。昭和の町名変更以前の金沢の地図には、裏五十人町は、五十人町の間に白菊町が挟まれ分断されていますが、明治5年(1872)の家中町の編成替えで、藩政期は町名が無かった前田平太夫の下屋敷一部が白菊町になり、間に割って入り離れてしまったものと思われます。)
(現在の白菊町からみえる瑞泉寺)
杉谷山瑞泉寺
金沢にある瑞泉寺は真宗大谷派に属し、石川郡押野の上宮寺に寛永年間(1624-1644)に創建され、越中井波の瑞泉寺第八世准秀の次男宣心が入寺し、名を改めて瑞泉寺とし現在に至っています。当時石坂五十人町と呼ばれた現在地(現白菊町)には、享保17年(1732)になってから移転し、大正11年(1922)に火災にあい、現在の本堂はそれ以降のものです。藩政期、第三世常栄より金沢東別院の役人になり、加えて第4世真栄の頃、享保14年(1729)より東方触頭役を担ってきました。お寺では、親鸞上人御真影・蓮如上人御真筆名号及び触頭文書を含む17,838点の古文書が金沢市指定文化財になっています。
(瑞泉寺所蔵の古文書群は、「触頭文書」と、瑞泉寺の自坊文書とに大別され、このうち触頭文書は、江戸時代中期以降に専光寺・瑞泉寺に金沢材木町にある善福寺を加えた真宗東方の金沢の触頭三ヶ寺の間で、黒漆塗長持や御用箪笥などに納められ、御用番の寺に持ち回られていました。文書の年代は江戸時代中期から明治時代初年のものが大半を占めるそうで、この古文書群は、藩政時代の加賀藩による寺社統制の具体相と真宗寺院のあり方を知る上で、質・量ともに県内に遺存するもっとも貴重な基礎史料と云われています。また、金沢城下町における生活文化を理解するための重要な史料と云われています。)
(白菊町)
(千日町の通り、左は白菊町、右は新橋)
白菊町
明治5年(1872)家中町を編成替えして成立した町で、町名は前田平太夫の下屋敷地(家中町・家臣の住居地)で、藩政期には武家地は通称しかなく、明治のなり正式名称として町名が付けるにあたり前田平太夫の家紋“菊一文字”から採ったモノだと云われています。
(白菊町駅:大正5年(1916)8月20日に金野軌道により初代西金沢駅として開設され、大正14年(1925)10月1日に白菊町駅に改称された。当時、石川線から金沢市内へ向かうには金沢市内線と接続する野町駅のほうが便利なために利用客が少なく、むしろ駅周辺の木材工業の工場などへの貨物輸送が中心で、北陸鉄道全線の中で貨物発着トン数は最大であったので、昭和45年(1970)4月1日以降は旅客列車の運行を取りやめて貨物専業となりますが、昭和47年(1972)9月20日に廃止されました。昭和の初め頃には駅前には北国劇場という映画館もありました。)
(敬栄寺)
土谷山敬栄寺
天文8年(1539)創建の寺。一向一揆の州崎慶覚や土屋義清の子孫に関わる寺で、お寺に伝わる記録によると、この寺は一向宗(現在、浄土真宗本願寺派)の寺で、御供田という場所にあったものが、その後、現在の場所に移されたそうです。この寺に伝わる土谷家の由緒帳などによると、寛政3年(1790)7月、石川郡御供田村土屋四郎右衛門の書いたものには、「私儀、故七兵衛せかれニ御座候処、父七兵衛儀、延享元年(1744)十一月山廻り御代官被 仰付、其後安永5年4月能州鳳至郡出津村十村役被 仰付候節、………云々」とあり、元祖は土屋大学で、先祖の妻は洲崎慶覚娘で、元祖土屋大学の義父となる洲崎慶覚は加賀一向一揆の中心的な役割を担った人物でした。
拙ブログ
加賀一向一揆④“蓮如さん”と下間蓮崇
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12572948221.html
(加賀一向一揆は他多数)
(敬栄寺伝説➀:土屋大学は、富樫氏が滅んだ年に、身内の内紛からか飛騨へ移ったそうで、その後、延徳3年(1491)に飛騨で病死。その息子隼人は御供田の館に居住し、天文3年(1534)に亡くなっています。土屋家が創建したという泉寺町六斗林の龍雲寺(曹洞宗)という別の土屋家の寺に伝わる資料によると隼人は天正8年(1590)に柴田勝家軍と戦って敗死したとなっていますが、史料のよると年代的に無理があると書かれたものあります。隼人の二人の息子のうち、長男又二郎は敬栄寺に養われ、後に百姓に、二男小五郎は慶覚寺に養われ、後に鶴来屋又兵衛の伜として町人となり、鶴来屋又左衛門として泉野寺町に居住、となっているという。)
(敬栄寺伝説➁:土屋又三郎義休は、江戸前期の勧農家、和算・測量術の巧者。石川郡御供田村(金沢市神田)の十村役(大庄屋役)の家に生まれ、諱は義休、字を時英、剃髪して直心、野衲と号した。寛文4年(1664)父土屋勘四郎義正が何者かに斬殺され,その跡目を継いで十村役に就きます。この逆境下で農書や地誌などの著述に励み。主著『耕稼春秋』全7巻(1707)は、宮崎安貞の『農業全書』を手本にして元禄期前後の加賀地方の農業を論じ、江戸時代を代表する一農書とされ、宮永正運の『私家農業談』と共に江戸中期以降の北陸農業の指針となる。 享保4年1 月(1719)に没します。寛文元年(1661)土屋勘四郎義正は藩主に忠誠を誓う証として曹洞宗龍雲寺を造り転宗したという。)
(昭和初期の金沢地図より)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 「石川県の地名・日本歴史地名体系第17巻」著若林喜三郎 高澤裕一 株式会社平凡社 平成3年10月発行 「金沢町絵図名帳」金沢市立玉川図書館 平成8年3月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行