【野町2丁目・4丁目・白菊町・増泉1丁目】
石坂台は、野町の裏にあり、大昔は泉野の野外の地で石川郡五ヶ庄石坂村の村地でした。村落は今のにし茶屋街辺りにあったものと思われ、金沢が前田家の城下町になるとこの地も追々町地になり、藩士達の下屋敷となり町名を立て石坂町あるいは南石坂町、北石坂町など数町に分けられ、その惣號は石坂台と呼ばれ小家が多く、俗に石坂1,000軒と云われていたそうです。石坂の名は、泉野は広野の荒地で石原の坂道だったので石坂と呼ばれていたと云われています。元禄15年(1702)の郷村名義抄に、石坂と申す処に村立するに依って、石坂新村と申すと伝承されています。
(表題にある”城南石坂台“は、私が勝手にデッチ上げたものではなく、森田柿園の「金沢古蹟志巻」にある表記で、金沢城の城南、犀川の西南に位置する地域を城南石坂台・城南野町筋・城南泉寺町筋・城南野田寺町筋に分類さているのを踏襲しました。また、昭和の町名変更前にあった石坂を冠した町名は、石坂町をはじめ北石坂町・北石坂新町・石坂川岸町・石坂角場町・石坂与力町がありました。)
(旧助九郎町からにし茶屋街入口)
(石坂村跡:郷村分村名帳に、石川郡五箇庄糸田・増泉・中村・石坂・大豆田五村とあり、この五村を一庄とし「五箇庄」と呼んだとあり、中でも石坂は町続きで、追々町地になり、村高71石の内55石7斗8升6合が藩の用地になり、この地は前田萬之助の下屋敷等になり、残りは地子町や相対卸の畑地などになり、廃藩置県後の租税調べは、石坂町の2人が税金を上納した記録があり、その頃には石坂村の村民はこの2人であったという。)
(にし茶屋街の案内板)
旧石坂町は、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に石坂町があります。また、国事昌披問答に金沢町名の中に野町・千日町・石坂町とあり、享保12年(1727)2月には石坂村の家続きより町家願いが出され新家の建築が許可されています。家数は341軒(内武家105)町人のうち職人はたばこ師11人、大工7人、樽・桶と木挽が各5人、扇子、紺屋、機織、畳刺、煙管師など、商人は古手買10人、刻みたばこ6人、髪結、魚鳥各5人、油絞、小間物、古金各4人、室・秕商売など、苧絈・稼44人、笊振(そうけふり)・稼人が111人と多く、文政6年(1823)には南北の石坂町と金戸町・小柳町に分かれ明治5年(1872)石坂新地、石坂村の一部を編入するが明治13年(1873)の大火で315戸が全焼します。(現在は野町2丁目・野町丁目・野町4丁目)
(にし茶屋街)
(石坂新地:文政3年(1820)石坂町辺りの遊郭が公許され、石坂新地・茶屋町と称しました。文政6年(1823)に、町奉行より出された町名に石坂新地とあり、その遊郭は通称“にし”と呼ばれます。当時の野町2丁目に木戸を設け武士と僧の出入りを禁じられますが、やがて、“武士は刀を預け”“僧は頭巾を被り”出入りし、武士の子弟が偽手形事件を起こすなどの不祥事もあり、「天保の改革」の影響もあったのか天保2年(1831)に廃止され、茶屋の建物の体裁を改めますが、文政以来の余波から、娼妓を置いて密かに商売をしていたそうです。幕末、藩の財政事情もあり慶応3年(1867)に両茶屋町が再興され、「西新地」とも「西の廓」とも云われました。明治5年(1872)に石坂町に編入されます。)
(案内看板のイラストより・玉川図書館蔵)
(石坂新地跡)
拙ブログ
にし茶屋街➀
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12043646255.html
にし茶屋街➁
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12044058360.html
(南石坂町)
旧南石坂町は、野町の通りに直交する両側町の地子町。の北國街道の一段低い傾斜地に屈曲して数条の町割がみられ、文政6年(1823)に石坂町より分かれ、通称であったのを新町名とします。明治4年(1871)野町柿木小路を編入しました。(現在は野町2丁目)
(北石坂町)
旧北石坂町
犀川大橋詰めより、雨宝院前の小路を入る小路で、千日町境の西にあり、北石坂新町の入口に続く地子町。文政6年(1823)に石坂町より分かれ、明治4年(1871)に神明社門前の一部を編入します。(現在は野町2丁目)
(石坂神明下:元禄6年(1693)の士帳に、石坂神明の下とあり、元禄以前よりこの名があり、野町神明は今の野町の神明宮で、その下にあり、神明の地が高かったので、その尻地を俗に神明の下と呼ばれていました。)
(北石坂新町)
旧北石坂新町
北石坂町の西にある地子町。北は裏五十人町で、元は北石坂町の一部で、石坂川岸とともに石坂の下町を形成していた。明治12年(1879)石坂村の一部を編入しました。(現在は増泉1丁目・白菊町)
(石坂川岸)
旧石坂川岸町・一の小路・二の小路
町名の由来は、泉用水の河岸沿いにあることによるもので、もとは石川郡石坂村の一部で、金沢城下に接続する相対請地となっていたが、文政4年(1821)2月町奉行の支配地となり、その時石坂村領の用水から末は針屋町に、西は石坂川岸となったと金沢の町会所留記のあり、明治4年(1871)の町名改正で石坂川岸町となり、同年の戸数は21戸。明治12年(1879)石坂村の一部を編入しています。(現在は野町2丁目)
(明治18年(1885)から明治32年(1899)まで栄町及び松が枝町にあったという「北の廓」が、北陸本線の開通に当たり、町の真ん中に遊郭があるのは、みっともない?という事から今の西茶屋街の隣、石坂川岸に移転したと聞きます。)
(石坂与力町)
(昭和初期の地図)
旧石坂与力町
町名は、藩の与力組地が置かれたことからそのように呼ばれていました。亀尾記によると、寛文7年(1667)3月、藩は城下の居住する与力に3年以内に小立野または泉(当地)に指定した与力組地に移転するよう命じています。藩は与力や足軽に組地を与えられ、寄親(与力)組頭(足軽)を通じて知行高の応じ配当されていたと、金澤古蹟志に書かれています。(現在は、野町2丁目・4丁目・泉1丁目)
(石坂角場五の橋・橋向こうが石坂角場五番丁)
旧石坂角場
町名は、藩政期の角場(鉄砲射的の練習場)で、市内各所に置かれていた内の1つで、明治になり町に近い方から石坂角場1番丁から12番丁に分かられています。藩政期の金沢城下には大組足軽が三組あり、その内二組が石坂に組地をもっていまいした。この二組が大通りの旧野町4丁目と旧野町6丁目から入るので、四丁目の組(上の組)六丁目の組(下の組)と呼んだという。明治4年(1871)この大組角場の近辺を石坂角場1番丁から12番丁と区画しなおします。その年の別の史料には14番丁とも書かれているらしい?また、明治12年(1878)石坂角場7番丁に石坂村の一部が編入されたとあります。(現在は、野町2丁目・4丁目・5丁目・泉1丁目)
現在は、昭和57年(1982)西インター大通リ(野田専光寺線・県道25号線)の開通により、旧石坂町は野町広小路からアピタ辺りまで道路が拡張され町域が分断されました。そして、昭和の町名変更以前にあった旧石坂角場、旧石坂与力町の2つの町は、藩政期を彷彿させる角場や与力が付けた町で、今では書物の中にしかなく“石坂”の名も金沢の町から消えてなくなりました。
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 「石川県の地名・日本歴史地名体系第17巻」著若林喜三郎 高澤裕一 株式会社平凡社 平成3年10月発行 「金沢町絵図名帳」金沢市立玉川図書館 平成8年3月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行