【野町2丁目・4丁目・白菊町】
石坂台には、石坂を冠しない町名が昭和の「住居表示」「町名の合理化」による町名変更まで、以下の町名がかなり残っていましたが、ほぼ今は全て野町2丁目に吸収され消えてしまいました。(当時、金沢市に933町あった町名が約520町になります。)調べて見ると、歴史の中で幾度も火災に遭い、町が全滅状態に貧しながら心機一転を町名変更で図る分けでもなく町名はそのマンマ!?当時、行政も住民も歴史的、文化的な町名が失われたくないと思ったのか?はたまた、お上の云うままにと思っていたのかよく分かりませんが、大半の町名は昭和42年(1967)まで昔からの町名が残っていました。
(昭和30年頃は、近くに茶屋町や毛織物、冶金の工場があり、道路は半分位か?)
(今の助九郎町・昭和30年代は賑やかな商店街でした。)
(西インター通り・旧助九郎町の通リを拡張)
災異誌には、享保18年(1733)4月28日に千日町の雨宝院より出火、野町2丁目まで延焼し、門前は千日町中程まで、足軽町、瑞泉寺等も焼失、家数537軒。宝暦12年(1762)8月2日夜、泉寺町の本長寺より出火し、石坂町、針屋町、本間町、助九郎町など369軒を焼失したとあり、さらに文化12年(1815)石坂足軽町より出火し、千日町、瑞泉寺、大蓮寺など674軒焼失、明治の入り13年(1880)には石坂町など315軒と4回の大火に見舞われながらも、しぶとく昔の町名で復興しています。
(石川県災異誌:石川県災異誌は石川県と金沢地方気象台が昭和46年から過去に遡り発行しているもので、石川県の災害史が白山の噴火辺りから宝暦の大火等の火災記録や幾多の水害など天災・人災そして異常気象に関することが詳しく書かれています。また、藩政期の加賀藩で起きた天変地異の記録「変異記 乾・坤」は石川県立図書館に所蔵されています。)
拙ブログ(大蓮寺)
宝の池の大きな蓮➀大蓮寺と豪姫
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12046581062.html
宝の池の大きな蓮➁豪姫と加賀藩
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12047152683.html
(旧助九郎町の石標)
旧助九郎町
この町は、野町の大蓮寺の尻地の町で、文政3年(1823)に石坂茶屋町に遊郭が出来るまでは、今のにし茶屋街にかけて助九郎町と呼び、あるいは云ったという。この地に本間助九郎といふ人が居住し、故に助九郎町と呼びこの近辺を本間殿町と呼んだという。一説には、昔この地に葛巻助九郎と云う人の邸宅があり、故にこの町名で呼んだと云いますが、葛巻氏歴代に助九郎という名がないが、この地が葛巻家の請地で、家臣が住んでいたが文政3年(1823)石坂茶屋町として妓楼を建ったとき、請地が売却して退去しました。金澤古蹟志には書かれてはいないが、勝手に推測するに、そこに住んでいた某助九郎という名前から助九郎町というようになったのでは・・・??(現在は野町2丁目)
(稲荷橋:この橋は、助九郎町より野町一丁目の小路へ出るところにあった溝川に架かる板橋で、如何なる由縁で稲荷橋と呼んだか、明治には伝言も絶えたと金澤古蹟志に書かれています。)
(旧本馬町辺り)
旧玄哲町
この町は、助九郎町より針屋町へ出る間にあり、旧伝では昔大石玄哲といふ医師がこの地に居住しています。それ故町名として呼ばれたという。その医師元祖玄哲は寛文七年(1667)死去するまでここに居住し、その子は西町に移住したという。延宝の金澤図には西町の角に大石三折と記載され元祿6年の侍帳にも大石三折西町算用場後。とあります。(現在は野町2丁目)
(大石玄哲伝:玄哲は、漢方医師で、利常公の時召抱えられ、大阪着米300石、外に50俵賜はり、寛永中利常公が小松養老の頃、小松へ召連れられますが、萬治元年(1658)薨去後金澤へ召返され、寛文7年(1667)に没す。その子三折が家を継ぎ、大阪着米400俵賜はり、5代綱紀公に仕え、元祿7年(1694)に没す。三折に二子あり、長男慶安家を継ぎ。初五人扶持なですが、後300石を賜わり、享保2年(1717)に没す。慶安には二子あり。長男を玄哲と称し、十人扶持を賜はり、安永2年(1773)に没す。此の子を三哲と称す。三哲の子を玄道と称し、後慶庵と改称すと、加陽諸士系譜に見へ、寛永4年の侍帳薬師衆の中に、その名見へず。寛永19年(1642)の小松侍帳に、500石大石玄哲細工町とあり、利常公小松在城中は、小松の細工町にて邸地を賜はるとあり、また、その出生地等の事は分からず、大阪請米を賜っていたとこりからも、京都に居たる医師で、京都より金澤へ召寄せられたと聞え、その由緒書を見ざる故に高名なる医師だったにで、その名を町名にも呼んだものと思われます。)
(昭和の初めの地図より・赤い線は当時の市電路)
旧針屋町
玄哲町の後の町。変異記に宝暦2年(1752)3月12日針屋町一軒焼失とし、古文書に、宝暦13年(1763)8月2日夜、寺町日蓮宗本長寺より出火、石坂町・針屋町・本間殿町・助九郎町焼失とあり。文政2年(1819)2月郡地のケ所が金澤奉行支配になった時、石坂村領は川より末は針屋町、川より西は石坂川岸と町の境を立て、その翌年茶屋町として妓楼を建てた時、町筋が変わります。金澤古蹟志には、針屋町といふ町名の起源は、今詳かならす。とあります。(現在は野町2丁目)
(旧本間殿町)
旧本間殿町(本馬町・本間町)
本間殿町は亀尾記に、昔本間左近と云う人の宅地で、本間殿町と町名に呼んだとあり、また、一説には、昔本間助九郎といふ人この地に居住したという。故に本間殿町と呼んだとあり、今野町一丁目の小路を助九郎町と呼ぶが、これもその由縁りの本間左近といふ人も、本間助九郎といふ人も、その名は古い侍帳に見当たらず、旧藩の歩士に本間氏がありますが、その祖なのか?また、寛文の金澤図には、両側とも小川八郎右衛門足軽二十人とあります。明治の廃藩置県の戸籍編成の時、本馬町となり、また本間町と有ります。(現在は野町2丁目)
(南石坂町より・柿木小路)
(野町2丁目より・旧柿木小路)
旧柿木小路
にし茶屋街の事務所横から野町通り渡り野町の願念寺に通じる小路で、旧南石坂に属していました。昔利常公が所々に柿木畠を置かれた頃、この地にも柿木の植え付を命ぜられ、その柿木畑の小路の名を呼んだと云われ、改作所旧記の元禄13年(1700)10月石川郡泉村領柿木等の畑地取調書に、泉村領之内に先年柿木御畑一ヶ所とあり、40ヶ年以前足軽之屋敷に相渡とあり、元祿13年(1700)より40年前は寛文元年(1661)です。(現在野町2丁目)
(旧下小柳町)
旧小柳町
野町通りに直交する地子町で、石坂角場および石坂与力町に連なり通リで、町名はかってこの辺りが荒地だった頃、柳の木があったことによると云われていますが?金澤古蹟志には不詳と書かれています。文化6年(1823)5月野町1丁目の小路が分離し成立、明治4年(1871)金戸町が合併、同12年(1879)石坂村の一部が編入されます。昭和の初めの地図には下小柳町とあります。(現在は野町2丁目)
(旧金戸町・旧上小柳町辺り
旧金戸町
野町通リから西に入ったとところにあった両側町の地子町で、西の石坂角場のあり町名の由来は未詳です。文政6年(1823)石坂町から分かれ町立されるが、明治4年(1871)小柳町に編入され、上小柳町と呼ばれていました。(現在は野町2丁目)
(寛文の地図、+は今の野町広小路で足軽町は町端?古今金澤より)
旧割場町
この町は、旧藩中は割場附足軽の組地で、割場附足軽という軽卒の邸地で、割場町と呼んだという、明治の廃藩置県後、戸籍編成町名改正の時、割場町の名を廃して、石坂角場町へ属したとあり、この割場町の後、町は柿木畑と呼んだという。これは改作所旧記にある、元禄13年(1700)10月泉村畑地取調書に、泉村領之内に先年柿木畑が一か所あり、40年以前に足軽中の屋敷に渡したとあり、恐らくはこれが割場町であろうと、金澤古蹟志に書かれています。(現在は野町2・4・5丁目、泉1丁目)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 「石川県の地名・日本歴史地名体系第17巻」著若林喜三郎 高澤裕一 株式会社平凡社 平成3年10月発行 「金沢町絵図名帳」金沢市立玉川図書館 平成8年3月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行