【野町2丁目・4丁目・白菊町】
石坂台には藩政初期に、今のにし茶屋街辺りが加賀藩士お抱え足軽の組地があり、寛永12年(1635)には松平玄蕃、前田万之助(前田修理家)、前田丹後(前田平太夫家)が、寛文7年(1667)の金澤図には小幡宮内の下屋敷は見られ、延宝(1673~81)の金澤図には、前田平太夫に隣接する中村や増泉の村地に定番足軽組地が描かれています。
(寛文7年金澤図・旧本馬町・小川氏、中川氏の足軽組地・大蓮寺が見えます)
下屋敷:武家地には、拝領地、下屋敷、組地などがあります。拝領地は藩士の石高に合わせ藩が与えた土地で、下屋敷は3,000石以上の藩士に与えられた土地で、その家臣(陪臣)を住まわせた土地、組地は足軽をその所属する組ごとに集住させた土地のことです。
定番足軽:金沢城に直番する足軽で、定番とは城番のこと。3代利常公の頃、足軽の老人に3人扶持・銀150匁を賜ったことが始まりで、その後、他のお城勤め諸役も定番馬廻役や定番頭などと呼ばれるようになりました。
(寛文7年の金澤図・小幡、松平、前田万之助、前田平太夫の下屋敷)
(今の西インター通リ・前田万之助の屋敷と下屋敷は道路を縦断していました。)
前田万之助(前田修理家)の屋敷と下屋敷跡
廷宝の金澤図には、間口四十三間4尺、奥行東側九十六間・西側九十二聞とあり。世々ここ居住し、明治廃藩の際、家屋を壊し地所を売却し退去せり。と金澤古蹟志にありますが、南側約半分が屋敷で残りは下屋敷でした。
(前田修理知好伝:修理知好は、前田家初代利家公の三男で、3代利常公の実兄。幼名を三九郎と呼び、俗称を七左衛門、後に修理という。天正18年(1590) 月8日山城国北野にて誕生す。母は利家側室の在(金晴院)。小塚内匠の養女で、能登の人と云う。修理は慶長元年(1596)正月金澤へ来られ、利長公の命に依り、能登石動山に出家し居住するが、慶長9年(1604)正月石動山より下山し、同年3月21日利長公より知行地3,000石を賜わり復飾。前田利好は、藩祖利家公の兄五郎兵衛安勝のので、知行地13,750石を領し、七尾城を守っていたが慶長15年(1610)に歿し、嗣子がなくその家禄を修理知好が継ぎ、七尾城を守ります。)
(延宝の金澤図・定番足軽の組地が見える。右は前田万之助の下屋敷)
前田万之助は、修理知好の孫、前田知頼の幼名で家禄禄は5,000石。享保元年(1717)7月小松城代となり、同年1,000石を加へ、元文4年(1739)致仕して秋庵と号し、寛保2年(1741)3月19日歿す。八十一歳。「甲申東北道記」を著したという。
(今の千日町の通リ・この辺りに松平玄蕃の下屋敷が有りました。)
松平玄蕃の下屋敷跡
延宝金澤図には、松平玄蕃の父松平伯耆康定以来の下屋敷で、妙慶寺由来書に、松平伯耆菩提所に致し、越中牧野村極楽寺住職城譽上人、金澤へ随従し来り、松平氏下屋敷に居住し、極楽寺と称し元和元年(1615)今の蛤坂上を拝領、妙慶寺と改称す。とあり。下屋敷というのは、千日町の下屋敷です。伯耆は家緑8,000石でしたが、玄蕃は4,000石、内1,000石与力知で、下屋敷も伯耆の時と歩数が減少され、下屋敷は廃藩まであり、明治になっても松平の家中(かっちゅう)と呼ばれていたそうです。
(前田平太夫の下屋敷跡・白菊町は平太夫家の家紋・菊一文字から)
前田平太夫下屋敷跡(前田丹後)
延宝の金澤図には、前田丹後長時は対馬守長種の次男で、慶長10年(1605)に1,000石を賜り、長種致仕の時、父家禄の内4,000石を配分し、5,000石となり、正保2年(1644)3,000石が加増され、8,000石を賜はり寛永17年(1640)長時の長男左馬助長重へ丹後知行分5000石を賜わる。正保元年(1644)長重父に先立ち、翌2年(1645))10月丹後長時に加増され8,000石を賜はり、内5,000石は左馬助長重の弟平太夫長成へ配分。延宝4年(1676)9月丹後長時に残す。丹後遺知分3,000石を平太夫長成へ賜はり、8,000石となり。延宝の金澤図には下屋敷が描かれていて、丹後父子在世中は下屋敷でした。
(前田平太夫の下屋敷が有った辺り)
大槻内蔵允下屋敷跡:大槻内蔵允伝蔵は、寛保2年(1742)12月3,300石(人持組家禄3,000石以上が下屋敷を下賜)になり、翌3年(1743)下屋敷を拝領します。その下屋敷は8年後の宝暦元年(1751)2月に前田多宮長澄(前田平太夫長成の曾孫)の下屋敷になりました。幕末、前田織江家(藩主の本家筋)の下屋敷と有ります。
拙ブログ
嫉み、妬みから極悪人にされて男③大槻伝蔵の屋敷と下屋敷
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前田織江下屋敷跡:祖は前田家の本家筋前田長種家の次男長時の子孫で人持組7,000石。一時大槻伝・の下屋敷のなり、平太夫の子孫前田多宮長澄と長種系に戻り、その後、一門の前田織江家の下屋敷になります。織江の上屋敷は仙石町にあり12代斉広公の家臣で幕末まで続きました。
(柿木畠の西惣構の堀、この上に小幡家の屋敷(今市役所)
(柿木畠の宮内橋)
小幡宮内下屋敷跡と小幡家
加賀藩士としての小幡氏は小幡宮内長次が初代で、前田利常公に仕え、家老・金沢城代を歴任し、禄高は10,950石になり、屋敷は今の金沢市役所の地にありました。長次の兄、右京もまた利常公に仕え、10,000石の知行取で、この兄弟が厚遇されていたのは異父妹・お千代保(おちよぼ)が前田利常公の生母寿福院だったことによります。兄右京の家は7,000石の家と3,000石の家に分かれ、7,000石の家は当主が早世し途絶えますが、3,000石の家は幕末まで続きます。弟の宮内長次は寛文8年(1668)に没します。家の前には小さな橋があり、その橋は、市役所と金沢21世紀美術館の間の道を下ると西惣構の堀に架かる橋で、今も宮内橋と云います。
拙ブロブ
広坂通りから柿木畠➀石川県知事公舎辺り
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12400550921.html
宮内長次は、現在の千日町と白菊町の一帯にも広大な下屋敷を構えていました。宮内長次の家は長次の次男宮内長治に継ぎ、長治には長男宮内立信、次男大学、三男治部丞という三人の息子がいて、家督は長男立信が継ぐが、知行10,950石のうち,300石を叔父の又助に譲ったので禄高は10,650石となり、次男大学は分家として新たに知行500石を得るが早世し、三男治部丞が大学の後を継ぐが、本家宮内立信の家は、順調にいけば幕末まで1万石級の上級藩士としての残っていたはずですが、宝永3年(1706)に事件がおこります。本家の立信は元禄年間に火消役、神護寺請取火消役などを歴任していましたが、あるときから精神を病んで、一族によって下屋敷に幽閉されます。
(延宝の金澤図・松平玄蕃と小幡宮内の下屋敷)
宝永3年(1706)のある夏の日の夕刻、こっそりと家を抜け出して、犀川のほとりを彷徨っているところを町方役人に捕えられ、この事件が原因で立信は禄を召し上げられ、知行没収により、下屋敷も取り上げられ足軽五十人組の組地となり、後に五十人町と呼ばれました。因みの小幡家は、立信の子満清に新たに2,000石が与えられ小幡氏は継続することになり、小幡宮内長次の子孫は幕末まで続くことになりました。
(寛文7年の金澤図・左に小幡不入が見える)
(寛文の金澤図に、小幡不入と有るのは初代小幡宮内長次の隠居所か?)
(五十人町と裏五十人町: 藩政前期、加賀藩士小幡宮内の下屋敷があったが、のち、足軽五十人組が住んだので、この名が付きました。 昭和42年9月1日と昭和44年2月1日に町名変更により中村町、増泉1丁目、白菊町になります。)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 「石川県の地名・日本歴史地名体系第17巻」著若林喜三郎 高澤裕一 株式会社平凡社 平成3年10月発行 「金沢町絵図名帳」金沢市立玉川図書館 平成8年3月発行 「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行