【千日町・中村町】
文政(1818~1831)の頃、千日町の町外れ(今の御影橋辺りか?)が、犀川が洪水のため、一時、荒地になり、町医師の堀昌安が中村の地内を頼み求め、自費で往来の左右数10間に貸屋を建築し、貧しき者をここに住まわせ、商売に従事させ周りを囲い昌安町と私称し、夏は夜店を開き、一時は大いに繁昌します。ところが大風のため家屋がことごとく破壊してしまい、昌安が死亡すると絶えと云います。その後、世間の人は廃墟の跡を“昌安たんぼ”と呼び、昌安町の遺名を残し子供達の春の”遊び場“になったらしく、森田柿園の「金澤蹟志」には後の証の一助とす。として以下の逸話を残しています。
(今の御影大橋)
昌安町伝話
綿津屋政右衛門自記によると、堀昌安という眼科の医師は、ずいぶん幸せな人で、ことに工夫に才知発明で、ある時、犀川筋の下町が洪水で川筋の家々が流れ、暫くの間に野原はことごく川原になり、その場所を昌安は、金を出し借り揚げ、囲いを設え両方の入口を付けて昌安町と名付け、囲いには諸宗の道場(寺・剣術道場など)を建立し、商売の店々を多く作り、その囲いの中で、すべての事は外に出なくても用事が出来るようにしたと云う。しかもその中に“あから庄之助”という剣術者が稽古場を構え、ここへ市内の町々から大勢の人が稽古に来ていたそうです。あの男伊達で知られていた綿津屋政右衛門も剣術の稽古に来ていたそうで、町は日に日に繁昌したと云われています。
(今の犀川)
拙ブログ
崇禅寺➀綿津屋政右衛門
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10679792370.html
“あから庄之助”の門弟中もよく励み、また店々も次第に繁昌して、近郷は云うに及ばず、遠所からも病人等が来ることも多くなります。その囲いの中には、すべての獣の煮売りの店もあり、ここへあから庄之助の門第を堀昌安が誘い連れて来て、色々の獣の肉を残らず食わせた。門弟達は、お互いに顔見合せながらも堀昌安の恐ろしさに残らず食べたという。
(稽古場)
(夜店)
また、あちらこちらより病人が療治に来た人々に、昌安は手銀を貸し商売させ、治療費は金を稼がせ払うように仕向け助けています。また出家なども囲い内の道場に居れ、これを助けたという。また、昌安は自分の木像を作り置いていたが、後には寺町の五百羅漢に納めたと云う。
(綿津屋政右衛門は文政頃の侠客で、昌安町繁昌の頃、忙しく走り回っていたが、あから庄之助の門弟になり、昌安町の稽古場に日々出入りしたとあり、自身が著した「綿津屋政右衛門自記」の記述の多くは事実だったものと思われます。)
(明治の犀川と大字中村)
掘昌安偉人伝
堀氏は、代々昌安と通称し、眼科医として高名で、なかでも初代昌安は、医術に越えて名人の名を得ていたと云います。そのためか人を疑い憎んで、世の中に関わらない貧者を憐み、困っている人に力を注ぎ、金澤市中を療養に忙しく走り回り、駕籠かきは、柳原の乞食らを用いる等の奇談も多くあり、実に当時、奇人と云われています。
(想像の堀昌安)
堀昌安は、明和3年(1765)正月元旦に生まれ、文政12年(1815)8月22日に歿す。享年64歳?。諱は維新・字昌安・号自然子。その前世は、大意坊と云い越後の人で、長崎に遊学し医学を明人の趙師秀に学び眼科を得意とし、子孫は金沢に移り、眼科を業としています。昌安は養佐坊の長男ですが、弟の養伯が跡を継ぎ、昌安は別に一家を分け、30歳の時には前田修理家に仕えますが、意にそぐわなかったのか職を辞し、石川郡犀川左岸の中村領に住居にし、そこに貸家を設け、これを細民に貸し付近を町とし、その町を誰彼無く昌安町と呼んだと伝えられています。
(今の御影大橋、犀川右岸より左岸をみる)
昌安には、娘がいて、能登馬場村の伊藤と者を婿として家を継がせ、名を昌安とします。この2代目昌安は嘉永5年(1852)御医師として召出され、十人扶持を給するが、明治元年(1868)越後戦争に従うが負傷して片足になったと云う。明治維新で廃藩になり、家勢は梢々零落し、従来の家屋は毀し、邸地を売却してその近辺に移住するが、明治20年(1887)の暮れ当時の2代目昌安が歿し、医業を廃し、その地を退去してことごとく離散したと云う・・・・。
(この地域には、女奉公人が火付けをして、釜煎の刑を受けたという柳原の刑法場跡や仁蔵伝説など、伝えたい事も多々ありますが、まだ、差別用語を書いてお叱りを受けますので、後は「金澤古蹟志巻17」にお譲りします。)
この項おわり
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行 金沢文化協会 昭和17年発行 「古今金澤」など