【野町界隈】
藩政期この橋は、野町・寺町・千日町の往来の辻で、川向(川南町・片町)は繁昌していたので、毎朝、この辻で、泉野の各村や千日町口の各村(米丸組)の畑作りの人々など、畠物をこの辻へ運び、ここで商人へ売渡し、近江町の青草辻によく似ていたそうです。明治になりさらに繁昌し、魚鳥類なども持寄り商いをしたいと云います。
(今の犀川大橋)
(寛文7年の犀川橋爪の図)
(寛文初期(1661~)の算用場から郡方十村役への達書に、犀川・浅野川橋爪で柴や枝、薪等を持ち込み振売りする事が禁じられ、浅野川、犀川河原で売るようになり、橋爪には役人(御横目)を出し、往来の道筋で大勢を集めて売る者は見つけ次第捕えられたと云う。この頃には混雑を避けるためとは云え、厳しい達書が出されています。橋の上で店を出せた?のは、札持乞食だけだったそうです。)
(今の犀川大橋)
(木造の犀川大橋、長さ約70m・幅約5m)
犀川橋爪の刑法場祉
藩政初期、犀川・浅野川の両橋爪及び安江町升形橋辺は金澤市中の町端で、この3ヶ所は罪人を処刑する処だったと伝えられています。寛文12年(1672)の藩士の日記に、利家公宮腰より舶で御上洛しますが、御茶道以下は陸路で上洛することになり、松任(現松任市)で馬方と口論になり、御茶道共を松任の者が打殺し、利家公より丹羽加賀守殿へ届出て、小松より召捕を命じ、安江町張付場にて張付の刑が処せられたとあり、三壺記にも、慶長(1596~)の頃、藩士の家来で払米の代銀を取り出奔した者の妻と倅を捕え犀川橋の崖の上に張付けられたとあり、犀川橋の上とは蛤坂の辺りか?改作所旧記には、享保5年(1720)里正(村長)の書付に寛文年中(1661~)石川郡窪村市右衛門という者が山より松木を盗伐し、見咎められ足軽に疵を付け、犀川橋爪で御仕置された。とあり。また、菅家見聞集には寛文7年(1667)に、馬廻組今枝牛之助若党、犀川橋の下で引張切?を仰せ付けられたとあります。これより、後々にも死罪の者は犀川、浅野川両橋爪につないで晒し者となり、通行人への見せしめにしたそうです。
拙ブログ
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12035264807.html
旧蛤坂町と「寺町追分」➁
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12035614814.html
犀川橋爪の蛤坂は丸山?
利家公の頃、犀川橋爪を丸山と称したらしい、貞享2年(1685))の如意坊由来書に有り、丸山は、今の蛤坂の辺りか?昔、丸山と称したのは、今と違い小高い丘だったのでその様に呼ばれていたのでしょう。
(今の蛤坂下・丸山か?))
(今の蛤坂上)
(如意坊は:因幡薬師如意坊の事で、延宝の金澤図に妙慶寺の筋向いにある”薬師”のところに有ったと云われています。天台宗因幡薬師如意坊の由来書によると、それ以前の因幡薬師屋敷の後ろが岸崩れ、居住が難しくなり蛤坂の地を下された。とあり。金澤古蹟志には、その遺跡は詳らかならずとあります。利家公の頃、犀川橋爪に丸山と称し、このところに当時、開山空伝法師が本尊因幡薬師を勧請しますが、万治年間(1658~)に蛤坂の地を召し上げられ、泉野寺町に代替え地を拝領します。文化3年(1806)の由来書には、如意坊は、享保6年(1721)3月に翠雲寺と改称。その後、野田寺町の入口の極楽寺の向かいに移り、明治8年(1875)に翠雲寺は能登珠洲郡三崎の高勝寺址に移転、薬師仏は、今は墓地だけの卯辰山最勝寺に移ります。)
(今の蛤坂上・翠雲寺辺りか)
(延宝の金澤図より・妙慶寺の斜めまえに薬師が見えます。)
(薬師仏伝説:昔々、因幡国鳥取洪水で、堂塔が海中に流れ、久しく海中に有りましたが、加賀の国能美郡安宅の沖に流れ入り、漁夫の夢枕にお告げあり2・3夜続き、漁夫は不思議に思い網を下ろしたところ薬師仏像を引揚げたというもので、その在所に堂宇を建立したとか、利家公の頃に如意坊空伝法師が、勧請したと由来書にあります。明治になり卯辰山(旧上小川町)の天台宗最勝寺の薬師堂に移りますが、現在の(旧上小川町)の天台宗最勝寺は墓地だけが残り、伝説の薬師仏は、何処にあるやら?ご存じの方は教えて頂ければ幸いです。)
野町瓶割坂伝説
瓶割坂は、昔、源義経が奥州へ下った時、召使いの女を同行していたが、道中で産気づき、路上で出産したという。急な出来事で、胞衣(えな・後産で体外に排出される胎盤等)を入れる瓶をこの坂で割ってしまったので、「故に瓶割坂の名、残れり」と云われていますが、義経が兄の頼朝に追われ北陸道(後の北国街道)を経て奥州へ下ったときの伝承からか?坂は、今の野町広小路から犀川大橋にあり、森田柿園の「金澤古蹟志」でも俗諺(ぞくげん)で取るに足りない話であるとしています。
(瓶割坂の看板)
「東鑑」等の伝記によれば、義経一行の奥州下りの道筋は「北陸道の俗に浜通りと呼ばれる海岸寄りの道」だったと云われています。一行は加賀国に入ると小松、松任を通り、金沢では宮腰(金石)~大野~阿尾が崎(粟崎)と足跡を残し、瓶を割った坂を通ることはなく、従って金沢に残る言い伝えは、卯辰山に残る幾つかの伝説や鳴和滝での富樫介との宴もフィクションだったと云われています。
(この言い伝えには、産気づいた女性が「北の方(正妻)」や「召使の女」はたまた「妾」と書かれたものもあり、史実とは、ほど遠い伝説であることは確かですが、この様に看板などが有るともっともらしく見えてくるから不思議です。やれやれ・・・?)
(古今金澤より)
(今の千日町方面)
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行「古今金澤」など