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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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金澤・城南野町筋②野町神明宮

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【野町界隈】

野町の神明宮は、藩政期、俗称野町神明。もしくは野町の“お神明さんと呼ばれ、野町など580余町の産土神で明治の廃藩の時、旧神官多田氏が社地の前通りを売却し、残り地が僅かになり一時すたれますが、明治5年(1872)11月に郷社に列せられ(後に県社)、明治7年(1874)6月神号も「泉野神社」と改称され、氏子の有志が社地を買い戻し、社殿を造り替え復古しました。現在の正式名称は金沢神明宮です。

 

(寛文の金澤図・古今金澤より)

 

金沢神明宮は、東京都港区芝大門鎮座の芝大神宮(芝神明宮)、東岩倉神明(京都)などと並んで、日本三神明の一つ。春と秋に行われる「あぶりもち神事」で知られ、中原中也の詩「サーカス」は、幼年期にこの神社の境内で見たサーカスを書いたもので、室生犀星の生家に近く詩人に縁のある神社で、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社です。

 

(今の金沢神明宮)

 

郷社:明治4年(1871)太政官布告により社格制度が新たに定められた際、官社以外の神社を諸社といい、府県社、郷社、村社が定められ、郷社は府県社に次ぐ郷村の産土神で、村社よりも崇敬範囲が広く一地方にわたって崇敬される中心的神社でした。なお、明治時代に神社が国家の管理下に入ると、天皇を祀る神社を神宮、皇族を祀るものを、功臣等を祀るものは神社とされ、各地の神明宮天満宮は神社と名乗ります。太平洋戦争後、元に復した神社もあります。)

 

(1000年の大ケヤキ)

 

金沢五社は、藩政期から鎮座する宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮の吉田神道の五つの神社の総称で、五社ともに近代の社格制度では県社に列格され、この五社すべてを参拝することを「五社参り」といい、藩政期から昭和のまで盛んに行われました。

 

(福島秀川の絵にある、幕末の野町神明宮)

 

神明宮の来歴は、延宝2年(1674)の由来書には、以前の宮は小立野本多安房屋敷(現県立美術館)のところの小山の林にあったが、卯辰山摩利支天山という処に移り、その摩利支天山より多田讃岐が勧請したとあり、貞享2年(1685)の由来書には、摩利支天山から多田讃岐が神託により、只今の宮地に鎮座したと記され、後に書かれて由来書にも同様に記載されています。森田柿園の「金澤古蹟志」には、野町の神明宮は卯辰山摩利支天山の神明宮別社だとあり、野町の神明宮草創は文禄5年(1696)と書かれています。その根拠は、卯辰山観音院に伝来する古筆の覚書に「文禄5年(1596)10月中旬に、伊勢福井與左衛門へ祐慶が参詣し、榊を申請し愛宕寺中に勧請したとあり、その頃、藩主利長公が金沢に移られ、松平伯耆殿、山田出羽殿(前田家家臣)を通じ、祐慶が犀川の屋敷地25間四方(約45㎡)を拝領し、同年(1696)11月5日、宮を移した。」とあります。

 

(文禄5年(1596)に観音院開山祐慶が伊勢参宮し、榊を請けて神宝とし、慶長4年(1599)に泉野に社地を申し請け、神明社を造立したところ、金澤神明は昔から一社なのに、二社になり迷惑したとし泉野(野町)神明廃社を訴え卯辰山神明の神主が訴訟。その判決で、この先金澤では神明は一社として、両社の合併が命ぜられ、泉野(野町)神明の一社となります。その後、園事雑抄によると、別に金澤大神宮勧請を企てる者がいたと書かれていることを見ると、余程神明にはご利益があったのか?いや、経営的に旨味が有り?利権になっていたことが窺えます。蛇足ですが、明治23年(1890)香林坊の橋の上に大神宮として建立されていましたが、現在は東急スクエアになっています。)

 

拙ブログ

広坂通りから香林坊⑥明治の香林坊の没落と再生

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12396900545.html

 

(願掛け願い石)

 

多田讃岐は、観音院開山祐慶に若い頃から召仕え、名を猿市と申し、野町神明に取り立てた者で、以後2代播磨、3代丹波と明治まで野町神明宮は神官多田家に引き継がれました。

 

祐慶:観音院の開祖祐慶は、卯辰山愛宕社明王院(現料亭山乃尾)の2世で、隠居して観音山へ移り、観音堂と隠居所を建立し観音院と号し卯辰山山王の別当となります。宗派は高野山真言宗、山号は卯辰山(長谷山)。元々石浦山王社を勧請したもので本尊十一面観音菩薩像は行基菩薩御作で大和国長谷観音の末木で作られたと伝えられたものですが愛宕明王院の祐慶が石浦山王から借り受けたものでした。)

 

拙ブログ

神明宮の千年の大ケヤキ

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12098867209.html

千日山雨宝院の「まよひ子石」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12097775748.html

新町の伊勢旅屋のこと

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10611906315.html

 

 

前田家の公子達が宮参り

前田家は、国初以来産土神卯辰山観音院山王社で、お宮参りが恒例になっていました。この社は、神仏混淆で、密に豊臣秀吉が祀られていました。徳川家の曾孫に当たる5代藩主綱紀公の頃、野町神明宮産土神とされ、公子達のお宮参りの式が有ったという。綱紀公の第一男千代松君が延宝2年(1674)10月12日金沢で誕生。延宝3年(1675)3月2日神明宮にお宮参りをします。これが初めての野町神明宮の参詣で、神前の御献納物は、”御太刀一腰“”御馬代金十両“”熨斗鰒十挽“”鮭塩引十尺“”干鱈十尾“”御樽酒一荷“とあり、神主多田丹波へは、正絹五疋とあります。延宝2年(1674)6月15日2歳で早世され、この後公子の御参の沙汰は無かったという。ところが正徳2年(1712)5月12日公女達、豊姫様、直姫様、壽姫様が参詣。姫君は良縁に恵まれたそうです・・・。

(神明宮前のバス停と犀川大橋)

 

神明宮の日待祭礼

毎年春秋の例祭は、“御日待”と称されました。また”神明宮の夜祭り“とも云ったという。金沢市中では繁昌した祭礼で、諸商人が多く出店し、なかでも神明宮だけの「あぶり餅」を商うお店が人気を集めていたそうです。この餅は、文政の頃千日町の梅田屋某と云う者が工夫し、初めて神明宮の祭礼で売り出すと、瞬く間に多くの人々が買い求め喜ばれ、その内、誰でもが商ったと云います。

 

また、5代綱紀公の頃、夜店は社寺では禁制になっていたが、何時しか祭礼が夜祭りのようになります。元禄6年(1693)8月10日、町奉行の達しに「金澤市中は勿論、金澤に続く町端でも河原等、夜中生菓子、酒等売りに持出申間敷。」とありますが、お祭りは役人も黙認していたのでしょうか・・・・?

 

御日待:「まち」は「まつり(祭)」と同語源で、「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意味。時期は正月の例が多く、転じて、単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもあるそうです。)

 

 

左義長

藩政期は、毎年正月金澤市中に左義長とて紙旗を造り、各町の子供が持ち歩き、15日の暁神明宮の境内に持ち寄り拝殿の前にて焼き捨てたという。また、藩士の門戸等に飾られた飾藁しめ縄なども、14日の晩に持って行き、15日のに左義長と共に焼き捨てました。犀川口は神明宮浅野川口は山上町の春日社に行き、両社に行き焼き拾てたという。国初以来の事で、昔、兼好法師の徒然草に書かれているさぎちゃう故事に習ったもので、金澤市中では飾藁・しめ縄などを神明・春日の両社に持っていき、神前においてさぎちゃうと共に焼拾てるもので、神祭に用いた物、あるいは守護札などと一緒に持ち寄る習慣が有りました。その伝統は今も市内のそれぞれの氏神様で毎年正月15日に行なわれています。

 

(私の氏神さまの昨年の左義長)

 

(さぎちゃう (三毬杖・左義長):陰暦正月に行う火祭りの行事。「毬杖(ぎつちやう)」を三本立てたことによるという。宮中では、正月十五日および十八日に清涼殿の南庭に青竹を三本束ね立て、天皇の書き初めや短冊・扇子などを結びつけ、陰陽師などに歌い囃させて焼いたらしく、民間では、多くは十五日に長い竹を数本立てて、門松・しめ縄・書き初めなどを持ち寄って焼きました。その火にあぶった餠を食べると病気にかからないという。「どんど」「さぎっちゃう」ともいう。)

 

 

(野町広小路周辺の掲示板より)

 

つづく

 

参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行「古今金澤」など


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