【野町界隈】
瀬波屋鶏馬は、文政・天保年間に掛けて活躍した狂歌師で、本名は瀬波屋宇市、通称は瀬波屋犀輔といい、住居は野町神明宮の社殿の西南(今の野町一丁目)にあったところから、西南宮鶏馬と号しました。当時の狂言師は、皮肉、滑稽を盛り込んだ素人の遊びと心得ていて、戯名や面白おかしく狂名を名乗る者、その都度、詠む狂歌に狂名を付けて発表する者など、また、社会風刺の落首などには「詠み人知らず」とする者も多く、鶏馬の号には、余り面白味はないが、革山人・託花園・東北斎・童亭、飲居・源瓦化、はたまた輯者の時は暖雪楼と云い、俳諧では卯一と号しています。
(狂名には、浜辺黒人・歯まで黒人、5代目市川団十郎の花道つらね・版元蔦重三郎の蔦つらね・浮世絵師喜多川歌麿の筆綾丸など、他に芋屁臭人・相場高安・出来秋万作などなど)
(瀬波屋は左の家辺りか!?)
西南宮鶏馬は、狂歌に優れ加越能三州はおろか、天明狂歌の江戸の第1人者蜀山人(太田南畝、狂名四方赤良)や宿屋飯盛(石川雅望)大阪の鶴廼屋、窓廼屋など、狂歌師と親交があったと云われています。狂歌は和歌の形式の中に機知や滑稽味を詠み込んだもので、古くは鎌倉、室町時代に遡るが、江戸時代、天明の頃(1718~88)から江戸の知的町人の中で大流行しますが、和歌に憚り詠み捨てが原則で大概は口伝で、鶏馬の狂歌も例外ではなく今に伝えられているものは極めて少なく余り伝えられていません。しかも、大衆化していくに従い卑猥な狂歌が多くなり、低俗な文芸とみられるようになっていきます。それでも明治の頃まで、色々な出来事に対する風刺として読まれていました。
(今でこそ狂歌は、俳句や川柳にお株を奪われ観がありますが、天明から幕末にかけて、江戸では狂歌が大流行したといいます。今も歴史好きによく知られているのはアメリカの軍人ペリーを乗せた黒船が浦賀に来航した時の幕府の慌てぶりを皮肉った狂歌で“泰平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で 夜も眠れず”ぐらいで、私も知っている狂歌と云えば、大昔、頓智の一休さんの“世の中は食うて はこ(糞)して寝て起きて さてその後は死ぬるなりけり”そして、落首の形で地元金沢幕末に流行った“第一に 死ぬべきのが 死なずして 第二(松平大弐)が死んで なんと庄兵衛”位しか知りません。しかも和歌の形式のなかに反古典的な機知や俗情を詠み込む文芸で、当時の人には知られた文芸や言葉のもじり、本歌取り、掛詞などで、今では解説がないと伝わり難くいものになっています。)
拙ブログ
千日山雨宝院の「まよひ子石」
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(野町神明宮)
(今の釣月庵・元古今亭)
瀬波屋鶏馬は、嘉永の初頃(1848~)に金澤町会所の町役人になり、さらに門人も多く、天保11年(1839)菊月(9月)門人旧知を野田寺町のつば屋の「古今亭」に参加者数10名が集い、歌詠み会を催し、一人五首から十首詠んだ内から撰者が「よしと思うもの一つ」を撰んで”歌集夷曲百人一首”編んだ物が石川県立歴史博物館に所蔵されていると金沢市史にありました。その史料よると当時の金沢の大商人や医師、僧侶、神官、武士、他小松や本吉の俳人が名を連ね、その様子が口絵に描かれ、作者の御作と通称名が書かれています。画は中山某、輯者は西南宮鶏馬、摺者師は川後坊と有ります。
(夷曲(ひなぶり):狂歌の別称で、徳和歌後万載集(1785)序「鳥がなくあづま歌、今やさかんに行れなりければ、むしろ織る翁も夷曲のさまをさぐり・・・」)
(野田寺町の古今亭の歌詠み会の模写)
古今亭:野田寺町4丁目にあり、今、表札には釣月庵(ちょうげつあん)とあります。かって大和の井村徳二の住まいだったり、金沢大学学長の中川善之助氏住んで居られたり、後に大和の宮太郎氏が譲り受けたが、今は村島氏の所有だそうですが、戦前まで料亭「つば甚の別館」だったところで、伊藤博文をはじめ歴代の総理や宮家、政官財の方々が投宿されたそうです。亀尾記には弘化2年(1845)京都の粋人中島棕隠がここで月見の会を催したとありますが、何時頃、建てられものかは不明だそうです。福島秀川の「金沢図屏風」にも描かれています。
(犀川より・元古今亭、今も緑の台で月見が楽しめそう・・・)
西南宮の狂歌
めんめんは さきへさきへと 昇りける 我もその尾につくつく 宇一(宇市)
ある年、7月町役人が昇進し、宇一も1階級昇進し、同僚より一句と頼まれ、蝉の声を聞き詠む。
御通りに 大根おろしおそ(遅)なって 醤油がなうて 酢(簾)をかけて置く
ある年、お殿様が鷹狩に行く道筋に、大根を掛けて干してあったので、役人に目障りと云われ、見えないように簾を掛けて一句。
ふんどしに あらねどかいて下げにけり もものあはいに結ぶ短冊
ある年、前田土佐守の邸内のももの花見に招かれ、各々が詩歌俳句を作り、短冊をかけ桃の枝に結びて一句。
以上の狂歌は、当座の座興で詠んだ句です。その他このような頓智怜悧な狂歌は多かったいう。
春の野と おもえば雪とすみれ草 きえていくゆくのと もえ出づるのと
歿する年の春の句。
(真長寺)
P.S
野町の公民館が平成11年(1999)発行の「金澤・野町400年」には、文化8年(1811)の金沢町名帳の野町山崎屋長兵衛の組合の中に、質並びの油小売商売瀬波屋清兵衛とある人が鶏馬の父では無いかと書かれています。また、天保7年(1836)3月、蛤坂の真長寺門前に住んでいた佐々屋武助と云う者が、どのような罪か分からないが入牢していて、その息子建太郎が15歳で、父に代わり代牢を願いでたので、日常の様子を調べところ実際には孝行者で、父武助の罪が許され代牢に及ばずとして、町の肝煎手伝いを命じ、名も孝太郎と改めたという。その時、近くに住んでいた瀬波屋鶏馬は“笹藪の中に生えたる筍は かのもうそう(孟宗竹)におとらざる(劣らざる)けり”と詠んだと云われています。瀬波家の菩提寺は近所の因徳寺で墓は2基があり、相当古い家柄でと云えますが、今は無縁になっているそうです。
つづく
参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行 「金澤・野町の400年」金澤・野町の400年刊行委員会 平成12年発行「金沢市史」資料編15 学芸など