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金澤・城南野町筋④野町その地名の由来

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【旧野町界隈】

旧野町1丁目から6丁目(現野町1丁目~4丁目)は、加賀十二冊定書に金澤通町筋町割附に、野町は7町13間3尺(約884m)とあり。この町は旧藩中に本町二十七町一町で、旧伝には、往昔はこの地は金澤市外の広野で、泉野と称した松原だったとあります。藩政初期、金澤市街拡張された時、町地となり、泉野町と称するところ、略して野町と呼んだと云われています。泉野八ヶ村だったので、これも略して野八ヶ(箇)と呼んだという。野八ヶ(箇)は泉野八ヶ(箇)の略称で、野町の町名と同じだという。

 

加賀十二冊定書:延宝・天和以後から近くは宝暦・明和に至までの諸法令中、実務に当って参考すべき法令と慣習との蒐集)

 

(今の野町2丁目)

(野町1丁目から2丁目)

 

金澤事蹟必禄には、今の野町辺り上~下、犀川の辺りを古は泉野と称し、泉村の地で、一向一揆の大将洲崎泉入道慶覚の一族が、この辺りに住んでいたといいます。その頃は田畑も民家もなくだだっ広い荒れ野で、のち追々数ヶ村に分れ、増泉・米泉・西泉の村落出来、みんな泉村出村で、泉の字を付けたといわれています。改作所旧記には、元禄14年(1701)3月里正(村長)に泉野の範囲を聞くと、泉野野田道より10町(1,100m)ばかり、南は伏見新村を限り、西は泉村を限り、東は野田山麓まで、北は犀川までを泉野と称したと云ったいう。それ以前は松原とあり。三壺記にも、元和二年(1616)の頃は、犀川大橋より坂の上は、泉野の畠地で、所々になどがあると記載されています。

 

(金澤事蹟必禄:藩政中期に、加賀創始の来歴から、市中種々の事績を集録したもので、加賀藩士高澤忠順著・忠順は、藩政中期に改作奉行などを歴任した農政家で10代前田重教公の財政策を批判、閉門に処せられています。「改作旧記」の著者。)

 

余談:昭和22年(1889)4月1日から大正14年(1925)4月1日まで、野町の近接する平栗村・野田村・長坂新村(合併で長坂町)・法島村・十一屋村・泉野村・泉野出村7ヶ村が合併し野村が発足します。明治29年(1896)野村地内に陸軍の第9師団特科隊の練兵場が出来、「野村練兵場」と呼びようになりますが、大正14年(1925)野村の字地7ヶ村が金沢市に合併し、野村の自治体が消滅しますが、終戦まで「野村練兵場」の名が残っていました。この野村野町も、その根っ子は同じ泉野「野」と呼んだことにあります。

 

(文化8年の金沢町絵図より・野町1丁目は、左の十字路(今の広小路)まで)

(工事中の道路・門とお寺は因徳寺)

 

野町の大通り

何年か前から拡幅工事が施行されている道路は、通称野町の大通り(南大通り)と云い、国道158号線(旧国道8号線)で、昔の北陸道です。北陸道記では「高志道」日本書紀には「越路」と書かれている古い道路で、明治の「皇国地誌」によれば、旧野町1丁目から旧野町6丁目までの道路の幅員は3間5尺(約5,6m)で、狭いところは2間3尺(約3,7m)。必ずしも一定ではなかったようですが、明治12年(1878)明治天皇の北陸ご巡行で県内の道路は多少整備され、大正9年(1920)11月市電(当時街鉄)の敷設で可なり広くなり、さらに旧野町6丁目(5・6丁目の道路は3間ばかり後退)から有松まで昭和7年(1932)に完成した南端国道は、歩道と車道が分離した当時としては画期的な道路で歩道には街路樹に銀杏が植えられていました。この南端国道の開通により、上口松門があった旧街道の泉町の通りは賑わいを失いますが、今も道幅も昔のまま3間(約5,5m)で、旧道の佇まいは郷愁を誘う街並みが続きます。

  

(昭和30年代までの町割りは、通りに面した両側が一つの町が形成されていたのを、それを機会に街区割にします。野町では、それまでは野町の大通り沿いの両側の町を一区画とし、犀川大橋から今の広小路までの両側を1丁目として、以下、野町は2・3・4・5・6丁目と呼びました。因みに現在の1丁目犀川大橋から旧三間道までが1丁目で、2丁目神明宮側で旧下小柳町までになっています。以下はgoogli mapを参照。)

 

(文化8年の野町1丁目から6丁目まで)

 

旧野町1丁目(現野町2丁目)には、神明宮の隣に豪姫所縁大蓮寺があります。旧野町3丁目(現野町1丁目)には、因徳寺が現存します。

 

(今の大蓮寺)

 

拙ブログ

宝の池に大きな蓮➀大蓮寺と豪姫

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12046581062.html

宝の池に大きな蓮➁豪姫と加賀藩

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12047152683.html

 

(因徳寺の今も残る6本柱の四脚門)

 

因徳寺:このお寺は真宗大谷派で開基は啓恵と云い、石川郡四十万村善性寺の次男で、慶長12年(1607)藩主利長公に野町の元刑法場の跡地を賜はり、寺を創立し、寺号を因徳寺と称したとあります。慶長12年(1607)より遥か以前の刑法場は、市中町端の外に設けられ、金澤事蹟必禄には、藩組利家公が金沢入城の天正11年(1583)の初めは、犀川口は香林坊橋の辺りが町端で、当時、今の片町辺りがすべて河原で、犀川大橋の向う蛤坂の下辺りに刑法場があったという。

 

(四十万の善性寺:藤蔓の名号は蓮如上人が四十万(しじま)善性寺に滞在されていた際、藤蔓を石でつぶして筆代わりにして御名号を書いたという。また加賀に守護冨樫家所縁お寺として有名。)

 

つづく

 

参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行 「金澤・野町の400年」金澤・野町の400年刊行委員会 平成12年発行「金沢市史」資料編15 学芸 「金沢町絵図」文化8年 玉川図書館 など


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