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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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金澤・城南野町筋⑤野町筋?街鉄って・・・!?

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【旧野町界隈】

野町筋は、藩政期から明治にかけて金沢では、区域を「台」「筋」のと呼ばれていたらしい・・・。この「台」「筋」は公式なものではなく、町名だけで云われても、googli mapの無い時代、どの方向に有るのか見当もつかないので、町の位置や方向を示すのに必要だったと思われます。明治に入り金沢市内でも町名が500数町もあり、いずれも「台」「筋」に属していたそうですが、正式名称では無かったらしい。今は校下(校区)等と呼ばれているのと同様の役割を担っていたものと思われますが、今、金沢では殆ど死語化しています。前にも書きましたが、拙ブログのネタ本の一つ明治の「金澤古蹟志」の区域分けに用いられています。

(野町筋・野町広小路)

 

(藩政期、地勢によって区分された行政区画を「 」と云い、よく知られているのは大阪市内を南北に走る「御堂筋」は有名です。今も関西地方の都市では道路の走る方角により筋・通と名称を使い分けている所が見られるそうです。元禄期には、井原西鶴著に「・・・加賀の国の城下本町筋に絹問屋左近右衛門と云うしにせあきんどがあっ・・・ 」とあり、元禄期のお話ですので、当時金沢で、そんな筋が有ったか無かったかは定かでは在りませんが・・・?)

 

(野町筋・歩道工事中)

 

(野町筋・旧野町5丁目)

(野町筋・旧野町6丁目)

 

金沢では、藩政期から明治にかけて「筋」と呼ばれたところは9ヶ所あったと云われています。野町・六斗林・竪町・材木町・天神町・安江町・木の新保・森下町・東馬場及び浅野町が在ったらしく、これは何時頃から云われていたのかよく分からないそうです。野町筋は、旧野町1丁目~6丁目・旧石坂与力町・旧三間道・旧桃畠町・旧上小柳町・旧下小柳町など15ヶ町と云われています。

 

(野町筋・旧野町6丁目丁目の老舗店舗)

(野町筋・左旧南端国道・右北國街道(泉1丁目)

 

金沢では、藩政時代は町名の多くは私称に近いもので、城下が拡大すると近隣の町名をそのまま付けて町域だけを拡大していったもので、例えは藩政初期の泉野寺町ですが、鶴来街道沿線に六斗林その先に寺院が移転して来ると、その辺りまでも泉野寺町と呼ぶようになり、範囲が広くなり漠然としていたので、人々は六斗林筋と呼ぶようになったと伝えられいます・・・。)

 

街鉄って・・・・!?

街鉄は、昭和42年(1967)まで金沢市内を走っていた路面電車(市電)のことです。現在の北陸鉄道の前身で、明治39年(1906)金沢街電気鉄道(後に金沢電気軌道会社)として出願したので通称「街鉄」と呼ばれていました。開通は大正8年(1919)で出願から開通まで、なんと14年も掛かる難産で、創設事務所明治43年(1910)3月、本多・横山両男爵家が中心に発足しますが、遅々として進まず、当時の国内の十万都市ではほゞラストという有様。その原因は、すでに関東や関西の主要都市で市電を開通させた両資本が金沢にも手を伸ばし、ともに金沢を訪れ、地元財界が振り回されているうち、中国の辛亥革命による経済的な影響が日本に及び、株式の募集が上手く行かず、3万株のうち前田家が3千株男爵本多政以(3百株引受)が創立委員長に推され、男爵横山隆俊(千株引受)、その従兄横山章(千株引受)など旧前田関係者で約25%、それに金沢出身の実業家横山一平(1千2百株引受)ら9名が創立委員に選任されますが、他の創立委員地元財界人も消極的で決まらず、なかなか一般公募額が発表出来なかっという。

 

(街鉄敷設工事)

 

(当時、街鉄の資本金は150万円、結局、金沢人は何か事業を起こすときは、前田家本多家、横山家ばかりに頼り、自らやる気が出さないのが習わしか?その頃、金石電鉄や石川電鉄では、額は少ないとは言え、自ら苦しい中、カキ集めています。)

 

一般公募の株式募集は大正3年(1914)11月にようやく始まり、大正5年(1916)になると行政のバックアップが始まります。世論もやかましくなり、業を煮やした山森隆市長市長命令市内有力者600人を集めて株式募集を呼びかけ、さらに市職員を動員して広く資金集めの協力により、株主総数は3,786人に達し、本多・横山両家も旧藩関係者へ資金集めに回った結果、同年7月25日に株式募集が終了し10月29日に、ようやく金沢電気軌道株式会社の創立総会が開催されます。

 

(設立時の資本金は150万円。株式数は3万株で、筆頭株主は3000株を引き受けた旧藩主前田家の前田利為、その他旧藩関係者も多くの株を持ちますが、株主全体の9割近くが金沢市内および近郊在住者が主体とする持株10株未満の零細株主でしたが、まさに市民が株主市民の街鉄が誕生しました。社長には本多政以が就任し、前田家の推薦で小塚貞義が専務取締役に就きます。本社は、開業後の大正8年(1919)7月28日付で金沢市上胡桃町52番地へ移転します。)

 

(街鉄本社工場)

 

第1期工事は、大正7年(1918)10月14日に着工し、12月下旬には竣工。翌大正8年(1919)1月30日に石川県知事より開業許可を得て、2月2日より営業を開始しました。次いで雪解けを待って同年(1919)3月11日より軌道敷設工事が再開され、7月9日に全区間竣工。そして7月13日に第1期線全線開通。全線開業にあわせて4日間、車体に大量の電球を取り付けた5台の花電車が祝賀運転され、15日には公会堂にて竣工式典が挙行されます。

 

拙ブログ

北鉄浅野川線➁金沢の電車

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10996933717.html

 

次回は第2期線の野町筋に完成と松金電鉄、金野馬鉄など郊外電車と大合併のお話です。

 

つづく

 

参考文献:「金澤古蹟志巻21」森田柿園著 金沢文化協会 昭和8年発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年発行 「石川百年史」石林丈吉著 石川県公民館連絡会 昭和47年発行 「金澤・野町の400年」金澤・野町の400年刊行委員会 平成12年発行


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