【金沢・二の丸御殿】
≪藩祖利家公の御能逸話≫
加賀藩士加藤惟寅の「蘭山私記」によると、利家公は、在国の時には城中で稽古能をしたという。二の丸の能舞台は、国初以来、利家公の思し召しで本丸より離れて二の丸に能舞台が置かれ、寛永8年(1631)の本丸の火災後、二の丸を御殿と定め造営にあたり、御殿の続きに能舞台を建てられものと思われます。また、蘭山私記には、能舞台の老松の絵は利家公の御物数寄(ものずき)より起ったと有り。現在の能舞台には殆どが老松を描いているが、伏見の太閤御成りの節、舞台に老松を書いたのが初めで、その頃、江戸城の舞台の絵は椿だったと伝えられています。もっとも、よく知られている老松は、奈良県春日大社の「影向(ようごう)の松」の前で春日大明神が舞を舞ったという伝説に基づいていると云われています。
影向之松:むかし春日大明神が降臨され、萬歳楽を舞われたと伝えられる松。毎年12十二月17日の「春日若宮おん祭り」では 細男座や田楽座の芸能が行われ、猿楽座は弓矢立合を演じたという。古くは金春流・金剛流の参勤の年には弓矢立合。観世流・宝生流の年は舟立合を演じたという。現在は、能舞台の鏡板に描かれている老松はこの影向の松で、この儀式を「松の下式」を称し、「春日若宮おん祭り」の重儀という。
(蘭山私記:四百石の加賀藩士加藤惟寅の著述で、加藤惟寅は綱紀公以下七公に歴任し、天明2年秋歿、82歳。)
(県立能楽堂舞台「鏡板」の老松)
拙ブログ
金沢城二の丸御殿➁創建は寛永大火の翌年そして3度目の焼失
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12615745595.html
(金沢城)
≪高山右近の御能伝説≫
高山南坊(右近)の総領十次郎は天下の美少年也。毎日能を致され諸人見物いたしけり。其頃はやり歌に、“能を見よなら高山なんぼう おもてかけずの十次郎、とかやうに童どもうたいけり”というのがあり、高山父子がいかに能の優れていたか、また、諸人に能が浸透していたかが窺えます。(加賀藩史料より)
(高山右近:太閤秀吉の信任あつく天正13年(1585)に6万石を与えられますが、バテレン追放令により、キリシタン大名の右近は、信仰を守ることで領地と財産をすべて捨てます。天正16年(1588)に利家公に金沢に招かれ、1万5,000石の扶持を受け26年の間に幾多の業績をあげます。慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン国外追放を受けてマニラに送られます。詳しくは、拙ブロブ”キリシタンと金沢➀~⑤高山右近、Wikipediaを参照。)
(能楽堂の杜若像)
≪御能・狂言の歴史❶≫
現在では歌舞伎や文楽と並ぶ伝統芸能のひとつとして知られる能・狂言は、その歴史は歌舞伎よりも古く、能・狂言の源流をたどると平安時代、奈良時代にまで遡ることができます。能・狂言はもともと「猿楽(申楽)」と呼ばれていた芸能から分かれて出た芸能です。その源流は、推古天皇の時代に随から伝わった「呉楽(くれがく)」奈良時代に唐から伝わった「散楽(さんがく)」にあるとされ、平安時代には滑稽な物真似芸としての「猿楽(さるがく)」として発展していきます。
(能楽堂の告知板)
呉楽は日本に伝わって「伎楽(ぎがく)」と呼ばれる仮面を付けた無言劇に芸が変化しますが、能との共通点がいくつも有ります。散楽(中国では散学)の起源は西域の諸芸能とされています。何世紀にも亘って、中央アジア、西アジア、アレクサンドリアや古代ギリシア、古代ローマなどの芸能が、シルクロード経由で徐々に中国に持ち込まれています。奈良時代に大陸から移入された物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称で、「続日本紀」には、天平7年(735)に聖武天皇が、唐人による唐・新羅の音楽の演奏と弄槍の軽業芸を見たという記述があり、これが、散楽についての最初の記録とされ、天平年間のいずれかに、雅楽寮に散楽戸(宮廷による散楽の学校)がおかれ、朝廷によって保護される芸能となります。
(海鼠壁)
天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼供養法会には、他の芸能と共に散楽が奉納されたが、その庶民性の強さや猥雑さからか、桓武天皇の時代、延暦元年(782)に散楽戸制度は廃止されます。散楽戸の廃止で朝廷の保護を外れたことにより、散楽は寺社や街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れるようになっていきます。そして都で散楽を見た地方出身者らによって、日本各地に広まっていきます。やがて各地を巡り散楽を披露する集団も現れ始め、こういった集団は後に、猿楽や田楽の座に、あるいは漂泊の民である傀儡師(くぐつし)たちに、吸収、あるいは変質していきます。応和3年(963)、村上天皇により、宮中では散楽の実演は全く行われなくなり、以降、散楽という言葉に集約される雑芸群は、民間に広まった様々な職業芸能に引き継がれていきます。
(ガイドの勉強会)
鎌倉時代に入ると、散楽という言葉もほとんど使われなくなり、散楽のうちの物真似芸を起源とする猿楽は、南北朝時代から室町時代にかけて観阿弥、世阿弥らによって大成し、室町時代から安土桃山時代にかけて武家勢力が御能を庇護し、曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれ、滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていきます。奇術は近世初期に「手妻」となり、散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれていきました。このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響には計り知れないものがあり、日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされ、時代が下るにつれて、猿楽は神社などの神事でも行われるようになっていきました。
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等