【金沢・江戸】
斉泰公と利鬯(大聖寺藩主・斉泰七男)は、安政6年(1859)1月から3月まで諸橋権之進・波吉宮門等を召して、自ら盛んに能を舞っていますが、4月には「安政の泣き一揆」が、越中伏木沖にロシア船が出現し沿岸防衛。さらに5月には領内に洪水、8月にはコレラが流行り、能の催しは9月までなく、12月4日、謹慎中の世嗣慶寧公は金谷御殿で「翁」「野々宮」を舞い、「阿槽」「海人」の太鼓を打ち、25日に金谷で「江口」「鉄輪」の能を演じ、「石橋」の太鼓を勤めています。世嗣慶寧公は領民の労苦を知ってか知らずか?御能は次第に上達したと伝えられています。
(利鬯(としか):加賀大聖寺藩の第14代(最後)藩主。宝生流家元宝生友于に学び、素人ながら芝公園能楽堂の舞台にも立ち、また謡250番を諳んじていて、どんな曲でも求められれば即座に謡うったという。晩年は失明同然であったが、それでも舞・謡ともに変わらずに勤めたという。)
拙ブロブ
伝説ですか実話ですか「安政の泣き一揆」
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安政7年(1860)3月3日(3月18日より万延元年)には江戸で桜田門外の変があり、斉泰公は15日から府下の警備が命じられたが、まもなく帰国して、利鬯(大聖寺藩主・斉泰七男)らと何度も舞い、また11月に竹田権兵衛が、京から来たので共に演能します。12月には「山姥、白頭」を、文久元年(1861)謡初めを勤めた後、1月末に「野守、白頭前後留」2月末は「石橋、連獅子」を勤めてから帰京しています。利鬯は参勤の途上、金沢城に立寄るならわしから、3月にも金沢城で「氷室」や「七騎落」を演じています。
(金谷御殿・現尾山神社)
世嗣慶寧公は、その年帰国後の10月、金谷御殿で、「八島、鞍馬天狗、白頭別習」を演じ、翌文久2年(1862)2月27日「嵐山、巻絹」を舞い、権之進の「道成寺」に太鼓を打っています。3月6日「綾鼓」「芦刈」の能と、「船弁慶」の太鼓を演じ、斉泰公は、4月、5月、毎回二番あるいは三番の演能を試みていて、52歳と32歳の親子は、国事多難な折にも関わらず、気晴らしか?現実逃避なのか?いな否、能はもともと神事であり、領民の安寧を祈り演じていたのでしょう。
しかし、年が明け文久3年(1863)には、年頭の諸行事を簡略にし、謡初めを廃し、1月2日には上洛の予定の下に前田土佐守を先行させ、2月23日に斉泰公は上洛し建仁寺に入ります。3月12日には金沢に帰り、文久3年(1863)9月、京都御所の禁門(蛤御門)警衛を命じられていますが、藩主代理として世嗣慶寧公に当たらせています。そして元治元年(1864)7月の禁門の変、さらに、戊辰戦争、明治維新と激動の中、さすがに斉泰公、慶寧公の演能の記録は明治2年(1869)まで5年間見えません。
(建仁寺:幕末期には加賀藩主斉泰公や慶寧公がたびたび上洛しますが、すべて建仁寺に入り滞在しています。これは、随従する多くの藩士を京都に滞在させるには河原町の三条屋敷では規模が小さいためで、建仁寺全体を借り受けたわけではなく、必要な範囲にかぎって借り受けています。)
(京・建仁寺)
(禁門の変:元治元年(1864)7月の禁門の変では、当日の朝、世嗣慶寧公は病気と称して京を離れ、加賀藩領である近江の海津に退きます。このことが、加賀藩を苦境におとしいれることになり、藩主斉泰公は朝廷と幕府の両方に対し陳弁し、世嗣慶寧公を幽閉し、側近の松平大弐を海津で切腹させ、他の勤王派と目される藩士40数名を死刑・禁獄・流刑などに処せられます。いわゆる、加賀藩の「元治の獄」です。これで加賀藩の勤皇派はほぼ全滅となります。)
(全性寺)
≪宝生紫雪の死≫
宝生紫雪(友于(ともゆき)石之助、弥五郎)は、宝生流15世宗家で嘉永6年(1853)12月に隠居。文久2年(1862)6月3日の「毎日帳抜書」によれが、「妻子を連れて、山中温泉に湯治に来て、山中から金沢に来たところ病人が出たので、金沢に暫く逗留する」と申すので弟子筋の波吉宮門が町奉行に届出しています。同書の翌文久3年(1863)7月17日の条に「逗留中の紫雪が死んだので、妻子は全性寺に紫雪を葬りたいと願うので寺社奉行に申し断じて、処置することにした」とあります。同寺は赤門寺と呼ばれる日蓮宗の寺で、紫雪の墓の他に諸橋権之進・波吉宮門の墓もあり、ほかに加賀藩能楽師(葛野流大鼓方)の小説家泉鏡花の母鈴(すず)の実家中田家の墓もあります。
(脱線:鏡花と云えば伯父の松本金太郎(鈴の次兄)、明治の有名な能楽師でその道の実力者でした。金太郎は、宝生流シテ方松本家の養子になり、16世宝生九郎知栄(ともはる)の高弟として明治期の宝生流を支えます。鏡花の作品には、江戸期の影響を強く受けた怪奇ロマン的な特徴がありますが、その幻想的な作風は、能も色濃く影響していると云われています。)
拙ブロブ
“心の道”癒しのスポット⑩全性寺
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11196462680.html
宝生紫雪先生と浅野川稲荷神社
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10559309654.html
(十五世宝生紫雪:友于(ともゆき)とも、14世英勝の孫で、嗣子であった友勝の子丹次郎が早世したため、婿に入った邦保を後嗣としますが、邦保も英勝に先立って亡くなったため、孫の友于が大夫を継ぎます。やがて、友于は家斉、家慶の両将軍の指南役となり、前回にも紹介した前田慶寧公の師であり、宝生流は引き続き隆盛し、栄光の時代を迎えます。この時代の輝く事績は、弘化勧進能の興行です。これは弘化5年(1848)2月6日~5月13日、晴天15日間にわたり江戸神田筋違橋門外にて、宝生大夫一世一代能として行われた、江戸時代最後の勧進能です。観客は1日平均4000人数えるという大盛況で、 友于と長男の石之助(後の十六世九郎知栄)と共に、全国の役者が集まり、舞台を盛り上げました。番組でも、「春日龍神 白頭別ノ習(龍神揃)」といった大人数の新演出も生まれ、数々の金字塔を打ち建てた一大イベントとして、弘化勧進能は、時代を超えて語り継がれています。友于はこのほか、嘉永六年(1853)に「嘉永版」謡本を出版するなど、さまざまな業績を残した後、九郎知栄に大夫を継承し、1年ばかり金沢に隠棲しその地で文久3年(1863)7月に歿しました。)
(現存する旧壮猶館の門)
≪壮猶館爆発事件と能役者≫
慶応2年(1866)3月7日、壮猶館の弾薬所で火薬が爆発!!金沢城内での能御用がなくなって能役者が、配置転換で慣れない弾薬所の仕事に従事し、多数が死傷するという不祥事が有りました。装薬をこしらえているところから発火し、建物は飛散します。長さ十間に奥行き三間並びに土蔵前の土間のところ三間四方、同所下屋一間に二間ばかり、土蔵の屋根も残らず焼失しました。近年、国事多難で、能関係者は殆ど休業状態。何もすることがなくなり雇われて働いていたもので、即死者2人を含め死傷者15人(内御細工人1人)。以下詳細は、拙ブロブ「幕末の爆発事故!硝石は改築の町家から採集」参照。
拙ブログ
幕末の爆発事故!硝石は改築の町家から採集
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11160339841.html
この年慶応2年(1866)4月5日、慶寧公が家督相続し、27日、斉泰公は金谷御殿に移ります。翌慶応3年(1867)正月に年頭儀礼は廃止され、5月1日、斉泰夫人(溶姫)歿し、翌4年(1868)9月に徳川幕府は終焉し明治と改元されます。
つづく
参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等