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金澤の御能⑩13代斉泰公・14代慶寧公

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【金沢・江戸】

前回まで

文政2年(1819)、年頭儀式を取りやめになるが、4月になり19日に斉広公斉泰公親子で能を舞い、文政4年(1821)11月には、斉広公は隠居、家督を斉泰公が継ぎ、文政6年(1823)斉広公の隠居所竹沢御殿の新築が成就し、12月中旬にここに移り、文政7年(1824)3月18日に移転の祝賀能で自ら舞い、以後毎月、竹沢御殿で能を催し、6月に斉泰公の入国祝賀の儀があり、翌7月10日、斉広公は歿します。

 

文政5年(1822)。13代斉泰公就任当初は、12歳と年も若く、藩政を投げ出したはずの父斉広公が依然して実権を握っています。時節柄、緊縮方針の中、翌文政6年(1823)父の隠居所竹沢御殿の新築などで出費が嵩み、父斉広公の死亡後も、父に劣らぬ能好きの斉泰公催能は、弟他亀次郎(斉広公次男)や諸橋権之進、波吉宮門などの金沢の御手役者で行ない、また、文政8年(1825)の松囃子(謡初め)では、京から竹田権兵衛・平四郎が参上して勤めたが、その後は、近臣や地元の御手役者がお相手しています。

 

 

斉泰公は、文政5年(1822)11月、12歳で加賀藩主となり左近衛中将に昇任し、加賀守を称しますが、依然藩政は父が握っていました。文政7年(1824)斉広公の死により親政を開始し、藩政改革に取り組んで行きます。文政10年(1827)11月、将軍家斉の娘溶姫が前田家へ輿入れし、藩政改革は最初奥村栄実を中心とする保守的な改革を進めますが、やがてペリー来航などで開国論などが囁かれ始める前後になると、革新派(黒羽織党)を登用して洋式軍制の導入に取り組むなど、藩政改革を頻繁に行ないます。元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)では世嗣慶寧に兵を預けて京の御所を守らせていたが、禁門の変の当日朝、退京してきたので、怒った斉泰公は慶寧を謹慎させ、家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に切腹を命じています。そしてこれを契機として、慶寧と親密な関係にあった尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と協力して徹底的に弾圧し、慶応2年(1866)、斉泰公慶寧公に家督を譲って隠居しますが、藩の実権斉泰公が相変わらず握っています。

 

 

拙ブログ

大弐が死んで、何と庄兵衛!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11308900520.html

 

文政10年(1827)の松囃子(謡初め)は、作法通りであったが、年寄への御吸物を出さず、嶋台(祝儀の時に飾台)を止めて三方(供物台)にするなど簡略化しています。それは、昨年の7月に異国打ち払い令や12月の江戸本郷邸北住居火災など、藩の財政も窮乏し節約を議することがしばしばで、さらに、その年文政10年11月に将軍の娘溶姫の輿入れも重なり、藩の出費も莫大になり、10月には藩士への風紀取締りのお触れの要旨は、「最近の若い者は、能の稽古に凝って、武士としての文武の励みが薄くなった!!」というものですが、実態は、不況庶民は困窮し、藩財政はいよいよ苦しくなって藩士にも節約を強いるもので、やがて天保の飢饉に至たり、家中半知借上げに繋がって行きます。

 

 

財政逼迫下の御能

天保元年(1830)5月4日、江戸本郷の上屋敷で加賀藩最後の藩主慶寧公(犬千代丸)が江戸本郷上屋敷でお生まれになります。これを祝し金沢城下では6月1日・2日賑やかの盆正月が行われ、前代未聞の繁盛だったと伝えられています。9月25日には城中で御祝能があり、藩士達に拝見を仰せつけられます。この年、藩は幕府に対し御文庫金5万両の拝領を願い出でたが、1万両(約10億円)だけ借用が許されています。

 

(斉泰公)

 

天保2年(1831)正月2日の謡初め(1昨年松囃子を改め)が行われ、3月2日には慰能、4月には江戸で斉広公の未亡人真龍院を招きお囃子、8月15日、安宅延年之舞伝授の件で、御用差し止めの宝生太夫が再び出入りを許されています。

安宅延年之舞伝授の件:安永4年(1775)2月から3月にかけて、10代重教公と宝生太夫九郎の間に、宝生流一子相伝「安宅」の伝授で波乱が生じます。大名気質伝統に固辞する能役者気質の摩擦で、さらに扶持するもの扶持されるものの中で、微妙な思いが絡み、しかも、当時の宝生太夫九郎は他所から入った養子で、歩み寄れず結果的に宝生太夫前田家から半世紀に渡り御用差し止められていました。)

 

天保10年(1840)7月、10歳になった世嗣慶寧の教育について、”乱舞の稽古は、今しばらく見合わせて如何かと?“と重臣より意見が上申されています。その要旨は「御学問に重点をおいてここに集中しているときは、まれに乱舞をされて、お慰みになれば、精神の発散、身体の運動養生のなり、父斉泰公のお慰みともなって、孝養の一つになるが、今の年ごろで御学問に志も立たぬ内に、舞能をはじめると、器用な方だから面白くて、すらすら進み、その方に重点をおいて、大切なことには、思慮が届かなくなるのは、貴賤高下を問わず、人間の常情ございます。もし将来、おいおい乱舞稽古をお始めになるとしても、今しばらくお見合わせになるようお願いします」というもので、若い藩主への期待仕える者の思いが窺えます。

(御能は奥深く、器用な者には、遣れば遣るほど嵌ってしまう魔力を秘めていることへの忠告か?御能に耽溺する当代や先代を見てきた重臣達の総意であったのでしょう・・・。)

 

(慶寧公)

 

嘉永(1848〜1854)なっても斉泰公御能に一生懸命で、嘉永2年(1849)閏4月、18歳になった世嗣慶寧にも能を学ぶようにすすめています。「・・・・保養運動のため、はたまた来年の将軍家の菩提寺への参詣のお供もあり、それまでに装束能をしておけば、その時の一助になると云うことで、装束御用の節は、自分のものをさしあげよう」といっています。翌3年(1850)3月17日、慶寧は、宝生太夫友于(ともゆき)を招き入門し、「田村」のクセのある仕舞を習い、25日には、初めて能を演じています。

 

 

14代前田慶寧公:天保元年(1830)5月4日は江戸に生まれ、母は第11代将軍徳川家斉の娘溶姫。幼名は犬千代。天保12年(1841)12月、又左衛門と称し、松平の名字を与えられます。天保13年(1842)2月15日に登城、将軍家慶に謁し同月22日江戸城にて元服、正四位下左近守権少将に任じられて筑前守を称し、家慶の偏諱を授かって慶寧に改名。元治元年(1864)5月、斉泰公に代わり上洛し、御所の警備にあたっていたが、病がちになり、7月に起こった禁門の変では、長州藩と幕府の斡旋を試みたが失敗し、病を理由に退京し近江国海津(加賀藩領)に居たため、長州に内通した疑いを受け、斉泰公により幕命に背き御所の警備を放棄したとして金沢で謹慎を命じられ、慶応元年(1865)4月、謹慎を解かれ、慶応2年(1866)4月4日、35歳で斉泰公から家督相続し、明治2年(1869)明治新政府の金沢藩知事、4年(1870)

廃藩置県で東京へ、その後、結核と思われる肺疾患にかかり、明治7年(1874年)5月22日療養先の熱海で父に先立って43歳で歿します。

 

拙ブログ

加賀尊王攘夷派千秋順之助➀

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11494764038.html

徳田寿秋先生の「慶寧公と女たち」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12089042224.html

 

13代斉泰公の御能伝説

前田斉泰公脚気を患い、仕舞を日課として脚力を回復した体験から、能の鍛錬が身体を健全にするとの確信を得ていました。弘化 2 年(1845)「申楽免廃論」の執筆を思い立ち、その中で書名に使用された「申楽」のほかに「謳舞・舞曲・乱舞・能曲」等の語が見られます。

 

 

謡曲「盆正月」は、加賀藩で藩主の慶事に際して町民や在郷の者に仕事を休ませ、作り物や獅子・祇園囃子などを繰り出す形で祝意を表させます。弘化 2 年(1845)2 月の盆正月は、斉泰公の記述によれば脚気が治癒した祝いに3 日間の休日とし、一統に赤飯が振る舞われた時の様子を、各町の謡曲ゆかり作り物を見て回るカタチの謡曲に仕立てています。

 

前田斉泰公著「能楽記」斉泰公は様々な古称を挙げて「今定めて能楽と曰いう」と宣言しています。斉泰公の揮毫した額の文字は、明治 35 年(1902)に創刊される雑誌「能楽」の表紙にも使用されます。(前出)

 

 

金谷御殿の跡に造営された尾山神社の舞台は明治 11 年(1878)8 月に落成し、9 月に舞台開きの能楽が行われました。この舞台を「能楽堂」と呼んでいました。泉鏡花「卵塔場の天女」(昭和2年)では、尾山神社の能舞台と思われる場所を「能楽堂」と呼んでいます。

 

「能楽」の提唱した前田斉泰公(候)

明治13年(1880)、岩倉具視邸の会で新しい「御能」の呼称が検討され、幕府の「御能」、京都の「乱舞」、室町の「猿楽」、古称の「散楽」等に代えて、新しく「能楽」を使用することが決まります。検討を依頼した前田斉泰候は満足して、翌年舞台開きの行われた芝能楽堂へ自筆の「能楽」額「能楽記」と云う文章を掲げ、能楽復興の中心にいた人々の宣言を経て次第に諸方面で定着して行きます。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等

 

 


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