【金沢・江戸】
12代斉広公は、享和2年(1802)3月、20歳で家督を相続しますが、就任当初は「当時、世間一統が難渋している時節ゆえ、年寄が、各自の宅で能囃子など慰み事をしていては、一統の気うけもよろしくないであろうと、かねて心得申しつかわしおいた。以下の家老たちも、その様に心得たらよかろう」と当初は婉曲に能囃子の禁止令と申し渡しています。
しかし、翌年5月には、”今後、家来等を相手に能囃子をするのは苦しくない。その中に役者を交えてのはよろしくないが、役者のみなら構わない”とやや緩やかになってきます。さらに4年後の文化3年(1806)8月には、斉広公自身が「能」に嵌りだしたのか“能囃子につては前に云った通りだが、それでは慰みにはならない、これからは、役者を交えて、自分自身の能囃子をするには、勝手次第!!”とコロッと変わっていきます。
(寛政7年(1795)6月、治脩公の後継の斉敬(重教公の長男)が18歳で江戸にて夭逝したため、13歳の亀万千代(重教公の二男・斉広公)が斉敬の養子として跡を継ぐことになります。翌8年(1796)4月に諸橋権之進と波吉宮門が亀万千代(斉広公)の仕舞稽古の御用を仰せつかり、翌9年(1797)宝生太夫(14世)が斉広公師範御用とあり、先代太夫の通り三十人扶持を給せられています。寛政11年(1799)4月、治脩公は江戸邸で正姫と婚儀をあげ5月4日、婚儀後初めて、一門の人々を招いて饗応があり、お敷舞台で、能を催し、御歩並以上当番並びに無息の人にも見物させています。そして2年後、享和2年(1802)3月、治脩公は隠居し斉広公は家督を相続しました。)
文化4年(1807)1月2日の御松囃子(謡初め)。竹田権兵衛は出府せず、諸橋権之進も痛みが有り勤められず、波吉宮門が代わりに勤め、翌年文化5年(1808)1月15日に、金沢城二の丸が炎上し御殿の能舞台も燃えしてしまい、その年の春、斉広公は江戸で「石橋」の能の伝授をうけ、帰国した10月28日、金谷御殿で「石橋」を演じ、年寄中に拝見させ、翌月も翌々月も、また、翌年の2月にも、現実を顧みないかの様に金谷御殿で能を演じています。
(文化6年(1809)2月3日には、京の竹田権兵衛が、先代権兵衛の稽古舞台が金沢荒町に有ったものを止め、弟子の今町中川忠蔵の宅地に、舞台を新築したもので、3日と5日とに、舞台開きの能を興行する予定が権兵衛の所労(疲労?病気?)のため中止になっています。実は争論?があり取りやめたという噂?が有ったと云われています。)
文化6年(1809)4月9日に、二の丸御殿が完成し、斉広公は26日に、金谷御殿から二の丸御殿に移り、金沢の町民は盆正月を祝い、5月6・7日に祝賀の能を催し何れも翁付の五番立で、斉広公は6日に「枕慈童」を、7日には「石橋」を自ら舞っています。先代の治脩公とは違い斉広公は自ら舞うことが楽しみで、実父重教公の血を引いたのか、後に竹沢御殿で能に没頭し耽溺した一端が窺えます。
(一般的には、能が式楽となった江戸時代には、翁付五番立の上演形式が正式であったと云われています。諸説あり)
(隠居の治脩公は、5月14日・15日には、子方の能役者や素人の町人の子供を金谷御殿に召し集め、シテ・ワキ・囃子方は子供にやらせ地謡は大人も交えて能を演じさせています。治脩公は翌年文化7年(1810)1月4日、66歳で歿します。)
拙ブロブ
金沢城二の丸御殿⑦文化の再建を藩主が共に祝う!その(四)
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空前の盛儀と云われる二の丸御殿再建を祝した約1ヶ月後、閏2月4日大がかりの慰能を催すことを家中・御歩並以上に拝見を仰せつけると告示しています。閏2月10日・13日・16日・19日・22日の5日間で、その割り当ては、ほぼ規式能の時と同じで、白洲には、地子町・七ヶ所からの町人たち、町方大工、作事方大工、御台所御用聞、奥納戸御用聞、寺社方門前地の者、宮腰並びに御郡方。造営方係り足軽、御台所付同心等、5,689人を5日間に割り当て、1日、ほぼ1,137・8人ずつ拝見させて、赤飯と酒肴を下され、雨天の際は3人に1本の傘を貸与えています。この慰能は、5日間を通し斉広公が主役で、斉広公自身の“演能を住民に拝見させるのが目的”だったと云われています。
文化12年(1815)2月22日、勝千代君(斉泰公)の着袴式の祝能で、斉広公は自ら「五筒」を舞い、6月18日には、斉広公の女寛姫の七夜の祝能を行い、14年(1817)正月の御松囃子には、斉広公は勝千代の手をひいて出て、8月1日には、勝千代君は、7歳の初めて奥舞台で「猩々」を舞っています。これが後に明治天皇の御前で、能を演じた斉泰公の初舞台になります。
(文化14年(1817)12月13日、斉広公はこの日、治脩公の未亡人を招き能を催すはずでしたが、風邪気味のため中止になり、翌文政元年(1818)の暮から健康がすぐれず、文政2年(1819)年頭儀式を取りやめになるが、4月になり19日に斉広公と斉泰公の親子で能を舞い、文政4年(1821)11月には、斉広公は隠居、家督を斉泰公が継ぎ、文政6年(1823)斉広公の隠居所竹沢御殿の新築が成就し、12月中旬にここに移り、文政7年(1824)3月18日に移転の祝賀能で自ら舞い、以後毎月、竹沢御殿で能を催し、6月に斉泰公の入国祝賀の儀があり、翌7月10日、斉広公は歿します。)
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12代藩主前田斉広公と竹沢御殿➀
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金沢城二の丸御殿より大きい竹沢御殿➁
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“能”に明け暮れた斉広公、竹沢御殿③
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取り壊された御殿から兼六園へ、竹沢御殿④
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12代藩主斉広公の残したもの
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P,S
文政3年(1820)5月には、藩は川上(現菊川)に芝居を、4月には町奉行の申請によって卯辰・石坂の茶屋女が許可されます。以下、「面白ので始まる謡曲「放下僧」の小歌をもじり(替え歌)・・・」金沢の当時の世相を謡っています。
面白の金沢の都や江戸に聴くとも及ばし
東には、祇園茶屋町落ち来る
西は宝久寺。下に昌安町廻らば廻れ。
水車の輪の仁蔵辺りの川浪。
河原乞食は水にもまるる。
袋畠は船でもまるる。
身請の客は廓にもまるる。
太鼓持はうんてらかひにもまるる。
実にまこと。
忘れたりとよ、ちんちきちゃんにもまるる。
踊り子の二つの袖の、
臍(へそ)をかかへてうちをさまりたる
御代かな。
とあり、金沢は爛熟から頽廃につづく様子が窺えます。因みに、当時藩士で学者の富田景周が藩に書いた意見書には「蓮地(竹沢御殿)のご普請もこれきりでお止めになり、江戸・京の能役者もお帰しになりたい思し召しですが・・・・」云々をあります。
つづく
参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等