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猿楽から能楽へ③前田家と明治の能楽復興

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【金沢・東京】

明治初期の東京は、金沢とは比べものにならないくらい早く“能の崩壊”が進み、しかも残酷でした。その混乱の中で能好きの前田の老公斉泰は思いもかけない役割を果たしています。維新後に観世宗家徳川慶喜に従い静岡へ、宝生宗家鎮守府(日本海軍)付きに任官し、東京に残って能を続けているは、「金剛の舞台」と梅若六郎家の「梅若の舞台」だけ、将軍家や諸藩のお抱えの役者・囃子方・狂言方の多くは四散放浪するより仕方がなかったと云います。

 

梅若六郎家:丹波矢田猿楽の一座から出て、江戸時代、観世座のツレ方として能楽五流の次に位置を占め、特別の待遇を受けていました。明治になって東京で猿楽を守り続けたのは、観世流では初世梅若実(52世梅若六郎)と五世観世鐵之丞で、梅若実は文政11年(1828)に日光山御門跡輪王寺北白川宮御用達の鯨井平左衛門の長男として生まれ、当時、梅若六郎家鯨井家から巨額の借金をしていたが梅若六郎家跡継ぎ男子がおらず、鯨井家子供梅若六郎家を継ぐことで借金を棒引きにするということになり、(52世梅若六郎)梅若六郎家に養子入り、幕末には、赤貧を洗うどん底が、かえって勇気を得て明治2年(1869)に東京厩橋で梅若の敷舞台を開き、後に鎮守府に任官していた宝生九郎を舞台に呼び戻し、明治の能の復興の希望の灯となります。)

 

「杜若」兼六園)

 

明治4年(1871)岩倉具視は、大使として欧米視察に出かけ、外国では他国の正式訪問者の接待に、オペラという礼服着用の楽劇があることを知り、それに近いものとして将軍大名の式楽として用いた猿楽に思い当たり、随行員の西岡、久米にはかり、能の復興をすすめ梅若の舞台で能を見て、明治9年(1876)4月4日、岩倉邸へ明治天皇、皇后の行幸啓を演じ、2日目皇后、皇太后、3日目は親王、内親王を迎え、成功裏に終わり以後大官、華族邸への行幸啓には能の催しがつきものになりました。

 

(岩倉具視)

 

2日目に、前田の老公斉泰「満仲」シテ前田利鬯「鉢木」シテを勤めています。その日の前田父子はビッグスターで、ほかに華族の名も見え、狂言方でも、三宅庄市や野村与作の元加賀藩の和泉流狂言のお抱えの役者も加わっています。この番組は、岩倉の相談に斉泰があずかって梅若実の裁量で出来上がり、臨時御入能のかたちで、宝生九郎を舞台に復帰させています。その後、英照皇太后は能を好まれ、明治11年(1878)青山大宮御所内に能舞台を設け、舞台開きに観世宗家も静岡から、金春参加し、喜多を除く四座の太夫によるが催されています。さらに明治12年(1879)アメリカの前大統領グラントが来朝し、岩倉邸観能され、絶賛をえて能の保存が叫ばれ、華族の中から国楽として保護する機運が高まってきました。)

 

(金剛流)

 

明治14年(1881)4月16日には、5人の華族らによって能楽社が発足し、芝公園能楽堂舞台開きが行われ、新しい能楽の道を歩みだします。因みに能楽社の発起人は前田斉泰前田利鬯を含む華族5人で、能楽社第一社員は金沢15代前田利嗣、第二社員は富山13代前田利同が参加しています。明治16年(1883)7月20日には岩倉具視が、明治17年(1884)1月16日には前田斉泰の死という打撃があったものの明治20年(1887)には、黒田長知、池田茂政、前田利鬯、井伊直憲が連署して「能楽保護請願書」を宮内大臣に提出し、宮内省から金一封を基金として能楽保存会が能楽堂のテコ入れに力を注ぎます。

 

前田斉泰関連記事(前出)

明治13年(1880)、岩倉具視邸の会で新しい「御能」の呼称が検討され、幕府の「御能」、京都の「乱舞」、室町の「猿楽」、古称の「散楽」等に代えて、新しく「能楽」を使用することが決まります。検討を依頼した前田斉泰候は満足して、翌年舞台開きの行われた芝能楽堂へ自筆の「能楽」額と「能楽記」と云う文章を掲げ、能楽復興の中心にいた人々の宣言を経て次第に諸方面で定着して行きます。

 

金沢の能楽復興≫

明治初期は能楽にとって受難の時代でしたが、見方を変えれば広く民衆に解放された時代でもありました。江戸時代には、能のシテ方を舞えるのは藩主万石武家、御手役者だけ、そして家元制度にしばられ庶民は謡だけで、世阿弥がその昔“能は衆人の愛敬によって支えられるべき”と云っていますが、江戸時代までは、一般庶民が関われるのは「小謡」と呼ばれる謡曲の一節とせいぜい囃子を舞えるだけ、特別な町人の町役者に加わることは出来たが、主役シテ方を舞うことはなかったと云います。

 

(謡本)

 

御手役者の芸は一子相伝で、これは他人が見ることも習うことも出来ない秘伝でしたが、維新後、御手役者諸橋権之進相馬勝之と名を改め、その秘伝履物商(鼻緒問屋)の佐野吉之助に伝授します。まさに明治維新で消えそうになった伝統芸能“加賀宝生”を救ったのです。明治初年から明治33年(1900)吉之助が自らに能楽堂を建設するまでの33年間を振り返ると、明治19年(1886)成巽閣の舞台で相馬勝之の一世一代の催能に際し「藤」を舞ったのが吉之助の初舞台で、その時24歳。明治20年(1887)鍛冶八幡の舞台開き(元野村蘭作の舞台)に「吉野静」を舞います。武士でも御手役者でもなく、一人の町人がシテ方として登場します。江戸時代の事を思えば画期的なこと金沢の能楽の復興の礎と云えます。)

 

(宝生流)

 

佐野吉之助

佐野吉之助の家は町人で、町役者を勤めた町人でも肝煎など町会所出入りの家でもなく、元治元年(1865)に金沢で生まれています。家業は堤町で鼻緒問屋を営み(30歳過ぎには犀川大橋詰に移転)、明治13年(1880)に相馬勝之(諸橋権之助)に弟子入り謡や型の稽古を受け、この他には元前田家の茶坊主で素人上がりですが謡の調子が良いと評判代書人石橋和平に習っていますが、吉之助が一番私淑奥義を受け継いだのは相馬勝之でした。明治26年(1893)に石川能楽会が結成され、吉之助は伝統の能を滅ぼしたくない一心から稽古能は益々熱心になり能に嵌っていきます。その頃、商売はそっちのけで親戚から絶縁されても、私財を投げ出し能舞台の建設を始めますが、工事は遅々として進まず、瓦が半分程で放っておかれたりしながら、明治33年(1900)に完成し、商売をやめて能役者として踏み出します。明治35年(1902)頃に単身上京、石橋和平の紹介で16代目宝生九郎に師事します。なんと行っても吉之助第一の功績は、明治維新後に危機に瀕した加賀宝生の隆盛に尽くしたことでした。

 

 

(明治34年(1901)には、石川能楽会を改組し金沢能楽会を発足させ、4月1日、第一回定例発表会に漕ぎ着けます。金沢能楽会は、金沢の第四高等学校の校長北条時敬の斡旋で、当時、尾小屋鉱山で成功した横山男爵一門の経済的な援助により成立したもので、以前から吉之助横山家を結び付けていたと云われているのが、金春流太鼓御手役者(江戸詰)の斉田千十二で維新後、食い潰し金沢の佐野家を寄せて居たこともあり、その縁から横山家には能舞台の建設もかなり援助が有ったものと思われます。)

 

拙ブログ

寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園③

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11622959275.html

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


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