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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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猿楽から能楽へ④今様能狂言と泉祐三郎の「照葉狂言」

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【金沢・小松・京都】

幕末、御能の空白時代に京都では今様能狂言が大流行します。その源は文化文政の頃、京都で起こった仙助能と云う異端の能狂言で、堀井仙助という能役者が、秘伝の曲を家元の許しもなく演じたもので、家元から破門され、終には辻能をし、習事であろうが一子相伝の密事であろうがお構いなし、面白くやっていたので、お上からお咎めを受け、あちこちから迫害にあいますが、京都の庶民は弱い者いじめに映ったのか、判官びいきか?人気となり、全国各地に伝播していきます。

堀井仙助幕末上方(関西)の喜多流のツレ方で家元から破門され、加賀藩でも嘉永元年(1848)6月に宮腰の港で仙助能を興行しています。今様能狂言と名乗るようになったのは堀井仙助の相続者林寿三郎からと云われています。)

 

(若葉・老松に有らず!)

 

今様能狂言は、当時、高嶺の花と諦めていた大衆から熱狂的な支持を得ます。謡本でしか知らない曲目が寄席のように肩を張らずに見ることができ、しかも、女性の出演三味線伴奏や舞踊を取り入れ大衆に大いに受け大人気となります。さらに明治維新が後押し好機到来となります。金沢での今様能狂言林寿三郎一座が明治元年(1868)9月、巽御殿での藩主の上覧、都合6回も来沢し、病を得て明治16年(1883)7月金沢病院で没するまで、その後門下の泉祐三郎に継がれます。明治20年(1887)前後には、金沢の能両太夫(諸橋・波吉)の能興行は絶えていて、当時、金沢の十二銀行支配人辰巳啓氏と富豪呉服商能久の後援を得た泉祐三郎一座は、木倉町(古寺町とも)に舞台を構え、そこを拠点に東京・京都・名古屋・松山の一流館等、各地に出稼ぎに行っています。

 

(今の成巽閣・兼六園側)

 

(小松梯天神社能舞台は、金沢の東馬場にあった波吉家の能舞台であったものを明治29年(1896)に金沢から小松に移築したもので、廃藩置県後の金沢で流行した今様能狂言泉祐三郎一座の使用した舞台で、「金沢の能楽(梶井幸代・蜜田良二著)によると「泉祐三郎一座の舞台は、もと、波吉家の舞台であったというから、波吉一家が、明治20年上京したとき移されたものであろうか?今この今様能狂言の舞台は、小松の梯天神社へ移されている。小松では移築の工事半ばで日清戦役がおこり、雨ざらしで放置されたのを修築して明治29年(1896)舞台開きをしたということである。」と「加越能楽・第4号」に書かれています。)

 

 

今様能狂言の特色

❶能楽の規範を脱し、舞踊、三味線を入れたこと。

❷女性を入れ、女性が男役を面も付けずシテ役を演じる。

❸一人多役制で、シテ方、打方、狂言の分業を排したこと。

などの特色があり、室町以来の女猿楽江戸の女郎歌舞伎禁止以来の伝統を破り、お国歌舞伎の再来とばかりの大人気を博したと云います。当時、扶持から離れ職を失った能役者地歌方、囃子方の多くが一座に投じ、金沢の能役者の一部も一座に投じたという。その頃、能役者の孫23歳の泉鏡花泉祐三郎一座をモデルに書いた小説「照葉狂言」で好評を博しています。

 

(泉鏡花)

 

拙ブログ

泉鏡花➁照葉狂言

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10660403163.html

(泉鏡花の見た「照葉狂言」は、泉祐三郎の一座であったものと思われるが、それには泉祐三郎の妻小作を中心に小親・小雪・小里の女役者たちで構成され、小説のように新町の空地に小屋を掛たり、尾山神社の舞台で演じていますが、上記のように後援者が付き自分の舞台を持つようになるところからも、当時、金沢では余程人気があったものと思われます。)

 

(尾山神社)

 

(照葉狂言:明治期に行われた舞台芸能。「てりは狂言」ともいう。正岡子規は「散策集」「てには狂言」と記され、今様能狂言ともよばれた。能狂言と歌舞伎が交じり合ったもので、能の四拍子(笛・大鼓・小鼓・太鼓)のほか三味線を加えた囃子に踊り・歌謡・音曲を入れ、女役者を多用。起源は江戸時代という。いろいろな一座があったが、四国の高松生まれ泉祐三郎一座の芸が優れており、松山にもしばしば来演泉鏡花に小説「照葉狂言」高浜虚子「俳諧一口噺」「楽屋」一座の回想を描いている。Wikipedia等

 

金沢を拠点に全国展開も夢ではないと思われた今様能狂言は、パトロンの死により大正時代に入ると泉祐三郎一座は解散します。最後の金沢での興行は明治44年(1911)10月、下新町第四新富座(泉鏡花の生家の向かい)でした。金沢能楽の座を乗っ取ることは出来ず、所詮、流行りモノ、お色気で勝負した、あだ花か? 当時、金沢の能楽師の間では「あれは今様(いまよう)に居た者(もん)で」と出身を卑しめていう言葉があり、明治40年頃まで一時的に人気があった今様能狂言に加わった人を指したものでした。

 

(下新町・第四新富座辺り)

(今の鏡花記念館)

 

(この時代、旧藩時代の能役者も本業の衰微により、生活の為に今様能狂言に走った者もいたであろうが、やがて本格的な能が復興すると元の仲間内から蔑まれてしまうと云うのは、何時の時代も世も常ではあるが、そのことを書いて世に出た能役者の孫泉鏡花もいたりして、世の不思議な因縁を感じられます。しかも鏡花の文学は他に類をみない夢幻能妖艶な幻想の美しさを伝えていて、今もフアンの多いという。)

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


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