日々
【金沢(金沢21世紀美術館)】
はじめに 先日、私も所属している金沢観光ボランティア「まいどさん」の役員の方から、最近、関東や関西などの中学・高校の修学旅行が多くなり、必ず金沢21世紀美術館がコースに組み込まれていて、新しい期のメンバーが美術館のガイドに苦労しているので、君は美術館のOPEN時から関わっていて、5年程前に「まいどさん」の当時のメンバーから「現代アートは分らんから行かない!!」と云う声があり、美術館や現代アートの勉強会に講師をしていたので、またやって貰えないかと云われ、21世紀美術館にお願いしたらと云いましたが、いい機会でもあるので、体調が良ければやってみようと思い、昔の資料を引っ張り出し、いつ出来るか分かりませんが、その「勉強会」を目指してまとめています。 |
(雲を測る男)
本来、ボランティア活動では自発性や公共性・無償性に加え、提案性や批判性等が必須で、当然、当事者の自覚に関わらずお人様に役立ち喜んで戴ける活動ですが、初めた頃、私のボランティア活動はかなり自分勝手なものでした。仕事もやめ、することが無くなり、やっと1人になれた気楽さに加え、暢気で横着者の素丸出し、これ幸いと、夢だった家にこもり本を読んだり、絵を描いたり、覚え立てのパソコンを叩いたり、気分転換にテレビを見たり、気ままに過ごしていましたが、半年もすると、かみさんの無言の圧力から嫌おうなく初めた活動で、20年ぐらい前、金沢ボランティア大学校経由で「まいどさん」に入り、成り行きでボランティアガイドを始めました。最初は、自分の興味や趣味で、しかも覚えた事を全部言おうとするものですから、ボランティアガイドの本質から外れ、お客様から顰蹙(ひんっしゅく)をかっている事も気も付かず・・・。今、思うと冷や汗が出てきます。
(また、新人ですから観光ボランティアガイドの仕事は余り廻って来なくて、当然ヒマ!!それで聞いた話や新聞で読んだ話を探しに町を歩き廻り、遠方はバイクで走り、帰りには図書館で調べ、家に帰ると覚えたてのパソコンに入力するという生活をしていました。そんな矢先の平成16年(2004年)の夏、10月OPENの金沢21世紀美術館の友の会が解説サポートスタッフを募集していたので参加したのが21世紀美術館に嵌る切っ掛けでした。)
(2004年10月9日OPENの日、北國新聞「地鳴り」筆者の投稿)
21世紀美術館がOPENすれば、以前に行ったパリやマドリッドのように美術館が観光のコースになるのではと早合点し、暇ですから即応募。応募者は私の他に20数名が参加で、たしか研修は有料でしたが、週2回2時間の講座が始まり、20回の講座でしたが、最終的にOPENで忙しくなったとかで、半分の10回に縮小されてしまいました。
(期間は中途半端でしたが、内容は、なかなかのもので、かなり練られていて素晴らしくて、しかも初日から「美術館ってどんなところ?」という宿題が出たりしてかなり厳しいものでした。そして、大学の先生やホテルのコンセルジュが講師を勤める講座もあり、ボランティア論や現代アートの知識だけで無く、お客様への接遇について学ぶことになりますが、半分で終わったのが残念でした。)
(マイケル・リン)
私は、それまでにも、ボランティア大学校でボランティア論を勉強したいた筈でしたが、その頃は、金沢やその歴史・文化のことばかりに気がとられて、ボランティアや接遇については、全く頭に入っていなかったようで、この研修が、ボランティアに目覚めたスタートになりました。
幸いにも私がデザイナー時代に勤めた先の社長が当時「現代アート」の作家で、話はよく聞かされ薦められもしましたが、金にもならない事が出来なくて避けてきましたが、聞いていた「伝統とは何ぼのもんや」「破壊」「既成概念打破」「発見」などという言葉が刺激的で、それを思い出し参加しました。60歳過ぎの手習いでした。
(タレルの部屋)
平成16年(2004)10月9日に開館し、現在、兼六園についで人を集めている金沢21世紀美術館ですが、OPEN前には、日本の現代アートの美術館で、こんなに多くの人が集まるとは誰も想像しなかったのです。むしろ、“こんなモン(現代美術館)金沢に創って、危ないな~!!”入場者数が少なかったら、もう数10年間は日本で現代アートの美術館は出来ないだろうと言っていたそうです。
(平成の始め広坂通りは、金大付属の小中学校が野田の移転し、県庁も海の方に移転が決まり、都心の空洞化から、平成6年(1994)に「石川県新県庁舎整備および跡地利用懇話会」が提言により翌年石川県と金沢市が共同で「都心地区整備構想検討委員会」が設置されます。)
その後「新しい文化の創造」と「新たなまちの賑わいの創出」を目的に設置された金沢21世紀美術館でしたが、その頃は、全国的には美術館冬の時代の真っ只中で、計画が進められます。しかも、日本では現代美術館の成功した先例はごく限られていて、OPENにこぎつけるまでに10年近くの歳月が掛かりました。
その間、平成8年(1996)には「美術館建設準備事務局」が発足し、その翌年には、基本構想が発表され、総合アドバイザーと専門アドバイサー21名委嘱されますが、一般市民にとって現代アートの価値など分からないというのが大多数で、地元作家にとっては、「作品の保管場所をつくるのではなかったのか」と云うし、石川県の美術文化協会からは「今後いろんな作品発表に場を」などといわれました。
それはまだ良しとしても、電話、投書、議会の発言など、金沢市の都市政策部に寄せられる苦情は、「現代美術館が本当に街の活性化と繫がるのか」「大きな税金をかけてまで建てる価値があるのか」などの意見が集まり、一時、大パニックになり、当時の市長が「美術館を作るのがこんなに悪い事かと」嘆いたと伝えられています。
その為、当初の「金沢現代美術館」が「金沢21世紀美術館」に名称が変更されたそうです。また、OPENしてからも「丸いUHOみたいな変な建物は城下町金沢の風情をぶち壊す」とか、「通路が迷路のようで、もうひび割れしている」「あれは直ぐ雨が漏り、雪には弱い等と言われ」しばらくは非難轟々でした。
当初は、現代美術館と市民交流館の2つ建てる構想が、丸い一つの建物に集約され、館内は金沢の町の道路の延長線上にある通路、日本的な縁側、ヒエラルキーがない設計などで(入り口4つやメインの展示室がなく展示室が並列している)、ベネチアビレンナーレで金獅子賞や建築のノベル賞といわれるブリカー賞を頂いた根拠になるのは建物が民主主義を象徴していることだそうです。それでもしばらくは、多くの市民に嫌われていました。
(今でも口には出さないけど、反感をもっている人もいるそうです・・・。)
≪OPEN時の21世紀美術館のパンフレットより≫
●目的及びコンセプト
目的 ”新しい文化の創造と街の賑わい創出“
特色
1、世界の「今」の美術を伝える。
(1980以降の現代美術を主体にコレクション(多様な価値感と多くの表現)
2、市民とつくる、参画交流型の「街の広場」。
3、金沢の伝統と未来をつなぎ、世界を開く。
4、子供たちと共に、成長する。
建物概要 “街の開かれた公園のような美術館“
特徴:丸い・表裏のない・入口が4つもあり、交流ゾーンと美術館が同居している建物で、透明感があり明るくガラス張り、独立した展示室、街路のような廊下、建物が展示作品の邪魔にならない等
(日本建築の特徴で外国人が絶賛する、内と外の間の縁側の発想が活かされています。)
建築データー:直径112,5m(円周350m)ガラス118枚(高さ4,6m)述べ床面積27,791㎡(美術館17,093㎡)敷地面積26,964㎡
附属施設:「シアター21」演劇、音楽、講演等に使える182名の客席を備えた小ホール。「プロジェクト工房 」芸術家が制作を行うためのアトリエ。茶室「松涛庵」「山宇亭」と命名された二つの茶室
設計:サナア(妹島和世、西沢立衛)受賞ベネチアで金獅子賞・ブリッカー賞 他ランスのルーブル2のコンペで採用(2007)
●コレクション
コレクション方針:1980年以降に制作されて作品・1900年以降の歴史的参照作品・金沢所縁の作家の作品。他タレルの部屋など以下9点。
恒久展示作品(コミッションワーク)
レアンドロ・エルリッヒ「スイミング・プール」オラファー・エリアソン 「カラー・アクティヴィティ・ハウス」ジェームズ・タレル「ブルー・プラネット・スカイ・タレルの部屋」パトリック・ブラン「緑の橋」フローリアン・クラール「アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3」ヤン・ファーブル 「雲を測る男」マイケル・リン 「市民ギャラリー 2004.10.9 -2005.3.21」アニッシュ・カプーア「世界の起源」フェルナンド・ロメロ「ラッピング」ピピロッティ・リスト「あなたは自分を再生する」
開館10周年を記念し、設計者の妹島和世 + 西沢立衛 / SANAAが計画・設置したパビリオン
妹島和世 + 西沢立衛 / SANAAによる金沢21世紀美術館のシンボル「パビリオンまる」 建築面積:26.38㎡・高さ:3.96m 幅:6.36m 主体構造:ステンレス製 仕上げ:鏡面仕上げ 外面♯600・バフ仕上 内面・柱 ♯400バフ仕上
つづく
参考資料:金沢21世紀美術館パンフ等・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年当時、私が集めてスクラップ