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板葺き石置き屋根①金沢らしさ?

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【金沢市内】
板(木端)屋根に石をのせた家のことですが、昭和30年頃までは、片町の大和デパートの屋上から眺めると、河原町や大工町、旧十三間町の町々にも多く見られ、当時のことが書かれているものには、一寸眉唾ですが、金沢市内の約半数の家々が“板葺き石置き屋根”だというのを見たことがあります。


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(板葺き石置き屋根)

昭和2年(1927)の彦三大火以降、市の奨励もあって、徐々に、“トタン板葺き屋根”や“瓦葺き屋根”に変わっていったそうですが、戦災の遭わなかった金沢での普及は遅々と進まず、私の知る30年代の金沢では、まだかなり残っていました。


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(東山の清水邸・石置き屋根をトタンに葺き替え)


さすがに20数年後の記録には数十軒だけになってしまったと書かれていて、現在は復元されたものを除けば、野町の「森紙店」だけになりました。


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(森紙店)


(野町・森紙店:江戸時代末期の建築と推定され、塩乾物の商家を明治中期に森家が購入して紙販売を営んできたそうで、現在、市街地に唯一残る板葺き石置き屋根の建物です。昭和58年4月11日金沢市保存建造物に指定されています。)


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(屋根に”風返し”が有るのは元石置き屋根)


しかし、現在も浅野川左岸の旧岩根町や堀川、右岸の東山あたりの古い町家では、板葺きの上にトタン板を葺いた家や板葺き屋根の上に勾配を急にしてもう一つ屋根を作りその上に瓦をのせた家がかなりあります。


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(石置き屋根と瓦屋根の勾配)


また、復元された建物には、長町の足軽住居跡や湯涌江戸村で見ることができますが、正倉院の文書にも出てくる、こば(木端)板を何枚にも剥ぐ(へぐ)技術は、金沢ではすでに途絶え、7年ぐらいで腐るという板葺き屋根が、現在も残されている事は貴重ですが、維持管理を思うと、一口に文化財の継承といっても、当事者に多大な負担が強いられていることに気付かされます。


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(旧観音町のひがし茶屋休憩館は元石置き屋根)


金沢の“板葺き石置き屋根”の歴史を振り返って見ますと、藩政初期、瓦葺は、城内の御殿(門や櫓は鉛葺きもある)神社仏閣で、“人持組”は柿(こけら)葺き”平士以下、御歩以上は”板葺き石置き屋根“足軽、小者は”藁葺き“という風に決まっていたそうです。


(瓦は、製造量が少なかったためでもあると思いますが、土で作った瓦を頭上に戴くことを嫌ったという説もあります。)


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(”風返し”のある町家の屋根)


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(手前のなだらかの屋根は元石置き屋根)


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(手前の2重の大屋根の上は、瓦を置くために作った屋根)


”町家“は平士、御歩と同じく”板葺き石置き屋根“で町家は瓦葺きにする事は許されていなかったそうですが、武家の屋敷も町家も時代と共に、決まりが次第に崩れていったと聞きます。



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(復元された長町の足軽屋敷)

復元された足軽屋敷は藁葺きではなく”板葺き石置き屋根“になっていたり、長町の大屋邸が明治になってから石置き屋根だったものを”瓦“に葺き替えたのだと聞くと、そうなんだ!と何となく納得します。


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(大屋邸)


(長町・大屋邸:正面に高く広い妻面のあるアズマダチの屋根は、元々は板葺き石置き屋根でしたが明治時代に瓦屋根に葺き替えられました。武家屋敷を構成した主な要素を全て残している貴重な遺構です。平成15年4月21日に金沢市保存建造物に指定され、国の登録有形文化財にもなっています。)


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(高木糀商店)


(東山・髙木糀商店:大屋根は瓦に葺き替えられたもので、かつては板葺きの石置き屋根でした。全体として典型的な古町家の様相をとどめており、貴重な建物です。平成14年4月22日金沢市保存建造物に指定されています。)


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(復元された湯涌江戸村の永井柳太郎の旧宅)


“石置き屋根”の話が出てくると、かなり前になりますが、日本語を話すスイスからのお客さまに、覚え立ての“石置き屋根”の話をすると、スイスのアルプス山麓にも”石置き屋根“の家があるとかで、日本だけのモノだと思い込んでいた私の世間の狭さを思い知らされたことが思い出されます。


つづく


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(ひがしのトタンの家)


註:”風返し”は、板葺き石置き屋根の先端にある板で、屋根に敷いた板が下からの風で飛ばないように付けられたもの。


参考資料:金沢市公式ホームページhttp://www4.city.kanazawa.lg.jp/ など

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板葺き石置き屋根②職人さんの話

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【金沢市内】
30年以上も前、昭和52年4月から4年間。NHKの金沢放送局では、毎月1回金沢の職人を取り上げ「手仕事の心シリーズ」として放送されたそうです。その中の一部を最初から担当された2人のアナウンサーがまとめられ出版された「加賀能登の職人―手仕事の心―」の中に当時73~4歳の金石の”こば板へぎ職人“が取り上げられています。


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(加賀能登の職人―手仕事の心―)


当時すでに“板葺き石置き屋根”は、建築基準法で新築が認められなくなっていて、筆者は、仕事として消滅を宣言された珍しい仕事だと書いていますが、おそらく、この方鈴木伝二さんですが、“こば板へぎ職人”として金沢で最後の人になったのでしょう。


「加賀能登の職人―手仕事の心―」の文章に書かれている鈴木さんの言葉は、今ではあまり聞かない金石辺りのちょっと癖のある金沢弁で懐かしさより、読みづらさが勝る語り口でしたが、この本は金沢の昔を伝えるもう一つの貴重な資料だと思いました。以下いくつか引用させて戴きます。



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藩政期の加賀藩は森林資源を温存するため「七木の制」を布き、材木の伐採を制限し、東北から建築材を移入し、その港を宮腰(金石)に定めました。藩政期の宮腰(金石)には材木奉行ないし板批(いたへぎ)奉行がおかれ、材木の集積地宮腰(金石)は“板葺き石置き屋根”の板へぎの中心地でもありました。


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(湯涌江戸村の復元された石置き屋根)


板屋根には、上等の物はヒノキ科のサワラ、北陸ではヒバ科のクサマキやアテ、マツ科のエゾマツなどが使われていましたが、金石では青森からのクサマキや能登のアテが多く使われてしたそうで、当時、金石で一番いいのがクサマキで、クサマキは表面が腐ったように見えても中は鈴木さんの言葉をかりると「下ぁ、カンカンや」というくらい中は腐っていなかったといいます。


(余談:青森のクサマキの苗を能登に植えるとアテになるとか・・・)


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工法は、鈴木さんが「のこぎりでは、ダッチャカン(不敵)がや!」というように、のこぎりだと木の繊維が切れてしまうそうで、鎌や鉈を使う。鎌で板を剥(へ)ぐと、水はけがよく雨が降っても乾きが早いそうです。


(註;鎌を使うのは、石川県と富山県だけで他の地方では鉈(なた)を使います。)



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(足で押さえて鎌で板を剥(へ)ぐ)



この工法は正倉院の文書にもあり、千年以上の伝統をもつ日本古来の技術で、槌で鎌や鉈(なた)を叩くというシンプルな仕事ですが、職人さんの知恵と腕がモノをいいます。木の繊維が端から端まで損なわなくて、水にも強く、腐りにくく、表面が凸凹しているので、通気性がいいという申し分のない工法ですが、火に弱いということから建築基準法が、この日本古来の技術を消滅させてしまいました。


(板葺きの屋根には上等の“檜皮葺(ひわだぶき)”や“杮葺(こけらぶき)”などがありますが、特別に許可された文化財の建造物や茶室の屋根に葺かれるもので、金沢には匠はいません。トントン葺きともいわれた”こば板へぎ職人”は隣県の富山に今もいらっしゃると聞きます。)



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(兼六園の成巽閣の屋根は杮葺き)


鈴木さんがこの仕事についた頃、金石には板を剥(へ)ぐ人は100人ぐらいで、ほとんど金石の独占的な仕事だったそうです。出職の屋根を葺く仕事より板を剥(へ)ぐ仕事に多くの時間がとられたといいますが、加賀の職人らしいのは「空から謡が降ってくる」のたとえの通り、植木屋だけでなく屋根葺き職人も謡(うたい)を習いに通い、嗜んでいたことが書かれています。



別の古い資料には、石置き屋根用に剥(へ)いだ板は、長さ2尺(60cm)と1尺5寸(約45cm)の2種類があり幅は3寸(9cm)長さのよって割る厚さが違いますが、1寸2分(3,6cm)を8枚に剥(へ)いで、96枚を1束にして、金沢へは背や肩で運ぶのと筏で木曳川を引き登り三社木場に上げたと書かれたものを見たかとがあります。


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(註:96枚1束は、1文銭の「百文さし」の“九六百”に因んだものと思われます。)


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(旧観音町の旧家、昔は石置き屋根でした。)


「加賀能登の職人―手仕事の心―」では、その頃(昭和50年ごろ)の“板葺き石置き屋根”は、瓦葺屋根やトタン葺屋根にする事が出来ない事情があって1年のばしにしている家が多く、鈴木さんは「ちょんまげの仕事ぁ、いまだ(当今)みんなアガってしもうたんや」「ほやろ。ちょんまげのころからあった仕事や。いまだ、なんもないがんなってしもた。ほっと、まぁ、わしが残るのがは、この板剥(へ)ぐがと、石ころの家が何軒あるかぁだけやね。」と、隠居したい気分と、いつまでも仕事をしたい気持ちが半々。

筆者石平光男氏は、貴重な技術の保持者として社会が暖かく見守ってくれれば、鈴木さんももっと張り合いをもって仕事をすることができるのに、と結んでいます。



参考文献:「加賀能登の職人―手仕事の心―」昭和56年11月20日発行・編者NHK金沢放送局・発行所日本放送協会(筆者石平光男氏/久保田宗孝氏)他、金沢市公式ホームページhttp://www4.city.kanazawa.lg.jp/ など

ちょっこし早い“鰤起し”

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【金沢市内】
15日午前中、市内で観光ガイドをしてきました。傘を開いたり、閉じたりのグズグズした天侯で、昨日から北陸に入ったお客様の中には、始めて聞くこの時期の雷鳴が怖くて寝られなかったという方もいて「遠くからいらっしゃったのに」と思っているうちに私のガイドは終りました。

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(昼間とは思えぬ空模様)


お客様は、次のところに移動して行きましたが、午後は、久しぶりに青空ものぞき、晩秋の日差しに紅葉も映え、絶好の散策日和になりました。


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(一舜の晴天)

しかし、夕方には、雲行きが変わり、雷雨こそありませんが、シトシトと小雨模様になりました。この時期の北陸の気候を、街がまるで「回り舞台」の上に乗っているかの様で、これも素敵な金沢の味わいだという方もいますが、70年も金沢に住む私には、一瞬「あっそうか!」と思う尻から“やっぱ、いやや”と思ってしまいます。


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(13日鉛色の空)

今年は、半月も早く冬が来ました。1日からズ~ト天候が悪く、冬型の気圧配置から寒気が入り込んだとかで、13日には、もう“あられ”や“ひょう”が降り”鰤起し”という雷鳴と雷雨を伴う大荒れの天気が続きました。


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(14日昼間とは思えぬ空模様)


14日、朝の金沢の最低気温が6,4度。突風、雷雨が続き落雷被害から停電や倒木被害など、山では雪が降って、12月並みの冷え込みとか、そのせいか今年は紅葉も早いのか、何時もとはちょっと違った晩秋になりました。


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(落雷のイメージ)


北陸では、初冬、雷雨から強風になり、天が壊れて落ちてきたかのような、とんでもない雷鳴が鳴り響きます。寒気が大陸から南下し、日本海を渡るとき海面から暖かく湿った空気の補給を受け、寒気が日本海に着く頃、雷雲が発生し、それが雷鳴になり響き渡ります。この北陸特有の現象を「鰤起し」と呼んでいます。


これから獲れる鰤は、高波で身が締まり、寒さが脂をのせ美味しいといわれ”寒鰤“といいます。聞くところによると「鰤起し」が鳴り響くと、子供が作った俳句に“寒鰤の 目覚まし時計 鰤起し”というのがありますが、鰤漁の開始の合図だといわれています。


俳句の世界では“鰤起し”の季語は「冬」です。網は10月から掛けだしますが、活況を呈するのは、11月の終わり頃からといわれていますので、やはり今年の“鰤起し”は少し早いようです

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(15日、近江町市場のふくらぎ、がんど、鰤の切り身(遠所モンか?))


“鰤“は出世魚で北陸では、こぞくら→ふくらぎ→がんど→ぶり(80cm以上)と出世しますが、関東ではワカナゴ→イナダ → ワラサ → ブリ、関西ではツバス → ハマチ → メジロ(イナダ) → ブリというそうです。(他説あり)


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(15日、近江町市場の"がんど”寒鰤はまだ見かけなかった)


”鰤“という名称は”あぶら”ののった魚という意味だそうで、“あぶら”の「あ」の字を省略して”ぶら”が”ぶり“になったといわれています。寒鰤は、今月終りから3月の厳寒期が旬で、能登、氷見、など北陸で獲れた寒鰤は”あぶら“がよくのっていて、鰤の中の鰤ということなのでしょう。江戸時代も鰤は高級魚で、いい寒鰤は「鰤一本米一俵」だったと聞いたことがあります。

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あな無慚(むざん)!!

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【小松市内】
11月17日“ほっと石川観光ボランティアガイド協議会”の小松研修会が細工町の本蓮寺で開催され参加しました。県内から集まった約90名の熱心なボランティアガイドの皆さんが雨の中、小松市内の社寺を巡りました。


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(本蓮寺の親鸞像と明治天皇小松行在所の碑)


(本蓮寺:文安元年(1444)能美郡津波倉に創建され、小松城主村上義明の招きにより小松に移転し、その後、本願寺直系寺院として、藩政期は小松の真宗諸寺を代表する触頭をつとめます。明治11年10月5日、明治天皇北陸御巡幸の際に小松行在所になりました。)


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(本蓮寺・5本筋の朱色の土塀)

私も小松は、粟津温泉や勧進帳の安宅の関跡、曳山子供歌舞伎の”お旅祭り“は知らないわけではありませんが、最近は、”ブルトゥーザーのコマツ”の印象がヤタラ強くて、また、市内には、あまり行く用もなく、たまに国道を通り抜けるだけでした。


一向一揆も芭蕉にも大いに関心がありますが、所縁のある小松についても本の中だけ、“何時か”と思いながらも自ら出向くだけの行動力もなく、あまり知りませんでした。今回は、雨がシトシト降りしきる中、短い時間でしたがガイドの話を聞きながら大きな真宗寺院や著名な神社に行き感じるものもあり“何時かまた”と思いながら帰ってきまった。


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(多太神社の松尾芭蕉の真筆)


今回、特に印象に残った“芭蕉と小松”について、見たこと、聞いたこと、感じたこと、そして撮った写真等など少しまとめます。


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(建聖寺の立花北枝が彫ったという芭蕉像)

元禄2年(1689)7月24日(太陽暦9月7日)「奥の細道」の道中で小松に着いた芭蕉は、1泊した後すぐに立つつもりが、小松の人々が芭蕉に教えを懇請したため句会を重ねています。


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(建聖寺門前の看板)

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(建聖寺)


(当時の小松は、すでに絹織物の産地として、地方の町としては相当の経済力があり人口も1万人を超えていたといいます。芭蕉は小松を訪れたあと山中温泉に滞在し、その後ふたたび小松を訪れています。この旅で同じ地を2度も訪れたのは小松のほかになく、当時金沢や小松の俳諧が盛んだったことが窺えます。)


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(多太神社の芭蕉像)


7月24日。朝、金沢を出発、北枝や竹意は小松まで随行し、午後4時過ぎに小松に到着しその日は近江屋に投宿します。


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(山王宮(本折日吉神社))


7月25日。小松を出発しようとしたところ、小松の多くの人たちに引き止められて、予定を変更し、多太神社を訪ね、この後、山王宮(本折日吉神社)神主藤井伊豆(鼓蟾)の宅に行き、ここで句会開催。この夜は藤井宅に泊ります。


“しをらしき 名や小松吹く 萩すすき    芭蕉”
(土地への挨拶吟で、小松、かわいい名前。今、浜辺には秋の風が吹いて萩やススキの穂波をなびかせている。)


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(建聖寺の”しをらしき…"の芭蕉の句碑)


7月26日は雨になり出発をあきらめ、特に午前10時ごろから風雨激しくなり、夕方になって止み、夜、越前寺宗右衛門宅での句会に招かれます。


“ぬれて行や 人のをかしさ 雨の萩     芭蕉”
(雨に濡れる萩には風情があり、濡れながら眺めている人の姿も心も風情がある。)


7月27日は快晴で、兎橋神社(お諏訪さん)の祭礼(西瓜祭)に参拝し、山中温泉に向かう途中、多太神社を再び訪れます。


“むざんやな 甲の下の きりぎりす      芭蕉”
(この句が決定稿か・・・)


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(多太神社の”むざんやな・・・”の芭蕉の句碑)


“あなむざん 甲の下の きりぎりす     芭蕉”
(初案か・・・)


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(多太神社の”あなむざん・・・”の芭蕉の句碑)


註:“きりぎりす”は、今の“ツヅレサセ(綴れ刺せ)コオロギ”で、兜の下で鳴いているコオロギのこと。コオロギは、実盛の亡霊!!?

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(多太神社の甲冑記)


芭蕉は「奥の細道」本文で山中温泉への途中に那谷寺に立ち寄ったように記していますが、曾良の随行日記によると山中温泉で8泊の後、曾良と別れて北枝とともに途中、那谷寺を訪れ、8月6日生駒万子の会うため小松に戻り、大聖寺全昌寺へということらしい。


“石山の 石より白し 秋の風        芭蕉”


(那谷寺の石は、白風と呼ばれる秋の風が吹き渡り、あたりを一層清澄な気分にさせる)


那谷寺:白山を霊山として開いた泰澄法師が養老元年(717)に創建した古刹である。南北朝時代の戦乱により焼失したが、加賀藩三代藩主の前田利常が再興した。池の向こう側には巨大な岩壁があり「奇岩遊仙境」と名づけられている。


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(斎藤別当実盛の兜のレプリカ・実物は後ろのロールカーテンの中、写真×)


≪あな無慚、実盛にて候≫
寿永2年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦で大敗を喫した平家の平維盛軍は、加賀の国江沼郡篠原で再陣し義仲軍と対峙しましたが、義仲の前に総崩れになりました。この時、踏みとどまって勇戦し討ち死にしたのが斉藤別当実盛でした。


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(多太神社の斎藤別当実盛の像)

実盛は、かって義仲の命を救った恩人で、老いの身をあなどられまいと白髪を染めていました。首級を洗わせた義仲は涙の対面の後、ねんごろに弔いその着具であった甲冑を多太神社に納められました。時の実盛は73歳の老齢でした。


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(多太神社)


(義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時、2歳であった幼い義仲をかくまい、木曾の中原兼遠(義仲の養父)に送り届けたのが実盛で、義仲は実盛の首を前にして、自分に今があるのはみな実盛のはからいによるものといい、さめざめと泣き、その首を手厚く供養することを命じたといいます。)


はじめ、源義朝に仕えた実盛は、平治の乱で義朝が失脚した後、平宗盛に仕えます。実盛を討ち取ったのは、あの漫画家の手塚治虫のご先祖手塚光盛ですが、首実検をしたのは、実盛の旧友である樋口次郎兼光で、実盛の黒く塗られた白髪頭を見て、樋口次郎兼光が「あな無慚、実盛にて候」と涙を落としたと伝えられています。


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(多太神社の宝物館にある系図のアップ)

謡曲「実盛」に、「樋口参りただ一目見て、涙をはらはら流して、「あなむざんやな」とうめき「老い故によき敵と思われないのは悔しい、最後の戦いでは鬢も髭も黒く染めて出陣したい」と実盛が言っていたことを樋口は覚えていたという下りになっているそうです。


芭蕉の話をするつもりが、書いているうちに、時代は違うとはいえ同世代の斉藤別当実盛の生き様に心奪われ、脱線してしまいました。そして、また、余計なことを・・・・。


今、放送中のNHK「平清盛」です。11月18日(日)。小松生まれの白拍子“仏御前”が登場、清盛メロメロ・・・。“倶利伽羅合戦”や“斉藤別当実盛“は何時・・・。後1ヶ月ちょっと、時間がありませんね。


何時か!! NHK大河ドラマの「木曽の義仲」?・・・期待してま~す。


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(小松研修会の会長挨拶)


参考資料:多太神社のパンフレットなど

浅野川界隈“紅葉”

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【天神橋→中の橋】
11月の金沢は、大荒れのスタートでしたが、中旬には青空が覗く日もあり、晴れ間が多く、19日には、バイクを走らせ往く秋を惜しんできました。


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(卯辰山の紅葉)


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(卯辰山の帰厚坂と帰厚橋)
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(浅野川大橋から卯辰山)


今年は、雨風が酷かったせいか、まだ色づかないのに散ったり、「何時もは、とっくに真っ赤になっているはずの“もみじ”が、まだ緑の葉を付けている」と掃除をなさっている方にお聴きすると、明日も晴れたら来ようと思ったりします。


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(卯辰山より静明寺の林)
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(19日の静明寺の境内・まだうす緑)

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(21日静明寺の境内・色づいたもみじ)


19日午前中好天につられ、卯辰山へ“帰厚坂“登り花菖蒲園(昔の紅葉谷)から山野草園をまわり宝泉寺辺りで、電池切れで、出直し、花菖蒲園に引き返し、下りは鏡花の句碑の前からお料理の”三統“の前で眼下の静明寺の木立を撮り、天神橋の手前を左に折れ常盤町から常盤橋を渡り静明寺の紅葉を見ました。


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(静明寺の落ち葉)


主計町は徒歩で、旧母衣町から彦三緑地、下新町を橋場町、丁金小路から寺島蔵人邸の「満天星つつじ」を見にいきました。樹齢300年以上という“満天星つつじ”は、秋色に色づき、赤くなるのにはまだ少し早いそうですが、それでも黄色がとても素敵でした。春の白い花にたして晩秋の赤い葉と、年に2度も楽しませてくれる寺島さんのお庭です。



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(寺島蔵人邸の満天星つつじ)
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(寺島蔵人邸)

度々、庭を見に来るという仙台から引し越して1年目の方が、頭の上にある「満天星つつじ」は、“はじめて・・・”といっているのを聞くと、あらためて、風雪に耐えた木もさることながら、大切に守ってこられた人々の300年に思いを馳せ、頭上はるか黄色に染まった”満天星つつじ”を見上げました。



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(花菖蒲園(紅葉谷)
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(観音院)
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(山野草園)

21日快晴。午後、観音町に用があり徒歩で出かけ、10日前には考えられなかった好天気につられ、観音院から山野草園の横を、汗をかきながら登り花菖蒲園(紅葉谷)へ、帰厚坂を下り天神橋から静明寺経由で帰りました。


10年に1度の“香嵐渓”の紅葉

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【愛知県豊田市足助町】
便利になりました。東海北陸自動車道のお陰で、金沢から随分遠い豊田市足助町の“香嵐渓”へ10年に1度という紅葉を見にいきました。日帰りで、しかもライトアップまで見物して午後9時台には金沢に帰っていました。こんなことが出来るとは、ついこの間まで思ってもみませんでした。


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(香嵐渓の待月橋)


東海北陸自動車道の“飛騨トンネル”は延長10,710m の長大トンネルで、難工事の末、10数年の歳月をかけ開通し、私にとっても中京方面が急に近くなり、歴史を尋ねて何度か出掛けましたが、聞いたことも無かった“香嵐渓”へ、誘われて不承不承付いて行き、思いがけない素敵な景色に出会いました。

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(雪と霧、バスの窓から飛騨の山)

(東海北陸自動車道の開通は、金沢も白川郷や五箇山と短時間で結ばれ、広域観光が活発になり、冬場には、白川郷、五箇山の合掌造りに積もる雪と兼六園の雪吊りを見に来る関西や九州のお客様が多くなったとバスガイドさんがおっしゃっていました。)


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(信州の味噌蔵)


行きは、東海北陸自動車道から東海環状自動車道、中央自動車道で飯田ICから有名の信州味噌の蔵の見学や同じ飯田で水引の博物館のレストランで昼食をとり、足助町の“香嵐渓”と着いたのが午後3時でした。


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(香嵐渓の三色紅葉)

連休の初日で、出だし天候が悪かったせいか、バスガイドさんの話では、何時もこの時期“香嵐渓“に近くなると車の渋滞でなかなか現地の到着しないのだそうですが、今回は思ったよりスムーズに進み、着いた頃から天候も回復し、1時間以上も素敵な紅葉の下を散策し、日が落ちると幻想的なライトアップを楽しんできました。



市民が見つける金沢再発見
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(香嵐渓の紅葉)

知らなかったですが”香嵐渓“は東海地区随一の紅葉の名所で、創建が応永34年(1427)の曹洞宗の古刹飯盛山香積寺の11世三栄和尚が寛永11年(1634)に植えたのが始まりといわれているそうです。三栄和尚は、巴川沿いの参道から香積寺にかけて。楓、杉などを、般若心経を1巻詠むごとに、1本1本植えたといいます。


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(香積寺へ)
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(香積寺)
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(香積寺への石碑)


(飯盛山香積寺は、その昔、足助氏の本拠飯森城だといわれています。足助氏は清和源氏満政系統で、平安時代末期に浦野重遠の孫・重長が三河国足助の地に住んで足助氏を称したことに始まったといわれています。)


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(香積寺の境内)

現在の“もみじ”は、主に大正から 昭和の始めに住民の手により植えられ、巴川沿いに約4000本の紅葉が色鮮やかに埋め尽くされていて、1日に全国からの数万人が見物に来ることもあるといいます。


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(紅葉のトンネル)
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(紅葉のトンネルにて)


足助町には、戦国時代の山城や信玄初め戦国群雄の軍兵が行き来し、三河湾から信州へ塩を運んだという「塩の道」と呼ばれた街道は今も保存が図られ、今回は時間も無くパスしましたが、金沢の主計町や東山地区の2箇所と同じ「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されているそうです。



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(香嵐渓にて)


バスの旅は、乗り換えなしで、目的地に一直線。そんなのがよくなってしまって、何処へ行こうか、地図や時間表を見ながら、思案に暮れる楽しみが無くなっただけ年なのでしょうが、バスにはバスの楽しみ方があります。それでも、あまり安いのは“やっぱ”気を付けましょう。


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(手に届くところにリンゴが・・・)

今回のバスの旅は、お客様を退屈させない有能なガイドさんに、重たいリンゴのお土産まで付いていました。

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金沢型”〆飾りづくり“

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【金沢市内】
もうすぐ12月。正月支度のお話です。東山の“ひがし茶屋街休憩館”は、藩政末期に建てられた金沢町家で、旧観音町通りにあり、道路に面した「店の間」では、度々、金沢観光ボランティアガイド「まいどさん」の有志が手弁当で“金沢らしい”遊や行事を実施していますが、12月は“〆飾りづくり“を企画しました。


市民が見つける金沢再発見

(店の間①)
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(店の間②)

正月の“〆飾りづくり”は、多少は機械化してはいますが、殆どの作業は手仕事で、9月から準備をし、今は追い込みの大忙しの時期ですが、無理をいって、仲間と市内のわら工芸師の越野さんに行き、作業の手順など、組み立ての基本的なことだけですが習に行きました。


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(〆飾りづくり)


イベントは、12月8日(土)に、東山の“ひがし茶屋街休憩館”の「店の間」を“〆飾りづくり”の作業場に見立てて、午後1時と3時の二回公開で作業をして、ご希望の方には自ら組み立てて頂こうと思っています。


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(ひがし茶屋街休憩館)

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(休憩館の説明板)


今回、“〆飾りづくり”を企画したので、正月飾りに関心を持つようになり、先日、行った長野の水引屋さんでは金沢のとは随分違うのに気づきました。以前は比べたこともなかったのですが、調べると石川県だけでも金沢型や微妙に違う小松型、加賀型、七尾型、など、他に種類の違うものもあることを知りました。


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(長野で見た〆飾り)


〆縄は、神聖な場所を表わすもので、稲藁(いなわら)でつくられ青いものが良いとされているそうです。お正月に飾る金沢型の“〆飾り“の素材も三重(みかさね)の稲藁(いなわら)で、長寿を願い親亀、子亀、孫亀の親子三代を表し、家内安全、五穀豊穣を祈り、目出た目出たを三つに重ね、邪神が内に入らないように、新年に玄関口に飾ります。


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(県内の〆飾りの見本)

石川県の“〆飾り”は、稲縄(いなわら)で作られた親子三代の亀に、橙、裏白(うらじろ)、ゆずり葉、藻、稲穂に御幣を付けて出来上がりですが、“裏白”を裏に向けるところや表に向けるところもあります。金沢型は裏向きで“御幣“は純白。他のところでは紅白のものや赤い水引を付いたもの、能登などではお宮さんの注連縄の小ぶりのものを飾るところもあるそうです。


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(〆飾りの取り付けを習う)


素材は何度もいいましたが稲藁(いなわら)です。今では、農業も機械化が進み、藁を短く刈るので、国内では殆んど稲藁(いなわら)が手の入らず、藁縄などは、外国産が多く使われているそうです。しかし越野さんでは、日本の神聖な場所に、外国産の稲藁(いなわら)では、ということなのでしょうか、自家栽培の国産“稲藁(いなわら)“を使っています。


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(国産稲藁で作った親子三代の亀型)

(因みに、金沢兼六園の雪吊り(ゆきづり)の縄も、大変苦労され、国産の藁縄をあちこちから集め、使用していると聞きます。)


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(裏白、藻、ゆすり葉、稲穂、亀の足など)

≪縁起物≫
橙(だいだい):家が代々(だいだい)繁栄し、長寿が続くように願う。
裏白:人間世界では、腹の白いことは良い。
ゆずり葉:家庭平和でお互いにゆずりあう仲の良さ。
藻:海藻は海の幸、沢山繁殖し、よく採れるように。
   (藻は海から刈り採ります。“モオ~カル”お金が儲かる。)
稲穂:五穀豊穣と満たされた食物への感謝と喜び。
御幣:光を表し、明るい年を迎える。


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(イベントのポスター)

●お知らせ
12月8日(土)は、午後1時と3時、金沢・東山“ひがし茶屋街休憩館”で≪金沢型〆飾りつくり≫をします。気軽のお立ち寄りください。


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(休憩館の座敷)


尚、当日は、昔の金沢で冬場、家の中で遊んだ“ぺった”や“おじゃみ”も用意します。

浅野川左岸の冬支度“コモ掛け”

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【浅野川大橋→小橋】
兼六園の“雪吊り(ゆきづり)”や長町の”コモ掛け“は、金沢の冬の風物詩として有名ですが、この時期、兼六園や長町だけではなく、金沢市内の公園や緑地や個人のお宅の庭、街路の雪吊りやコモ掛けの冬支度に入り植木屋さんは大忙しです。


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(彦三緑地の土塀のコモ掛けと樹木の冬支度)


兼六園の雪吊りは、11月1日から始まりましたが、今年は天候不順で、毎年スタートの“唐崎の松”の作業が遅れヤキモキしまたが、今は、12月中旬まで続く作業も、大物はあらかた片づき、大勢の観光客を楽しませています。


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(金沢の冬の風物詩といわれる兼六園の唐崎の松の雪吊り)


兼六園の“唐崎の松”などの雪吊りはTVや雑誌、新聞に取り上げられ、よく知られていますが、この時期、金沢の街中では、街路や緑地、お料理屋さんや個人のお宅などでも、雪吊りなどの冬支度が始まり、雨の中で作業をする植木職人をよく見かけます。


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(雪吊り作業中・主計町)

主計町や母衣町・彦三界隈の冬支度もかなり進み、28日に行くと彦三緑地の土塀の“コモ掛け”がもう掛かっていました。


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(彦三緑地の土塀のコモ掛け)


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(街路の竹又吊り・主計町)


(昭和61年(1986)より金沢市が実施している、長町武家屋敷跡や彦三野坂家の“コモ掛け”は、毎年12月1日から作業が始まります。)


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(12月1日以降にコモ掛けを取り付ける野坂家の土塀)


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(橋場町の銀行のリンゴ吊り)


“コモ掛け”は、水分が浸透しやすい土で出来ている土塀の損傷を防ぐために冬場に取り付けられます。土塀に浸透した水分が、冷え込んだ夜に凍り、それが繰り返されると表面から剥がれ落ちるので、それを防ぐために、土塀に水や雪が付かないように、藁で作った特注のコモを掛けます。


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(料理屋のリンゴ吊り・主計町)


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(旧家の前庭のリンゴ吊り)
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(灯篭にコモ掛け)

特注のコモは、編み込みの藁を沢山使い、雨水や雪が掛からないように、幅は3m60cm、高さは1mという大きなものが作られます。それの上下を竹で押さえ、土塀の屋根の下から吊ってあります。


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(彦三緑地・牡丹のコモ掛け)

取り外しは、3月の中頃。その間、コモは北陸の雨水や雪、過酷な冷え込みから土塀を守りますが、その風情が何とも雪の城下町らしさを醸し出しているとかで、雪吊りと共の冬の金沢を象徴する風物といわれています。


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(街路の竹又吊り)

註:雪吊りと書いて、“ゆきづり“という、根拠は知りませんが、何でも昔、植木職人が
“ゆきづり”といったと聞きました。



・・・ゆきづりのひと・・・を連想したりして・・・

浅野川の護床工事

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【常盤橋→中の橋】
11月の始め頃、浅野川の大橋より上流に向かい川の中に仮設道路が出来、ダンプや重機も入り作業をしているのを見ました。


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(浅野川大橋より)

先日、仮設道路に沿い上流を行くと常盤橋の下流で、右岸から川原に入る仮設の道路がありました。大橋までの浚渫工事や護床工事のコンクリートのブロックを搬入するために造られたもので、工事は来年の1月末まで続くそうです。


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(天神橋へ仮設道路)

4年前の平成20年(2008)7月28日の朝、200年に一度という浅野川の大洪水で並木町と旧御歩町に面した“角落とし”の閉鎖が遅れたことから、治水の対応が問われ、補償など協議でよく報道されていましたが、今後の大雨災害に備えての改修工事だと聞きました。


(角落とし:堤防の切り欠き部にある鋼鉄の扉)


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(主計町の護床工事)

浅野川では、昭和27年(1952)と昭和28年(1953)にも大洪水があり、これを契機に半世紀にもおよぶ河川整備が行なわれ、中流域の梅の橋辺りは平成20年(2008)7月の浅野川水害の前には治水工事は、すでに終っていました。


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(大橋下の工事)


その工事というのは、洪水時の水面地上1mの位置に、堤防を引き上げて増設をしたのをはじめに、河原に消防車がおりて迅速に給水が出来て、災害時の避難場所として、河原に降りられるように、そして、住民が川と親しむ親水空間の入口としたの“角落とし”等でした。


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(仮設道路)

むしろ、中流地域の治水は、洪水に備えて造られた上流の「田上の浅野川放水路」で、昭和28年に起きた大洪水を上回ることがあっても、浅野川の流水を犀川へ流すことができるもので、これで浅野川は安全だと考えられていました。しかし平成20年の洪水では思ったようには機能はしなかったと聞きます。


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(浚渫と水抜き)


今回の護床工事は、平成21年末から22年始めにかけて行なわれた浅野川河川改修工事から2年ぶりの工事で、川の流量を増やすための川底の掘削や護床の工事で、数10億円の大工事の一部なのでしょうが、川底の高いこの川では、江戸時代から川底を掘る“江ざらえ“を行っていたようで、極めて有効な工事のように思われます。


(註:昔から、浅野川は、上流から街中まで、近いため川浚えを怠ると、すぐに町に水が着くことを加賀藩は心得ていて、失業対策で“江ざれえ”を行ったという。)


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(大橋下の浚渫工事)


もう一つ大切なものに治山があります。あの大洪水の原因に、大雨で湯涌の奥の谷では短時間に、ものすごい勢いで倒木や石、土砂が落下しています。途中で一部が止まり、大事に至らなかったと聞きますが、もしもそのまま全てが落下すれば、今のように、間伐もなく、根の浅い杉が密集する荒れ放題の山林が多いこの地区では、こんなものでは済まなかったという学者もいます。


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(湯涌の山々)

戦後しばらくまで、この地区は炭焼きの村でした。人手もあり、山林は手を掛け間伐もされ、木々は今とは違い、しっかり根付いていたといいます。

加賀藩の“七木の制”

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【加賀藩(加賀、越中、能登)】
“七木の制(しちぼくのせい)”とは加賀藩の禁伐木で、この樹木の伐採を禁止する制度は時代や藩の要請で幾度か変ります。史料的所見は寛永4年(1627)の能登奥郡で、それ以前元和年間にも能登奥郡には七木の禁伐木がありましたが、加賀藩三州(加賀、越中、能登)で「七木の制」として定められたのは、寛文3年(1633)だといわれています。


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(彦三の武家屋敷跡の巨大な松)

寛文以後、禁伐木の七つの樹木は何回か変わっています。最後の慶応3年(1867)には、松(まつ)、杉(すぎ)、樫(かし)、槻(けやき)、檜(ひのき)、栂(つが)、唐竹(からたけ)の七つの樹木が三州共通の七木になっています。初めから終わりまでの禁伐木は、松、杉、槻で、檜、栗、桐、漆、樫、栂、唐竹は三州(加賀、越中、能登)や時代により出入りがあったものと思われます。


(註:栂(つが、とが、モミノキ)槻(ケヤキ、欅)唐竹(カラタケ、マダケ)


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(長町で見かけた松)

中世の加賀、越中、能登では森林に富み、樹木の伐採については問題にすることもなかったのですが、戦国時代も終り藩政期に入ると、町が一斉に復興や築城など建築土木の事業が興り、材木の需要が高まりました。


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(長町で見かけた巨木)


そのため町周辺の山林は伐採され荒廃し、大雨が降ると洪水氾濫により、人命、財産、田畑などが被害を受けます。しかし当時の治水の技術が未熟であったため堤防を築いても出水ごとに決壊し、そのたびに農民がたえず水害に悩まされます。そのため藩では治水対策として、河川の復旧対策として山林の諸制度に取り組みました。


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(橋場町の通りの木)


一方では、軍事物資としての側面も窺え、樫は槍の柄、竹は旗竿や刀の目釘、松は城にこもった時の燃料やタイマツに使われるためのものだったと書いたものを見たことがあります。


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(樹齢1000年といわれる神明宮のケヤキ①)

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(樹齢1000年といわれる神明宮のケヤキ②)

他には、越中の奥山には、御締山(おしまりやま)と称して常人の出入りが出来ない国境の山では、奥山廻り役が20~30人の人夫を従えての年に一度の大掛かりな見廻りをしたといわれています。盗伐者を戒めるものであったということですが、国境防衛の意味も有ったのではないかと思われます。



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(長町武家屋敷跡の庭の樹木)


「七木の制」で定められていた樹木は、藩が直々経営する“御林”という山林以外の、村人が自由に伐採できる入会地の”百姓稼山”でも届け出が必要だったそうで、この規則は家屋の周囲、庭先でも同様だということですから、極めて厳しい制度といえます。


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(橋場町の屋敷の松①)
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(橋場町の屋敷の松②)



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(旧御歩町の松①)
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(旧御歩町の松②)


明治になると、むやみに木が切れなかった金沢の町は、町の半分以上が元武家屋敷で、その庭には巨木が生い茂り、日あたりが悪いため結核の原因などといわれ、伐採されたものもありました。しかし、戦時中は、樹木が森をなし、そのため爆撃のターゲットを免れたと、もっともらしい言い伝えもあります。



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(旧御歩町の火除けモミノキ)

戦災を免れた金沢は、当時はまだ町中にはビルも少なく、街路や公園だけでなく、家々にはそれなりに樹木が植えられていて、戦後しばらくまで“森の都”とよばれていました。今はコンクリートだけの我が家も当時は、猫の額ほどの庭に松、柿、イチジク、南天、山椒、椿、石榴などが季節を伝えていました。


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(ビルの谷間の松)

今も、探し歩けば、ビルの陰の寺社や武家屋敷跡などで樹齢100年ぐらいといわれるような巨木に出会います。


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(御歩町の松)


参考文献:「加賀藩史料」日置謙著・「加賀藩の入会林野」山口隆冶著ほか

真松商売と“七木の制”

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【加賀藩金沢城下】
藩政期、金沢でも仏教の葬式や年忌法要、正月には仏花として松花が使われ、特に正月には、武家も町家も、真の若松(真っ直ぐ上に伸びた松の若木)が必要とされ、この松を使うことは神仏の区別がなかったといわれています。


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(真松のイメージ))


一方、元禄16年(1703)の古文書(石黒傳六家文書)には、”真松商売禁止に付触書”があり、松の密かな販売や郡方より売りに来たものを買い取ることを禁止するお触れで、加賀藩の松など七つの樹木の伐採を禁ずる“七木の制“によるもののようです。



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(仏花)


別の古文書によると、元禄16年(1703)より先か後かまではよく分かりませんが、一部の業者に”真松商売“を許可していたことを思わせる記述があります。何しろ当時、金沢の人口は、すでに10万人を超え、松花は許可された業者以外に、闇で売られていたものも多く、それに対しての禁止のお触であったのでしょう。


市民が見つける金沢再発見-大門松

(正月用の大門松)

77年後の安永9年(1780)の古文書(加越能産物方自記)には、許可を受けていたと思われる花商売の業者から“恐れながら申上候”という願書が提出されています。


市民が見つける金沢再発見-豊松

(正月用の豊松)

その願書を要約すると、”以前から許可され享保年中(1716~1735)重ねて郡奉行から6人のみに許可されている「真松商売」にも関わらず、越前、越中や他所より、密かに仕入れて二葉松や五葉松を売る散花屋が出てきたので、自分たちで見廻り、また、冥加金白銀10枚宛差上げる”旨のもので、翌天明元年(1781)には、6人が改めて許可されています。


(その時、改めて許可された6人は、上材木町荒木屋権兵衛、尾張町梅沢屋次兵衛、安江木町高岡屋弥三右衛門、上材木町権兵衛せがれ久兵衛、安江木町弥三右衛門同居人喜三右衛門、成学寺門前江津屋久之丞です。)


市民が見つける金沢再発見-若松
(正月用の若松)


その後、それらの家々が、どのように継がれて行ったのか、よく分かりませんが、文化8年(1811)の金沢町名帳には、6家以外の本堀川の真松商売越中屋平吉(現金子花店)が見えます。



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(東山の高橋花店)

安永10年4月(天明元年・1781)に、“花屋共松木商売縮方に付触書”が木の板に書かれ藩から渡されています。要約すると”これより花屋共は6人より二葉松、五葉松を買請け商売すること、6人は時々見廻り、紛らわしい松木の取扱いが有れば、咎めそれぞれ届け出ること”というもので、現在東山の高橋花店に所蔵されています。


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(縦36cm×横101cmの木板の”触書”東山高橋花店所蔵)


幕末、柴野美啓が書いた「亀の尾の記」には、現在の橋場町の枯木橋辺りで12月25日から立った「大晦日市」では、雪中に小屋を建て、種々の品物が売られているなかに、仏花に供する真松を売る店も多く”おびただしき数“だったと記されているそうです。


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(現在の枯木橋辺り)
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(現在の枯木橋)

参考文献:「加賀藩史料」日置謙著・「加賀藩の入会林野」山口隆冶著・「金沢、まちの記憶五感の記憶」小林忠雄著・「金沢市史、資料編7近世5」金沢市史編さん委員会編集など


師走の金沢①“亀三代”の〆飾り

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【金沢・東山界隈】
先日、観光ボランティアガイドの仲間で正月用玄関飾りの“金沢型〆飾り”を作りました。作業中を観光のお客様に見て頂くイベントと出来上がったものを自分の家に飾るという実益も兼ねた企画です。


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4人が11月に市内のわら工芸師の越野さんに習いに行き、それを当日参加した仲間に教えるというものです。東山の“ひがし茶屋街休憩館”の「店の間」が会場なので、お客様にも屋外からも見学ができると考えたのですが、当日は、“突風”“雨”に“みぞれ”の荒れた日になりました。



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(作り方を習いながら作業中)


それでも20人近くの仲間が集まり、大変な天候にも関わらず観光客の方々も大勢見物に来て頂き、館の中の”通庭“から見てい頂きました。観光客の中に飛び入り参加もあり、金沢型の〆飾りが他の土地の家の玄関に飾られるのかと思うと、ちょっとうれしくなりました。


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(12月9日の北国新聞記事)



翌日の地元の新聞やTVにも取り上げられ、取材の記者の方には観光ボランティアガイドはお客様の案内をしているだけかと思っていたのに、こんなイベントまでやるとはねぇ~といわれ次回の開催も聞かれました。


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次回は、観光ボランティアガイド「まいどさん」の女子部の有志が、今年好評だった企画で、2回目となる金沢正月伝承遊び”「旗源平の集い」を1月に開催することが決まりました。



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会場 東山“ひがし茶屋街休憩館“
(旗源平の由来、遊び方、唱え方、そして旗源平合戦をやります。)


日時 1月27日(日)10時30分より
(観光客の方や市民の方も飛び入り参加OK)


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(ひがし茶屋街休憩館)

参加者には、お茶とお菓子のサービスがあります。

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師走の金沢②だいこん寿司”

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【金沢市内】
現代アートなど先端的な取組をしているギャラリー金沢アートグミですが、オープン以来、師走のこの時期、金沢に昔から伝わる”風習”や”しきたり“をアーチストやデザイナーの手により斬新な展示方法で「金沢しきたり展」を開催しています。今年は、”食から見る、金沢“をテーマに、企画展示、レクチャー、ワークショップを12月13日から来年の1月8日までの開催です。


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(中ぐらいの源助だいこん)


今年のワークショップは、食ということで、昔から市内の家々でこの時期漬け込まれる“だいこん寿司”を漬け込みから甘酒つくり、本漬けまで体験し、試食するというもので、近江町の消費者会館3階の調理教室で開催されたので出掛けました。


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(金沢しきたり展・金沢アートグミ)


その日は、他の用事と重なり、しばらくしかその場にいることが出来なかったのですが、道具や材料と見ていたら、母が寒い台所で“だいこん寿司”を漬け込んでいた姿が浮かんできました。


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(ワークショップ会場・近江町消費者会館3F)


ご存知の方も多いと思いますが、金沢の冬の”ごっつお(ご馳走)”に、“かぶ”と“寒ブリ”を麹で漬け込んだ「かぶら寿司」がよく知られています。これは高級魚を隠して食べるためなどともいわれた高級品で、藩政期、魚屋が歳の暮れ、お得意様に来年の通帳(かよい)を配るとき贈ったという贈答用で、昔から庶民の家で作られていたのは「だいこん寿司」でした。


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(金沢しきたり展のクイズ・甘酢に漬けるのは間違いですね)


我が家でも昔から、“源助だいこん”と“身欠にっしん”を漬け込みました。この持ちの良い発酵食品を、毎年、年中行事のように、お袋が張り切って作っていました。祖母から母へ、そして、今は妻に受け継がれていますが、手順の違いか、食材や麹の良し悪しや独自の隠し味、はたまた、それぞれの無言の自己主張なのか、微妙に味が違うような気がします。


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(金沢しきたり展会場にて)


記憶を手繰っていくと、お袋が作ったものは、大根を除けて“にっしん”だけ食べていたことが思い出されます。最近、妻の作るものは、味かよくなったのか、いや、歳のせいで食の好みが変わったのか、大根も“ばりばり”歯応えを楽しみながら食べています。


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(準備万端のワークショップ会場)

「源助だいこん」は、昭和の初め、愛知あたりから導入されたものに、在来の練馬系の大根と自然交雑し毎年選抜し続け、今から70年ぐらい前に完成されて加賀野菜です。肉質がやわらかで、煮崩れしなくて歯ざわりいいので、「だいこん寿司」の他に”おでん“”ぶり大根“”ふろふき大根”に最適だといわれています。


(藩政期はどんな大根が使われていたのでしょうか?)


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(近江町市場の店頭で、生ニシンと身欠ニシン)

「身欠にっしん」は、“ニシン”から内臓と数の子を取り1ヶ月以上、干して固めたもので、油脂の作用で腐りにくい性格があるので、幕末から明治にかけて北海道から北前船で金沢にも大量に運ばれていたそうで、保存がきくので貴重なタンパク源として重宝されていましたが、今は外国産で、我が家では「だいこん寿司」以外あまり食べません。


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(我が家の薄い大根のだいこん寿司)


我が家の“だいこん寿司”の作り方(妻からの聞き取り)
① 大根に、通常より薄く切って(通常は1,5cmぐらい)桶に並べ1段ごとに塩をまんべんなく振り積み上げ、  落とし蓋をして、大根の倍ぐらいの重石をし、4~5日涼しいところに置きます。

②”身欠にっしん”は米のとぎ汁に一晩から2晩浸して戻し、食べやすい大きさに切っておきます。

③ 麹と熱いご飯とお湯を混ぜ、炬燵の中などで1晩保温します。

④ にんじんの千切り、鷹の爪の輪切り、ゆず、昆布の千切り、大根、そして、ニシンは洗い、糠を落とし漬 け込み落し蓋をして重石をし、また涼しいところに置きます。


(1週間ぐらいが食べごろ。気温が高くなり、日が経つと酸っぱくなります。)



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(今年の金沢しきたり展のパンフレット)


金沢アートグミの「金沢しきたり展」とは
毎年、近江町市場商店街振興組合と近江町いちば館管理組合、金沢アートグミが主催で、この時期、金沢アートグミギャラリーを主会場に、金沢の人々が、後世に伝えなくてはと思う、縁起や年中行事などの“風習”や“しきたり”を企画展示、レクチャー、ワークショップで再現し、市民の参加をえて開催する企画展です。


≪過去の企画展≫
2011年11月25日(金)~12月18日(日)
「金沢のしきたり展―近江町に受け継がれる大行燈絵」


2010年12月16日(木)~2011年1月16日(日)
「金沢のしきたり展―郷土玩具と遊び」


2009年11月21日(土)~12月13日(日)
「金沢のしきたり展―婚礼にまつわる風習. 風習」


参考資料:金沢アートグミの「金沢しきたり展」のパンフレットなど

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師走の近江町はマッカッカ

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【浅野川大橋→小橋】
金沢市民の台所“近江町”の今頃は平台がマッカッカになります。鮮魚、青果、飲食、精肉、食料品、衣料など180店舗もあるのに、30店舗に満たない鮮魚店の店頭のマッカッカが、やたらに目に付きます。もちろん鮮魚店の売り場面積が大きいということもありますが、食い意地が目を輝かせるのでしょうか、とにかくあの赤には圧倒されます。


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(カニ解禁11月6日)

マッカッカとは“加能ガニ”のことで、本名はズワイガニ(楚蟹、津和井蟹)です。字引では学名 Chionoecetes opilio といい十脚目ケセンガニ科に分類されるカニで、深海に生息する大型のカニ。重要な食用種でもある。と書かれていて、字引からは、おいしさは全然伝わってきませんが、おいしさは蟹足の小口がきらきら光るお造り、ゆでがに、蒸しがに、焼きがに等など、近江町では、この時期、これ以上おいしいものはないとばかりに大声を張り上げます。


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(マッカッカの平台)


“加能ガニ”は、福井では「越前ガニ」。山陰では「松葉ガニ」と呼ばれているものと同種のものですが、石川県では、これといったブランド名がなく、「石川県産ズワイガニ」や「石川産ズワイガニ」などと呼ばれていて、ブランド名のある「越前ガニ」や「松葉ガニ」と比べると知名度が低く、全国的には、蟹そのものまでランクが落ちるように見られていました。


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(ワケアリ加能ガニ)


平成18年(2006)9月1日に石川県漁協(JFいしかわ)が発足したことを記念して「石川県産ズワイガニ」に名前を付けることになり、公募した結果1015通の応募があり、“百万石ガニ”“兼六ガニ”などの候補を抑えて「加能ガニ」が選ばれました。加賀の「加」と能登の「能」の組み合わせで、石川県全体をイメージできるということから「加能ガニ」に決定したそうです。


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(青タグの付いた「加能カニ」)


「加能ガニ」は競争力強化につなげる狙いから付けられたブランド名ですが、県民には加賀、能登!ハハ~ンなるほどとピピ~ンときますが、命名から6年目、知名度においては、現在は、なかなか対抗馬の”越前””松葉”には及びません。中身は同種で最上級品、水揚げの場所が違うだけだと聞いていますが、ブランド名の全国的な浸透には、まだまだ時間が掛かりそうです。


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(足折れのサービス品・加能ガニ)

魚場の近い能登沖から生きたまま水揚げされ、鮮度も品質も抜群の天然ガ二ですから、北陸新幹線が来る頃には、かなり浸透していることでしょう。ちなみに、平成23年(2011)3月18日に商標登録もされました。


市民が見つける金沢再発見

(どこ産のズワイガニだろう)


(北海道産、オホーツク産、ロシア産、カナダ産、韓国産、北朝鮮産のズワイガニとは値段が違うだけではなさそうです。)


市民が見つける金沢再発見

(青タグのイラスト)


「加能ガニ」の品質は、水揚げ港により橋立港、金沢港、福浦港、石川とぎ港、輪島港、蛸島港、と刻印した青のタグが付けられています。タグは船主が管理し、船主が品質に自信の持てるカニだけに付けるそうです。また、資源保護のため11月6日から3月の20日までの約5ヶ月間と短期間だけの漁獲です。


市民が見つける金沢再発見

(茹でたての香箱ガニ)


(内子が絶品の雌の「香箱ガニ」は雄の“加能カニ”より漁期が短く11月6日から1月10日までだそうです。昔は、子供の頃はオヤツ代わり、その後一時、網にかかるものだけで、獲ることが禁じられていたこともありました。)


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(カニ以外のマッカッカ)

暇に任せて、郷土贔屓から「加能ガニ」のことを書きましたが、カニは、書くより、見るより、食べるものですねェ。

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