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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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兼六園の橋①三橋

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【金沢・兼六園】
兼六園の橋は、園内及び園外金沢神社辺りに有名無名を含めると30橋近くあります。今更ですが兼六園は、高台にありながら辰巳用水を巧みに引き込み、曲水(きょくすい)や鑓水(やりみず)の楚々とした流れが池や滝に注がれ、ところどころには意匠を凝らした橋が架かり、周辺の風景ともよく馴染み四季を通して訪れる人々を楽しませてくれます。



(霞ヶ池と徽軫燈籠)


兼六園の橋といえば、公式のパンフレットの表紙を飾る徽軫燈籠(ことじとうろう)前に架かる紅橋(琴橋)が有名ですが、伝統的な日本の美として捉えられる「雪月花」を冠した三つの橋があり、昔から「兼六園の三橋」といわれ、春は花見橋、秋には月見橋、冬は雪見橋と四季の移ろいを象徴する風情を演出してくれます。




≪雪見橋≫
この橋は、文政5年(1822)に完成した竹沢御殿の御居間の庭先から七福神山ヘ架けられた橋で、卯辰山の峰々の遠景は七福神山の借景です。特に橋を介して眺める卯辰山の雪景色は格別だったらしく、別名に望雪橋とか観雪橋と言われていること、橋の脇に雪見灯篭が設えてあることからも名称の由来を窺い知ることができます。



(雪見橋)


(橋は青戸室石を2枚揃えたもので、石の長さ4,75m、幅2,24m、厚さ0,29mで、明治以前の石切橋で全国8位とか、永い間、見てきましたが気付かなかったことに、踏み石は白い御影石、橋は青の戸室石で、その対比がこの橋の見所だといいます。現在は立ち入り禁止で渡ることが出来ません。)




(七福神山と雪見燈篭)


≪月見橋≫
十三代藩主斉泰公が、眺望台と霞ヶ池の間の曲水に架けた橋で、別名玩月橋。文久3年(1863)に描かれたという絵図に載っています。しかし、その絵図では橋の様子はよく分りませんが、現在、踏み板に丸太を並べ土を敷いた土橋風の橋ですので、多分、それに近いものが架かっていたものと推測できます。



(月見橋)


(この橋は、卯辰山から登る月を見るのに適した場所から名付けたれたといわれています。横には赤松の“玩月松”と満月を表す三州型の大阪御影石で作られた園内唯一の丸みを帯びた月見燈篭が置かれています。)



(玩月松と月見灯篭)


≪花見橋≫
小立野口から入ると直ぐに擬宝珠が付けられやや斜めに架けられた木造の反り橋があります。橋の上からは、曲水が広く見渡せ、上流と下流の景色が全く異なり見ていて飽きさせませんが、春の桜はここが一番といわれていますが、桜が終わる頃には、下流の風情が一変します。曲水に群舞する杜若(かきつばた)の紫が新緑に映え、冬ともなれば、広々とした千歳台の先に唐崎の松の見事な枝ぶりに“雪吊”が施された趣深い風情が微かに目に入ります。




(擬宝珠の付いた木橋)


(橋は京の五条の大橋に似ているところから、橋の脇に弁慶の下駄の跡だという窪みのある石が置かれていて、子供の頃、真に受けて得意になって言い触らしてたのを思いだします。月見橋はそんな弁慶の時代ではなく、文久3年(1863)以降に架けられたものだそうです。)






(桜の杜若の花見橋)

(冬、唐崎の松の雪吊り)


参考資料:「兼六園を読み解く」「兼六園全史」「名勝兼六園」「兼六園物語」「兼六園の今昔」「兼六園の橋とその近傍」「金沢古蹟志」等、兼六園に関する多数の資料より.。


兼六園の橋②伝説の石橋

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【金沢・兼六園】
兼六園には、藩政期に造られた伝説の石橋があります。造られた時代はそれぞれに違いますが、使用されている石は、金沢城の石垣と同じ戸室石です。いずれも橋にまつわる言い伝えや由来、伝説が多くて、観光ボランテティアガイドとしては、伝えたい話があり過ぎて悩まされます。



(兼六園の象徴虹橋と徽軫燈籠)


≪黄門橋≫
黄門橋は、青戸室石の一枚石で造られた石橋で、一枚岩で単調にみえることから、石を二枚重ねたようなデザインが施されています。また、橋の特徴としては、普通の橋は台石の中央に程よい位置で架かっていますが、この橋は台石の端から斜めに斜角115度の反り橋で白龍湍に架かっています。シュチエーションは、急峻な渓谷を模し、兼六園の六勝でいう幽邃(ゆうすい)蒼古(そうこ)が演出され、周りの景観に溶け込むように工夫されています。


(全国の日本庭園の中では橋の長さでは4番目だそうです。長さ5,95m、幅0,99m、厚さ、0,43m)



(橋げたが一枚岩ですが二重に見えます。)

(橋げたには冬に菰を懸けます。)

「黄門橋」の橋名ですが、明治になり兼六園に明治天皇が来臨されることになり、急きょ名付けられたものらしく、古図に描かれているものには石橋(しゃくきょう)と書かれているそうで、謡曲の石橋(しゃくきょう)の能舞台をこの場所に写したものといわれています。また、謡の「石橋」は文殊菩薩の霊獣とされる獅子が舞う話で、橋のたもとには獅子の形をした獅子巌があります。



(獅子巌)


(大梁公(11代藩主治脩公)手記の安永3年(1774)5月10日の記事に、蓮池庭から揚地へ行こうとして、滝の上に上ると石橋の辺りが見え、滝の落口に獅子の自然石を見つけたことが書かれています。「・・・然所石橋の邊不図存付よく見候所、滝の場所有。落口に獅子の自然石有。其勢ひ誠に妙也。かかる名石有とは聊心付ず。・・・」と治脩公が石橋から獅子巌を見つけた時の様子です。獅子巌は、その頃何処にあったのか?滝は翠滝のことですから、そこから移築されたものか?また、この記事は獅子巌に付いて書かれたものですが、石橋が書かれていることからも、以前から石橋があったことが分ります。推定の域をでませんが5代藩主綱紀公が作庭した蓮地庭の頃から石橋がここに有ったものと思われます。)




(上から眺める黄門橋、橋下は白龍湍)

(黄門橋の看板)


「黄門橋」の黄門というのは、唐では中納言のことをいうそうで、3代藩主利常公の官名が中納言だったことから、明治になって名を付けることになり利常公が架けたものと考え「黄門橋」になったのではと伝えられています。しかし、利常公は蓮池庭の作庭に関わっていないのですから「黄門橋」というのは間違いでしょう。


(他に手取川の「黄門橋」との所縁を伝える話もありますがこれも眉唾もの・・・。)



(虹橋)


≪虹橋≫
虹橋が架けられた時期は分りませんが、天保末から弘化年間(1844~1848)に描かれたと推定される「竹沢并蓮池御庭御囲之図」には、水樋上門の竹沢御庭側に、それらしい橋が架かっています。また、竹沢御殿が、ほぼ解体されてはいるが蓮池庭と竹沢御庭の境に塀が残る安政3年(1856)に描かれた「竹沢御屋敷総絵図」にも虹橋らしき橋が描かれています。さらに文久年間(1861~1863)に描かれたという、13代藩主前田斉泰公が造営した兼六園の様子を伝える“兼六園、法眼佐々木泉玄筆”といわれる「兼六園絵巻」には徽軫燈籠の後に虹橋が描かれています。



(兼六園のパンフレット表紙、「兼六園絵巻」)


(兼六園絵巻は、今は石川県歴史博物館の所蔵ですが、それまでは「満花城の図」とよばれ、富山県城端に住んだ野村淳(号満花城)が所蔵していたもので、昔は天保の頃に描かれたものといわれていましたが、現在はもっと後の文久年間に描かれてものとされています。また、絵図には「竹沢御庭 琴柱燈下」と名付けられていて、描かれた頃は「琴柱」と書かれていたことが分ります。)


(虹橋)

(小滝に落ちる水を、琴の弦に見立てられています。)


虹橋は、別名琴橋ともいわれ、橋を琴に見立て脇にある徽軫燈籠(ことじとうろう)の足が、琴の糸を支える琴柱に似ているのでその名が付いたと伝えられていますが、明治の初め兼六園が一般開放されてから何かの理由で倒れ、燈籠の右足が折れ短く不均衡になります。それが、アンバランスの美といわれるようになり、かえって人気になり、今や兼六園のシンボルになっています。


(虹橋に座り込む外人)

(真ん中下の白い石の後ろに折れた石)


(徽軫燈籠は、兼六園シンボルという以上に、石川県や金沢市のシンボルとして有名で、書かれたものも多く、特に元兼六園事務所の所長で兼六園の研究家として著名な下郷稔氏の著書など、事実や伝説、言い伝え等々、いつかまとめてブログに書こうと思っています。)


(春、旭桜と雁行橋)


≪雁行橋(かりがねばし)≫
別名“亀甲橋”とも音読みで“がんこうばし”ともいわれています。11枚の赤戸室石を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった橋です。また「亀甲橋」というのは、石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることからで、昔は、この橋を渡ると長生きするとされていましたが、石の磨耗が著しいため、昭和44年(1969)に通行できなくなっています。



(雁行橋、西側より)

(西側にある駕籠石)


(渡ると長生きするというのは、亀は万年と喩えられていることもありますが、隠居した12代藩主斉広公が城から駕籠で竹沢御殿に御渡りに際し、雁行橋の西にある駕籠石(かごのプラットホーム)で草履を履いて雁行橋を渡るとき、長寿を願いつつ渡ったという言い伝えによるものだといわれています。)

参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著、2006,12桂書房発行・下郷稔氏のガイドツアーの資料など

ハイグレード、ハイクオリティ、ブランドイメージの金沢(こだわり)

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【金沢市】
山出氏の金沢らしさの三つ目は、「金沢はあらゆる面で、ハイグレード、ハイクオリティ、ブランドイメージ」を追い求める町だと言い、この背景として、金沢が武家社会であったこと、武家社会は格式を重んじ“いい加減”なことをゆるさない町であり、また、藩政期「天下の書府」といわれ今も学都で、美術工芸王国であることも、“いい加減”なことが出来ないことにつながっているのではおっしゃっています。



(金沢城石川門)


武家の矜持が「いい加減なこと、生半可なこと」が許されないということ、それに加えるならば、3代利常公は、時の流れから藩の政策も武力から文化へシフトし、当代一流の学者や工人が金沢に招かれ、その影響力は武家だけでなく城下の町人の間にまで広がり、その時代からすでにハイグレード、ハイクオリティが求められ、現在においても、そのことが「市民の誇り」になっているといいます。



(橋爪門と五十間長屋)


その基となったもの一つに、千利休の茶道の精神や美意識が考えられます。それを経済政策に取り入れた信長から前田利家公に受け継がれ、以後、利常公、綱紀公によりさらに洗練されます。それが代々の藩主に受け継がれ、その美意識や価値基準にこだわります。それは他の地域と一線を画したもので、造られるものはもちろん素材いたるまで、質が高く、吟味されたものだったことは残された当時の設えや作品を見ればよく分ります。




(茶室のイメージ写真)


(特に美術工芸では、後世、思想家柳宗悦が金沢の工芸は「貴族的工芸」だと言ったといわれていますが、単なる“もの”ではなく、昔からハイグレード、ハイクオリティが求められていたことが窺えます。)


((工芸のイメージ写真・茶釜)

(写真提供金沢市)


藩政期の文化は、何処の地域でも京や江戸から大名によって地方にもたされたものです。金沢も同様で前田家が加賀、能登、越中を治めるようになり、武具や城郭の建築、それに付随する装飾を造る芸術家や工人が金沢に招かれ、その技術がこの土地に定着しました。


(3代利常公や5代綱紀公の時代からは御細工所が設けられ、幕府へのカムフラージュのため武器から工芸品も造るようになり、藩は文化政策を奨励するに至り、制作される作品や製品は前田家の自家用の調度や贈答品になったといいます。)




(今も残るお屋敷)


一方で、前田家は一向一揆の後遺症から明治維新まで、惣祭など屋外で多くの人が集まることが禁じられ、人々はことある毎に上級武士の家や裕福の町人の家に集まるようになり、多くの人を招くことから、前田家出入りの職人に調度品を作らせ、料理をだし、謡の稽古をして家を訪れる人々に聴かせるなど、今風にいうとパーティ文化「お呼ばれ」が広まり、工芸への需要が広がったといわれています。





(金沢そのもの!?)

山出氏がおっしゃる“ブランドイメージ”ですが、本来、ブランドとは商品の銘柄に対して世間やお客様が抱く印象という事ですから、金沢で作られた商品やサービスを指しものということなのか、よく分りませんが、多分、昨今提唱されている地域や自治体の名称自体をブランドと考える「地域ブランド」と理解すれば、金沢は、自然環境、伝統文化、歴史の積み上げが他の地域と違い独自の個性をもつ“金沢そのもの”がブランドとしての潜在力が確立されているように思われます。


山出氏は、それらにこだわり、さらに追求することが「金沢らしさ」だとおっしゃっているのでしょう・・・。


参考文献:「金沢の気骨」を読む会報告書2014年12月発行など

恒例「まいどさんの旗源平」

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【金沢・東山】
報告が遅れてすみません。1月18日(日)ひがし茶屋街休憩館で、毎年1月の恒例行事「金沢の伝承遊び旗源平の集い」が開催されました。例年、この時期は雪と寒さから人出も少ないので、今年は観光客の多い日曜日に開催することにしました。当日はめずらしく快晴で朝から茶屋街へ行く観光客も多く、朝一番は何とドイツからのお客様でした。台湾の人も来て、お陰さまで大盛況、午後2時ごろには準備したお茶菓子が全て無くなってしまいました。



(朝の準備、ひがし茶屋街休憩館)

(最初のお客様はドイツの二人)

昔、金沢のお正月は、子供が集まると源氏と平氏に分かれ、二つのサイコロを振り、出た目で旗の取り合いをする旗源平は子供たちにとって待ちに待ったお楽しみで、子供のいる家では、どの家にも旗のセットが揃っていました。



(旗源平合戦中)


いつの頃からか廃れてしまいましたが、近年、金沢ならではのこの正月の遊びを伝承しようと公民館の行事などに取り入れられていますが、まいどさんでは、観光客と地元の人を繋ぐコミュニケーションゲームとして開催しています。



(台湾のお客様も・・・)

(お茶の準備)


まいどさんでは、旗源平を開催するにあたり、纏、旗、サイコロ、それから座布団、茣蓙、湯飲み、照明など道具や設えの準備が必要ですが、それら全ては会員が準備し、中でもそのほとんどが会員の奥田孝子さんの私物でまかなっています。彼女には、道具を提供するだけでなく、企画から当日の采配まで全てをやって戴き、我々、まいどさんの活動部会は、おんぶに抱っこといったところです。



ポスターも奥田さんの書)


廃れかけて随分経つので、纏や源平の旗は予約販売で直ぐには手に入らないらしく、立派なものなると数万円の特注だそうです。今回もお飾りとして、正面に飾りましたが、奥田さんが頼まれて行く出張開催では、そんな希少で高価ものとは知らない子供の中に、纏を振り回すものですから今はお飾りにして、ゲームは普及版を使うようになったそうです。



(布製、特注の纏と旗のセットと得点と呼び方一覧表)


以前にも書きましたが、加賀藩では、国を護るため、隠れ蓑として能や茶道、美術工芸など文化政策を前面に出し、しかし、一朝ことある時に対処出来るように、例えば、武士の足腰を鍛えるため鮎つりを武家だけのものにしたり、庶民に獅子舞の稽古と言いながら、秘かに武芸の稽古をさせたり・・・、子供の遊びの「旗源平」も、それらと同じとは言わないまでも、“そうかも”と思わせる加賀藩らしさが窺わせます。


(金沢の「旗源平」は、「治にて乱を忘れず」といわれるように子供の遊びにおいても武士の本分を忘れないという、今風にいえば「平和ボケ防止」ということなのでしょうが、先人の思いが込められた金沢ならでは正月行事です。)



(お茶のおもてなし)

数年前、北陸新幹線開通の対策についてのフォーラムか何かで、昔の金沢の遊びを広めたいといって、東京のプランナーにそんなことは枝葉末節で大した事ではないと、たしなめられました。そこで発言するのは一寸筋違いだったかも知れませんが、私たちは、この遊びを絶やしたら我々世代の責任だ!!と思っているくらい金沢の大切な文化だと思っています。



治にいて乱を忘れず―旗源平

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11458274232.html

兼六園の橋③千歳台の橋

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【金沢・兼六園】
兼六園の橋は、数えて見ると35橋。私が知らないだけなのか、名前の無い橋は19橋
もあります。今回は今まで取り上げた6橋の外、名前を知られている10橋の内、園外と千歳台の橋とこの周辺にある名前の知らない橋を紹介します。


(千歳台というのは、曲水に架かる千歳橋から名付けられたといいます。竹沢御殿造営時、4000坪におよぶ竹沢御殿の敷地でしたが、13代藩主斉泰公により、現在の形に整えられたもので、豊かな水量の霞ヶ池や巨大な明治紀念之標がある広々と明るい千歳台は、兼六園のメインステージであり、六勝の「宏大」を体感させる場所です。)



(千歳台)

兼六園の橋図・黒、赤は橋名があり、緑は橋名なし)


≪金沢神社前の神橋≫
神橋は、辰巳用水が金城池(放生池)に引かれている金沢神社の石段下に架かっています。戸室石の反り橋で、側面は一枚石を橋桁と橋板の二枚重ねに見せています。欄干は坪野石で欄干柱の頭には宝珠風に形ち造られています。橋の存在は余り目立ちませんが、歴史を感じさせる古橋で、神社の境内に相応しい雰囲気をかもし出しています。



(神橋)


(この社は、11代藩主前田治脩公が寛政6年(1794)に、現在の梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を創建されました。文政7年(1824)12代斉広公が、竹沢御殿の御鎮守竹沢御殿御鎮守天満宮としますが、幕末に一時卯辰山に遷宮されます。明治になり金沢神社として一般の人々が自由に神社を参拝できるようになったのは、明治7年(1874)5月7日、兼六園が一般公開されてからです。)


≪土橋≫
山崎山の麓、辰巳用水の取り入れ口の直ぐ下にあり、橋は曲水に対し斜めに架けられています。橋脚は水の流れに添った石の菱柱で、石の橋桁の上に丸太が並べられ土で覆われた石橋風の土橋です。架橋は文政2年(1819)から5年(1822)頃といわれています。


(土橋)


(橋の上からの景観は、山崎山周辺の六勝の一つ「蒼古」を感じさせ、春秋には、新緑、紅葉の見所の一つ。辰巳用水が山崎山の下の岩窟から抜ける様は渓流を思わせ、水分け石に当たり流れる曲水は、川幅いっぱいに流れキラキラ輝き、そのまま園内に水泉の美を運びます。)



(曲水の取り入れ口)

(水分け石と土橋)


≪明治紀念之標前の石橋≫
この橋は、明治13年(1880)に建てられた明治紀念之標の石橋で、赤戸室石の反り石を13枚揃えて架けた重厚な橋で石野某が作り、欄干(越前笏谷石)に施された龍の透かし彫りは、明治の名工福島伊之助作といわれています。



(明治紀念之標前の石橋)



(明治紀念之標右の無名の橋)

(明治紀念之標の左無名の橋)


≪板橋≫
船底板で造られた橋で、三河の八つ橋を模したという板橋です。当初のものとは姿が変わり、今は曲水の真ん中で橋を違へた違い橋になっています。春は桜が美しく、5月に杜若(かきつばた)が開花すると、曲水の両側に群生する紫の花と緑の葉が素晴らしい眺めになります。昔はこのあたりに勅使橋が架かっていたといわれています。


(5月板橋)


(勅使橋は、昔の絵図では木造の反り橋で、大正の中頃まで存在が確認されるそうで、時代は定かではありませんが、聞いた話では成巽閣で休憩あるいは泊まった勅使が、この橋を渡って兼六園を回遊したことから勅使橋といわれたとか・・・。)


(冬の板橋)

板橋の向こうの成巽閣)

≪千歳橋≫
千歳橋は、千歳台の中央にあり、兼六園の六勝の一つ「宏大」が感じられる場所に架かっています。橋は曲水をまたぎ、昔は、橋の敷石が「くずれ四半袈裟模様」といわれるものになっていたといいますが、現在は亀甲模様になっています。架橋は幕末文久の頃(1861)といわれています。



(千歳橋)


≪木橋≫
昔、ここにあった橋は何時の頃か無くなっていました。昭和44年(1969)雁行橋が渡れなくなり、観光客が渡る代替橋として架けられました。文久の頃(1861)頃の絵図には、この場所に今と同じ様式の木橋(旭橋)が架かっています。また、以前は通行が出来た唐崎の松の下の通路を松の根の保護から通行止めになっていることから、千歳台と眺望台を結ぶ唯一の橋で、何時も多くの観光客で混雑しています。




(木橋)


参考資料:「兼六園全史」「特別名勝兼六園」「兼六園の古今」等々

おもてなしと思いやりの心の金沢(優しさ)

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【金沢市】
オリンピック招致で滝川クリステルさんが「お・も・て・な・し」と間を置いていわれ、随分有名になりましたが、山出氏は「おもてなしと思いやりの心」を“金沢らしさ”の四つ目に上げています。どうも山出氏は謙虚に四番目に上げられているように思いますが、伝えるべき”金沢らしさ”といわれれば”いの一番“に上げられることなのかも知れません。お客様をお迎えするとき玄関に打つ水をし、雪が降るとお互いに道を譲り合い、人から沢山食べ物をもらったらお裾分けといって隣近所に分ける習慣が金沢に残っています。これこそが「金沢らしさ」だとおっしゃっています。


(店先に草花を活け、打ち水を・・・)


(“おもてなし“は心から歓迎する気持ちを込めて相手を丁重にということ。“思いやり”は、自分を思うのと同じように相手を思いやること。)




しかし、金沢の「おもてなし」や「思いやりの心」は、長い間、女性によるって支えられてきたように思われます。実は、金沢の男性は「おもてなし」下手です。とは言え、みんながみんな苦手という事もありませんし、今ではそうとはいえませんが、昔の金沢では、武家が重んじられ男尊女卑が強く「武士は片頬(かたほほ)」といって1年に1回、片一方の頬しか動かないというくらい、笑わない、片頬(ほほ)ですから、“皮肉な笑み”のようで、それにも増して愛想を言わない、寡黙な方が男性らしくていいと言われていたことによるものだといわれています。



(今も残る武家屋敷跡)


(金沢に限らず日本の男性は大なり小なり、その傾向があります。金沢では約半分が武家で町人の家や職人の家まで武家の真似をしていたらしく、武家以外の長男でも、家の跡を継ぎ親の老後を見るという事からか、必要以上にあんちゃん、兄ちゃんと“崇め奉る”傾向がありました。)




(金沢のおもてなしの一つのカタチ・・・)


それに引き換え、女性は大変で「おもてなし」は女性の役割と思われていて、女性は好むと好まざるに関わらず、それを埋めざるを得なかったということです。今も女性の話し言葉の中に「おもてなし言葉」が多く残っています。そんなことからも男性は、自ら「もてなす」事には多少テレもあり苦手にしていたようです。しかし、私が見てきた範囲ですが、金沢では男女とも「人を思いやる気持ち」は人一倍強い人たちで、根性悪が少ない、そんな市民性だと思います。




(金沢らしさ・・・)


今も残る金沢の女性の言葉には「おもてなしや思いやりの心」が込められた言葉が多く聞かれます。その代表的な金沢の女言葉に、他人やお客様を「お人さん」という言い回しがあります。大学の先生の解説では、人に丁寧な気持ちを表す「お」つけて、「ひと」に尊敬の「さん」をつけ、人付き合いに二重のクッションを設け柔らかな当りにしいることだそうです。


(丁寧語の「お」と尊敬語の「さん」は、他の地方にはないそうで、よその人を他人と見なくて、大切の身内のように、それが、親しみと優しさが伝わるらしい。「金沢には他人がいない」という金沢の優しい人付き合いを象徴する言葉になっているといっています。)




(おもてなし上手・・・金沢の芸妓)

他に、「ほうや、ほうや、ほうやとこといね。」と言いますが、その“ほうや”は話し相手から感動した時の言葉で、2回も言って念を押すのは、話し相手に信頼感と共感を示すもの、そして“のんびりとフワ~”としたイントネーションで語るのは、相手に不信感を持たせない温かさを感じさるそうです。




(金沢らしさのカタチ・・・)

また、狭い地域で、人付き合いがこまやかな金沢では、いろいろな支障もあり、直接的な物言いを避け、何事もえん曲な表現で、相手を傷つけない配慮から一番訴えたいことを暗示で伝えようとします。「何々・・・らしい」と柔らかく包んだ間接的で遠回しの表現は、他所から来た人には、金沢らしさの象徴のように思えるそうです。



(金沢のおもてなしの一つのカタチ)


少し本筋を外れて、多少、金沢の男性の悪口を書いてしました。弁解がましくなりますが最近の若い男性は、ビジネスやその他都会やよその地方の人達との交流が多くなるにつれ随分変り「おもてなし力」は、昔とは随分変わりました。


(しかし、昔人間としては、やさしい言葉使いにくすぐったく思うことあり、気分は悪くないのですが、反面、金沢の少し「やんちゃ」で虚勢ポイ、金沢の男言葉が消えていきそうで、寂しい気もしています。)



一寸やんちゃな金沢の男言葉)


参考文献:「金沢の気骨」を読む会報告書2014年12月発行など

兼六園の橋④その他の橋

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【金沢・兼六園】
虹橋の小滝の下(しも)から流れる鑓水(やりみず)は、やや下りながら噴水をめざし落ちていきます。水路は無名の2つの小さい橋から虎石前の歩道の下を流れ、さらに常磐ヶ岡の2つの無名の橋の下をくぐり噴水の池に注ぎます。



(噴水)

(虹橋から噴水まで)

(無名橋a)

(無名橋b)


(虎石前の無名橋c)

(無名橋e)


その鑓水は噴水から白龍湍に流れ込み、別に霞ヶ池から流れる鑓水と黄門橋の上(かみ)で一つの流れになります。流れが一本になった鑓水は緩やかに下り、無名橋の小さな二つの橋をくぐり、茶屋三芳庵の下をくぐり瓢池に注がれます。



(無名橋f)


≪汐見橋≫
現在の橋は、平成17年3月に架け替えられた板橋ですが、昔は船底板張りの飾り気の無い素朴な橋だったと聞きます。藩政期は、この橋から西方に遠くの日本海が眺められたことから汐(海)が見えたことからこの名が付いたといわれています。



(汐見橋)


(当時の町並みは家も低く、高い樹木も無かったので金石辺りが見えたのでしょう。言葉で聞くと何となく分ったような気がしますが、今は橋に立っても海は想像出来ません。)


≪日暮らしの橋≫
言い伝えによると、瓢池に架かる「日暮らしの橋」に立つと滝の水爆の饗音と景観が素晴らしく、眺めていると何時までも飽きないので、日の暮れるのも忘れる程だということからこの名が付いたといわれています。11代藩主治脩公が書いた日記「大梁公手記」の安永3年(1774)6月1日の翠滝に「今日懸かる。甚宣。凡そか程大なる滝はいまだ不見立也」と喜んだ様子が書かれているとか、日の暮れを忘れたのは治脩公だったのかも・・・?





(日暮らしの橋)


(始めは芝橋で、踏み石の幾何学的な美しい四半模様の石橋は、後に架け替えられたと聞きます。)



(兼六園の橋図)




(無名橋h・三芳庵横)


≪内橋亭≫
今の茶屋街のところに藩政期は馬場があり、5代藩主綱紀公が馬見の亭を建てたといわれています。同じところに11代藩主治脩公が馬見所を兼ねたお茶室を復活させます。馬場に面した八畳間と奥の六畳間の間に川が流れていたので、2つの部屋の間に橋を架けたこおから、家の中に橋があるということで内橋亭と呼ばれるようになったといいます。明治7年(1874)兼六園が一般開放されるようになり、現在の霞ヶ池に移されたそうです。現在は、普段、入ることができませんが、毎年5月7日に、兼六園が一般開放された記念としてお茶会が催され、その日だけは、どなたでも入ることが出来ます。


(内橋亭)

(藩政期、鯰の手水鉢があったことから、「鯰の亭」といわれたとも伝えられています。)



(瓢池、梅林辺り)


≪栄螺(さざえ)橋≫
この近くに栄螺(さざえ)山があることからこの名が付いたといわれています。橋はわずかに反った三枚並べの赤戸室石。ここには霞ヶ池の堰があり溢水(いっすい)はここから翠滝へ流しています。言い伝えによると、藩政期、一朝事あるときは、外敵から城を守るため、百間堀の水位を一挙に上げて防ぐ備える仕掛けがあったと伝えられています。堰の直ぐ前の「水落とし」と呼ばれる松材の装置が隠れていたとか・・・。しかし、霞ヶ池の水量では全て百間堀に落ちても大して水量が増えないという説もあります。




(栄螺(さざえ)橋)


≪時雨亭にある無名の橋≫
時雨亭は、平成12年(2000)に再建されたもので、藩政期は今の噴水前の茶屋のところにありました。最初の建てたのは5代藩主綱紀公で、蓮池之上御殿とか蓮池御亭などと呼ばれていました。



(無名橋s・何時も止め石が見える橋)


(止め石(とめいし)とは、日本庭園や神社仏閣において、立ち入り禁止を表示するために用いられる石。関守石(せきもりいし)や留め石、関石、極石、踏止石などともいいます。丸い石に黒い棕櫚縄を十文字に掛けたものが使用されます。)


(無名橋r・時雨亭内の橋)


詳しくは「今も昔も時雨亭辺り」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11843109350.html


≪梅林と千歳台崖下の無名の橋≫
梅林(旧長谷川邸跡)は、明治の初め2代目の金沢市長長谷川準也が邸宅を建っていたので長谷川邸跡広場と呼ばれていましたが、明治100年を記念して昭和44年(1969)に梅林や児童園が造られていました。平成12年(2000)に特別名勝の指定の条件として庭園化されました。庭園は梅だけでなく多様な樹種の木が入り下草も植えられています。(面積は約5000㎡)



(梅林の無名橋O)


(崖下の無名橋l)

(崖下の無名橋k)


参考資料:「兼六園全史」「特別名勝兼六園」「兼六園の古今」等々

方言が見えた・・・金沢アートグミ

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【金沢市】
遅れてすみません。会期が終わってからの報告です。1月30日まで武蔵ヶ辻の金沢アートグミで開催されていた「金沢しきたり展・金沢ことば」です。金沢大学の先生で言語学者の加藤和夫先生が監修され、私も多少関わらせて戴きました。



(展覧会会場)

(ビデオ)


(商品など)


“金沢ことば”を使って作られた商品や街中の広告などが集められ、先生の講演会、先生が解説書を手掛けた金沢弁がいっぱい出てくるビデオの上映など「見て、聞いて、話して、楽しめる」会場では、私も思わず口に出る金沢弁の独り言や懐かしさから知人や身内の声が聞こえてくるような気がして懐かしく思いました。


(講演の加藤和夫先生)


来場者も何時ものアートファンとは違い年配の方も多く、また、滞在時間が長いので何かあったのではと係りが見にいったこともあったとか、概してゆっくりと読んだり見たりと楽しんで行かれる人が多かったようです。



(展示されて広告など)


最近では、金沢に住む人でも金沢弁を使うのが少なくなりましたが、一方でインパクトがあり、印象が強いことから注目され、広告など様々な場面で活用され始めています。過去には、学校では標準語重視で、不器用な者には、方言がいじめの対象のなった時代もありました。




(会場内イラストいり解説)


また、長い歴史の中で、金沢と近郊で育まれた金沢弁には微妙な違いがありますが、最近では、自分があまり使っていない人に限って、それなりの金沢弁へのプライドなのか、俺のが、私のが、金沢弁だという思い込みからか、目糞、鼻糞なのに、お互いに譲らないのが金沢弁と金沢人のおかしなところです。



(会場内の展示物)


随分前になりますが、美術館のある展覧会で館内の音声ガイドに金沢弁でやろうという事になり、私が金沢弁で吹き込み実施したところ県外のお客様のアンケートでは「金沢弁まで聞けた」と概ね喜んで戴けましたが、手厳しかったのは、地元のお客様で、多くは、あんなの金沢弁ではないという声でした。


(多分、私の金沢弁は皆様のおっしゃるように、本来の金沢弁ではないのでしょう。東京に出た時も自分なりに金沢弁で通した積もりでもコミュ二ケーションですから知らないうちに変ったのでしょう。それより何より学校での標準語や近郊育ちの母親の言葉が底にあるのでしょう。正当の金沢弁を話す方には不愉快でしょうが、でも、私は今、金沢弁丸出しやということになっています。)


(金沢弁の新聞漫画)

私の金沢弁のルーツは、母の言葉に尽きると思います。母は普段、穏やかな金沢弁でしたが、直情型の母は、怒り出すとお里が知れるというか、川筋育ちの荒っぽい言葉が飛び出しました。ある時、叱られ母は鬼のような顔になり、私はヤバイと思い、絶対に追いかけてこないと思い、少し離れた電車通りへ逃げ出し後を振り返ると箒を持って追いかけてきました。


(会場の金沢弁の字)


一部始終を見ていた幼馴染によると、母は「おどれそのその」といって追っかけていたといいます。そのように言ったかどうかは、私には知る由もありませんが、以後、何年も彼には「おどれそのその」とからかわれましたが、これも金沢弁だったのでしょうか・・・。


また、今も「やくちゃもないわいね」とか「おとろっしゃ」という金沢弁を聞くたびに母が思い出されます。


金沢人気質(かたぎ)①

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7、8年前、お客様から、金沢人気質(かたぎ)というか金沢人らしさ?について聞かれ、まったく考えていなかったので、不意をつかれシドロモドロ、何を言ったのか覚えていませんが、まともにお応え出来なかったことは確かです。





(金沢遠景・鈴見山辺り)

それが3年ばかり前、今度は「金沢人」について話せとことになり、資料を集め多少は自分の思いも入れ、一時間ぐらい話したことがありました。当時、今もそうですが、付け焼刃で自信がないものですから、「これから話すことは「ほんま」かどうか分かりませんが、わしのような田舎者は身近な事は過少評価するし、偉い人のいう事を鵜呑みにしてしまうし、また、自虐的なところもあったりしますので、大分差し引いて聞いていただければ・・・」と逃げを打ちながら話した記憶があります。



(旧観音町辺り)


最近「金沢らしさ」について思いを巡らしていて、その頃の原稿を読み返し、少し加筆しまとめてみましたが、前のものと同じく「ほんま」かどうか分らない自信のない記述になりました。時間がお有りでしたら暇つぶしに読んでいただければ幸いです。



(浅野川梅の橋辺り)


生粋の金沢人!?一般的な印象として、ガイドブック等にも書がれているように「天から謡が降ってくる町」の住人で、いわゆる文化度が高く、心に余裕があり、のんびりした気質で、北陸人としては社交的で教養もあって穏やかな性格だということになります。



(犀川蛤坂辺り)


誰が聞いても、綺麗ごとや~。表向きや~。といわれそうで、また、金沢の宣伝用に書かれたものの「まんま」や~。ということになりそうですが、まんざら外れているとも思へません。これを、言い方を変えて言うと、もっと分かりやすくなるから不思議です。

「金沢人は、侍の真似をして、職人まで、意味も分からん謡をうなり、閑人で俳句やら骨董をもてあそび、地元のことしか見えなくて、見栄っ張りで、横着で、北陸人としてはお調子者、役にも立たんことばかり良く知っているが、ハッキリ物を言わない、のんびり屋のノンキ者」と一寸言い過ぎかも・・・。


(お能「杜若」の像)


これは昔話や、少し極端やと言われそうです。多くの金沢人からは非難轟々でしょう。反論も有ると思います。しかし、私にはこの表裏はまんざれではないなと思うこともあります。なぜなら多分に自分だからです。


それも昔のとか、年寄りの金沢人とばかりとはいえないのではと思います。若い人は、今は、地方でも都会と同じテレビを見て、同じ教科書で学びます。また、若い時は、人にもよりますが、昔も今も親の言うことを聞かないし、親の反対ばかりしますが、それでも潜在的には、そんな家庭や環境で育つので、当然、その気質や気分は、今は表面には出ていませんが、若者の中にも潜んでいるように感じることもあります。



(しばらく前の下新町辺り)


話しは変わりますが、こんな話もあります。作家の泉鏡花は、母親が江戸生まれで、本人は金沢生まれで故郷でありながら、金沢人のことを「加賀ッポは、はなはだ好かない」といっています。


「百万石だぞといった偉がりが、今日でも、その性格の奥に閃(ひらめ)いているのが、何より面白くない」




(泉鏡花)


母親にも父親にも先立たれて、金沢には余りいい思い出がなかったそうですが、こんなことが何かに書いてありました。


なんとも対抗心が強い鏡花らしい話で、金沢人のもつ傲慢さが伝わってきそうな話です。金沢人にはそのような一面もあることは確かです。


(つづく)

金沢人気質(かたぎ)②

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【金沢】
金沢人に対して耳障りのいいことだけ並べると、基本的に真面目。そして、穏やかで、引っ込み思案で欲がなく、加賀百万石時代のなごりか“あくせく”しなくて表面的には温和。プライベートでの文化芸術的活動の時間を大事にします。そして同郷意識や学問意識が旺盛で、市民同士は互いに助けあう美点がある・・・。となります。


(金沢・長町)

今回は、今も語り継がれている“諺“や“言い伝え“から金沢人を引っ張り出してみます。


「越中強盗、加賀は乞食、越前詐欺、能登はやさしや人殺し」
いずれも生活力の豊かさを皮肉った言葉で、根本的には、古くから北陸に住む真宗系信徒のねばり強さを言い、各々の土地の気質からくる追い込まれた時の行動を喩えたものですが、越中、越前、能登は、「獲る」ですが、加賀は「貰う」です。これも「お殿様依存症、百万石気分」なのでしょう。



(能登・千枚田)

(越前・東尋坊)


「近江1000両、加賀100両」
加賀の人は欲が無い、近江商人は1000両求めても、加賀の人は100両でも充分満足という。



(琵琶湖畔)


「隣が貧乏すりゃガンの味がする」 (人の貧乏は蜜の味)
隣の家の貧乏は、雁の肉を味わうように快い。他人の不幸は自分の優越感を満足させるものです。(金沢だけで言われている分けではありませんが、金沢ではよく使い、昔、金沢を題材にした映画「地上」で、俳優殿山泰司が言っていたのが思い出されます。


「行けたら、行くわ」
金沢人は、はっきり物を言わない、これは、欠席の返事で~す。


「金沢時間」
決まった時間に物事が始まらない。どうせみんな遅れるから、と自分もゆっくりいく。(地方ではとこでもいうそうですが、今は少なくなりました。)


(待ち合わせ)


「金沢には嫁にやるな、越中から嫁もらえ」
越中(富山県)では昔から「金沢には嫁にやるな」と言う、金沢は硬直した閉鎖社会で、富山人を“越中さ”といい人を人とも思わないような扱いをすることがあるとか・・・。
金沢では「嫁は越中から貰え」という、富山の女性は働き者だということだそうです。


「顔はねんごろ、銭は仇(かたき)」
懇意にしていても、金銭の貸借はこじれると、すぐに敵になる・・・。


「金沢の人に差し上げられるようなお菓子はありません」
「金沢の人に見せられるようなものは何もございません」
何を見ても文句ばかり言って「やっぱり金沢が一番やわいネ」と相手をけなしてばかりの人には、そう言ってあしらうしかないということ。金沢人に対する皮肉ですが、真に受けて、その喩えに「だから金沢のお菓子は素晴らしい」と自慢げに新聞に投稿した金沢の年寄がいたとか・・・。


(金沢五色生菓子)


出るは、出るは・・・私が言っているのではなくて、聞いた話を採集した結果です。まだまだありますが、今日はこれまで!!


(つづく)

金沢人気質(かたぎ)③

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【金沢】
金沢の昔話を採集中に読んだ話ですが、他所からきた商人の話として「金沢人は、回りくどくて、何を言っているのかよく分からん」と言うのがありました。”お茶を飲みながら、天気の話から始まり、世間話をひとしきりしてからでないと、商談に入れないというのが原則“だったといいます。


(商人は、慎重で、石橋を叩いて、ゆっくり進める。渡らないこともあるとか・・・。)


(金沢の老舗の座敷)

そんな話や言い伝えなど、聞いた話や読んだ話ですが、その中で、私が金沢人らしいと思える幾つかを、誤解を恐れず?書き上げます。



(現存する昔の商家建物)


「波風立てない」
金沢の人は”嫌いと“ハッキリ言わなくて「好きじゃない」はまぁいいとしても「好きくない」と変な言い方をする人がいます。それでも波風はたちますがネ・・・。


「プライドが高く、本音を隠す」
顔は笑っていても、お腹の中は拒否していることもあります。その見分けは結構難しい・・・。



(金沢市内遠望1)


「見栄っ張り」
お金など財産ですが、持っていても、持っていない顔をする富山人。持っていなくても、持っているような顔をするのが金沢人だといわれています。


「消極的で革新を好まないが・・・」
自分たちが何かをするのではなく、上が何かをやってくれると自分たちが潤うという姿勢で、お手並み拝見と腕を組む。革新は好まれず、横着、いや保守的なのでしょう・・・。



(金沢市内遠望2)


「閉鎖的で排他的」
地域住民の連携は強い、それが閉鎖性に直結しているのか「世間体を気にする。会った時の外面(そとずら)はいいが、陰でコソコソと他人の悪口を言うのは好き」らしい、何時も面と向かっては論評しない・・・。


などなど、しかし、これらは金沢人だけの特徴とは言えないのかも・・・。



(五木寛之氏)


それから、以前にも書きましたが、金沢を象徴するような話として、五木寛之氏のエッセイにこんなのが有りました。要約すると、茶碗はお茶を飲むため、菓子も今川焼か追分だんごが一番うまいと思っていたが、金沢に住んでからは、茶碗も菓子も見るもの接するも一つ一つが、気になって仕方がなくなって、「金沢はいつの間にか、私を思いがけない地点まで、引きずり込んでしまった」といっています。



(主計町暗がり坂)


そして「金沢には、もし10年暮らしたら、自分は二度と金沢から離れない思い」
怖くなって金沢から逃げるために横浜にいくことにした。と言うようなことが書かれています。

また、知人から聞いた話にこんなのが有ります。「金沢は、ぬるま湯で動く気にならないくらい、居心地が良くて・・・嵌ってしまった。」と言うのです。



(五木氏が命名したあかり坂上)


そんなに「恐っそろしい!!」ところではないがやけどネ・・・。


浅の川暮色の文学碑
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10791946378.html


(つづく)

参考文献:五木寛之著「五木寛之ブックマガジン秋号」 KKベストセラーズ 2005年11月8日

金沢人気質(かたぎ)④

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【金沢】
「金沢人気質」では、聞いたり読んだ話を長々と書き連ねてしまいました。今回で終わります。一言多かったかも?多少、反省しています。これも私の郷土愛の発露が書かせてもので、言い訳ですが、けっして金沢人を虚仮にしているもので、恨みがある訳でもありません。誤解のないよう願うのみです。


(このような「金沢人気質」には、要因というか、原因と思われる幾つかについて、最後に、またまた聞いたり読んだ話を書き連ねます。)



(金沢らしい?兼六園の暮色・・・)


≪一向一揆「負け犬根性」≫
「百姓の持ちたる国」という栄光?の反面、根絶やしを目指した信長の過酷な殺戮から生き残るためには、多くの門徒が逃げたり寝返ったり密告者となったと伝えられています。その生き残りの民衆が金沢の町に定着し、現在、金沢に住む多くの人は、こうして生き残った子孫だという話です。親から子へ、子から孫へ言い伝えられた教えからか「権力に弱い」とか「排他的」と言われています。確かに家が真宗大谷派という家が多く、我が家も、今は家の宗派というだけで信者とは言えませんが、私にも多くの影響を感じます。



(真宗寺院)


≪加賀百万石「殿様依存性と百万石気分」≫
今、金沢人というのは、明治以後、近郷から流入した人の子孫や能登や富山県から移し住んだ人が多いのですが、それでも人々は、百万石を背負っているように見えます。「郷に入りては郷に従え」のことわざにもあるように、地元に合わせたほうが生きやすいというか、合わせて乗っている内に百万石気分が、移ってしまったのかもしれません。それにしても、おかしな話で、散々搾取された近隣の百姓の子孫たちが「百万石」を誇るのはちょっとどうかと思います。



(百万石のお城)


私たちが若い頃は、金沢の枕言葉は「百万石の金沢」より「森の都金沢」と言われたものです。「森の都」は仙台と言われるようになってしまってからは、トンと聞かなくなり、私など、近隣の百姓の子孫としては、時には、何とも歯がゆい思いをしながら、観光ボランティアガイド「まいどさん」として「百万石の金沢」を自慢げに語っています。



(森の都)


≪幕末の出遅れ「自国の事しか関心がない」≫
イギリスの外交官アーネストサトウの見た幕末の石川に”彼ら(加賀藩士)は大君の政府は勿論存置せしむべきであって、薩摩や長州は他の諸藩と提携して、全然これを廃止すべしと言っているようだが、それはよろしくない、しかし同時に、大君の政府の権力に対しては当然制限を加える必要があるだろうと述べた。””彼(加賀藩士)らは、私のパンフレットを読んでいて、あの説には全く同感だといった。そう言われて見ると、私たちとしても加賀藩の意見には完全に同意であると答える以外はなかった。”と・・・。


(金沢・犀川辺り・・・)


そして、”加賀藩は政治思想の中心地からかなり遠ざかっているので、南西諸藩の抱負を認めてそれに共鳴するということはできなかったのだ。””彼らは、日本中でも無知と非文明の本場だと常に思われてきた北部の海岸地帯に、孤立の状態で置かれていたのである。”と書かれています。


したがって、”自藩の事にしか関心をもっていなかった。加賀の大名(前田慶寧)の有する土地は、他のいずれの藩主の領土よりもはるかに大きな歳入があると見られている。そのため、加賀藩は世間一般からその貫禄を認められており、自らもそれに満足していた。したがって、日本の政治組織の変革なぞは加賀藩にとっては殆ど益するところがなく、心の底では政治の現状維持で満足していたのである。”とあります。



(金沢・浅野川辺り)


≪北陸の気候「湿潤な気候―穏やかの気質と陰湿な性格」≫
11月中旬から3月中旬まで、空は厚い鉛色の雲に覆われ、近年、雪も少ないものの1・2月は、まだ雪に閉じ込められがち、年中「弁当は忘れても傘は忘れるな」と言われるように、高温多湿で雨の多い土地柄のためか、人は消極的で他人から言われて初めて行動に移る性格に繋がっているように思われます。


(金沢の鉛色の空)


反面、その湿潤な気侯が、穏やかな金沢人気質に大きく影響しているようで、その為か、あまり派手なことを好まず、どちらかというと、内に秘めるタイプが多いように思われます。湿潤な気候は、陰湿な性格も育むのではないかと思わせることから誤解されることが多いのでは・・・。



(金沢の雪)


≪明治期の衰退「因循姑息、暢気、保守的」≫
明治18年の記録や新聞には、金沢の人口の10分の1が、その日の暮しにも差し支える貧民だったと伝えて「零落困頓(こんとん)して、零落其極に達し、金沢の衰微年一年より甚だしきを加える」とあります。また、“百万石気分”がはびこる市民性の改善が金沢発展の鍵とも言われ、当時の市民の多くは性格がのんびりしていて、古い習慣や方法に従い改めようとせず、その場しのぎでぐずぐずしていて積極的になれない、それで当時の金沢のリーダー達は、市民の郷土愛を煽り、かってのような大金沢をめざそうとするが、市民は大金沢を望まず期待もしていなかったという。



(金沢城の橋爪門続櫓)


昔の資料を読みながら、書きながら、”う~ん、アルアル”。一部ですが、自分のことを言われているような気がしてきました。


これで、「金沢人気質(かたぎ)」は終わります。

夕顔亭①

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【金沢・兼六園】
夕顔亭は、瓢池の東岸にある翠滝と相対して建つ数寄をこらした茶席です。11代藩主治脩公の「大梁公日記」に新しい御亭のことを瓢池に浮ぶ島の中に建てられていることから「蓮池中嶋の亭」「中嶋の亭」と書かれているそうですが、当時の絵図を見ると蓮池の中の二つの島の一つに描かれている滝見御亭が今の夕顔亭だといいます。



(夕顔亭の全景)

(夕顔亭からの眺め、秋の瓢池と翠滝)


翠滝の1ヶ月遅れの安永3年(1774)7月朔日に建てられたもので、今も創建当時の場所に、昔のまま形で残る園内唯一の建物です。もとは池に浮かぶ島に建てられていましたが、明治に入って一部埋め立てられ、現在は陸続きになっています。


(夕顔亭平面図)


古田織部好みの茶室といわれる三畳台目、中柱出炉、下座床、大名の茶室らしい相伴席をもつ形式で、雲雀棚という二段になった釣棚をもち、控えの間と水屋、給仕の間との四室で約12坪(40㎡)、京都藪内家に伝わる茶室「燕庵(えんなん)」とほぼ同じであることから、その写しともいわれています。


(茶室)

燕庵との違いは、小間の茶室の特徴である躙口(にじりぐち)がなく、障子2枚の貴人口がついています。床の前に八寸一分(約27cm)の板があり、三畳がやや広くなっています。また、小間でありながら翠滝の景観を楽しむ開放的な茶室です。


(小間は外界との遮断を特性としますが、夕顔亭では、新緑や紅葉を愛で、翠滝の音を聴くという全く反対の趣向が際立っています。)



(夕顔の透彫りの壁)


夕顔亭の名は、待合の床の袖壁に夕顔(瓢箪の古語)の透彫りがあることからといわれ、今は「夕顔亭」に定着しています。治脩公によって建てられて以来、「中嶋の茶屋」「滝見の御亭」「夕顔御亭」「瓢々庵」「観瀑亭」など10余の呼名で呼ばれていました。


(夕顔の透彫りは、壁のデザインですが、床に懸けられた墨跡を見るための明かり窓の役割を持っているのだといいます。昭和44年(1969)からの復元修理においても、ここだけは朱壁の塗り替えず、昔の色を残したといいます。)



(茅葺の屋根と杮葺の庇)

(貴賓口)


昭和44年(1969)秋から徹底的な解体復元修理が施行されます。宝球形茅(かや)葺屋根を二つ入れ違いにならべ、正面と西側にかけて杮(こけら)葺きの深い庇と、東側面から背面にかけて同じ杮葺きの下屋をもうけ、さりげない茅葺のただずまいが翠滝など周囲の風景と相まって四季折々、兼六園を代表する美しさを醸し出しています。


(茅葺と杮葺の庇に枯れたカシワが・・・)

(瓢池辺り)

(余談:平成16年(2004)2月の北国新聞に、35年ぶりに茅葺屋根の葺き替えが行われることになり、、県は補修費2500万円の予算が計上されたという記事が載っていました。)


(つづく)


参考文献:「名勝兼六園」文新保千代子昭和46年(株)北国出版社発行・「兼六園全史」昭和51年兼六園観光協会発行・「兼六園の今昔」下郷稔著平成11年中日新聞発行・「兼六園を読み解く」長山直治著桂書房平成18年発行など

夕顔亭②露地

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【金沢・兼六園】
夕顔亭露地にある立ち蹲(つくばい)の伯牙断琴の手水鉢「(はくがだんきんのちょうずばち)」は、金沢の坪野で産出される黒い石で造られていて高さは45cm、直径85cm。下に敷かれている四角の白い石は御影石で黒と白の対比が印象的です。また役石は能登産の木の葉石といわれる珍しい化石です。


(役石とは、日本庭園の飛び石や石組みで,修景・機能などの面から要所に約束事として据えられる石です。また、木の葉石は、多数の木の葉の化石を含んでいる堆積岩です。)



(伯牙断琴の手水鉢と露地)

(黄土色の石は、役石の木の葉石)


伯牙断琴の手水鉢の作者は、5代藩主前田綱紀公が寛文年間(1661~1672)に京都から招聘した名金工下後藤家9代程乗です。「東北遊記」という文書によると、綱紀公が程乗に彫刻の材料を問うと「私は金工家ですから、彫る材料は金属に限ります。」を答えたところ「それは不自由なことだ!!」と皮肉をいわれ、発奮して石に挑んだ作と伝えられています。


(5代綱紀公の時代、金工の後藤家は、江戸に上後藤家、京には下後藤家があり、上と下の後藤家が交代で加賀に来て前田家に仕えました。)



(意気消沈した伯牙の姿が浮き彫りされた手水鉢)


この手水鉢は、人の意表を付く型破りの大きさですが、露地としての侘びの風情を失わず、今も見るものに強い印象と存在感が伝わってきます。


(「伯牙断琴」とは中国の古い歴史書「蒙求(もうきゅう)」の故事「伯牙絶絃」がモデルで、“琴の名手伯牙には鍾子期というよき理解者がいましたが、鍾子期が亡くなったため、伯牙は終世琴を弾かなかったという話”で、手水鉢には、絃を絶ち琴を枕にして伏し、意気消沈した伯牙の姿が浮き彫りにされています。)





(夕顔亭の露地)


余談:利常公が箱書きをしたといわれる中国製の青銅製「伯牙断琴」の筆架が、石川県の鶴来で発見されたと、平成11年発行の「兼六園の今昔」に書かれています。夕顔亭の図柄に瓜二つのところから程乗が利常公の蒐集した青銅製「伯牙断琴」を手本にしたのではと・・・?はたして・・・。



(景石とカシワの枯れた葉)

奥の露地にある景石の近くにカシワが植えられています。落葉樹ですが、葉が枯れても新芽が出るまで落ちないといわれていて、葉が枯れても死なないということから、生命力の象徴として、前田家が跡目相続を祈念して子々孫々繁栄を願って植えられたといわれています。


(景石とは、日本庭園で、風致を添えるためにところどころに置かれている石。捨て石。)




(椎の古木と井筒)


露地の真ん中辺りにある椎の古木の下に井筒があり、そこから落ちる水は手水鉢への補給にも使われ、雅趣に富んだおもしろい風情を醸しだしています。


(つづく)


参考文献:「名勝兼六園」文新保千代子昭和46年(株)北国出版社発行・「兼六園全史」昭和51年兼六園観光協会発行・「兼六園の今昔」下郷稔著平成11年中日新聞発行・「兼六園を読み解く」長山直治著桂書房平成18年発行など

夕顔亭③竹根石手水鉢

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【金沢・兼六園】
貴人口側に「竹根石手水鉢」があります。小間の茶室の露地に用いられる蹲(つくばい)の形態をしていますが、役石の配石がなく、茶室の約束事とは異なることから竹根の化石として、景趣のため据えられたようです。しかも出自は幕末に活躍した粟ヶ崎の豪商銭屋五兵衛が南方から持ってきて前田家に献上したものだと伝えられていました。



(露地の竹根手水鉢)


高さ65cm、直径42cm、厚さが5~8cm。中央が空洞で水が貯められようになっています。昔から太い竹の化石だといわれてきましたが、昭和27年(1952)大学の先生が、この破片を見て持ち帰り分析したところ現在は死滅した南方産の古代ヤシ類の化石だということが分りました。



(竹根石手水鉢の解説)


約1億3千万年前のものだとかで同種のものは米国に1個あるだけで、学術上非常に珍しいということから旧藩主の姓と先生の姓をとり「バルモキシロン・マエダ・オグラ」の学名がつけられ一躍有名になりました。因みに和名は「マエダヤシ」です。



(雪が残る夕顔亭)

(夕顔亭の全景)

翌年、浅野川でヤシの化石が見つかり「マエダヤシ」とは同属で別種の「バルモキシロン・カガエンセ(和名カガヤシ)」として論文発表されています。


(竹根石手水鉢)

平成元年(1989)犀川上流に分布する医王山層(中新統:約1700万年前)の中から「マエダヤシ」が見つかったため、ほかの標本も同じ地層から洗い出されたと考えられるようになりました。そのことから当時の金沢一帯は熱帯に近い気候でヤシの木が生えていたことが分りました。


(夕顔亭の右側・石根手水鉢)


(金石の銭谷五兵衛の銅像)


渡来説も銭屋五兵衛の話もその調査研究で怪しくなり、歴史ロマンは吹っ飛んでしまいましたが、ヤシの木の化石は今でも数例しかなく極めて希少な化石であることが分り、観光ボランティアガイドとしては、ヤシの化石であることは勿論、少し怪しい伝説も話しのネタとして伝えていかねばならないと思っています。



(貴賓口の近くにある竹根手水鉢)


それにしても、随分前にヤシの木の化石という事が判明したのに、今でも「竹根石手水鉢」と言い張っているのが“ガッテン”がいきませんネ・・・。


(秋の瓢池から左端の夕顔亭が・・・)


参考文献:「兼六園全史」昭和51年兼六園観光協会発行・「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」北国新聞平成26年11月発行など



日本三名園①「兼六園」

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【金沢・兼六園】
日本三名園とは、優れた景勝を持つ日本の三つの大名庭園を指しています。金沢の「兼六園」岡山の「後楽園」水戸の「偕楽園」をいいますが、数ある日本の庭園から何故、また、どのようにして、この地方の三つの大名庭園が選ばれたのか、その選定基準はよく分らないので調べることにしました。


(

栄螺山)さざえやま


明治43年(1910)の文部省から発行された「高等小学校読本」の教科書、目録第六課公園に「水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ガ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ、高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ此ノ三公園二優レリ。」とありました。


(その教科書の口絵の写真は、三公園と栗林公園が載っています。教科書では公園と呼ばれていますが、その後、公園として造成された公園が各地に誕生し、昔の大名庭園が公園のイメージと反することから“名園”という呼称が用いられ、現在は「日本三名園」と呼ばれています。)



(唐崎の松と霞ヶ池)


明治の庭園史家小沢圭次郎氏は「明治庭園記」に、偕楽園、兼六園、後楽園を日本の三公園と称することに疑問を投げかけ、兼六園については「固より論無し」と述べ、他は栗林公園には及ばないというようなことが書かれています。


(固より論無し:もとより言うまでもない)



(徽軫灯籠)ことじとうろう


小沢氏の話も含め調べた範囲ですが、明治のある時点から三公園の表現が出てきたもので、「三公園」という名称が生まれたのは皇室と深く関わっているのではないかという説があります。それによると、事の始めは明治18年(1885)明治天皇が関西視察の折、後楽園に立ち寄られ「夜も見たい」と言ったのに反応した東京の記者団が、後楽園のことを大々的に報道した事にあるらしい・・・。




(曲水)


このことが後楽園を一躍有名にし全国に広まります。明治24年(1891)には岡山への鉄道の延伸もあり、後楽園の見学者も増大します。ならば皇室に関わりのある公園はという事になり、明治11年(1878)、明治天皇が北陸御巡幸で金沢の兼六園を御視察され、水戸の偕楽園には明治23年(1890)昭憲皇太后が行啓されていることから三公園といわれるようなったものと思われます。


(因みに、明治天皇は明治5年(1872)に同じ香川の丸亀に御視察していますが、栗林公園には行幸されていません。)



(霞ヶ池)


別の資料によると「三公園」という名称は、明治20年代前半には、すでに使用されていたという記述があるらしい、また、明治43年教科書の出る前の明治37年(1904)に、外国人向けに発行された写真集にも使われているそうです。




(雁行橋と木橋)

それは外国人向け観光PRで、正式な手続きにもとづいたものかは疑問ですが、この時代、全てが国策ですから、暫定であったとしても、誰かがそれなりの基準を設けて格付けされたものと思われます。


(その他知りえた範囲で、三名園の基準は、当事者やマスコミなどの「・・・といわれている」という表現はありますが、公的、客観的な選定根拠は見当たりません。)



(秋の霞ヶ池)


(つづく)


参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房2006年12月発行ほか

日本三名園②何故三園なの・・・。

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【金沢・兼六園】
明治44年(1911)明治の文豪田山花袋が博文館発行「新撰名勝地誌 巻六」の兼六園の紹介記事に「即ち是レ高松ノ栗林園、岡山ノ後楽園ト共ニ、本邦三大公園ト称セラレタル公園ナリ・・・」と紀行文に載せています。ここでは水戸の偕楽園を外し高松の栗林公園を組み入れています。


(各地では、ご当地贔屓から、熊本では「水前寺公園」、鹿児島は「磯庭園」などを組み入れるケースもあったそうです。また、その反対で、“近県憎し”が働いて外すというもあったかもしれませんネ。関係が有るかどうかは分りませんが、田山花袋は水戸のある茨城県の隣の群馬県館林出身です。)



(兼六園霞ヶ池から内橋亭)


それにしても、日本を代表するような立派な庭園は、京都・東京をはじめ全国にも数多くありますが、何故大名庭園なのかですが、聞くところでは、明治3年(1870)水戸藩の江戸上屋敷の大名庭園(現小石川後楽園)に、明治天皇の行幸や皇族の行啓があり、西欧人の観覧者も多くなり、西欧にも日本の名園として知られるようになったことに因るのではという説があります。



(夏の霞ヶ池)

(秋の霞ヶ池)


明治政府が、このように西欧人が好み、賞賛される庭園は、日本の文化発信に有効であるとして、水戸藩の上屋敷の庭園のような大名庭園を選定したのだというもっともらしい話が伝わっています。選定したのは強圧的で発言力がある薩長閥のさる人物だとか・・・。


(こんな話もあります。三名園は水戸藩最後の藩主徳川昭武の意向が強く反映したといわれていて、水戸藩「後楽園」の名の継承を岡山の後楽園(元御後園)に委ねたのも昭武だとか、また、昭武はパリ万博(1867)に将軍慶喜の名代として赴き、日本庭園を紹介しているという話が伝わっています。)


(瓢池の観光客)

何故「三名園」というのでしょうか、優れているという栗林公園も入れて「四名園」ではいけないのでしょうか?


疑問ついでに、日本人は、「三」が好きだということについて調べてみました。調べてみると“三何何”の大部分は歴史的、史料的な根拠はないということらしい。全国的に有名な名所・旧跡を2カ所取り上げ、そこに地域の名所を加えることによって権威付けしよとしたのだとか、何でも日本人は三つを一くくりにするのが好きだとか、話す時は3つに絞ってしゃべると理解してもらいやすいともいわれているそうです。


(桂坂口)


また、日本では名所旧跡だけでなく「三羽烏」「三巨頭」「三本柱」とか、はたまた「早起きは三文の得」、「石の上にも三年」、「三度目の正直」など「三」の付く諺や言い方が多いようです。


(「四」は死につながるといわれているので、日本人には無理かも・・・。)


(金城霊澤)

≪こんな説もありました。≫
陰陽思想で奇数が陽、偶数が陰で、奇数を陽数として尊び偶数を陰数として嫌うことから、 三三九度や七五三といったおめでたい儀式に奇数をつかっています。また、三は「満つ」や「充つ」に通じる非常におめでたい数だとする説、一や二は点や線でしかないが三になると、始めて面が完成する、だから三が好きなのだろう・・・とか・・・。


暇つぶしとは言え、また、どうでもいい話を書いてしまいました。すみません。



参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房2006年12月発行ほか

瓢池と翠滝

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【金沢・兼六園】
瓢池は、兼六園で最も古い時代に作庭された蓮池庭(れんちてい)にあります。池の中には不老長寿の島神仙島をかたどった二つの島と岩島があります。一番大きな夕顔亭が建つ中島は橋や料理屋が建っていて陸続のよう見えますが、今もれっきとした島になっています。


(神仙島は、秦の始皇帝の神仙蓬莱思想の故事に倣ったものらしく、渤海に浮ぶ蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)という三神山に因むものといわれ、蓬莱は夕顔亭のある中島、方丈は海石塔のある亀島、瀛州(えいしゅう)は松が鶴の羽のように植えられた岩島ということになりますが、昔の絵図には岩島がなく、近代に入ってから作られたものと思われます。)



(秋の瓢池①)


瓢池は、蓮池門を入って右手に広がり、東西90m、南北45m、周囲約270mで、兼六園の4つの池のうち霞ヶ池に次いで2番目に広く、池の中程が少しくびれて、瓢箪のような形をしているとかで(余りくびれていない)名前が付けられたといわれていますが、他説では、池に浮ぶ島の姿からというのもあります。



(秋の瓢池②)


そもそもは延宝4年(1676)に5代藩主前田綱紀公が作事所跡に蓮池御亭(現在の噴水前)と称する別荘を建て、その周辺を蓮池庭としたところから始まり、後に11代藩主治脩公が、庭内にあった中島の泉水(瓢池)の七瀬滝を翠滝に、滝見の御亭(夕顔亭)を再整備し、現在のようになったといわれています。中島の泉水(瓢池)は治脩公が藩主になると、ここで鳥の捕獲を目指していたらしく、仮設の寄せや垣を作り小屋を設けていたそうです。後、寛政の頃に描かれて絵図には、御舟小屋もあり舟遊びも行われていたのでしょう。


(日暮し橋と翠滝)

夕顔亭のある中島から日暮し橋を渡ると亀島です。島には六重の「海石塔」があります。灯篭は奇数が約束事ですが、この塔は六重で珍しい灯篭です。藩政初期3代藩主利常公が造らせたものといわれ、玉泉院丸庭園にあった十三層石塔の一部を移したものだといわれています。



(海石塔)


近年、研究者の調査で、利常公が小松城に半分の七重の塔を据え、明治になりその七重の塔が能美市寺井の奥野八幡神社に移されたことが分ったそうです。


(また、朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち帰ったものを後に豊臣秀吉が、前田利家公に贈ったという説もありますが、灯篭の石材の全てが地元産(青戸室、坪野石等)という事が分りました。となると眉唾などどころか真っ赤っ赤の嘘のようです。)



(海石塔と枝垂れ桜)


海石塔の傍らには名物の一つ枝垂桜があります。かっては春には美しい花を咲かせていました。台風で倒木し、幹の一部が残り、今も春になると数本の枝に花が咲き、かっての妖艶な美しさはありませんが、健気に命を燃やし儚く侘しい風情を醸し出してくれます。


(島には亀の形をした大きな石や島の側面には亀が首を出しているような亀頭の形をした石が幾つか見え、隣の鶴を模した松のある岩島と対になり“鶴亀”を並べ不老長寿を願ったのでしょう。)


(亀島の亀石)

(亀頭のような石)


桜が終わると滝の上から楓が繁り枝を垂らし、藤の花や楓のみどりを池畔に映して美しい、まさに幽邃の景が広がります。また池畔の楓は11代藩主治脩公が紅葉の名所竜田川・高尾・小倉山などからとり取り寄せ、京都の嵐山を模して植えられたものだといわれ、秋には紅葉狩りで賑わいます。


(瓢池の楓)

(藤棚と翠滝)

翠滝は高さ6.6m、幅1.6mの滝で園内の中では最大の滝です。滝の水は霞ヶ池から流れ瓢池に注ぎ込まれます。水量が豊富で、滝音も大きく、荘厳さと迫力ある滝は、兼六園の中でも特に優れた庭景の一つです。代々の藩主が夕顔亭から、滝音を聴きながら一服のお茶を楽しまれた風情が想像できます。




11代藩主治脩公の「大梁公手記」に、安永3年(1774)5月10日、治脩が馬で、滝の出来具合を確かめに行き、滝はなかなか良い出来だが水量が少なく、音も良くないと書かかれているそうです。20日後、6月朔日の項に「・・・蓮池瀧今日懸る。甚宜(はなはだよし)。・・・」とあり、完成した滝に満足している様子が伺えます。翠滝が完成した1ヶ月後の7月朔日には瓢池に浮かぶ島に茶室(現夕顔亭)が完成し盛大な茶室開きが行われたと伝えられています。



参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著桂書房平成18年発行など

古地図の中の金沢駅前

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【金沢駅前木の新保辺り】
北陸新幹線の金沢開業まで10日を切りました。ここのところ金沢は全国的に注目されマス媒体への露出が、余りにも多いので、知らなくて録り忘れたテレビ番組も随分あります。私はといえば新幹線に乗る予定もないので、記念に富山まで行ってこようかと思うくらい、いい歳をしてテンションが上がっています。



(金沢駅兼六園口前)


開業の日は駅周辺で多くのイベントが用意されていて、私も駅周辺の「古地図めぐり」のガイドの仕事を戴き古地図に描かれている周辺を少し調べています。語るだけですから深く調べることもないのですが、調べ出すと、当時、お城から遠い町外れだった金沢駅周辺に数千石を拝領する人持組の大身の侍屋敷が何家も立ち並んでいることに興味が湧き何時ものくせで必要以上に拘ってしまいました。


(安政年間の駅周辺絵図三田村家は鼓門辺りか・黒線は明治以後の道路)


≪金沢駅周辺の人持組の居屋敷≫



(駅周辺の侍(居)屋敷跡、持明院も見える)


三田村家(3300石)浪人であった三田村定長は娘“町”が綱紀公の側室となった縁で100人扶持となりまず。“町”は5代藩主吉徳公の生母となり、その弟孝言は吉徳の叔父として人持組4000石に登用されました。その孝言は刃傷事件を起こして知行召上となり、改めてその子定保が3000石を与えられました。家紋は鶴ノ丸。


前田図書家(7000石・藩主一門)前田利家の六男利貞が初代。代々定火消や家老に列しています。家紋は角ノ内梅鉢。


(都ホテル・前田図書家か、当時の建物は今の宝円寺の仮本堂)


前田監物家(3000石・藩主一門)前田寄孝が初代。七日市藩初代藩主前田利孝の三男。加賀藩4代藩主前田光高公に藩主一門として召抱えられ、3000石と上屋敷と下屋敷を拝領し、廃藩まで代々人持組として仕えました。家紋は丸ノ内立葵。(今の内灘方面の交差点か)


玉井家(5000石)支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された。家紋は五徳。(今の全日空ホテルか)



(左側が全日空ホテルは玉井家)


篠島家(2500石)前田利家公の甥前田秀継やその子利秀は今石動の城主でしましたが利秀没後、家臣の篠島清了が利長公から3000石を与えられ今石動を治めたちいいます。幕末の侍帳には、人持組篠島鍛冶郎2500石の記載があり幕末まで加賀藩に重く用いられたといいます。(前田図書家隣)



(北鉄・この先が前田監物居舘跡)


私の疑問は何故、町端に大身の人持組の五家もの居屋敷が在るのかということなのですが、何を調べれば良いのかも皆目見当が付きませんでしたが、何年か前に趣旨が少し違いますが玉川図書館の近世史料館で開催された「加賀藩侍屋敷」の資料を参考に記します。私の思付で全くの推測です。


(鼓門下,金沢兼六園口駅前)


前田図書家(7000石)の屋敷は、安政の絵図によりと現在の金沢駅前に当ります。延宝図ではこの家の屋敷は尾坂門前の八家前田対馬家(17000石)の隣にあり、惣構の外にあった下屋敷近くの現在地に移っています。この地は、伊予西条城主一柳監物が、幕府から封を除かれ、加賀藩に預けられた時の屋敷地の一部だそうで、そこに然るべき土地があったからでしょうか?





(延宝金沢図(1673~75)駅前辺り・一柳居舘は前田図書家と三田村家)


(監物は元禄15年(1702)に亡くなっていることから、その後に移ったと考えられますが、この地の面積は約2200坪、万治2年(1659)の定では7000石の場合1400坪ですが、800坪程多くなります。)



お隣の「前田将監(3200石)」屋敷地は、延宝図では「前田権之助下屋敷」とあり、元の居屋敷は惣構を挟んだ東末寺の向かい在ったそうですが、藩政後期以降では、居屋敷と下屋敷の場所が入れ替わり、城から離れた所を居屋敷としています。


(居屋敷は直臣の侍屋敷で、下屋敷は3000石以上拝領の人持組に限り陪臣といわれる家臣を住まわせた地域で、家中町(かっちゅうまち)とも言われました。この「下屋敷」の存在は金沢城下町の特徴の一つといえます。)



(木の新保、都ホテル前の石柱)


慶長16年(1610)の定では、下屋敷について「此已前之屋敷之通、惣構之外ニ而可遣候事」とあり、下屋敷は外惣構の外に配置され、下屋敷を拝領できる藩士の居屋敷が、惣構の外にある下屋敷やその周辺に移っており、城との遠近より屋敷地の広さを求めたのではないかといわれています。


(石高に応じた面積については、慶長16年(1610)では一辺(何間)×一辺(何間)で、万治2年(1659)では坪数で表記されていますが、基本的な面積は変わっていないそうで、石高に応じた面積と屋敷地の面積は必ずしも一致しないことや屋敷地の移動など様々なようです。)


参考文献:平成25年新春展「加賀藩の侍屋敷」資料玉川図書館近世史料館・「金沢古蹟志巻二十七」森田柿園著等

兼六園の雪見灯籠

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【金沢・兼六園】
昨今は、兼六園といえば「徽軫(ことじ)灯籠」。「徽軫灯籠」といえば兼六園といわれていますが、明治27年頃、兼六園といえば「旭桜」で、当時の兼六公園誌の地図には虹橋は描かれていますが”徽軫灯篭“は影も形もなく名称すら書かれていません。いずれ「徽軫灯籠」について書こうと思っていますが、今回は雪見灯籠の変形として紹介します。



(金沢のシンボル、雪見灯籠は変形、徽軫灯籠)


今、兼六園には、平成に入って造園された時雨亭の雪見灯籠や徽軫灯籠のように雪見灯籠の変形といわれる灯籠も含めて雪見灯籠は10基あります。園内の灯籠の半数近くが雪見灯籠で、雪国ならではの特徴で、雪の湖畔にいっそう趣を醸しだしています。



(山崎山下の国見石の雪見灯籠)



(龍石の大理石の雪見灯籠、水際に無いのが不思議・龍は水を呼ぶ?)


(金城霊澤の横の多田家寄贈の奉納灯籠・雪見灯籠の変形)


雪見灯籠の大きな笠は、傘を広げた上に雪が積もった形に似ているので雪見灯籠という説もありますが、火袋に明かりが入った姿が近江八景の浮見堂に似ていることから、それに因んで作られた浮見灯籠が訛って雪見灯籠になったといわれています。水面に浮いて見えるので“浮見”、点灯した時にその火が浮いて見えるので“浮火”が雪見灯籠の原点だそうです。


(六角形の笠、御影石の白い雪見灯籠・雁行橋上)

この灯籠は神社等の献灯用のものとは全く形式が違い、庭園で鑑賞するものとして発達したもので、笠と火袋の下にある竿と中台が無く高さがなく、主に水面を照らすために用いられるので笠が大きく、多くは水際に設置され、足は3本や4本のものが主流です。したがって足が2本の徽軫灯籠は変形といわれているのだそうです。笠は、丸いのが丸雪見といい六角形のものは六角雪見といわれています。



(瓢池の雪見灯籠)



(長谷池の男滝の雪見灯籠)

(長谷池の女滝の雪見灯籠、池は2代目金沢市長長谷川準也屋敷にあった池)


ここで灯籠の成り立ちに触れますと、もともと仏教の伝来によって仏寺建築が日本でも施工されるようになり、仏像に清浄な灯りを献じるために仏堂などの前面に配置されました。奈良の唐招提寺に見られるように、伽藍の中軸線上に1基置かれるのが通例だったようです。そのため、左右非対称の伽藍には灯籠の遺構は見られず、中軸線が確認できる伽藍においてのみ確認されているそうです。


(中国・朝鮮半島を経て入ってきたのですが、現在は中国では遺例が極めて少なく、朝鮮でもその形状は、今の日本各地に見られるものとはかなり違うそうです。)



(明治時代、明治祈念之標の献灯に気持ちを込めて日本武尊銅像の両側に置か

れたもので、左側の物は不埒ものに盗まれ、今は右の雪見灯籠が残っています)


それに比べると、日本庭園の石灯籠は、はじめ寺院に据えられた石灯籠が、平安時代になると神社の前に献灯として奉納されようになります。庭園に用いられるようになったのは桃山時代、茶人が夜会の照明用に露地にとり入れるようになり、のち茶人の好みに応じて作られたり、社寺献灯された名灯籠を本歌として模刻するなど、照明用としてだけでなく、庭の添景として鑑賞されるようになり一般庭園にも用いられるようになったといいます。



(平成12年に再建された時雨亭の雪見灯籠)


参考文献:「特別名勝兼六園」1997・橋本確文堂発行

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