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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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利常公伝説①猿から犬へ

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【加賀・能登・越中】
「お猿」こと前田利常公は、その生い立ちから、誰も加賀120万石の日本一の大大名になるとは思わなかったと伝えられています。母親は、秀吉の朝鮮出兵に際し肥前名護屋城に利家公ほか多くの武将が集めれ、陣中ですから女性がいないので、武将の不満がつのることから、秀吉が「洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」ということから、それに従わざるを得なかった金沢の利家公正室“お松”の呼びかけに、誰一人声を上げない中、志願して赴いた女性”ちよぼ”でした。


(女性に飢えた55歳の利家公が、22歳の”ちよぼ”に手だすのは必然で、すぐに胤がつき、金沢に戻され生れた赤子が「お猿」で、母親は身分も低くかったこともあり、大して注目もされなかったそうです。)



(金沢城菱櫓)


以後、赤子と母親はひっそり暮らしていたところ、父の利家公から突然「越中の前田対馬に預ける」といわれ、このときから「お猿」と呼ばれるようになったと伝えられています。6歳の時、父利家公が死ぬ1年前に、急に「会いたい」といってきて親子の対面が決まったといいます。はじめての対面で利家公は「お猿」を見て大変喜び、気に入ったらしく、ふところに手を入れ丈夫な子かどうか肉付きを触って、戦士としての性能を確かめたといわれています。


(前田利家公・尾山神社蔵)


父利家公の死後、兄の利長公が前田家を継ぎますが、父利家公と比べらると凡庸で、少し粗暴だったとか、頭もさほどではなかったそうですが、「目鑑(めかん)が強い」といわれ、物事を見抜く能力が人より優れていて、家康の力を正確に把握するなど、関が原の戦いでは、その目鑑で前田家の危機をすり抜けています。


(利常公の室、家康の孫球姫のお供が住んだ跡・今の兼六園)


関が原の戦では、「お猿」は極めて重要な役割を演じています。西軍についた丹羽長秀の子長重の小松城に人質に出されています。当時まだ利長公と顔を合わせていないことから、前田家の知恵者が「お猿」を人質に仕立てたものと思われます。丹羽長重は、8歳であった「お猿」の器量を見抜き将来前田家の総大将になるかも知れないと思ったと伝えられています。



(鉄砲狭間が見える塀)


「お猿」がはじめて2代利長公の対面したのは、関が原の戦果として所領を加増した事を祝う能見物に、前田家一門の子ども達が一堂に集められていた時だといわれています。その時、「お猿」だけが他の子ども達とは違い、これから能がはじまるというのに、落ち着かない様子で乳母に連れられて座敷のあちらことらを遊びまわっていたそうです。


(少し脱線しますが、最近よくいわれる多動性障害(ADHD)の子どものようですが、多動障害(ADHD)の子どもには、将来、大きく才能を伸ばし、天才になりうる可能性を秘めているそうで、多動障害の3つの特徴である“集中力がない”は「ひらめき、創造性」であり、多動は「エネルギッシュ、雄弁」、衝動性は「実行力、行動力」であるといわれ、実際に歴史上の人物には、リンカーン大統領やウィンストン・チャーチル首相、さらにはレオナルト・ダビンチ、ロックフェラー、日本では坂本竜馬など、偉人や政治家、芸術家といわれる人に多いといわれています。)



(本丸石垣といもり堀)


「お猿」の様子を見て、気づいた侍が乳母に「誰の子か、目のうちと、骨格が、余人と違う」といったのが切っ掛けで、「お猿」であることが知られ、家臣の子どもより下座に座らされていたのを、一番上座に座らされることになり、それが兄利長公との初対面だったといわれています。


(五十間長屋と橋爪門櫓)


はじめに口を開いたのは、利長公で「大きくなったな。眼が大きい」といったと古文書に書かれているそうですが、利長公が何よりも驚いたのは体格で、当時としては異常な大男であった初代利家公の体つきに瓜二つ、「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」とため息をついたといいます。



(はじめに利常公が造った玉泉院丸庭園・再建中)

その日を境に、「お猿」の生活は一変し、若君らしい暮らしぶりになり、毎日、がつがつと飯を喰らい、大きな体がますます大きくなったといいます。兄の利長公には子がなく、まだ戦争が続いていた当時、時代も手伝って、優男の兄たちを飛ばして、体躯もよく頭脳明晰な「お猿」が利長公に前田家の養嗣子としてえらばれ、代々嗣子が名乗る利家公の輝かしい幼名「犬千代」を名乗ることが許され、利常公の殿様としての人生がはじまったといわれています。


(「お殿様の通信簿」前田利常 其之壱に詳しい)


(前田利常公)


参考文献:「お殿様の通信簿」磯田道史著・(株)新潮社、平成20年10月1日発行ほか


金沢そして高山「もう一つの世界」金沢編

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【金沢ひがし】
昨日、誘われて高山の「左官技能士挟土秀平氏とめぐる日帰りのバスの旅」に出掛けました。最近忘れっぽくなっていますが、挟土氏については、8年程前にNHKのプロフェッショナル「仕事の流儀」を見たのを覚えていて2つ返事の参加でした。


(ひかり蔵を見る参加者)


(今回の旅については、一・二日前からバタバタしていて集合時間と高山だけが頭にあり、スタートがひがし茶屋街の「ひかり蔵」からだという事を見落としていました。見落としたのはそれだけではなく何時も出入りしている「ひかり蔵」が挟土氏の手がけた仕事だという事も知らなかったのですから、只々恥じ入る次第です。)



(北国新聞記事11月16日)


金沢駅でバスに乗ると、早速、挟土氏はマイクを握られ持論が始まり、日本に期待する欧米人の好みや仕事の苦心談、失敗談も飛びだし、また、仕事に対する思いやご本人の人と為りの一旦を感じさせる言動に期待感が膨らんできました。


(挟土氏によると欧米人が日本に期待しているのは、一般的には繊細なものだと思い勝ちですが、意外とザックリしたもの、土っぽいものだそうで、挟土氏の仕事もアメリカやフランスからの依頼があり、今日もこの後、東京経由でフランスへ旅立ちのだといわれていました。)



(ひかり蔵)


「ひかり蔵」については、10年前、独立して3年目の仕事だそうで、従来、金箔は木か紙に貼るのが常道であるのに、漆喰の壁に土の質感を残して、しかも枯れた金を表現しようというもので、誰も手がけた者がいない仕事だったといいます。



(ひかり蔵で解説する挟土氏)


挾土氏は、左官の仕事が専門で、金箔貼りは、高山の仏壇職人に任せる分けですが、強引にサンプルを置いていかれたという仏壇職人によると、はじめ「この仕事は無理!!」と思ったそうですが「漆喰の鏡面仕上げ」の素晴らしいサンプルを見て職人魂に火が付き、貼るための試行錯誤を続け、時には直射日光に当たり、水をかけたり等など、何十回も実験を重ねたそうです。



(ひかり蔵の入り口)


金箔土蔵の内壁は、沖縄の藍の土壁で仕上げ、挾土氏がわらで模様をつけ、その上に樹脂の接着剤で金箔を貼り、余分な金箔はハケで落としグラデーションにすることにより、上に登っていくにつれて消えていくというもので、下から光を当てると幻想的で、炎が天に舞い上がるイメージで仕上げたのだといいます。


(ひかり蔵の建物)

その作業については、過去に参考になるものもなく、2回やり直すなど難しい作業だったといいます。また、朝から夜まで、投光器の中、長く金色の土蔵の中で作業をしていると、金の持つ魔力に頭がおかしくなるくらいだったといいます。



(バスの中で挟土氏の解説)


土蔵の外側は、金箔の継ぎ目の縦と横を揃えるという、いわゆる金箔貼りの難しい技が要求されたものでプラチナ箔が用いられています。手がけた仏壇職人のブログによると、現場では、金の魔物に付きまとわれ、苦労も多かったが120点の仕上がりになったと語っています。




(高山へ)


参考資料:「仏壇工芸ほりおのブログ」http://horio.hida-ch.com/e93701.html
加賀藩交流事業「挟土秀平とめぐる飛騨高山「アナザーワールド」参加メモより

金沢そして高山「もう一つの世界」高山編①

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【高山市、丹生川町板殿→滝町棚田】
高山ではじめに訪れたのは丹生川町板殿(にゅうかわちょういたんど)にあるめずらしい蒸籠蔵(せいろぐら)です。蒸籠に組んだ板に栗の木釘をうって縄をまき付け上から泥を塗ったもので、塗も泥をぶつけた荒打ちのままの土蔵です。8年前に挟土氏がNHK「課外授業ようこそ先輩」で後輩たちと一緒に作業をした「笑う泥壁」です。



(笑う泥壁・指の跡が笑い顔に見える)


(蒸篭蔵は、古い形態の穀物倉で、飛騨で余り例がない珍しい倉だそうです。正倉院の校倉(あぜくら)造りと同型で、梅雨時の湿気が多いときは木が膨張して木と木の間をふさぎ、湿った空気が入るのを防ぎ、空気が乾燥すると隙間ができて、内部の風通しがよくなって乾燥するようになっているそうです。)


(蒸篭蔵)


道中、バスで見せて戴いたNHK「課外授業ようこそ先輩」は、2006年9月23日に放映されたもので、挟土氏が母校の高山市立北小学校へ赴き、後輩の小学生たちと、切り藁をまき、泥を踏み、団子をつくり、土づくりと壁造りを通して、一つ一つ、どう見ても弱い素材の藁や土、砂でも集まり鍛えられ塩梅次第で、何十年にわたって家を支える強い壁になるとことを知り、テーマ「弱いものが集まって強くなる!」を体感するという映像でした。





(約60年前の泥壁の下半分を8年前小学生と補修)


(映像には、小学生たちが小さな足で泥を踏みつけ、小学生と大人が並んで泥でダンゴを作り、手渡し、板壁に貼り付け、打ち付ける等など、私も映像から伝わる楽しい雰囲気を見て、昔聞いた山里の“結”の様子を想像していました。)



(蒸篭蔵)

次の訪問地は滝町棚田の「天空の棚田茶室(独坐観念の茶室)」です。滝町棚田は、乗鞍岳をのぞむ天空の棚田(標高795m)で、挟土氏が尊敬する故中屋栄一郎氏が平成9年(1997)に棚田保全活動を開始し、平成12年(2000)保存会が発足したものだそうです。



(滝町棚田の地図)


現在は、棚田の中腹にバッタリ小屋と呼ばれる昔の穀物精米小屋が2軒並んで建っていました。1軒は中屋氏が住み、もう1軒は茶室になっていて、真新しい畳が敷かれ床の間には「独坐観念」のお軸が掛けられていました。病に冒された中屋氏が望まれ、挾土氏が設えたもので、外観からは想像もつかない世界が広がっていました。



(茶室)


井伊直弼の著作「茶の湯一会集」の中に「一期一会」の続きが「独座観念」だと書かれているそうです。


(独座観念とは、お客様が見えなくなるまで見送ったあと、再び茶室に戻り、炉前に独座して、お客に心を向け、一日の茶会を振り返りながら独服する。このような心持ちが実践できて、はじめて茶会が完成するというのである。ということだそうです。)





(バッタリ小屋辺りにて)


少し長くなりますが、中屋栄一郎が書き残したものをネットで見つけたので、そのまま転載します。



(アルバムの中の中屋氏)


乗鞍岳をのぞむ、雪に埋もれがちな岩滝地区で百姓である私はいつまでもどこまでも黒い土を耕し、土を愛し、万物の生育に賛じて、だまって生きていくべきと信じている。鍬の人であり、働く者と信じている。



(バッタリ小屋より天空の棚田)


近年、岐阜大学の堀内先生から雑穀について、松本先生には郷土愛を教わり、そして、冬の伝統行事二十四日市に市民企画でかかわる飛騨高山まちづくり本舗のスタッフと出会い、「耕す」「食す」「育つ」「結う」のテーマが連動しはじめた。




(中屋氏のバッタリ小屋)


これまで元気にやってこられた百姓観。このテーマに出会ってから先祖代々大事に受け継いできたこの棚田は、未知なる何かが生まれる可能性のある場としての想いを強くした。私ができることは、棚田で鍬をふるいながら、山川草木とともにあるくらしの恵みや知恵をこどもたちや若い世代とともに享受し伝えること。今まさに「土に叫ぶ」こんな大それた気持ちを抱くにいたっている。
「飛騨の棚田」より



(棚田の茶室(左))


挟土秀平氏は1962年高山市生まれ。1983年技能五輪・左官部門で優勝。バブル全盛期、左官の頭として現場で陣頭指揮を執り、セメントによる巨大ビルを次々と手掛ける。しかし、故郷・高山の土に出会い、土の力を活かす左官本来の在り方に目覚める。以後、土の採集・研究を重ね、土にこだわった壁作りに取り組む。アーティスティックな作風により“土のマジシャン”と呼ばれ、文化財の修復から首相官邸、モダンなバーやレストランの壁まで創作活動を広げている。(NHKの紹介記事より)




(天空に向う火男(ヒョットコ)橋と山道)


参考資料:加賀藩交流事業「挟土秀平とめぐる飛騨高山「アナザーワールド」参加メモより・「飛騨の棚田」よりhttp://www.asaichi.net/~nakaya/html/01_negai/sakebu.html

金沢そして高山「もう一つの世界」高山編②

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【高山市、江名子町→飛騨千光寺のふもと】
11月15日午後。挟土氏が、平成10年(1998)9ヶ月を費やし修復した荏名神社(えなじんじゃ)の境内にある荏野文庫土蔵(えなぶんこどぞう)を尋ねました。約150年に土蔵を塗ったのは江戸屋万蔵と呼ばれた土蔵左官で、江戸の神田で人を殺めて飛騨に逃れ、江戸風の土蔵技術を高山に伝えた人物だといいます。



(荏野文庫土蔵)


(荏野文庫土蔵は、幕末に建てられた飛騨出身の国学者田中大秀の文庫蔵で、火災と鼠害(そがい)に備え池の中に建てられています。壁土は京都の吉田神社がある神楽岡から運ばれたといわれ、その黄色い土壁の修復は挟土氏が本格的にコンクリートから土へシフトする分岐点であり新たな出発点になったところです。)



(荏野文庫土蔵解説)

挟土氏は土の配合だけでなく、その感覚や考え方まで徹底的に調べ上げるうちに江戸屋万蔵の気合が伝わって来たそうで、ご本人は、「伝わってくるというか、通信しあっているような不思議な気分が、俺の中にあった。」とお書きになっています。また、土壁を調べていくと黄色の土壁が、はじめはピンクに塗ろうとした形跡が見つかったともおっしゃっていました。



(万蔵に左官鏝?)


当日、見せて戴いた左官鏝は、「鋼の鏝」に「黒柿の柄」時代物で出何処は、かって万蔵が住んだと言われる町で、もしかすると万蔵が使ったのではと思われるものだそうで、素人にはよく分りませんが、握らせて戴くと、話を聞いて直ぐということもあり何か本当のような気がしてきました。



(挟土秀平氏)


≪江戸屋万蔵伝説≫
挟土氏の江戸屋万蔵への思いに引きずられ、興味が募り、あれこれ調べてみましたが、何処にも無く挟土氏のブログにたどりつきました。


http://blog.syuhei.jp/
遠笛 左官-挾土秀平のブログ
2011.08.18 Thursday
薄れる故郷・・・その1



(荏名神社)

(江名子町の道分け灯篭)


最後に訪れたのは左官のサンプルが展示されている事務所ですが、その前に、昔、あの円空が滞在したという千光寺のふもとの山林で、挟土氏が自然を残し、腐葉土をキープするために、機械も極力使わず、自分たちの手で切り開き、石積みも手積みで石工もびっくりの凄い石垣を組み、庭も手造り、ギフ蝶が飛び交うという飛騨の山野草や自然の樹々の中にある「歓待の西洋館」を特別に見せて戴きました。挟土氏は、もう直ぐ完成するといっているそうですが、すでに10数年の歳月が過ぎ、みんなは「完成することのない館」だと言っているとか・・・。


進入防止や防犯上から写真は撮れませんでしたが、いささかファジーな網膜に焼き付けて帰ってきました。


参考資料:加賀藩交流事業「挟土秀平とめぐる飛騨高山「アナザーワールド」参加メモより・http://blog.syuhei.jp/   遠笛 左官-挾土秀平のブログ

辰巳ダムと辰巳用水と塩硝蔵跡見学①

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【辰巳ダム→三段石垣→(犀川浄水場→涌波塩硝蔵跡)】
観光ボランティアの仲間で辰巳ダムの見学に行ってきました。辰巳用水については、一年ほど前に何回かに分けて書きましたが、今回は辰巳ダムや上流部の隧道、今は、暗渠のなっている犀川浄水場の兼六園の取水口を、さらに昨年「史跡」に指定された土清水の塩硝蔵跡の発掘作業現場を見学してきました。




(辰巳ダム)


≪辰巳ダム≫
このダムは、洪水調節目的に特化した穴あきダムです。通常は水を貯めない河川の一部ですが、大雨で洪水が起きそうな時、その機能を最大限に発揮するように作られ、いつもは放流をしません。総事業費約240億円。平成20年(2008)に着工し、平成24年(2012)6月に運用が始まりました。


(当初は治水・利水など複数の目的で利用できる多目的ダムとして計画されましたが、既存のダムとの水量配分の見直しなどから、普段は水をためないダムの計画が変更され、高さ47メートル、長さ195メートル、総貯水量600万立方メートルです。)




(参加者)

当初の建設計画では、流域が史跡「辰巳用水」であり、用水を水源とする兼六園の取水口(東岩)が水没する設計から、予備調査をはじめた昭和49年(1973)から建設反対運動が続いてきましたが、設計変更の後も争点が変わっても反対運動がエスカレートし、完成まで38年を費やしています。


(東岩)

このダムは、上流の犀川ダム、犀川支流の内川ダムと連携して洪水を防ぎ、流量が少ない時も下流で一定量を確保するよう調節する狙いがあり、浅野川中流で犀川へ分流する放水路の水量を増やすことで、平成20年(2008)7月、浅野川で起きた大規模氾濫の再発防止を図ることも目的の一つだそうです。


(清浄が滝(猩々が滝))


≪清浄ヶ滝(猩々ヶ滝)≫
辰巳用水の取り入れ口東岩から約5kmつづく水トンネルは、清浄が滝(猩々が滝)をくぐったこの地点で数メートルだけ開渠になりすぐにまた暗渠に入ります。ここは、辰巳用水の上を流れる寺津用水の配水が落ちるように作られていて、水深が深く、水路の底には下流側は逆勾配になっている。水門を開けると、上流側、下流側の両方から勢いよく水が落ち、水路にたまった泥を吐き出す仕掛けになっています。作業が困難な水トンネル内のメンテナンスを解決した先人の知恵が窺えます。


(ソーラーシステム)


(水門には、近年ソーラーシステムが取り付けられ電動で開閉が出来るようなり、作業は随分楽になったそうですが、まだ遠距離操作が出来ないらしくて現場で来て操作するそうです。)



(隧道の扉)


≪辰巳用水の隧道の中≫
隧道の中は、今回は横穴から懐中電灯で覗くだけでしたが、戦後、直ぐから管理の携わってこられた方のお話によると、この横穴から左右に掘り広げられたものですが、他に管理用に残されたもので、現在はもちろん施錠されていて、勝手に入ることは出来ません。



(隧道の中)


≪三段石垣≫
上辰巳付近の三段石垣群は、付近の地盤がもろくて崩れやすいため260mにわたり石垣が築かれその上に水路が造られています。また、前面がもともと犀川の河原だったことから侵食を防止する施設だともいわれています。江戸時代の絵図によると19世紀にはすでの築かれていたことが分ります。


(三段石垣)

(三段石垣の近くのマヌシ注意!!)


(つづく)


参考資料:国史跡「辰巳用水 附 土清水塩硝蔵跡のパンフレット・辰巳用水土地改良区の畦地氏の解説他

辰巳ダムと辰巳用水と塩硝蔵跡見学②

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【犀川浄水場辺り→史跡土清水塩硝蔵跡】
兼六園の曲水の水は辰巳用水の水であることはよく知られていますが、多くの人は、小立野台を流れる辰巳用水が、そのまま兼六園に流れ込んでいるように思われています。しかし、実際は末町にある犀川浄水場の近くから地下を流れ兼六園に入っています。



(末町犀川浄水場近く・左が専用水管の取入口、右辰巳用水の開渠部分)


これは、大正時代になり小立野辺りの辰巳用水周辺の宅地化が進み、生活排水が流れ込むようになり、辰巳用水の途中にある犀川浄水場近く(兼六園専用水管管口)から市街地内の開渠とほほ同じルートで、地下に「兼六園専用水管」が敷設し、そこから兼六園に水が引かれています。



(兼六園専用水管管口)


≪兼六園専用水管管口≫
この「兼六園専用水管」は、大正11年(1922)兼六園から天徳院まで内径35cmのコンクリート管が設置されました。戦後になると、周辺の宅地化がさらに進み、昭和36年(1961)には天徳院から錦町まで、昭和52年(1977)錦町から涌波、昭和53年(1978)に涌波から末町の現在地まで、内径45cmのコンクリート管が兼六園入口まで、大正に敷設された水管と合わせて約6kmが繋がっています。



(犀川浄水場)

(写真は、犀川浄水場の隧道の出口近くで、この水管は内川(犀川の支流)から「逆サイホンの原理」で数10m上に水が上げるようになっていて、必要に応じて内川の水(水道用)を犀川浄水場に上げているそうです。)



(大道割の谷)


≪大道割≫
一方、開渠の辰巳用水は、犀川浄水場から大道割という台地へ、ここは大きく谷が割込んだような地形のところです。今は埋め立てられて谷は小さくなっていますが、それでも深い谷が開いていて、辰巳用水は、谷に沿って迂回するように回り、一度、折り返すように上流に向かって流れるようになっています。


(犀川浄水場(赤丸は兼六園管口)と大道割辺りの図(青の点線は折り返し))


地図では金沢森林組合の前の「湯の谷」と書かれているところですが、実際には上から見ていても水がどう流れているかはよく分りません。ここは、難工事だったとかで、水の流れも停滞しやすい難所だったため水門があり、用水は谷を樋のような形で越えているそうですが、谷が深く草も茫々で、あるはずの水管は全然見えません。



(大道割の谷)

(森林組合の売り場)


近くの金沢市森林組合から片町を目指し北へ歩くと右側に辰巳用水の遊歩道の入り口があります。この辺りは開渠になっていて錦町まで約2kmの沿線には梨やリンゴの果樹園があり、他に森林、竹林など変化に富んでいます。堤には藩政期から管理道路が併走していましたが、平成5年(1993)に整備された一般にも開放され遊歩道になっています。


(辰巳用水遊歩道と沿線のリンゴ園)


≪土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうくらあと≫
去年(平成25年)3月、国史跡辰巳用水に追加指定された「国史跡辰巳用水附(つけたり)土清水塩硝蔵跡」は、藩政初期から金沢城内や小立野波着寺下の一本松で火薬製造施設がありましたが、焼失したため万治元年(1657)涌波村領内に施設を新築したもので、以後、加賀藩の黒色火薬を製造しました。


(土清水煙硝蔵跡)





(塩硝蔵跡)


幕末、全国各地では動乱により洋式火薬の需要に対応するため元治元年(1864)施設を増改築に着工し、慶応4年(1868)に竣工します。当時の敷地は11万㎡。しかし2年後、明治3年(1870)五箇山の塩硝の買い上げが停止になり、塩硝蔵の操業も同時期に停止されとものと考えられています。



(塩硝蔵の絵図)


参考:市民が見つける金沢再発見「朝霧大橋とその周辺」に塩硝の記事があります。
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11115787672.html





辰巳用水との関わりは、最近の発掘調査により土清水塩硝蔵は、火薬の製造に辰巳用水の水流を利用しており、その関連性が明らかになったため、平成25年(2013)3月27日に敷地の一部約3万2千㎡が、昭和22年(2010)2月22日に国の史跡に指定された史跡辰巳用水に追加指定され「国史跡辰巳用水附(つけたり)土清水塩硝蔵跡」いわれるようになりました。



参考資料:金沢市発行の「国史跡辰巳用水」と「国史跡辰巳用水附土清水煙硝蔵跡」のパンフレットなど

利常伝説②犬と古狸

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【加賀・金沢】
犬千代は、9歳で元服し利光を名乗ります。13歳の利光(利常公)が、64歳の徳川家康(古狸)に対面したのは、慶長10年(1605)の春、前田父子が伏見城に出仕し家康と将軍秀忠に対し君臣の拝謁をしたのが始めです。家康は利光の顔を見るなりただ者ではない事を見極め、「おまえは日本中の大名の筆頭である。おれに忠誠をつくせ。」といったと伝えられています。



(金沢城石川門二の門)


さらに、古狸は利光(利常公)の子どもっぽい頭髪をみて怒りだし、服装にまでケチを付けはじめたといいます。古狸の家康は利光(利常公)を早く大人っぽく見た目を整えさせ前田家の代替わりをすすめ、豊臣攻めに連れて行こうと目論んでいたのでしょう。その2ヵ月後には利長公が引退し、13歳の利光(利常公)が加賀前田家の藩主になります。


(家康は、さらに、今まで羽柴を名乗っていた利光(利常公)に「松平」を名乗らせています。それにより“前田家は豊臣方から徳川方になった”と世間に思わせるためだといわれていますが、さすが、したたかな家康の古狸ぶりが窺えます。)



(金沢城)


利長公の死後、前田家は古狸の思惑通り、22歳の利光(利常公)は徳川家の婿として豊臣攻めに堂々と出陣します。冬の陣は3万人、夏の陣は2万5千人というわれた前田家の軍勢の中で、体格のいい利常公は馬上に映え目立ったといいます。



(利常公)


その戦で驚くべき天才的将才を発揮した利光(利常公)の活躍を漏れ聞いた古狸の家康は、たちまち利光(利常公)を警戒したといいます。豊臣が滅びれば、徳川にとって最大の仮想敵国は前田家になります。後に家康自身臨終の床で語った「利常だけは殺しておきたい」という感情は、すでにこの時から思われます。



(今の金沢城辰巳櫓)


前に「利常公の奇行」にも書きましたが「利常だけは生かしておいてはならぬ」と言ったという家康は、戦場では同じ天才的将才をもっていただけに、その才に乏しい息子秀忠に「利常だけは生かしておいてはならぬ」と再三意見をするが、人柄の良い秀忠は同意せず、娘婿の利常公をかばったといいます。


市民が見つける金沢再発見「利常公の奇行!!加賀文化創出のお殿様」

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11583727601.html



(今の石川門、兼六園より)


家康は、大阪夏の陣が終わった時、古狸ならではの思惑から利光(利常公)に四国一円への「国替え」話を持ちかけたといわれています。米の二期作の他、北陸より好条件の四国ですが、古狸の魂胆を見抜いていた利常公は断っています。その後も古狸が仕掛ける政治的毒を飲ませ続けたといいます。


市民が見つける金沢再発見「越後高田と加賀金沢②忠輝と利常」

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11949267707.html



(今の石川門)


実際にも徳川から送り込まれた年寄本多政重が毒を盛るという噂は絶えなかったといいますが、利常公は「そのように言い触らすものがいれば成敗する」といって取り合わなかったとか、しかし、到来物の菓子などは口にすることはなく、家族にも申し付けていたといいます。



(今の金沢城三十間長屋)


また、秀忠をはじめ家光、家綱という徳川の歴代の世襲将軍をバカにしたような逸話が残っていて、幕府とのきわどい駆け引きなど、その痛快な生き様は誰にも真似の出来ないもので、まさに家康から古狸ぶりを受け継いだのではとも思える利常公は、今も金沢では語り草になっています。


(詳しくは「殿様の通信簿」前田利常其之弐をご覧下さい。)



(殿様の通信簿)


そんな2代目古狸?利常公を知る2代将軍秀忠は、愚かといわれた3代家光を憂い、取り巻きたちを厳選、彼らに論語の「君、君たり、臣、臣たれ」を曲げて「君、君たらずとも、臣、臣たれ」といってハッパをかけていたそうですが、この辺りは真偽の程は分りません?


参考文献:「お殿様の通信簿」磯田道史著・(株)新潮社、平成20年10月1日発行ほか

晩秋、青空に輝く金沢の黒瓦

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【金沢東山界隈】
11月最後の日曜日。天候に恵まれ絶好のガイド日和・・・。朝、長野からのお客さまと東山界隈を歩きました。この時期としては何ともうれしい青空、いつもは気にならないキラキラ輝く卯辰山中腹にある料理屋の屋根瓦が美しく感じられました。



(キラキラ光る瓦屋根・ひがし茶屋街)


しばし立ち止まり、お客様に、その料理屋と関わりがある北大路魯山人の話をしながら、屋根瓦を眺めていました。その後も、目に入る黒光りの瓦が気になり歩きながらシャッターを切っていました。



(旧観音町に瓦屋根)


釉薬をかけた金沢の黒瓦は、良いお天気には、日ざしが反射しキラキラ輝き、街に独特な風情をかもしだしています。最近は、ビルが多くなった市内では昔より少なくなりましたが、東山界隈は木造の建物が多くよく見かけます。さらに少し登った卯辰山中腹にある宝泉寺から見下ろせば、もっと美しいのですが、今回は、予定のコースに従い先に進みました。



(ひがし茶屋街の瓦屋根)


しかし、その風情は決して伝統的のものではなく、藩政期の城下町金沢では、瓦屋根は少なく大身の武家屋敷でもコバ葺き(杉の正目)が多く、中級以下の武家屋敷や町家では、へギ板(割り板)で葺いて、板が飛ばないように石を置いた板葺きの石置屋根でした。



(旧森下町の瓦屋根)


明治38年(1904)金沢では市街地防火のため“屋上覆葺規則”を定めますが、20数年経った昭和の初めでも金沢市街の屋根の不燃化は半分も達成されなかったといいます。そういえば私が小学生ころ(昭和30年)でもデパートの屋上から見る風景は板葺き石置屋根が多かったことを覚えています。



(橋場町の瓦屋根)


どうも、普通の瓦では水分の多い北陸の雪にあうと、凍り付いて割れてしまうそうです。さらに降り積もった雪とともに、なだれ落ちるということで、板葺き石置屋根が多く用いられていたそうです。




(旧森下町の瓦屋根)


現在のような瓦になったのは、近代に入ってからです。一回り大きく釉薬をかけて2度焼きしたもので、日ざしが当たると黒光りする独特の瓦は丈夫で、しかも耐寒用、ツルツルしているので雪がすべり易いことから、雪止めの突起もつけられています。


(瓦は光沢を出すために粘土を乾燥させてから表面に釉薬が塗られますが、金沢では特に黒色の釉薬が豊富に入手できたので、黒瓦の家が多くなったそうです。)




(旧木町の3階建ての瓦屋根)


明日から師走。金沢では鉛色の空に“鰤起こし”の季節です。今年は後何回、逆光でまぶしく輝く金沢の黒瓦を見ることが出来ますやら・・・。


金沢の炬燵(こたつ)文化

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【金沢】
“鉛色の空”“鰤起こし“とくれば、この時期、金沢では”炬燵(こたつ)“が定番中の定番です。金沢を含む北陸は、決して極寒とはいえない土地柄で、昔から暖房についても、火力が強くて部屋全体を暖めるストーブより、炬燵(こたつ)一つで、風邪も引かずに冬をすごすことが出来ました。



(金沢の鉛色の空)


最近、私の子ども達世代では、大して寒くはない金沢の冬でも、適応力か時代の流れかストーブに頼らねば、身を保てなくなり、炬燵(こたつ)だけでは冬を乗りきれずストーブとエヤコン、炬燵の併用かストーブだけで冬をすごすようになっていました。




(最近は炬燵よりストーブやエアコン)


(近年、我が家でも11月になると炬燵(こたつ)を出し、寒い日にはエアコンをつけ、12月には完全に石油ストーブと併用で暖をとっています。どうも歳のせいだけとはいえず、高度成長以来、贅沢が身に付き、適応力が低下した結果ということなのでしょう。)



(炬燵(こたつ))


先日、昭和52年(1977)に書かれた金沢の浅香年木氏の本に、炬燵(こたつ)の記述があり、以下、引用しますと、「思えば、炬燵(こたつ)ほど、北陸人にふさわしい暖房手段はなかった。それは、暖をとる用具であると同時に、語らいの場であり、何よりも、思索の「育ての親」であった。しんしんと静かに雪の降る夜。1人、炬燵(こたつ)に入って、ものを考え、ものを書き、ものをつくる。そこに、北陸の個性があったといってよい」と書かれてあり、思い当たることも多く、いろいろ思い出されます。



(浅香氏の「北陸の風土と歴史」)


浅香年木氏の記述では、北陸からの数多くの人材の輩出は、炬燵(こだつ)が育てた!!と書かれ、ストーブやエアコンからは、北陸の風土にあった、深い思索も、心をうつ創作も、生まれ得ないように思えてならない。とも書き、金沢及び北陸をふるさとにもつ、宗教や思想、学問や芸術分野の有名人が書かれています。



(金沢の三文豪)


金沢では、金沢の三文豪といわれた、徳田秋声、泉鏡花、室生犀星に、哲学者として知られる西田幾多郎、鈴木大拙、越後に育った合津八一、小川未明、相馬御風などがあげられていました。



(炬燵(こたつ)は昔も今も北陸の文化)


そして、北陸の風土が育んだ「炬燵(こたつ)文化」を北陸人が継承し伸ばしていかねばならないと提言されています。昨今(昭和52年ごろ)の風潮について、資本の理論の押し付け、風土を無視した、お仕着せの商品に囲まれ、企画化されてしまった生活、それは、北陸人が北陸人でなくなることであり、北陸人の健康をむしばんでいくだけだと、警鐘を鳴らしていました。


(先日病院の検査の待ち時間にと思い、以前に神戸の知人から送られてきた1997発行の古厩忠夫氏の「裏日本」を持って行きました。検査は思った以上の待ち時間で、読み進めていくと浅香年木氏の「北陸の風土と歴史」が引用されていました。「北陸の風土と歴史」は、最近買った古本の中にあり、時々、炬燵(こたつ)にはまり読んでいます。)



(古厩忠夫著「裏日本」)


2冊とも古い本ですが、読んで良かった!!と・・・。改めた神戸の旧友に感謝。そして病院では検査終了。何事もなく家路へ・・・。



参考文献:「裏日本」古厩忠夫著1997・岩波新書・「北陸の風土と歴史」浅香年木著1977・山川出版社ほか

金沢、40万都市論

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【金沢市】
金沢市は、今年(2014)11月現在で推定人口は464,856人だそうです。永年、北陸の代表都市として競ってきた新潟市は現在808,152人の政令指定都市になっています。少し調べてみると、今から40年前には同じ40万人前後の人口ですが、それが現在、金沢は約半分。大きく引きはなされています。



(浅野川大橋)


当時、一足先に40万都市になった新潟市は100万都市構想を立て、金沢も60万都市をめざしていたことは、以後の金沢市における都市計画や平成に入ってからも大合併での周辺町村への積極的な働き掛けからも容易にそのことが窺えます。しかし、その合併は失敗に終わりますが、まだ政令指定都市への可能性は残しています。人口が増えない原因はいろいろありますが、その一つとして、多くの若者が仕事を求め一方的に大都市に出て行ったことも見逃せません。


(犀川大橋)

今の金沢は、人口では全国34番目の都市です。現在、50万人以上の都市が指定される政令指定都市には約5万人不足で、中核市に位置づけられていますが、強いて人口の多さということなら、新潟や岡山が吸収合併して政令指定都市になった経緯もあり、金沢も、今後、周辺の2町が加われば50万人を越え、そう簡単ではありませんが、政令指定都市になることが出来ます。



(石川門と藩祖前田利家像)

(兼六園の朝日)


(金沢駅)


今日の話は、今から40年ぐらい前、昭和50年代(1975~1984)のお話です。当時、金沢の人口が40万人をこえ、「これ以上の人口増加を歓迎すべきではない」という反応が持ち上がり、その代弁として当時、後の岩波書店長の安江良介が「北国新聞」に「歓迎されざる四〇万人」という記事を掲載しているそうです。


(兼六園から新幹線の高架橋)


≪安江氏のよびかけ≫
当時、高度成長路線のひずみとして、物質的財産のみに目が奪われ、精神的財産を喰いつぶすという結果に対し、人間の生き方や連帯を問い直すということを前提に、都市が高度成長で急激に膨張し、そして崩壊し始めたことから、金沢のような伝統的な骨格をもつ町では見直しをしているものの、いつまで、その誇りうる都市機能が保たれるかを憂い、それゆえに、金沢の肥満化を憂慮し、価値観を根底から再検討して、独自の都市政策と主体性の確立をしようと、市民によびかけます。



(主計町・ひがし茶屋街)


(少し雑ですが簡単にいうと、「金沢の町は他所と一緒でなくてもいいがいね、高度成長に振り回されんと、伝統も大切にして、金沢の本質を見極めて独自路線で進んまっし。」ということか・・・。)





(片町・香林坊)

それを受けて、一部、素朴に高度成長追随の立場から反論もあったといいますが、金沢では、自然環境を活用し、伝統文化を中核に、日本人に人間回復の場を提供する、住みやすい都市づくりが、金沢人のほぼ一致した思いになり、以後の都市政策に反映されようになったもの思われます。



(卯辰山から金沢市内)


(そして「40万都市への加入を素直に喜べない」「大きいことは、良い事ではない」という市民感情が表面化します。まさに画期的な異変というべきか、と「北陸と風土の歴史」の著者浅香年木氏は書かれています。)


(旧観音町辺り)

また、戦後、永らく言われ続けられた「戦火を受けなかったことが、都市の再開発を困難にしている。戦火を受けた方が、どれほど、近代都市への脱皮が容易であったかわからない。」という罰当たりな発言がなりをひそめていったのを覚えています。




(長町武家屋敷辺り)


今、北陸新幹線の金沢開業にあたり、金沢に大げさに言えば町始まって以来のスポットライトが当たっているようです。戦災に遭わなかったこともありますが、その後、遮二無二近代都市を目指し、古いものを簡単にぶち壊し単なる画一的な地方都市になっていたとしたら・・・。昔、金沢を憂い、金沢のあるべき姿を提言された人々に自然と頭が下がります。




(寺町辺り)


たまには、昔の本を読むのもいいですネ・・・。



参考文献:「北陸の風土と歴史」浅香年木著1977・山川出版社ほか

昔の金沢工芸職人①本当は・・・?

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【金沢→東京】
金沢の工芸が注目を集めています。いや仕掛けているのでしょう。腰が重く自ら打って出ることが苦手な金沢人が北陸新幹線金沢開業という、またとないチャンスに直面し、関係者も行政も、商売上手な都会の業者やプランナーに煽られ、それに乗っかったというか、主体的かは分りませんが、かって見たことも感じたこともない、やる気と本気が伝わってきます。


(金沢駅鼓門)

銀座の金沢
http://www.ginzanokanazawa.jp/


金沢市では、北陸新幹線金沢開業に向けて計画してきた金沢クラフト首都圏魅力発信拠点「銀座の金沢」が東京・銀座の目抜き通りに今年10月30日開店しました。店舗は新たに完成した商業施設「キラリトギンザ(地上12階、地下3階)」の6階約300㎡で、金沢の食と工芸を体感できる場として金沢の魅力を発信することになりました。また、同月8日にも同じ銀座で石川県アンテナショップ「いしかわ百万石物語・江戸本店」も開店しています。


「銀座の金沢」のレストランでは金沢の農林水産物や地酒に、伝統を踏まえて金沢の工芸やクラフトを用い料理を提供し、ギャラリーでは金沢の工芸やクラフトの展示と販売を行い、また、金沢ファンが集まる情報基地として、茶道や伝統芸能を披露する企画を展開し、国内外に金沢の魅力を総合的に発信するのが狙いだとか、石川県のアンテナショップ「いしかわ百万石物語・江戸本店」は約300mの至近距離だそうです。

今日の話は、金沢工芸のルーツともいえる加賀の藩営工房「御細工所」に関わるお話です。最近、前にも書いた「御細工所」と見方が違う本に出会いました。40年前に書かれた浅香年木氏の「北陸の風土と歴史」に書かれたていたもので、氏が書く多くの文章と同様にかなり辛口で、今まで伝え聞いた御細工所には触れられていない、いわゆる御細工者の内輪の話や影の部分が書かれていて興味を持ちました。


(金沢城石川門)7


その一部を紹介しますと「御細工者」は、従来、聞き及んでいるような、厳しい手づくりの世界とは、別の世界に住んでいたといいます。技術の伝承ということから、採用は御細工者の子が優先的になるところがあり、系譜は固定化される傾向から、一代限りのようで、世襲ぽくって、勤務は隔日に半日ほど御細工所に勤務し、自分の屋敷と藩営の工房で、藩主の自家消費用と贈答用の高級消費財の手づくりに専念する、ひとつかみの温室育成の職人たちであったそうです。



しかし、かれらにも一般の町の職人とは違った意味で苦労があったといいます。それは五代藩主綱紀公の審美眼と見識に振り回され、デザイン、材料、手法、技能などすべてにこまごまとした指示を押し付けられ、職人たちの自由な発想や工夫が育つ余地がまったくなく、創造への意欲を封殺した世界で、しかも財力にまかせ、京や江戸から最高級水準の技術を大量に移植し、第一級の受容力を誇りながら、何一つ新たなものを創造することができなかった「百万石工芸」の温床であったと書かれています。




さらに辛口は続きます。御細工所は「加賀百万石」の悠長にして不毛な浪費の工房で、この温室工房が、現在の「美術工芸王国」とよばれる金沢の伝統工芸の技を育てたのだとよく言われていますが、それは少し違い、金沢の伝統工芸の生みの親は、決して「百万石」ではなかったと解いています。



(綱紀公)


そして近代に生きながらえ、市民権を得た手づくりの技のほとんどは、利常公や綱紀公以来の藩営工の御細工所で育ったものではなく、むしろ、近世の後期になり、温室の外で、新に生まれたものであると断言されています。かって「百万石行列」をマッカーサーの行列といったという浅香氏の反骨と金沢に対して愛憎半ばする情熱か伝わってきます。




何れにしても、彼の発言にも一理あるように思います。廃藩によって「御用職人」や「御細工者」は、路頭に投げ出され、仕事も無くなりますが、細々ながらも、磨いた手づくりの技が受け継がれたのは、明治、大正、昭和のはじめの金沢商人の旺盛な道具購買力であったといわれています。当時、守勢一途の金沢商人は、資産の三分の一は不動産、三分の一は道具にかえ温存し、あとの三分の一は商売にという暗黙のルールが、金沢の伝統工芸を養てたのだという言い伝えとも合致します。


さらにいえば、浅香氏の祖父も父も蒔絵の職人で、彼も旧制中学では、工業学校の図案科に入学し学制改革で新制高校は、そのまま図案科を卒業しています。あの敗戦のドサクサの時代でも将来の工芸のホープとして嘱望されていたと聞きますが、進路を変えて、史学の道に進んでいます。しかし、いまとなっては、確かめるすべもありませんが、彼には、引き継がれた蒔絵師の血が、だれよりも深く鋭く工芸そのものを見つめさせたものと思われます。




多分、藩政期であれば、あの綱紀殿も口が出せない、優れた御細工者になっていたのでは・・・?また、そのまま工芸家になっていれば・・・?私の記憶では、高校の実習の時間、参考作品の中に浅香氏が高校生の頃、描かいたと思われる植物の細密描写だったか?植物の便化だったか?黄ばんだ画用紙に的確に描かれていた習作が、おぼろげながら蘇ってきます。


利常公の孫“綱紀公と文化政策”御細工所①
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11585736675.html
“綱紀公と文化政策“御細工所②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11587451645.html
御細工所③藩政期から明治へ
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11595625108.html


浅香年木(あさかとしき)
昭和時代後期の日本史学者。昭和9年(1934)3月6日生まれ。石川工業高専教授をへて、昭和62年金沢女子大教授。古代・中世北陸の地域史研究をおこなった。昭和62年(1987)4月25日死去。53歳。石川県金沢市出身。金沢大卒。著作に「日本古代手工業史の研究」「治承寿永の内乱論序説」など。


(北陸の風土と歴史)


参考文献:「北陸の風土と歴史」浅香年木著1977・山川出版社ほか

昔の金沢工芸職人②明治から昭和初期

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【金沢】
明治に入ると政府の富国強兵と殖産興業策の中、これといった産業もない金沢では、伝統工芸を基幹産業とします。しかし、藩政末期の美術工芸は、古格の踏襲で、奇をてらった技術の巧みさを誇るもので、精巧で繊細、人が真似の出来ないものを造ることだけを目指したもので、現在、言われている独自性やアートとしての精神性を欠くものでした。


(古格は古来伝統の法で、先例を重要視することで秩序を維持し、下克上を防止することでもありました。工芸においても昔の意匠(デザイン)が最高で、新しい発想はタブーとされています。いつの時代でも、先例重視の作品は抹消的な技術だけにこだわり、生命力がなくなります。そして、誰かがパターンを崩そうとすると疎外され干されてします。)



当時金沢では、離散しつつあった金工や漆器、陶器の工芸職人たちに、殖産興業遂行の手段として、外国輸出のための製品が製作させています。それは工芸というより工業としての側面が強く、個々の作家が作る作品というより、多くの作品は経営者でありデザイナーである工場主を中心とした工房の合作品であったといわれています。


(金沢の街)

その様な明治初期の殖産興業遂行期においても、江戸期の技術を身につけた金沢の職人の中には後継者への指導を怠らず、彼らから指導を受けた人々の中から明治20年に金沢区工業学校(後に県立工業)が出来ると何人もの優れた職人は学校と提携し格調高い工芸品を製作するようになります。



(開校時の金沢区工業学校(県立工業))


明治後期、日露戦争後から一部の経済人の間にも美術工芸に対する関心が高まり、第一次世界大戦以後になると、その裾野も広がり、昭和2年には、官展である「帝展」に第4部(工芸)が新設されると漆器、金工、陶器、木工、染色に携わる職人の製作意欲が刺激され、職人が展覧会に入選することで、作家活動に入り職人と2足の草鞋を履くものも出てきます。



しかし、当時の職人社会は江戸時代と同様で、問屋制資本に支配され、一部の職人を除いて、まだまだ問屋の思いのままに扱われ、職人の作家意識は押さえ込まれ、問屋から命じられた意匠で、工賃を受け取る賃職人として飼い馴らされていたといいます。


(蒔絵のイメージ写真・写真提供・金沢市)


≪落として行け≫
田中喜男著の「金沢の伝統工芸」の中に、昭和前期の問屋の職人に対する横暴さが記されているので一部引用します。「戦前、一般の職人が問屋に製品を持って行く場合、裏口から案内を乞い、店の間かオエ(店の間に中の間)の土間に膝を付き問屋の主人を待つ、主人が出てくると這(は)いつくばった姿で品物を主人に捧げる。ここで値段が一方的に値引きされ、いやおうなしに承知させられます。すると主人は≪落として行け≫という。そこで最大限のお礼を言って退出する。」ということが書かれています。


(取引というより「恵み」という階級意識が見えます。品物が不浄なもので、捨てるように土間に置かれ、主人がこれを拾い上げて代価を恵む・・・。この商人の傲慢さは、昔の武士と町人、百姓の関係そのもので、当時の金沢の持つ一つの真実だった・・・のでしょう。)



(蒔絵のイメージ写真・写真提供・金沢市)


≪いじめて儲ける≫
「商人(あきんど)というのは値切ったり叩いたりして職人をいじめてそれで儲ける。職人てがァ~それでいいがャというのが、たいがい商人(あきんど)さんでス。がめついもんで、ずいぶんわれわれはいじめられたもんでス、」と歴史学者の浅香年木の父蒔絵師の浅香光甫氏が「金沢の伝統工芸」の中で語っています。


(そして、展覧会出品の作品は「材料から製作品まで、自費でまかない、たとえ入選してもほとんど売れません、特に蒔絵は材料、手間とも高価で、次々と作品を出品することは並大抵でなく、経済的に苦しくなり手持ちの作品を売りに行くと、大ていは材料費にもとどかぬ値でたたかれる始末、全部とはいいませんが大方はそんなもんでした。」と、さらに「出品作品をせず、問屋の仕事に専念した方でも、中にはこれも僅かの例外があるとしてもやっぱり良い生活は聞きませんでした。」と昭和の工芸職人の実生活を伝えています。)



(「伝統工芸職人の世界」)


以上は、金沢の伝統工芸と工芸職人のほんの上っ面ですが、それでも、歴史を遡れば、昔々、藩政期は、藩や藩士は無理してでも金を使って職人や商人を支え、明治、大正、昭和の金沢の人々は工芸や工芸職人には尊敬の眼差しを送り続けてきました。そして、今、金沢市では北陸新幹線開通を当て込んで、工芸頼みで、何度目かの工芸ブームを仕掛けています。



(「金沢の伝統文化」)


参考文献:「金沢の伝統文化」田中喜男著 昭和47年2月 日本放送協会発行・「伝統工芸職人の世界」田中喜男著 平成4年2月 雄山閣株式会社発行

山出保氏と「金沢らしさ」と・・・。

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【金沢市・金沢学生のまち市民交流館】
報告が遅れましたが、先日、金沢学生のまち市民交流館交流ホールで、元金沢市長の山出保氏と建築家の水野一郎氏による対談“「金沢らしさ」を守るまちづくりと次世代への期待”が開催されたので参加させて戴きました。



(対談1)


主催は“「金沢の気骨」を読む会実行委員会”という若手市民のグループが、質の高いこれからのまちづくりを目指し、昨年(2013)9回にわたり山出氏が著した「金沢の気骨」を題材に、山出氏を囲んで行われた論点提起や議論をまとめた報告書の発行を機会に開催されたものだそうです。


(対談は、北陸新幹線開業以後のまちづくりの議論を深めるために、方法論から哲学、さらに次世代への期待も含めた約2時間。対談の相手は、金沢のまちづくりの表現者の1人として山出氏と関わった著名な建築家水野氏との息のあった掛け合いで、内容も素晴らしいものでしたが、絶妙の間が時間を忘れさせ、楽しいだけでなく、私にとって、さらなる郷土への思いを駆り立てさせられる時間になりました。)



(夜の広坂・香林坊)

(会場の金沢学生のまち市民街交流館・旧佐野家)


最近は、夕食を食べると直ぐに寝てしまい、夜の外出が少し無理になってきましたが、何しろ山出氏のお話だというので、寝だめして、夕食抜き、しかも、雪で1日外出なしで運動不足が気になって、物好きの声を後ろに雪の町を歩いて参加させて戴きました。山出氏は、お付き合いこそ有りませんが、仕事を止めて、やることがなくなって、ある意味喜んでいた反面、目的を見失っていた私の老後に火を点けた人で、昔から自分勝手で気ままな私をニワカ郷土愛者にしボランティア活動の道を開いて下さったと一方的に思っている恩ある人です。


山出保さんの「金沢の気骨」市民が見つける金沢再発見
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11521372792.html



(対談2)


さて、対談の様子ですが、お2人の取って置きの昔話や金沢の建物にまつわる裏話から「金沢らしさ」「革新と伝統」「本物」「コミニュティ」「次世代への期待」など、金沢のまちづくりの経緯や理念に関して、文章では書き切れない、心が伝わる深い話が盛りだくさんで充実した時間でした。


(報告書)

(白板の本物論・・・)

対談の内容については、330ページにまとめられた報告書に沿うもので、報告書は、まだ読み終わっていませんが、私の知る限りの「金沢本」のなかでも秀逸なもののように思へます。少し専門的で、本物論では真正性オーセェンティサァテイ(Authenticity)やジェントリフィケーション(Gentrification)、革新と伝統論、金沢らしさなどでも、私の理解力や読解力ではまだまだ及びませんが、この報告書は、参加者だけが知っていればいいというものではなく、金沢市民に伝えたいことがいっぱい詰まったもののように思へました。



(ポスター)


そして、次世代への期待については、一世代が約30年とすれば、この読む会に参加されたみなさんは私から見れば次世代であり、彼らがこれだけ熱い思いで語っているのですから、彼らの子ども世代には必ず伝わると思いました。


(読む会、対談ともに他所から金沢に移り住んだ人が意外と多いように思います。金沢にきた動機は様々でしょうが、それでもこの場に来るという事は、金沢の何かに惹かれるものがあるからだと思われます。彼らには地元に住んでいるものには見えない金沢が見えるはずです。そして彼らの目と思いが、私たち金沢生まれ者が他所の方から金沢の良さを気づかされたように、やがて金沢の子ども達をゆさぶることになるでしょう。期待します。)


(12月15日の北国新聞朝刊記事)

≪観光ガイドネタになりそうな話≫


倉庫の活用研究から生まれた芸術村(五木寛之の発言:芝居小屋は小さくて、汚くて立見が出来るところがよい。山出氏)(モルタルやコンクリートをまくるとその下はレンガだった。他にも金沢は江戸、明治、大正、昭和と重層しているのがおもしろい・・・水野氏)


金沢駅の鼓門(高名な建築家が、町にはフランスのように門が幾つもあったほうが良いといった。山出氏)(鼓門は、初めから鼓を意識していなかったが、木が立っているだけでは面白くないので捻りを入れたのを市民が鼓門と名付けたらしい。水野氏)


金沢駅のもてなしドーム(駅の建設にあたりアンケートをとると、兼六園のミニチュアや金沢の瓦を配せという意見が多かったが、瓦ではなく傘になった。しかもガラス張りで、ビニール傘のようになったが、実に金沢らしさ・・・。また導線は駅からそのまま真っ直ぐ歩いて外に出る。水野氏)等々



金沢駅もてなしドーム)


多くのテーマで語られた“「金沢の気骨」を読む会の報告書”も“対談”も、内容が詰まっていて盛り沢山。一寸やそっとで消化出来そうもありませんが、これからコツコツと読みながら気づいたことを書く楽しみを戴きました。今回は、この対談でも述べられ、以前、私どもの記念誌にも寄稿戴いた山出氏の「金沢らしさ」を記させて戴き一区切りにします。



(犀川と用水)


≪山出氏がおっしゃる金沢らしさ≫


一つは、「まちのすべてがヒューマンスケール」であることだと思います。まちなかに広見とか境内とかの小空間があります。道路は狭く、国道ですら幅員は22メートル、そこをミニバスの「ふらっとバス」が走ります。旧市域は歩く範囲。これらがフレンドリー、親しさの背景です。


二つは、「緑と水の癒し」が「金沢らしさ」の一つでしょう。しかも、この緑と水がまちなかにあって、だからこそ金沢は、四季の移ろいが鮮やかで、住む人、訪ねる人の心が癒されるのです。


三つは、「金沢はあらゆる面で、ハイグレード、ハイクオリティ、ブランドイメージ」を追い求めるまちだと思います。この背景は、金沢が武家社会であったこと、武家社会は格式社会であったことと無縁ではありますまい。また、学都であること、美術工芸王国であることも品質にこだわるバックグランドでしょう。金沢は「いい加減なこと、生半可なこと」の許されないまちだと心得ます。そして、このことが市民の誇りにもつながっているのです。


四つとして「もてなし、思いやりの心」が挙げられます。玄関の打ち水、雪道での譲り合い、お裾わけなどの心の優しさが、金沢の自然、歴史、文化、市民性のなかから育まれてきたのでしょう。



(まいどさんのあゆみ)


対談『金沢の気骨』「金沢らしさ」を守るまちづくりと次世代への期待
山出保(前金沢市長)×水野一郎(建築家)
コーディネーター 内田奈芳美(埼玉大学経済学部准教授)
日時2014年12月14日(日)18:00~19:45(開場17:45~)
会場 金沢学生のまち市民交流館 交流ホール(石川県金沢市片町2丁目5番17号)


参考資料:「金沢の気骨」を読む会報告書2014年12月発行「まいどさんのあゆみ」2014年1月発行

羊(ひつじ)と兼六園

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【兼六園→尾山神社】
来年の干支は”羊“・・・。年賀状、そろそろ作らんなん!!そんなことを思いながら兼六園を歩いていました。フウッと頭に浮かんだのが10年ほど前?何かで読んだ兼六園で羊を飼っていた話です。それからが大変!!資料集めです。整理が悪いのに10年前かどうかはっきり覚えていないので、とにかく何冊もある兼六園本のページをめくり、スクラップを探しました。


(兼六園の朝日)


(始めに見つかったのは、兼六園の資料ではなく、金沢城の本で“1830年(天保期)頃の金沢城“の絵図?の金谷御殿に「綿羊小屋」と書かれていました。しかし、同じ本の1850年(嘉永期)頃の金谷御殿には、御殿は増築されていて、綿羊小屋は跡形もありません。しかしその本の”藩政立て直しと隠居政治”の中に、ほんの一行だけ竹沢御殿の綿羊小屋に触れています。)



(よみがえる金沢城)


資料を探している内に、断片的にですが思い出が浮かびます。うろ覚えで後で思い違いが分りますが、竹沢御殿では、余りにも臭いが強烈で、竹沢御殿の主ご隠居斉広公が臭いを嫌らい小屋を金谷御殿に移されたとか、幕府から拝領されたことから、捨てるのも食うわけにもいかず、目的も無く、ただ、生かしていただけだ、等など。曖昧な記憶が蘇ってきます。




(金谷御殿跡・現尾山神社)


どうも見つからなかったのは、何冊かの兼六園本やスクラップの中に有ると思い込んでいたのが間違っていたようです。思い直し、年代順に綴った新聞のスクラップを捜し直すと、ちょうど10年前、平成16年(2004)4月30日の北国新聞朝刊に記事を発見しました。



(平成16年(2004)4月30日の北国新聞朝刊に記事)

その記事によると、羊は文政4年(1821)に幕府から綿羊4匹を拝領し、竹沢御殿(今の兼六園)の西側に造った土蔵「御鳥部屋」で飼育が始まったそうです。当時、竹沢御殿の造営はすでに進められていました。実際に斉広公が隠居したのは、翌年の文政5年(1822)11月に正式に幕府から斉広公の隠居と斉泰公の家督相続が許可されます。


(綿羊小屋が書かれている金谷御殿絵図)


そして、羊が金谷御御殿に移されたのは文政8年(1825)。斉広公の逝去後ですから、斉広公が臭くて金谷御殿の移したのでは無い事が分ります。また、学者によれば綿羊は無目的で飼っていたのではなく、当時、赤字財政に悩む加賀藩で、新たな産物として毛織物に目付けていたといいます。


(12代加賀藩主前田斉広公、天明2年(1782)9月5日~文政7年(1824)8月4日)



(オランダ産の4匹の綿羊が・・・)


「竹沢御殿①~③」市民が見つける金沢再発見
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11733078614.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11735068981.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11738503174.html



その後、綿羊の行方は、文政9年(1826)藩は、持て余したのか町民らに飼育を募るが、希望者がいなかったため、そのまま飼育し8年後には27匹に増えたといいます。結局、藩は文政11年(1828)に町人に譲り渡したそうです。



(竹沢御殿跡・現兼六園、場所は分りません)


その後、加賀藩で毛織物が作られたという記録はありません。食ってしまったのでしょうか?飼育はそれなりに繁殖していることから成功かも、毛織物が作られていれば、絹織物と並び石川県は今にも増して繊維の一大産地になっていたのでは・・・・・?



(よみがえる金沢城より)


参考文献:「よみがえる金沢城」石川県教育委員会、平成18年3月発行・平成16年(2004)4月30日北国新聞朝刊より

兼六園の栄螺山(さざえやま)

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【金沢・兼六園】
栄螺山(さざえやま)は、最近発行された「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」に”観光客が発見した栄螺山のナゾ“として紹介されています。9mたらずの築山ですが、文章には、左巻きですが「さざえ」に似ているからとか、江戸の加賀藩上屋敷の栄螺山の名前を真似て付けたという説があると書かれ、まだまだ定説の覆す発見があるかもしれないので、「散歩しながらよーく観察してみましょう。」と締めています。



(三重宝塔)

(金沢めぐりとっておき話のネタ帖より)


ある説によると栄螺山は、藩政後期、東北や関東で流行った仏堂で、堂内が回廊で、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うという螺旋構造の建物の外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂(さざえどう)」と呼ばれたものを模したものかもと、一寸眉唾ですが聞いたことがあります。



(金沢めぐりとっておき話のネタ帖)


これも聞いた話ですが、兼六園が藩政期までは山頂まで仏像を模したものか幾つもの灯篭が立っていて、明治になり一般開放され、盗まれたのか一つ減り二つ減りし、今、山には一つも残っていませんが、ただ一つだけ残っているのが霞ヶ池に浮かぶ蓬莱島(亀甲島)の亀の尻尾にあたる灯篭が、栄螺山にあったものだといわれています。しかしこれも定説を覆すだけの証拠も根拠にもなりません。



(栄螺山にあった灯篭・亀の尻尾)


栄螺山について書かれたものを拾ってみますと、始めて聞くこともあり兼六園の奥の深さを痛感します。「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」にも書かれていますが栄螺山は霞ヶ池の排土を盛り上げで築かれた人工の山で、天保8年(1837)13代藩主斉泰公の指示で、竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池が広げられ栄螺山が築き足されました。天保10年(1839)には山頂に三重宝塔が建立されます。三重宝塔は、先代斉広公の正室真龍院と斉泰公の生母で側室栄操院が斉広公の供養のために建立したものだそうです。




(三重宝塔と避雨亭)

(栄螺山より霞ヶ池)


(竹沢庭とは、隠居所竹沢御殿を13代藩主斉泰公が建物を取り壊し庭園にしたもので、先代の慰霊空間でもありました。後に地続きの蓮池庭との間にあった門と柵をはずし一体化したのが今の兼六園です。)



(三重宝塔・軒に24個の風鎮が・・・)


この三重宝塔は、戸室山から切り出した石で造られ、斉広公の祥月命日を前、7月4日に笠石が置かれ、その日は斉泰公も栄操院も見物するため、まだ幾つか残っていた竹沢御屋敷の2階から見物するため訪れています。また、今はありませんが、宝塔に24箇の風鎮は、斉広公の娘厚姫と勇姫が分担して納められたといわれています。



(下から見上げた三重宝塔)

(栄螺山の上り口)


三重宝塔の龕(がん)の中には、12代藩主斉広公自筆の法華経と斉広公の木像を納めたのは、斉泰公で斉広公の供養のためですが、明治になり公園として開放されると、いつの間にか木像は紛失し、経巻は当時の県勧業博物館に保管されていたそうです。


(失った木像は、斉泰公の生母栄操院小野木氏が能登珠洲の法住寺の霊木吼木桜で刻まれたものだといわていました。)


(対岸からみえる三重宝塔)

当時の三重宝塔は、斉広公の供養の場であることから、前には小石が敷かれていたそうで、清浄さを保つため、草履を脱いで、素足で上がったと、天保11年(1840)9月26日に竹沢庭を見分した年寄村井長貞が日記に書いているそうです。



(栄螺山の案内板)

竹沢庭は真龍院にとって斉広公を偲ぶ場であり、竹沢御殿の跡に建物を建てることを好まず、庭園化にすることを願っていたものと思われます。そして、竹沢庭の改修は、孝心を尽くす斉泰公が真龍院を迎えるために行われたものと解釈すれば、栄螺山の三重宝塔はその竹沢庭の中心であったのでしょう。


参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著、桂書房2006年12月発行・「百万石太平記」八田健一著、石川県図書館協会昭和39年7月発行・「金沢めぐりとっておき話のネタ帖」北国新聞2014年11月発行


兼六園の金仏さん①

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【兼六園】
兼六園の金仏さん!!いや、「公園の金仏さん」。明治9年(1876)生まれの祖母が、昔、兼六園の日本武尊(やまとたけるのみこと)の銅像をそのように言っていたのが、頭の隅にこびりついていたのか、昭和30年代(1955~1964)に八田健一氏か書かれた郷土シリーズ「百万石太平記」を読んでいると“公園の金仏さん、日にち毎日雨ざらし”という唄が書かれていて“やっぱり”と思った覚えがあります。


(当時、兼六園の名称は兼六公園で、通称「公園」と呼ばれています。それにしても仏さんでもないのに金仏さんとはネェ・・・。)



(兼六園(公園)の金仏さん)


公園の金仏さんに“日にち毎日雨ざらし”なんて落ちが付いて洒落ていますが、金仏さん(日本武尊の銅像)は野暮な戦争の遺産です。明治10年(1877)の西南戦争に戦勝した記念に明治13年(1880)に建立された日本で最初の銅像だそうです。しかも、皇室所縁からか、ほとんどの金物が出兵(強制供出)した第二次世界大戦でも免れ、以後も兼六園に不似合いだと批判されながら今も健在です。誰の銅像かも知らない観光客でも、余りに堂々としているので仰ぎ見ても頭を垂れことなく和やかな親近感を覚えるようです。



(西南戦争の碑)


何故、兼六園に日本武尊(金仏さん)なのかということですが、聞いた話によると話が幾つもあって、書けば長くなりそうですが、簡単にまとめて並べてみます。先ず一つ目は、西南戦争と大昔に日本武尊が九州で熊襲退治をした故事と重ね、西南戦争の戦勝を記念して建てられたもので、戦争に派遣され戦死した郷土の将兵を祀った慰霊と顕彰のための碑だそうです。


(石川県から約2,000名の将兵が参戦して、約400名が戦死しています。)



(明治記念之標の文字と「なめくじ」「へび」「がま」形の石)


二つ目は、朝廷軍及び明治軍の最高司令官の有栖川宮家と前田家の婚儀が成立したことから、前田家と皇室の関係が深まることへの期待もあり、日本武尊像が建立され、台座の石積みには有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の御染筆による「明治記念之標」が刻まれています。


(有栖川宮熾仁親王は、「宮さん、宮さん、お馬の前に・・・」と歌われた宮様で、皇女和の宮の許婚だった皇族です。熾仁親王の異母弟、威仁(たけひと)親王は有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第四王子で、妃は前田家14代前田慶寧公の娘慰子(やすこ)。)



(日本武尊像①)

三つ目は、加賀国は、弘仁14年(823)2月、わが国で最後に建てられた国で、加賀の地名は賀(よろこび)が加わるという意味だそうです。日本武尊が東征の後、越前の荒乳山を越え北陸道を下ったとき、武尊の皇兄大確尊が加勢のため数万の兵を率いて江沼郡で追いついたのを武尊が大いに喜びを加えられたので加賀国と号したと伝えられています。


(平成の修理に定礎)

この銅像の建立は、当時、全国的な大ニュースで明治13年(1880)7月30日の「朝野新聞」に取り上げられ、金沢だけでなく中央にまで注目されていたようです。記事を要約すると、寄付金をする者がおびただしく多くすでに起工中で、記念之標の台石は、旧金沢城鼠多門の内(玉泉院丸)にある大石170個を使用することにきまり、城内から公園までの運搬に1、080円で金沢町の職人が請け負ったと記しています。



(日本武尊像②)


さらに、碑上に高さ1丈8尺の日本武尊の神像をすえるそうで、その鋳造は越中高岡の銅工が3,000余円で請負、その総工費は1万100円の見積もりで近く落成の上は大祭典を執行し、東西両本願寺の大教正を招請するはずたと記しています。


(台の石組は、玉泉院丸のものだけでなく旧藩老奥村邸の滝壷のものも用い、コンクリートを使はずに積み上げ、俗説では、積まれた「なめくじ」「へび」「がま」形の石が三すくみの緊張感で崩れないのだといわれています。銅像の高さ5,5m、重さ5t、台の石組みは6,5m)




(台の石組みと越前石の石柵)


明治13年(1880)10月26日から30日までの5日間、東西本願寺の法王を招請して盛大な祭典が厳修されたと伝えられています。その時、明治天皇から御下賜金一封100円、前田慶寧公700円、前田斉泰公250円、東本願寺2、000円、西本願寺外回り24間の石柵、寄付はその他多数。

(当時の役人の月給は5円だったとか・・・。)

(日本武尊像の解説)


(つづく)


参考文献:「百万石太平記」八田健一著、石川県図書館協会昭和39年7月発行、他

兼六園の金仏さん②

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【兼六園】
歳なのか、何かにつけて昔聞いた話が頭をもたげてきます。「公園の金仏さん」を書こうとあれこれ思いを巡らしていたら、50年ぐらい前、富山出身の友人との雑談の中に、祖父か曽祖父か忘れましたが「俺の爺さんが、日本武尊の銅像を造った!!」といっていたのを思い出しました。




(日本武尊銅像)


当時、余り関心もなく「ヘイ」とか「ホンマ」とかいって聞き流していたのか、すっかり忘れていました。八田健一氏の「百万石太平記・金仏さん」の記事に鋳造した7人の名前が書かれている中に彼と同じ苗字が2つあり、思い出したという次第です。



(千歳台より望む)

その文面には「鋳造は越中高岡町金屋町の藤田治三郎、吉野仁左衛門、小坂六助、金森長助、金森治助、藤田久平、金森吉郎の7人が分担して明治13年(1880)7月13日着工、10月19日竣工。その世話人は金沢栄町野村与平と高岡金屋町大浦三右衛門とあった。」と書かれています。

(やっぱホンマやったんや・・・!!50年ぶりの納得。)


(頭上にはカラスが・・・)

≪金仏さん、高岡から金沢へ≫
私の昔のメモに、日本武尊の銅像が高岡から運ばれた時の話が書かれています。出典までメモって無いので要約ですが、話は昭和62年(1987)市内の一市民が亡父の思い出話として書かれたもので、当時、筆者の父が県庁に勤め、銅像建立の責任者に選ばれ、高岡の工場から大八車を連ねて金沢に運ぶくだりが記されていました。


銅像を白布に巻き、責任者の父は赤い鉢巻きを巻き赤い采配を振り、木遣り音頭を歌い、30人の人夫が木遣りに合わせ「えんやえいや」と引き、運びますが、倶利伽羅の麓と森本そして大樋口と3度に渡り人夫が賃上げストライキを行ったそうです。


さすがの3度目には責任者の父は激怒し賃金を払い全員解雇し、近くの民家を起こし、ジャッキなどを借り急場を切りぬけ、無事に建立出来たのは、招魂祭当日の旭の昇る頃だったとか。と書かれていました。


(ほかメモには、銅像の前にある赤松は「手向けの松」といわれ左が西本願寺、右が東本願寺の門徒から手向けられたものだと記されています。)


(銅像の前の橋・火除けの龍彫刻)

(冬は橋に菰掛け・福田伊之助作)


≪金仏さんとカラス≫
10年ほど前、平成15年(2003)10月16日の北国新聞に日本武尊像は「カラス」が寄り付かないということが載っていました。その記事によるとこの像は、カラスを撃退する究極のカラスキラー金属で造られているのだそうです。


(カラスと銅像)


この日本武尊像は、明治13年(1880)の建立で、以来約130年間にわたり鳥が拠りつかない事に注目した当時の金沢大学理学部の広瀬幸雄教授が銅を分析した結果、この銅には、鉛と砒素(ひそ)が含まれている事を突き詰め、金属版を作り何度も実験を繰り返すことから発見したそうです。



(銅像に鳩が、こんな例外もいます。西川正一氏撮影)


10年前の記事ですが、特許を申請し、実用化へ改良を進めていると書かれています。今のところ実用化したとは聞きませんが、その記事には、広瀬幸雄教授がアメリカのハーバード大学で「ハト(鳥類)を寄せ付けない銅像の化学的考察」で「イグノーベル賞化学賞」を日本人として2人目に授賞したことが記されています。しかし、今、この大発明のその後についてはよく知りません・・・。


(「イグノーベル賞」とは、別名「愚かなノーベル賞」というらしく、ユーモアと独自性を兼ねた研究と開発に贈られるものだそうです。)


広瀬幸雄教授は、学生時代からカラスが寄り付かない銅像に気付いていたそうで、昭和63年(1988)から日本武尊銅像の修理の専門員として参加され、その時、銅像の一部を切り取り成分の分析する機会を得たとのことがこの発明に繋がったそうです。



カラス飛び交う、左は金沢城跡、右、兼六園)


あれから10年、日本武尊像には、今まで通りカラスは寄り付きませんが、今、兼六園、金沢城跡のカラスは減るどころ以前より多くなっているように思われます。10年後の今、毒といわれる砒素(ひそ)入り銅版の実用化は難しいのでしょうか・・・。


(広瀬教授は、カラスだけでなく、コーヒーについても詳しく、日本コーヒー文化学会副会長、およびコーヒーサイエンス委員会に所属し、大学でコーヒーについての講義も行ったという先生で、本業は「専門分野は材料破壊の理論計算と実験」、学位は工学博士だそうです。)



参考文献:「百万石太平記」八田健一著、石川県図書館協会昭和39年7月発行、北国新聞平成15年(2003)10月16日記事・他

兼六園の鶺鴒島(せきれいじま)

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【兼六園】
鶺鴒島(せきれいじま)は、兼六園の小立野口から入ると突き当たり花見橋の右側、曲水に囲まれた15坪くらいの島です。由来については今のところ記録も伝承も見つかっていませんが、東南に向かって高さ約3mの明神鳥居がありますが社殿はありません。「三社」と彫られていたという石額が掲げられていますが、今は風化して判読できないのが一寸残念です。

(鶺鴒島)


(鶺鴒(せきれい)は日本書紀によると、イザナギ、イザナミに尊に男女和合の道を教えた鳥といわれ、その故事より、その名が付けられたといわれています。また、藩政期、大名家は世継ぎが絶えるとお家断絶ということもあり、子孫繁栄が最大の関心事だったことによるといわれています。)



(三社の石額)


鳥居の「三社」の神号は、伊勢、八幡、春日または加茂、いわゆる三社を指すのか、あるいは白山の御前峯、大汝峯、別山の神に当たるともいわれていますが、現在のところ謎です。



(左、陰陽石の後ろが相生の松)

この島は人間の一生が表現されているといわれ人生の三儀式である「誕生」「結婚」「死」をそれぞれ「陰陽石」「相生の松」「五重の石塔」で表し、配置されていて、別名「夫婦島」ともいうそうですが、他では余り見かけない珍しい構成だそうです。


(島の左側には、男性のシンボルを象った陽石と女性を表す陰石の一対の「陰陽石」が、石の後ろには雄松、雌松の「相生の松」、島の右端には「五重の石塔」があります。)


(陰陽石と間の尖ったいしは歌碑)

(五重の石塔)

陰陽石というのは、女性器(陰石)と男性器(陽石)を象った自然石のことで、庭園に陰陽石を配置するのは造園の決まりだったそうで、庭園には配置されているらしく、例えば有名な小石川後楽園(東京)、岡山の後楽園(岡山)、栗林公園(香川)にも、陰陽石があると聞きます。



陰陽石の間に尖った石に歌が刻まれています。また、左側の陽石が、途中で折れたのか?短いので歌が刻まれた尖った石が陽石と間違えられるそうですが、それもガイドが付いて説明を聞いたお客様だけで、ほとんどの観光客は、何も気づかずに通りすぎていきます。


(子供の頃、観光客の後ろに付いて説明を聞き、自分だけが知った秘密と思い込み、学校でひそひそ話をしたことが思い出されます。)


尖った石には、歌が刻まれていて、これもほとんど判読できませんが、資料によると以下の歌だということが分ります。


陰陽の神のちかひや世々までも 姿をかへず立てる此石


君徳をあらはす枝の千代こめて 契る連理や相性の松


裏面には「連理枝相生松、天然形陰陽石、文久二年壬戌夏日、建於鶺鴒山、遂庵市河三乳書」とあり、幕末の三筆の一人市河米庵の書であり、陰陽石も鶺鴒島も文久2年(1862)頃に造られたものと推測できます。


(長山直治氏の「兼六園を読み解く」には、鶺鴒島の詳しい記事はありませんが、本に掲載されている文久3年(1862)の「兼六園図(玉川図書館大友文庫蔵)」には橋が架かっていて鶺鴒島が名称は書かれていませんが島が描かれています。この図には、竹沢御殿の建物はすべて壊されていて、霞ヶ池は現在とほぼ同じ、水樋上門や塀はなく、蓮池門は長屋門になっています。)




(15坪の鶺鴒島)

ここの樹木や庭園工作物、自然石などは非対称の組み合わせですが、全体として均整のとれた日本庭園になっていて配置は絶妙らしく、他の庭園には余り見られないものだと絶賛したしている記事を何方かのブログで拝見しました。何時も見ている私にはそんな見方が出来かくて、教えて戴きました。ありがとうございました。



(宮島五葉松)


鶺鴒島の前のすぐ傍らに接木ですが樹齢200年といわれている「宮島五葉松」があります。県内でも一番大きな「五葉松」で、枝はいくつも分かれていて幹から枝とも激しくねじれています。俗説では、余りにも仲睦ましいので焼餅を焼いてねじれたのだと伝えられています。



参考文献:「兼六園を読み解く」長山直治著、桂書房2006年12月発行・「百万石太平記」八田健一著、石川県図書館協会昭和39年7月発行、他

ヒューマンスケールの金沢(親しみ)

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【金沢市】
前金沢市長の山出氏は「金沢らしさとは何か」のなかで、ヒューマンスケール(親しみ)を第一に上げられ、ほどよい規模の町だとおっしゃっています。金沢の旧城下はお城を中心に何処へ行っても歩いて30分以内で行けること、しかも、道は狭く向かい側との会話も可能で、スペースとしての広見、寺や神社の境内など、昔からの金沢らしいコミュニティのあり方やその空間も金沢の特色だと強調なさっています。


(近頃は、歩いて行けるところへもマイカーを乗り回す横着者に眉をひそめ、金沢の町をズタズタにしないかと心配なさっています。)



(今の金沢城橋爪門)


(今の金沢市内の一部・兼六園より)

金沢の旧市内は、ご存知の通り藩政期の金沢城下をそのまま受け継いだ町です。幕末の面積を計測すると約10k㎡(人口明治4年123,363人)で、明治22年(1889)市制が施行されたときの市域面積は10,4k㎡(人口95千人)と記されていて人口は29千人減っているものの、市域は、ほぼ金沢城下そのままが金沢市になりました。


≪参考≫
大正 2年・市域  10.40k㎡  人口129千人
大正14年・市域  20.05k㎡  人口147千人
平成24年・市域 468..22k㎡ 人口462千人


金沢に限らず城下町は、お城を中心に町が広がっている場合が多く、金沢城下の10k㎡の町は、お城を中心とした円とみなすことができ、その10k㎡の半径は約1,8km。歩行時間は単純に30分以内ということになります。厳密にいえば城の半径が約400mですから、城から町端まで1,4kmで歩行時間は20分以下。当時日本随一の百万石の城下町であってもこの程度のスケールであったのです。



(藩政期、半径1,8kmの金沢城下)


今、その距離を車で移動すれば2~3分というところです。歩行を交通手段として計画されたまちづくりですから、現代の都市とは大違い、もともと城下町はヒューマンスケールであったわけです。






(城下町)


(ヒューマンスケールとは、物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなども含め、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを物差しにして考えることで、人間の感覚や動きに適合した適切な空間の規模や物の大きさのことであり、人間が中心だということです。)




(今も残るヒュウーマンスケールの街並)


現代が目指した都市は、「車」を最優先する「モータリゼーション社会」や、「資本」を最優先した巨大都市で、脱ヒューマンスケールで、どこも同じような建物が並ぶ規格化された社会です。それが巨大化すると人間疎外に陥りことを知り、やがて「人」を中心とした「ヒューマンスケール」のまちづくりが何よりも大切だったことに気づきはじめます。



(変わる街並)

話は変わりますが、私も、今まで何気なく便利で乗っていた「ふらっとバス」に思いが至りました。今となれば金沢でも「車」依存からの脱却は難しいとしても、依存度、渋滞の軽減へのアプローチとして、ヒューマンスケールの「ふらっとバス」の導入は「歩く」視点に立ったまちづくりの一環として取り組まれていることに気づかされます。




いずれにしても、金沢は400年以上も戦災に遭わず、藩政期からの道が今も多く残り、小路に入ると、進入禁止や一方通行が多く、ややこしくて観光客は当然としも市民でも場所によっては車では走りにくく、反面、歩くのが楽しい町であることは確かです。




(「金沢の気骨」を読む会の報告書)


山出氏は「全てがヒューマンスケール」とおっしゃっています。「全て」とは「いっさい」「全部」ということでしょか、そしてモノもココロも・・・。それで無ければ金沢らしさではないのかも・・・。

緑と水のいやしの金沢(安らぎ)

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【金沢市】
山出氏は「緑と水の癒しが“金沢らしさ”の一つでしょう。しかも、この緑と水がまちなかにあって、だからこそ金沢は、四季の移ろいが鮮やかで、住む人、訪ねる人の心が癒されるのです。」と語られています。



(浅野川大橋より)


“緑と水”は何処の都市にもあり、金沢だけの特色とはないと思われがちですが、金沢の地形は、街の真ん中に緑があり、二つの川が流れ、緑や水が直ぐそばに感じるのが”よそとは違う“といわれる所以です。



(金沢城址)


金沢で学生時代を過ごした昭和の作家中野重治は、代表作「歌のわかれ」で金沢を偲び“一種不思議な町だった”といい、「・・・街全体は二つの川と三つの丘にまたがってぼんやりと眠っている態であった。」と回顧し皮肉を込めつつ、金沢らしさをお書きになっています。




(浅野川と犀川の二つの流れ)


近世の城下町だった日本の多くの都市は扇状地の平野部に立地していますが、金沢城下は、中世の防御的な性格をもった寺内町が始まりで、戦闘的な山城の形を幾分残し、やや丘陵地寄りに立地しています。遠く飛騨の連山の“尾っぽ”にあたる丘陵地で、山間から流れだす犀川と浅野川の二つの川によってつくられた小立野台地が町の真ん中に迫り出し、その先端に兼六園を含む金沢城があります。また、両側には卯辰山と寺町台があり、町全体が三つの丘と二つの川とその扇状地にまたがっています。



(卯辰山より小立野台と飛騨につながる山々、真下は浅野川)


金沢の緑を象徴する金沢城公園、兼六園、本多の森を専門家の間では「緑の心臓」というそうです。それは景観上、金沢の中心部を占めている緑地だというだけでなく、市街の各地への動植物の供給地として機能しているということだそうです。


(寺町台より小立野台)

金沢城公園の緑は、藩政期、城郭という性格上、制約を受けたものと思われます。明治以後の軍隊時代も同様で、現在の姿は、第二次大戦後、金沢大学の敷地となってから、基本的には人間が意識的に育てたものです。専門家が管理、運営にあたり自然の持つ力を働かせながら、この地に自生する植物を量的にも質的にも豊かにすることを目指し、時期に応じて適切に手を加えたもので、この地の植生に任せたものだそうです。






(今の金沢城公園)


兼六園は、今更いうまでも有りませんが、日本を代表する大名庭園で、人工の極致という評価もありますが、この土地のもつ植物的自然が上手く生かされ、自然の力を確実に働かせた庭園だといえます。金沢城公園、そして兼六園の植生は、共に原生のものではありませんが、地域の自然の規則に従った植生配列を無理なく再現、維持されているのだそうです。




(兼六園)


本多の森は、市内の中心にありながら、金沢城公園や兼六園とは異なり、本来の原生に近い植生が保全されているらしく、犀川右岸の河岸段丘の崖地にあり、古くから金沢では、崖に建物や工作物の建設がタブーとされていたため、原生に近いものが今も現存し、“縄文時代の森“を感じさせます。





(本多の森)


また、金沢には犀川と浅野川の河岸段丘の崖がよく発達し、崖面上に植生が維持されています。それらが金沢城公園、兼六園、本多の森の緑地とつながり、生物の移動を可能にする道となります。主な河岸段丘崖が4本ありそれらの道が何れも山地につながり回廊になっていることから、専門家には「緑の回廊」と呼ばれ、「緑の心臓」につながり緑のネットワークが形成されています。それが金沢の緑の特徴といえます。


(昨年、町の中心にある金沢城公園に熊の出没したこともありました。)



(兼六園の噴水辺り)


≪緑の都市宣言≫
緑は、すべての生命の根源であり、自然の健やかな脈搏そのものである。
人類の生存と繁栄のために、失なわれゆく緑を回復し、
保全し、発展させ、かけがえのない自然を守り続けたいと願う。
この願いをこめて
私たちすべての市民は、うるわしい自然を今に伝える
誇り高き"森の都金沢"を永遠の緑のまちにすることを宣言する。


(昭和49年6月12日議決)




(鞍月用水)

金沢の水といえば、冒頭に書きました犀川と浅野川の二つの流れがありますが、特徴として町中に巡らされている用水は見逃すことはできません。400年前には犀川と浅野川の流れしか無なかった金沢の街中に、150Km、55もの用水を流れています。それら全てが藩政期に開削されています。



(市内を流れる用水)

城下町の建設資材の運搬や城内外の惣構のために造られたものといわれていますが、今も灌漑用水だけでなく都市の景観や市民の癒しの空間、冬ともなれば雪の始末などにも活かされています。


“二つの流れ遠長く霊沢澄んで涌くところ”
“眺め尽きせぬ兼六の園には人の影絶えず”


90年前、金沢市歌には「金沢らしさ」が歌われています。
そして、そのまま、未来へ・・・。


≪犀川から浅野川へ辰巳用水①≫
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11727805597.html
≪油瀬木から子守川股地蔵尊まで鞍月用水①≫
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11812568033.html
他に当ブログ「市民が見つける金沢再発見」には、金沢の用水の記事多数あります。



(犀川左岸の崖沿い)


参考文献:「金沢中心部の都市緑地」古池博氏の観察テキスト・「金沢の家並」島村昇著、鹿島出版会、1989年7月発行・「金沢の気骨」を読む会報告書2014年12月発行など

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