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金沢・西町の大切な3つの建築物

【金沢・西町】
先日、金沢の建築家の皆様の「金沢まちなみツアー」のご案内をさせて頂きました。2時間一寸。武蔵が辻の近江町いちば館から尾崎神社経由で鞍月用水沿い“せせらぎ通り”の「香林坊にぎわい広場」まで。このコースで巡るのは前週のリハーサルに次いで2回目。何れもよく知っているところですが、新旧の建造物や改修された用水の開渠などを繋げたコースは金沢のまちづくりに熟知した建築家の皆様のプランで、切り口を変えればこんなコースが組み立てられることを知り、その新鮮さと金沢の奥の深さに感動しました。


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(西町3番丁の通り)


当日は、青草町の村野藤吾氏の北國銀行、谷口吉郎氏の旧石川県繊維会館、大正時代に建てられた各部屋で茶事ができる露地のある園邸・松向庵、尾崎神社、設計者も参加された新築の金沢商工会議所、尾山神社そして市がご苦労され開渠された藩政期の西外惣構の堀と堀沿いの「せせらぎ通り」を巡りました。

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(古地図にツアーコースとダブらせると)


今回のツアーは、どこも書きたいところばかりですが、今日は、建物の中に入れて頂いた西町の3ヶ所、旧石川県繊維会館、旧園邸・松向庵、尾崎神社をズームアップすることにします。この3ヶ所は、カメラの枠におさまる位置にあるくらい近くに有りますが、今までつなげてご案内することなど、思いもしなかったのに・・・と思うと、金沢市内ツアーもテーマ次第で組み立て方次第で、多様で内容のあるものになるように思いました。


(近くを歩くだけ・・・省エネですが“手抜きや~”と言われかもネ。)


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(旧石川県繊維会館・園邸・松向庵・尾崎神社)


≪旧石川県繊維会館(現・西町教育研修館)≫
旧石川県繊維会館は、金沢が戦災に遭わなかったこともあり、いち早く立ち直った繊維業界の勢いがうかがえます。昭和27年(1952)当時、金沢には見たこともない斬新な建物でした。折り鶴のシャンデリア、板に宮本三郎が油絵具で書かれた壁画、自然の石をそのまま組み合わせた鉄平石の乱貼りの床など、それぞれをみれば奇抜ですが、全体は、近代的で、清らかで、そして和の雰囲気に包まれ、歴史と伝統が感じられる金沢を象徴する建物のように思われます。不思議!!


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(西町教育研修館)


(谷口氏は金沢生まれで「藤村記念堂」や「東宮御所」、「東京国立博物館東洋館」などを手がけた有名な建築家で、金沢では旧石川県繊維会館の他、旧石川県立美術館(現石川県立伝統産業工芸館)や子息の谷口吉生氏との共同設計の金沢市立玉川図書館、卯辰山の徳田秋声の文学碑などがあり、博物館明治村の初代館長で、金沢の名誉市民第1号、文化勲章受章者でした。)


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(鶴のシャンデリア)


平成元年(1989)制定された金沢市の「金沢市における伝統環境の保存および美しい環境の形成に関する条例」の基となった、昭和43年(1968)、全国の自治体に先駆けて制定された「金沢市伝統環境保存条例」の提唱者です。
http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/index.html



≪旧園邸・松向庵≫
大正10年(1921)頃、羽二重商を営んでいた本郷氏の邸宅で、各部屋が茶事に使えるよう露地ともども、表千家家元千宗左、惺斎宗匠の指導によるものといわれています。大正から昭和にかけて月釜が掛けられ、本格的な茶事が催せる茶室として評判だったそうです。茶室は三畳台目の「松向庵」、その他に十畳の広間、水屋、待合などが坪庭を中心に巧みに構成されています。


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(園邸の塀と旧石川県繊維会館)
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(園邸の坪庭)


外観は、水平につらなる長屋門を思わせる門と塀が端正な趣を醸し出し、本屋の重なる切妻屋根と調和した落ち着いた品のよい佇まいです。後に、園氏が取得され、住まいとしましたが、夫妻の亡きあと、その遺志により、平成4年(1992)10月に金沢市へ寄贈され、平成6年(1994)5月11日に金沢市指定文化財に指定されました。


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(園邸庭)


時間 9:00~16:00(事前にお申込のあった時間)
休館 第2・4火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
申込方法・問い合わせ (公財)金沢文化振興財団 TEL:076-220-2190へ


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(尾崎神社の透塀)
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(金沢城の東照宮想像図)

≪尾崎(おさき)神社≫
明治11年(1879)、城内が7連隊の兵舎のなり、軍の機密が漏れるということから、徳川家康を祀った東照宮を、現在地の御算用場の跡地に移築され、名も尾崎神社と改めました。


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(本殿より拝殿)
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(随身・寛永8年上野寛永寺より)
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(本殿と宮司さん)
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(ギヤマンの狛犬・寛永8年上野寛永寺より)


寛永20年(1643)加賀藩4代藩主前田光高公が曽祖父である徳川家康公(東照大権現)をお祀りするため、金沢城北の丸に建立されました。本堂に残る飾り金具や彩色は、創建当時の状態がよく残っていて、初期の金沢城の貴重な建物の遺構で、現在、移築された本殿、拝殿・弊殿、中門、透塀等は国の重要文化財に指定されています。


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(宮司さん解説を聞く参加者)
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(戦前、国宝時代の半纏)


参考資料:金沢城調査研究パンフレット・金沢ふるさと偉人館の資料など


藩政期の金沢の町格

【藩政期の金沢町】
200年以上前の享和3年(1803)に加賀藩が幕府に提出した記録によると、金沢町奉行支配の町会所が管理していた町は100数町(侍町との混在は含まず)有ったといわれています。その他それぞれの町に属した“小名”という通称が約60数町。幕末になると“小名”も含めると200数10町だったそうです。


(明治になると、藩政期の侍町が正式な町になり300数10町になり、明治22年に市制が引かれ金沢町から金沢市になりますが、人口が減っているのに500数10町になっています。)



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藩政初期から本町の上・下材木町)

藩政期の金沢では、正式な町は、町人町にしかなく、侍町には、彦三や長町、馬場など通称はありましたが、武士は軍事上、組支配になっていたので、住んでいるところで武士を支配しなくていいことから、正式な町名は必要なかったということらしい・・・。


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(安政期の材木町薄茶色のところ)


町人は、町奉行支配で、今の北国銀行裏にあった町会所が町単位で管理していていました。そのため公的な町名が必要だったのです。当時の町政は、武士身分の役人と町人身分の役人によって行われ、武士側の責任者として金沢町奉行がいて、町奉行は金沢町の行政、司法、警察をつかさどり、その下には町同心・町下代・町付足軽などの役人がいます。


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(元本町の尾張町)


町人側には町年寄(毎年3人扶持、役銀として銀5枚・元禄4年より3人)、散算用聞(役料として毎年銀20枚。役銀、地子銀徴収など)・他、横目肝煎・町肝煎の他に銀座や記録方、米仲買・酒・八百屋・伝馬など各種商売に関わる肝煎などの町役人がいます。役人は、決められた日に町会所に出勤し職務に従事したといいます。


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(元七ヶ所の下石引町(右側)左は八家の奥村氏の屋敷)


町人の町には、町格が決められていて、“町の歴史”とか”盛んな事“”賑やかな事”もさることながら、実は、現実的で租税の内容や納入方法の違いが基準になっていました。大きく分かると、「本町」「七ヶ所」「地子町」で他に門前町と相対請地がありました。


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(元門前町)
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(相対請地)


本町(ほんまち):古い由緒ある町で、地子銀(土地に対する税)は、免除されていましたが、夫役(ぶやく)と役銀(やくぎん)を課せらました。町の格付けでは、最上位に位置づけられました。町数は藩政初期とはかなり違いますが、元禄期も幕末も大体37町前後だったそうです。


(夫役:藩主が普請・掃除・交通などのために、領民に人足役を賦課していましたが、藩政中期以降、銀で納付するようになり「夫銀」「夫役銭」などと呼ばれるようになります。役銀:伝馬役銀・本町木戸等普請入用の負担金のことか・・・。)


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(元本町の堤町)


七ケ所(しちかしょ):町の格付けでは、本町の次に位置づけられ、夫銀が課せられた。石浦町、大工町など、7ヶ所ありました。そのため、七ヶ所と呼ばれました。町数は、後に20町以上になります。


地子町(じしまち):地子銀(土地に対する税)を払う町のことで、金沢の六枚町は地子銀(税)が年に6枚という事から付けられた町名だといわれています。因みに銀1枚は43匁だとすると、6枚では258匁、文政の頃、今の貨幣価値では、60匁(1両)が100,000円として計算すると約43万円か)


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(今の北國銀行本店裏に金沢町会所がありました)


≪参考≫
本町肝煎は、1町から13町、軒数は64軒から913軒の裁許。町数で、平均すると4町180軒となるそうです。一方、地子町肝煎の裁許数は、6町から17町で、413軒から576軒で、平均11町517軒となっていたしうです。


組合頭は、町肝煎の下には組合頭が置かれました。金沢の各町内は、10軒前後の町屋が一つの組を作っていました。これを十人組といって町を構成する最小単位です。この十人組を数組合わせ、その責任者が組合頭です。


組合頭の裁許軒数は、20軒から100軒と地域により大きな違いはあるが、平均すると60軒程度になっていたそうです。組合頭の主な任務は、町肝煎の元で人別の調査・掌握、藩令の廻達、願書の取次、家の売買、相続など、町人生活に直接関わる事項を取り扱った。

参考資料:平成25年秋季展「金沢の町役人」近世資料館の資料等

尾山神社①金谷御殿

【西町→南町】
先日の“近江町”から“せせらぎ通り”を歩いた「金沢まちなみツアー」の続きです。設計者の解説付きの金沢商工会議所を経て、藩政期の堀の跡を歩き、今はありませんが明治17年(1884)焼失した鼠多門と金谷御殿を繋いでいて、再建を計画している鼠多門橋が有った下を通り、尾山神社の東神門から神域に入れました。


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(東神門)

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(東神門の二頭の龍)

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(藩政期、鼠多門と鼠多門橋、橋は明治10年老朽化により撤去)


東神門は、旧金沢城二ノ丸の唐門で、桃山風御殿様式とされています。宝暦9年(1760)の金沢の大火で城内の大半が焼失しますが、この唐門に彫刻された二頭の龍が水を呼び類焼を免れたと伝えられています。明治14年(1881)の金沢城(陸軍7連隊の兵舎)火災の際には、明治の初め招魂社の門として卯辰山に移築されていたため、またも龍のご利益で焼失を免れたと言われています。


(1本の釘も使用されていない彫刻は、名工の作と伝えられていますが作者は不詳です。)


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(尾山神社東参道)


尾山神社は、明治以後、加賀藩の藩祖前田利家公と正室松を祀った社で、藩政期は、藩主の仮御殿や隠居所、世子、側室らの住居になっていた金谷御殿があった場所で、境内には御殿の遺構の庭園が残っています。


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(藩政期の金谷御殿周辺)


庭園は池泉回遊式で、中心の池には、雅楽の楽器をかたどった笙島(しょうしま)、琵琶島、舞楽の衣装を表した鳥兜の三つの島があり、島をめぐるアーチ型の図月橋、琴橋が架っています。藩政期、御殿の住人たちは、九十九折りの水路を伝わる水の音を楽器が奏でる音色に見立て楽しんだのでしょう。


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(庭園の略図)
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(琴橋と図月橋、鳥兜島)

金谷御殿は、明治4年(1871)加賀藩最後の14代藩主前田慶寧公が東京へ移住を機に取り壊され、現在は建物の遺構はないが、その古材は、今の尾山神社の建物に使用されていると聞きます。


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(八ツ橋)


残された資料によると、敷地は約7~8千坪(約23,100~26,400㎡)、幕末期の部屋数は40以上であったといわれています。始まりは5代藩主前田綱紀公の代で、古文書には、元禄元年(1688)に綱紀公の娘豊姫が金谷御殿に移ったと書かれてあり、建物に限らず、部屋の調度品なども身分の沿って立派なものが設えてあったものと思われます。以後、御殿は約200年間にわたり、6代藩主吉公側室淨珠院、世子で7代宗辰公、9代重靖公、10代重教公、11代治脩公、12代斉広公の正室真龍院、13代斉泰公らの主を迎えています。


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(図月橋)

天保9年(1838)亡くなられた12代斉広公の正室真龍院が江戸藩邸から金谷御殿の入り、江戸にいた世子慶寧公も初めての金沢入りとなり、弘化二年(1845)から金谷御殿に住むことになると真龍院と慶寧公のため金谷を増改築され、真龍院に住居を「松の御殿」慶寧公の住居は「金谷御殿」と呼ばれるようになったといいます。

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(東神門の解説板)


参考文献:「よみがえる金沢城」石川県教育委員会事務局金沢城研究調査室編集・石川県教育委員会・平成18年3月発行など

尾山神社②由来など

【金沢・尾山町】
尾山神社は、慶長4年(1599)に大坂で亡くなった前田利家公に始まります。遺言どおりに金沢の野田山に葬られ、その後、2代藩主前田利長公によって、金沢城の鬼門の方角(東北)にあたる卯辰山麓に、越中国射水郡の式内社物部神社(守山海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して、卯辰八幡宮(今の宇多須神社のところ)が建立され、そこに利家公の霊を合祀し、加賀藩を守護する存在として祀られました。


(慶長9年(1604)各藩臣の知行に応じて献金させ、前田利家公の祭祀が行われます。当時加賀藩では、徳川幕府に対し、おおっぴらに利家公を神として祀る事が出来ず、養老年間より卯辰神を祀ったといわれる卯辰山麓に八幡神を遷座させ、合祀する事により利家公の神霊を祀ったと伝えられています。)


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(尾山神社の神門)


時代は下り明治4年(1871)の廃藩で、藩主前田家は華族となり、東京に移ることになり、寂びれるばかりの卯辰八幡宮を元加賀八家の前田直信を代表とする旧藩士たちが、藩祖の偉功を守るため、社殿を再興する運動が起こされます。


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(前田利家公の銅像)


そして新たな社殿には卯辰山麓ではなく、金沢の中心部金沢城の出丸金谷御殿跡地が選ばれ、明治政府に請願し明治6年(1873)に本殿、拝殿が建てられ、卯辰八幡宮から御神体が遷座。尾山神社と称されました。明治7年(1873)には県社に昇格し明治35年(1902)に別格官幣社に列せられました。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社があります。又、平成10年(1998)には前田利家公の正室お松の方も合祀されました。


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(お松の方の石像)


現在の金谷御殿跡地は、明冶2年(1869)版籍奉還で一旦明治政府に返還されますが、旧加賀八家の前田直行が中心になり、後に2代目の金沢市長になる長谷川準也や弟の大塚志良等により、豪商の木谷家の番頭の名義で一旦土地を買上げ、寄付により明冶6年(1873)に創建されました。


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(神苑)


明治6年(1873)11月に遷座式が挙行されますが、次第に寄進も参詣も減少し、神社の維持も困難になり、参詣者の増加を計画し、明治8年(1875)11月25日に神門の開門式が挙行されました。当日は早朝から雨模様にも関わらず、めずらしもの好きの金沢人に大うけで、大変な賑わいだったと伝えられています。


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(拝殿)
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(赤と青戸室石敷石・真中は神様の通る道)


やがて、そのデザインが異様だということから、改造論が新聞紙上をにぎわし、献金集めの発起人に名を連ねる野村某は、発起人代表の一人長谷川準也の政敵、金沢市長の稲垣義方に「彼の醜形門は断然改築候様の希望仕候」などと私信を送り付けたといわれています。


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(尾山神社の揮毫は前田斉泰公)


当時、金沢に来た小説「五重塔」を書いた幸田露伴や俳人の河東碧梧桐などの著名人が「レンガつくりの竜宮城」等と、煽るものですから、ますます反対運動が激しくともいわれています。


(神門は昭和10年国宝に指定され、戦後、昭和25年に重要文化財になりました。)


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(拝殿)


詳しくは下記と併読いただければ幸です。


参考①:初詣
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11439946188.html

参考②:金沢製糸場《鞍月用水⑤》
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11826524545.html



設計者については、長らく金沢藩のお抱え医師のホルトマンだといわれていましたが、神門改修の時、棟札が発見され、そこには建築総管は藤田貴知、設計は工匠長であった津田吉之助だということが分りました。


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(尾山神社神門は日本で最初の避雷針)


ホルトマンについては、神門の上に立つ、日本では最初といわれる避雷針の指導と助言をしたのではといわれていますが、他、彼の足跡が金沢に幾つか残っています。


明治11年(1878)「金城霊澤」に繋がるといわれる金沢神社の手水鉢に涌く水をホルトマンが分析しています。水は「良質の甘水で、殆ど混合物がなく少しく硫化シャンカリの応験があり軽量の鉄を含むとし、効果は、貧血及び心臓の衰弱せる人に効く」と書かれているそうです。


また、彼は金沢で最愛の2人の娘を亡くしています。当時、尾山神社の宮司により葬儀が執り行われたと聞きます。卯辰山の共同墓地にはカタカナで書かれた墓標が残っています。



●尾山神社のご神徳は、家内安全・夫婦円満・開運招福・学業成就・商売繁盛です。



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(遥拝所・左は明治神宮・右は皇大神宮)


(尾山神社の一隅には、昭和12年に建立された皇大神宮と明治神宮の遥拝所が碑が、東と南を向き、今も毅然とそしてひっそりと建っています。)

金沢城の石垣①後藤家文書

【金沢城内】
毎週日曜日8時は、大河ドラマ「黒田官兵衛」。あの後藤又兵衛が、何時も苦渋に満ちた顔で地味に描かれています。子供の頃、雑誌や漫画で見た又兵衛は豪傑で、黒田官兵衛や黒田長政より身近な存在で、というより当時は、そこに描かれていたはずの官兵衛も長政も目には入っていなかったのです。


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(金沢城の石垣)


実は、加賀藩では3代藩主前田利常公の頃より、後藤家の人々が金沢城の石垣の技術者として登場し多くの古文書を残しています。初代の後藤杢兵衛は後藤又兵衛の弟で、今から387年前、寛永4年(1627)の加賀藩の侍帳に70石として記載されています。


(加賀藩に仕えた石工技術者安太衆は、後藤家より古く前田利家公が越前府中(現在の越前市武生地区)で始めて大名になった時、今の滋賀県坂本の穴太出身の穴太源助、小川長右衛門が召し抱えられました。寛永4年(1627)の侍帳に穴太出身者として、杢兵衛より高禄の300石の戸波清兵衛、100石の杉野久左兵衛、他50石、40石クラスの石工技術者が記載されているそうです。)


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(金沢城の石は戸室石(角閃石安山岩))

石垣の技術者としての後藤家の始まりは、後藤又兵衛が加藤清正からしばしば「城取鍛錬」としての技術を伝授されたといわれ、後藤家文書によると「加藤清正」が石垣築きの祖、次が黒田長政と書かれているそうです。


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又兵衛は、夏の陣の前に腹違いの弟の彦八(後の初代後藤杢兵衛)に、自分の最後が近づいたのを悟り、これまで学んだ成果を書き残し元和元年(1615年)4月に秘伝を伝授たといわれています。


(この書は『石垣根元抄』といい、「元和8年(1622)以来家宝とし、一子相伝にて他にこれを許さずのもの也」として、以後、後藤家最大の財産になったといわれています。)


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(石川門の石垣)


6代目の彦三郎(享和・文化年間)は、後藤家は穴太では無いのにある御殿の「石の橋」に穴太の名を入れたことが殿様にわかり、ひどく叱責をうけ、禄を召し上げられ浪人をしますが、後に許されて復活したという逸話が残っています。

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(運んだ家の印か?刻印のある戸室石)


しかし、その後藤家は、由緒5点をはじめ役儀、相続、俸禄、縁組、法事など後藤家自身に関するものや、秘伝書17点、石垣積様秘伝絵図41点、金沢城絵図4点等々「後藤家文書」として200点余りが残されていたので、今は加賀の石垣については、穴太より後藤家の方が有名です。


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(初期の石垣か、野面積?)


(6代目彦三郎は養子です。彦三郎によると、築城について石垣縄張りの巧者は、歴戦の勇士(武辺場数之士)で、加藤清正や黒田長政はその「城取鍛錬之衆」で、安太の職務は、「城取鍛錬之衆」の縄張に基づいて、その指図に従い、石垣を築く人を安太といったとか・・・。)


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(石垣見本・切り込みはぎ)
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(石垣見本・打ち込みはぎ)


又兵衛に戻りますが、黒田二十四騎の一人で、仲間氏の松尾城、いわれる筑前六端城(ろくはじょう)の1つを築城しています。行った事はありませんが、今も城郭の基礎部分、石垣、礎石が残っていると聞きます。

この城は、豊臣軍の九州征伐で、敵方に対して一夜にして城を築いたかのように見せかけた「一夜城伝説」が有名だそうですが、その後藤又兵衛の築城技術が金沢城の石垣に伝わっているのだとすれば、金沢人としては何か縁を感じます。(私だけかも)これからも日曜日8時のテレビを見るのが、ますます熱が入ります。


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(金沢城石川門の石垣)

金沢城の石垣②穴太家と後藤家

【金沢城内】
6代目後藤彦三郎の文書によると、加藤清正等「城取鍛錬之衆」が城の縄張りをし、それに基づき、指図に従って石垣造りに携わったのが安太衆だといわれているそうですが、それは清正の縄張りで熊本城が築かれた時、近江国から率いてきた“穴太衆”が石垣造りに携わったことから、そのように伝えられていたのだと思われますが、穴太衆は、きわめて古い時代から活躍していた石工の集団でした。


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(土橋門の石垣)



≪穴太衆≫
穴太衆とは、近江の比叡山山麓にある穴太ノ里の住人で、延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊で、古墳築造などを行っていた石工の末裔で、寺院等の石工を任されていましたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、信長や秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになり、それ以降は江戸時代初めまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られています。


(余談:信長が坂本の城を攻めたとき、石垣が丈夫でなかなか落ちないので、この石垣は誰が築いたかを尋ねられ、安太のものが築いたと聞き、それで安太なら崩すこと出来ると思い、早速召し出されて石垣を崩したという言い伝えがあるそうです。)


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(石川門の石垣)


前田家との繋がりは、前回にも書きましたが前田利家公が越前府中で始めて大名になった時、初代穴太源介、小川長右衛門が召し抱えています。穴太家文書によると、金沢城の石垣職人「穴生役」として天正15年(1587)から加賀藩に仕えた穴太家は、日本で始めて大名家が召し抱えた石工集団だそうです。


(金沢城調査研究所の調査によると、金沢市内の穴太家の子孫が所蔵する古文書35点には、前田利家公が穴太家初代源介に宛てた「知行宛行状」に利家印判状の入った古文書があることから、穴太家が石垣職人で最も早く大名に召し抱えられたことが裏付けられたそうです。)


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(東丸下の石垣)


穴太家古文書には、2代利長公や3代利常公、5代綱紀公からの知行宛行状や、穴太家の家譜、石垣作りの功績などを記した史料や同じく穴生役だった後藤家の初期秘伝に共通する「石取并石図覚」も確認され、親類である穴太家と後藤家の技術交流の一端がえるそうです。


(穴太役とは加賀藩での職名で、石垣技術者として藩政期の築城で役割を発揮しています。後藤家は穴太の里の出身ではありませんが、穴太役で穴太家とは親戚だそうです。)


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(金沢城調査研究所の資料より)


≪後藤家≫
大筋は前回書きましたが、今残る後藤家文書は、6代後藤彦三郎が書き残したもので、執筆の契機も彦三郎が大病を患い、解明した技術様式を子孫に残す必要性に駆られたためといわれています。大病をわずらったのは49歳の文化元年(1807)から病死の4年前の文政7年(1824)に集中しており、著者は彦三郎または嫡男小十郎が大半だそうです。


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(土橋門下の石垣)


秘伝書の中には初代杢兵衛、2代杢兵衛や3代権兵衛の著書もあるそうですが、その頃のものは確立されていない技術が記されるなど矛盾点が多く、筆跡調査でも彦三郎のものと一致したものもあるそうです。


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(石川門)

彦三郎が先祖の名で書いた秘伝書は、加藤清正から伝わったとする由緒や、象徴となる鏡石を置く位置、積み方の種類などを和歌に詠んだものは、抽象的な内容が多く、“他言禁止”“一子相伝“が、かなり強調されていて、加賀藩が抱える他家の石垣技術者への対抗心や牽制があるのでは、といわれています。


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(本丸の石垣絵図・金沢城調査研究所の資料より)


金沢城の石垣構築技術は、彦三郎が活躍する前の18世紀前半、修復の機会が少なくなり途絶えかけていたそうですが、彦三郎が石垣解体・修理で自ら学び取った技術的な理論や口伝を文書にまとめたことで、穴太の技が辛うじて再興されたのだといわれています。



参考資料:「金沢城調査研究所」の調査資料など。

後藤又兵衛①

【播磨・豊前・筑前】
金沢城の石垣を調べていたら、あの後藤又兵衛が出てきました。歴史上の人物でも、私には、判官贔屓も手伝って子供の頃から好きな豪傑ですが、最近、NHKの大河ドラマに登場し懐かしさから興味を持ち、今回は少し脱線し又兵衛にします。


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(金沢城石垣・又兵衛とは直接関係ありません


前回も書きましたが、加賀藩の石工技術者後藤家の初代後藤杢兵衛の腹違いの兄で、城造りの技を杢兵衛に伝えた又兵衛ですが、黒田官兵衛没後、息子黒田長政と不仲になり、官兵衛が死んでわずか2年後、一万六千石を蹴っ飛ばして黒田家を出奔し浪人します。


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(金沢城の石垣・又兵衛とは直接関係ありません


どうも、現代風に云うと、無断退職で、「円満辞職」ではないやめ方であったそうです。当然、又兵衛は、黒田家を去るにつけては、長政に申し出ていたそうですが、長政が許さないので、無許可で黒田家を離脱したことから“出奔”ということになったといいます。


(直接の原因は、長政と犬猿の仲の細川忠興と通じているという噂が、黒田長政の元に届き、慶長11年(1606)又兵衛は黒田家を出たのではともいわれています。)


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(後藤家の家紋)

黒田官兵衛が生きておれば、又兵衛も出奔などしなかったと思われますが、又兵衛の出奔には、長政との間の個人的な感情のもつれに起因するのだともいわれています。長政は又兵衛より八歳年下で、合戦では常に又兵衛に対抗意識をもやしていますが、いつも又兵衛に先を越され、無念に思っていたともいわれています。


(また、こんな言い伝えもあります。又兵衛は、伯父藤岡九兵衛が黒田官兵衛を裏切り、行動を共にした過去があり、当初、長政は父官兵衛から「反逆人の一族なので、近くに召し抱えてはいけない」と命じたので、長政は家臣栗山善助に又兵衛を預け、知行100石で、その黒田家の家老・栗山善助の家臣(与力)となっています。)


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(金沢城の石垣・又兵衛とは直接関係ありません


≪又兵衛と長政の逸話≫
又兵衛という人は常にポジティブだったらしく、黒田官兵衛に仕ますが、官兵衛の息子長政と一揆の鎮圧に従ったが敗れてしまいます。長政は頭を丸めて謹慎しますが、又兵衛は平然としていたそうです。


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廻りの者が「なぜ頭を丸めないか」と聞くと「たかが一揆に一度敗れたからといって、いちいち頭を丸めていたら、いくら髪の毛があっても足らんといったといいます。「今回は負けたが、次に勝てばいい。そんな事を気にしていたら、合戦など出来ない」といったそうです。


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(金沢城の石垣・又兵衛とは直接関係ありません


これを聞いた官兵衛は又兵衛の言うとおりだと言ったそうです。勝ったり負けたりを繰り返し、何回負けても最後に勝てば勝ちやということのようです。それより、うまくいかなかった時に、なぜ失敗したかということを学ぶことが大切で、学びと実践を重ねていけば、いつか必ず大きな成果に繋がるということなのでしょう。


(いちいち勝敗の結果に神経をすり減らしていては、疲れて果てるだけで、本質まで見失ってしまいます。自分が負けを認めなければ負けは無いのですから、トータルで勝ち越せばいい・・・という事。)


「次勝てばそれでよし」


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(つづく)

後藤又兵衛②

【筑前・豊前・播磨・備中・京・大阪】
黒田家を出奔した又兵衛は、小倉の細川忠興を頼りますが、元から関係がこじれていた黒田家と細川家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁で細川家を退去します。しかし、又兵衛の智勇を惜しんだ全国の大名からお声がかかります。


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(又兵衛と直接関係がありません・巨大な石)


又兵衛は、一旦郷里播磨に戻り、領主となっていた池田輝政の仲介で岡山の池田忠継に仕えます。しかし、長政が又兵衛への「奉公構」と発し仕官に干渉し、慶長16年(1611)より京都で浪人生活を送ることになります。


(奉公構(ほうこうかまえ)」とは、出奔した武将の登用を禁じる制度です。)


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又兵衛は、黒田二十四騎の中でも、最も興味深い人物で、それは他の武将のように黒田家の中には納まりきれず、黒田家を出奔した後も、豪傑らしく波乱に満ちた人生を過ごした人物で有ったことにほかなりません。

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(又兵衛と直接関係はありません・人は石垣)



関ヶ原戦後、筑前で黒田家が大大名になり、それで良かった良かったという人物でなく、いわゆる戦国の古武士らしい進退は、天下泰平の世になり、保身に汲々とする武士が多い中で、高禄を捨て、主人を捨てたという極めて稀な身の処し方に、江戸時代からつながる人気の秘密であるのでしょう。


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(黒田家の家紋)


しかし一方では、長政との個人的関係だけでは納まらない、出奔の原因が有ったのではと思えるふしもあります。時は戦国の終焉間近という状況において、関ヶ原戦後、戦いが終わり、仕事が戦場の武士にとって、特に豪傑又兵衛には、得意とされた「城取鍛錬之衆」といえども築城や城下町建設に携わる事そのものがたまらなかったという事もありえたのではないかと勘繰らざるをいません。


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(晩年の官兵衛)


また、又兵衛の黒田家出奔は、関ヶ原戦後6年目、この間に武辺で鳴らした黒田家中の空気も変質していったように思われます。とくに官兵衛の死後、もはや以前の黒田家ではなく、又兵衛は、その変質に違和感を覚えたのではないでしょうか、“ここはもう自分の居場所ではない”そういう思いに至ったのだとすれば、又兵衛は、まさに時代の取り残された戦国武将であったといえるのではないでしょうか。


(戦後、高度成長期そしてバブル崩壊の間、私の周りの先輩にもそのような匂いのする人が何人かいたような気がします。しかし、これ程の大物には出会ったことはありませんが、何時からか憧れを抱くようになっていました。今、ふりかえってみると勇気も能力も根性もなく、幸か不幸か、それは単なる憧れでしかなかったのです。)



そして、又兵衛は戦国最後の戦い「大坂の夏の陣」に、関が原では敵方として戦った豊臣方に死地を求めて参戦し、真田幸村と並び二大軍師と称され敗軍に属しながらも、今に伝わる何とも凄い歴史上の人物です。


室生犀星①犀星のみち

【犀川大橋→左岸→桜橋→右岸→犀川大橋】
金沢には三文豪といわれている鏡花、秋声、犀星の名前で呼ばれる「みち」があります。「鏡花のみち」も「秋声のみち」も浅野川で左岸と右岸ですが、「犀星のみち」は犀川にあります。


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(春!!犀川大橋辺り)


「犀星のみち」は、犀川大橋と桜橋の間の両岸の道で、犀川大橋の左岸の下の袂には犀星が20歳まで住んでいた雨宝院があります。右岸には、室生犀星文学碑があり、両岸で約1.5km、犀星も子供の頃から散策を楽しんだ道といわれています。


(室生犀星(明治22年(1889)~昭和37年(1962))は、詩人で小説家。金沢に生まれで、本名は小畠照道。別号は魚眠洞。詩集は「愛の詩集」「抒情小曲集」そして小説には「幼年時代」他多数。詳しくは次回以後・・・。)


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(犀星のみちの標識)


「犀星のみち」は、犀星が“春は春 なつはなつの 花つける堤に坐りて・・・“と詠んでいるように、今も春は、お花見に、夏は夕涼み、そして春、夏、秋を通してジョギングにウオーキング。川幅は広く開放的で、河原は両岸とも遊歩道が設けられています。その先には加賀と越中の国境の山々が連なり、冬には雪山が迫ってきます。


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(桜橋より・加賀と越中国境の山々)


私の散歩道は、左岸の犀星が育った雨宝院と交番の間にある秘密ぽい階段を降り、犀川大橋の下をくぐり河原に出ます。知る人ぞ知る隠れ階段ですが、わかったような顔をして人に教えたくてしょうがないという、そんなところがスタート地点です。


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(木造4階建てのお料理屋)


しばらく歩くと右手に蛤坂沿いの木造4階建てのお料理屋が見えてきたら、右手の階段をのぼり、左岸の「犀星のみち」に上がると芭蕉と希因の句碑に出会えます。


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(芭蕉の句碑)


≪W坂(石伐坂)≫
W坂は旧四高生が坂を横から見るとWに見えるところから命名したと伝えられています。犀星によると、曲がりくねりが変で、今、坂を上った人が、しばらくして頭の上を歩いて行くというへんてこな坂だといい、私(犀星)が10歳(今から115年前)の頃には、すでにW坂といっていたといいます。昔は草ボウボウで、石ころゴロゴロ、樹木は少々、水はしみじみにじみ出していて沢蟹がいたと書かれています。


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(W坂)
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(桜坂)


今は、「ふるさと坂道30選」に選ばれていて、景観もよく、坂の上の新桜坂公園からは眼下に犀川が正面には金沢城跡が一望できます。そこら当たりは旧石伐町といい、金沢城築城のおり、滋賀県の安太の石工を住まわせたところだといいます。


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(新桜坂公園より)
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(W坂中腹より医王山と戸室山)


≪桜橋≫
浅野川の梅の橋に対して、桜橋と命名されたと言われていますが?梅の橋には梅がないけど、桜橋の春は、名前の通り桜の名所です。橋から上流150mぐらい先の右岸には、犀星親子が関東大震災の後、金沢で住んだ何軒かの一つが今も残っています。


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(桜橋)


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(犀星が一時住んだ桜橋右岸上の家)
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(堀辰雄が泳いだという堰)


その前の堰は作家の堀辰雄が訪れたとき、泳いだと何かの本で読んだことがあります。また、犀星が後に妻となる浅川とみ子と結婚に至る経緯を書いた「つくしこいしの歌」もこの界隈が舞台となっています。


≪室生犀星文学碑≫
碑文は、「あんずよ 花着け 地ぞ早に輝け あんずよ花着け あんずよ燃えよ ・・・」「抒情小曲集・小景異情 その六」が犀星自筆で記した黒い板が碑石にはめ込こまれています、碑石の形は、昔、市民が子供の疫病払いに犀川に流した「流し雛」を型どった赤御影石で、あんずの木は、塀を背にして立っています。


(文学碑の設計は、金沢出身の文化勲章受賞者に建築家谷口吉郎氏。)


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(文学碑)


≪犀川大橋≫
犀星は、“40年前(今から100年前)白いペンキで塗られた巌丈(原文のまま)な木橋であった。その木橋(犀川大橋)から上流の磧(かわら)の向こうにもう一つ木橋(桜橋)見え、加賀連峰と飛騨の山続きとが立ちふさがり、左は少しはなれた医王山が聳えてゐた。”と書いています。


今の犀川大橋は、ワレントラス形式という鉄橋で、大正13年(1924)の完成。この方式の道路橋としては日本で一番古いものだそうです。犀星が書いている木橋の後、今の鉄橋ができる5年前、大正8年(1919)犀川に市電を渡すため、鉄筋コンクリートのT桁橋が架けられましたが、大正11年(1922)犀川の大出水で流失し、橋桁の無い鉄橋に架けられたのだそうです。


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(犀川大橋)


それから約90年、1日3万台強の交通量に対応するため補修、補強を加えながら現役長寿橋として今も健在です。今はグラデーションの配色で化粧直しもほどこされ、銘板には金箔が施され掲げられています。


(今の橋は、橋長62,308m副員21,669m~23,669m)で、藩政期の木橋は四十間(72m)三間(5,4m))


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(犀川大橋と左岸下の雨宝院)


参考文献:「暮らしの手帳30」おもいでの町2金澤・室生犀星・昭和30年7月5日発行など。

室生犀星②まなこ鋭き蛙かな

【金沢市内】
「夏の日に匹婦の腹に生まれけり」犀星、戦時中55歳の句です。人生半ばであってもまだ鏡花みたいに素直に「母恋し・・」とはいえぬ呻(うめ)きか。生母への愛と憎しみが混ざった複雑な思いは、後に書く小説の中でも、フィクションとはいえ時代を追うごとに、あの初期の小説「少年時代」に書いた優しい生母は何処へやら・・・。複雑な思いは、晩年に至るまで胸中深く息づきます。しかし、生母への憧憬は生涯消えなかったものと思われます。


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(現在の雨宝院)

犀星も鏡花もそして秋声も金沢の三文豪といわれた作家は、若くして俳句に遊び、その俳句が以後に取り組む創作への足がかりとなり、特に犀星は生涯の心のよりどころでもあった思われます。その犀星は、生涯1800余の句を残していますが、明治期に全体の三分の一の600句程が作れています。


(犀星は「俳句は私にとって有難い美しい母胎であった。私はそれにすがって私の愛や幼い情欲やを満たした」といい「自分は俳句で文学的の知識や、俳句から入った文章を手に入れたと言ってよい」と記しています。)


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(雨宝院の地蔵さん)


犀星と俳句の出会いは、満14歳のとき、義兄に連れられていった近所に住む俳句の宗匠十逸老人の家を訪れた時だといわれています。犀星は、藩政期、馬廻組の剣術使いの老人と女中の間に生まれた私生児で生後まもなく、生家近くの雨宝院という真言宗の寺の住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、酷薄の家庭環境と不幸な生い立から、言いがたい少年の孤独に俳句が取り憑いたといわれています。


(義母赤井ハツは、石女の莫連女といわれ、訳ありの4人の子を養育費目当てに引き取とり育てます。犀星(照道)は、その血の繋がらない父、母、兄姉妹と雨宝院の隣の2階家で暮らします。後に義姉は養母の酒代と生活費の足しに身売りさるたと聞きます。)


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(雨宝院)


句作に取り憑かれた少年犀星にとって金沢は、実生活に反して極めて恵まれた環境であったようです。高等小学校を中退し、雇いとして勤めた裁判所では上司に俳句の指導を受け、地元の新聞の俳壇の投稿するようになり、地元の「ホトトギス」系の「北声会」というグループの俳人たちと知り合いになり、その句会に出るようになります。


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(旧制四高)


当時の「北声会」の中心となっていたのが第四高等学校の先生藤井紫影で、あるとき句作に励む少年犀星を見て「句に痩せてまなこ鋭き蛙かな」と吟じ、それを扇面に書いてくれたといわれています。その句は、まさに当時の少年犀星だったそうで、俳句という魔物に取り憑かれた姿が浮かび上がります。


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(雨宝院前の徳龍寺)


紫影が京都大学の去った後も大谷繞石が赴任し、犀星は師にも恵まれています。その裁判所時代の少年犀星は、毎日仕事が終わると、雨宝院の向にある真宗大谷派は徳龍寺へやってきて「新聞を拝見」と声をかけ、住職が1日遅れで取り寄せて読んでいた大阪毎日、北国新聞のほか、読売、朝日、東京都新聞のすべてに目を通し、中央の詩壇、俳壇、文壇の情報を得て、投稿していたそうです。


(余談:徳龍寺の住職石山智眼は、文学、演劇に造詣が深く、大変な読書家でした。また、智眼夫人は、犀星より5歳年上の15歳で嫁いだ寡黙な人で、犀星の書かれたものによると「子供心にも、まれに見る美女であった。滅多に外には出ない人で、狭い境内に遊んでいても声一つかけない、美女であるためのひややかさを多分に持った人であった。」と書いています。)


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(雨宝院の塀と千日町の石標)


参考文献:室生犀星句集・星野晃一編・平成21年8月・紅(べに)書房・「室生犀星論」船登芳雄著・昭和56年9月・三弥井書店・「暮しの手帳」30号おもいでの町「金澤」室生犀星著 1955(昭和30)年7月号・「犀星雑考」石山直樹著・「文壇資料城下町金澤」磯村英樹著 株式会社講談社1979(昭和54)年発行ほか

室生犀星③照道少年

【金沢・野町界わい】
大正の初め頃、仲間内の誰一人として室生犀星の後半の大成を期待するものはおろか、その才能を知る人もなく、東京根津権現あたりの居酒屋に入り浸り、ただ酒を喰らってあばれるだけしか能がない“ダラ”だと決め付けていたと佐藤春夫の「詩文半生記」に書かれていると何かの本で読んだことがあります。俄然“室生のダラ”の子供の頃に興味がわき、いろいろ拾ってみました。


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(今の雨宝院)

小学生の照道(犀星)少年は、小粒なくせに粗暴な劣等生だったといいます。3年生の時、あまりにも受け持ちの先生のいうことを聞かないので、校長室に呼ばれ、温厚な校長先生が諄々(じゅんじゅん)に説諭したといいます。校長先生が自ら説諭するのは野町小学校では前代未聞だったそうです。


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(玉泉寺跡に建つ旧野町小学校)


しかし、校長先生の説諭は思いもかけない優しいもであったため元気で校長室を出てきて受け持ちの先生に、“アッカンベ”をするような顔つきであったと伝えられています。


(養母のハツは、学校から呼び出しが来ると、呼び出しに来た小使の女性と仲良くなり、卵や菓子、饅頭などを与えて労うが、学校が怖くて寺の前にある指物屋のおかみさんに代わりに学校へ行って貰っていたそうです。)


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(この辺りが雨宝院向側)


照道少年は、いつも孤独で、憂さ晴らしだったのか喧嘩早く、近所の子供たちは雨宝院の前を通るとき、関わりたくないので小走りで通り抜けたといいます。腕白ぶりは評判になっていたそうで、他にも、お盆の切子灯篭の綱を引っ張り揺らし、中のカワラケの油をひっくり反し、灯篭が燃えるのをおもしろがったり、門前の泉用水に蛍を捕ろうとして落ちてずぶ濡れになったという逸話も残っています。

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(雨宝院向の徳龍寺)
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(泉用水)


高等小学校に入っても腕白ぶりは一向に直らず、3年生の時、一寸して事件で、普段から照道少年を持て余していた学校は退学処分にしたといいます。その事件とは、教壇で切腹の真似をしていたのを先生に見つかり「もういっぺんやれ」といわれて悪びれず再演したという、たわいもない悪ふざけだったといいます。


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(今の雨宝院の境内)


照道少年はじめ赤井ハツの一家は、お寺(雨宝院)のお賽銭を適当にちょろまかしていたそうです。父真乗はおおらかで「先刻はいくらあったか」と聞き、紙包を出すと半分だけとり、あとはお前にやるといったそうです。また、若者になった照道は、真乗の金を盗り廓で遊んで帰ると「若いうちは夜あまり外出しないほうがいい」と優しくなだめるだけだったといいます。


(照道(犀星)が、金に困り仏書や茶碗を売ると買い戻したり、信者が預け忘れていた白鞘の刀を売ったり、真乗を困らせることを散々やっていたといいます。それでも犀星の句かどうかは疑問ですが?「この寺に 悪僧住めり 閑古鳥」というのがあります。)


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(雨宝院から西茶屋街への道)


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(西茶屋街の検番)


犀星は生涯を通じて、21の校歌を作詞していますが、昭和27年(1952)63歳の時、母校の野町小学校の創立80周年記念に校歌を作詞します。犀星が小学生の時、廊下に立たされ窓から見えた瓦を数えた思い出が綴られたというユニークな歌詞の校歌は、同窓生以外にもよく知られていましたが、今年春に、少子化による小学校の統合で伝統の学校と共に校歌も消えてしまいました。


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(今年から弥生小学校と合併し泉小学校の仮校舎になった旧野町小学校)


犀星作詞の旧野町小学校の校歌
(1題目)
春もいつしか庭先に
年は過ぎゆく窓よりぞ
ぬれし瓦のかぞえしが
われら育ちし師の教え



参考文献:「室生犀星全集」月報8・田辺徹|文壇資料「城下町金澤」磯村英樹著・昭和54年発行ほか

犀星のおもいでの金沢を歩く

【八坂→犀川用水】
昭和30年発行の雑誌「暮らしの手帖」に“おもいでの町金澤”という6ページ立ての犀星の文と写真が載った記事があります。多分、当時ですから写真はグラビヤ印刷だと思いますが、味わい深いモノクロで、その頃の流行の撮り方なのでしょうか、少し陰気ですが、そこには犀星の文章と共に何とも懐かしい昔の金沢があります。


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(犀川大橋)


写真は、松本正利と書かれています。当然、犀星の文章をもとに撮られたものと思われますが、犀星の文章に梅雨上がり以外は雨の「あ」の字も書かれていないのに、どの写真も雨模様。「弁当忘れても傘忘れるな」といわれる金沢を、遮二無二に描こうとした編集者かカメラマンの金沢になっています。


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(60年前の「暮らしの手帖」


始めてこの写真を見たときは、金沢は“こんなに暗くはないぞ”と思ったことを覚えています。でも今は、“そうか~金沢ってこう見えるんだ“と抵抗もなく受け入れられるようになりました。そう思えるようになったのは、あながち歳のせいばかりではなく、観光ガイドをしてから、今まで現実の生活で欠落していた「風情」や「情緒」を意識するようになり、その頃、金沢の気候の変化が楽しくて来てくださるお客様に出会い、その影響も大きいように思います。


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(今の犀川)

ダラダラと前置きが長くなってすみません。これから60年前に遡ります。ここでは、その写真をお見せすることは出来ませんが、そこに撮られている6枚は、今も“アッあそこ”と分る風景が4カット、あとの2カットはその場所にいっても全く違った風景があります。


≪屋根石≫
犀星の書き出しは”上の句は忘れたが「・・・・や屋根に石置く北の国」といふ故郷風情は、金沢の町端れでもいまは容易に見られなくなった・・・”と書かれ、当時でも八坂のわずかに残る石置屋根の町家4,5軒にピントをあて、手前に、雨降る町を高校生らしき男女が傘をさして通りかかる姿はピンボケで雨降る道には二人の姿がボケボケで写っています。


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(はっきりしませんが、道の角度からこの辺りか?)


犀星の文章は、少年の日の、石置屋根の思い出が綴られています。梅雨上がり石置屋根に梅干を紫蘇ごと干してあり、屋根の上で味あう酸っぱさで夏の訪れを知り、熱くなった石に手を触れた思い出が書かれています。


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(八坂辺りと書いてあります)
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(今も残る野町の石置屋根)


(写真の場所を探し八坂辺りを回りますが、家どころか場所すら分らず、時の流れを実感しました。そういえば、今では、石置屋根の家は、昔から有る野町の一軒のみで、後は足軽屋屋敷など移築復元したものです。)


≪長町の川面≫
“長町の川は犀川の辰巳用水から引かれ、市街の中央をまがりくねって趨(はし)り、水量は豊潤で、川床は浅いのでせせらぎは美しい・・・”と鞍月用水が書かれている文章に写真はもう一つ外側の大野庄用水が撮られています。川沿いに傘をさして歩く人の先の電柱に淡中病院の看板が見えることから場所が特定できます。(辰巳用水?鞍月用水)


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(今の大野用水・構図はほぼ昔のまま、人が立っている辺り淡中の電柱)


犀星は、川べりを毎日歩いた高等小学校時代を“家鴨(あひる)の群れが水の上に詩を書き、川面すれすれに垂れた小枝は、毎日巴旦杏(すもも)がいろづいて行った。・・・・”と書き、やがて退学になる学校への行き帰りが綴られています。


≪犀川大橋≫
若い頃、大橋での友との夕涼みの様子が書かれ“・・・半分眠りながら彼が物語る嫁さんの話を聞いてゐた。半生を美少年として生ひ立つた彼は結婚の内輪話をしてくれ、私は女と女と結婚したような・・・”などと綴っています。


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(橋は昔のままですが、周りが随分様変わりしました)


写真は、手前には黒く鈍く光る金沢らしい瓦屋根を配し、金沢らしくない鉄橋の犀川大橋が横たわっています。橋の上には傘をさした人が点のように写りバスが行き交っています。右岸の袂には今はありませんが、塔のある西洋建築が見えます。


(金沢らしくない鉄橋も今ではこのての鉄橋では日本で一番古いものらしく、いつの間にか犀川のシンボルとして金沢らしい風景になっています。)


≪香林坊≫
”香林坊はぶらつく処ではない、ぶらつくのは片町の町すじであり・・・“という書き出しで、いま109がある処にあり、東京の浅草の情景を髣髴(ほうふつ)させる大神宮境内の様子と、若い頃、新聞記者時代の頃の片町と記者としての苦い思い出が綴られています。


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(随分様変わりしてますが、手前が香林坊橋)


写真は、夜の香林坊・・・。外灯の光が、雨で濡れた市電の線路のある街路を照らし、よくよくよく見ると、外灯の下に相合傘らしき影が見えます。線路が分岐しているので、多分あそこでは思いますが、今では一番変わってしまったところですから場所を特定するのが難しいところです。


≪W坂≫
“昔のW坂は草茫々、石ころゴロゴロ、樹木少々、途中でひと憩みしてタバコを喫んで、お婆さんなどやっこらさと更に半分のこした分の坂を登ってゆくのである。・・・”と綴られ、前回も引用しましたが、70年前(昭和30年の)、明治の30年代からW坂といわれていた事を伝えています。


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(今のW坂)


犀星は、子供の頃のW坂を綴っていますが、写真は昭和30年代、雨の坂を蛇の目の傘の婦人が子連れで登ってきます。坂の様子は今とあまり変わりませんが、坂の途中の木が随分太くなったように感じられます。


≪犀川用水≫
犀星が20歳まで住んだ雨宝院前の用水と向かいの真宗のお寺のことが書かれています。“この用水の古い石垣は深く、とつつきのお寺は毎日毎晩お説教があり老いた善女達が、堂内にぎっしり詰まっていた。”そして今もある川に出っ張った指物師の家で、掃き塵を落とすためのものだったと、近くに住んだものならではの内幕が語られています。


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(今の徳龍寺の欄干とトタン張りの元指物師の家)
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(引いて撮った上の写真)

写真には、舗装していない道路が見えます。変わったところといえばお寺の前の欄干、そして指物屋さんの家には防火用のトタンが張られていますが、60年前の姿がかなり残っている数少ない処です。写真に写っている用水は泉用水といって、雨宝院の前を流れ、寺の前には橋が架かっていたものと思われますが、暗渠になり今は昔です。


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(室生犀星)


参考文献:「暮しの手帳」30号おもいでの町「金澤」室生犀星著 1955(昭和30)年7月号

金沢の「まちなかバナーフラッグ」

【金沢駅→香林坊→片町・広坂・竪町・柿木畠】
金沢市には、経済局営業戦略部プロモーション推進課という他市ではあまり聞いたことのない課があります。業務は、聞くところによると来年(2015)春の北陸新幹線金沢開業に向けて、首都圏における総合的プロモーションの展開や、開業気運の醸成と開業記念イベントの開催などを担当する課だそうです。


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(広坂通りのバナーフラッグ)


平成25年(2013)3月金沢市が発行した「新幹線開業プロモーション・イベント実施計画」によると、業務は広範囲にわたり、“首都圏における総合的プロモーションの展開”の他“リピーター拡大に向けた展開強化”“おもてなし環境の整備”など7の柱で構成されていて大忙しのようです。


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具体的には、最近実施された主催新幹線金沢開業記念事業実行委員会の「金沢城プロジェクションマッピング」や「金沢古地図めぐり」それから後で紹介する「まちなかバナーフラッグ」など、詳細はよく分りませんが、金沢の賑わい創出に関わる事業の司令塔のような役割を担っているようです。


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(バナーフラッグの設置場所)


≪まちなかバナーフラッグ・みんなの絵≫
来年3月の北陸新幹線金沢開業で、これまでよりたくさんのお客様が金沢に来られことから、その方々を市民が“連れて行ってあげたい場所”を絵に描いて応募してもらうという企画で、どなたでも9月3日が締め切りで募集されました。


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快晴の日曜日の朝。バナーフラッグが掲示されていることは知らなかったのですが、自転車で町に出ると直ぐに目に入り予定を変更しバナーフラッグを追っかけました。集まった絵は220点ぐらいだそうで、掲示は10月11日より金沢駅から竪町・片町・広坂の都心軸線上にある街路灯やアーケードに設置されています。


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そこに描かれている“連れて行きたい場所”ですが、多いのは「金沢駅のもてなしドーム」「尾山神社」「石川門」「ことじ灯篭」などで、題材は、描きやすいさも手伝ったのかお決まりの場所ですが、描き方にはそれぞれに工夫があり楽しめました。


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中には、「暗がり坂」「金沢の秘湯」として七曲温泉の露天風呂が描かれてものや「加賀野菜」や「近江町」を絵文字で表現したものもあります。それから工事中の店舗にシートで半分見えなくあった作品もありました。


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絵は子供たちのものが多いのですが、大人が大人らしく描いたもののほか、子供のように大人が描いたものなど様々です。設置されている絵は「みんなの絵」に相応しく応募された作品はすべて採用されたそうで、面白いのや味のあるものなど色々で結構楽しいサイクリングになりました。


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今度、町に出たらゆっくり見て歩こうと思います。

重要伝統的建造物群保存地区”白峰“

【白山市白峰】
数年前から地元の公民館の「史跡めぐり」に関わっていますが、今回はバス一台を仕立て白山山麓の旧白峰村に出掛けました。生憎の雨模様、それでも予定の林西寺の白山本地仏、百万貫の岩、御前荘での岩魚の塩焼きの昼食、傘を差しての町中散策、白山ろく民俗資料館の見学。そして、白峰のみなさんの心のこもったおもてなし、雨降りは雨降りなりの楽しいバスツァーでした。


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(白山本地堂)

白峰は、平成24年(2012)7月に石川県内で8番目の重要伝統的建造物群保存地区に山村集落・養蚕集落として選定されました。金沢にも4ヶ所あり、仲間内では重伝建地区と呼ばれていますが、一般的には何のことか分らないので、ガイドの時は、舌を噛みながら長ったらしい重要伝統的建造物群保存地区といっています。現在は43道府県88市町村の108地区が選定されているそうです。

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(白山下山仏を拝観する参加者)

≪白山本地堂≫
林西寺の「白山本地堂」は、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、白山頂上にあった6000体といわれた多くの仏像が破壊されますが、当時の住職可性法師によって難を逃れた仏像が並んでいます。御前峰にあった「十一面観音坐像」や、大汝峰にあった「阿弥陀如来坐像」別山の「聖観音菩薩坐像」など7体と檜木の宿に有った泰澄大師作といわれる木造釈迦如来像の8体で、こちらにお参りするだけで、昔の白山は、仏教の霊地、いや、山が仏様であったのだということを実感します。


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(白山本地堂の入り口)

その中でも、慶松平の室堂にあった「十一面観音菩薩立像」は国の重要文化財に指定されています。この像は別鋳組み合わせ造りで、日本国内では余り例がなく11世紀の金銅仏としては大作で貴重な立像であるといわれています。


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(白山絵図・本地堂)


(当日、この立像所縁の方が参加されていました。聞くところによると立像はご先祖が寄進されたといわれていました。また、お父上様も白山に関わりのある方らしく、知る人ぞ知るお話だそうで、その方の苗字がそのことを伝えています。)


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(林西寺)

≪林西寺≫
養老元年(717)に白山を開山された泰澄太師により、白山登拝の拠点として開創されたと伝えられています。元来は天台宗のお寺でしたが、37代目の住職が越前・吉崎に蓮如上人を訪ねてその教えをお聞きし、文明5年(1472)に浄土真宗に帰依したとのことです。


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(お御堂)

藩政末期には、天領の白山麓18ヵ村の別格別院に指定され、御本山・東本願寺から親鸞聖人の等身真向きの御影をいただいて御安置しております。現在の本堂はそのときに建てられたものだそうです。


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(八坂神社)


(林西寺の隣に位置する八坂神社、泰澄大師が牛頭天皇を村の守護神として祀り、後に「牛頭」の文字にちなんで牛首村の名前が名付けられたといわれています。)


≪百万貫の岩≫
この岩は、昭和9年(1934)の手取川流域に大きな被害をもたらした水害で、手取川支流の宮谷川から土石流で3kmも流されてきた巨大な岩で、以来この辺りの名物となっています。岩は、県道33号白山公園線沿いの河床にあり、実測129万貫(約4800トン)、高さ16m、周長52mで、平成13年(2001)12月大災害の様子を後世に伝える資料として石川県指定史跡名勝天然記念物に指定されています。


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(百万貫の岩)
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(岩の解説をする白山に詳しい参加者)


≪雨の白峰散策≫
白峰は、昔は牛首といわれ、今でも伝統の織物として有名な牛首織にその名を残しています。地域の要となる牛首集落には、内外各地からの物資が集散し、商業が発展したといいます。天領18ケ村の大庄屋を務めた山岸家などもここに拠点が置かれていました。今も地区には数棟の巨大な「おやっさま」の住宅遺構が残り、最近では家々が鎧板張りの昔風の壁に統一され、玄関には数年前から昔の屋号の表札掛けられていました。


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(白峰の町案内板)

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(屋号の表札のある旅館)


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(町中の鎧板張りの壁)


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(山岸家は代々十郎右衛門を襲名し、天領である白山麓十八ヶ村の事務を司り、現在も建物の一部が残され、白峰の街並みの核となっています。)


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(行勧寺庫裏白峰に残っている唯一の木羽葺き屋根です。屋根には太鼓堂があります。)


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(ミンジャ(水屋)元来飲料水に乏しい白峰にてに引かれた用水は、簡易水道ができるまで300年余り使用していました。)


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(雪だるまカフェ明治初期に建てられた古民家カフェです。白峰で古くから受け継がれてきた伝統食や、雪だるまのオリジナル商品を提供しています。)


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(白峰温泉総湯は、全国でも希少な純重曹泉。湯上りの肌が絹のようにすべすべになるとか。)


≪白山ろく民俗資料館≫
資料館での解説は、薙畑(焼畑)と「出作り」の話でした。畑に肥料を蒔かずに行う農法で、山の中でも土壌が肥え、養分が豊富なところに、限られた農耕期でも雪融けが早く大木を伐採しやすいところに小屋掛けし、雪が降る前まで作業をするそうです。白山麓ではこれを「ムツシ」と呼び、そこで薙畑(焼畑)が繰り返され、その作業をするため山で小屋住まいをすることを「出作り」といったそうです。


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(白山ろく民俗資料館の倉庫・本館は改修中)


白峰の藩政期は、天領で山間地であるため年貢も少なく、食べるものも豊富で、養蚕に加えて麻織物も盛んで、裕福な村であったそうです。今回は、白山ろく民俗資料館の移築された桑島の杉原家と、白峰の織田家を見学しました。


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(杉原家に向う参加者)


杉原家は嶋村(桑島)にあった旧家で、屋号を「助五郎」。江戸時代には嶋村の村役人(組頭など)を代々つとめたといいます。酒造業や養蚕を行うとともに、米・衣類など食料や生活用品をあつかう商いを手広く展開していたそうです。


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(杉原家の土蔵造りと栗の木の梯子)


建物は、藩政末期に元治元年(1864)7代目利五郎の時、永平寺の宮大工の棟梁らが建てたもので、一棟としては石川県下で最大級の民家で、外壁は土蔵造りになっています。1階の「オマ」(居間)には家族や客専用の「上のオマ」と使用人専用の「下のオマ」があり、2・3階は養蚕のために天井や梁を低くして中柱の少ない構造となっています。


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(杉原家の解説板)


(建物は、木造三階建、栗小羽葺延床面積1,109平方メートル(335坪)石川県指定有形文化財(建造物)昭和59年1月31日に指定されています。)


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(杉原家でイロリを囲んで)


その日は、「史跡めぐり」の参加者は、平日にも関わらず特別に、火が入ったイロリを囲み、湯茶と昔ながらのおやつ(カマシイリコ)を戴きました。


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(織田家と解説板)

白山や白山信仰、白山麓18ヶ村については、古くは泰澄大師の始まり、加賀と越前の支配権争い、天領時代から明治の本保県、そして神仏分離令、石川県に帰属した経緯など、聞けば聞く程、興味がそそられますが。何れまとめて書こうと思います。今回はこれまで・・・。


参考:林西寺や白山ろく民族資料館のパンフレットやそちらでお聞きした話など。

“美濃”重要伝統的建造物群保存地区

【岐阜県美濃市】
ご縁があり、白峰から1日おいて、またまた重伝建地区に行っていました。その日も雨模様、仲間内の観光ボランティアガイドの年に一度の日帰りの研修旅行です。平均年齢は何処にも負けないくらい高いのですが、皆さんは向上心も高く前向きで、いや上向きで、今年は、うだつが上がる“美濃”がターゲットになりました。
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(うだつの上がる町)


(今回は“美濃”の帰りに、もう一つの重伝建地区郡上八幡市にも寄りましたが、大人数の団体でしかも雨降りから、思ったより時間がかかり、郡上八幡には夕暮れ、滞在時間の30分は、土産あさりに終始し、遠くに見えるお城をカメラの望遠レンズで眺めるだけに留まりました。)

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(東海北陸自動車道にて)

全国の重伝建地区は、今のところは除夜の鐘と同じ数の108だそうですが、その内の一割足らずしか行っていなくて、余り分っていませんが、私が訪れた地区は、権力者である大名がいた城下町以外のどの地区でも、昔はそれぞれの土地の産物や事業、そして酒造業等で巨万の富を築いて大金持ちがいて、したがって町や村は裕福だったことから今もそれらを象徴するような町並みに残されています。


(美濃市は、藩政初期まで金森長近の治める城下町でしたが、長近没後の元和元年(1615)に尾張藩領となりました。昔は上有知町(こうずちまち)といわれ、長良川に面した上有知湊(こうずちこう)は水運の要衝で和紙を中心に栄えました。明治44年(1911)から美濃紙にちなみ美濃町になり、昭和29年(1954)の市制が施行され、現在は約2万7千人と岐阜でも一番人口が少ない市ですが、歴史もあり昔ながらの大きな商家が残っている町だけにもっと人口が多い町のように感じられました。)
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(美濃・重文の小坂酒造場での皆さん)


美濃市美濃には、今まで見たこともない昔の大きな商家がありました。この地は、台地で水害を免れた反面、水利に恵まれず、たびたび火災に遭うと町全体が焼失してしまうことから、類焼を防ぐため、道路は、当時としは広く、家と家の間に防火壁になるようなうだつを上げ、建物は土蔵造りで、防火につとめたのだそうです。


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(美濃の町並み)


家々の“うだつの軒飾り”は、次第に富の象徴として互いに競うようになります。その凝った装飾は、近年、それぞれの造形美が、アートとしても楽しめることから注目され全国から観光客が絶えないそうです。


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(町の地図)


町中の東西2本の通りは、通称「目の字通り」といわれ、平成11年(1999)に国の重要伝統的建造物群保存地区(商家町)に選定されました。

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(うだつの上がった屋根)

美濃市と教育委員会が発行する「うだつの上がる町」には、20数件のうだつの上がった古い建築様式の町家が紹介されていますが、今回はその中で国指定の重要文化財の小坂邸と今は市が所有する旧今井邸を見学しました。



≪百春蔵元小坂酒造場≫
安永年間(1772~1781)の初期の建物だと伝えられている小坂邸は今も「百春」という銘柄で知られる酒造業。美濃を代表する町家建築で、国の重要文化財に指定されています。この町家の“うだつの軒飾り”は、「起(むく)り屋根」という緩やかに膨らんだカーブが特徴で、曲線は重厚で美しく、上方文化の影響だといわれているそうです。


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(重文の小坂家)


屋根が右と左で奥行きにさがあり、段違い屋根といわれ、左半分の屋根は小さくして、中庭を作り、奥の部屋の採光や風通しが考えられています。土蔵までしか見学が出来ませんでしたが、屋内は、間取りは片土間2列型、中の間の建具、調度、神棚などには古風を残していると冊子「うだつの上がる町」に書かれています。


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(小坂家)

昔は3本うだつの家だったといいますが、屋根の改造のため中央のうだつの前半分を取り除いて現在の姿になっているといいます。また、この家のうたつ飾りは鬼瓦を欠いていて、鳥衾(とりふすま)破風瓦(はふがわら)懸魚(けんぎょ)の三部形式のなっていると書かれています。


(小坂邸は、現役で、何坪あるか分りませんが「観光ふれあい広場」駐車場のすぐ前に裏が見えますが、そこから、かなり歩きても、なかなか表に出ないほど広大な敷地の老舗でした。)

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(うだつが上がったトイレ)


≪旧今井家住宅≫
今井邸は、庄屋もつとめた藩政期からの紙問屋で、平成6年から美濃市のしょうゆうになり美濃市資料館になっています。家は東と西で様式が異なり、江戸中期に建てられ、明治の初期に増築されたもので、“うだつの軒飾り”の形式はもっとも古いものが残っています。間取りは市内で最大規模、奥の6室が他よりも1段高くなった上段造りとなっているのが特徴です。


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(今井家住宅)


書院造りの奥座敷は、床の間と、中庭が見渡せ豪商時代の栄華がうかがわせます。中庭は古風な造りになっていて、現在、環境庁の「日本の音百選」の1つに選ばれている水琴窟が静かな庭にかすかな金属音を響かせていました。


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(今井家の奥座敷)
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(水琴窟)

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(庭)
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(史料館)
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(うだつ蔵)
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(お社)

現在、旧今井邸は、美濃市の歴史、文化、建造物に関する史料を展示する「美濃史料館」、うだつのことが学べる「うだつ蔵」郷土芸能の美濃流し仁輪加(にわか)を紹介する「にわか蔵」があり屋敷内にはお社もあり、「にわか蔵」後ろにある「催しもの蔵」の建物は現在改築中でした。


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(にわか蔵)


(幕末、金沢でも演じられていたという「俄(にわか)」は、こちらで美濃流し仁輪加(にわか)といわれているそうで「にわか蔵」で映像ですが、始めて見ました。)

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(近くの「美濃和紙あかりアート館」にも寄りました。)


参考文献:「うだつの上がる町」美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区・平成12年、美濃市発行など


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第20回寺町サミットin上越①

【上越市高田地区】
平成6 年(1994)に寺町を持つ市長が集まり「寺院群都市会議」が結成され、その第1回寺町サミットが金沢で開催されました。以後9都市が持ち回りで開催し20年。今年は10月24日と25日の2日日間、今回で4回目になる上越市が、親鸞聖人所縁の現在本堂が国の重要文化財に指定されている浄興寺で開催され、私も1年ぶりで参加させて戴きました。


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(意見発表会)

上越市は昭和46年(1971)、直江津市と高田市が合併し、さらに平成の大合併で現在人口は20万人を超え新潟県第3位の都市です。今回の会場は、高田地区の66ヶ寺が連なる全国でも余り例のない景観と歴史的資産の残る寺町寺院群で、主会場は前掲の浄土真宗の浄興寺。昼食会場の日蓮宗の2寺院で、食事会場から浄興寺へ行く通りに連なる寺院も参詣出来るように手配がなされていました。


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(寺町寺院群の参詣したお寺の一部)


今回、20回目を迎え「寺院群都市会議」及び実行委員会では、未来への展望を開くために「心の豊かさ」「生きることの誇りや知恵」といった新たな価値観を真剣に考え、行動するときと考え、寺町サミットin上越では、高田開府400年記念事業として、寺のあるまちの歴史と魅力を学び、寺院を活かしたまちづくりについて、次の100年に向けて共に考え次世代に伝え、引く継いでいく取り組みを推進いくということから、サブテーマ「寺のあるまちの歴史と魅力「学ぶ・伝える」まちづくり」とし、そのことについて事例発表、意見交換が行われました。


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(浄興寺前でマスコットキャラクターてらぼーが出迎え)
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(お弁当に高校生からのメッセージ)

今回の参加者は8都市350名。1日目は、「武士の家計簿」の作者で静岡文化芸術大学教授磯田道史氏の基調講演、8都市の住民団体の事例発表、磯田氏のコーディネーターで参加市長や各地の住民代表による意見交換会が行われ、寺のあるまちの歴史と魅力を発信し、次世代に伝えていくことに大切さを共有しました。


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(高校生が企画に参加のお弁当と掛け紙)
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(高校生の事例発表)

基調講演は、約40分間と短い時間にも関わらず、江戸初期の城下町とお寺の関係、ヨーロッパの都市と日本の城下町との違いを、視点を変えて、しかも誰でも知っている人物や土地を示しながら、分り易くお話戴き目から鱗が落ちたような、引っ掛かっていたことが、解けすっきりしたことも幾つかあり、もっともっと聞いてみたい素敵なお話でした。


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(磯田道史氏)


(ヨーロッパの町は、聖堂を中心にその前に人が集まる広場があり、あくまでも聖なるものを中心にまちづくりがなされていること、そして、今日の民主主義に繋がる話。日本の城下町の中心は俗なる城で聖なる寺院はその防御のために配置されていること、それは信長が宣教師等から得た知識によるもので、それ以前の日本の町にも寺内町というお寺が中心に町が形成されていた処もあること、また、越中の高岡と越後の高田の関係等々、歴史の見方は、古文書にも書かれていない大所高所から見ることの大切さを改めて教わった気がしました。)

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(事例発表)


事例発表では、上越市は高校生の力を借りながらサミットの準備をする事で生徒たちの寺への理解が深まった事例や小松市の廃寺が温泉を兼ね備えたコミュニティ施設に生まれ変わった事例など新たな取り組み、そして各地での寺院が従来持つ「人々が集い、学び、交流する」という機能の復活など、当初プランとして発表されていたことが、今ではプランではなく現実のこととして進められていることに感動を覚えました。

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(交流会)


(一昨年(2012)の米沢での≪鷹山公の名言≫“生せは生る  成さねは生らぬ何事も  生らぬは人の 生さぬ生けり“が過ぎりました。)

第20回寺町サミットin上越②

【上越市春日山城跡・高田城跡】
私が知っている上越市は、上杉謙信と親鸞聖人ぐらいですが、今の上越市は、新潟県3番目の都市です。昭和46年(1971)高田市と直江津市が合併し、平成17年の大合併では13町村のうち9町村が過疎地域で、過疎地域促進特別措置法特例措置の条件を満たしていることから、過疎地域(みなし過疎)に指定され、現在は人口20万人の全国で一番人口が多い過疎地域だそうです。来年3月14日北陸新幹線が開通することから、訪問した高田の町は活気に満ちているように見えました。


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(高田駅)


≪春日山城≫
古くは越中国の管轄で、大宝2年(702)頸城郡が越中国より越後国に譲られ越後国府が置かれます。室町時代には、現在の直江津周辺の国府に越後守護上杉氏の館があり、その詰め城(本丸)として築城したのが春日山城です。城は、標高180mの敵の攻撃を防ぐのに便利な難攻不落の城とされ、長尾為景(景虎の父)、長尾晴景(景虎の兄)、長尾景虎(上杉謙信)、上杉景勝の4代の居城となります。


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(春日山城の北陸新幹線ののぼり)
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(春日山城)
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(春日山城現在と絵図)

≪福島城≫
その後、上杉景勝が会津へ移った後、越後を支配したのは越前北ノ庄の堀秀治で、春日山城では、政治を取り仕切るのに不便とし、また、加賀藩前田家を牽制するために、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移ります。


≪高田城≫
松平忠輝時代:
慶長15年(1610)。堀氏の改易後、徳川家康の6男・松平忠輝が従来の川中島藩12万石に加え、越後の新領である63万石を領する75万石の太守として赴任します。その後、松平忠輝は慶長19年(1614)に天下普請で高田城を築城し、福島城を廃します。


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(復元された高田城三重櫓①)

忠輝は父・家康や異母兄・徳川秀忠に疎まれ、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で遅参した上、忠輝軍が大坂に向けて行軍中の近江守山で兄秀忠直属の旗本2名を斬殺するという事件を起こします。しかも夏の陣後、家康と共に朝廷に戦勝奏上のため参内することになっていたが、忠輝は桂川で舟遊びをしていたそうです。これらが原因となり家康死後の元和2年(1616)、秀忠の命により忠輝は改易されて、伊勢朝熊に配流されました。


(松平忠輝の統治は、築城の慶長19年(1614)から改易は元和2(1616)。高田に来てからわずか2年間でした。一説では、秀忠が自分より才能に優れた忠輝の存在(忠輝の妻・五郎八姫は伊達政宗の娘)を恐れたための処置だったとも、徳川忠長や松平忠直と同様に幕藩体制確立の障害となるためであったと言われています。また大坂の役で得た領地は豊臣氏65万石余のみで諸大名に対して恩賞を与える事は困難であり、家康や秀忠は身内に厳しく対処することで乗り切る狙いがあったともいわれています。)


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(復元された高田城三重櫓②)


酒井家時代:忠輝改易後は上野高崎藩から酒井家次が10万石で入部します。家次は徳川四天王筆頭であった酒井忠次の嫡男で生母は徳川家康の祖父松平清康の娘なので家康の従兄弟です。家次は忠輝改易後の7月に高田城の受け取りを勤め、そのまま10月に入部します。家次は父と家康覇業の功臣として活躍した人物でしたが、高田入部から2年足らずの元和4年(1618)3月に死去。代わってその子・酒井忠勝が継ぎますが、元和5年(1619)3月に信濃松代藩へ移封されました。


越前松平家時代:松代より元和5年(1619)松平忠昌が25万9000石で入ります。忠昌は家康の次男で忠輝の異母兄結城秀康の次男、元和9年(1623)越前福井藩を継いでいた長兄の松平忠直が不行跡を理由に改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐ事となり、忠昌は本家を相続します。寛永元年(1624)嫡子仙千代(忠直の子松平光長)が新たに越後高田に26万石が与えられました。


(延宝2年(1674)世継ぎ問題から、いわゆる越後騒動に発展し、長期に渡り藩内が混乱状態に陥りますが、一旦は幕府により裁断が下され落着します。しかし延宝8年(1680)に将軍家綱が死去して第5代将軍綱吉が就任すると、綱吉による異例の将軍直裁による再審議により、57年間続いた松平家の高田藩は改易処分となりました。この印象悪化以降、高田藩は「懲罰的な転封先」とされることが多くなります。)


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(石垣のない高田城の堀)


幕府領の時代:延宝9年(1681年)7月から高田は幕府領とされ、以後4年間、信濃他の諸大名が2家組・1年交代で城番を勤めました。

稲葉正住の時代:貞享2年(1685)、稲葉正住は、後に江戸城大留守居役として幕政に復権するまでの16年間藩主となります。老中就任を経て元禄16年(1701)、下総佐倉藩へ移封されます。


戸田忠真の時代:高田藩の歴代藩主家で最も小藩のため、行政や城下町建設では消極的な政策が採られたたが、9年後、宝永7年(1710)に下野宇都宮藩へ移封となります。


久松松平家の時代:高田における久松松平家の統治はかなり厳しく特に重税が敷かれて領民は怨嗟の声を上げたといいます。移封の時期は、住民の抑え付けた定輝ではなく5代目の定賢の時代で、久松松平家の統治は31年間続きますが、移封先は高田よりさらに僻地の白河ですから実質的には左遷されます。


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(高田城の外堀・現在東洋一の蓮池)
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(博物館)
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(博物館のビデオを見る)


榊原家の統治時代:徳川譜代の名門榊原家の当主であった播磨国姫路藩主の榊原政岑は、江戸吉原遊郭での豪遊などを咎められ、将軍・徳川吉宗の政策に反するとして強制隠居させられた。改易の話もあったがなんとか御家は存続となり、跡を継いだ榊原政永はしかし懲罰として譜代名門の姫路藩から高田に移されました。


(政岑は将軍徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけったといいます。寛保元年(1741)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を2500両で身請けするなど、奢侈を好み、さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれています。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買いました。森鴎外の「榊原政岑事跡」には、高尾太夫は後に高田箱井村の住んだと書かれているそうです。)


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高田藩に移った政岑は、子の政永の後見人として藩政の再建に努めたといいます。高田藩では歴代藩主の借財で財政は厳しかったのですが、政岑は率先して倹約に励み、新田の開墾や灌漑工事を行ない、生活苦の多い農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励し、政務に励んだといわれています。寛保3年(1743)2月若くして死去、享年31歳。


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(高田城の絵図)


以後榊原家の高田藩統治は、明治4年(1872)まで約126年間続きますが、今回、上越市を訪れ、地元の方から聞くのは榊原家より、高田築城からわずか2年間藩主だったの松平忠輝のことばかり、さすが、家康の6男で75万石の貫禄からか、特に観光では、榊原家より、徳川家康の血筋忠輝の方が分りいいのでしょうか、私のようなよそ者には、人間榊原政岑に興味がわきました。



参考資料:第20回寺町サミットin上越、基調講演磯田道史氏の資料や今回集められていた上越市から配布された資料など

越後高田と加賀金沢①

【高田・金沢】
先日参加した寺町サミットは、中部・北陸地方の都市が基になり20年前に始まりました。当時、都市は合理化するだけでは成り立たないということが分かり、古いものと新しいものが渾然一体となった“まちづくり”が求められるようになったことから、以後“お寺のある風景“を大切にすることを再確認し、さらには寺院を活かした”まちづくり“の方策に関し、課題の提起や研究、意見交換の場となっていますが、今回は、少し脱線して、基調講演で磯田道史氏の加賀藩と高田藩についての話を聞くに及び興味をわき調べてみることにしました。


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(高田城三重櫓)


私の歴史は、観光から入っているので始めから腰が引けていて、歴史の先生からすれば鼻持ちならない素人で、当然、底も浅く、人に受けそうなことや自分が興味のあること、そしてスキャンダラスなことだけが一寸だけ詳しく、すべてが人の言ったことか読んだことの引用です。さらに歴史を点でしか捉えていなくて、時代も行ったり来たりするというもですから割り引いて聞いていただければと思います。


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(広い内堀)
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(高田城内にあった絵図の看板)


今回、興味を持ったのは、先ずは高田城の築城です。慶長18年(1613)天下の情勢は、まさに豊臣家から徳川家に代わるタイミングでした。築城を命じたのは徳川家康で、6男の松平忠輝が治める越後高田に新城を築くことを決めます。


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(石垣の無い高田城本丸極楽橋の石)


高田は、北陸道の出入口で北国街道上の要衝です。そして加賀前田家の押さえであり、佐渡の金銀を輸送する北国街道を確保できるという重要な地域でした。よって高田城は徳川家の支配力を象徴する重要な役目を果たしたと考えられます。


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(春日山城絵図)

もともと高田城は、室町時代から越後の太守の居城春日山城に始まります。その後越後国府などの機能を統合した新しい越後一国の都として、堀秀治・忠俊父子により福島城が築城されますが、堀氏が改易になり、徳川家康の6男松平忠輝が入城します。慶長19年(1614)に福島城を廃し、高田城を築きます。


(家康はすでに慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられて、江戸幕府を開いていました。しかし大阪城では秀吉の子秀頼が健在で、かつての豊臣家の功臣堀氏は 、関が原の合戦で徳川方に味方したとはいえ、徳川政権樹立に障害があると考えた家康は機会があれば堀氏を廃絶しようと考えていたようです。また、加賀金沢の前田家、出羽米沢の上杉家を牽制するためにも、越後を徳川一族で固めておく必要から、慶長15年(1610)閏2月2日家康は「堀忠俊は幼年で大国を支配する器量がない」として、福島城を没収し、6男松平忠輝を福島城に入ります。)


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(福島城絵図)


慶長19年(1614)築城工事は徳川の命を受けた仙台の伊達政宗(忠輝の舅)が普請総裁。加賀金沢の前田家をはじめ、13もの有力な大名に従事させ、かつて豊臣方だった大名たちが高田城のために私財をつぎ込まされ、徳川の味方であることを示させられたものと思われます。この徳川の勢いは工期の短さにも表れています。


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(高田城の絵図)


当時の築城工期は7~10年だったといわれていますが、この高田城は4ヵ月。各藩から集まった技術者や労働者は5~10万人ともいわれた幕府の事業“天下普請”でした。しかも大坂冬の陣の3ヵ月前。高田城は、豊臣家との決戦への布石であったものと思われます。


(高田築城については、忠輝の実母茶阿局は金地院崇伝に新しい城の位置の吉凶を占わせていることが崇伝の日記に書かれているそうで「今いる福島城の南の方に新しい城を築きたいが吉凶はどうか」との問いに、崇伝は「一段と良き方」と占いっているそうです。)


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(金沢城石川門)


それにしても、時に前田家は3代藩主利常公、舅の父家康の命による天下普請ではあるとはいえ、自藩への牽制と威嚇のための築城には、複雑なものがあったものと思われますが、後の利常公の強かな生涯を知れば、それらが肥やしになっているようにも思えてきます。ちなみに利常公は、松平忠輝の2歳年上の同世代です。


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(前田利常公)


参考資料:第20回寺町サミットin上越、基調講演磯田道史氏の資料や今回集められていた上越市から配布された資料など

越後高田と加賀金沢②忠輝と利常

【高田・金沢】
高田藩の松平忠輝と加賀藩の前田利常は、豊臣政権では共に大老といわれた徳川家康と前田利家の側室の子として生まれます。父親との縁が薄く2人の父親との対面は6歳(忠輝は7歳説も有り)の時だといわれていますが、利常は父利家から気に入られ大小2刀を授けられています。しかし忠輝は、家康が誕生を素直に喜ばず、始めて対面したときも嫌ったと言われています。


(忠輝:天正20年 1月4日(1592年2月16日)徳川家康の6男。利常:文禄2年11月25日(1594年1月16日)前田利家の4男)

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(高田城三重櫓)
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(金沢城菱櫓)

忠輝は、捨て子のしきたりから家康の側近本多正信に拾わせ、養育先を探させ下野栃木(長沼)城主で3万5,000石の大名である皆川広照に預けられて養育されています。7歳の慶長4年(1599)1月、家康の7男、同じ母親の実弟松千代が早世したため、弟の後釜として長沢松平氏の家督を相続し武蔵国深谷1万石を与えられ、さらに慶長7年(1602)12月に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗っています。


(当時は捨て子の方が、強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて自分に届けさせて育てるという風習があったそうです。また忠輝は双子で出生したからという説があります。)


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(徳川家康)

慶長8年(1603)2月、信濃国川中島(松代)12万石に加増移封されますが、わずか40日目の転封で、姉婿花井吉成が家老として補佐することになります。忠輝は、慶長10年(1605)徳川秀忠が将軍に豊臣秀頼が右大臣の就任に際し、家康の命令で大坂の秀頼に面会。慶長11年(1606)には、伊達政宗の長女五郎八姫と結婚します。


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(高田城三重櫓より城内)

忠輝が父家康から生涯を通じて嫌われたのは、「生母の身分が低いから」とか「顔が醜かったから」等と、親が言うことではないような話が伝えられていますが、家康という人は、子供の顔に異常なほどこだわりがあったようで、忠輝の異母兄である結城秀康も“顔が魚っぽいからイヤダ”といったそうで、子供が言うような事をいって冷遇したといいます。一説には“秀康も忠輝も双子で生まれたから、不吉だとして家康に嫌われた“という説もあります。


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(高田城三重櫓より妙高の山々)


元和2年(1616)4月、家康が死去しますが、家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばず、拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら出向きますが、家康は最後まで面会を許さなかったといいます。元和2年(1616)7月には、忠輝は兄秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされ、元和4年(1618)には飛騨国高山に、そして寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流されます。


(流罪といっても、忠輝は元々の身分が高く、預かり先もきちんとした城であったためか、亡くなったのはなんと天和3年(1683)92歳と長寿で、当時の将軍は5代綱吉の時代です。流されたのが25歳のときですから、人生の約4分の3は流罪生活だったことになります。)


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(前田利家)


一方利常は、側室の子で同母の兄弟がおらず、幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられ、若くして人知れず苦労を重ねますが、頭脳明晰で偉丈夫、跡継ぎのいなかった兄利長の養子となり3代藩主になります。将軍家徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎え、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになりました。


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(金沢城から戸室山、医王山)


忠輝も利常も共に夫婦仲が良かったといわれています。忠輝の妻五郎八姫(いろはひめ)は、13歳で忠輝に嫁ぎます。聡明で美しい女性だったと伝えられていて、しかし20歳代前半で離縁します。父政宗が縁談を持ち掛けてもかたくなに断り、残された和歌や手紙には、離れた人への想いがつづられていたとか、そして生涯独身を貫き一途に忠輝を慕い続けたといわれています。


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(高田城の歴史案内)


利常の結婚は、政略結婚ですが、夫婦仲は非常に良かったと伝えられ、利常との間に3男4女を儲けています。しかし元和8年(1622)5女夏の出産後体調を崩し7月には24歳の若さで病没します。前田家は外様筆頭ということで、幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母は、夏姫の出産後に母体の調子が宜しくないとし、珠姫を隔離し、事情を知らない珠姫は、利常の御成りがないのは寵愛が薄れたからと誤解し衰弱死したとも伝えられています。


(忠輝も利常も夫婦仲は人もうらやむ仲の良さが伝わってきますが、離婚と死別という自らではどうにもならない、非情な別れが訪れます。)


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(金沢城橋爪門と五十間長屋)


利常は、大坂の陣の終了後、家康から与えられた感状では「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国」を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してこれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んだといわれています。


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(金沢城橋爪門二の門)


そして家康は死の床で枕元に来た利常に対して「お点前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、手も打たなかった」といったという。そして「我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍(秀忠)の厚恩を肝に銘じよ」と言い残したといいます。


(家康は「おまえなんぞ、いつでも殺せた」といい、秀忠への忠誠を植え付けていますが、それを逆手に取り、利常は「家康公は、死ぬ間際に前田を助ける事にした」といったと言い触らしたという利常の強かさが伝わっています。)


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(前田利常公)


利常は、息子4代藩主光高の急死で、跡を継いだ綱紀が3歳とまだ幼かったことから、綱紀の後見人として藩政を補佐します。その間も利常は常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらもうまくかわし120万石の家領を保ち、内政も「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの態勢を築きます。万治元年(1658)10月12日に66歳で死去。


(忠輝は92歳、利常は66歳の生涯でした。最近、働き過ぎ短命説をよく聞きますが、流罪生活で働かない忠輝の方が26年も長生きしているのが、その証明かも?そんなことはないと思いますが・・・?いずれにしても2人の側室の子は、共に興味が尽きない人物であることは確かです。)


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(磯田道史著の「武士の通信簿」)


参考文献:「武士の通信簿」磯田道史著・平成20年10月・(株)新潮社など

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