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小立野の古地図めぐり①与力の町だった金大病院

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【金沢・小立野】
小立野の旧与力町は、他の武家地と違い明治なり、空気がよく自然の眺めが清らかで美しく、さらに、立ち退きが容易だったのか病院や学校が誘致されました。原型を留めぬ大開発が行われ、昔を思い起こす小路も建物跡、樹木もありませんが、よく周辺をみると宝円寺前と金沢美大側に一部、当時の小路の跡が残っていました。しかし、大方が大学病院と大学ですから古地図を片手に巡るという分けにもいかず、古地図を見ながら想像を巡らしています。


(宝円寺門前に約100軒の与力の屋敷がありました)


与力町は、元は田井村の村地で、寛文5年(1665)に藩に召し上げられ、与力の屋敷地になりました。元禄6年(1693)の侍帳には54家が記録されているそうです。与力とは、藩政期の職名で、寄騎とも書きますが時代や藩によって意味が異なります。加賀藩でも藩主より人持組の大身に預けられた者をいい、身分はお目見え以下の武士です。


(金沢大学病院・明治38年に病院・明治45年に医学校が移転)

原則は一代限りで約190家。禄高は60石から300石で、藩政後期には藩士の二、三男が分家して新たに家を立てたようで、加賀藩士で、よく知られた姓が幾つも見えます。組地はこちらの小立野の他に石坂与力町があり、大きい屋敷では200~300坪、禄高200~300石取りが何家もあります。




(病院の構内は元与力町)


幕末の小立野与力町には、109軒の内92軒に与力が居住し、他の組は8軒空地が8軒あったといいます。住民には、明治になり不平藩士が時の執政本多政均(ほんだまさちか)を暗殺する事件の首謀者や同志、さらに事を起こすことを戒めた人も居住していますが、明治のなり学者や政治家など著名人も輩出しています。また、藩政期お殿様が所望するが、大きくて運ぶことが出来なかったため藩主から五人扶持を拝領した「五人扶持の松」と云われる五葉松が、今も大きな枝を張っています。



(金沢美大前の元の与力町の道)

(宝円寺前の元の与力町の道)

≪本多政均暗殺事件と仇討ち≫
明治2年(1869)8月。金沢城二の丸御殿で、金沢藩執政(藩臣の最高職)の本多政均(ほんだまさちか)が暗殺されました。テロの実行犯は下級藩士2人、金沢城の廊下でじっと息を潜め、白昼堂々行われた凶行でした。西欧文化を積極的に導入し、藩の近代化を推し進めようとした政均の改革は、時代の急激な変化についていけない藩士の不満のはけ口にされたといわれています。
(実行犯2人は、山辺沖太郎と従兄弟の与力町の住人井口義平)


(金大病院から眺める金沢城石川門)


14代藩主(金沢藩知事)前田慶寧公(よしやす)は、犯行の翌日。政均の改革は自分の意に沿うものだと強調した上で、「今後は心得違いをすることのないよう、一同に強く申し諭しておく」と家臣に命じたといいます。


事件から1年半後、実行犯は処刑されたが、共犯者の多くが軽い処分で済みます。これで納まらなかったのは主を殺された本多家の家臣たちでした。無念を晴らそうと立ち上がった15人は、暗殺計画に関与した藩士を突き止めると、自宅や通勤途中、出張先へ押しかけ、3人を討ち果たします。


(金大病院から眺める卯辰山)


仇討ちに加わった15人のうち12人は翌明治5年(1872)、切腹を命じられます。この事件は維新後の日本社会に与えた影響は大きく、政府はすぐさま「仇討ち禁止令」を出し、全時代的な風習の一掃を図ったといいます。



参考資料::「金沢古地図めぐり」金沢市発行・「五人扶持の松が見える天神町」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11467283668.html


小立野の古地図めぐり②赤シャツ伝説

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【金沢・小立野】
小立野の古地図を見ると、現在の金沢大学病院のところは、前回にも書きましたが与力町で100軒ばかりの家々が建並んでいて、屋敷地には、玄関側と思しきところから苗字が書かれています。つぶさに眺めていると、聞いたことのある名前が目に入りました。



(横地家が有った辺りから金沢城が見える)


4年ほど前、北国新聞に夏目漱石の「坊ちゃん」で教頭「赤シャツ」のモデルといわれている横地石太郎氏の記事が載り、そこに小立野与力町の出身だという書かれていたのを思い出し、今度の小立野の古地図めぐりのネタにしようと思い、当時の新聞を引っ張りだし、その頃に集めた資料とともに読み返しました。



(2010/6・8北国新聞記事)


古地図によると、宝円寺の前の通りから入り1本目の小路を左に曲がり突き当りの左側の崖の上の横地和次郎と書かれているところだと思われます。現在の金沢大学病院と住宅地の境界線辺りのようです。特定はできませんが、金沢の街中や向の卯辰山など眺めがよく、敷地もかなりの広さがあったように思われます。



(赤い所が横地和次郎家)


「赤シャツ」は、小説「坊ちゃん」の作中、権力を笠に着る唯一悪役ですが、帝大出の文学士で、当時流行していた赤シャツを着た「ハイカラ野郎」で、妙に女のような優しい声を出す、どこから見ても紳士風で松山でも一目置かれる存在として描かれています。しかし、モデルは帝大の文学部を出た文学士漱石自身だという説もあります。



(屋敷から卯辰山が見えたはず・・・)


一方、横地石太郎は、安政7年(1860)生まれで、前田家15代利嗣とともに本郷の学問所に学び、後東京開成学校(東大の前身)理科で学び卒業。全国各地で教師として働き、誠実な人格者で、山口高等商業学校(山口大学経済学部)校長を最後に教職を退いています。



(横地家の屋敷はこの左奥か・・・)


横地石太郎が明治27年(1894)、33歳のとき松山中学の嘱託教諭に就き、漱石は、翌年英語教師として赴任、その11年後に「坊ちゃん」が発表されています。後に横地は、その時「教員室で一度頭を下げただけだった」と振り返っていたといいます。



(赤いところが横地家)


しかし、松山時代以後のことですが夏目家と横地家が、漱石の結婚によって間接的に親戚になったことから、他人を悪役に仕立てることに躊躇した漱石が、この役を親戚の横地石太郎にしたのではという説が、誠しやかに伝えられているとか・・・。


(金沢では、2013年6月8日(土)~7月7日(日)金沢ふるさと偉人館で「開館20周年記念企画展」で夏目漱石とその時代―漱石をめぐる金沢の人々―が開催されました。)


参考文献:「加賀藩士横地石太郎」山路の会平成元年3月発行他

小立野の古地図めぐり③小立野のこと

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【金沢・小立野】
小立野は、東西は約500m、兼六園の小立野口から天徳院まで1、5kmぐらいで、史料(越登加三州志)には幅狭く細長いので、昔は「小竪野」といい、“小立野“というのは謬書(びょうしょ)だ!!(間違い)というのもあります。また、一向一揆の七里参河が小館を建てたので「小館野」というとか、木曽義仲が、平岡野木立林に陣をとったからとか、変ったところでは、大昔、今、蕎麦屋小立庵の辺りの荒野に建っていた小立庵という草庵からきているとか、どれももっともらしく聞こえてきます。



(今の天徳院)

(今の下馬地蔵堂)


本題から外れますが、小立野で気になることが幾つかありますので、初めから脱線です。地質学者の説によると、1万年以前(沖積世)まで、小立野台地は犀川と浅野川が蛇行して流れていて、海の沈下に伴い台地が浸蝕され今日のように河岸段丘ができ川床が下がり小立野台地が細長く残ったといいます。

(竹沢御殿は今の兼六園)


犀川が河岸段丘をつくったとき、川の上流の「片麻岩」に含有する金を多量に小立野台地の段丘に沈殿させたそうです。そういうわけで、芋堀藤五郎伝説に有るように小立野台地には昔から砂金が取れたのだといいます。一番大量に取れたのは、今の兼六園から金沢城のところらしく、中世にはゴールドラッシュで金屋が集まり、砂金採掘が続いたといわれています。



(金沢城)


時代は下り、前田家が入城すると、金沢城築城に際して、戸室山から切り出された石材が大勢の人たちによって城まで運ばれ、そのため小立野の真ん中に石を運ぶための道路が通され、今も「石引通り」と呼ばれています。



(大正時代の図、下馬は今より下に、金美大ギャラリー前か)


当時の下馬地蔵は、石を運ぶ人々の平安無事を祈りました。後に3代藩主利常公の正室球姫様の菩提所として天徳院が建立されると、地蔵堂のところを下馬として鎮守祠を設け白山権現を併祠し腰掛け所を作ります。腰掛けは、行き交う人や参詣の人に利用され、人々はこの祠辺りを「下馬先」といっていたといいます。



(今の下馬広場)


下馬地蔵は以来400年間、天徳院の祭祠に留まらず除災招福の霊験著しく小立野に住む人々の信仰の祭祠として、毎年例祭「下馬のまつり」が開催され、盆踊りは「下馬の踊りにおどらぬは、臼の目立てか、番太郎か」と唄われるほどで有名だったといわれていたそうです。30何年か前から地元の人々で「石引夏まつり」と名も新たに復活され、下馬の広場では今年も8月1日開催されます。



(8月1日の「石引夏まつり」のポスター)


今回「小立野の古地図めぐり」を実施するにあたり、歴史があり見どころも多く2時間前後でめぐるコースの選定に苦慮しました。結論は、一回で終わろうとするところに無理があり、何回かに分けてめぐることにしました。今回は、小立野下馬の集合し、亀坂(がめざか)経由で小立野にある前田家所縁の4ヶ寺と一向一揆伝説が残る椿原天満宮をはじめ天神町界わいの歴史や現在金沢大学病院の構内のなっている旧与力町にもふれ、中世の砦の跡ともいわれる八坂へ、約2km一寸、2時間から班によっては、2時間半の散策になりました。



次回は詳細を・・・。

小立野の古地図④亀坂(がめざか)と御小屋坂

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【金沢・小立野】
小立野の旧道にある亀坂(がめざか)は、昔、金沢城の築城に際し、戸室山から戸室石を運ぶにあたり、深い谷を埋め勾配をゆるくしたところで、亀坂(がめざか)という名前の由来も諸説聞かれます。難所のため石を引っ張るとき亀の歩みのようにゆっくりになのでとか、また、谷が亀の甲羅を逆さまにしたような形だったからだと聞いたことがありますが、本当のところは藪の中です。



(この通りが亀坂(がめざか)

(9の右側に「ガメ坂」の文字が見えます。安政の古地図より)


最近では、さらに勾配がゆるく坂のように見えないのか、すぐ下にある御小屋坂を亀坂という人もいます。また、そのように書かれた紹介本もあり、緩やかな坂の途中に、「亀坂(がめざか)」という坂の名と歴史を記した石標があるにも関わらず、地元の住民の間でもこの御小屋坂を亀坂と思い込んでいる人が多くみられます。



(亀坂の石碑)

(上が亀坂・下は地下道)


(50年程前、亀坂の上に「亀の湯(がめのゆ)」という銭湯があり、何時からか白山坂の上に移転しました。そのためか、白山坂を「亀坂(がめさか)」という人がいるそうです。)





(亀坂の天徳院側の谷に、文化2年に辰巳用水のあまり水を使い水車を回し、線香を造る線香場がありました。)




(御小屋坂)


御小屋坂については、麓に藩政期貧民救済を目的とした御救い小屋が作られていたことから御小屋坂とよばれていたといいます。寛文9年(1669)の夏から秋にかけて各地で洪水が発生し、5万8千石分の田畑が流失して大凶作になりました。


加賀藩5代藩主前田綱紀公は土地家屋を失った人々を救済すべく、笠舞村に6千坪を開いて小屋45棟を建て、困窮者の救済にあたりました。これをお救い小屋または非人小屋と呼びました。米の給付があるため、周辺から困窮者が流れ込み、3千人近くになったといいます。単に貧民対策だけでなく、病人の救済や授産所の性格まで備えていたといいます。



(今の笠舞一丁目の住宅地図)


また被災者を収容するだけでなく、働ける人たちに草履やタワシを作らせ、農具を与え、新たに開懇作業を行わせ田畑を作り新じい村を作ります。当時の学者荻生祖来(おぎゅうそらい)により、「加賀の国に非人は一人もなし」とたたえられています。以後御救い小屋は明治2年に卯辰山に移るまで笠舞にありました。


(清光の碑)

被災者の中には、六代長兵衛清光という有名な刀工がいて、笠舞の御救い小屋で刀を制作したそうです。因みに「沖田総司」「東條英樹」といった人たちが、清光の刀を所有していたといわれています。”非人清光の碑”は、昭和42年(1967)4月7日に笠舞1丁目に建てられました。

(製作者は板坂辰治(当時、金沢美術工芸大学教授))



≪脱線:笠舞伝説≫
笠舞の地名は、今から約1300年前、猿丸太夫が、都に行くため、犀川のほとりに差し掛かった時、突風で、被っていた笠が急に舞ったことから”笠舞“の名がついてと言われています。



(今は閑静の住宅地笠舞)


猿丸太夫は、金沢に伝わる伝承によると、聖徳太子の孫にあたり、蘇我氏の迫害で、加賀に逃れ、今の猿丸神社のところに住んで居たいといわれています。(まあ~、説はいろいろ。)猿丸太夫は架空の人物だ、とか、柿本人麻呂と同一人物ではないかなど諸説あります。



(今は閑静の住宅地笠舞)


金沢の伝承では、ある年、都の歌会に出席してから帰らなかったといいますが、「加賀の国は、雪が降って、物寂しい国、再び帰らず」として帰らなかったといわれていますが、村には養鶏などを教えたなどと伝えられ、村人は塚を築いて社を建てて神として祀ったといわれています。



その社(猿丸神社)のところが一向一揆の時代は砦だったとも言われ、藩政期には、呪詛(じゅそ)“のろい”の丑の刻参りで知られ、闇に紛れて鉄釘(くぎ)を打ったといいますが、今は、その杉の老木も伐採されたと聞きます。



(笠舞の住宅地)


藩政期の伝承には、笠舞は水が良いので、稲穂は長く、他の村の7倍もあり、稲籾が多くて、ある年などは、一穂に3,530粒もついたといいます。実際にも、藩政期の寛文10年(1670)村御印による村高は714石で百姓17名、年貢が7ッ2歩(72%)綿役3匁、野役19匁と、税がやたらに高かったようです。


(明暦(1656)の平均免(税率)は、江沼5ッ、能美4ッ3歩5厘、石川5ッ2歩8厘、河北5ッ7歩、能登口郡4ッ7歩5厘、能登奥郡5ッ1歩8厘、礪波4ッ5歩8厘、射水4ッ6歩4厘、新川4ッ1歩5厘で、お城に近いところが高いようです。)



(今も少しだけ残る笠舞田圃)


また、城下に近いので、藩の御用地として召し上げられました。上笠舞は、鉄砲足軽が住み、下笠舞は、篠原家の下屋敷や手木足軽や台所付き足軽の組地で、旧手木町や旧台所町はその名残です。何故か水が良いはずの上田(じょうでん)の笠舞の田圃を、御救い小屋や足軽組地にしています。


(稲籾のことはよく分かりませんが、明治の笠舞の記録を調べてみると、一反当りのお米の生産量は1石1斗2升と他の地域と余りかわりません。また村の戸数は97戸、そのうち農業は53戸になっています。)

天徳院にあった室生犀星の茶室

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【金沢・小立野、天徳院】
金沢の三文豪の一人といわれている室生犀星は、34歳の大正12年(1923)9月1日関東大震災で、翌10月には、家族とともに金沢に帰り、妻とみ子の生家池田町の浅川方に仮住まいのあと川御亭や川岸町に移り、その後、数年金沢と東京、軽井沢を行ったり来たりしています。



(天徳院)

大正13年(1924)5月には芥川龍之介を金沢に招きますが、大正14年(1925)1月には単身上京して田端の旧居が空かず一時田端の別の家に仮住まい、2月には家族も上京し、4月には田端の旧居に移転します。その頃に金沢に草庵を建てる思いがつのったといわれています。



(天徳院山門)


大正15年(1926)5月に金沢に一時帰郷し、天徳院の寺領150坪を借り、庭造りに着手します。妻とみ子宛の手紙に「きのふ地所の調印をしました。明日あたり、垣根二日、地ならし二日、石はこび二日、敷石を敷くため二日、木の植込三日、流れをとる小川二三日」数日後「大部分出来上ったが、たぶん十日ころには帰れることと存じ候、何分にても後庭百坪あり、どれだけ木を植えても足りなくて閉口いたし候」と書き送っています。



(大正時代の天徳院周辺図)


昭和3年(1928)には、4月に義母ハルが死亡、帰郷し通夜、葬儀に出席し、7月に東京の家を引き払い、軽井沢の貸別荘に滞在していますが、11月には東京大森谷中の借家に転居しています。



(室生犀星記念館の「ふるさとは・・・・)


昭和4年(1929)5月には単身金沢に帰り寒蝉亭(かんせんてい)と名づけた庭の草庵に止宿して庭仕事をしています。東京より石塔を送り、茶室として田端の家の離れを解体して移築し、ほかに6畳と8畳の母屋も作っています。



(天徳院参道)

(石川モーターズのビルの間を入る)

(左の建物の所に茶室がありました)



(現在クレール小立野・突き当りが天徳院)



(天徳院の鐘楼)


昭和6年(1931)7月には、軽井沢に百坪の土地を借りて新築した別荘に一家で滞在します。昭和7年(1932)、前年から東京に家を建てることを考えていて、そのため金沢の「寒蝉亭(かんせいてい)」を売却します。



(現在の天徳院周辺図)


(・・・金はどうして作る、私は国(金沢)にある庭を思ひだした。それは毎年春と冬に支払う経費だけでも、相当の額が上がり、私にはもはや重すぎ負担であった。・・・私は咄嗟の庭を壊そう、壊して了(お)はろう、そしてそれをその金を建築の一部に当てよう、それから永年あつめて書庫を開放しよう。「泥雀の歌」より)




(20歳まで育った国(金沢)の雨宝院)


この天徳院の寒蝉亭(かんせいてい)に費やされた費用は、犀星の原稿料が400字詰め1枚1円(大正8年(1919))の頃、飛石1個に20円も払うなど、総額で4000円~5000円もの費用をかけたそうです。



(天徳院の山門)


その後の寒蝉亭(かんせいてい)は、一時、天徳院の方丈(住職)の隠居所になり生活がし易いように手を加えたといわれています。その後、戦前、今から70数年前、和菓子の高砂屋の吉田扶見子さんの祖父にあたる初太郎さんの隠居所に高砂屋が百円で購入します。昭和37年(1962)11月、ご隠居の初太郎さんが84歳で他界し、翌年、高砂屋が犀星の研究者に相談したところ保存に消極的だったとかで、取り壊されました。



(天徳院の高砂屋さんの隠居所)


後日談として、高砂屋の吉田扶見子さんが取り壊した後、昭和44年(1969)7月に、犀星の長女室生朝子さんにそのことを話すと「ひとこと私にいってほしかった」と残念がられたという話が伝えられています。今、高砂屋さんの2階には、裏千家今日庵の業躰として裏千家の茶道で重きをなした宗匠野島宗禎氏の指導で「兼六庵」として再現されているそうです。



(金沢の生家跡に建つ室生犀星記念館)


参考文献:「天徳院寺領 寒蝉亭のその後」『室生犀星研究』第31輯 蔵角利幸著
「室生犀星文学年譜」室生朝子・本多浩・星野晃一編・「寒蝉亭と小畠貞一」『室生犀星研究』第211輯 宮崎夏子など

小立野の古地図めぐり⑤天徳院

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【金沢・小立野】
安政期の金沢絵図では、天徳院の敷地が一部欠けていて全体図が分かりませんが、資料等によると当時の天徳院は4万坪という壮大な敷地の中に建ち、小立野にある前田家所縁の他の3ヶ寺はいうに及ばず竹沢御殿(現兼六園)より大きいといわれています。


(17世紀後期に作成された延宝金沢図も一部欠けていますが、図の堀の内に、奥行き190間と189間、間口150間と書かれていています。墓地抜きなのかも・・・。)



(天徳院)

(安政期の古地図)


天徳院は、元和9年(1623)に加賀藩3代藩主利常公が、正室珠姫の菩提のため建立し、元禄6年(1693)5代藩主綱紀公によって明朝式に再建されます。明和5年(1768)2月1日庫裏より失火し伽藍の大半を焼失したが、山門は災を免れ今に至ります。


(寛永元年(1624)家康が崇敬した巨山泉滴大和尚を房州長安寺から招請して天徳院第一世開山としました。)

(延宝金沢図)


寛文11年(1671)珠姫(天徳院殿)の遺骨は天徳院境域より野田山に改葬され、元禄6年(1693)5代藩主綱紀公は4代藩主光高公50回忌供養のために、親交の深かった明(中国)の僧、黄檗宗5代管長高泉性敦(こうせんしょうとん)和尚に委嘱して着工から10年の歳月を要して天徳院の全堂宇をすべて明朝式に造営建築します。



(10代藩主重教公が建てた本堂)


明和5年(1768)の火災で総門、山門、御霊堂、宝蔵などを残して本堂、庫裡その他数多くの伽藍を焼失します。翌明和6年(1769)に、10代藩主重教公がわずか70日間の突貫工事で本堂、庫裡などを再建します。今、綱紀公によって造営された建物は、山門(現在石川県指定有形文化財に指定)を残すのみとなりました。


(天徳院の概要など詳しく知りたい方はPCに多数紹介されていますので参照ください。)


≪天徳院と球姫様にまつわる伝説・伝承≫
珠姫様は、第二代将軍徳川秀忠公の次女として生まれ、名前は珠子、幼名を子々姫。慶長4年(1599)、前田家では藩祖利家公が亡くなり、2代藩主利長公は、初代の遺言に反し、加賀に戻ることになります。その間、世間では「前田家が徳川を討つ」という噂が流れ、情勢を知った利長公は国家老を派遣して、前田家が徳川幕府に刃向かう計画は一切無いことを説明。その証としてやむなく利長公の母、お松の方を人質として江戸に送り、代わりに珠姫さまを嗣子利常の嫁として受け入れることを約束します。


(百万石まつりの球姫様)


(珠姫のお輿入れ道中は1日1里半と決められ、6月末に江戸を下り金沢へ90日間の長旅で、利長公が手取川までお迎えに出た話は今も語り継がれています。また、道中3歳の球姫の駕籠先には酢屋権七が控え踊って見せてご機嫌取りをつとめたといいます。その伝説は、今も百万石まつりで酢屋権七に扮した役者が球姫の車の前で踊ります。かなり前になりますが、静岡県に居られるという子孫の方が天徳院に参詣されたと聞いたことがあります。)



(市の指定文化材の解説板)


慶長6年(1601)珠姫さま3歳のとき加賀へお輿入れになり14歳で結婚、その後10年間に3男5女を育てられ、利常公の妻として、また将軍秀忠公の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くされますが、元和8年(1622)春、夏姫さま出産後7月3日に24歳の若さで亡くなられました。



(5代綱紀公が建てた山門・藩政期は鉛瓦だったとか)


その年の8月8日、城外小立野の地で荘厳に葬儀が行なわれ、遺骨を高野山と金沢に分骨して各々に一寺を設け、戒名の『天徳院殿乾運淳貞大禅定尼』にちなんで、いずれの寺院も天徳院と称しました。


珠姫の子は亀鶴姫、(小媛)光高、利次、利治、満、富、夏の8人ともいわれていますが、実際にお腹を痛めたお子は7人で、次女の小媛は養女で、母も分らなく寺では法名も分らないといわれていますが、前田家は認めていたらしく、2歳で没しています。

(直接、利常公や小媛とは関係がない話しですが、お殿様が鷹狩などに行き、お手付なども有ったらしく、そんなときは印になるものを渡し、子が出来たら申し出るようにいった話も伝わすっています。そんなときでも養女として大切に育てと聞きます。)


藩政時代は前田家から寺領500石を拝領していましたが、明治になり寺領も無くなり、前田家も神式になり、寺は荒廃し維持するのが困難になります。その時、樹木を切り、土地を貸したり売ったりして、今に至っております。(現在7000坪)



(天徳院図の写し)


珠姫のお墓は寛文11年(1671)にここから、野田山に移されましたが、珠姫の長男で4代光高公が年正保2年(1645)31歳の時、江戸で茶会のあとの酒宴で目眩をもようしそのまま逝去され、遺言により母の地に埋葬され墓が建てられましたが、4代光高公、9代重靖公の墓他も昭和28年(1953)に墓地を小学校にするため、野田山に移されました。


(野田山への移築は、4代9代の藩主以下前田家関係は12人と真如院の2人、4代に殉死した小篠善四郎、浅井源右衛門の16人の墓が野田山の前田家の墓地に移葬されました。3代藩主前田利常公は、万治元年(1658)にご逝去され享年66歳でした。)



(天徳院の出世地蔵)


総門跡脇の地蔵堂は、加賀騒動の真如院の子、勢之佐(利和)と八十五郎の供養ため建てられたもので、墓とともに天徳院の外の松下町にあったものを墓とともに境内に移され、さらに墓は野田山に移されたので地蔵堂だけが総門脇に移築されました。松下町から総門内に出世したので出世地蔵と言われるようになったといわれています。


参考文資料:天徳院発行の資料やパンフレット、天徳院での聞取りなど

小立野の古地図めぐり⑥如来寺

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【金沢・小立野】
藩政期、浄土宗の触頭の竜宝山如来寺は、開祖覚蓮社岌台文公(きゅうだいぶんこう)が天正年中(1573~1591)越中の増山に一寺を建立し、如来寺と号し、その後、高岡二上山山麓に移転し、さらに金沢の卯辰山麓(現蓮昌寺の場所)に移りました。



(山門から本堂)

(正面に徳川家の葵の紋と前田家の梅鉢紋)


元和2年(1616)徳川家康が逝去され、家康の孫3代藩主利常公の正室珠姫が、如来寺に位牌を立て千部経の転読を命じました。利常公も寛永11年(1634)徳川秀忠の3回忌に位牌を立て法要を営んでいます。明暦2年(1656)には、5代藩主綱紀公の母清泰院(大姫・水戸光圀の姉)が江戸で他界され小石川にある浄土宗伝通院にて葬られ、如来寺に位牌が安置されます。




(安政の古地図より)

(如来寺の花灯窓)


万治2年(1659)5代綱紀公により現在地が与えられ、寛文2年(1662)伽藍を建立、正月に工事が始まり9月に落成します。寺領は200石を賜り、加越能3カ国の浄土宗寺院の触頭を務めるよう命ぜられます。


(如来寺の将軍家の位牌は徳川家康と東京芝の増上寺に墓所かある2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂が、そして前田家に嫁い徳川系女性の位牌所となっています。)


(平成11年(1999)3月8日の北国新聞記事)

享保3年(1718)4月亀坂から出火。火災に遭い仮堂が建てられます。現在の本堂は約100年後の文化10年(1813)12代藩主斉広公により再建されたものです。平成11年(1999)3月の本堂改築工事に伴い仏像を調べるとご本尊の仏像三体が火災を免れていたことが分かりました。



(如来寺参道より)


言い伝えによると、ご本尊「阿弥陀如来像」は、享保3年(1718)の火災で焼失し、現在残るものは全て新しく作り直したものだということでしたが、平成11年(1999)3月の改築工事のとき阿弥陀如来像を分解したところ、光背と台座をつなぐほぞに火災前の「正徳巳(1713)五月二十九日」の文字が見つかりました。


(当時の住職が命がけで持ち出したと思われる阿弥陀如来像は、高さ約180cm重さ約30kg、観音勢至菩薩像は高さ150c重さ約20kg。どちらも木製で、如来像は本体、台座、光背の3つに分解されるようになっていているといいます。)




(境内の19mの黒松)


本堂の建物については、金沢市公式ホームページ「いいね金沢」が詳しい



(平成6年(2014)8月3日の北国新聞記事)






(如来寺の石碑群)


≪最近の如来寺≫
如来寺では、平成7年(1995)の参道を改修した際に不要になった石を使い20年間、市民らで石仏彫りを行なわれて来ましたが、最近の北国新聞によると、今秋、石仏の数が1000体を超え、これまで国内外延べ400人が手彫りしたことになるそうです。石も当時は旧参道の戸室石を使っていましたが、今は寺が無縁墓の礎石を引き取り、魂を抜き供養を経て使っているそうです。来年春には1000体の満願成就を祝う法要を計画しているそうです。



(境内の前田家6代の前田利為公のお手植えの松)


≪如来寺は≫
・寺宝は絹本着色阿弥陀三尊来迎図。制作は南北朝時代(1300年頃)、金沢市指定文化財。
・東山の蓮昌寺前の通りの一部は、明治4年まで「元如来寺町」といわれていました。
・3月の涅槃会には、大きな釈迦の涅槃図が懸けられ、「団子撒き」が行われます。
・本堂の裏庭の五葉松の樹下にキリシタン灯篭があるそうです。
・夏季の正午から3時まで「ひるね寺」としてお寺を開放。etc:



(如来寺の由来)


参考資料:如来寺の資料と北国新聞の記事など

小立野の古地図めぐり⑦経王寺

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【金沢・小立野】
経王寺は、日蓮宗の寺院で、ご本尊は「十界大曼荼羅」です。山号を寿福山といいます。加賀藩祖前田利家公の側室で、3代藩主利常公の生母寿福院(千世・千代保)の開基のお寺です。利家公没後2年の慶長6年(1601)に建立されました。




(現在の経王寺)


開山には、寿福院の異母兄滝谷妙成寺14世善住院日淳上人を迎えられ、2世は実家の菩提寺・越前府中経王寺より日淳上人の弟子養仙院日護上人を2世に招き、藩祖利家公の菩提を弔わせたといわれています。


(寿福院と日淳は越前朝倉氏の家臣上木新兵衛の子であり、上木家の菩提寺は越前府中(福井県武生市)の経王寺でした。


(経王寺付近の古地図)

2世の日護上人は祈祷の効験あらたかな僧で、寿福院の護持僧として、度々金沢城内にて若君や姫君がたの病気平癒の御祈祷を勤めたといわれています。




(現在の経王寺参道跡)

(金大医学部校門前・この辺りに経王寺の山門が?)


3代藩主利常公が慶長19年(1614年)藩主になると、寿福院は人質として江戸へ下向。寛永8年(1631年)に江戸で没しました。寿福院は江戸の池上本門寺で荼毘に付された後、経王寺であらためて葬儀が行われ、その直後に、寺は金沢大火で炎上します。正保4年(1647年)寿福院の十七回忌に利常公によって再興され、承応3年(1654)5代藩主綱紀公より寺領50石の寄進を受けます。




(寿幅院の母寿命院の墓)

元禄2年(1689)綱紀公の命により、妙成寺19世興源院日遼上人が、経王寺5世の法燈を継ぎ経王寺を兼帯するようになります。



後に10世の滝谷24世誠峯院日竟上人が身延山久遠寺35世に晋山した歴史もありますが、経王寺住職の妙成寺との兼職は30代183年の間継続されていましたが、明治5年(1872)に妙成寺48世日理上人が兼職を解き、再び専任の住職になりました。


(明治29年(1896)元鶴間町に金沢監獄が新築起工され、明治43年(1910)金澤医学専門学校敷地に収用されて現在地に移転しました。)




(経王寺があった現金沢大学医学部)


平成8年(1996)1月、県道拡張整備事業のため、墓地敷地の約半分を収用され、41世孝道院日澄はこれを機に、仮堂として87年間存在した旧本堂庫裡等を1年間かけて、浄行堂を除くすべて再建、平成9年(1997)6月に寺観を一新しました。



(球姫葬儀跡の発掘記事・北国新聞平成11年5月20日)



(新聞記事の発掘現場の今)


≪球姫葬儀跡発掘≫
平成11年(1999)5月、旧経王寺境内の発掘調査で、3代藩主利常公の正室球姫の葬儀が行われた遺構が見つかりました。小高い灰塚の下に仮説の建物跡とされる6m四方の四隅に深さ1,5mの正方形の柱穴や柱をつなぐ溝、周囲に垣根をめぐらせた柵穴、塚の下に敷かれた白砂が見つかり、大掛かりの葬儀に伴う遺構であることが分かった書かれています。




(真如院の墓)


≪真如院のお墓≫
加賀騒動の悲劇のヒロインとして難を受けた6代藩主吉徳公の側室お貞(真如院殿妙本日融大姉)の墓所(市文化財)があります。(加賀騒動は何れ改めて・・・)


(五重石塔)


≪寺宝≫
寿福院御寄付と伝えられる宝塔絵曼荼羅等三幅対の画像があり、木像彩色河濯明神立像、真如院が生前拝まれた御内仏が格護されています。また、「宝暦第六(1629)暦五月二十九日」の銘が入った五重石塔も有名です。



・藩政初期は山崎村の村地、経王寺再建で、村は現在の上野町に移転。上野新村となる。
・藩政期の敷地は約1万坪、現在の金大医学部、金沢美大に及ぶ広大なものでした。
・加賀騒動の真如院や元治の変の千秋順之助一族、明治初期小立野与力町に住んだ本阿弥家  の墓があります。



(千秋一族の墓)


参考「千秋主殿助範尚と末森の戦い」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/e

ntry-11482199217.html




参考資料:経王寺由来沿革など



小立野の古地図めぐり⑧宝円寺(その1)

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【金沢・小立野】
宝円寺の寺号は護国山、前田家藩主一族の位牌が安置された前田家の菩提寺で曹洞宗の寺院です。前田家ゆかりの寺院には、前にも紹介した天徳院は曹洞宗ですが、如来寺は浄土宗、経王寺は日蓮宗、寺町の玉泉寺は時宗、氷見の勝興寺は浄土真宗と宗派の違う寺で菩提を弔っていたようです。


(作家イザヤ・ペンダサンこと山本七平は、日本人の宗教観の特徴として「神が人を選ぶのではなく、人が神を選ぶ」と言い、豊臣秀吉は「宗教は八つも九つもあるから、どれを選んでも良い」と書いたものを見たことがあります。また、前田家の女性には日蓮宗に帰依した例が多く見られます。)



(明治の火災後の仮堂・元武家屋敷だった今の宝円寺)


加賀藩領内の曹洞宗全寺院の触頭で、前田家から寺領213石を受けていました。前田家との歴史的な関係は、藩祖利家公が越前府中に在城のとき、越前高瀬村の曹洞宗宝円寺に参詣し、住持7代目大透圭徐と懇意になり師壇の関係を結ぶことに始まりました。

(寺領は、当初223石でしたが、元和2年(1616)の検地で213石となっています。)



(安政年間の古地図・宝円寺辺り)


天正9年(1581)8月。利家公が能登一国15万石の大名に取立てられ七尾小丸山城に城郭を構え、七尾に宝円寺を建立し、大透圭徐に来寺を懇請し開山しました。天正11年(1583)6月、利家公が金沢に入城することになり、そのとき見た「夢のお告げ」により石川門と相対する土地に一大曹洞宗寺院を建立し、七尾から大透圭徐を招聘して開山したのが宝円寺です。



(今の兼六園)

金沢の宝円寺は、開山当時は、今の兼六園の山崎山から千歳台辺りで、以後38年間(天正11年(1583)~元和5年(1619))その地にありました。その間、慶長4年(1599)3月、利家公の葬儀やその3回忌が行われ、元和3年(1617)7月16日逝去したお松の方の葬儀もここで行われています。



(焼失前の宝円寺)


小立野の現在地に建立されたのは、元和6年(1620)3代藩主利常公の代に11,600坪の土地を拝領し、七堂伽藍の各種建物が建立されました。後の寛文9年(1669)5代藩主綱紀公が再建、これまでの裏門を表門とし、山号も護国山とします。大伽藍は豪華絢爛なところから「北陸の日光」と称されたといわれていたそうです。


(享保10年(1725)の宝円寺周辺の町家図)


≪宝円寺の祠堂金≫
宝円寺では、大阪の陣の後、加賀藩は戦死者を弔うために宝円寺に祠堂金を寄進します。元和4年(1618)より、この資金で庶民金融をおこなっています。祠堂金とは、位牌を寄託する際に金品や田畑を寄付するもので、その資金を金融に使う事は宝円寺だけが許されていたといわれています。


≪火災で伽藍焼失≫
宝暦9年(1750)4月10日大火で類焼し3年後に再建されますが、明治元年(1869)2月28日の火災で一大伽藍は焼失、現在の本堂は明治初期に武家屋敷(7000石の前田図書邸)を移築して再建されたもので「仮堂」扱いになっています。


≪宝円寺の言い伝え≫
・墓所内には、江戸初期の画聖俵屋宗達の墓と言われています。(断定できる資料なし)五輪の塔、 古い前田家ゆかりの墓、鳥居の付いた前田家の墓、他に明治以後の著名な文化人の墓や顕彰碑があります。


(俵屋宗達の墓と伝えられています。)

(明治元年、前田家は神道に、墓に鳥居が・・・)


・御影堂と御髪堂 秀吉の死後、1599年2月利家が家康を伏見の城に訪ねる際、万一を思い、宝円寺の象山和尚に「画像と髪」託し、後に地中の深く埋めさせたという。


(御影堂と御髪堂)

・庭内には地蔵堂、茶室「対青軒」があります。(対青は、俵屋宗達のいくつかあるが雅号の一つ)


(対青軒)


・福徳地蔵 改作奉行「富永家」が腰元を惨殺し井戸に投げ込んだ。その恨みがたたり、目の見えない子が生まれので、怨念を鎮めるため建立したもの。香林坊の映画街から中央通りの少林寺を経て現在ここにあります。



(福徳地蔵)


・昔の本堂の「鬼瓦」500kg、ちなみに金沢五十間長屋の鬼瓦は300kg。



(鬼瓦)


・北陸三十三ヶ所観音霊場札所、金沢三十三ヶ所観音霊場札所「ご本尊十一面観世音菩薩」
(十一面観音は宝久寺のご本尊で犀川神社の本地仏)


・仁王尊像は、桧つくりで天正11年の開創時に寄進されたものと伝えられていますが、明治元年の火災で一体が焼失、一体は亀坂の相撲取り源八が助けた阿像で、現在も火災、災難の尊像とあがめられています。尚、吽像は焼材を体内に納め、地元の方の寄進により再造されたものです。



(仁王尊像・宝円寺パンフレットより)



参考文献:「追想・護国寺宝円寺(曹洞宗)」園崎善一著 平成14年8月発行ほか

小立野の古地図めぐり⑧宝円寺(その2)

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【金沢・小立野】
宝円寺の地形は、平面図を見ているだけでは起伏が分からないので、昔、この地に城(保塁・砦)があったといってもピンときませんが、小立野台地に連なる小高い丘で、高さは小立野台とほぼ同じ海抜50数m位で面積は約1万1千坪。南西側の谷は木曽の山中に似ていることから昔は木曽谷といわれていたそうです。また、北東には数100m先に浅野川が流れ、崖の際には椿原天満宮を経て越中砺波郡に繋がる街道で、まさに自然の地形がそのまま要塞になっています。



(小立野台地にある宝円寺)


≪宝円寺の木曽坂城伝説≫
宝円寺の旧跡は、木曽義仲ゆかりの樋口氏の城館だったといわれています。義仲の討死(寿永3年(1184))で南征に夢破れた樋口氏は敗残の身を故郷木曽谷に似たこの地に定住したのではと伝えられています。以後、子孫は文明の一揆(1474)に、若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北します。





(今は道が繋がっていない木曽谷跡)


当時は、木曾坂城(宝円寺)を中心に、眼下の高垣堡(天神町緑地)、右翼の椿原堡(椿原天満宮の上)、左翼の田井堡(城)(国立医療センター)で“鶴翼の陣”を形成していたのではないかと考える歴史学者もいます。以後、若松に本泉寺(1487)が入り、長享の一揆(1488)では、高垣堡、椿原堡、田井城と共に一向一揆軍(棟梁松田次郎左衛門)の防衛線になったのではと伝えられています。


(樋口氏の先祖は、源平の合戦で敗北した平家の斎藤別当実盛を片山津の“首洗の池”で首実検した木曽義仲軍の樋口次郎兼光といわれていいます。)


(上が宝円寺)

(昔の街道・天神町)

(椿原天満宮)

(浅野川)


≪俵屋宗達伝説≫
日本美術協会(龍池会が明治20年(1887)改称。大正のはじめ幹事に金沢出身の宮崎豊次が在籍)は、明治、大正、昭和にかけて旧派の美術界の根城で、大正のはじめ頃には、維新の変動で古寺や大名などの斜陽族が名品を手放しましたことから、めずらしい名品を展覧するなど、伝統美術の再認識とその復興に力をつくした保守派の団体で、大正3年(1914)春、金沢出身の美術史家中川忠順氏らによって宗達記念会を上野公園で開催し「宗達画集」が出版されました。

(墓地の宗達の墓への矢印)


それに際し墳墓の調査を金沢市長山森隆氏が依嘱され、市史編纂の和田文次郎氏の青青会に知らせます。宝円寺には、過去帳(田原屋の條に「泰嶺院宗眞劉達居士 寛永二十年八月十二日」と見え、明治24年(1891)6月改め「墓籍埋葬簿」に墓主不詳塔と記し、但書に「画かき宗達墓」という附記)、「書上等控」(田原屋宗達ヲ葬ト云宗達五世泰山和尚ニ帰依スト載セタリ過去帳ノ所見)というのがあり、それにより宝円寺にある五輪塔の台石前面中央の「泰嶺院…」と一致したということから和田文次郎氏等の青青会は「宗達の墓」としたのでしょう。



(宗達の墓)


青青会は、大正3年(1914)8月12日、宗達会を発足。現在も宗達忌法要茶会が催され、昨年は100回目が執り行われました。



(参道の宗達の碑)


ただ、この五輪塔が「宗達の墓」であるかは議論のあるところで、現在のところは金沢だけで通用する話のようです。(宗達の生没は、美術年鑑などでは生没年不詳。)


参考:金沢の俵屋宗達伝説
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11714480833.html  


≪最近の宝円寺≫
平成25年(2013)、宝円寺では前田家の御子孫に当たる東京在住の建築家前田紀貞氏の建築塾のワークショップが開催されました。今年の「第2回寺小屋ワークショップ」では「建築を考える為の基礎講義」が開催されます。講義は” 存在ってなに?自然ってなに?芸術ってなに?“から”禅とは何か?“等、7回完結だそうです。設計演習は「弔いの場」が課題で、ワークショップは前田紀貞建築塾のエッセンスを凝縮したものになるそうです。


(現在、宝円寺では山門・塀の改修工事が進められていますが、看板には、設計 監理前田紀貞アトリエと書かれていました。)






(山門改修工事)


その他、9月より「お寺で縁結び」と題した”お寺で婚活パーティー“が定期的に開催される等など、新聞記事には、これからのお寺のあり方を伝えています。

(北国新聞平成26年8月18日の記事)


参考文献:「追想・護国寺宝円寺(曹洞宗)」園崎善一著 平成14年8月発行・「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」辰巳明著ほか

「梅田日記」と幕末の古地図①

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【金沢・浅野川界わい】
金沢の幕末の古地図には、今も残る町や小路、橋等がかなり正確に描かれています。古地図の浅野川界わいを眺めていると幕末に書かれて庶民の日記「梅田日記」の場面が浮かんできました。何回かこのブログで記事にしましたが、調べてみるとほとんどが断片的で、話の流れが書かれていないことに気づきました。


(今回より、「梅田日記」を物語として捉え、地図の上で当時の金沢の町々をたどり、その地図に沿い町歩きをします。)



(安政年間の浅野川界わい古地図・薄茶色は町人町、薄緑は土手)


≪梅田日記とは≫
今から約140年前の金沢町人能登屋甚三郎(明治4年(1872)2月梅田甚三久に改名)が、書き残した日記です。甚三郎は町人ですが、西町門前にあった算用場内の十村詰め所に勤め、農村支配や農政、年貢収納などを務める扶持人十村の金沢詰の代わりをする「番代」の手伝で「番代手伝」という補佐役(事務職)をしています。


日記が書かれた頃は新婚で並木町に住み、生活には年間1560目必要な時代に600目の薄給ですが、副業で生活費を補いながら、結構、豊かに過ごして居る様子が読み取れます。また、日記には、甚三久や当時の人々の卯辰山の遊山や茶屋町での遊興、寺院への参詣など幕末の庶民の生活がうかがえ、登場する人々や住んだ町の記述も多く見られ当時を知る上で貴重な資料です。



(日記に出てくる浅野川界わいの甚三久所縁の場所)


「梅田日記」に登場する人や関連する家も、それより約50年前の文化8年(1811)の町絵図から発見できるのはほんの僅かに過ぎません。昔も今も“十年一昔”といわれるように町も町家も生き物のように常に更新されています。


(文化8年(1811)の尾張町界わいの金沢町絵図の一部)


≪尾張町≫
利家公が尾張より召し連れた下人が移住したとか尾張荒子に御用向を承る町人共を召寄せ、ここに住まわせたなど町の由来には諸説ありますが、尾張荒子から移住したといわれいるのは大阪屋丹斎や紙屋庄三郎(中町尾張町木戸側、散算用聞役)、現存する印判の細字佐平の名が残っていて、藩政期を通して金沢町の有力町人が集住していました。慶安4年(1651)には町年寄役として当町の森下八左衛門(森八)・津幡屋与三右衛門の名が「国事雑抄」に載っています。文化8年(1811)の町名帳には家数72。町内には由緒町人が多数住んでいます。明治の初めに書かれた「金沢古蹟志」には、「旧藩初以来、旧家の町人多くといえども、今時に至りその家に居住して子孫連綿せしは、実に僅々四,五人に過ぎない。」と記されています。


●ガイドネタ
1、黒梅屋平四郎(松田文華堂)は、藩政期には森八の隣(枯木橋側)にあり、文化年間、九谷再興のため藩に呼び寄せた青木木米や江戸時代の著名な経済学者海保青陵の逸話が残る。
2、江戸三度の飛脚宿、現在の石黒ファーマシービルのところか。
3、富裕町人の町に番代や(越中屋又一の父でかって御郡番代だった家が文化8年の町名図にある)や甚三久の知人が住んでいます。
4、松田東英:医師、本名は就、芹齋と号した。幼いときから読書を好み医術を習う。金沢の医師松田氏の養子となる。江戸・長崎で学び、帰って医業を継ぐ。天保年間自分で顕微鏡や望遠鏡を造っりました。町の科学者。1847没。(記述は若親司)


(梅田日記の記述)
・元治2年4月2日、那谷寺参詣の折、動橋の茶屋で尾張丁の眼科医の松田(東英)の若親司と今町上の石屋のせがれと行き交う。(文化8年の絵図には尾張町に松田という町医者(松田寿莫)はあるが、上今町には石屋なし)尾張丁には、新丁越中屋又一の父親といわれる又七(御郡番代)の住居が見える。他、いくつか記述あり。



(今の尾張町)


≪新町≫
尾張町の拡大に伴って割出地として町立てされたことに由来するといわれています。延宝8年(1680)には町内の水溜(九間一尺五寸・現病院)前に市場が開設され、のちにこの市場が近江町青草辻に移りました。文化8年(1811)には家数111軒、うち商いでは、米仲買7軒、遠所旅人宿7軒、江戸三度3軒などが特徴で組合頭は3人、中に狂言師野村万蔵が見えます。また、下新町は、明治の文豪泉鏡花出生地として知られています。


●ガイドネタ
1、浅野川の上側を下新町という。
2、伊勢の御師福井土佐の止宿所、荘厳な神殿飾りが明治4年までありました。
3、現在の鏡花記念館前辺りに芝居小屋第四福助座(梅若)があった。
4、鏡花が通った日曜学校、ボードルとの逸話など。


(梅田日記の記述)
・元治2年4月2日、山代の通りにぎやかで、村端で向こうより芸者風の娘2人が来るのに出会う、彼女達は芸者ではなく、新丁の紙屋仁左衛門の娘だという事で仰天した。
・元治元年3月20日石崎市右衛門殿儀、母方おじ当町野村万蔵、一昨十八日病死いたし候旨ニ而、忌引・・(後に、万蔵死去にともない4月1日2日の観音院の神事能に穴が空いた記載あり)
他、番代見習の越中屋又一が住んでいたことや表具師、料理屋など記述は多い。



(今の下新町、上新町)


≪主計町≫
藩政初期、富田主計重家一万石の人持組頭の上屋敷があったと伝えられていますが、金沢で一番低地にありいささか疑問が残ります。文化8年(1811)には家数42軒。元和3年(1617)に建立された源法院や古手買9軒、苧綛織3軒、御領国旅人宿、町医1軒や蕎麦屋が見えます。その頃は町人町であったようです。明治2年、茶屋町が置かれます。久保市宮から主計町へ下る坂が「暗がり坂」、日中でもうす暗いことからこの名がついた。名付けたのは泉鏡花だといわれている。主計町から新町へ抜けるもう一つの小路にある階段坂が「あかり坂」です。


●ガイドネタ
1、慶応2年7月13日の浅野川・犀川の大洪水。主計町はすべて床上四~五尺、並木町は床より二尺から一尺。
2、洪水の付りとして:100年前の浅間山(天明3年のこと)以来の大洪水だというものあり、また一説にこの間、医王山に怪しき者が登った。二俣の者が見つけ留めるが投げ飛ばされた。その早業は人間とは思えなかった。その夜から医王山が鳴り出した。湯涌くに湯治の者はその音を聞いて早々に帰った。洪水は、その怪しき者の仕業だと、市中では取り沙汰されている。
3、(あかり坂)坂に名づけの依頼を受けていた作家の五木寛之さんが、2008年オール読物4月号の小説で、この坂を「あかり坂」と名付けました。小説は「金沢ものがたり」。
2008年、雑誌でこの坂のことを「あかり坂」と命名し小説を書く。以後あかり坂を言われるようになった。


(梅田日記の記述 )
元治元年8月26日、風呂の帰り、主計町でかやくそばを食いにいく。3件の記述あり。
慶応2年7月13日浅野川の大洪水



(今の主計町)


≪母衣町≫
西尾隼人(4000石)屋敷跡、西尾隼人は、大阪軍覚帳によると「加州勢使番黒母衣衆」と言う記述があります。母衣町は藩政初期、母衣衆(使番)の組地だったのでしょう。母衣衆は万治3年より一代奉公となり、その後、名称の無くなるが、町名は残り家数は19戸、(内武士、小者は7戸) 西尾の屋敷跡は、大阪商船社長で政治家の中橋徳五郎の屋敷と久保市乙剣宮になり、今、中橋屋敷の所がNTT病院になっています。 
北国新聞連載された小説「炎天の雪」のモデル大盗賊白銀屋与左衛門(明和元年(1764)没)。母衣町の住人であったことは「泰雲公=10代前田重教、年譜」に書かれています。


●ガイドネタ
1、晦日そばの話
2、甚三久の時代にはすでに中の橋が一文橋としてあった。
3、母衣町川(旧西内惣構堀)辰巳用水の一部。金谷門あたりから金谷出丸(尾山神社前通り)を通り、近江町・旧新町を巡り、旧母衣町(彦三町・尾張町)から浅野川へ流れていた。
参考:「母衣衆」には黒母衣衆と赤母衣衆があり位は黒母衣衆が上、金沢の旧町名に母衣町(現在の尾張町)には、かつて母衣衆がいた。
母衣衆の主な任務は、伝令、敵方へ使者、偵察、戦功の監察、などでエリート集団

(梅田日記の記述)
・元治2年2月29日、壱徳利持参、母衣町の蕎麦屋へ晦日そば食いに妻しなを連れて行くなど。





(今の母衣町)


参考文献:「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行など

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「梅田日記」と幕末の古地図②

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【金沢・西御坊町と下博労町】
「梅田日記」の筆者梅田甚三久は、天保4年(1833)(明治の35年前)金沢の西御坊町(現在の西別院辺り)で生まれています。昭和30年代、町名が変更される前の五宝町です。照円寺の横を入り、左手に西別院がありますが、さらに行くと右側に塩屋町に繋がる道がありその辺りだったようで、文化8年(1811)の町絵図には、父親の家ですが、それらしい家がありました。



(今の旧五宝町・藩政期は西御坊町)


父は酢を商う町人で能登屋甚助といいます。甚三久は両親との縁が薄く、満1歳で母を、5歳で父に死に別れ、知り合いや叔父の家を転々とする幼・少年期を送っています。


(安政期の古地図より)

この頃、日本はたびたびの飢饉に見舞われ、各地では一揆や打ち壊しが起こり、加賀藩近海でも、ロシアやイギリス等の船が通商を求めてやってくるなど、徳川幕府の支配も不安定な時代に差し掛かっていました。




(西別院・藩政期の西末寺)


のちに、幕府を倒すことになる長州藩の桂小五郎(明治になり木戸孝允。)は、甚三久と同じ天保4年生まれですし、新撰組の近藤勇は、甚三久と一つ下の天保5年生まれ、坂本竜馬は、二つ下の、天保6年生まれです。



(幕末の偉人たち)


彼らは、甚三久と同年代です。といっても甚三久には彼等のような偉大な業績がある分けではないのですが、ただ、今になってみれば、あまり無い、町人の記録を残したことは、見方によっては物凄い業績といえます。



22歳の時、叔父が死ぬと、その跡をついで能登屋甚三郎と名乗ります。その後20代の彼は何をして過ごしていたのかよく分かりませんが、はっきりするのは、29歳で前回にも書きました「能登口郡番代手伝」に就いた時です。そして元治元年(1864)31歳の時、24歳の女性“しな”と結婚し、浅野川大橋付近の左岸に住むようになります。


(今の並木町)

並木町といわれています。現在、家は特定されていませんが、ちょうどその頃より彼は日記を書き始めています。新婚の記念に書き始めたものか、日記には、新妻の事が頻繁に書かれ、正月の髪型の事や夫婦喧嘩の事、友人宅で一緒に食事をしたあと、相合傘で仲良く夜道を帰ったことが書かれています。



(甚三久結婚まで関助馬場と中の橋の間にある下博労町に住む)


日記を読む限り、新婚時代の甚三久の生活は、とても充実した楽しいものだったようです。しかし、当時の日本国内は幕末動乱時代。甚三久の住む、加賀藩も、その動乱とは無縁ではありませんでした。



(藩政期の御算用場跡・梅田甚三久の勤め先)


書きはじめて2年経った頃には、最初の楽しい記述は段々少なくなり、政治や社会や事件が多く記録されるようになります。また、物価も高騰し生活費が足りなくなり、職場の仲間と給料値上げを訴えるなど、生活への影響も出てきました。



明治になると加賀藩もなくなり、版籍奉還後の金沢藩も廃藩置県でなくなりってしまいます。末端の末端とはいえ、藩に雇われていた甚三久は職を失い、同じ頃、あんなに仲の良かった妻とも死別したともいわれていますが、分かれています。そして、勤めていたときの伝(つて)を頼って能登の七尾に移住し再婚します。甚三久40歳、不惑の転進でした。



七尾に移ってからは、身についた事務能力を活かして、加賀藩時代と同様に、役所に勤めることになります。57歳で退職するまで勤務したことが残された史料からわかります。


しかし退職後は、養子と離縁し、明治28年(1895)62才のとき七尾町の大火で家を失うなど苦労が続きます。そんな中で菓子、煙草の小売業を営んで生計を立てようと勤めたようです。

明治31年(1898)春、持病の痰咳を悪化させて肺を病み、12月23日永眠しました。同じ年、七尾と津幡を結ぶ七尾線が開通しています。満65歳実子はいませんが、家を継いだ人が金沢にいらっしゃいます。



(「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修)


このように、甚三久の一生は、江戸時代から明治時代へという時代の転換期、時代に翻弄され、流されながらも実直に生きたのではないかと思われます。


というのが甚三久の人生のあらましです。


参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・幕末金沢庶民のくらし「梅田甚三久日記が描く旅」堀井美里著など

「梅田日記」と幕末の古地図③

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【金沢・下博労町】
甚三久は、安政5年(1855)22歳の時叔父が死ぬと、その跡をついで能登屋甚三郎と名乗ります。その後20代の彼は何をして過ごしていたのかよく分かりませんが、読み書きソロバンに優れ、後に砺波郡高宮村に謡指導や材木町の町人が甚三久に半年間入門するなど“謡”は趣味を超えた玄人裸足、決して無駄に過ごした20代ではなかったように思われます。



(今の中の橋から主計町)


住まいは、叔父の跡を継ぐと一時下近江町に住みますが、安政5年(1855)22歳の7月から、おばの続きの下博労町の町博労斉藤弥兵衛方に結婚するまで同居します。結婚は元治元年(1864)5月、32歳の時、“しな”と結婚。妻“しな”は24歳で人持組2100石の佐々木左近助に仕える佐々木次郎右衛門の妹で、斉藤弥兵衛の養子斉藤忠平の養女として甚三久に嫁ぎます。


(“しな”の兄次郎右衛門は、甚三久と同い年で、佐々木屋と称した元は町人ですが、先祖が左近助と同じ近江出身で、奉公を申し出、小将並に召し抱えられ、当時は二人扶持銀三枚の書写役です。)



(中の橋)


≪中の橋≫
天保年間(1830~1845)に酒井平一によって私設の橋が経営をはじめたといわれる一文橋、主計町側に番小屋があり橋銭を取ったといいます。


詳しくは、当ブログ「浅野川に架かる橋④中の橋”一文橋“」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10585805353.html



(安政の古地図・中の橋から下博労町と関助馬場)


≪下博労町≫
一文橋(中ノ橋)の北側に関助馬場があり、下博労町は、馬の売買や馬術稽古の侍に賃場と称する貸馬を業とする博労の住む町でした。文化8年≪1811)の金沢町絵図に斎藤家の何代か前と思われる斎藤長八の家が描かれています。150坪の大きな家だったらしく、日記には馬場の斎藤というのが頻繁に登場します。




(文化8年(1811)の町絵図・赤が斉藤家150坪、何代か前か・・・)



(今の旧下博労町・斉藤家跡は左側か・・・)



ガイドネタ
関助馬場:由来は藩政時代、城内・城下にいくつかの馬場(馬術練習場)があり、特に有名であった浅野川の馬場を「東馬場」また「関助馬場」「浅野川馬場」といい、佐賀関助が荒廃していた馬場を再興し長さ約200間(約360m)、幅約15間(約27m)の大きな調馬場を造りました。前田利常公が駿馬を好んで、ここを訪れたこともあるという。馬場の砂入れの入札が寛文4年(1664)に行われていることから、この頃に成立したものと思われます。川に面して造られたのは馬に水を飲ませたり、馬の体を洗うのに都合が良かったからでしょう。犀川付近の法船寺馬場を「西馬場」と呼んだのに対し「関助馬場」を「東馬場」と名付けられたようです。


 

(今の関助馬場跡)


梅田日記の記述
・元治元年9月20日、馬場の斎藤家より能登の炭を10俵依頼される、今日代銀39匁(5~6万円か?すると1俵5~6千円ぐらい)持参・・・。
・元治2年2月19日、馬場斉藤の“おきん”が、長大隅守(加賀藩年寄)家来寺崎小十郎殿方へ嫁に・・・。



(昔の関助馬場の図)


甚三久と斉藤家との親密な親類付き合いや武家の資料ではあまり見ない武家と町人の結婚などが書かれていて、町人の目から見た当時の様子が窺われます。



参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行

「梅田日記」と幕末の古地図④

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【金沢・ひがし茶屋街と旧観音町】
梅田日記には、今人気の「ひがし茶屋街」や「旧観音町」が書かれていて、当時、無許可の茶屋町や芸者さん、舞子さんがよく登場します。藩の許可を得て文政3年(1820)から11年間続いた茶屋町も、天保2年(1831)には、藩の方針が改められ風紀上許すべからずとして廃止になっています。しかし当時、“もぐり”か“お目こぼし”か、無許可のはずの茶屋町に珍席があり芸者や舞子がいて意外です。今も昔も、煩悩には逆らえないということなのでしょう・・・。


(慶応3年(1867)8月(廃止から36年後)に藩政改革の機運に乗じて再び公許になり9月9日開業しました。)



(今のひがし茶屋街)


詳しくは「藩政期末の金沢・ひがし茶屋街②」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11648947466.html


(文化8年(1811)の茶屋町の絵図・町割がずいぶん違います。)

(天保年間のひがし茶屋街の絵図)

(安政年間のひがし茶屋街の絵図)


≪観音町の記述≫
1、
元治元年(1964)10月27日(旧暦):観音町の建具屋が、注文してあった店の間と庭の境の帯戸2枚が出来上がり、昼後に建具屋の親司が来て立付けなどをして、夕方帰る。


2、 元治2年2月15日(旧暦):近所の夫婦と観音院から卯辰山めぐりのあと、磯屋(有名な料理屋か)へ行くが、先客が多くて、観音町の小松屋行き、一盃と夕食。24匁9分の割符(藩札?)を支払い、愛宕町を一めぐりして、夜9時過ぎに家に帰る。


3、 元治2年2月15日(旧暦):料理が得意な友人(足軽井村小太郎)より小鯖を5本貰うが、散策のあと飯を食うため・・・よんどころなく鯖を観音町の青草屋に預け、小松屋の帰りに青草屋から取って帰り、すぐに料理をしてくれた。


4、 元治2年3月21日(旧暦):役所が4時前に済み、家に弁当の明きガラ(箱)を置き、観音町入口と森下町の名前の知らない西側の道具屋に行き、小さい皿10枚と盃4つを2軒から買い、銀11匁5分支払った。等々




(今の旧観音町)


≪愛宕町(現ひがし茶屋街)の記述≫
1、
元治2年(1865)1月朔日(旧暦):元旦の夜7時ごろ、近所の井村夫婦と職弟子、自分ら夫婦の5人で愛宕町丁子風呂に行く、風呂は大群集で終始立ちっぱなしだった。


2、 元治2年3月25日(旧暦):蓮如忌に嫁“しな”と斉藤家の一族で山行き(卯辰山)。大雨に遭い日蓮宗竜円寺の座敷を借り酒会。自分も仕事などで遅れるが・・・・・。酒盛りが始まると追々人が集まり男女20人ぐらいになり、夕方より愛宕町の芸者・舞子4・5人が来ていろいろ舞い、一際にぎやかになり、みんなも良いご機嫌に、自分は中程より前後知らずに酩酊し、夜10時前、みんなが帰るころ起こされ帰る。


3、 元治2年3月27日(旧暦):卯辰山曹洞宗龍国寺稲荷様御開帳に行くと、途中で友人に会い7人で雲錦楼(料理屋か)に行き酒肴を取り寄せ、みんな程よく酔い、5時過ぎそこを出るが、みんなご機嫌で、愛宕町の珍席に行き、ここにてまたぞろ一盃と相始まり舞子も来て一際賑わい、夜6時過ぎに帰る。等々




(旧愛宕1番丁)




(今のひがし茶屋街)

(上記は、日記の要約ですが、当時の庶民の生活を垣間見ることができます。次回は茶屋町の芸者や食、遊興等を拾ってみます。)


(今のひがし茶屋街の案内図)

(観音院のとうもろこし)


参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行


「梅田日記」と幕末の古地図⑤

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【金沢・並木町・旧観音町他】
藩政期の金沢町人は、隣保制度により十人組(10人ないし町によっては数10人単位)が組織され、組合員として町行政に組み込まれていました。各組は組合頭が定められ町肝煎・町年寄の統率下にありました。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、治安維持や町の中での争議の解決や法令の伝達周知の徹底を図っています。



(今の並木町と浅野川)


「梅田日記」には、親戚や職場の上司・同僚との親密な付き合いの様子が書かれていますが、他に、隣組の組合員も登場します。隣組は隣保制度によるものと思われます。並木町には足軽もいて、相互扶助の様子が描かれていて、山行き、寺社参詣、外食、遊興など、家族ぐるみの付き合いが度々出てきます。


(安政期の古地図・上の黒線は寺町足軽町から並木町への道)


≪日記に出てくる近所の人々≫
越中屋太三郎(越太)―町人、越中屋十兵衛、越中屋おすては家族か?
伊藤新左衛門(伊藤親司)―大野木将人(1650石、人持組)の足軽
井波屋藤七(井藤)―町人、夫婦と職弟子直作
今村―(今村親司)足軽か?親司と内儀
直江屋権三郎―町役者、内儀、政太郎、政太郎の姉おせい、


他、当番制の“夜廻り”に登場する組合員として
紺屋又吉(紺又)・大屋・越儀・敷村がいて、能登屋甚三郎(梅田甚三久)を含め10人で、十人組が組織されていたものと思われます。



(今の並木町)


≪甚三久の近所付き合い≫


元治元年8月26日(旧暦)曇、
一、組合の井波屋藤七方夫婦・直江屋の政太郎そして政太郎姉おせい、越中屋の十兵衛親子、そして自分達夫婦、の8人連れえで、午後、向山(卯辰山)へ茸狩に行く、大池辺り迄行くが、まったく採れず、むなしく夕方帰る。(役所を休む)
一、夕方井波屋藤七と、風呂へ行く、戻りがけに、主計町のカヤクそば屋へ行く、そば屋で徳利を一本取り、7時半前に帰る。(その間、藤七内義、妻しなが来て、一緒にそばを食べる)


元治元年10月3日(旧暦)天気
一、 隣家伊藤新左衛門(大野木将人足軽)殿と、春日社(小坂神社)の角力に行き、夕方帰る。(一日、角力見物に行くが雨で中止)




(今の春日社)


元治2年1月2日(休暦)極天気、草履はき之事、
一、明け方2時頃、妻しなと井波屋夫婦と弟子直作4人連で買初(かいぞめ)に行く。



(今の旧木町辺り)


元治2年1月11日(旧暦)天気
一、 今早朝、井波屋藤七と風呂に行く。
一、 井波屋夫婦、越中屋おすて、自分ら夫婦の5人で夕方より木町多葉粉屋へ軍談等聞に行き、帰りがけに母衣町カヤクそば屋へ入り、銚子一本を頼み、みんなでそはを喰へ帰る。




(今の主計町・旧母衣町)


元治2年3月19日(旧暦)天気、
一、 今日六斗の調練場(今の泉中学のところか?)にて軍事調練があり見物。午後より隣家今村、伊藤(新左衛門、大野木将人足軽)そして自分と3人連で行く、そこでは、大筒10挺ほど、銃卒大体30人ほどづつ1隊で、14,5隊ほど有り、奉行人か乗馬で3騎、プログラムはいろいろ有り、午後4時前に済、見物人もおびただしく、帰りは伊藤親司を見失い今村親司と寺町の足軽町で、今村親司の知り合いの笠松源兵衛方へ立寄り、煎茶に水羊羹を戴き、その後、かれいの煮付などで一盃、お酒の最中には巻ずしが出され、長居をすることに、午後5時になり、ご機嫌に、帰りは、寺町より一文橋(現桜橋か)を渡り、百間堀通りより帰る。



(今の寺町)

(今の桜橋(一文橋))




(今の百間堀通り)


等々、近所付き合いが延々と書かれています。今の近所付き合いより濃密にみえますが、根っこには連帯責任、相互監察という町行政のしたたかさが窺えます。



(町肝煎は、町々に在住する分けではなく、いくつかの町を管理統括し、各町の直接管理は各町内に住む組合頭が管理しました。町には当番制の箱番役がいて町内の相続書類や公文書を入れる御用箱が置かれ組合員の確認の元に保管されていたそうです。)



参考文献::「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行ほか

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古地図に見る金沢東山の町名

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【金沢市内】
金沢の古地図には、今では消えてなくなった町名が書かれています。特に東山界わいでは北国街道の西も東も東山になり、東山何丁目だと聞いてもピンときませんが、町名を大きな括りにすることで悪所のイメージが払拭さるとか、戦中の隣保制度のしがらみから開放されるというメリットもあったようにも思われます。



(藩政期の町名が書かれている安政期の古地図)


金沢市内の町名が変更されたのは、昭和30年代の後半、郵便配達が細々した町名では労が大きく、また遅延の原因だからという触れ込みだったそうです。東京オリンピック景気の最中、新しモン好きの金沢の人たちが、未来を夢見るあまりに古いことを省みないという当時の時代風潮が後押しとなり、乗ってしまったのだという話を聞いたこともありました。


(昭和37年(1962)金沢市が「住宅表示に関する法律」の実験都市に指定され933町あった町名が約520町になりますが、当時、地区ぐるみで異を唱えたのでしょうか、今も昔の町名が残る地区があります。)



(旧観音町)

(旧観音大工町)


かといって昔の町名がすべて良かったいうわけではありませんが、古地図を見ていると、60歳以上の市民の中には、当時の懐かしい思い出と共に町並みや家々が目に浮かんでくる人もいることでしょう。


(藩政期の茶屋町(旧愛宕町)


金沢では平成11年(1999)から全国の先駆け旧町名復活という運動が展開されていて、初めに主計町、下石引町、飛梅町が復活し、平成26年(2014)現在11の町名が昔の名前に復しましたが、すべてが藩政期の町名というわけではなく、明治以後に町名になったものも含まれています。


(藩政期の町名は、町会所支配の町にしかなく、武家地は通称で、たとえが本多町は「安房殿家中」や安藤町や桜畠などは「足軽組地」とか「足軽町」などと呼ばれていたそうです。)



(昔の金沢風情が感じられる町並み)


町名変更については、金沢経済同友会の提言を元市長の山出保氏の時代に実施されたもので、当時、山出氏は旧町名の復活は、「昔を懐かしむこと」より「ご近所のコミニティーの復活」だとおっしゃっていたことが思い出されます。


以下東山の1部を紹介します。


木町(きまち)1・2・3・4番丁
藩政のころ、材木問屋が集まっていたので、はじめ卯辰ノ木町、かつて四筋あったことから四丁木町などと呼ばれ、のち、この名がついた。地子町の一つ。(今の東山1・2丁目)


(旧木町1番丁)

(木町の石碑)


森下町(もりもとまち)
藩政初期、森下村の郷士、亀田大隅の子孫が染工になって居住していたので、この名がつけられました。本町の一つ。(今の東山1・2・3丁目、森山1丁目)



(旧森下町)

(馬場小前に有る森下町の石碑)


金屋町(かなやちょう)
もと今の尾山神社の地あたりにありました。元和6年(1620年)、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造していたのでこの名がつけられ、後に、この地に移されたという。金谷町とも書きました。地子町の一つ。(今の東山2丁目、森山1丁目)



(旧金屋町の石碑)

(旧金屋町から旧高道町・国道159号)


高道町(たかみちまち)
藩政初期の北陸道は、現道路(国道159号)より西側の低い所にあり、その後、新しく山側の高い所に道ができ(現在の国道159号)、その道を「高道」と呼び、その界隈の町を高道町といいました。地子町の一つ。(今の東山2丁目、山の上町、森山1丁目)



(旧高道町の石碑)

(旧高道町の隣町、今も山ノ上町の光覚寺)


参考資料:金沢市のホームページ・旧町名~現在の町名一覧ほか

昔も今も、金沢の町名(まちな)

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【金沢市内】
金沢の最も古い町名として、近江町、西町、堤町、南町、後町の5町が上げられます。その5町は前田氏入城後の町々と区別して「古金沢町」という学者もいます。



(金沢城三十間長屋・この辺りに金沢御堂があったといわれています。)


その町々には、佐久間盛政が治めた頃、尾山八町といわれた近江町、西町、堤町、南町、金屋町、松原町、安江町、材木町にも含まれていない後町が見えます。また、南町と堤町は、現在の金沢城のところにあった一向宗の金沢御堂の周りの寺内町にあり、現在のところとは違います。


(寺内町は永禄年間(1558~70)に金沢御堂を取り巻くように在ったといわれています。多分、後町もこの当たりに有ったものと思われます。南町は、その金沢御堂の南側にあり、堤町は、内惣構の堀を掘り上げた土を盛った堤の上に出来たことに因むといわれていますが、言い伝えでは一向一揆の時代、砂金を洗った堤だとも聞きます。それらによると両町は金沢において最も古い町だといえます。)



(金沢御堂の柱の礎石か)


両町が移されたのは、文禄元年(1592)頃、金沢城拡張に伴って、現在の場所に移転したという説と、寛永12年(1635)5月に内惣構の内側で火災があったのを契機に、内惣構の堀の外で町割りが行われという2説があります。現在地の北国街道沿いに移されますが、いずれにしても両町は藩政時代初期から本町として高い町格の町だったようです。



(今の南町)


しかし320年以上に渡り、本町として、町格を誇った南町、堤町(上堤町、下堤町)は、前回にも書きました昭和37年(1962)「住宅表示に関する法律」により、どういう訳か消えてしまいます。これも前回書きました「旧町名復活」の運動により、南町は平成20年11月1日に下堤町に一年後の平成21年11月1日に復活します。


(あくまでも推測ですが、いや邪推ですが、両町とも昔と位置が違うじゃないかといって外されたということなのでしょうか?何しろ約900数10町あった町名を約半分削除する分けですから、四の五の言ってはおれなかったのでしょう?何故か行政と学者のせめぎ合いで押し切られる学者が浮かびます。それにしても何と乱暴な・・・。)



(今の下堤町)

(堤町の石碑)

他の尾山八町は、400年という長い歴史の中で途絶えたり、合併で一部名称が変更になったり、またまた復活していますが、現在のところは「金屋町」だけが、石碑を留めるだけになっているのが残念です。



(今の旧金屋町)

(旧金屋町の石碑)

(今の西町)


(今の近江町)


旧町名の復活には、厳しいルールがあって、町内の中で反対があれば成立しないとか、お世話した方々の苦労も聞きえています。今までに復活したところには、100数10所帯の町も有りますが、病院や学校と20数所帯や、会社が多く10数所帯の町もあるそうです。ある町のように、旧町名へのこだわりと復活への熱い思いの町ばかりではないので大変だと思いますが、こればかりは住民と、推進された元市長のような情熱に期待するしか有りません。


やがて市長選ですね、何方が当選しても、何卒よろしくお願いします。

上野八幡神社の秋祭り

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【旧上野町・上野八幡神社】
旧上野町に伝わる「餅つき踊り」は、昔は1年おきの9月15日、上野八幡神社の秋祭りに行われていたそうですが、今年は10年ぶりで14日に行われ、偶然、通りかかりに町巡りに出会いました。永年、近くに住んでいながら今頃になって初めての見物でした。聞くところによると、もともと大人の行事でしたが、伝承を図るため小学1年生も参加して70歳までの保存会メンバーや町の人たちの三味線、笛、太鼓で20ヶ所を巡ったそうです。


(上野八幡神社の秋祭りは9月14、15、16日。ちなみの春祭りは5月14、15、16日)



(久しぶりの上野町の餅つき祭り)


この行事は、元々利家公の金沢入城を祝い餅つきを献上したのが始まりだとか、藩政期には12月行事の1つで、当時から村では各家の長男によって継承され、城内や大きな家などに呼ばれて、餅をつき踊ったといいます。祝意を表す場合にも行われたそうですが、今の「餅つき踊り」は、上野八幡神社のお祭りに、氏子の各家々を巡る祭行事となっています。



(金沢市指定無形民族文化財の上野町餅つき祭り)


昔は、午前10時頃、「餅つき踊り」の参加者全員が上野八幡神社でお払いを受け、その後神社の前で「餅つき踊り」を披露し、町内を上の方から順番に20~30ヵ所で演じながら午後4時頃まで巡ったそうです。



(上野町の黒獅子)


また、昔から上野町でも八幡さんのお祭りには獅子舞が町を巡っていたそうです。今は聞敬寺さんの隣に獅子飾りが設えてありました。獅子は「黒獅子」。天保の初期(1823年頃)越中の井波で造られたもので、若衆が管理しお祭りには町を巡り“棒振り”を演じたそうですが、最近は、一度復活しますが、半兵衛サ流の流れといわれた棒振りの師匠が亡くなり、その後続かず一度限りとなっているそうです。


(聞敬寺は、貞享6年(1689)創立の真宗大谷派の道場聞敬坊ですが、明治12年(1879)聞敬寺と寺号を称するようになります。)



(今の聞敬寺さん)


上野町には、他に「縄獅子」という大小の夫婦の獅子があります。大は上野八幡神社に、小は400年も続く旧家道法家に有り、こちらは棕櫚(しゅろ)縄で、演舞を考慮して造られていて、明治末か大正初めに、道法家の乙次郎が製作したしたものといわれています。



(帰りに、隣町の同じ上野八幡神社の氏子小立野共和会(旧小立野新町、旧松下町)の獅子舞をみました。)


≪上野八幡神社≫
上野八幡神社は。源氏の名将の後胤という空山が、前田利家公の信任厚く、石動山天平寺の法務取締役を命ぜられ、利家公が金沢城に入城の10年後、文禄2年(1593)に今の金沢大学医学部辺りに移住させられますが、元禄元年(1688)に、経王寺を建立のため小立野の現在地に遷座しました。宝暦9年(1757)御神体が当山派山伏医王寺に遷座され祭礼神事が営まれたそうです。明治2年(1869)神仏分離令により神職が奉仕するようになりました。




(上野八幡神社のお祭り)



≪上野町≫
上野町の昔の集落は、下小立野と呼ばれた原野で、牛坂の上野とも呼ばれ牛馬の草刈場だったそうです。この地に定着した人々はもと今の兼六園の山崎山周辺にあった山崎村の百姓で、山崎村が加賀藩の進出で、農地が町になったため今の金沢大学医学部の地に移住します。


(この辺りに移住する前の上野町がありました。)


その後加賀藩三代藩主前田利常公の生母、寿福院が先祖の菩提寺越前府中経王寺を建立したため農地を失い、今の上野地域に移住したといわれます。寛永9年(1632)辰巳用水が開発され、その余水を用いて下小立野を開田開墾し、上野村と称しますが、延宝6年(1678)「上野新村」と改めてたといいます。


貞享4年(1687)には、町方住民や武士が農地を相対で借請する相対請地が多くなり、金沢町奉行の支配下に入り上野町と称し、地子町の一つとなりました。



(14日の子供の餅つき踊り)


参考資料:金沢の公式ホームページ、上野八幡神社由来など

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