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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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心やさしい“金沢言葉”①

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【金沢市内】
今はあまり聞かなくなった主に女性が話す“金沢言葉”の本質は、「優しい人間関係」「信頼の相づち」「えん曲な物言い」だという学者がいます。いうまでもなく“金沢言葉”は、何時ごろから話されてきたのかは定かではありませんが、おそらく一向一揆より、ずう~と以前か・・・?根強く生き残った言葉のようです。



(金沢城石川門)


藩政期以後は、人口密度が高く、自然も美しい狭く箱庭のような土地で、それに加えて、大切に育まれた御能や伝統工芸などの伝統文化が、市民の生活感情に染み、人々が交わり、もまれ、練り上げられたことより生まれたもので、相手を思いやるこまやかな言葉使いや格調高い物言いは、これからも伝統文化と共に金沢が永く継承していくべき貴重の文化の一つのように思います。




(最近の金沢はイベントがあふれています。)


金沢では、来年の春の新幹線の乗り入れをチャンスと見て、行政も民間も、かってない勢いで果敢に文化活動が盛り上がっています。今のところは、客観的に見ても、全国的においても独特な町だと思われます。しかし将来、他の都府県との交流機会が多くなれば、素敵なことや楽しいことも多くなり、観光客も増え経済効果も上昇することは確実といわれていますが、その反面、金沢らしさも薄まり、新幹線の通る単なる北陸の一地方都市金沢に成り下がっていることも有り得ます。



先日、九州からの若い女性と話す機会があり、金沢で好きなことはと聞くと“金沢言葉”の“フワ~とした優しさ”だとおっしゃいました。よく聞くと旦那様が金沢の人だそうで、さも有らんですが、それにしてもちゃんと本質を捉えているように思えました。




≪優しい人間関係≫
金沢言葉に他人やお客さんを「お人さん」という美しい言い回しがあります。大学の先生の解説では、人に丁寧な気持ちを表す「お」つけて、「ひと」に尊敬の「さん」をつけ、対人関係に二重のクッションを設け柔らかな当りにしいることを上げられています。、丁寧語の「お」と尊敬語の「さん」は、他の地方にない第三者を客観化しない親しみと優しさが伝わり「金沢には他人がいない。」という金沢の優しい人間関係を象徴する言葉になっているといわれています。




≪信頼の相づち≫
「ほうや、ほうや、ほうやとこと。」“ほうや”は話し相手の話を新鮮に受け取り、感動した時の表現で、念を押すように続けるのは、話し相手に信頼感と共感を、かつ穏やかで金沢らしくのんびりとフワ~とした響きは、相手に不信感を抱かせない温かさすら感じさせるとか、他に消極的な表現ですが「そうけ、そうけ、そうですけ。」という繰り返す相づちなど多数・・・。




≪えん曲な物言い≫
人間関係のこまやかな金沢では、直接的な物言いを避け、何事もえん曲に表現し、一番訴えたいことを暗示で伝えようとします。一寸まわりくどいようですが、相手を傷つけない配慮が伺えるもので、「・・・らしい」と柔らかく包んだ間接的で遠回しの表現は、金沢らしさの象徴のように思えるといっています。



いずれにしても“金沢言葉”は相手に対する配慮から生じた言葉のようで、もったいぶって愚ってまわって、ずいぶんとのんびりですが、思うに“金沢言葉”の継承は、その心も含めて、これからの金沢の独自性を保ち続けるためのキーワードのように思えてきます。


もう少し勉強して、具体的に書いてみたくなりました。それにしても、これらの金沢言葉は主に“女言葉”にいえるもので、私などが話す”男言葉“は、虚勢からくるのか、優しく素直な表現というよりむしろ“キッタナイ”といわれる金沢弁を使いたがる人が多いように思います。どうもそれは単に育ちのせいだけではなさそうです・・・。


(いつかつづく)


参考文献:「加賀城下町の言葉」島田昌彦著、1998・1能登印刷出版部発行など


お・も・て・な・し!!“金沢言葉”②

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【金沢市内】
金沢言葉には、単に市民同士がコミニュケーションを図るため、感情を直接表する言葉、例えば「だらま」「ちごがいネ(ヤ)」「いじくらしいがいネ(ヤ)」「どんながやいネ(ヤ)」など、いわゆる金沢弁といわれる言葉と、もう一つ金沢の文化遺産ともいえる、ゆったりしておっとりとした会話や対話を楽しむような美しい言葉があります。


今回は、最近、忘れがちであまり聞かれなくなった、その美しい言葉、おもてなしの言葉とも言える、こまやかな人間関係から生まれた言葉について少しほじくってみます。お人さんへの気遣い、また、何を言いたいのか分からないえん曲な物言いなど、私も昔は“いじっかしい”と一蹴した金沢言葉です。


(金沢言葉の語尾の「ヤ」「ネ」は、男言葉は「ヤ」で終わる事が多く、また女言葉や男でも目上の人との会話では、語尾が「ネ」で終わります。)



金沢言葉については、昭和の終り頃、金沢市が聞き取り調査をし、接客言葉を中心に編集され刊行されていますが、そこに書かれている主に女言葉は、私等、戦中生まれには、聞けば分かるくらいで、会話として話せる人は少なくなりました。しかし、それらの言葉はよく読み、語源を考えれば、金沢の心が詰まっているように思えてきます。




以下、ほんの一部だけですが列挙します。


≪あいさつ言葉≫
「あんやと存じみす・あんやと」
ありがとうございます
「いっておいで遊ばせ・いってらっし」さようなら
「いらさるこっちゃ」いてください
「おいだすばせ(遊ばせ)」いらっしゃいませ
「おきのどくな」すみません・ありがとうございます。
「お静かに」お気を付けて
「おひんなりさんでございみす」おはようございます
「おゆるっしゅ」よろしく
「おるまっし・おるまっしま」いてください
「ごめんあさばせ・ごめん」ごめんください
「ながいこって」お久しぶりですね
「まいどさん」今日は・今晩は
「またおいであそばせ」またお越しください
「いってござい」行っておいでなさ
「おいでみすき」居ますか
「ごきみっつぁん」確かに受け取りました(金銭受け取り)


(詳しくは、「加賀城下町の言葉」島田昌彦著を・・・)




≪ひがし茶屋で、名妓から作家井上雪さんが聞いた金沢言葉≫
金沢出身の小説家井上雪さんの「廓のおんな」は、“ひがし”で名妓と謳われた明治25年生まれの山口きぬさんが7歳から88歳で死ぬまで暮らした“ひがし(現ひがし茶屋街)”の記録ですが、その文体は当時の金沢言葉で綴られています。その主人公“きぬ”の言葉遣いは、今は忘れ去れたと思われる考えに考えて口にする洗練された金沢言葉で綴られています。

以下一部抜粋して引用します。




「・・・・なんの、なんの、もうちょっこし煽がしてくたはれほんでェ、おたくさんな、お初でございみすけ、お茶屋てゆうとこは、ほうけ、ほうけ、ほんなら近いうちに、旦那さまと遊びにきてくたはれ。ほしたら、雪丸ちゃんを呼ぼってくたはれ、ほんまに芸熱心なもんの、やさし子ォやさけ。・・・・」


(詳しくは、井上雪「廓のおんな」(朝日文庫))





≪司馬遼太郎氏が聞いた金沢言葉≫
小説家の司馬遼太郎氏は、昭和40年代に、金沢を訪れ、市電の中での見知らぬ旧知の老婦人ふたりを見かけ、ふたりの様子をつぶさに観察し書かれています。車中でばったり会ったらしいふたりの長々とした敬語のやりとりに型とはいえ、一個の古雅な芸能を見たと書き、電車の降りしなの譲り合いに車掌から一喝されても「お静かに(お気を付けて)いらっしてだすばせ(遊はせ)と“ゆっくりと言ったあたりは名優の演技を見るようで、様式美の極致であろう。すくなくとも封建時代につくりあげられた日本美の最後の残光をそこに見たようなおもいであった。・・・”と書いています。


(詳しくは、司馬遼太郎「歴史を紀行する」(文春文庫)昭和51年10月号)



参考文献::「加賀城下町の言葉」島田昌彦著、1998・1能登印刷出版部発行など

またまた、長町古地図めぐり

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【長町、高岡町界わい】
金沢の古地図に嵌っています。最近、私が提案する散策会のほとんどが金沢市で発行された「金沢古地図めぐり」のパンフレットを片手に行なっています。どうも私は、楽天的な性格で自分が楽しければ、人も楽しいと思う独りよがりになる癖があり、お客様には押し付けているのではと思いながらも暫くは止まりそうになさそうです。



(長町の大屋家)


散策会は、年配の人が多いので、この古地図は字が小さいのがたまに疵ですが、家屋敷の苗字は分かりやすい楷書で書かれているため目が良ければ何方でも分かります。しかしそのままでは見にくいのは否めませんので少人数の時、予算がある時ですが拡大コピーをします。何時もは、拡大レンズを一つ持参し、ガイドの挨拶で、お貸しすると声を掛けます。でも、今まで笑いが起こるだけで、誰も名乗り出ませんがお互いの緊張感をほぐすのに役立っています。



(長町武家屋敷界わい)


毎回、参加者が違うので同じコース、同じ解説でもいいのですが、私には堂々巡りのように思え、その都度、自分なりの拘りからコースや話のネタを変えたりします。趣味的ですが何度か歩き調べ、一寸触りを人に話して本番に備えます。それでも一人よがりになりはしないかと思い、最近のニュースなど身近な話題や、話のオチなども考えてやりますが、何時も楽しんで戴けたかどうか気になり、やる度に反省しきりです。



(5月29日の北国新聞より)


その日は、長町武家屋敷休憩館をスタートし大野庄用水沿いを歩き、足軽資料館から鞍月用水に出て、四ッ屋橋を渡り、高岡町から上へ、右衛門橋を渡り川沿いから長町の大屋家の通りを経て大野庄用水へ、御荷川橋から木倉町の金沢学生のまち市民交流館を横切り中央通りの「芭蕉の辻」まできっちり2時間の散策でした。




(周辺の古地図)



(青地家跡辺り)

(昔「よもんどの橋」今「えもん橋」)

(小堀家跡)


今回の拘りは、今まであまり語られなかった長町や高岡町に書かれている家名のことやその界わいに伝わる伝説で興味を持って戴けそうな話を探して話してみました。まだまだ、こなれていないので、今のところ喜んで戴けたかどうかは分かりませんが、表現や話の組立て次第では印象に残る話になりそうな手ごたえを感じました。



(今の長家跡南側・今三谷産業(株))

(長家の屋敷正面辺り)

あまり知られていない話の幾つかを紹介をします。(私のメモだけでも、まだまだ・・・。)


≪鬼川(現大野庄用水)の喧嘩≫
寛永8年(1631)6月下旬の夕刻、高岡町の前田直之(お松の方の孫)が大勢のものと水遊びの帰り、鬼川の橋(現長町四の橋)辺りで2人の若侍とすれ違ったとき、刀の鞘が当たり喧嘩になり、直之の家来が大勢で2人を討ったことから、若侍の父村瀬九右衛門がおっとり刀で駆けつけ数人を斬ったが討たれ、もう1人の父坂野次郎兵衛も駆けつけたがすでに遅く、寺で髪を剃り、上方へ去ったといいます。直之にはお咎めなしとなるが、以後「仇討ち」を気づかい、後々まで油断しなかったと伝えられています。



(今の長町四の橋)


≪竹田掃部屋敷跡(現聖霊病院)辺り≫

村井家の家臣大橋の子が横山家の竹田氏の養子に入り、寛永5年(1628)12歳の時3代藩主利常公の奥小将に召しだされ、寵臣となり人持組3,530石になりますが、利常公の死に際し43歳で殉死します。しかし竹田家は明治まで代々その録高が与えられました。また禁門の変では、慶寧公の侍読で尊王攘夷派の学者千秋順之助がこの屋敷で、元治元年10月18日切腹の命を受け、しつらえられた部屋で50歳の生涯を終えてと伝えられています。



(竹田家跡・今の聖霊病院の教会)


右隣りの浅香家は3,750石。現在の足軽資料館は藤掛家、その隣青地家は、本性が本多氏で本多家の初代政重が、直江兼続の養子のなった時に生まれた男子の血筋だと伝えられています。それやこれやこの界わいには過去400年の伝説、伝承がどこを掘ってもあふれ出るように思われます。



(浅香家跡辺り)


≪四ッ屋橋の怪談≫
剣術使の八島某が夜中の2時頃、四ッ屋橋を通ったところ、母子2人で物を洗っていたので不思議に思っていたところ、子供がツカツカと寄ってきて、刀にさわり「虎徹」であるといって立ち去りました。翌日八島氏は、無名の刀を鑑定してもらったところ、紛れもなく「虎徹」であったといわれたとか。



四ッ屋橋と鬼川)

(今の四ッ屋橋)


≪今枝家屋敷跡≫
今枝家は加賀八家に次ぐ人持組筆頭として代々14,000石を領しました。慶長17年(1612)高岡町に邸地を与えられ幕末に及んでいます。藩主光高公、綱紀公、吉徳公の傅役(もりやく)を当主が務めた信任厚い家柄でした。残された絵図には北に面して3間4尺の表門があり、邸内には唐門、御纏部屋、火消道具入所や御白州、御縮所(牢屋)まで設けたれていたと伝えられています。明治15年(1882)頃、この旧宅はフランス語学校になり、明治のジャーナリスト三宅雪嶺が12歳でここに学び、庭の背が立たぬほどの大きな池がありそこで泳いだことを書いていますが、その後、女子の高等小学校や、第一高等女学校など幾つかの女学校の発祥の地になっています。



(今枝家跡・現在の文化ホール)


≪近藤忠之丞の仇討ち≫
天保9年(1838)5月13日の朝、高岡町の小堀家辺り(今枝家付近)で、足軽の近藤忠之丞が藩士山本孫次郎36歳を討ちます。忠之丞の父忠大夫は河北郡蚊爪村の百姓から武家奉公で、足軽株を買って多賀家(5000石)に仕え、さらに藤田家(2000石)の士分になっていましたが、貸金のことから天保4年(1833)12月29日夜無礼討ちにあいました。その子の忠之丞は江戸に出て剣を学び、目的を果たし飛騨越えで江戸に逃げたといいます。この事件は瓦版も出て町中で大評判になったといわれています。



(今の今枝家跡辺り・突き当たりが小堀家)


(この界わいは、藩政期1万石以上の4家を始め人持組、平士の屋敷が連なり、金沢の観光拠点として兼六園に次いで有名になったところで、金沢らしい情景を今に残しています。周辺も含めれば伝説・伝承は知られているもの等、諸々多いので今は省きます。いつか・・・また。)



(周辺の古地図)


また、長町武家屋敷辺りでは、永年、観光ガイドや市民の方が、おもしろ可笑しく語っているうち伝説が伝説を生み、「このように言われている」という隠れ蓑に甘え、勘違いや間違って伝えられているものも幾つか目に付きます。今回はそれらのガイドネタを是正することも兼ねてガイドをするように心がけました。


(かなり、私も勘違いや歳からくる健忘症で間違ったことをいうこともありますが、今回は金沢の歴史に詳しい知人が同行していて、その人に直して戴き、頭を下げながらのガイドでした。)



(馬繋ぎ石のある鏑木商舗)


例えば、
1、 馬繋ぎ石(がっぱ石)は鏑木商舗前のもをいい、大屋家の前の角の石(2ヶ)も馬繋ぎ石といわれていますが、この二つは進入する車両が家の屋根瓦や塀の瓦を壊さないように近年置かれたもので、昔の馬繋ぎ石と似て非なるものです。このような石は市内の町角にはかなりあり、お蔭で、運転の下手な私も車の修繕費をかなり支払いました。



(馬繫ぎ石(ガッパ石)



(瓦屋根を守るための石)

2、 安政年間の古地図にある、大屋家のところの「跡地」は大屋家が藩から拝領する前に住んでいた藩士「跡地義平(200石)」の屋敷を示すもので、空地(明地)のことでは有りません。等々



(金沢古地図めぐりのパンフ)

参考資料:「金沢古地図めぐり」金沢市発行・元観光ボランティア「まいどさん」会員奥野堅太郎氏の集めた資料など

頑張りまっし”金沢言葉“③

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【金沢市内】
先日、あまり見ることもない娘が残していった本箱から「頑張りまっし金沢ことば」という本を妻が見つけてきました。何とタイミングがいいのでしょう!!この間から金沢言葉が気になりだしていて調べていた矢先です。



(土塀の長町から北国新聞社)


この本は平成6年(1994)1月からおよそ1年間に渡り、地元の北国新聞が「頑張りまっし金沢ことば」として連載されたものを平成7年(1995)5月1日に単行本として発行されたもので、この一冊を読んだだけで金沢言葉が分かったような錯覚に陥ってしまいます。



(本に出てくる先輩2人、今も元気で現役)


(また、この本には私が10年前から所属している観光ボランティアガイド「まいどさん」の20年前創成期の様子や実名で登場する先輩達に関心がいき読みふけってしまいました。)



(頑張りまっし金沢ことば)


この本は1年も掛け、地元の記者が執筆した記事を本にまとめたもので、巻頭の「発刊にあたって」には社長自ら、“言語的視点や社会的、風土的な背景も探りながら記録したもので、若い世代から小学生の使う方言にも焦点をあて、方言の衰退やどの言葉が勢いをもっているか、盛衰の過程まで検証した。”とお書きになっています。


(内容については、新聞に連載中から読者は、地域文化を次世代にという使命のようなものを感じたのか、多くの問い合わせや情報が寄せられたといいます。)


(「まいどさん」が書かれているページ)


1年も掛け、丹念に地域の独自性を大切に、足でお書きになった約300ページの労作を、私には読みこなすだけでも大変なのに、それを千数百字くらいでまとめて何かを書くとなると能力に限界もあります。今回は、私が知る金沢の“話し言葉”の語源や知識、そして、この本に書かれている金沢言葉について引用することにします。



(犀川大橋)


≪“頑張り”と“頑張る”論争!!≫
まずは、この問題が解決しないことには前の進めないというくらいタイトル「頑張りまっし」に読者の反応が相次いだことを上げることにします。「頑張りまっし」か「頑張るまっし」という論争です。「頑張るまっし」派は、“母親の遺言”“昔からいわれとる”と理屈抜きに主張する比較的古い世代と、「頑張りまっし」派は、新しい世代からの声で、“頑張る”は自分が頑張るぞといっているようで、相手に対してつかうのは不自然だと論理的です。


さらに多方面から意見を集めると、この二つが混在しているようです。この本の立場は「まっし」が「しなさい」という丁寧な命令表現であることから“頑張りなさい“から「頑張りまっし」になったのでしょう・・・か。


最近は「ガンバンマッシ」というのをよく聞きます。方言はどうも地名の呼び方も含めて聞いて憶えた“話し言葉”であることから時代や住む人たちの変化、それとイイ出しべェーの影響力などにもよって、変っていくことが分かります。



(長町二の橋界わい)


≪金沢弁の意味や語源など、見たまま、気ままに、思いつくまま≫
「ダラ」
足らず
「ダラブチ」陀羅仏(だらぶつ)
「ダラマ」だらな人、“ま”は人
「キカン」いうことを聞かない
「ヤッキネー」やる気ない
「ダエー」体がだるい、からか?
「マッシ」しなさい
「アテガイ」宛行・充行(いいがげん・当てすっぽう)
「ソイアイ」添い合い・配偶者
「ジャアマ」“じゃあ”は子供が母親を指す呼称 “ま”は人・配偶者
「チョウハイ」(朝拝)嫁の里がえり
「オードナ」(黄道)おおげさな、中国から伝わる漢語
「ドクショナ」(毒性)薄情な冷たい様、中国から伝わる漢語
「ダッチャカン」埒が明かない
「タンナイ」(大事ない)大丈夫、差し支えない
「ヤクチャモナイ」(益体もない)やくたいもない
「ダイバラや」(大散)大変なこと
「ゲベ・ゲベタ」ぴり


(手前が戸室山、後左が白兀(医王山)右奥医王)

(地名)
「トモロ」
戸室山「ヨウジン」医王山「ウンチョ」近江町「カゾエマチ」主計町「ツチョジ」土清水「アンドンマチ」安藤町「カゲドンハシ」勘解由殿橋「ヨモンドノハシ」右衛門橋 等々


書けば切がないので・・・、詳しくは「頑張りまっし金沢ことば」を是非一読ください。


(最近のまいどさん会員)


≪まいどさんの話の引用≫
今も現役の大御所が登場していますが、お2人とも、当時は、今の私より10歳も下、当然、平均年齢よりずいぶん若く、我がグループの高齢化を実感します。今の10分の一以下の30名で始まった当時の様子が戸惑いとともに伝わってきました。


当時の観光課長は「形式ばった言い方でなく、ふだんの言葉で案内することによって観光客に金沢の旅情を満喫して貰いたい」と金沢弁を奨励しています。その気取らなさから観光客に地元の人に接しているという印象をあたえ親しみもますことから思い出が深まるとも書かれています。



(長町のイシナ・・・馬繋ぎ石)


そこに出てくる金沢弁は「・・・違ごうがやです。」とか「・・・分かっとるがです。」また、今はほとんど使わなくなった石を「イシナは・・・」といい「イシナとは、金沢では石ころのことです。」と今も使えそうな金沢弁の解説を付けるテクニックを教えられます。


参考文献:「頑張りまっし金沢ことば」平成7年(1995)5月、北国新聞社発行

金沢市老舗記念館① ― 今

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【長町武家屋敷界わい】
金沢市老舗記念館は、昭和62年(1987)まで南町にあった藩政期からの薬種商中屋薬舗の建物を金沢市が中屋家から寄付を受け移築し復元した施設です。伝統的町民文化の展示場として平成元年(1989)4月1日に開館しました。当初は無料で長町武家屋敷界わいの観光拠点として大いに賑わい年間10数万人の入場者を集めていました。



(金沢市老舗記念館)


(長町武家屋敷界わいは藩政期、武家地で、分け知りには「何で商家やいね・・・。」や反対のための反対好きには「そんなものに1億円もかけて・・・。」という声や批判のなかでの開館しますが、当時、長町武家屋敷界わいを兼六園の次ぐ第二の金沢観光の拠点に押し上げました。)



(何とも賑やかな玄関)

私の長町武家屋敷界わいのボランティアガイドデビューは、金沢市老舗記念館の開館の10数年後になりますが、多い時には1日に数回、お客様を老舗記念館へご案内することになります。ガイドを始めた頃、余裕も自信もなくお客様とのコミュニケーションも間が持てず、不安でした。お客様を見ていると、古い町並みも然ることながら金沢らしい展示品が“百聞に勝る”ことを知るようになり、また、有料の施設へは、入場料のことが言い辛く、当時、無料だった老舗記念館へご案内していました。



(金澤老舗百年会の案内板)


やがて、老舗記念館も有料になり、入場料のことが言い辛いのも手伝って、お客様からのリクエストがない限りご案内することが少なくなりました。その頃には年間の入場者は全盛期の10%くらいになってしまったと聞きましたが、随分と助けて戴いた老舗記念館には申し訳なく思いながらも疎遠になっていました。



(1階の花嫁のれんの展示会)


行かなくなると、前を通っていても、また、最近は金沢らしいイベントもやり、地方紙などに登場していることを知りながらも、あの入口の派手なカラー写真のアプローチも気にならないくらい長町界わいの風景の一部、巨大な木造建築でしか有りませんでした。



(玄関の看板)


先日、入館する機会があり久しぶりに訪れますと、通り過ぎていたのと大違い、先ず圧倒されたのは、玄関回りの張出しパネルです。従来の公立の博物館にはない、いやそれどころか売らんかなの姿勢がギラギラしたドラックストアーさながらのプレゼンにシャッターを切りまくりでした。





(賑やかな店)


館長さんの話しを聞けば、ひと時落ち込んだ入館者も最近ではその頃の3倍の入りだそうで、単に入口や店頭を飾り立てただけでなく、館にふさわしいと思われる「花嫁のれん」や「加賀手まり」のイベントや漢方薬に関する展示を本格的に始めたことによるもののようです。


(花嫁のれんや加賀手まりの展示会)

2階に上げれば、私が行っていた当時と変らない金沢の老舗50数軒の展示や、伝統の結納品や五色饅頭、工芸菓子などもほぼ以前のままですが、1階で強烈な展示を見てきた後ではありますが、赤い毛氈の上に並べられた展示に共通性が感じられます。





(2階の常設展示)

(2階の金澤百年会の展示)


最近のデザインやディスプレーは、シンプル・イズ・ベストが主流で、また、イメージやコンセプトという言葉に振り回されて、どこの展示も同じように見えます。しかも、一寸でも地方色が出ると直ぐに”センスがない“とか”泥臭い“だのといわれるものですから、担当者は何でもデザイナーにという事になりますが、こちらの展示は、金襴緞子や赤い毛氈のひな壇のような、もう一つの日本人の美意識をベースにしたティスプレーのようで、もう一工夫必要かもと思いながらも、担当者の強い熱意と思い入れ、そして勇気が伝わってきて好感がもてます。翌日もう一度行ってきました。



(最新作の加賀手まり・ご免写真が悪くて今度撮り直します。)


この中屋薬舗は、現在も別のところで漢方薬を販売していますが、何といっても藩祖前田利家公の金沢入城より古くから金沢で薬屋を営んできた老舗中の老舗です。藩政期には金沢町人のトップの町年寄でもあり、明治時代には、明治天皇が明治の元勲を引き連れ2泊3日逗留したとも伝えられています。そのうち続きを・・・。



(中屋時代の看板)


(つづく)

梅雨入りを吹っ飛ばした「百万石まつり」

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【金沢駅→金沢城】
金沢の「百万石まつり」大名行列は毎年、藩祖前田利家公が6月14日(旧暦4月28日)の金沢入城という史実を意識しながら行なわれてきた“お祭り”ですが、ある年から、観光客にも楽しんで戴こうと6月14日に近い土曜日に実施することになりました。その頃は梅雨の盛りとあって雨天の日が多く、平成19年(2007)から梅雨の影響を避けるため6月の第1土曜日に開催されるようになりました。



原田利家公)


ところが、今年の入梅は例年より1週間も早く、前日から各地の降雨が伝えられ、当日の金沢でも朝から曇天、午後、出掛けにポツリ一滴、“ままよ”と自転車で・・・。しかし、大名行列が駅を出立するころには、天は梅雨などツユ忘れたのか、暑さ知らずの“まつり日和”。お蔭さまで、汗もかかず久しぶりに快適に「百万石まつり」見物になりました。



(菊池お松の方)


このお祭りは戦後、進駐軍の指導で昭和21年(1946)から6年間「尾山まつり」として尾山神社奉賛会によって開催されていたもので、祭りが今の様な形になったのは、昭和27年(1951)に金沢市と金沢商工会議所が中心となって開催した商工まつりが第1回の「金沢百万石まつり」となり、今年で63回を数えています。





(パレード)


(もともと藩政期、金沢には惣祭がなく、藩主の慶事に不定期に藩の命で行なわれた「盆正月」がありましたが、明治のなり、尾山神社での封国祭に合わせて、大正12年から昭和20年まで金沢市祭として行われてきた奉祝行事がルーツだそうです。)




(尾山神社の御鳳輦 )


今年の百万石行列は、午後2:20金沢駅前をホラ貝のファンファーレに続いて行列がスタートしました。行列は百万石まつりの横断幕に次いで、北陸新幹線金沢開業をPRする横断幕、その後には、サッカーのツエーゲンや独立リーグのミリオンスターズの行列が続き長身の12番木田投手の姿も見えました。




ツエーゲン・ミリオンスターズそして金沢マラソン)



音楽パレードや伝統の獅子舞、約540人の消防団員ら加賀鳶(とび)、今に残る奴行列に続き、江戸から御入與道中、球姫をあやしたという酢屋権七の後には球姫、利常公、加賀八家行列、目玉の俳優の原田龍二さんの前田利家公、女優の菊池麻衣子さんの“お松の方”から赤母衣まで約25,000人が金沢城までの約3kmを練り歩き、史実も意識しながらも随所に新工夫が見られる素晴らしい行列は、沿道を埋めた観客約40万人の歓声に応えていました。









(パレード)

(金沢城に向かう加賀鳶)



(金沢城の盆正月)


(百万石行列の主役利家役に俳優を起用されたのは、第33回の昭和59年(1984)に地元出身の俳優鹿賀丈史さんが、お松の方は平成13年(2001)には女優斉藤慶子さんが起用されます。以後、一般公募の方が起用されたこともありましたが、利家公は昭和61年(1986)から、平成20年(2008)からは藩主と奥方が揃って俳優の起用が続いています。)



(第63回のボスター)


「百万石まつり」は、毎回見直されているらしく年々進化しています。数年前から金沢城では、加賀藩が前田家の慶事に行なわれたという「盆正月」が加わったことなど、従来の薪能や茶会など、さらに充実することで来年の北陸新幹線開通時には、平成18年頃の観客動員数58万人を上回わる兆しが感じられます。


(「盆正月」は、享保8年(1723)から明治2年(1869)まで、玉川図書館の近世史料館の資料によると41回開催されたといいますが、半分以上が12代斉広公、13代斉泰公、14代慶寧公の時代に頻繁に開催されています。幕末の盆正月は各町内に、獅子舞、祇園囃子、にわか、造り物・細工物の課題があり、番付表まで刷られ、煽っているさまが伺えます。)



(金沢城の「盆正月」のイベント


盆正月について詳しくは「百万石まつり②”盆正月“」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11270586476.html

金沢市老舗記念館② ― 今昔

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【長町武家屋敷界わい】
金沢市老舗記念館に、金沢の観光施設では珍しいフランス語版のパンフレットがあります。当然、私にはフランス語が読める分けではないので、教えて戴いて気付いたのですが、こちらは、あの「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」に1つ星に選ばれていて、その事を地元の観光ガイドでありながらすっかり忘れていまいした。


(金沢市老舗記念館店頭より長町界わい)


(こちらには日本語はもちろんですが、フランス語、英語、韓国語、中国語、台湾語の6種類のパンフレットが用意されています。)




(フランス語と英語のパンフレット)


「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」には、国内には3つ星が56カ所、2つ星が189カ所、1つ星301カ所が選ばれているそうですが、石川県では、3つ星の兼六園を筆頭に、2つ星の金沢、金沢21世紀美術館、武家屋敷跡野村家(金沢市)、キリコ会館(輪島市)についで、金沢市老舗記念館は、ひがし茶屋街、大樋美術館、長町とともに16ヶ所ある1つ星にランクインされています。




(記念館の新旧の建物)


(「ミシュランガイド」は、私がいうまでもなく、1900年に、世界的なタイヤメーカーであるミシュランによって安全・快適に遠くまでドライブを楽しむための情報をまとめた小冊子としてフランスで生まれたそうです。)





(記念館の展示)


その一方、移築前のこの建物は、明治11年(1878)に、明治天皇行幸の際に御在所とともに建築され、大正8年(1919)改築されたものです。元々天正7年(1579)に中屋彦兵衛が薬種業を始め、藩政初期から南町に店舗を構えた代表的な老舗で、特に5代藩主綱紀公から御殿薬の処方を拝領しています。




(今の南町・昔の中屋薬舗の場所)


(道具類の展示)


(維新後の中屋家は、藩政期以来の紫雪、烏犀円、万病円の製造は不許可となり、混元丹、赤龍丹、腎心丹、赤薬、安神丸のみ許可となるなど受難時代を迎えますが、九谷焼を世界に広めた円中孫平氏の尽力で明治9年(1876)残る10種が許可となっています。)



(6種類のパンフレット)


中屋家の先祖は山城の国の出身で戦乱の中、落武者となって加賀の国の戸室山の麓に居をかまえ、代々伝えられた家伝の薬を村人に分け与えていたところ評判がよく買い求められたといいます。中屋家では医王山や近隣の野山で採れる薬草を販売する傍ら、代々伝えられてきた家伝薬・混元丹の製造販売を始めています。



(茶室)

(庭園)

(今の中屋彦十郎薬局のパンフレット)



(今の中屋彦十郎薬局の香林坊の店頭)


その後、藩政期前の金沢御坊の町地に出て薬種商を始めています。前出の通り寛文年間(1661~1673)には前田綱紀公より前田家伝来の加賀三味薬といわれる紫雪、烏犀円、耆婆万病円の製造販売が許可され前田家御用商人として薬種販売のかたわら昆元丹等の製造販売も続けられています。また、藩政期には町奉行所から町年寄を拝命し、享保、宝暦、寛政と60数年に渡って務めています。事業は、現在も場所を変え継承されています。




(道具類などの展示)


(最近のニュースとしては、中屋家が所蔵していた道具は金沢市で保管され、平成25年(2013)3月12日に県内で初めて国の登録有形民俗文化財になりました。材料を砕いて丸める薬を造るなど製造用の道具775点と、薬棚や宣伝用看板などの販売用の道具類292点の計1,067点があります。)


(つづく)


参考文献:金沢市老舗記念館・中屋彦十郎薬局のホームページなど
http://www.kanazawa-museum.jp/shinise/top.html
http://www.kanpoyaku-nakaya.com/index.html

金沢市老舗記念館③―中屋薬舗

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【金沢市内】
前回も少し触れましたが、中屋家の祖先は山城の国(近江の国とも)の人で、伊東彦右衛門といい近江源氏の一族で、加賀に移り、病弱のため、現在も「昆元丹飴」として販売されている元となる家伝の漢方薬「昆元丹」を調合したと伝えられています。



(金沢行在所・現金沢湯涌創作の森)


金沢に出たのは2代目彦兵衛で、薬種商中屋となり加賀藩の藩祖前田利家公の知遇を受け、町方宿老(後の町年寄)の1人に選ばれ、藩命により金沢町の町政に関与し、明治まで受け継がれてきました。当時から町年寄に任命された10数家は今は跡形ものなく、中屋家だけが現在も創業時からの「昆元丹」を主力に暖簾が守られています。



(南町の有った頃の中屋薬舗と行在所)



ここで永い間、滋養強壮に効験あらたかといわれてきた「昆元丹」の話を書かなければならないのですが、400年以上も続く秘薬を、素人がグダグダ書くより、餅は餅屋、薬屋は中屋ですから、中屋彦十郎薬舗ホームページをご覧いただくことをお薦めします。


株式会社中屋彦十郎薬舗www.kanpoyaku-nakaya.com/



(中屋薬舗パンフレット)


藩政期の中屋薬舗は南町の今の中屋三井ビルディングのところにありました。千石取りの武家に匹敵する五百十三坪(1,700㎡)が与えられています。維新後、明治11年(1878)、明治天皇の北陸御巡幸の行在所とし10月2日天皇を迎えるため,1ヶ月をかけて門や風呂場・便所などを新改築.天皇が使用する部屋(玉座)をはじめ,随員の部屋まで,それぞれ慎重に飾りつけられ、天皇をお迎えする一週間前には,家族は近くの持ち家に移り,店舗もほかの場所で臨時営業し、中屋家は「ほとんど完璧な行在所」になり、天皇側近からも高い評価を得たと伝えられています。


(南町の中屋薬舗の旧跡)

明治天皇の御巡幸は、明治5年近畿中国九州御巡幸から明治18年の山陽道御巡幸まで6回の御巡幸が行なわれていますが、第3回北陸・東海道御巡幸の明治11年8月30日~11月9日の72日間のうち、金沢には10月2日に南町中屋彦十郎家に到着し2泊3日滞在しています。



(金沢行在所・金沢湯涌創作の森)


(明治11年当時、金沢にはもちろん汽車・電車・馬車もなく、街灯は巡幸に合わせて南町、石浦町に10数本を立て、ランプに火を灯したが暗くて何の役にも立たなかったそうです。)



(移築されが中屋の土蔵・金沢湯涌創作の森)


北陸御巡幸は、明治11年(1878年)5月14日大久保利通が白昼公然と島田一良等のテロリストの襲撃を受けて惨殺された直後、天皇が地方官に対して「安心して治民につくせ」と勅語を与えたことに見られるように、未だに不安定な支配体制に対し明治政府が末端に連なる地方官吏の掌握と若い天皇の地方へのお披露目が狙いであったように思われます。



(金沢在所の内部)


御行幸にあたって,旧藩主前田斉泰公が,数日前、わざわざ東京から金沢に駆けつけ,天皇を迎えて連日行在所に機嫌をうかがいに参上したといいます。おそらく,政府から内々の意を受けたものと思われますが、旧藩主が若き天皇の前で平伏する姿を,民衆に見せつけることで権威の交代を知らしめようとする明治政府の計算が見え隠れします。



(南町当時の中屋薬舗)


また、御巡幸で、金沢の通信や道路などインフラ整備が進み、文明開化の大きな契機ともなり、時代が完全に変わったことを庶民の前に見せつけた効果は大きかったように思われます。


(明治11年(1878)10月2日当時、明治天皇は満25歳。元13代藩主斉泰公は、満67歳でした。)


(つづく)


参考文献:「加賀能登の家」田中善男編 昭和50年5月1日発行ほか
株式会社中屋彦十郎薬舗www.kanpoyaku-nakaya.com/


金沢市老舗記念館④明治天皇の北陸御巡幸

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【金沢~北陸】
北陸御巡幸は、第3回北陸・東海道巡幸といわれるもので明治11年(1878)8月30日に東京を発ち、関東平野を北に横断して碓氷峠を越えて信濃路に入り、いったん柏崎の海辺に出て新潟、新発田まで北上し、反転して長岡を回って北陸道へ、日本海沿いの越後(新潟県)の西端に位置する親不知(おやしらず)を越えて越中(富山県)に入り、10月2日に金沢へ、敦賀に抜け琵琶湖湖畔を南下して草津経由で京都御所に向かい、東海道を経て最後に東京に戻ったのは11月9日、72日間の長旅だったと聞きます。



(行く先々では、国の末端に連なる区長、戸長、官吏、そして師範学校、医学校の教員と優等生、地方巡査、それから80歳以上の高齢者を1人1人表彰し、金品を与えています。)








御巡幸に従った随員は、前回にも触れましたが右大臣岩倉具視、筆頭参議大隈重信、参議兼工部郷井上馨の他、陸軍小輔大山巌、内務大書記官品川弥二郎、大警視川路利良・宮内大書記官香川敬三、宮内大書記官山岡鐵太郎(鐵舟)、二等侍補高崎正風、一等侍補兼議官佐々木高行、以下総勢798人(そのうち近衛兵75人)乗馬116頭と空前の大規模な行列で、天皇旗を先頭に立て36騎兵と344人の警察部隊、数10人の地方巡査に前後を守られた物々しい行列だったといいます。




(野田山墓地に島田等の墓)


石川県へは、大久保利通暗殺の紀尾井坂事件を起こした旧加賀藩士を警戒するため、大警視以下警視庁の警視・巡査を東京よりお供し、その大部分は鹿児島出身の剣術使いを選び、その警部・巡査の中には乞食姿や旅人の行商人に変装し、行商には、東京で出版した御巡幸行列絵図を町や村へ売り歩いたそうです。




行商人に扮した警部・巡査は、金沢周辺の島田一良等の残党や同志の行動を内々偵察していましたが、それを知らない石川県の警部・巡査はその行動を怪しみ連行し、任務が偵察と分かり解いたという話も伝わっています。さすがに内偵のための変装者は大聖寺やその西には行ってはいなかったそうです。


(当時の石川県は明治9年(1876)4月には加賀,能登,越中の領域でしたが、9年8月越前の大部分(嶺北7郡)を合併し,東は越後との堺の境川から西は敦賀木ノ芽峠までの大きな県になりました。明治14年(1881)まで)



(昭和になると、明治志士と刻まれています。)


その時、随員の1人として富山に着いた宮内大書記官山岡鐵太郎(鐵舟)は,その撃剣の高弟で富山出身の岸秀實が郷里富山に帰住していたので招き、金沢「忠告社」の杉村寛正・大塚志良、その他が島田一良に倣って何等かの企図をしているとの風説を県庁から聞き、川路大警視から県庁に命じて検束したらどうかと聞くと、岸は杉村らを検束すればかえって不測の事態を招きかねないと、すぐに放免するようにと釈明、川路等は諒解し,岸に万事を委任し岸は金沢に向かい杉村等を放免しています。






(大久保利通事件の首謀者島田一良の政治結社三光寺派は、杉村寛正が率いる「忠告社」から過激派が分派したもので、事件前あまりマークされていなく見逃したため事件に至ったといわれているらしい・・・。)



(金沢製糸場)


金沢では、明治11年10月4日製糸場、銅器会社、製糸社、撚糸会社の3社4人に金100円を御下賜され、長谷川準也(のち金沢区長)・大塚志良(準也の弟)の2名に御褒詞書各1通。その理由は「夙に勧業興生の志篤く、金沢区方開拓及び製糸・撚糸・銅器の諸会社創立等に尽力少なからずを以て」ということのようです。なお、長谷川はその後,二代目金沢市長になり全国に先駆けて市営発電所を建設しますが、のち没落し金沢を去ります。


(つづく)


●資料は、何年か前に書いた備忘録によるモノで、出典が書かれていないため何時か調べて書きます。

金沢市老舗記念館⑤ ― 行在所

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【金沢市南町】
明治天皇の金沢行在所は、はじめ兼六園の成巽閣を用いることになっていたそうですが、供奉官(ぐぶかん・お供)の旅宿を付近に得ることが不可能ということから、人家の多い町中の薬種商中屋彦十郎に居宅が選ばれ行在所の御用に充てるよう命じたところ、彦十郎は深く家門の慶びと即座に請けたといわれています。



(移築された中屋薬舗)

(移築された中屋薬舗)

(湯涌創作の森に移築され行在所の一部)

明治天皇が金沢に御着輦(ごちゃくれん)の1ヶ月前の9月1日より毎日職人40余人が入り、新設されたのは門と湯殿で、全家は、指示に従い質素で虚飾を避け多少の修繕を加え、玉座の他、宮内省の各課の詰所、料理場、近衛士官、兵の溜所、大臣参議卿舗室等々の工事に29日間を費やし、10月1日、御門前に角材1丈の杭に、長3尺5寸、幅1尺1寸5分の良材の檜の行在所と書かれた傍が建てられました。



(行在所の傍)


当初、9月15日までに工事が終わるように厳しく督促されますが、はかどらずギリギリに竣成します。玉座には床の中央に唐物長卓に「宮崎寒雉作獅子の香爐」並びに「鶏冠黄桃の置物」を載せ、違い棚には「千鳥蒔絵硯筥」が載せられたそうです。



(昔の中屋の門)


門前の通りでは、警視庁巡査数名が交代して警備し御輦駐中は毎夜行在所の軒下には中屋の九曜紋付大丸子提灯10数張りを吊って火を点し、御輦駐中は中屋前通りの中央に縄張りをして道路向かい側だけ一般人の通行が許されたという。



(今の中屋前の道路)


(御巡幸は、準備万端で、非常時の備えとして県令は林内務少輔の内意を受け、五宝町の西本願寺末寺(現本願寺派金沢別院)を非常御立退きの行在所に定めてられていたといいます。)



(旧五宝町の本願寺派西別院)


中屋薬舗が行在所に定められた理由である供奉官(ぐぶかん・お供)の旅宿ですが、記録のよると一定の宿割りにより80余軒の民家が充てられています。民家の分布は中屋薬舗を中心に、南町、尾張町、片町、石浦町、上堤町、下堤町、十間町、上松原町で、高位顕官の人々には裕福な名家が旅宿に充てられています。



(明治の民家のイメージ)


名家が仰せ付かった高位顕官は、岩倉具視右大臣は片町の薬種商亀田伊衛門家、大隅重信参議は尾張町の製菓商森下森八、井上馨参議は尾張町の薬種商石黒傳六家が旅宿の御用を仰せ付かります。



(石黒傳六家)


しかし、名家の3家は、行在所との距離がある片町の亀田家は南町眞成社、尾張町の森下家は南町室田家、尾張町の石黒家は南町の萬谷家を借用して、仮にこれを持ち家と称し、皆自分の調度を用いて旅宿の御用を勤めています。


(亀田家、森下家、石黒家と行在所を仰せ付かった中屋家は藩政期から町年寄を仰せ付かった家柄町人でした。)


参考文献:「明治天皇北陸巡幸誌」和田文次郎著・加越能史談会、昭和2年9月発行ほか

島田一郎①紀尾井町事件

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【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
紀尾井町事件は、明治11年(1878)5月14日朝。時の参議兼内務卿大久保利通(享年49歳)の出勤途上、紀尾井坂から赤坂御門に至る人通りの少ない物静かな街路で旧加賀藩士島田を含む6人が待ち伏せし大久保利通を暗殺したテロ事件です。



(島田等の本拠金沢・泉寺町の三光寺の現在)


(大久保は、明治6年11月に創設された内務省の初代内務卿で、内務省は「国内安寧、人民保護ノ事務ヲ管理スル所」で、天皇への直接責任を負うことで多省の卿より一段高く位置付けられ、事実上の首相だったといいます。)




事件後、自首した島田は「3千有余万人(当時の日本の人口)国民は、官吏を除けば、みな我々の同志である。」と豪語したといわれています。当時、確かに、西欧化を一日も早く進めようとする木戸や大久保一派に対することに世論の批判は強く、不平士族らの中には胸をすかした者もいたといわれています。政府は「斬奸状」を握りつぶし、要旨を短く紹介した朝野新聞は即日発行停止を命じられますが、事件後、天皇親政のきっかけとなったことは見落とせない事実です。


(大久保の死は、翌々日には岩倉使節団の福使として歴訪したイギリスの「ロンドン・タイムス」にも報じられ、記事には「大久保は日本の最近の台頭の全ての改革の推進者で、改革で禁止された悪弊の擁護者から特別に憎まれていた。」と論説し「彼を失ったことは日本にとって国家の不幸である。」と評したそうです。)



(三光寺の解説には島田等のことが・・・)


このような島田等の行動は、今の常識では、忌まわしい暴力事件で軽挙妄動のそしりを受けるものではありますが、特に島田の地元旧加賀藩士にとってはまさの快挙。当時の金沢に残る資料によると、維新に乗り遅れ、さらに西南の役の挙兵も見送り、”加賀っぽ”は、と身くびられていた不名誉を一掃する武勇で、当時の加賀の士族の心情を集めて爆破させたものともいえます。


(永井の旧宅)

(永井の書)


時代が下りますが大正6年(1917)4月の普通選挙で郷土に帰り立候補した永井柳太郎が、金沢に着くと、先ず旧藩主前田家の墓へ、次いで島田の墓に参り「先生(島田一郎)は全民衆のために、時の専断政治家大久保を倒してその罪に殉じた。その行為は身を殺して仁をなすという、加賀武士の本領を発揮したものである。」と激称していますが、さすが演説の名人、当時の金沢人の心を捉えたフレーズであったことは確かなようです。



(永井は、この選挙では政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れますが、大正9年大阪から出馬し初当選します。)


事件は、大久保が麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発し明治天皇に謁見するため、馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中。午前8時半頃、今の清水谷公園(北白河宮邸)辺りで、刺客の内2人が摘草をしているようなふりで路上に(草むら潜んだという説も)、今のホテルニューオータニ(壬生邸)側の共同便所辺りに島田ら4人が待ち伏せ、大久保は2頭立の箱馬車に乗り、車内では政務の書類を見ていたといいます。




そこへ2人が現れ馬の前足を刀で切りつけ馬車を止め、続いて4人が襲いかかり、御者(中村太郎)を肩口から斬られ即死、車内より大久保卿は「無礼者」と一喝し、睨むが、島田は「頭めがけて支えの手とともに眉間より目の際まで切りつけ」さらに腰を刺し、馬車から引きずりだします。深手の大久保は、7、8歩ほどヒョロヒョロ歩くが、島田等はめった斬りにしたので、大久保は力つき倒れてといいます。



最初は首をもって行くつもりだったらしいが、“武士は止めを刺すのが礼”だと島田が反対し、短刀でのどに止めを刺します。止めの短刀は鍔際まで深くのどに刺してあり、その先端は首を貫通して地面に埋まっていたといいます。御者の中村太郎ものどに一本突き刺されていたといいます。



(唯一、ピンチを脱した馬丁の芳松は、北白河宮邸の門衛に急を告げ、邸内を突っ走り、表門から赤坂見附から赤坂御門近くの警視第三方面分署の注進し事件を知らせているが、余にも慌てふためき、物凄い形相で早口のために、狂人かと思われなかなか相手にされなかったという話が伝わっています。)



(金沢・野田山の墓地)


P.S:島田一郎は、東京谷中や金沢野田山の墓地に「島田一良」と彫られていますが、墓地が反政府主義者の聖地となることを恐れて、あえて「一良」としたという説があります。また、墓に限らず没後を書いたものには「島田一良」と書かれたものが多く見られます。


(つづく)


参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など

島田一郎②6人の刺客

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【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
大久保利通暗殺から2ヶ月余り7月27日、島田等6人は大審院の臨時裁判所で取調べ全員斬罪の判決を受け、その日のうちにアミダ駕籠で市谷監獄に護送され首切り浅右衛門(山田浅右衛門)により執行されました。6人は同罪。その時、島田一郎31歳、長連豪26歳、杉本乙菊34歳、脇田巧一32歳、杉村文一22歳、浅井寿篤30歳はいずれも粛然と死につきます。


(金沢城石川門)


島田一郎は、判決の日の朝、鍛冶橋監獄から臨時裁判所に向かう呼び出しを受け、大声で「愛国の諸君さらば」と2度いったといいます。断頭場において係員から最後の遺言を聞かれ「いや、この期に及んで何も申し残すことなし」といい、長連豪は、当時の記録によると「北ノ方角ハ何レナラム」と相談するように聞き、彼方を指せば、それに三拝九拝して、「母上ガ在生ラルレバ」とか何かを誦えて、心中が察しられたと書かれています。


(島田は、すでに在監中に、石筆と石盤を借り一子太郎に7月10日付けで遺訓を残しています。)


(金沢の空)


島田一郎と5人の刺客の人となりは、島田は改めて次回に書くので、もう1人の首謀格の長から書きます。



長連豪(ちょうつらひで)は、加賀八家長氏の末流で家は長家に仕えています。此木(長家のもとの姓)連潔の長男として嘉永6年(安政3年説あり)金沢に生まれ後に能登に移る。母は織田信長をいさめ死んだ平手政秀の子孫で、明治になり此木家は長家の分家として長氏を名乗ようになります。明治5年の禄高は約90俵(島田は年給33石で同じくらい)。藩校名倫堂に学び、2回に渡り鹿児島に遊学し、西郷隆盛や桐野利秋の影響を受けています。島田とは明治7年ぐらいに知り合い、5歳くらいの年齢差はあったといいますが、深く交わり、直情怪行型の島田に対し、分家とはいえ金沢の名門育ちのインテリ風の熟慮型であったことから、大久保暗殺も成就したものといわれています。





(今の長の菩提寺瑞雲寺・明治以後宝円寺隣へ)


(左は瑞雲寺の長連豪の墓・宝円寺墓地の隣り)

(宝円寺墓地の隣りの長、此木の墓所)


杉本乙菊(しぎもとおとぎく)弘化2年(1845)加賀藩士杉本作左衛門(200石)の家の生まれ、島田を慕い終始行動を共にしたという。


脇田巧一(わきたこういち)加賀藩士脇田九兵衛(300石)の3男で弘化3年(1846)生まれ。明治6年金沢の変則中学監正になるが、同窓の松田克之と民選議院の設立を県庁の建言したが、受付けられないのに怒り辞職。長と交わり、西南戦役では、同志杉本乙菊とともに政府に死をもって忠告しようとするが果たせなかった。


杉村文一(すぎむらぶんいち)安政5年(1857)生まれの最年少。政治結社「忠告社」社長杉本寛正の実弟で長と深く交わり島田に私淑しました。


(杉村文一の長兄)


浅井寿篤(あさいじゅうとく)島根県士族でただ1人の他県人。嘉永2年(1849)鳥取藩士の家の生まれ明治9年3月警視庁巡査、10年西南戦役の従軍、凱旋後遊廓に遊び禁に触れ免職。11年3月従軍当時の島田の同志から計画を打ち明かされ賛同し一味になります。




(金沢の山)


事件をおこした6人以外の同志については、「斬奸状」を書き与えて陸義猶(くがよしなお)以下17人が下獄され、5名が免罪、無罪。9月26日には事件に関わった咎で旧加賀藩士6名が有罪になります。多くは旧加賀藩士で陸(くが)の秘書や他藩の者もいますが、武闘派で巡査や警部、近衛兵、官吏などもいて、維新後の旧加賀藩士の置かれた状況も窺えます。


(逮捕者の中に、禁獄30日を申付けられた警視庁の4等巡査の小林外與松がいます。事件とは何の関係もない石川県人で、維新後の加賀の低迷を嘆いていたが、刺客が石川県人と聞き喜び、金沢の兄に、「唯今人名云々誠に盛んなるや、何れも大立派の由、大国故とて皆々大感心、大久保内務卿座まみれと申者がり」などと書き送ったためあらぬ嫌疑を受けたという。



陸義猶(くがよしなお)は、終身禁獄を言渡されますが、明治22年5月の特赦で出獄、それ以後は前田家の嘱託として藩史の編集にあたり大正5年8月、東京根岸にて74歳で死亡します。


(陸は、加賀藩士陸次左衛門の長男として天保14年(1843)1月に生まれます。金沢で最初の政治結社「忠告社」の福社長で、初代石川県令内田政風を引出した立役者として知られています。幼時より藩儒の井口犀川に学び、文章に優れた才能をもち、大久保利道暗殺の「斬奸状」の他、政府への建白書、「忠告社」の設立趣意書などすぐれて名文を残しています。)


(つづく)


参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など

島田一郎③31年の生涯その一

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【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
島田一郎は、「先祖由緒并一類附帳」等によると、嘉永元年(1848)金沢生まれで幼名は助太郎。祖父久兵衛は持筒足軽の倅で島田家の養子に入った割場付足軽、父金助も養子で割場付足軽から横目、下屋敷下役などを歴任。両人とも株買いの養子であったといわれています。母は町人の出でしたが、嘉永3年に没したため、島田一郎は継母に育てられます。後に陸軍少佐になり、日露戦争で戦死した弟の島田冶三郎が家を継いだといわれています。


(妻ひら子は、後の小学校の教員になり、子の太郎は陸軍の入りに日清戦争に従軍しています。)



(金沢城石川門)


子供の頃から、意地っ張りで、金沢弁でいう“ヤンチャもん”だったらしく、友人とちょっとした言葉の争いから「糞でも食え」の売り言葉に「よし、食ってやる、ここに出せ!!」と真顔で迫り、あまりにヒツコイので、相手はしかたなく、路上の犬の糞を足げで差し出すと、それをつかんで一口でほお張り、度肝を抜かれたという話がありますが、真偽のほどは定かではありません。子供の頃から豪傑であったことは確かなようです。



(金沢城下)


剣術は、水野真法一伝流の藤岡親明に学び、片手抜きの技に優れていたと伝えられています。15歳で割場足軽御雇に、やがて洋式学校の壮猶館の稽古方手伝に、そこで銃砲術を修め、元治元年(1864)足軽並になり、第一次長州征伐に出陣し、慶応元年には京都に派兵されています。



明治元年(1868)の戊辰戦争では島田一郎20歳。加賀藩蓑輪知太夫隊の伍長島田助太郎として従軍し北越各地を転戦します。戦闘では負傷しますが、凱旋後の明治2年3月、功により御歩並に昇格、切り米30俵を受けます。この禄は、父の跡を継いだものではなく、自ら手に入れたもので、明治4年、廃藩置県で藩兵が廃止されるまでに準少尉(年給33俵)までに成り上がります。


(蓑輪知太夫隊は当時の小隊の倍くらいの人員103名と中隊規模で兵は66名。伍長は22名。島田一郎(助太郎)はその内の1人で、この時に共に戦った者の中には、後に同志となる者も多い。)



(三光派の拠点・泉寺町の三光寺)


軍人としてエリートコースを歩みだす島田一郎ですが、明治6年の征韓論が運命を変えることになります。征韓論に共鳴していた島田は西郷の下野に憤激し軍人として身を立てることを捨て、国事に奔走することになります。明治7年には、征台の役や佐賀の乱に関する建白を同志と共に提出する一方で、金沢に帰り「三光寺派」を組織しました。


(西南戦役が勃発すると、島田は”いよいよ本当に挙兵の時が来た“と喜ぶが、西郷シンパの金沢で1200名の社員を擁する政治結社「忠告社」は、戦況を傍観する態度で動かず、やがて政府は全国の兵を募ったのに乗じて島田は一計を考え、募兵に応じ九州に従軍し、折を見て反乱を起こし薩摩軍に協力しようとするが、人集めが叶わず万策尽きた島田は挙兵を放棄し、大官(大久保等)暗殺を決心したといいます。)



(稲垣義方)


後に、元同志で初代金沢市長になる稲垣義方が後に述べた島田評は「島田は武断派の典型で、お世辞も知らなければ、文筆も下手糞、そのかわり鉄石のような心と熱火のような情熱をもっていた。だから激高すると何をやらかすか分からない。けだし文に非ずして声にあり、言に非ずして魂にありとすべきか。」といっています。


(つづく)


参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行/「卯辰山と浅野川」平澤一著・活文堂印刷、平成5年8月発行など

島田一郎④31歳の生涯その二

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【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
明治7年秋、金沢に帰った島田は杉村寛正や長谷川準也らと行を共にし、彼等の政治結社「忠告社」に加盟します。当時、杉村は県の権参事をやめて忠告社に専念していましたが、その他の幹部は県の要職に付き酒色に明け暮れしていたため島田とは反りが合わず感情的対立が生じます。


(忠告社の本拠があった野田寺町の大円寺)



(寺町図と大円寺(忠告社の本拠地)


(2代石川県令桐山純孝)



(忠告社は、当時、県内唯一無二の政党、全国的にも大政党で、さらに鹿児島人の県令内田政風が陰で助けたため、県や町の重要な職はほとんど忠告社員で占め、”忠告社に非ずんば人の非ず“の観があったといわれていますが、明治8年3月、内田政風が退官し、後任に忠告社と肌が合わない参事桐山純孝が昇格すると急速に衰退していきます。)

    

(初代石川県令内田政風)


それでも島田は鹿児島の西郷に習い金沢にも私学校を作ろうと考え、杉村の出資を求めるが、杉村が冷淡な態度を取ったことから、ますますミゾが深まり、一派を率いて泉寺町の三光寺に本拠をかまえ、三光寺派と称して杉村らとは対立します。



(三光寺派の本拠地)


(もともと杉本は島田の行動があまりにも急進的であるのを好まず、島田は杉村の地位におごっているのが不快だったようです。もつとも「言論派」と「武断派」は、互いに相容れないのは当然帰結でした。)




三光寺派は、忠告社のように党規律を持つようなフォーマルな組織ではなく、島田とその同志の集合体であったが他派(常徳寺派、稲垣一派)も含め総勢400名で、その多くは警官で、紀尾井町事件の連累者はこの三光寺派から多く出ています。この派の性格は島田自ら表現するように、武断主義・腕力的行動主義であったいいます。



(紀尾井町事件のもう一人の首謀者長連豪と島田の出会いは明治7年頃の東京で、2人は5歳ぐらいの年齢差がありますが、長には島田から鹿児島の桐野利秋らと変らない意見を聞くに至り、急接近したものと思われます。長は再度鹿児島を訪れ金沢に帰るが、東京では島田と同志でありながら、鹿児島行きの面倒を忠告社の杉村や陸にみてもらっていたため、どちらか片方に組みすることを避けたのか、金沢では、どの派にも属さなかったといいます。)




島田一郎が、東京へ向けて金沢を発ったのは、明治11年3月25日。島田は出発に際して、「左右 分からぬおさな 心せよ 今は親子の 別れなりけり」「かねてより 今日の日あるを 知りながら 今は別れと なるさかなしき」と詠み、野町の端より白山を見て、「我思ひ 積るも知らぬ 山の雪解け ゆく春をまつそかなしき」と詠んだといいます。




東京への旅路は、江州海津で髭を剃り、吉村二郎と偽名して神戸に至り、湊川神社で生還せざるを誓い、海路をとって4月上旬、東京に着きます。島田は陸義猶に執筆してもらった斬奸状を所持していたが、上京の途中に取り調べられてはならぬと考え、東京に着く前に焼き捨てたといいます。




東京での宿は長連豪が止宿していた林屋で、長とは5ヶ月振りの再会であったといいます。


(つづく)


参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など

島田一郎⑤終焉とそれから

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【金沢・泉寺町→東京・紀尾井町】
かくして明治11年(1878)7月27日午前11時半頃、6人の刺客は刑場の露と消え、遺体は東京在住の旧加賀藩士の猪山成之、杉山虎一等7人が連名で引き取り、夜7時頃、東京谷中天王寺の墓地に葬られました。国家の犯罪人ということで、なかなか墓地が見つからなかったと伝えられています。


(猪山成之は最近映画にもなった「武士の家計簿」の主人公で海軍主計大監。杉村虎一は、杉村文一の次兄で当時、司法省の出仕し、後に外交官に転じています。)



(加賀の山々)


翌年12年(1879)秋、島田等の友人が発起人になり金を集めて、金沢市の野田山墓地に遺物を埋めて碑を建てます。時代は下り昭和2年(1927)には、谷中と野田山で2つの50年祭が開催されています。



(野田山の碑、50年祭の翌年建てられた玉垣)


陸義猶(くがよしなお)が書いたという「斬姦状」ですが、はじめに書くべきなのに、最後になってしまいました。ここで少し触れることにします。陸(くが)は、当時忠告社の副社長で、島田等の武力主義に反対していましたが、明治10年(1877)7月単身上京する前、島田や長に斬奸状を書き与えていました。上京後、島田等から何の連絡も無いので内心ほっとしていますが、気になっていたのか「彼ノ趣意書ハ火中スヘシ」と島田、長に書き送っています。




しかし、島田等は、暗殺の決意が変らないことを伝え、明治11年(1878)4月上旬に島田が陸(くが)のもとに来て、斬奸状の再稿を依頼することなり、陸(くが)は、やむを得ず了承し4月下旬、陸(くが)は友人の猪山成之方の書斎にこもり、数日かけて書いたものが現在に伝わる「斬姦状」で、以前に島田の与えたものをベースに、新しい時事問題を織り交ぜて修正したものだといいます。



(陸義猶の碑・法光寺)


「斬姦状」は、無地の和紙に墨で1万字がビッシリ書かれているらしく、原本は国立国会図書館憲政資料室に「三条文書」の1部として保存されているそうです。2通あり内容は同じで、誤字脱字が多く字もまずく、紙も墨も悪く、継ぎ足したところも有り、粗末なものではありますが、多分、新聞社などへ郵送のため急いで写しもののように思われます。しかし「斬姦状」には6人の署名の下に実印が捺してあることを聞けば彼等の真剣で真面目な人となりが窺えます。




(陸の菩提寺法光寺の由緒書板)


内容は、前にも書きましたが島田が自ら草案したものではなく、島田等と思想的立場が違う陸(くが)の執筆ですので、島田等の思いとは微妙なギャップがあるようの思われます。また、1万字のカタカナまじりの長文で、スペースからも全文どころか、遠矢浩規著「利通暗殺」の引用も出来ませんので、「前文」と「本文」の斬姦状の簡単な概要と前文にある大久保利通(明治政府)の「5つの罪」の項目だけを列挙しますが、詳しく知れたい方は、是非、遠矢浩規著「利通暗殺」を一読戴くことをお奨めします。




(大正時代建立、陸の碑。建設者は当時の金沢の政界、財界の名士が名を連ねています。)


≪斬姦状≫
冒頭には「石川県士族島田一郎等天皇陛下の上奏し三千有余万の国民に告げる」と書き出し「現在の政治は天皇の御意思に出たものでもなければ、国民からの意見によったものでもなく、わずか数人の大官がやっているだけである。ところが彼等は、自分のことばかり考えて国家のことは考えていない」とし、最後には、「少数者の専制を改め、早く民会をつくって公議を入れて国家永久の安体をもたらさねばならない」と結んでいるそうです。


「前文」にある大久保利通(明治政府)の「5つの罪」の項目


1、一般からの意見を聞かずに政治を行い民権を圧迫している。
2、法令が漫然と公布されて国民は困っているのに役人はいばってばかりいる。
3、不急の土木工事ばかりして国費を無駄使いしている。
4、憂国の志士を退けて内乱を引き起こしている。
5、外交に失敗して国威を失墜している。


さらに「本文」では、前文より圧倒的な長文で、より詳細に論じられているらしい。



(法光寺の陸義猶の碑)


陸(くが)は、この「斬姦状」を書いて禁獄終身の判決が下り投獄されますが、明治19年(1886)特典をもって1等を減じられ10年の刑となり、明治22年(1889)満期出獄。出獄後は表舞台に出ることなく、前田候爵家の委嘱に応じて旧加賀藩の歴史編纂に従事します。また、明治40年(1907)から谷中の6人の墓地の改修に尽力し、死の前年大正4年(1915)まで遺族のため墓の面倒をみ続けたといいます。




(陸家の墓とおぼしき墓・左3基目法光寺)


島田等の凶行は、明治維新に加賀藩が“何もしなかった”ことに対して「加賀藩士ここにあり」の巧名を、斬姦状にも書かれているように、独裁者のレッテルを貼られた評判が悪い大久保暗殺に求めてものと思われます。多くの金沢士族にとっては凶行ではなく武功であり”加賀藩武士の最後戦い“であったということなのでしょう。




独裁者といわれた大久保は、さぞかし贅沢をしていたのだろうと思われますが、死後、借金が8,000円も残っていたといわれています。


(金額は、明治の初めの1円を仮に25,000円とみると、8,000円は2億円?)



葬儀にあたり国は大久保家へ勅使を遣わし、参議兼内務卿正三位の大久保に、右大臣正二位が贈られ、祭粢料5,000円が下賜され、家計が豊かでないことから特の30,000円を嫡子利和に賜りました。


実は、この事件が天皇親政のきっかけになったともいわれています。不世出といわれた明治天皇ではありますが、青年期に入られたばかりで王政復古といっても実際政治は薩長に一任され、当時は27歳になられていたのに大久保に任せっきりで、ご自身は乗馬に熱中していたといいます。


重臣がうち揃い天皇にお目にかかり「このさい是非、親政にしていただくよう」にお願いすると、少しもお怒りならず、その後は毎日内閣に出席され、つとめて各省にも足を運ぶようになったといいます。



(島田等の三光寺派拠点、三光寺の門)


参考文献:「利通暗殺紀尾井町事件の基礎的研究」・遠矢浩規著、昭和61年6月、(株)行人社発行/「石川県史」・石林文吉著、昭和47年11月、石川県公民館連合会発行など


久保家と野村家①橋立から長町へ

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【長町・橋立町】
長町の武家屋敷跡野村伝兵衛家の建物は、今から70数年前に加賀の橋立から金沢の長町に移築されたもので、元々は藩政期大聖寺藩のお殿様を招くために建てられた建物だといわれています。



(橋立町の久保家跡・石垣は地元の深田石だと聞きました。)

(橋立の久保家跡にある椎の木別荘)


この建物は、北前船で財をなした傑商久保彦兵衛家の「離れ御殿」でしたが、先日、ほっと石川観光ボランティアの橋立町研修で、藩政期からの久保家の広大な屋敷跡を目にし、今まで聞き流していた久保家と野村家の経緯に興味がわき少し調べてみることにしました。



(久保家の明治以後の業績等)


武家屋敷跡野村伝兵衛家といえば、今では金沢観光の拠点の一つ長町武家屋敷を代表するお屋敷で、特にお庭が有名で、ミシュランガイドの2つ星にランクされています。庭も素敵ですが、建物も総桧つくりの贅を尽くしたもので、解体移築には、随所に緻密な細工が施され、高価な貴重品が使われていたため、長期間を要したと聞きます。





(長町の野村家)


(野村家)


久保家由緒書のよると「天保十四年(1843)九月六日引渡仕候」とある事から今から171年前に建てられた大豪邸で、大聖寺藩の御用林から拝領した木材を使い、豪華で堅牢、精緻を極めた造作は、今でも古色を帯びず、そんなに前に建てられたとは思えないくらい尋常とはいえない建物で、度々復元建築と疑われるといわれています。


(橋立の北前船は、大聖寺藩の「お手船」として、藩の威光を借りますが、反面藩は北前船から受けた経済的恩恵は絶大のものだったそうです。いずれ北前船や橋立の船主邸について書きます。)


(野村家の門)


現在の野村伝兵衛家は、久保彦兵衛家の全てが移築されたものではなく、藩主を招いて接待した「離れ御殿」の部分で、縁側もふくむ上段、謁見の間、武者隠し、控えの間などで、内側に面した事務所や茶室不莫庵は、昭和16年(1941)の移築に際し増築されたものです。



(大聖寺の蘇梁館)


(主家部分は、離れ御殿の倍以上の面積で、昭和16年(1941)に寺井町に移築されますが、平成12年(2000)から3年間にかけて大聖寺に移築復元され、梁を蘇らせたという事で「蘇梁館(そりょうかん)」と名付けられています。)


(つづく)


参考文献:島喜久次著「野村家跡地の移築現存する北前船々主久保彦兵衛旧邸「御殿」の由来について」石川郷土史学会々誌、他

久保家と野村家②橋立の久保彦兵衛

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【加賀市橋立町】
久保家の初代とも5代ともいわれる彦兵衛は、文化9年(1812)46歳で病死した父彦兵衛の後を継ぎ、文政12年(1828)11月に十村格に命ぜられ、勝手方御用聞(特権的な御用商人)になります。もともと彦兵衛の高祖父の父孫兵衛以来、小餅屋といい代々船乗りでしたが、曽父彦六が寛政4年(1793)2月に三人扶持を下賜され御勝手方御用聞を勤めています。



(北前船の絵馬・北前船の里資料館)


彦兵衛は天保4年(1833)正月に五人扶持を下賜され、さらに天保9年(1838)8月には藩の御用をしっかり勤めたことにより期限を切らずに居屋敷を拝領し、苗字が許され「久保」と名乗るようになりました。



(今の橋立町の北前船主マップの部分)


藩政期から明治初期にかけて橋立と塩屋、瀬越の地区は北前船の三大基地でした。橋立の湊には西出・久保・酒谷・黒田・西谷らの船主が活躍していて、記録によると寛政8年(1796)には、橋立だけで船主42人、持ち船は100隻を超えていたといわれ、その中でも久保彦兵衛と西出孫左衛門は橋立の北前船主の双璧といわれていたそうです。


(北前船には、元々近江商人に雇われていた北陸の船乗りが、安永~天明の頃(1770~1780)から、特に橋立の船乗り達が自立して自分達の船で北海道や瀬戸内海に乗り出し、船主自体が商品を買い、それを売買する買積み廻船を行なっていたといいます。詳しくいずれ。)



(橋立の町並み)


久保彦兵衛は、弘化2年(1845)の大聖寺藩財政整理に元締め役を命ぜられ、自ら進んで金一万両(約10億円)の御用金を上納し、続いて塩屋・瀬越・橋立の多くの船主も上納。彦兵衛は、その功により百三十石を与えられます。(百三十石は約13百万円)



(参考:橋立の北前船の積荷と利益・北前船の里資料館より)


(大聖寺藩は元々7万石ですが、歴代藩主は、江戸城での待遇をよくするため、10万石の大名を願いで、文政4年(1821)幕府は10万石を認めますが、以後いっそう藩財政は、苦しくなり、後に廃藩置県が実施された明治4年(1871)には借財23万1787両(明治初期一両3万円として約70億円余りに達したといわれています。)



(久保家の門跡)


嘉永6年(1853)には黒船来航時、大聖寺藩の海防資金として久保彦兵衛は3千両(3億円)を上納し、廃藩置県に際して藩札の整理に5千両(約1億5千万円)を献上したといわれています。


(大聖寺藩でも海防資金を塩屋・瀬越・橋立の船主に要請、橋立では久保彦兵衛が3千両、西出孫左衛門が2千両、他の橋立の船主が3千2百両を上納しています。


(昔の船箪笥・北前船の里資料館)


しかし、明治20年代になると橋立の北前船も衰えていきます。原因として下記のようにいわれています。


① 電信の普及でぼろもうけが出来なくなります。
② 鉄道と汽船の発達で1年に何回でも往復が可能になります。
③ 農産物の変化により、鰊(にしん)カスを肥料にした煙草、菜種、藍、綿の生産が輸入品におされ衰えます。
④ 鰊(にしん)が北方に移動で収穫が減ったため、汽船に乗り換えたものと日露戦争以降北洋漁業に転進した大船主が残ります。


明治22(1889)の久保家は所持和船5隻(分家合算14隻)を有していたといいます。その頃になると久保家は八十四銀行、日本火災海上保険(久保、広海、西谷、大家、浜中)日魯漁業(久保、西出、平出)など時代に即した事業に乗り出します。


(橋立から日本海)

≪日本一の富豪村≫
大正5年(1916)東京博文館発行の月刊誌「生活」の記事に「北陸線大聖寺駅から一里半の海岸に日本一の富豪村がある、加賀国江沼郡橋立村である。この村は小塩と橋立の両大字に分かれて戸数は各150位ある。・・・中略・・・この村には50万円以上の資産家が軒を並べ、5万円以上の家に至っては村の大半を占めている。・・・中略・・・日露戦役の国債に同村西出孫左衛門氏が7万5千円、久保彦兵衛氏は7万円も応募した。西出氏は函館の有力者で八十四銀行取締役、大聖寺川水力電気会社専務取締役、7~80万の資産を有する。久保氏は大聖寺川水電社長、大阪肥料問屋として1~2の顔である。酒谷長兵衛、酒谷長一郎、泉藤三、増田又右衛門、久保彦助らが指を折れる。・・・中略・・・加賀の人は橋立を「金の三味」という。」と書かれているそうです。

(現在の物価は大正5年の6,300倍とすると50万円は約31億円)



(つづく)


参考文献:島喜久次著「野村家跡地の移築現存する北前船々主久保彦兵衛旧邸「御殿」の由来について」石川郷土史学会々誌、その他
特定非営利活動法人 加賀国際交流会 たぶんかネット加賀
http://tabunkanet.com/01-access/index.html
北前船の里資料館の資料や聞き書き、等々

久保家と野村家③長町の野村家

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【金沢市長町1丁目】
藩政期、長町の野村家は、今の長町二の橋と三の橋の間にあり、今より3軒ほどお城側に広くて1000有余坪のお屋敷だったといいます。現在の野村家跡は、藩政期の古地図や当時の知行高の拝領地積から見ると小さく、分割される前の往時を偲ぶものとしては、土塀と庭そして代々大切にされてきた樹木などが残り今に伝えています。



(野村家の土塀)


(野村家に限らず長町界隈は廃藩置県後、屋敷内がリンゴ畠などに、その後、士族の県外転住や窮乏などによる分筆、分譲で、先住の武家の由来由緒を知ることもすくなくなりましたが、最近、ご子孫が墓参で訪れることから夏になると、たまに我々観光ボランティアガイドに問い合わせがあります。)



(長町二の橋)

(長町三の橋と野村家跡)




(今も一本残る昔の小さい林檎)
●私等は子供の頃、食べたリンゴは、長野や青森のより少し小ぶりで甘すっぱい青リンゴでした。今では金沢でもあまり作っていないようです・・・。


幸い金沢は戦災に遭わず、道路や小路は藩政期の絵図そのままのところも多く、また、絵図には武士の家名が書かれていますし、玉川図書館の近世資料館には加賀藩士の「先祖由緒一類附帳」が保存されているのでその気になれば、調べることが可能です。



(安政期の金沢絵図より)


前置きが長くなりましたが、野村家は始祖野村伝兵衛信貞より前田家に仕え、連綿と明治3年(1870)に12代野村中務之禮に至り、その間分家も拡大し野村家の累系は七家になりました。総家の菩提寺は、大桜で有名な寺町の「松月寺」。分家七家には大乗寺、棟岳寺を檀家寺とするところもありますが、何れも伝兵衛が始祖で曹洞宗のお寺です。



(二の橋の小路・左土塀までが野村家の敷地か・・)


始祖の伝兵衛信貞は、はじめ服部入道某といい、後に野村七郎五郎と称し朝倉義景に、前波播磨守長俊の下では野村七兵衛を名乗り、さらに明智光秀に700石で仕え、光秀滅亡後、天正11年(1584)越前府中に於いて前田利家公に臣事し、野村伝兵衛信貞と改めました。天正12年(1585)末森の戦役で功をあげ、禄1,000石に至りますが、天正18年武州八王子において戦没します。



(今の野村家の解説板)


由緒書によると総家の2代信清3代武貞は、七兵衛を名乗り3代は1,200石を拝領していますが、4代5代は1,000石、以後12代之禮まで800石を拝領しています。野村家代々の役職はおおむね馬廻組、同組頭に付くことが多く、藩主11代治脩公、12代斉広公、13代斉泰公にわたり一族の子女の御﨟職など加賀藩大奥に仕えています。(他説あり)



(今の野村家・野村家のパンフより)


野村家は、朝倉家に仕える以前については、朝倉一乗谷が全て灰儘となり、今となれば推測でしかありませんが、新田氏が祖として足利尊氏に組したときの旗印「棕櫚(しゅろ)の葉」が家紋で、今も駿河浅間神社の神紋と同じだそうです。現在「棕櫚(しゅろ)の葉」を家紋しているところは野村家以外に使用しているところはないといわれています。



(棕櫚(しゅろ)の葉)


(つづく)


参考文献:島喜久次著「野村家の由緒について」石川郷土史学会々誌、その他

長町野村家・建物の見どころ

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【金沢・長町1丁目】
前回にも書きましたが、野村家の建物は橋立の久保家の一部「離れ御殿」を昭和16年(1941)に移築したものです。上段の間、謁見の間、武者隠し、控えの間、奥の間、仏間ですが材質、造作、仕上げ、建具、襖絵、欄間に至るまで、金に糸目をつけず贅を尽くしたもので、移築復元とはいえ貴重の文化遺産だといわれています。



(長町の野村家)

(母家の方は昭和16年に、現能美市寺井町の撚糸業の家に移築されましたが、平成12年(2000)から3年の歳月をかけ大聖寺に移築復元され、現在、市の施設「蘇梁館」としてNPO法人加賀国際交流会たぶんかネット加賀が管理しております)

(離れ座敷と蘇梁館・久保家の時の建物を平面図にすると・・・)


建物は総桧づくりで、意匠も普請にも苦心を凝らしていて、完成には相当の年月が費やされたといわれていますので、解体移築もかなり長時間に渡り丹念に行なわれたことが窺えます。




(野村家の御殿)


(余談ですが、解体移築について母家(蘇梁館)の記録を拾ってみると、普通の建物なら1週間で解体できるそうですが、この建物は壁は固くツルハシで叩いても穴があく程度で、床板も約30cm巾の桐材で全部漆を塗りクギは使わずかみ合わせで、土台は上質の笏谷石(しょくたにいし・越前石)を何段にも重ねてあり、普請が良すぎて1ヶ月もかかったと書かれていることからも、「離れ座敷」は更に時間と手間が懸ったものと思われます。)



(大聖寺の蘇梁館)



(野村家の玄関より)


≪上段の間≫
① 柱は桧の四方柾目の白無垢づくり
② 天井は白木の豪放な格天井
③ 壁は天然の弁柄塗り
④ 床框(とこかまち)は6尺の黒柿材
≪付書院≫
① 違い棚はケヤキの細かな如輪木目の1枚板に春慶塗り、「筆かくし」の部分は紫檀、黒檀の緻密な細工
≪上段の間や書院の障子≫
① 14枚の障子の中間に巾60cm高さ65cmのギヤマン(輸入物)がはめ込まれている
≪上段の襖≫
① 白木の縁で、襖絵は狩野派の佐々木泉景71歳のお作で、「唐土八景図」②戸袋4枚は、書院の地袋2枚と共に金地の絹張りで、墨絵が描かれている




(野村家の庭)


等など、ほんの一例です。写真で見て戴けないのが残念ですが「離れ御殿」の各お部屋には、加賀の美術工芸の粋や格調高く深い由緒が随所に見られ、「離れ御殿」全体が文化遺産といっても過言ではありません。長町にいらっしゃいましたら、是非・・・、さすがにミシュラン2星。お庭と共に一見の価値ありです。





参考文献:島喜久次著「野村家跡地に移築現存する北前船々主久保彦兵衛旧邸「御殿」の由緒について」石川郷土史学会々誌、その他

「義血侠血」は兼六園殺人事件?

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【金沢・浅野川→兼六園】
金沢の三文豪といわれる泉鏡花ですが、近年、金沢への観光のお客様の幅が広くなり、三文豪といってもピンとこないのか聞き返されたり、鏡花のことを女性だと思っている人等など、お客様がご存知なければ話すこともないのですが、橋や滝の白糸像を見たり聞かれると、話したくなってしまいます。



(兼六園)


それで簡単でも前説を分かり易く工夫しなければ話しが伝わりませんので、偉大な郷土の作家のお作を一寸脚色して、もちろんお客様にもよりますし、当然、話の内容まで替えることはありませんが、時には天神橋を指し、また、「滝の白糸像」の前で、むかし見たテレビの2時間ドラマを真似て”兼六園殺人事件”等と無粋なことをいってはじめたりしています。



(並木町の滝の白糸像)


お恥ずかしい話しですが、実は私も観光ボランティアガイドになる前は、知っていることは金沢の人で、男性で本名鏡太郎、お芝居や映画の「滝の白糸」ぐらいで、「義血侠血」が原作であることも知らず、「滝の白糸」の映画に昔の金沢裁判所が映っていたのを聞きましたが映画は見ていませんし、特に興味もなく、泉鏡花記念館もボランティア大学校の研修で訪れたのが最初でした。



(並木町の滝の白糸碑)


「義血侠血(ぎけつきょうけつ)」は、明治27年(1894)泉鏡花が師匠尾崎紅葉の添削を経て読売新聞に掲載されたもので、はじめは「なにがし」の作として発表され、翌年すぐに新派の舞台に、上演には鏡花に無断で筋立ては大胆に変更されたと聞きます。


(観客の反応は上々だったらしく、やがて水芸のシーンも舞台に取り入れられ、「滝の白糸」は新派の代表的狂言の一つになり、水谷八重子の八重子十種の一つにも数えられたそうです。)



(梅の橋から天神橋)


物語は、法曹をめざす青年を、旅芸人の女性が金銭的に援助することになり、その金を奪われ犯してしまった殺人事件を、検事となったその青年が断罪するというもので、鏡花の初期を代表する作品ですが、あらすじだけを見ると、恩人を死刑に追い込んで自分も死ぬという、鏡花独特の極端な物語です。



(梅の橋から天神橋)


お話は、滝の白糸(水島友)の美しさと狂気、天神橋の上での村越欣也との切なくなるようなやりとりは、鏡花ならではの描写で、かといって説明的ではなく、はじめから舞台を意識して書かれたのではと思われるくらい艶やかで、読んで見ると不粋な私にも華やいだ美しい情景と雰囲気が伝わってきます。



(泉鏡花記念館)


文語で書かれた鏡花作品は、私は気が進まず、ガイドになる前までは見向きもしなかったのですが、「義血侠血」は仕事だと思い読んでみると、悲劇より喜劇派の私にも、浅野川や兼六園が舞台ということから愛着もわき情景が想像出来、はじめて最後まで読んだ鏡花の本でした。



(久保市っあん)


もう一つ読んでいて楽しくなったことは、今はあまり見かけない漢字のルビです。お蔭で野暮で乏しい教養の私が少~し利巧になったような気がしてきます。押し売りになりますが、「義血侠血」の最後シーンを、ルビは並列に書きますが、引用します。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹(つつ)まず事実を申せ」
友はわずかに面(おもて)を擡(あ)げて、額越(ひたいごし)に検事代理の色を候(うかが)いぬ。渠(かれ)は峻酷(しゅんこく)なる法官の威容をもて、

「そのほうは全く金子(きんす)を奪(とら)れた覚えはないのか。虚偽(いつわり)を申すな。たとい虚偽をもって一時を免(のが)るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代(なだい)の芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽(いつわり)などを申しては、その名に対しても実に愧(はず)べきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数(おおく)の贔屓(ひいき)もあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽に申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉(ほめ)るか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日(きょう)限り愛想(あいそ)を尽かして、以来は道で遭(あお)うとも唾(つば)もしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯(ひきょう)千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」


かく諭(さと)したりし欣弥の声音(こわね)は、ただにその平生を識(し)れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁(うれ)わしかりし眼(まなこ)はにわかに清く輝きて、


「そんなら事実(ほんとう)を申しましょうか」
 裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は奪
(と)られました」
ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? 盗
(と)られたと申すか」
 裁判長は軽
(かろ)く卓(たく)を拍(う)ちて、きと白糸を視(み)たり。


「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠(てごめ)にして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」



(兼六園)


これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。


検事代理村越欣弥は私情の眼(まなこ)を掩(おお)いてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累(かさね)たる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是(ぜ)なりとして、渠(かれ)に死刑を宣告せり。


 一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永(なが)く恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居(ぐうきょ)の二階に自殺してけり。


(明治二十七年十一月一日―三十日「読売新聞」)


参考文献:青空文庫「義血侠血」等

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