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油瀬木から子守川股地蔵尊まで《鞍月用水①》
【犀川上菊橋上流右岸→鱗町】
鞍月用水の取水口は、犀川上菊橋上流右岸にあります。藩政初期に改修されといわれていますが、何時頃から流れていたのかは定かではありません。記録にあるものは油屋(坪野屋)与助が正保年間(1644~1648)に菜種油を取るために犀川に堰を設け、水量を豊富にし、辰巳用水の支流が合流する地点近く(現在油車の石柱辺り)で水車を回したことを現在も竪町にある多田商店の先祖油屋源兵衛が書いたというものが有るだけだそうです。
(油車の石柱には、油屋源兵衛の書いた与助のことが刻字されています。)
鞍月用水は、藩政期より柿木畠の御厩橋で西外惣構に合流し、一部の区間柿木畠から枡形を経由して小橋までが金沢城の外堀(西外惣構)に利用されていました。上流では藩政期の製油に使われた水車が明治に入り精米、製粉に戦後まで利用され、市中長町では明治期製糸工場の動力として水車に利用され、他、染物の糊落としにも利用されています。そして今も昔も灌漑用水として下流の田圃に水を注いでいます。
(竪町の多田油店の由緒ある五葉松)
(現在の灌漑面積は129ha。旧石川郡鞍月から大野川へ、大野用水と合流し樋俣用水、木曳川から旧石川郡大野庄の田圃を満たします。)
犀川上菊橋から約400m先に現在改修中の「油瀬木」があります。藩政期は竹蛇籠を組んで、10数隻の石舟を浮かべ取水したといいます。明治の記録では、竹蛇籠は約4mの長さのものを3重積みにし、約10mのものを枕にして使用していたといわれています。
(取入堰は「油瀬木」と呼ばれていますが、油は油屋の意味か、瀬木は“堰(せき)”の当て字でしょうか・・・。)
(取入口)
取水口は、もともとは木造で、後に石造に、現在はコンクリートと鉄で造られています。藩政期には取水口の水門には番人がいたようですが、明治になり廃止されたといいます。
現在、鞍月用水は取入口からすぐに暗渠になり、しばらく城南の通りの下を流れる用水に掛かるコンクリートとアスファルトの道が続き藤棚白山神社へ、さらに進みやがて菊川1丁目へ。
(藤棚白山神社)
(藤棚白山神社は、明治18年(1885)の犀川の大洪水で、鞍月用水取入れ口の少し上(現城南1丁目)にあった旧藤棚の社が押し流され漂着したところの再建されたもので、旧地には地蔵堂と石碑が残っています。)
鞍月用水は、菊川1丁目辺りから開渠になります。付近の永順寺は真宗大谷派で元の寺号は徳善寺で現在地には享保年間(1716~36)以降に移転したといわれていますが、後に小立野土取場にあった永順寺と併合し改称されました。「かがみ橋」から家々の間を抜け菊川放水門、長柄橋へ、やがて平木屋旗店の裏を抜け幸町に繫がります。
(長柄橋)
(永順寺)
(平木屋旗店)
(菊川見て歩きマップ・平木屋旗店の塀)
用水は、「主馬一橋」をへて、幸町の宝憧寺前から再び暗渠になり、慶覚寺前の旧道下を進みや旧山田屋小路の石川県幸町庁舎土塀下だけ開渠に、鱗町交差点の暗渠では辰巳用水分流の勘太郎川と合流します。
(地蔵堂)
合流地点には、鱗町子守川股地蔵堂があります。かって用水では子ども達の川遊びが盛んで、時には流され亡くなった子もいたそうで、その霊と安全を祈願し、昭和の初め片町に住む人が地蔵尊を寄贈しました。後に近所の人によって祠堂が造られ現在に至っています。
参考文献:笹倉信行著「金沢用水散歩」十月社1995/4/20出版など
牛右衛門橋からあかねや橋まで《鞍月用水②》
【鱗町→里見町】
昔々、犀川は中州(河原、中の島)があり二筋になっていて片方が鞍月用水だったと聞きますが、全体がよく掴めないので、調べて見ると、藩政初期まで、犀川は今の本流の他に鞍月用水の取入口辺りから今の香林坊橋、木倉町、旧塩川町、旧下伝馬町、旧元車町へ流れ、新大豆田町辺りで再び一筋になり流れていたことが分りました。今の竪町、河原町、片町は、犀川の中州で、鞍月用水側の流れも香林坊橋まで人間が開削した用水ではなく自然河川だったそうです。
寛永の頃に一筋にまとめられ、今の犀川になります。寛永8年(1631)の大火のあと、藩の命で坂井就安により本格的に屋敷地となったと伝えられています。二筋だった頃の中州は、洪水があれば水没し鞍月用水側には必要な水量しか流れず、本流に洪水のすべてが流れるので、中州は一般の住居地として利用出来ず、そのため芝居小屋や遊興小屋など一時的に利用する形態の施設が集まる場所となっていたらしい。
(坂井就安は、「太閤記」の著者として有名な小瀬甫庵の長男で、元和元年(1615)に3代利常公に200石で召抱えられ、犀川川上の河中を掘り一筋にし、堤防を築き河原を町地にしました。寛永15年(1638)に歿します。)
少し脱線しましたが、本題の鞍月用水に戻します。鱗町で勘太郎川と合流した用水の最初の橋が牛右衛門橋です。この橋の近くに藩士岩谷牛右衛門屋敷跡が有ったことから牛右衛門橋といわれたそうですが、用水が西外惣構の堀に繫がるので、重要な橋として橋番人が居たそうです。
(牛右衛門橋と旧茨木町)
(油車と油屋の由来が刻字された石柱)
この辺りは藩政期から油車と呼ばれ、前回にも触れた油屋があり、水車を回していました。菜種から油をしぼる前に菜種を煎る作業に必要な動力を得るため、水車が利用されていたことから地名を油車といったのだそうです。今、水車は有りませんが、あの昭和の住居表示変更にも耐え?町名は町域も変らず「油車」として残っています。
行灯や灯明の藩政期、油屋は重要な商売で、この辺りには、かなりの油屋が水車を構えていたと思われますが、油屋としては大正初期まで水車を使って菜種油をしぼっていたそうですが、水車は、油屋だけではなく製粉や精米にも使われ、大正の頃まで3つや4つの水車が回っていたそうですが、電力に押され昭和15、6年を最後に消えてしまったそうです。
私もこの辺りを始めて通った昭和30年代のはじめには、当時としては広い道に沿った用水に小さな橋が架かり、用水の向こうに大きな工場のような町家があり、通る度に往時の面影を感じていたのが思い出されます。
丸田橋から、用水は人家の裏へ、この辺りは、今、本多町3丁目の1部ですが、藩政期は2500石の茨木氏の屋敷跡など用水沿いに武家地が続き、おかち橋、柿木畠一の橋、里見橋、あかねや橋へ。あかねや橋は5代藩主綱紀公が、但馬から金沢に招いた茜屋理右衛門がこの用水で茜染めを洗ったことから名が付いたといわれています。
染物といえば、昔、この辺りの鞍月用水で友禅染の洗いをしていたそうです。今も昔からの立派な建物の染物屋がありますが、別のところで水洗いをしているそうで、この時期、用水に木蓮が被い長閑に流れています。
(里見橋を渡ると里見町の染物屋の長屋門)
今から30数年前に読売新聞社金沢総局著で能登印刷が発行した「金沢百年 町名を辿る」には、当時この辺りで染色業をなさっていた方が、染物の話しではなく、用水を暗渠化して駐車場にする話しが住民から上がり、その理由として“用水があり細い道で安心して歩けなくなる”とうことだったそうですが、結局、暗渠化が実現しなくなり「ホッとした」ということや“蛍”が戻ってきた話しが綴られています。
今、蛍は?いずれにしても、この辺りはあまり知られていなくて、そぞろ歩きが似合う、金沢らしい昔がある・・・そんな町です。
参考文献:城下町金沢学術研究1「城下町金沢の河川・用水の整備」金沢市2010年3月発行・笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行。
あかねや橋から香林坊橋まで《鞍月用水3》
【柿木畠→香林坊】
あかねや橋から住宅地の間を抜けて日本基督教団金沢教会の脇まで鞍月用水は開渠ですが、すぐ暗渠になり柿木畠の広見の地下を流れ下柿木畠橋で、惣構の堀と鞍月用水の合流地点が見える所から開渠になっています。今は跡形もありませんが、広見のところに架っていた橋の名を藩政期は「御厩橋」といわれていたそうです。
(御厩橋は、堀幅も広く、また、惣構の堀に架かる橋でありことから防衛上にも重要な橋で、他の用水に架かる橋は4間未満であるのに対して、東内惣構に架かる枯木橋と同じく橋の長さは5間(9m)で有ったといいます。)
(教会横を流れる鞍月用水)
(教会前の柿木畠の広見・下は鞍月用水)
柿木畠は藩政期からある町名です。火除け地に植えられた柿の木に因んで付けられたもので、飛鳥時代、万葉集で有名な歌人「柿本人麻呂」をもじったものです。語呂合わせや音で言葉や地名を憶えた時代、根拠はいざ知らず「柿の木のもとでは火が止まる」という駄洒落から、火除け地に柿に木を植えたことによるものと思われます。
3代藩主利常公の時代、寛永8年(1631)及び12年(1635)の火災から、この一帯を火除地としたため、藩士の邸宅を移転させ空き地にし、柿の木を植えたといいます。利常公の死後、利常公に仕えた家臣が小松から金沢に移住したので、万治年間(1658~1660)から藩士の邸地となりました。
(宝暦8年(1758)当時の金沢町絵図では、まだ柿木の畑が少し見られますが、宝暦9年(1759年)の大火災の後には、柿木の畑はすっかり消えます。しかし、その名は今に伝わり、最近では、町中に柿木が植えられ、駄洒落とはいえ由緒ある町名を名実ともに伝えようとしています。)
(柿木畠を流れる鞍月用水)
柿木畠で西外惣構の堀と合流した鞍月用水は、香林坊橋(犀川小橋)へ、香林坊橋は今、完全に暗渠で、わずかに、かっての欄干の一部が残っています。藩政期は長さ6間(10,8m)で廃藩の後、橋際に土居を築き橋を縮め4間の土橋にしますが、今は、聞かないかぎり用水の上であることなど全く気付かない道路のなっています。
香林坊橋(犀川小橋)より下流の鞍月用水の水路は、かっての犀川の分流がたどった川筋とは異なり、しばらく城のかたちに沿って流れ、三社河原の左を取りすぎ、やがて旧鞍月集落へと流れます。
香林坊は、金沢市の中心部に位置する地域の名称で、町名の由来は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したと伝えられています。
≪香林坊地蔵尊伝説≫
越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は天正8年(1580)香林坊に移り住み、町人となって薬種商を営み、比叡山の僧であった縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名も香林坊とします。ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより処方した目薬が、藩祖前田利家公の目の病を治し、香林坊は大いに名を上げました。やがて夢で見た地蔵尊を造り店の小屋根に安置すると商売はますまし繁盛します。寛永の大火のとき、地蔵尊辺りで不思議と火が止まり、香林坊の火除け地蔵とも呼ばれるようになったといわれています。
≪もう一つの香林坊橋”道安橋”伝説≫
香林坊橋(犀川小橋)は、道安橋ともいわれていたそうです。橋名は小橋天神の社僧道安が橋側に住んでいたことによるもので、神社の古い由来書によると、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられています。山伏を社僧とする神仏混淆の社で、託宣により小橋の詰めに遷座し社殿を建立したことから、香林坊橋は「道安橋」とも呼ばれたそうです。その頃の小橋天神の社地は香林坊橋の上、今の香林坊109辺りで有ったと伝えられていますが、元禄3年(1691)の小橋天神の由来書には、慶長2年(1597)犀川小橋の橋詰め、家がわずか十軒ばかりの河原に移ったと記されています。
(藩政期、修験派山伏の宝来寺が別当の天満宮でした。慶長19 年(1614)大阪夏の陣がおこり、藩主前田利常公が出陣に際し利常公の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。現在の小橋菅原神社。)
(香林坊下)
参考文献:城下町金沢学術研究1「城下町金沢の河川・用水の整備」金沢市2010年3月発行・笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行ほか
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香林坊橋から鞍月橋まで《鞍月用水④》
【香林坊→長土塀1丁目】
鞍月用水は、香林坊橋から今の中央小学校(旧加賀八家村井家)の東の境まで金沢城の外掘の西外惣構の堀と共用し、西外惣構の堀は枡形、小橋に向かって北進しますが、鞍月用水は小学校の校舎に添って左折し西へ流れます。やがて大野庄用水と合流したり離れたりして幾筋かに分かれ灌漑用水として旧戸板村、旧鞍月村、旧弓取村の田圃を潤わせています。
今回は、香林坊橋、右衛門橋(よもんどはし)、尾山橋、四ッ屋橋、鞍月橋までを下りますが、この区間は、以前にこのブログで紹介した「史跡金沢城惣構跡・西外惣構と惣構堀」と、ほぼ重なるので、一部重複しますが、なるべく前回書けなかった歴史的事実や伝説、今の様子を拾ってみます。
(参考:西外惣構については、「史跡金沢城惣構跡・西外惣構と惣構堀」)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10624092005.html
香林坊橋を過ぎると、香林坊109が出来るまでは、鞍月用水は開渠でビルの脇を流れ、用水沿いには柳が植えられ、今も見られる「明暗を 香林坊の 柳かな」の小松砂丘の句碑が香林坊橋の欄干と対になり戦後の香林坊の情景を伝えていました。香林坊橋の次ぎの橋は、香林坊上の映画館街と香林坊下の映画館街とを繋ぎ朱塗りの欄干の橋が架かっていました。橋の名はよく憶えていませんが、調べていたら「賑橋」とありましす。
(鞍月用水と大野庄用水)
昭和30年代の映画全盛の頃、香林坊上(現香林坊109)の大神宮さん(後、焼き鳥の屋台村、パチンコ屋)の周りに松竹座、旧金沢大映(スメル館)、スカラ座(立花座)が、時代は下り劇場名は忘れましたが、富山合同興業が進出して出来た映画館がありました。
(長町川岸界隈)
香林坊下には、高校生の頃、裕次郎の映画が掛かると欠かさず行った劇場やその頃出来た洋画専門館のパリー菊水が、後には東映と日活、大映の直営館が軒を連ねていました。現在はすべて駐車場に変り、当時の賑わいも情景すらも忘れ去られています。
(藩政期のこの辺りは、武家屋敷が建ち並んでいたことを思えば、百数十年も経れば裕次郎も映画も映画館も記録には残っていないかも・・・。)
今は香林坊109を囲むように開渠になった鞍月用水も、かっては用水の上に八百屋やおでん屋などが立ち並び、周辺には飲み屋やバー、雀荘などもひしめき、いつも興奮気味で、その橋「賑橋」を登ったり下ったりしたのが蘇ります。どうも水路は「賑橋」から暗渠になり、その上が商店になっていて、当時は、水路が何処へいったのかは、気にも留めず、毎日、行く当てがなくても橋の周辺をうろついていました。
(あぁ~バイトや遊び帰りによく行ってお風呂屋さんは今のどの辺だったのだろうか・・・)
右衛門橋は、今も「よもんどはし」と呼ばれています。どうもこの橋側に藩士富田右衛門という人の邸宅があったことから“右衛門殿橋“といわれるようになったそうですが、「うえもんどの」ではなく「よもんど」と呼ばれたのか、昔、古文書教室の先生に聞かれたことがありましたが、先生も知らないのに私が・・・と思ったことが思い出されます。今も橋にはそのように書かれています。
(村井家「金沢製糸場跡」現中央小学校)
何時頃から有ったのかは定かではありませんが、元禄6年(1693)の士帳には「右衛門殿橋」と、また、金澤橋梁記には「よもんどの橋」長町四番丁高なりと有ることから、17世紀には、すでに惣構にも橋が架けられていとことが分かります。
流れは尾山橋から四ッ屋橋へ。古地図によると四ッ屋橋は村井又兵衛家の屋敷前に架かる橋で、屋敷の前には広見になっていたことが分かります。水の流れは、現在、鞍月用水の石柱のあるところで、左に折れ、北に進み村井家の屋敷のはずれにある鞍月橋に至ります。
村井家は、明治の廃藩で屋敷を毀し退去しますが、屋敷跡は明治7年(1874)鞍月用水の豊富な水を利用し水車を廻し、その動力で、当時、官営富岡製糸場につぐ規模だったという金沢製糸場が創設されました。
(少し長くなりましたので、金沢製糸場は次回に・・・。)
金沢市発行の(金沢用水めぐり)より
参考文献:笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行・森田平次著「金澤古蹟志」ほか
金沢製糸場《鞍月用水⑤》
【長町1丁目】
藩政期、長町界わいの西外惣構は城側も外側も武家地で、城側には土居が盛られ、雑木竹藪などの緑地帯が設けられていていました。明治維新で惣構の緑地帯は宅地化され堀跡だけが残り、その堀沿いを長町川岸と名付けられました。明治の入り堀沿いにあった大身の村井家(中央小学校)や長家(三谷産業、玉川公園)も天皇に奉還され、後、この地が金沢の近代工業の発祥の地になります。
(左側が金沢製糸場跡・四ッ屋橋「倉庫精練(株)跡」・現中央小学校)
明治7年(1874)3月、村井家の跡に、県内は初の近代的工場が創設されます。繰糸機が100台、女工200余人が従事し、豊富な鞍月用水で水車を廻す近代的な工場で、国内では官営富岡製糸場に次ぐ規模の工場だったといいます。後に2代目の金沢市長になる長谷川準也と弟の大塚志良が士族授産と殖産興業のため民営で創業しました。
工場の開設には、金沢の大工津田吉之助が富岡製糸場に派遣され、製糸機械の製作法を学んでいます。津田吉之助は、代々続く大工で当時長谷川準也家に出入りしていました。字も読めず、そろばんも出来ないけれど「どんな何題や明細な仕事を命じても、いまだに、出来ないと断った事も、仕損じたことも無かった」といわれた人物だと伝えられています。
(吉之助は。明治5年(1872)に富岡の製糸工場に行き、機械の見取図を描き、帰って普通の大工や鍛冶屋を集めその図面を見せ、自分の工夫も加えて精巧の機械を組み立て、金沢製糸工場に据え付けています。)
(金沢製糸場が水を引いた鞍月用水)
工場の運営は、士族の婦女を女工として従事させ、失職の士族に桑の栽培と養蚕を奨励していますが、その頃の石川県産の繭は少量で粗悪であったため機械織りには適さず、群馬、長野から買い付ける必要があり、また、生糸の知識も経営能力にも欠けていたことから、全国的には好況であるにも関わらず損失を重ねたといいます。
(工場内の水車)
明治8年(1875)ニューヨーク駐在の副領事であった富田鐵之助は、米国絹業協会に対し日本産生糸の実物見本を送り、品質を問い合わせていますが、その回答の中で、金沢製糸場の生糸は、製糸の性質は上、綺麗で節がなく繊度も揃っているものの、細すぎてアメリカ市場には向かないと伝えています。
華々しく創業した金沢製糸場も「武士の商法」というか、準備不足の素人経営で、明治12年(1879)の生糸価格の下落を契機に解散に追い込まれます。その年、官貸金を得て操業を続けますが、ついに明治18年(1885)に石川県の直轄となり、3年後に創業から10数年、明治21年1888)閉鎖されます。
(名誉のために付け加えておくと、金沢製糸場の創業は、明治10年代後半から県下の繭の生産量と品質が高まり、女工の製糸の技術力も向上し、以後、養蚕業や絹織物業が発展するなど、後の石川県での近代産業の基礎を築いたことは確かです。)
(中央小学校横の鞍月用水)
後年、当時大蔵民部省官吏として富岡製糸場の建設に尽力した渋沢栄一は「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書かれていることか見ても、素早い長谷川らの行動は、目下の急務である士族の授産という大仕事を抱えていたとはいえ、先見性はあるが、鼻っぱしらの強い加賀ッポ(士族)の負けん気とともに危うさも見え隠れします。
工場内の川は鞍月用水から水を引き込んでいます。
余談1:長谷川準也と大塚志良は士族授産と殖産興業を図るため、金沢製糸場以外にも、明治10年(1877)に金沢撚糸会社、金沢銅器会社を相次いで設立し、明治11年(1878)、北陸巡幸で金沢を行幸した明治天皇は金沢製糸場を始めとしてこれら3社を視察し、金100円を下賜しています。
余談2:吉之助は「からくり」や塩の製造法改良など広範囲に渡り業績を残したといいます。尾山神社の神門も吉之助の設計です。富岡に行った時、数日東京に足をのばして「第一国立銀行本店」の見学をしているので、この銀行の高い五層建の上に“乗せた望楼”をモデルにしたのではないかと思われるくらい、よく似たものだったといいます。吉之助の実子の津田米次郎は、“津田式自動力織機”を発明していて、今も、金沢のある「津田駒工業」の創始者津田駒次郎は甥だった聞きます。)
(またいつか続き書きます。)
参考文献:参考文献:城下町金沢学術研究1「城下町金沢の河川・用水の整備」金沢市2010年3月発行・笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行・読売新聞社金沢総局著「金沢百年 町名を辿る」能登印刷1990年7月発行・「金沢古蹟志」森田平次著・「石川県立歴史博物館展示案内」石川県立博物館発行・ウイキペデアフリー百科事典他。
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大正・昭和のはじめの蓮如忌
【向山(卯辰山)・金沢城】
もうすぐ4月25日。蓮如上人の命日といわれていますが、金沢では戦前まで市民がこぞって向山(卯辰山)に登り昼間からドンちゃん騒ぎのお花見をしたと伝え聞きます。4月25日といえば今もそうですが、昔も染井吉野はほとんど散り、遅咲きの八重桜が多少は咲いているという、花見の盛りはとうに過ぎていたはずですが・・・。
(木倉屋さんの「どんだくれ人生)
独特なタッチの彩色画と軽妙な文章で、金沢の町並みや庶民の暮しぶりを書かれた木倉屋銈造氏の「七百二十日のひぐらし」や「どんだくれ人生」の中に大正から昭和のはじめの蓮如忌のことが書かれています。当時の町人や職人の卯辰山のお花見です。“蓮如さんの山行き”といわれ、前の晩から重箱にありったけのごちそうを詰め、4月25日になると朝の10時頃に、浅野川沿いの道を徒歩でぞろぞろと向山(卯辰山)に向かったと書かれています。
(向山(卯辰山)の“蓮如さんの山行き“は、幕末あたりから盛んになったと伝えられています。藩政期の向山(卯辰山)は禿山で、それまでは藩が登山を禁じていますが、元治・慶応に書かれた町人の日記には、春の山行きや秋の茸狩りのほかに散策コースとして登場します。因みの藩政期の蓮如忌は旧暦3月25日でした。)
”蓮如さんの山行き“は、蓮如上人が「わたしの命日は泣き悲しんでおる必要はない。お前ら大いに遊んで飲んで、1年の苦労を癒してくれ」と言われたことに因んだものだといわれていますが、木倉屋銈造氏の本には、三百六十日の倍七百二十日働く金沢の職人衆は月2回の定休日以外は親の死に目に会わんでもというが”蓮如さんの山行き”にはほとんど人が出かけたそうです。“たまにこんな日がないと「どうしてわしら、生き延びているコッチャ」と、また「その日に仕事をしていたら、他人から笑われる」ともお書きになっています。
聞いた話ですが”山行き“の行事は、日本的習俗で、年に一度、ご先祖と触れ合う機会としての山行きで、それは人間が密かに意識している「山中他界観」に根ざした民俗行事の意味も有るのではないかと分析する学者もいます。いずれにしても蓮如上人の遺言と花見にかこつけた町に住む人々の年に1度のストレスを発散する、無礼講のドンちゃん騒ぎであったのでしょうか・・・。因みに、当時の農村の蓮如忌は、厳粛に法要を行なっていたと聞きます。
(向山)
野宴は、たいそう賑やかなものだったようで、芸者を連れて大尽遊びをする人、花札に耽る職人、職場の主従が打ち揃ったパーティや家族的な席、何時もは浅野川大橋掛作で三味線を弾くお瞽女のばあさんも来て鳴りもの付きのグループなど、あちこちにブルーシートならぬ茣蓙(ゴザ)を引いて楽しんだといいます。当時、茣蓙1枚8銭、七輪15銭、木綿こしの豆腐の田楽20銭と書かれています。
(幕末の一本松)
下山は、カラスが一本松辺りにとび去る頃、帰り道は天神坂から降りる野暮の職人は1人もオランワネ。とあります。茶屋遊び・・・「流連(イツズケ)」「素見(ヒヤカシ)」・・・「レンニョウサン」なりゃこそ!!極楽浄土の十萬億の山遊び、アラゴモッタイナイ、ナンマイダーと木倉屋銈造氏は結んでいます。
木倉屋銈造氏は兼六園のお花見にも触れています。「私らにとって不思議なのは、石川門下辺りで若い人達が飲み食いをやっとることです。ああ、時代やナ・・・。前田のお殿様のお庭先で、昔はああいうことは許されなんだもんです。・・・お上品に静に、純粋に花を観賞するというのが兼六園の花見でした。」そうです。
随分省略しましたが詳しくは、木倉屋銈造氏の「七百二十日のひぐらし」と「どんだくれ人生」を。
参考文献:「七百二十日のひぐらし」著者木倉屋銈造 北国新聞社1991発行
「どんだくれ人生」著者木倉屋銈造 北国新聞社1993発行
金沢城の鉛瓦
【金沢城内】
北陸新幹線の開通を来年の春にひかえ、金沢城の復元工事は急ピッチで進められています。今、第二段階の復元整備工事中の橋爪門の二の門と玉泉丸は、新幹線が開通する来年春には一般公開される予定だそうです。思えば金沢大学が角間に移り、跡地の復元整備が始まってから18年、城内は随分様変わりしました。
(金沢城の復元は、平成8年に金沢大学跡地を石川県が取得、その後10年間、第一段階として菱櫓等の復元を、現在、平成18年に策定した「金沢城復元整備計画」に基づき第二段階の復元整備が進められています。)
(復元中の橋爪門と玉泉丸)
私も10年位前から、散歩コースとして少なくとも月に7日以上は通っていますが、復元された建築物は見れば見るほど、数100年前のデザインとは思えないくらい新しく感じられ、しかも他のお城と比べても独自性が際立っていて本当に昔の建物の復元?と疑いたくなります。
(明治14年の火災前の橋爪門の写真)
(現在復元工事中の橋爪門二の門・鉛瓦はまだねずみ色)
どうも江戸初期、平和な時代を迎へ、その頃に日本で築城された城郭は美観が考慮されるようになり、ヨーロッパのゴジック様式の縦線を意識した装飾過多のデザインとは異なり横の線を重視し、しかも機能的でシンプルなのが新しさを感じさせるのでしょう。
それに加えて「鉛瓦」。瓦を横に並べた「海鼠壁の白漆喰」。珍しい西洋風の垂直を取り入れた「黒い鉄板張隅柱」は、防衛機能優先の建て方でありながら金沢城だけに見られる特徴で、幕末まで二百数十年余にわたり、何度も改修を重ねますが、その慶長期から特徴は、基本デザインとして崩すことがなかったといいます。
「鉛瓦」は、木で屋根を作り厚さ1.8mmの鉛板を張り付けて造られています。少量(0.06~0.08%)の銅が含まれているらしく、銅を添加することにより、強さや硬さ、それに酸に腐食されないための耐酸性を高め、しかも日が経つにつれ白く美しい屋根になっています。かって江戸城や名古屋城にも使われていて、藩政期の古文書には、「鉛瓦を使用したのは名城の姿を壮美にするため」と書かれているそうです。今は金沢城と高岡の瑞龍寺に残るのみです。
(鉛瓦と海鼠塀の模型)
昭和39年(1964)に金沢の郷土史家八田健一氏が書かれた「百万石太平記」の”金沢城の鉛瓦“によると金沢城では、鉛瓦がいつごろから始まったかについては藩の正史にも野史にも全く書かれていないそうです。
八田健一氏が調べたところによると、寛文5年(1665)藩の会所から、銀座の銀座彦四郎、紙屋武兵衛に今度鉛瓦を鋳るので、かねて預けてある”なまり“を別所八右衛門、島七右衛門、渡辺弥三郎、野村四郎左衛門の4人の奉行から話があれば渡すようにという発令がでています。さかのぼれば寛永10年(1640)から10年の間に5回にわたり、藩主または重役から銀座にあてて鉛の販売や保管を命じていることからも、藩政初期、藩で鋳造していた銀貨に鉛が必要だったことが窺えます。
(幕府は、全国に向けて貨幣の私鋳を禁じています。加賀藩でも寛文7年(1667)加賀藩でも鋳造は永久に停止していますが、その2年前の寛文5年(1665)には、すでに鉛瓦の鋳造を命じています)
(復元工事中の橋爪門二の門)
また、鉛瓦の原料はどこから産出されたか分からないが、銀座文書によると、主に越中新川郡の亀谷、松倉、長棟などの鉱山で金銀の採掘とともに付近の方鉛鉱から豊富に産出されたものと察するとあります。
(幕末に建てられた三十間長屋)
屋根が黒っぽいのは、戦後の復元で鉛瓦に鉄分が入ったのではないかといわれています。
いずれにしても、藩政初期それまで認められていた藩での貨幣の鋳造が永久に停止になり、鉛が大量に余ったことで、江戸城や名古屋城で使われた鉛瓦が金沢城でも使われるようになり、やがて江戸城や名古屋城では使われなくなり、現在のおいて金沢城や瑞泉寺だけに残ったという事のようです。
それから後二つ、一つは俗説でいわれている鉄砲の弾丸にするため鉛瓦にして貯蔵したというのは、わざわざ鉛瓦にして貯蔵しなくても他に方法もあり、また、戦時、弾丸に鋳直す労力や技術と時間を考えれば、疑わしい・・・。
もう一つは、明治14年(1881)1月10日の朝、歩兵七連隊の兵士が魚を焼いた火の不始末から旧二の丸からの出火に際し、当時、陸軍ご用達を務めていた尾張町の森八の主人森下八左衛門の談として、二の丸、三の丸に入ろうとしたところ、主要な建物は鉛瓦で覆われていたため、鉛の瓦屋根は猛炎に焼けただれ、屋根の雪といっしょにすさましい勢いでなだれ落ちる危うさに一歩も進むことが出来なかったと書かれています。
(正面の石垣は、20年ほど前の橋爪門続櫓の石垣)
参考文献:「百万石太平記」八田健一著 石川県図書館協会 昭和39年7月発行ほか
金沢城の隅柱
【金沢城内】
金沢城建築の特徴の一つ、日本の城郭建築では極めて珍しい西洋風ともいえる垂直の黒い鉄板張の隅柱があります。現存する日本の城ではここ金沢城だけのものですが、この意匠について伝えられているのは、戦国時代、京都に建てられた南蛮寺の黒い隅柱と似ているところから、キリシタン大名で後に加賀藩前田家に26年間仕えた高山右近が関わったのではなかといわれています。しかしそれを証明する史料は現在のところ見つかりません。
元来、城郭の柱は防火上、壁に塗りこむのが普通ですが、黒い鉄板張りにして外に出すことで西洋風の垂直線が際立ち、白壁と海鼠塀がバランスよく引き締まり、美しさ中に力強さが感じられ、意匠としては現在でも昔のデザインでありながら新しいセンスが光ります。
京都の南蛮寺は天正3年(1575)に建てられたといわれていますが、宣教師が書き残したものによると、当時、南蛮寺は日本人の設計で日本人の大工で建てられることになっていたとされ、日本風でありながら、天に向けて高くそびえる西洋の教会建築が求められたといいます。
(全国の主要な城を探しても類例のない金沢城独特の「黒い隅柱」と唯一共通するデザインと雰囲気を、京都にあった南蛮寺の絵図にみることができます。都の南蛮寺図扇面に見える京都の南蛮寺、神戸市立博物館所蔵、google画像)
(藩政期に建てられた三十間長屋)
京都の人々は高い建物は「上からのぞかれる」と反対しますが織田信長の意向で3階建ての教会が建てられたらしく、高山右近が設計から木材調達まで献身的に働いたと宣教師のフロイスが書いているらしい。その後に右近は前田家に仕えるようになり、金沢城の築城に関わったといわれています。
しかし、右近が金沢に来たのは天正16年(1588)入城5年目の前田利家公が本格築城を進めている最中で、天守閣は天正14~15年(1586~1587)に完成していたといわれ、右近が金沢に入る前のことで、右近は無論この初期築城には関わっていないことが分かり.ます。当時の意匠は今となっては定かではありませんが、まだ戦時でもあり、後の白を基調にした優美なものではなかったのではと推測されます。
右近が築城に関わるのは、加賀藩の古文書によると文禄元年(1592)年の文禄の大改修ころからとみられ、慶長7年(1602)金沢城本丸の天守閣が落雷で炎上し、翌年天守閣に替わって3階櫓が建てられていますが、その改造には高山右近の指揮で再建されたものと思われます。
10年ぐらい前に発見された3階櫓の絵図面に海鼠壁や黒い隅柱らしきものが描かれています。となると金沢城独特の黒い隅柱のデザインは右近によって南蛮寺デザインが引き継がれたのではと希望がもててきます。そして、その後あらゆる城内の建物に使われるようになったのだろうと推測できます。
現存する天明7年(1787)再建の石川門、文化5年(1822)建築の成巽閣辰巳長屋、安政6年(1858)建設の三十間長屋などは今も残り、二の丸菱櫓等も19世紀初頭に再建された建物を正確に復元したもので、それらのルーツをたどれば慶長期に高山右近が関わったと推測される金沢城の統一イメージが忠実に受け継がれています。
(註:右近は江戸初期、フイリピンの追放されていて、詳しい史料は海外でわずかに残る以外、国内ではきわめて少ないという。)
参考文献:金沢城の統一デザインほか
www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_7.html
金沢城の海鼠壁
【金沢城内】
前回、他の城にない金沢城の特徴「鉛瓦」と「隅柱」を書きましたが、もう一つ白漆喰との調和が美しい「海鼠壁」があります。「海鼠壁」は、江戸時代の初期に武家屋敷で始まったもので、土蔵などの壁塗りの様式の一つです。壁面に平瓦を張り、固定のため目地に漆喰を“かまぼこ型”に盛り付けて塗られたもので、その形が「なまこ」に似ているので「海鼠壁」と呼ぶようになったといわれています。
金沢城の「海鼠壁」は、防火に備え作られたもので、下から6割ぐらいまで地面に平行に積まれた「馬乗り目地」という古くからの様式で、美しい幾何学模様を描き出し、上部の油漆喰の白壁と調和し、本来、防火目的に作られたものでありながら、その色彩や形は整然と美しい、まるでデザインを優先に作られたようにも見えます。
歴史を遡ると、金沢城は慶長4年(1599)頃まで整備されますが、その後再三火災に遭い、そのたびに再建されています。慶長7年(1602)から安政6年(1859)まで約255年間に、慶長7年(1602)、寛永8年(1631)、宝暦8年(1759)、文化5年(1808)の4大火事を含め56件の火災が記録されているそうです。冬には落雷が、春先から初夏にかけてのフェーン現象や火の不始末などによるもので、その都度大変な被害を蒙っています。
そのため、火災による延焼を防ぐ備えから御壁塗や左官棟梁は御大工、屋根葺棟梁、安太と共に重要な役割を担っていたといわれ、現在、残された左官の仕事を見ても「海鼠壁」の他、軒先の波形塗りや軒裏には油漆喰の総塗籠が施されています。さらに金属板で覆われた出窓枠など外部から極力可燃物を取り除く工夫がなされています。
藩政初期の記録によれば、藩より「壁塗手間料」が公定されていて、技能の程度により3段階の手間料が決められていたそうで、大工、木挽、板批、屋根葺より高くなっていたらしい、それらの記録からも江戸時代の初め左官工事関係の技能者は特に必要であったことを窺い知ることができます。
参考文献:「加賀藩大工の研究・建築の技術と文化」田中徳英著 桂書房2008年発行
鞍月橋から三構橋まで《鞍月用水6》
【長土塀1丁目→方斎2丁目】
鞍月用水は、鞍月橋から玉川公園西側の前の九曜橋へ、次に架かる下九曜橋から斜め左に方向を変えて閑静な住宅街を流れていきます。下九曜橋袂の解説板には、地図入りでこの界隈の歴史が書かれ、用水沿いの遊歩道は「うるおいの道」と名付け、高厳寺まで小路ごとに架かる中川橋、宗叔橋、宗構橋、上三構橋、八千代橋、三構橋が続きます。
最近、市が発行した安政年間の「古地図」を開くと、この辺りは長家の家中町(かっちゅうまち)で、他に村井家、今枝家、中川家、生駒家の家中町が続いています。そこで今回は、家中町や武家生活について少し触れることにします。先ず家中町ですが、下屋敷ともいい、前田家の人持組3000石以上の家臣の家臣(陪臣)が住んだ町でした。
今風にいうと社宅です。大身の家臣には直臣の家臣より禄高が多い陪臣もいて、住むところは身分に応じて区別されています。長家では、上級家臣は今の長土塀1丁目辺りの“上家中”に住み、他は“北の家中”や“あら屋敷”に住むようになっていたらしい。
当時の武家はどのような生活をしていたかというと、直臣も陪臣も俗に「百石六人泣き八人」といわれたそうで、家族6人が手いっぱいで8人になると年中泣いて暮らさなければならなかったといいます。
(下九曜橋)
(下九曜橋より)
(百石の実収納米は約43石。それを蔵宿に預け2%の蔵敷料を支払い、家族の1年分の食料を差引き残り全部を仲買人に売り払う仕組みになっていました。)
(宗叔橋より)
そこへもって、延享2年(1745)6代藩主吉徳公が亡くなって、わずか9年でかってない財政難に陥ってしまいます。原因はまた別に書くことしますが、何時の世も同じで、税収を上げて増大する赤字の解消をするため、藩士から知行米を徴発する以外にはなく、先ずは向こう7ヵ年の間500石以上は10%、以下のものは7%または5%を徴発します。しかし、赤字の解消など、これも何時の世も同じ・・・
悪いことは立て続けに起こるといいますが・・・。宝暦9年(1759)宝暦の大火で金沢の町は焦土と化します。そして明和9年(1772)には3ヶ年に限り藩士の知行15%の割合で徴発することになります。武士の知行米を一時借上がるという名目から”借知“といいますが、実際には藩士の収納米を藩に切り替えるだけで、藩は貸借の義務を負うべくもなく3年が過ぎても停止どころか益々強化されます。天保8年(1838)には、半知借り上げになり、2百石取りが百石に、実質43石になり単純計算ですが1石1両(10万円)とすれば、年収約430万円・・・。2百石取りが”泣き八人”になってしまい百姓以上に搾取されることになります。
(高厳寺)
その頃になると、家中町では、内職が常態化し、従来の「長のリンゴや村井の柑子」といわれた庭の果実だけでなく、手内職が大切な収入源になり、立派に商品として流通していたらしく、長家では、髷をしばる元結が有名で、その元結で”鎧“”兜””お雛様“などの玩具を作り、村井家では、菅笠、竹の子笠の笠当て、今枝家では提灯や凧をこしらえて家計を補ったといいます。
≪参考:旧町名≫金沢の「歴史のまちしるべ標柱一覧」より
旧穴水町:加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた。(長町3丁目・長土塀1丁目)
旧芳斎町(現在の地名は芳斉町になっている):上杉景勝、松平忠直に仕え勇名をはせた青木新兵衛芳斎が、三代藩主利常公に5000石をもって招かれてこの地に住んでいたので、のち、この名で呼ばれた。(芳斉2丁目)
「斉」は齊の略字 斉、齊 - まったくの別字
旧宗叔町:元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。(玉川町、芳斉1・2丁目)
旧三構:もと高厳寺前といったが、これを光岩寺とも書き、のちに光岩前を略して「みつがんまえ」と呼んだことからこの名がついたといわれる(芳斉1・2丁目)
旧大隅町:加賀藩の老臣、長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、新(荒)屋敷、新家中と呼ばれていたが、明治になってこの名がついた。(中橋町)
参考文献:「百万石遠望」復刻 石川県図書館協会平成5年3月発行
危うし!?兼六園菊桜
【金沢・兼六園】
今が盛りの“兼六園菊桜”は、2代目です。菊桜は、花弁数が70~200枚程度であるのに比べて“兼六園菊桜”では250枚くらいあり、また、年とともに多くなる傾向をもつといいます。初代は国の天然記念物で、高さは9mばかり花弁は300枚くらいになったといいますが、昭和45年(1970)に枯死してしまいました。今の菊桜は初代から接ぎ木をして育てたもので、国の天然記念物は解除されています。
(兼六園菊桜(学名:ケンロクエンキクザクラ)は、バラ科サクラ属の落葉高木で、分類上はサトザクラの仲間です。世界最多の花弁数を誇る桜の王様で、初代は昭和3年(1928)に当時の東京帝国大学の三好博士により、世界に類を見ない希少種であると鑑定され、国の天然記念物になりました。)
初代の原木が兼六園にあったことから”兼六園菊桜“といわれています。幕末、慶応年間に孝明天皇が前田中納言(斉泰公)に贈ったことから“御所桜”といわれていたり、大和の吉野から移されたとかで“吉野桜”といわれたことも有るそうです。他に3っの幹に分かれていた3株は鼎(かなえ)の足の形をしていて、幹は七五三?になっていたことから“七五三桜(しめざくら)”ともいわていたそうです。
(まあ、兼六園には他に「唐傘山」が「栄螺山(さざえやま)」など、名前が幾つもある名所がかなりあります。)
2代目は、右が京都の佐野藤右衛門さんが何度も増殖を試み昭和36年(1961)にやっと成功し、昭和42年(1967)に移植されたものと、左は金沢の岡田安右衛門さんが増殖したものを市内の戸板公民館から譲られたものですが、あれから半世紀いずれも虫がつき、毎年、枝が打たれ、切口は黒く塗られ、樹木は貧弱で痛々しいのですが、さすがに菊桜の王様、花の時期がくれば立派に花を付けています。
(昨年は、左の木に花が多く付き、今年は右の木に花が異常多く葉があまり目立ちません、花が異常に多いのは問題かもと聞いたことがありますが、素人なのでよく分かりません。いざという時のため兼六園では、事務所横で”後継木”を育ててはいるものの、毎年楽しませて戴いている者としては、ちょっと心配です。)
(右の切口、痛々しい)
兼六園菊桜の特徴は、外側の花弁が淡紅色で、中心部は濃紅色です。落下するまでの間に3度も色を変えます。蕾の時は深紅、咲き始め薄紅、落下時は白に近くなり、花期が過ぎると花ごとポロリと下に落ちます。また、葉は幅の広い楕円形で、互い違いに生えます。
(菊桜は八重桜の類ですが、花弁がおおむね70枚以上になるものを“菊桜”と呼ぶそうで、石川県内には、菊桜が特に多く「気多白菊桜」「阿岸小菊桜」「火打谷菊桜」「名島桜」「善正寺菊桜」「来迎寺菊桜」等の菊桜が知られています。)
金沢・兼六園以外にも“兼六園菊桜”あります。
金沢・尾山神社、昭和10年頃、積雪により折れた兼六園菊桜の枝を,当時兼六園園丁であった方が,涌波町の方に接ぎ木を依頼し成功したもので、尾山神社に2本寄進されたものです。
他、東京の新宿御苑に、金沢の兼六園の“2代目兼六園菊桜”から株分けされたものです。大阪・大阪造幣局の兼六園菊桜は、有名な造幣局の桜の通り抜けにあります。
参考文献:「百万石太平記」八田健一著 石川県図書館協会・昭和39年7月発行ほか
今も昔も、兼六園時雨亭辺り
【金沢・兼六園】
今の時雨亭は、平成12年(2000)に長谷池のそばに建てられたもので、吉徳公の時代の平面図にあるのは、8畳と10畳の座敷2間に、1畳台目の「御囲」と呼ばれる小さな茶室があり、控えの間4室と勝手の間で、およそ64坪(約210平方メートル)の建坪ですが、復元された今の時雨亭は、庭側の8畳と10畳、そして御囲(茶室)は当時の平面図にあるものです。
他の部屋は、お茶会や休憩に使いやすいように新たに造られています。全て当時の時雨亭をそのまま復元する案もあったといわれていますが、今の設えは、旅行者にとっても、あまり気を張らずに、和室でしみじみ茶を喫し、落ち着けて、自分を振り返り、日本の美を、そして金沢の歴史も共有出来る素敵な空間になっています。
時雨亭は、はじめ5代藩主前田綱紀公によって、延宝4年(1676)に今の噴水前に建てられたかなりの規模の建物で、台所もあったと思われる「蓮池之上御屋敷」と1町ばかり離れたところに数奇屋の御亭があったといわれています。元禄9年(1696)には、当時、二の丸御殿が造営中ということから綱紀公が居住し政務を執ったので家臣から「蓮池之上御殿」と呼ばれていたそうです。
(今の時雨亭)
「蓮池之上・・・」という表現は、蓮池庭成立の初期「蓮地の高」あるいは「蓮池の上」の名を付けて呼ばれていたといいます。兼六園の城の近くに位置する蓮池庭は蓮池堀(百間堀)より上段の台地であったことから「高」とか「上」を付けて呼ばれていたそうです。余談ですが、綱紀公が、蓮池を「はすいけ」と呼んでいたことを示す親翰があるそうです。
(この前に蓮池之上御殿がありました。当時は噴水はなし)
その後、「蓮池上御亭」とか「蓮池御亭」と呼ばれ50年間存続し、享保10年(1725)6代藩主吉徳公の時代に取り壊され、規模を小さくして建て替えられ「高の亭」「時雨亭」と呼ばれ、明治の初めまで約150年、補修をしながら存続したといわれています。
明治の初め、金沢理化学校として使用されたらしく、昭和の時代には、今、「時雨亭跡」と書かれた立札が「理化学校跡」と書かれていました。“学校”という何か場違いな感じがしていたのを思い出します。兼六園は、このように同じ場所なのに名前が幾つも有るところがあり、時代の変遷を伝えてくれます。
昭和の中頃まで、今の時雨亭の場所に、県立図書館があり、私が通い始めたのは小学校3・4年頃、当時はどんよりと暗い長谷池が見える児童用の図書室へ、本を読む習慣もなく、当時、無料で入園できた兼六園を走り回った後に一休みに寄っていました。それが、中学から高校まで続きますが、暇つぶしと悪童のたまり場で、本をじっくり読んだ記憶がありません。
(芝生の辺りは児童公園でした。)
お隣の庭は、児童公園でした。小学校の頃はブランコに滑り台。中学からは、やる事から逃げまくって、猿の檻を飽きても眺め、友と群れて藤棚の下で誰を待つわけでもなく、場所を独占して日がな一日ぼんやりと戯言をいって過ごしていたのが思い出されます。
(真ん中の木の後辺りに猿の檻が・・・)
今は散歩コースで、年に250日以上はブラつきます。いずれにしても、兼六園は、今も昔も・・・、オイて尚コイをオイ、通い詰め、降られ振られて、これからも、歩ける限り・・・飽きることなく・・・。
(兼六園の池のコイ)
参考文献:「兼六園を読み解く―その歴史と利用―」長山直冶著 桂書房、2006発行ほか
三構橋から木揚場まで≪鞍月用水⑦≫
【芳斉町→中橋町】
三構橋から歩道が左岸に変わり、勝尾橋まで右岸の家々の私設の橋が5橋、勝尾橋より昭和通りまで7橋もあり、どれが道路に繫がる橋かよく分かりませんが、資料によると公のものと思われる橋は”六枚二の橋””六枚一の橋“とあります。
(勝尾橋より下流の私橋)
勝尾橋は、昔の勝尾町にあり、人持組の加賀藩士勝尾左近の屋敷があったことによります。昭和40.9.1に昭和町、芳斉2丁目、古地図参照
(安政年間の古地図・左下に勝尾家がある)
今の鞍月用水は、昭和通りの脇にある鞍月用水水門管理棟から二筋に分かれ、金沢駅方面に向かい鞍月方面へ。この金沢駅方向への流れの多くは北陸自動車道辺りまで暗渠になっています。もう一方の中橋町方向の流れは、下の大隅橋付近で大野庄用水と合流し旧古道木揚場に向かいます。
(昭和通りまで)
(鞍月用水水門管理棟・この後私橋が続き志んかわ橋、古道橋と続く)
藩政期には、今の六枚町交差点辺りに「折違橋(すじかいばし)」があり、道路が曲がっていたので橋を”すじかい(斜め)“に架かっていたので折違橋と呼ばれ、その辺りの町の名前も、始め折違橋町といい後に折違町としました。現在ある折違橋は、場所も違い昭和53年(1983)に大隅橋の上流の橋として架けられたもので、昔の”折違橋町”に由緒する橋とは別のものです。
JRの高架下辺り、大隅橋を過ぎると「大野庄用水」と合流し、水嵩が増え「旧 古道木揚場」へ、ここは今の金石港が“宮腰港”と言われた頃、港に揚がった主に木材などの荷は「木曳川」を舟で上ってきて、ここで陸揚げし安江木町に運ばれたと聞きます。
(明治はじめの地図・鞍月用水と大野庄用水が繋がっていないのでは?)
(古地図や明治以後の図に、鞍月用水が大野用水と合流していないものもありますが・・・?)
旧古道木揚場の上(かみ)の「深川橋」からまた二筋も分かれ、合流した「大野庄用水」とともに、その下(しも)から「樋俣用水」と「木曳川」という名前に変わって流れていきます。
(大隈町は、加賀八家の長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、“あら屋敷”とか“新家中”と呼ばれていたところですが、明治2年町名となり、昭和41.9.1に中橋町に、町名は宮腰往還を横切る3本の用水に、三つの橋が架けられその中央の橋を中橋と呼んだことから、中橋町としたと聞きます。)
参考文献:笹倉信行著「金沢用水散歩」1995・4・20十月社発行他
古地図で巡る浅野川右岸
【常盤町→ひがし】
常盤町の石川県青少年総合研修センター(石川県青年会館)がスタートの“古地図で巡る浅野川右岸”をガイドすることになり現地に下見に行ってきました。石川県青少年総合研修センターは鈴見橋と常盤橋の間の浅野川に面した高台にありますが、安政年間に作成された古地図には何も描かれてないため慶応3年(1867)に開発された時に描かれた卯辰山開拓の絵図を参考に歩きました。
(安政年間の古地図)
(青年会館より浅野川上流、鈴見橋が見える)
(石川県青少年総合研修センター(石川県青年会館)は、明治38年(1905)に移転開設された「小野慈善院」の旧地です。)
≪小野太三郎と小野慈善院≫
小野太三郎は、幕末、金沢藩に仕えた小者組で、元治元年(1864)の飢饉のとき、貧しく飢えた人々に持ち金をすべて施し、明治6年(1873)木ノ新保に家屋を購入し本格的に施設救済を個人で始めています。維新後は、士族などが売り払った食器や家具、古着などを修理し販売するなど古物・古着商として財をなし、その私財をすべて救養所の運営に充て明治23年頃には、施設救済者、金銭援助者を合わせて400人に至ったといいます。町の人たちも、困窮した人は小野太三郎の小野救養所が何とかしてくれるという思いを持つようになりますが、小野太三郎の晩年、その救養所の運営を維持していくには氏だけでは手には負えず、日露戦争の戦勝を記念して施設を卯辰山の地に移転し、「財団法人小野慈善院」となりました。昭和になると再び移転し、現在は「社会福祉法人陽風園」として引き継がれています。
(小野慈善院跡、石川県青少年総合研修センター(石川県青年会館))
小野太三郎氏は、かって「知事の名前は知らなくとも小野太三郎の名前は知っている」といわれた人物で、明治38年(1905)に事業を財団法人化するまでには延べ1万人余を独力で救済し社会福祉事業を個人として日本で最初に実践した人物です。
≪常盤橋から天神橋≫
幕末、14代藩主前田慶寧公によって加賀藩領内の自立を目指した”領内富国強兵“の拠点として卯辰山が開発されました。明治2年(1867)に発行された「卯辰山開拓録」によると、粒谷町および常盤町が新たに町立てされ最新の工場群が立ち並んだと書かれています。
(卯辰山開拓録の天神橋界隈)
(卯辰山開拓録の粒谷町常盤橋界隈)
常盤町
産物集会所、生産店、揚場、錦絵所、鏡製造所、錫細工所、化同金製造所、錦手陶器所、水機織物、唐紙地製造所、紅染所、製油所、製綿所、製紙所、綿羊小屋
粒谷町
綿糸製造所、晒蝋所、陶器所及び陶器窯、大茶園
卯辰山開拓については、「卯辰山開拓(その1~その5)」参照
「卯辰山②卯辰山開拓(その2)」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11550737519.html
(帰厚坂)
≪帰厚坂から観音院≫
卯辰山開拓に際して拓かれた帰厚坂を途中より旧階段を登り観音院跡へ(現松魚亭など)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11151914929.html
≪蓮如堂から宝泉寺≫
巨大な蓮如上人の立像は、大正末期から七年間かけて昭和7年(1932)に完成されたもので、その後、御堂が建てられました。毎年4月25日には蓮如忌、10月には報恩講が行われています。
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11154606806.html
≪子来坂からひがし茶屋街≫
子来坂の下の石柱には、慶応3年(1867)の開拓に人夫が日々、数千人がこの道より登ったので子来坂(コギ坂)だと書かれています。一説には、この坂の上に、開拓の時、集学所(小学校)が出来、子供達がこの坂から通学したためというのもあります。別名“乾坂“というそうですが、卯辰神社(天満宮)の”戌亥(いぬい)“の方角に有るということなのでしょうか?)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11647595801.html
兼六園の曲水と杜若(カキツバタ)
【兼六園内】
兼六園の曲水は、山崎山の麓の岩間から花見橋へ、板橋から大きく湾曲する水路はU字形をなし千歳橋へ流れ、旧竹沢御殿の書院前だったという雪見橋や雁行橋が架かる七福神山辺りを抜け、旭桜袂の橋、月見橋、そして虹橋の下を潜り霞ヶ池へ、その長さは574mだそうです。
(曲水が整備されたのは、12代藩主斉広公が文政5年(1822)に竹沢御殿造営した時といわれ、はじめは山崎山から七福神山へ、後に、竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池を掘り広げ、曲水を大きく湾曲する流れに整備したのは、13代藩主斉泰公でした。)
杜若(カキツバタ)は、曲水の3分の1に当る約190mの両岸に1万株4万本が植えられています。植え込みは花見橋から板橋を経て千歳橋までと旭桜の袂の橋から虹橋の少し上流の小さな滝まで、七福神山辺りには杜若はありません。七福神山辺りは、ほとんど竹沢御殿造営時のままといわれ、曲水の護岸は石が組くまれ、雪見橋や雁行橋、雪見灯籠、蹲踞石などが配置され、千歳台に変化のある景観を創り出しています。(「巣ごもりの松」の下の灯籠は後のものらしい)
(七福神山)
(雁行橋辺りから曲水から千歳台を望む)
(七福神山は、七福神に見立てた自然石を配してあることから、この名が付けられたそうで、福寿山ともいうそうです。自然石は、恵比寿、大黒天、寿老人、福録寿、布袋、毘沙門天、弁才天になぞらえたともいわれ、中央にある主木の赤松は、鶴が巣をつくったことから、「巣ごもりの松」とも呼ばれています。)
兼六園の庭園内には、縮景という琵琶湖や親不知などの名勝を縮小して写したものや、「石橋(しゃっきょう)」のように、謡曲の情景を見る者に連想させる仕掛けがありますが、「杜若(かきつばら)」も謡曲の三番目物で在原の業平所縁の「旅僧と杜若の精の話」の縮景だそうです。
この時期、花を愛でながら、いずれ菖蒲(アヤメ)か、杜若(カキツバタ)と迷っているうちに、謡曲「杜若」に出てくる夜明けと共に消え失せた美女の姿がよぎるという、粋な仕掛けなのでしょうか・・・。
夜明けといえば、兼六園の杜若(カキツバタ)は、開花の時ポンと音が出るといわれていて、例年、薄暗い夜明けの開花時に曲水の辺には待ち焦がれる人の姿が見られます。音が聞けるかどうかは知りませんが、耳を澄ませて水辺で待つのも楽しみのひとつです。私も何度かやりましたが、根気が無くて諦めてしまいました。
古地図めぐり―金沢・高岡町界わい
【高岡町→南町→上堤町】
高岡町は、延宝年間、安政年間の金沢の古地図や残された記録等によれば、南北に延びる北国街道の石浦町、南町、上堤町、下堤町と東西は西外惣構の間に位置し、石浦町の小路“紙屋小路”から下堤町の小路“中川入口小路”までが町域であったようです。その全域が武家地で、藩政期は、町奉行支配の町地ではないため、長町や彦三、出羽と同じように通称として“高岡町”と呼ばれていたものと思われます。
(東西内惣構は、2代藩主前田利長公が高山右近に命じて慶長4年(1599)につくられせたといわれています。さらに、慶長15年(1611)には3代藩主利常公の命で家臣の篠原一孝が東西外惣構をつくりました。)
延宝5年(1677)の侍帳によると、「高岡町近所今枝内記」「堤町西後中川八郎右衛門」「前田備後近所前波加右衛門」など家臣名の右肩に屋敷の所在地が記されたものもあり、その頃には”高岡町“という呼称が存在したもの思われます。(研究者から戴いた史料より)
町の成立は、慶長10年(1605)と16年(1611)の2度に分け、越中高岡に隠居の2代藩主前田利長公が、越中高岡の家臣の引越しを命じます。記録のよると前田美作以下39名の高岡衆が金沢に帰ることになり、その居住地にあてられたことから高岡町と呼ばれたと伝えられています。
古地図を見てもほぼ全域が武家地ですが、文化8年(1811)の金沢町名帳の高岡町には、組合頭の表具師で太鼓役者紙屋喜右衛門など7人の町人と割場付足軽藤岡幸作が記載されています。もう一軒の表具師杉本屋善助、白銀細工の水野源六、柄巻師鞘巻屋義兵衛、江巻師並質商売の小松屋長蔵、御医師桜井了元、魚・鳥商売若山屋善四郎が見えます。
(前田土佐守家の屋敷跡門前口47間5尺、南側70間2尺、北側54間3尺)
(加賀八家の解説・前田土佐守家屋敷跡北側にあります。)
安政年間の古地図によると、紙屋小路から中川入口小路までに、藩士の屋敷が約50家あり、その内、人持組が16家、加賀八家の前田土佐守、今枝内記、中村式部など大身の屋敷跡や漢学者毛受三叔の拝領地が見えます。
(漢学者毛受(めんじゅ)三叔の拝領地)
(四ツ屋橋と村井家屋敷跡)
(小堀家屋敷跡)
(中川式部屋敷跡)
≪前田利長公の晩年≫
2代藩主前田利長公には男子がなく、異母弟の利常公を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居します(隠居領は新川郡22万石)。幼い利常公を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努め、慶長14年(1609)富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移りました。城と城下町の整備に努めますが、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れ、隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていきます。
慶長18年(1613)には豊臣方より織田左門が訪れ勧誘されますが、利長公は、「・・・もし徳川家が秀頼公に対し異心があれば、私は必ず命に従い、隠居領の人数を残らず秀頼公に捧げますが、筑前守(利常)は愚息とはいえ徳川家の婿なので、どう動くかその心中は察しがたい。」と話したといいます。
≪前田利長公の命日は旧暦5月20日≫
慶長19年(1614)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許され旧暦5月20日に高岡城で病死しますが、服毒自殺という説も伝えられています。享年53歳。高岡に葬り、のち利常公が菩提寺として国宝瑞龍寺を整備します。
参考文献:「金沢古蹟志」森田柿園著・「日本地名辞典」平凡社・「金沢町名帳」ほか