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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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思い立ったがカメラ入門

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【金沢・長田町2丁目】
昔は撮るより撮られるもだと思っていました。たまに撮る時も会社のものか妻のものを借りて、絞りを合すだけにしてもらい撮っていました。最近では、押すだけでキレイに撮れるスマホのカメラで充分だと思っていましたが、プリンターが壊れて、テレビの通信販売で、得した気分からカメラ付きのプリンターに飛び付きました。



(クリツー集合、少し早く未だ半分しか集まっていません)


カメラがくるとすぐ撮れるように、いつも首からぶら下げていると、いい年をして”カメラ小僧“みたいやとカラカワレたりして、それでも、かえって嬉しくて、でも撮る時は全てオート。スマホ並みの撮り方しか知らなくて、また、たま~にまぐれで川柳的な写真が撮れても、俳句的な写真は全く撮れませんので、少し勉強をと思っていた矢先、金沢クリエーティブツーリズムで写真家鈴木心氏のアトリエ訪問が企画されたので、飛び乗りました。



(鈴木心氏の金沢のスタジオ)


申し込んだとき、“エエ、あなたが!!”みたいにいわれ、何が!!と思っていましたが、参加すると殆どが20~30歳代で、子どもより年下の先生から気を遣われて“おじいさん”というべきところを「オトウサン」をいって戴き、やっと場違いなところに来たことに気付きました。



(集合写真撮影)


はじめに参加者を2組に分け集合写真を、レクチャーは、先生の仕事に対する姿勢・・・。アートとコマーシャル、ワークショップ、出身地のふくしまに分け、あいだに金沢との縁や趣味、今、関心のあることなど和やかに分かりやすく話されました。中でもアートについては、好きでやっているのだからという事から、ノーギャラか実費で、ということや、写真展も“写真店”というジャンル?でやっていること、ネットで無料ダウンロードが出来る写真が数万枚(ハッキリした数字は忘れました)も露出していること等々”若いから“というか”若いのに“と感服しきりでした。



(プラチナの印画紙で焼いた500年ものの集合写真)

(プラチナの印画紙作成)

次のプログラムは、手作りのプラチナ(白金)の印画紙に、皆さんと並んで撮って戴いた白黒の写真のプリントです。従来の銀板でなくプラチナ(白金)の印画紙を使うと500年は退色しないというのが特徴で、そんなに長い間、誰が保存してくれるのだろうと思いながら慣れない作業を多少興奮しながら楽しみました。




(スタジオで)

最後は、うまく撮れるお話です。これはセンスですからどうにもならないところも有りますが、少しは良くなる”チョットしたコツ“を知りたくて来たのですから何が何でも聞き出したいと思っていましたが、当たり前の忘れていたことに気付かされて帰ってきました。答?それは、少なからず元手が掛かっているので秘密にしますが、これからの私の写真が答えてくれると思います・・・。秘密だなんて、すみません。いい年をして私は何と器が小さいのでしょう。



(先生にサインを戴きました)


若い鈴木心先生が、ダウンロード無料といっているのに・・・。


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高峰譲吉博士③ルーツ

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【高岡→金沢】
高峰家は、足利時代、現在大阪府和泉市の和泉の郡宰(郡奉行)の高峰刑部を初代とし、2代目仁左衛門、3代目慶庵は医師で京、江戸で医術を学び福井の松平家の侍医になります。国替えで越後高田へ移り、4代仙庵、5代元稜、6代幸庵、7代幸伯と代々医業の家だったそうです。



(高岡の譲吉博士の生誕の地)


8代目(高岡初代)高峰幸庵は、京、江戸で学び、眼科を専門としながら、ヨーロッパの医療器具に関心を持ち、自らも製造しています。文化11年(1813)に高岡に初めて蘭医学を伝え開業し薬剤の製錬法を教示していました。



(高峰家の家紋矢車)


高岡の町では名声が高まり1日に1000服の薬が出るほど繁盛し、同業の嫉妬から、他国者の永住を許さない藩の制度から訴え出るものまででるようになりました。そんな中で高岡の有力者たちは、何とか高岡に残ってほしいと奔走し、高峰家も日蓮宗から臨済宗に改宗し国泰寺の寺侍の扱いとなり、藩の制度に触れることも無く御馬出町に住むようになりました。

(高岡の高峰家跡の解説文)


その8代目幸庵には子がなく、高田の人長野金次右衛門の娘トキ子を養女に、後に松井利右衛門の子、玄台を婿に迎え高峰家を継がせています。その9代目玄台は、江戸の昌平黌で儒学を学び、後に蘭方医に転じ業を修め帰郷します。その子剛太郎が、後の10代目高峰元稑(げんろく・明治になって精一)で譲吉博士の父です。


(母は、高岡の造り酒屋(津田屋)娘ゆき(幸子)で、譲吉博士は高峰家の長男として生まれ、兄弟は5男7女の12人でした。)



(金沢寺町国泰寺、高峰家の菩提寺)


10代目元稑(精一)は、江戸で学び23歳で帰郷し医業に当たりますが、舎密(せいみ・現在の化学)も修め、安政2年(1855)壮猶館舎蜜方臨時御用に任じられ金沢に赴任し、百石十人扶持を受け化学実験に明け暮れる生活を送りますが、後に御姫様付医師になり、やがて前田家の典医に昇進します。また、慶応3年(1867)卯辰山開拓の養生所にも関わり、明治3年(1870)医学館創設とともに棟取になりました。



(金沢の国泰寺)

(国泰寺の高峰家の墓地)


高峰家の菩提寺は、金沢市寺町5丁目の臨済宗国泰寺で、高峰家のお墓には、譲吉博士の父、母、弟3人、妹3人がまつられています。譲吉博士は大正11年(1922)7月22日ニューヨークのレノックス・ヒル病院で逝去されウードローン墓地に埋葬されています。日本へは大正11年9月22日遺髪が到着し、26日青山墓地に埋髪されています。


(他、高峰家の先祖代々のお墓は、高岡の国泰寺にあります。)



参考資料:臨済宗国泰寺「国泰寺と高峰家」より

高峰譲吉博士④金沢の所縁の地を歩く

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【武蔵ヶ辻→寺町5丁目】
高峰譲吉博士は1歳の時、父の壮猶館への赴任に伴い、金沢に移り住み新竪町、南町を経て石屋小路(現エムザ裏)に転じ、長崎遊学の10歳まで過ごしました。10歳といえば今の小学校4年生。以来、金沢に定住することなかったといわれていますが、父精一や兄弟も金沢に住んでいて、記録では、大正2年には国泰寺へ墓参に訪れています。




(現エムザ裏)


≪旧高峰邸旧梅本町
前田家の本家筋前田長種家の屋敷跡の一部で、明治5年(1872)高峰家が買い取り開業医として居宅を新築しました。当時の建物は、瓦葺2階建で部屋数は11室あり、母屋の1階に診察室、2階には当時珍しいガラス戸を入れ、柱はオランダの原書を調べペンキを塗り、天井はサラサ模様の壁紙を貼ってあったといいます。後に増築された平屋は質素そのもので、現在黒門前緑地に移築されています。母屋の新築時は博士19歳、東京の工部省工部寮に行っていたころですから、もしかすると帰省した時、こここで寛いだのではないでしょうか。


(ここには、昭和の50年頃から、一時、香林坊にあった大神宮が有り、現在は駐車場になっています。)


(明治の高峰家)


(現在の高峰家跡)


≪黒門前緑地≫
平成7年(1995)まで、金沢地方検察庁検事正官舎の敷地でした。平成13年(2001)、官舎の一部と、その土塀を廻らす屋敷構えを保存するとともに、高峰譲吉博士ゆかりの家屋を移築し、公園として整備したものです。





(黒門前緑地の高峰邸)


(藩政初期は、宇喜多秀家の室“豪”の居所だといわれていますが、寛文12年(1672)以後、藩の財政や郷村機構のトップの役所の御算用場で、現在の黒門(藩政期は西丁口御門)前緑地と尾崎神社に位置し建物約350坪だったそうです。最上層は御算用場奉行、その配下に改作、郡奉行を置いていました。算用場跡は、明治に入り、暫らくの間、藩の学校や商法会社になっていたことも有ったと聞きます。)



(藩政期の御算用場)


≪明倫堂跡≫
11代藩主冶脩によって寛政4年(1792)現在の兼六園内に設立されますが、竹沢御殿の建立のため文政5年(1822)旧仙石町(現石川四高記念館)に移転します。設立の目的の一つに身分を区別しない四民教導がありましたが、実際には武士の師弟以外への開講はかなり限定があり、平士、下級武士、陪臣の師弟が多く、人数は200名~300名でほぼ一定であったといわれています。授業内容は、和学、天文学、本草学など多岐にわたるものだったそうですが、朱子学を尊重した漢学が多くを占めていたようです。譲吉博士は、8歳で入りますが、慶応元年(1866)藩が諸士師弟を洋学研修のため長崎に派遣される事になり10歳で長崎に赴きました。



(高峰譲吉の少年時代、右から2人目)

(明倫堂跡、石川四高記念館)


≪壮猶館跡現在知事校舎
ペリー艦隊の来航(1853)により幕府を始め、各藩は洋式軍備が整備されました。加賀藩も、安政元年(1854)に洋式軍隊養成学校壮猶館(そうゆうかん)を金沢の柿木畠に開校しました。高峰元稑(譲吉博士の父)は、舎蜜方御用(化学)、土清水製薬所御用、翻訳方御用兼、軍艦方御用兼帯など多くの役職に付き、明治になると精一と改め医学館の三等教諭になり、明治13年石川県富山病院の院長に就任しています。



(壮猶館跡、現知事公舎)


≪金沢ふるさと偉人館≫
様々な分野で活躍した、金沢が生んだ偉人、木村栄、鈴木大拙、高峰譲吉、藤岡東圃、三宅雪嶺等の生涯や業績を紹介しています。高峰譲吉博士の胸像は、広坂公園(現県立美術館別館)より移築したものです。


(金沢ふるさと偉人館)

(金沢ふるさと偉人館のワシントンの桜)



≪金沢一中跡≫
譲吉博士は、大正2年(1913)5月2日、亡き両親の法要のためこの国泰寺を訪れ、金沢第一中学で講演もしています。当時、寺町、大桜向いに弟の家が有ったと聞きます。



(本多町の当時の金沢一中跡)


≪国泰寺≫
臨済宗摩頂山国泰寺は、高峰家の菩提寺です。六斗の広見を挟んで玉泉寺の隣にあるためか2代利長夫人玉泉院の二十五回忌法要の折、小松から利常がお参りに訪れ、装束をここで改めたと伝えられています。境内の秋葉権現を祀るお堂は火ぶせの神として尊信されています。


(国泰寺)

(国泰寺、大正2年譲吉博士が訪れて時の記念写真)


(六斗の広見:六斗という地名は、平安時代に六動太郎光景と言う武士が住み、樹木が生い茂っていたので六動林と呼ばれました。それが転じて六斗林、六斗と言われたと伝えられています。藩政期は、幕府巡検使を出迎える場所でもありました。金沢の現存する広見として一番大きく約1,300㎡で、二番目は横山町の約1,000㎡です。


広見は藩政期、火災に際して類焼を防ぐためと防衛戦略上から造成されたものです。また、荷車の回転など庶民の生活にも活用されたとも言います。寛文7年(1667)の金沢最古の地図には、一定規模以上の広見だけで89箇所が確認でき、内70箇所が川や堀など水辺に接しており、金沢城に近い側に多く配置されています。犀川や浅野川の大橋には両側に設けられています。)


(おわり)

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「月」と「グレープフルーツ」

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【金沢・武蔵ヶ辻金沢アートグミ】
Facebookの一番若い“友達”の菊谷達史氏の個展が、金沢アートグミで開催されています。
氏は昨年、金沢美大の大学院を修了した作家で、タイトルの「月」と「グレープフルーツ」は、時系列的にいうと「月」が先で、誰もが月が美しいと思うように、直感的に捉えた外部からの刺激を消化して表現するというもので、4年間の学部までのペイングスタイルで、「グレープフルーツ」は、大学院に進むにあたり、取り組んだアプローチだそうです。いずれも明日の作家菊谷達史へのプロセスに思えます。


(画像悪くてすみません。 3月9日までやってますので是非ご覧ください。)


現代アートは、私のようなシロウトには、何時までたっても良し悪しは分かりませんが、ワクワクする発見や、意味も分からないのに感動する作品に出会うこともあります。それでも“面白いか””好きか“”興味がわくか“ぐらい止まり、感じるだけで理解には遠く及びませんが、元気を貰っています。




それにしても、いつも若い人の作品を見せて戴き思うことは、作品もさることながら、彼等の情熱と勇気に感服するとともに不安と心配が募ります。というのも作家として立つということは、才能や根気や感性だけでどうにかなるような生易しい世界ではなさそうです。何にもお手伝いが出来ないのに・・・。勝手な老婆心ですが「見る前に跳ぶ」のような危なっかしさを感じてしまいます。






とはいっても、跳ばなければ何も始まらないのですから、しっかり見てから跳んでも遅くは無いように思います。幸いにもアーチストは、「見る」ことがすべてのスタートであり、科学者よりも観察の達人であるはずですから、よく見て、危険であるという感覚を忘れず、創造性、独自性、革新性を発揮して戴きたいものです。毒も必要かな・・・。




聡明な菊谷達史氏ですから、百も承知のことと思いますが、たまに顔を見るといつもテレて、冗談しがいいませんし、また何時会えるか分かりません。実は、半世紀も歳の離れたわたくし“友達”はシンパシーを感じていて、念を押したくなって書いてしまいました。最近、ある本を見ていて“ナ~ルホド“と思ったことを、受け売りですが簡単にして書き添えておきます。




≪アーチストは≫
1、社会的にはプー太郎であること自覚すべきだ
2、世界を意識し、買い手を絞り、攻めろ
3、売れない作品は価値無し、買い手の理解を勝ち取れ
4、才能より戦略、売れる戦略を立てろ
5、ただ描くだけではなく、世間の感覚を身に着けろ
6、買い手を知り、それに応じたサービス精神を発揮しろ
7、金銭感覚を磨け


アーチストとして生きるのは、才能などではなく「自覚と覚悟」である
とか・・・。





金沢美術工芸大学・北國銀行連携事業
第4回コーポレートアート展 菊谷達史個展
月とグレープフルーツ
2014年3月9日(日)まで
会場 金沢アートグミ(北國銀行武蔵ヶ辻支店3F)
開館 10:00~18:00 水曜定休 入場無料

加賀藩の「御算用場跡」

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【金沢城外・黒門前緑地】
平成22年(2010)、磯田道史原作のベストセラー「武士の家計簿『加賀藩御算用者』の幕末維新」が映画化され、堺雅人、仲間由紀恵主演で、大ヒットを飛ばしたことは、金沢の人には記憶に新しいのですが、その舞台であった御算用場が、現在の黒門前緑地といわれる小公園のところだったことは、あまり知られていないようです。

(映画では、分かりやすさからか、主人公が、金沢城の橋爪門から登城していました。)


(黒門前緑地・御算用場跡)


加賀藩では、会計を統括する役所を御算用場といいました。そこの長を御算用場奉行といい、加賀藩独特の役職であり、郡奉行、改作奉行、御預地方御用、定見地奉行など、御算用場奉行管下諸種の役所が併設されていました。



(御算用場跡・延宝金沢図より)


映画「武士の家計簿」でも紹介されたように、役所には有能な算用者と呼ばれる実務を担当する役人が約150人。他に、米主体の江戸時代にあって、農村を取り仕切る役所の頂点として、藩内各郡の扶持人十村が交代で半月詰番があり、その代理として一郡一人づつ「番代」が常駐しています。

(御算用場奉行の定員は3人で、その内1人が“人持組“から選ばれ、他は馬廻組頭から2人任されるのが通例だったようです。)



(藩政期の御算用場)


御算用場の施設は本棟の他に土蔵3棟。建物の規模は350坪ぐらいだといわれ、敷地は、現在の黒門前緑地、尾崎神社の他、何軒かの民家がある所ですが、中世には、武佐の広済寺が有ったところで、藩政初期には、帰国した宇喜多秀家の室”豪姫”の居宅だったと伝えられています。



(尾崎神社)




(黒門前緑地)


御算用場は、藩政当初は、現在のしいのき迎賓館(旧県庁)のところにあったといわれ、万治2年(1659)頃に、現在の尾山神社(金沢城金谷出丸の金谷門外)のところへ、寛文12年(1672)に、現在の黒門前緑地(金沢城西丁口門前)に移り、以後明治まで続きます。



(黒門前緑地門内・工事中の塀)


明治2年(1869)御算用場は廃止され、その地は、尾崎神社と現在の黒門前緑地のところは西町軍艦所、尾山病院、検事正官舎と移り変わりました。


 

(元検事正官舎)


(加賀藩の十村制度は、3代利常公が実施した農政改革”改作法“から発生した制度で、寛永年間に加賀藩では、すでに出来上がっていた十村肝煎―村肝煎の体制を利用し、慶長9年(1609)、侍代官を廃止し、十村を代官に任じました。そして一部の者に扶持を与え、鑓(やり)・馬の使用あるいは苗字・帯刀の使用を許します。十村ほど(10とは限らない)を管理する大庄屋兼代官のことです。これにより、御算用場-郡奉行―十村―村肝煎に一元化し、農村支配を強化しました。詳しくは何れ・・・。)

算用者猪山家≪金沢≫武士の家計簿より

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【金沢市内】
「武士の家計簿」は、磯田道史氏が発掘した金沢藩士猪山家文書の入払帳のことで、猪山信之(祖父)、直之(父)、成之(子)の3代にわたる天保13年(1842)から明治12年(1879)までの約37年間、日常の収支から冠婚葬祭の費用までを詳細に記録したものです。




(猪山家の極楽寺)

(猪山家の氏神様神明宮)


これは、ただの古文書ではなく、猪山信之が、ソロバンの能力を買われ出世するが、江戸と金沢の二重生活を強いられ、先祖の勲功で給与が決まるという当時の実力主義とは程遠いシステムと身分費用の増大から生じた借財の山を、息子の直之が一念発起して家財道具を売り払い、債権者と交渉して借金の整理に成功するという話で、実話らしい、物語からは幕末から明治維新の社会の変動、さらには猪山家の生活やその変遷が浮き彫にされています。


(安政年間の犀川界隈)


著者磯田道史氏によると、「古文書を調べるにつれて、この家族の経験した歴史が次第に浮かび上がってきた。驚いたことに、猪山家は幕末から明治・大正の時点で、金融破綻、地価下落、リストラ、教育問題、利権と収賄、マスコミ被害など、現在の我々が直面しているような問題をすべて経験していて、すさまし社会経済の変動を生き抜いた「ある家族の生活の歴史」が缶詰のように封じ込められていたのである。」と書かれています。

(猪山一族の墓がある極楽寺)


前回、御算用場跡を書き、その時、知人から「ポプラ」を掲載したらと、猪山家を書くことを勧められ、数年前、本も読み映画も見たので、ついついその気になって書こうと思い、2冊の本を読み返しました。またまた嵌り、よくよく考えたら下手な解説を書いても始まらないこと自覚しました。
(興味のある方は是非お読み戴ければ思います。面白いョ・・・。)




(旧古寺町(養智院前)の147坪の猪山家跡)


武士の家計簿
「加賀藩御算用者」の幕末維新
磯田道史著 発行所株式会社新潮社 2003年4月10日発行


加賀藩御算用者
猪山直之日記
石崎建治著 発行所時鐘舎 2010年10月25日発行



(仕出しを取った大野屋が有った界隈)

(亀沢町のお菓子屋や薬屋の記述あり)

(成之が書物・手習に行くといった宝来寺(小橋菅原神社)跡)



それで、金沢の観光ボランティアガイドらしく、2冊に出てくる金沢の猪山家所縁の地を写真で紹介することにします。



(猪山直之は、家の所在地を養智院前と記している)

(犀川)


明治維新金沢の士族が、何を考え、どのように生きたか!!再度読み終え、益々金沢の明治維新に興味がかき立てられました。


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参勤交代の上街道回りは十間町から

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【金沢・十間町】
十間町という町名は、家が10軒あったとか、町の間数が10間(18m)あつたからなどと伝えられていますが、金沢古蹟志によると18世紀初めには、町筋は3町2間5尺(約280m)あったといいます。



(十間町から下堤町方面)


藩政初期、十間町の突き当たり、現在の日本郵政の前で「女性の人市」が立ったと伝えています。家中、町方奉公をしたい女性が、富田家土蔵、塀の腰に集まり、求人側と給金等を取り決め引き取られたといわれていますが、寛文9年(1669)の定書では、女奉公人に立集まることを禁じているそうです。



(富田家跡(現日本郵政))

(藩政期の十間町周辺・延宝金沢図より)


文化8年(1811)の町絵図や町名帳によると、町の間数212間(約381m)あり、総家数60軒、米仲買4軒(肝煎含む)、薬種5軒、医師3軒、大阪薬種問屋宿などとあり、江戸三度棟梁の名も書かれています。


(現在の十間町)


(藩政期5代前田綱紀公の招きで当時著名な本草学の稲生若水が十間町に住み、そのためか医師や薬種関係の家が多かったそうです。)


(現在の十間町・観光バスの駐車場)

(現在の十間町・近江町の駐輪場)


米仲買が多いのは、藩政期加越能三国の米価を決め、藩米、藩士知行米の売却を業務とする米仲買座が設けられていたからだそうです。明治になり一時、米仲買座が商法会社に吸収され博労町(御算用場跡)に移りますが、明治18年(1885)に米商会所として十間町の戻り、明治26年(1893)株式会社金沢米穀取引所と名称が変更されました。



(金沢米穀取引所跡、現近江町パーキング)


金沢米穀取引所は昭和14年(1939)まであり、町には米相場の仲買人の店が立ち並び活気を呈したといいます。米相場は一面で投機、ぼろ儲けも有り代わりに一攫千金の夢破れスッテンテンになることもあり、ある種の危ない匂いのする町でもあったともいえます。戦後、食糧管理制度の制定により金沢米穀取引所は廃止されました。



(十間町側の近江町市場入口)


戦後は、繊維王国石川の中心地として、繊維問屋が通りに軒を連ねた時代もありました。今は、様変わりし近江町市場の広場や駐車場、駐輪場になっているところもありますが、老舗の紙問屋や旅館、古美術商が昔の面影を残しています。



(現在の十間町・老舗の紙問屋)


(現在の十間町・老舗の旅館)

(現在の十間町・老舗の古美術商と旅館)


(前田家の参勤交代:参勤(金沢→江戸)が93回、交代(江戸→金沢)が97回。合計190回、金沢と江戸の間を移動しました。この内、9回を上街道(福井回りの東海道4回、中山道が5回)181回が下街道(富山回り)を利用しました。)



(現在の十間町・古美術商の昭和始めの洋館)


参考文献:「金沢古蹟志」「稿本金沢市史」「金沢百年・町名を辿る」など

金沢城のお膝元・・・今町・中町

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【金沢・今町・中町】
今町は、中世の石浦七ヶ村の一、今市村だったとか・・・。この辺りには一向一揆の時代、凹市(久保市)や今市という市場が立ったと伝えられています。中町辺りは、藩政初期に大工の拝領地という記録もあります。町割りは東西5本の道路に対し、南北の道が直角に交差し、甲州流兵法といわれ攻めづらいように道を配した城下町金沢としては、珍しく整然とした町割りになっています。



(現在の旧中町)

(現在の旧今町)


(東西5本の道路は、東西の内惣構の内側にあり、現在の大手町(お堀通り)、旧殿町通り、旧今町通り、尾張町通り、新町通りで、現在、大手町お堀通りと旧殿町通りの間にある旧梅本町の通りは明治4年廃藩置県後に出来た通りです。)


(延宝期の中町周辺・大手町の解説板より)


(現在の周辺地図・大手町の解説板より)


今町の町名は、北陸道の尾張町に対して、新町と同じく新しく立てた町ということから”今町“と言ったと書かれたものもありますが、寛永8年(1631)の石浦郷七ヶ村氏子地図に、現在の場所から少し離れた西町あたりに今市村地が記載されています。



(石浦郷七ヶ村氏子地図より・石浦神社蔵)


明和2年(1765)の慈光院上申書(石浦山王社)によると今市村は、今は近江町の隣町にあるが退転したと申伝がありますが、明治の歴史家森田柿園の金沢古蹟志では「其の村跡少し隔つといえども其村地にてあるなるべし」と書かれています。



(石浦郷七ヶ村氏子地図・石浦神社蔵)


(石浦郷七ヶ村とは:石浦村、笠舞村、保島村、朱面野村、木新保村、今市村、山崎村で、慶長11年8月10日の石浦七ヶ村氏子連判に名がある石浦山王社の氏子を数えて石浦郷としたものにすぎないものだと、森田柿園は書いています。)



(大手町お堀通り)


(殿町通り(十間町))

(今町通り・旧上今町より)


(尾張町通り)

(新町通り)


文化8年(1811)頃の今町は、東西の内惣構の内側に位置する本町で、尾張町、新町、十間町、近江町と並ぶ金沢城のお膝元。商家は米仲買5軒、銀仲商2軒、旅人宿11軒、蔵宿商1軒、質商4軒、古手買5軒、武具商3軒、江戸飛脚所2軒のほか、十村宿、女奉公人口入など富裕商人の町でした。下今町は中町を含め47軒、上今町は山崎町を含め42軒が描かれています。



(大手門跡)


下今町の南側の中町から十間町に至る道路沿いには武家地で奥野家、佐藤家、富田家の大身の屋敷が連なっています。前にも書いた「元治の変」の松平大弐の屋敷が、中町東側の角、現在のNHKのところにありました。


(明治19年(1886)には佐藤家の屋敷跡に豊国神社が遷宮されたが、明治40年(1907)に卯辰山に移りました。)



(NHkから大手門)


中町は、大手門(尾坂門)に繋がる主要な道路ですが、前にも書きましたが、この辺りは一向一揆時代は小坂村で、旧跡には小坂神社が有ったと言う説もあり、藩政初期、金沢城下の町が広がり、小坂村(オッサカ)は現在の大樋口に移転させられ、小坂神社も春日山の現在地に移転したのだと伝え聞きます。



参考文献:「金沢古蹟志」「稿本金沢市史」「金沢百年・町名を辿る」など

明治維新の金沢①

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【金沢市内】
藩政中期から後期にかけて、日本の人口は3000万人~3200万人だといわれていますが、その内武士階級は約6%だといわれています。金沢の町は、その武士階級が約50%と国内の他の城下町と比べてみても極めて特異な人口構成の町でした。今回から明治維新を迎え、武士階級が約半分という町だからこその混乱ぶりを、昔、書かれたものから抜書きしながら検証します。


(明治の日本の人口:明治5年(1872)1月29日 (1872年3月8日) 33,110,825人壬申戸籍 (全身分対象) 男16,796,158 人 女16,314,667人)



(夕暮れ、NO~、金沢の夜明けです)


藩政期。江戸、京都、大坂の三都を除くと日本最大の人口を誇った金沢でした。明治4年(1871)2月金沢の戸数24,744戸・人口123,363人で、その内士族4932戸2万6028人、卒族(後に士族に含まれた)4607戸2万6888人、平民1万4907戸6万8810人、元神官39戸139人、寺院259戸1032人、御預人466人で士族、卒族で約43%でした。


(藩政期金沢藩(加賀藩)では、金沢の人口調査は数え15歳未満は含めていなく、その結果、正確な人口が分かりませんが、推定で元禄時代すでに10万人を超えていたといわれ、幕末には12万人以上であったといいます。実質的には町会所支配以外の奉公人(村支配の近郷からの奉公人)などを含めると20万人は超えていたという説もあります。)



(金沢の青空)


明治前期から中期、金沢の町は著しく衰退し、明治20年代(1887)には10万人を割り、明治30年(1897)には81,352人まで減少してしまいました。しかし、翌年、鉄道の北陸本線開通当りから増加に転じ、大正7年(1918)には15万人、昭和18年(1943)には20万人を超え、町村合併もあり昭和55年(1980)には417,684人になりました。

(現在462,470万人、全国34番目 2014年2月1日)




(金沢のおんな川、おとこ川)


(明治4年(1871)の人口は、まだ、東京、大阪、京都に次ぐ全国4番目でしたが、廃藩置県により国の体制の移行にともない、その年の秋から約1年間、県庁が石川郡の美川に置かれたことなどから金沢の衰退が始まり、金沢の人口が名古屋に抜かれるのは、明治8年(1875)~明治10年(1877)頃で、明治12年(1879)名古屋の人口は111,783人、金沢は107,876人でした。その後、明治20年(1887)には、横浜・神戸の両都市に抜かれ、明治27年(1894)には、ついに広島にも抜かれ、国内第8の都市に転落していきます。)



(金沢城の石垣)


明治18年5月の京都の日の出新聞には、北越より帰来人の談として「石川県の疲弊困窮は実に名状すべかざるものあり、輪島の漆器、九谷陶器などの工芸品は全然さばけず金沢の人口95,000人の十分の一は其の日の暮らしにも差しつかえる貧民なり、近来乞食の数を増し毎朝群をなし横行、其の惨状見るに忍びず」と報じているそうです。


(金沢城の菱櫓)


明治30年(1897)6月。「日本之下層社会」の著者として有名な横山源之助は金沢を訪れ、「金沢瞥見記(べっけんき)」という小文を「毎日新聞」に寄せています。その中で、横山は「曰く巡査、曰く芸娼妓、曰く小学校教員、即ち是を金沢の三物産なり」と述べています。


(これは当時一般的な評価だったようで、「石川県史」(第四編)も出典は明示していませんが、士族の「青年の男子は他県に赴きて巡査となり教師となり、妙齢の女子は辺鄙(へんぴ)に流浪して芸妓になり娼婦となるもの多い」とおなじように伝えています。)




(長町武家屋敷界隈)


百万石という大藩であったために抱えていた武士(卒族も含め)も約1万5000人と数も多く、藩政期、国内の武士数は約34万人に対し明治の軍隊は西南戦争時約4万人、日清戦争時約8万人と武士の再就職は難しく、金沢では失業者が続出します。金沢では失業者が増え、なれない武士の商法で、彼らにとって悲喜こもごもの明治維新になり、その大半が没落していったといいます。



(前田家の家紋、剣梅鉢)


次回からは、何回か前に書いた磯田道史原作のベストセラー「武士の家計簿」“加賀藩御算用者の幕末維新”には当時のことが、かなり具体的に書かれているので、それも含めて当時の武士の様子を拾ってみます。



(つづく)


参考文献:「加賀藩史料」「石川県史」[武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新]」「加賀藩御算用者猪山直之日記」など

明治維新と金沢②武士から士族へ

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【金沢市】
廃藩置県により、明治4年(1871)7月14日金沢藩が終わり、8月12日、15代藩主前田慶寧公は東京へ去ります。翌月新政府より薩摩出身の内田政風が金沢県大参事として県政に当り、県庁も金沢ではなく、金沢県の県土の真ん中という建前から能美郡と石川郡の郡境手取川河口の本吉に、能美の「美」と石川の「川」を充て美川と改名し県庁が設置されました。



(石川門①)


(版籍奉還から2年後の明治4年(1871)7月14日(1871年8月29日)に、廃藩置県が施行されました。主な目的は年貢を新政府で取まとめ、中央集権を確立して国家財政の安定を図ること。全国34万人(武士階級全体で200万人)の藩士の大量解雇。全国の徴兵権・徴税権を中央に集中させ、各府県へは官僚(府知事・県令)を派遣し,中央集権体制の土台とし、それにより、幕府から引き継いだ政府直轄領860万石では何にも出来なかった新政府は、他の2140万石の徴税権を藩から取上げ徴税権は国に移しました。廃藩された藩は261藩。生まれた府県は最初3府302県。明治4年(1871)末までに統廃合を行い3府72県に、現在の都道府県は、1都1道2府43県、総数は「47都道府県」です。)


(石川門②)


新政府にとって加賀百万石の金沢は面倒なところで、士族・卒族が残り、かって対立した薩長に対しての不満を抱くものも多く、さらには士族・卒族は禄を削られ、それらの不満爆発を避けるため美川に県庁を設置したといわれています。



明治4年(1871)12月18日には、士族・卒族であっても官職のないものは、農工商を営むことが許され、身分制度の崩壊が進みはじめています。「武士の家計簿」では、金沢の猪山直之が東京の息子成之に送った手紙に特権が失われていく武士の様子が書かれているので引用します。




明治5年(1872)春の書簡では、犀川の河原相撲で見物客の荷物を預かる雑役夫に士族がいるのを見ます。夏には犀川橋詰めで唐キビやドジョウの蒲焼を焼いている士族に出くわし、その頃はまだ家禄が支給されていましたが、食べていけず、まだ特権を奪われる前というのに自分から庶民になり下がっていると嘆いています。



(黒門前緑地・猪山家が代々勤めた御算用場跡)


さらに秋、士族は町人や卒族からも町で無視されます。藩政期、猪山家でも叶わなかった乗馬で町を通行出来る上級武士だけの特権が、前年、平民も乗馬を許可されたことから、直之は、乗馬の平民に押し退けられて、面白くなくて「文明開化とは左様の事を申す候や、と存ずること也」と嘆く・・・。




禄高は低かったとはいえ、幕末、藩主の側近で、廃藩置県後は非役ですが、版籍奉還後、華族前田家の家令として前田家東京邸の最高位の待遇を受けた猪山直之の心を、大いに傷つけたのは、県庁の官吏による無視であったといいます。前田家が藩知事だったころは、非役で役所に出なくても天下国家や藩の政事を担う一員であるという意識が強かったが、今は県庁の役人に相手にされないことから「最早、我等如きは日雇稼も同断」と書き、いじけています。


(五十間長屋と橋爪門)


この様に、維新は藩が崩壊するとともに、藩政期の秩序、身分、文化も、武士であることの特権もプライドもアッという間に崩れ”武士は食わねど高楊枝”という皮肉か誉め言葉か分かりませんが、現実、楊枝など暢気にくわえて居れなくなったのは確かです。




その頃、藩政期ソロバン侍と蔑まれていた猪山家は、藩の崩壊後、そのソロバンが新しい時代に重宝され、息子成之は東京勤務の海軍主計官で超高給取りに、由緒や家柄だけで生きてきた同格の藩士とは年収30倍という大きな差をつけるようになっていました。



明治5年(1872)の段階では、まだ家禄が支給されていましたが、金札で支給されています。金札1両が約6割に落ち込み、米も諸物価に比べ暴落します。しかし野菜魚類、大工の工賃や日雇い賃金は変らないのに米価だけ下がり、やがて米価は4割に下がり、諸物価はそのまま、士族の実質収入は4割になり、直之は「士族は、いずれも口説かぬ(嘆かぬ)者はない」と語り「何の役に立たない士族に家禄を遣わすのは、費えのように思い、いくら士族が難渋するもお上(政府)は頓着なしと察しられる」と記しています。




今日では意外に思われますが、戸惑っていることに、明治6年(1873)の太陽暦の採用があります。旧暦の暦が行動の指針でもあった直之は「今、一両年の内には、まるでヨウロッパ同様に相なるべく候。定めてお上(政府)は華士族も廃し、四民同体となし、米屋を廃し、麦作のみにてパンを喰わし、官員に限らず筒ダンを着せたき思し召し」と書き、士族廃しの噂に、少し勘違いをしながらも動揺し覚悟もしています。・・・詳しくは「武士の家計簿」をお勧めします。




明治9年(1876)8月、全華士族に対して家禄に応じて金禄公債が交付され、徳川300年の及ぶ家禄が廃止されました。秩禄処分です。秩禄とは、家禄と維新功労者に対してあたえられた賞典禄を合わせた呼称で、以後金沢では、さらに士族の生活が苦しくなっていき、人口は減少し、町そのものが没落していきます。




(復活の兆しは、明治31年(1899)の北陸本線の開通と軍隊の増強まで待たねばなりません。そのような現象から町の成立の根底は、百万石というイメージや看板や精神論だけでなく、ここに住む人々の利害の共有抜きにはありえないことを教えられます。)



≪秩禄処分≫

金禄公債の起債の年は、明治10年(1877)。公債を受け取る士族は、全国で34万余人、公債発行額は1億7,000万円余(3兆4,000億円(1円を現在の2万円として))で、5年据置き後30年内に償還することに定められていました。1人平均600円弱(1200万円)です。金沢藩では1万4800人余り、大聖寺藩を含めても1万6000余人がこの処分を受けました。3分の2の1万人は下士層で、彼等の公債による利子収入は日収に換算すると8銭(1,600円)ほどにしかならない状態でした。


旧家禄でいうと百石取り前後の中士層でも、同様に日収20銭(4,000円)がやっとで、この層まで含めると全体の九割以上、1万5000人がこうした待遇で、当時の土方人足の日給が平均25銭(5,000円)ぐらいでしたので、大半の士族はそれ以下の収入水準に突き落とされてしまいました。しかし6年間で廃止した武士のこの秩禄は、それでも当時の国家予算の30数%にのぼったといいます。



参考文献:武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新磯田道史著 発行所株式会社新潮社 2003年4月10日発行ほか

ほっと石川ボランティアガイド七尾研修

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【ほっと石川・七尾市】
毎年、年3回開催される“ほっと石川観光ボランティアガイド研修会”は、今年度最後が七尾市で開催され参加しました。山の寺寺院群の16ヶ寺の内5ヶ寺を七尾のボランティアガイド“はろうななお”の案内でめぐりました。昨年春に訪れ、秋にも予定していて都合がつかすお預けになっていた曹洞宗の休嶽山長齢寺、天満山徳翁寺、瑞雲山龍門寺と浄土宗の無量山宝憧寺、正覚山西念寺です。



(七尾研修会)



(瞑想の道)

(山の寺寺院群の案内板)


山の寺寺院群は、天正9年(1581)、前田利家公が能登の領主になった時。新しく築いた小丸山城の防御を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地として移転配置したのが山の寺寺院群で、設置当初は29の寺院があったといわれていますが、現在は16ヶ寺で無住のお寺もあると聞きます。




(山の寺寺院群の見晴らし台から左小丸山城跡、正面七尾城跡)


寺院群を結ぶ山道は“瞑想の道”と呼ばれ、平成14年(2002)放送のNHK大河ドラマ「利家とまつ」が決定したことで、山の寺を全国に広めるようと、市が4億円を掛けて整備され、山間に連なるお寺のある風景は、行く人を400年の昔に誘い込みます。途中、視界が開け、前方遠くに七尾城址が左の先に小丸山城址が見え、山側には、利家公が金沢に去った後、城代として小丸山城を守った兄前田安勝親子の墓があります。



(前田安勝親子の墓)


昨年春は、七尾城跡、小丸山城跡の後、最後が山の寺寺院群でしたので、カメラの電池が切れて、お寺の写真が1枚も撮れなくて、悔しい思いをしたので、今回は携帯とカメラの二刀流、満を持して前田家所縁の長齢寺の階段を登りました。



(長齢寺の階段)


≪休嶽山長齢寺≫
前田家の菩提所、休嶽の山号は前田利家公の父休嶽から、寺号は母長齢からといわれ、休嶽と長齢の墓所があり、今回は本堂に入らないので見逃しましたが、前回見せて頂いた寺宝の利家公の若い頃のものや初期の家族の画像があります。敷地には利家公と2代利長公の供養塔(宝筐印塔)やタラヨウや銀モクセイの大きな古木が時代を伝えていました。



(休嶽公と長齢夫人の墓)



(長齢寺のタラヨウの木)

(利家公と利長公の供養塔)


≪天満山徳翁寺≫
二層造りが美しい山門は、上が鐘楼になっていて、正座をして鐘を突くそうです。建物がしっかりしているので聞くと8年ぐらい前に修復されたものだそうです。また、有名な秘仏天狗立像は33年毎の御開帳だとか、前庭には60株あまりの牡丹が植えられていて通称牡丹寺といわれているそうです。数ヶ月後、綺麗に咲いた牡丹を想像しながら歩を進めました。



(二層の山門)


≪瑞雲山龍門寺≫
七尾城4代の畠山義元の能登三井の菩提寺興徳寺と合併したお寺だそうで、「魚寄せ大ケヤキ1本建て」といわれる本堂は、船を逆さまにしたような宝形型といわれる建物で、アンシンメトリーで、玄関が左に寄っています。本堂の裏には天然記念物の巨大な「羅漢槙」があり、墓地には、アレッこんなところにと思わせる瀬戸内海の伊予水軍河野家一族の墓があり、歴史の謎に思いを致しました。



(宝形型の本堂)

(伊予水軍一族の墓)

(天然記念物の羅漢槙)

(解説板)


≪無量山宝憧寺≫
今回のプログラムは。午前中に5ヶ寺をめぐりをということから、どちらのお寺も境内で、“はろうななお”のガイドさんのお話と写真を撮るだけになりましたが、宝憧寺では、前回直ぐ本堂に入り、あまり気付かなったのですが、今回、行き届いた建物や境内の手入れに感じいりました。そしていま一つ門前から見えるケヤキやタブの古木が、お寺の風格や荘厳さを演出する名脇役のように見えました。



(宝憧寺とタブの木)

(宝憧寺のケヤキ)

(宝憧寺の歯治し地蔵堂)


≪正覚寺西念寺≫
門前から山門を窺うだけの訪問でしたが、昔は鬼寺と呼ばれ、地獄絵図が恐ろしくて、子供たちの教育の一環として使われたそうです。昔の親の思いは何処も同じで、育った土地は違いますが、子どもの頃の怖かった思い出が蘇ってきます。現在、無住で日頃はお隣の宝憧寺さんがお世話しているらしく、当日も六地蔵には蝋燭が点されていました。




(西念寺)


(七尾のボランティアガイド“はろうななお“は、現在26名。年間280回約8000人のお客様を、中世の守護能登畠山家の七尾城、前田家の小丸山城、長谷川等伯展で知られる県立七尾美術館、花嫁のれんで知られる一本杉通り商店街、そして今回訪れた山の寺寺院群をご案内されています。)



(七尾の等伯?)


参考資料:七尾市観光協会発行の「山の寺寺院群と瞑想の道・前田利家ゆかりの地・山の寺」ほか

幕末、維新の賃上げ運動

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【金沢→七尾】
武士の明治維新の様子を「武士の家計簿」の記述で読み、当時の金沢町人が気になりました。家の中にあるスクラップを探していると、以前何回かブログで取り上げた「梅田日記」の著者梅田甚三久(能登屋甚三郎)の文書に上司の御扶持人十村に対して上申した賃上げ運動に関する資料がありました。



(今の浅野川・梅田三久は左岸の並木町に住んでいたそうです。)


(梅田日記:約140年前の金沢町人能登屋甚三郎(明治4年2月梅田甚三久に改名)が、書き残した日記。生活には年間1560目必要な時代に600目の薄給ではあるが、副業で生活費を補いながら、結構、豊かに過ごして居る様子が書かれています。)



(旧観音町の町家①)


資料では、そこに書かれているものだけで明治初期の庶民の暮しぶりが分かるというものではありませんが、万延元年(1860)から明治4年(1871)までの約10年間ほぼ毎年2回ずつ上司御扶持人十村に賃上げ嘆願を続けた文書で、17通の薄墨切紙に書かれたものを「梅田日記」の著者若林喜三郎氏が翻刻し、さらに現代文に訳され「加賀藩史話」に載せられていました。当時の混乱する財政下、庶民がおかれた状況や背景が少しだけ垣間見ることできます。



(旧観音町の町家②)


賃上げ運動といっても、今みたいに団交やストライキなどが行なわれてというのではなく、只々、上司の御慈悲にすがる嘆願の繰り返すだけだったといいます。一日の仕事が終り一同、料理屋などで会合の後、うち揃って十村の宿所に行き、おそるおそる嘆願書を提出したそうです。



(今の御算用場跡)


(梅田甚三久(能登屋甚三郎)は町人ですが、西町門前にあった御算用場内の十村詰め所に勤め、農村支配や農政、年貢収納などを務める扶持人十村の金沢詰めの代わりをする「番代」の手伝で「番代手伝」という補佐役(事務職)をしていました。)



(旧観音町の町家③)


はじめに嘆願書が出された万延元年(1860)は、安政7年の3月井伊直弼が暗殺され、その月の18日が万延元年で、秋には横浜が開港し、日米修好通商条約でアメリカ公使ハリスの為替レートに対する無理解と幕府の無策から物価は、殺人的な高騰をまねき、その原因が分かったものの、そのまま明治になっても物価上昇が止まらなかったといいます。


(一般的にいわれているのは、幕末、江戸の裏長屋の行商人が1日300文で生活できていたのが、500文稼がないと生活が出来なくなり、物価が益々高騰し、結果として、日米修好通商条約での幕府の無策が、徳川270年の崩壊に繋がったという学者もいるそうです。)



(今のひがし茶屋街)


若林喜三郎氏の記述に戻りますと、当然ですが明治になった金沢でも物価の高騰が続き、明治2年(1869)7月には米価が上がるので、甚三久等は現物支給を申出、叶えられるものの翌明治3年(1870)には米価は急落、しかし、その他の生活用品が高騰するという状況に陥り、現実的には、甚三久等は、町人であっても給与の基準が米価におかれている農政の末端に繫がる番代手伝は、下位である現銀支給の小使より賃金が安くなるという現象が生じています。



(今のひがし茶屋街)


少し時代が遡りますが、慶応2年(1866)の嘆願書に、家計の収支見積書を参考資料として添付しているものによると、収入600匁に対し1560匁の支出、960匁ばかり、“年々不足二相成候”とし、文化費や交際費は「家内之者余稼」で賄うのが前提として入れてはなく、生活費の支出が給料の約2倍半、不足額が約1倍半。残りは家内のバイトで賄っていたものと思われます。


(嘆願書には余稼(バイト)があまり出来ないと書かれていることからも家内だけでなく自身も適当な収入源が有ったことが窺せますが、具体的な話は日記にも書かれていません。)



(今の観音町④)


そして、賃上げ運動が終わるのは、明治4年(1871)廃藩置県で行政機構の変革から、配置換えが行なわれためか、あるいは失職した結果であったものと思われます。甚三久は不惑の40歳、金沢去り能登の七尾に移住しています。


(振り向けば未来、超インフレが、やがて松方デフレへ、時代の翻弄される庶民!!決して昔話ではないのかも・・・。上記は、ほんの触りです。詳しくは下記参考文献をお薦めします。)



(金沢城石川門)


参考文献:若林喜三郎著「加賀藩史話」発行1988年9月・能登印刷株式会社出版部


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卒展コレクション「金沢モダニズム再考」

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【武蔵ヶ辻】
毎年、金沢アートグミギャラリーでは、金沢市内及び近郊のアート系の大学や専門学校の卒業制作展から、金沢アートグミ会員がセレクトした作品を集め「卒展セレクション」と銘打ち展覧会を開催しています。今年は3月21日(金)より、期間中に来場のお客様に作品人気投票を行ってもらい、その中から、金沢アートグミが最終的に選出した1名を今後、様々なサポートすることになります。





(今年は、「卒展コレクション×センバツ展2014」で、ギャラリーアルトラとのコラボです。)


(金沢モダニズム再考―1930年代の地方都市―)


例年、結果として展示される作品は平面と立体、工芸が選ばれていましたが、今回は金沢美術工芸大学の卒業制作展を見た会員の何人かが芸術学専攻修士課程の小川玲美子氏の修士論文「金沢モダニズム再考―1930年代の地方都市―」も推され、今年初めて論文が選出されました。



(金沢モダニズム再考のコーナー)


私も金沢美術工芸大の卒展で、表題「金沢モダニズム再考-1930の地方都市―」を見ただけで嬉しくなりました。概要に目を通しただけで興味を通り越し興奮していました。昭和の初期、金沢の町にも鉄筋コンクリートのモダン建築が建ち始め、同時に文学、絵画などの芸術運動から演劇、映画、遊園地、さらにはダンスホールやカフューなどの風俗に至るまでモダニズムが浸透していったものと思われます。


(金沢モダニズム再考の資料編より)

金沢でのモダニズムは以前から関心がありました。建築物は、今も何棟が残り当時に思いを馳せることが出来ますが、今日、その時代の空気や具体的な活動をまとめたものがなく残念に思っていました。この論文は、有り難いやら嬉しいやら、出来れば手元に置いて置きたいと思いました。



(金沢モダニズム再考資料編より)


序論の後、第1章金沢イメージの変遷、第2章モダニズム時代の変遷、第3章地方大衆文化からなり、第1章では幕末、明治に遡り産業、工業、軍都、学都、観光に至る都市論を具体的に、第2章では、大都市を目指す都市計画から外客誘致のための博覧会の開催やその後に影響、第3章では、モダニズムの影響が大衆文化に浸透していく金沢の様子が綴られていて、本論の他に「図版+付属資料1・2」からなり、金沢のまちづくりに携わるすべての人の必読の1冊であり、エールであるように思いました。


結論では「金沢という藩政期の威光を引きずる地域で「民間から」沈滞する街を自分たちなりのやり方で再考されようとした試みだと捉えられるのでは・・・」と結んでいます。


興味と関心の有る方は、下記≪卒展コレクション≫へ。



(選出された方々)







(選出された作品)



≪卒展コレクション≫
会期  平成25年(2014) 3月21日(金)-4月13日(日)
10時-18時 (4月4日(金)は21時まで) 入場無料 水曜定休
展示作品:卒業制作作品
投票期間|3月21日(金)-4月11日(金)


≪センバツ展≫
平成25月(2014)3月21日(金)-4月12日(土)
会場 ギャラリーアルトラ
11時-18時 入場無料 日曜定休
展示作品:出品作家の小作品や新作
石川県金沢市下堤町7 アルトラビル3階TEL 076-231-6698
www.gallery-artra.com

今年も彼岸の中日は聞善寺さん

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【横安江町商店街→堀川揚場跡→瓢箪町】
彼岸の中日は、市内の方々と東別院に集合して、堀川界隈の散策と瓢箪町の聞善寺さんの押絵を拝観しました。後3週間で、兼六園の桜も満開というのに、その日は、とんでもなく寒くて、時々小雪が舞うという最悪の日でしたが、総勢約40名。私も鼻水を垂らしながら口も良く回らず、話は半分になりましたが街歩きのガイドをさせて戴きました。


(だらだらと長い話をするより良かったという人がいましたが・・・。)



(聞善寺さんの本堂)


それでも約1時間、東別院、横安江町、西外惣構跡の極楽橋、西別院や近くの本願寺派の寺の伝承などを語り、旧古餌指町や堀川界隈の細い小路が繫がる昔ながらの街並みを歩きました。初めて通るという人や昔この辺りに住んでいたという方もいて、話に花が咲き、ガイドをしながら話しのキャッチボールを楽しみました。



(東別院前集合)


お目当ての聞善寺さんへ。本堂では暖かいストーブが冷え切った身体に何とも心地よく、寒さのためか、この時間帯は私達のグループだけということもあって、ガイドが終わったことで気も緩み、お昼前だというのに、ご住職のお話を聞く前から、もう有難た~くなっていました。



(親鸞上人のイラスト入り)


毎年、楽しみにしているのが住職の法話です。分かりやすく、話しぶりも親しみやすく、年を追うごとに説得力も増し、引きずり込まれていましたが、今年は、今まで文字だけのフリップが、新しく紙芝居風のフリップが登場し、外人対応か?ローマ字のタイトルに、親鸞さんや一休さんの似顔絵まで飛び出して、本に描かれているものに、あまりにもよく似ているのでビックリしました。




(蓮如さん誕生の押絵)



(ご住職の法話)

(親鸞聖人一代記)




今回は、蓮如さんと21歳年上の一休さんの交流についての逸話でした。「曲がりくねった松」のお話です。一休さんが、曲がった松を真直ぐに見ることの出来るのは蓮如しかいないというあの有名な話ですが、似顔絵を示し、「曲がった木だな~と真直ぐに見る(そのまま見る)」というお決まりのオチ(教え)ですが、分かりやすく一寸だけユーモラスに話されました。



(他に、“阿弥陀経”の「従是西方過十万億仏土」(ここから十万億の仏土のところに浄土がある)を一休さんが茶化して蓮如におくった句「極楽は 十万億土と徳ならば 足腰立たぬ 婆は 行けまじ」(足腰立たない婆は行けんぞ)に対し蓮如の返句「極楽は 十万億土と説くなれど 近道すれば 南無のひと声」(いや、南無・・・一声が近道や)など、双方、皮肉たっぷりに応酬しあった話や親鸞上人の一代記と、今年も心の残る彼岸の中日になりました。)



帰りに、5月に7つの真宗大谷派の寺院が落語家とコラボで開催する真宗入門講座「法話と落語」“第二回おてらくご”のチラシを戴いてきました。最近、お寺さんが活発で、こちら聞善寺さんでは、秋にはアートイベント「オテラート」もやっていて、お寺さんが年ごとに楽しいところになっているような気がま~す。

金沢古地図めぐり(長町編)

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【長町武家屋敷界隈→香林坊】
北陸新幹線の金沢開業1年前カウントダウンイベント「もてなし力向上フォーラム」が、3月22日と23日の土日に開催されました。会場は、金沢駅もてなしドーム地下イベント広場で、その一環で、公募で集まった市民と古地図で巡る散策会が行なわれ、23日、午前は「長町界隈」を午後は「東山界隈」をガイドとして参加しました。



(古地図)


金沢は、大きな災害も戦災にも遭ったことがなく、江戸時代以前に成立した城下町として、今も古くからの町並みや道筋が残っています。時代々々に作られた古地図は、小路などは現在の地図とあまり変わりがません。最近、金沢市や金沢観光協会、金沢市文化遺産活用推進実行委員会が発行した古地図入りパンフレットは、昔に思いを馳せ金沢を歩く一助として、また、約150年前の人々の暮しを感じさせてくれる絶好のツールになりました。



パンフレットの古地図は、石川県立歴史博物館蔵で、安政4年(1857)頃に作成されたものです。現在、幹線道路などの拡張や、武家屋敷などは分割したものもあり、古地図と多少違うところもありますが、寺社や用水、崖や坂は当時のままのところも多く、また裏通りの町割りは、昔のままのところもかなりあり、昔々の雰囲気を漂わせています。


(今回は「長町武家屋敷界隈」次回は「東山界隈」の散策したところを辿って見ます。只、今回は、あくまでも定番コースで、実際は両方の界隈とも見所も多く、例えば裏道だけをめぐり等、テーマを変えて歩くと、ガイドブックにない、新たな金沢の魅力に出会えるかも・・・。)



(スタートの長町武家屋敷休憩館)



≪コース≫
長町武家屋敷休憩館(松江家)→高田家→足軽資料館(藤掛家)→村井家跡→貴船神社→右衛門橋→大屋家→御荷川橋→木倉町→金沢学生のまち市民交流館(佐野家)→宝来寺(ラブロ裏)→旧古寺町→ボプラ(猪山家)→小橋菅原神社(旧宝来寺・移転)→旧伝馬町→旧五枚町→片町(旧川南町)→片町スクランブル交差点(芭蕉の辻)→片町→香林坊



(休憩館向かいの野村家)

(高田家)

(足軽資料館)


(村井家跡)

(貴船神社)

(右衛門橋)


(大屋家)


(長町武家屋敷界隈)

(御荷川橋)

(金沢学生のまち市民交流館)

(ラブロ裏・旧宝来寺跡)


(武士の家計簿の猪山家跡)

(今の小橋菅原神社(旧宝来寺))


(旧伝馬町)


(旧五枚町)

(犀川右岸)

(芭蕉の辻)

(片町)

(香林坊)


以上、長町編の定番コースです。解説は観光ボランティアガイド「まいどさん」に・・・。

申し込みは、金沢市観光協会内TEL(076)232-5555

金沢古地図めぐり(東山編)

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【金沢蓄音器館→ひがし茶屋街】
前回に引き続き“古地図めぐり”です。23日の午後。市内の皆様と尾張町の金沢蓄音器館前をスタートし、古地図の道なりに、主計町から中ノ橋を渡り旧馬場へ、浅野川大橋、観音町、ひがし茶屋街の旧三番丁、旧四番丁から宇多須神社へ、その日メインの旧二番丁に戻るというコースです。歩きながら左右に繫がる幾つかの小路で、入ってみたくなるような誘惑に駆られながらも初めの予定通りの道を無事歩き終えました。



(金沢蓄音器館・突き当たり久保市乙剣宮)


古地図では、スタート地点の尾張町と久保市乙剣宮、そして暗がり坂以外の道筋は、ほぼ古地図のまま、しかも地図が描かれる以前の建物も何軒か残っています。いつもお客様をご案内している界隈ですが、お客様と同じ古地図を見ながら歩くのは初めて、アレ・・・エ~ト・・・ここも昔と同じ・・・なんて思いながら、何時にない感動を味わい歩きました。


(東山界隈、安政年間の古地図)


スタート地点の金沢蓄音器館に面した久保市乙剣宮の参道は、古地図に描かれていなく、明治以後の私道らしい、また、“久保市つぁん”も明治になり卯辰山から藩政期以前にあったという現在地に遷座したので、古地図にはなく、鏡花が命名したという暗がり坂は崖地で、獣道だったのか?などと、何時もは気にもしなかったことに思いをめぐらし坂道を下り主計町へ。




(古地図)


≪古地図めぐり・東山編≫
尾張町(金沢蓄音器館)→新町(泉鏡花記念館・久保市乙剣宮)→(暗がり坂)→主計町(源法院)→(中ノ橋)→下博労町→馬場→橋爪町→森下町→観音町(ひがし茶屋休憩館)→四丁木町→愛宕三番丁(老松町)→愛宕四番丁(宮川町)→八幡町(宇多須神社)→愛宕二番丁(中ノ町)



(泉鏡花記念館)



(久保市乙剣宮)

(暗がり坂)

(主計町)

(中ノ橋から浅野川大橋)


(中ノ橋)

(旧下博労町)

(関助馬場跡)

(観音町)

(ひがい茶屋街の大門跡)


(旧三番丁)

(旧四番丁辺り)


(旧二番丁①)

(旧二番丁②)


以上、東山編の定番コースです。古地図を見ながら巡る散策は、いろいろなコースが考えられます。そして、ご案内は観光ボランティアガイド「まいどさん」へ。お気軽のお申し込み下さい。



●申し込みは、金沢市観光協会内TEL(076)232-5555

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