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“能”に明け暮れた斉広公、竹沢御殿③
斉広公は、享和2年(1802)に相続し、一時、能に熱中していましたが、文化11年(1814)以降、財政悪化の中、年寄達から能を控えるようにいわれ控えていたようですが、文化15年(1818)3月江戸から帰国した後、引き篭るようになると、殆ど歩かないので年寄達は健康を案じ、せめて能を行い、身体を動かすように進めると、文政4年(1821)正月以降、能の回数が増え、翌年竹沢御殿に移るまで60回以上も能を演じたといわれています。
(竹沢御殿があった今の兼六園の千歳台)
隠居してからは、文政6年には64回。7年3月に当時はやっていた麻疹を患い、20日ほど休みますが、4月には、新藩主斉泰公が1年8ヶ月振りに帰国したので、麻疹も癒えたこともあり斉泰公を竹沢御殿に招き能を催し、8歳の次男他亀次郎も演じ親子で能を演じています。その時、死を予感したのか、最後の力を振り絞ったものと思われます。
以後5月に入ると体調は思わしくなく、6月になり、3月に患った麻疹が治りきっていなかったようで、再度麻疹と診断され、病状は一進一退を繰り返し7月9日昼過ぎ病状が急変し翌10日午前10時過ぎに卒去します。幕府には45歳と届けたれているが実際には43歳であったといいます。
(能を舞うイメージ像・杜若)
(それでも、それ年5月まで斉広公は45回と能三昧の日々だったといいます。斉広公の死後、竹沢御殿に居た京や江戸から招いた役者や囃子方達は、翌月に斉泰公により暇を出されたといわれています。)
財政悪化の中、斉広公は藩の財政も省みず浪費の限りを尽くしたと伝えられていて、家老本多大学政養(まさやす)は、豪奢な工事を批判したとして、禄高11,000石が3,000石減らされ、8,000石になり、逼塞を命じられていますが、浪費批判が原因であったとはいい難いところがあるように思われます。
(逼塞を命ずる際、斉広公は政養に対し「自分の才力を誇り、弁舌を以、理を非に申なし」と言ったとか・・・)
また、浪費家の斉広公の死を知った老臣達は胸を撫で下ろしたという話をありますが、いずれも、竹沢御殿が豪奢になったことに限って言えば、斉広公だけの浪費ではなく、家臣の大藩意識が財政より格式を優先したことによるところもあるように思われます。
(本多大学政養は、加賀八家の分家で斉広公が襲封以来の側近で極めて信任が厚かったと考えられますが・・・。)
(つづく)
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など
取り壊された御殿から兼六園へ、竹沢御殿④
【金沢・兼六園】
竹沢御殿は、斉広公が文政7年(1826)7月に卒去した5年後、文政13年(1830)春ごろから取り壊しに着手されたといわれています。取り壊しについては、浪費のため幕府に問題視される前に取り壊したという説があるそうですが、斉広公の死後5年も経って幕府の非難も無いと思われることから、維持管理の経費や手間そして解体した古材の活用や払い下げによる収益から取り壊されたという説のほうが妥当であるように思われます。
文政13年(1830・天保元年)に取り壊された竹沢御殿は、書斎や能舞台の一つなど一部が残されていましたが、すべての改修は天保8年(1837)江戸から斉広公の正室真龍院を迎えるために、行なわれたもので、天保10年(1839)栄螺山(さざえやま)の三重の石塔が建てられた意味からも推測できます。
実際には、随分後になりますが、文久3年(1863)に12代斉広公の遺した竹沢御殿の謁見の間や鮎の廊下を移築し、真龍院の隠居所巽御殿(現成巽閣)が造営されたことが何よりの証明のように思われます。
(栄螺山(さざえやま)は、霞ヶ池の工事で掘り下げた排土を積み上げた人工の山で、石塔は正室真龍院と側室栄操院(斉泰公の生母)が斉広公の供養のための建てたものであり、お庭は、斉広公を偲ぶ所であり慰霊空間でもあったともいえます。)
兼六園が現在のような形になるのは、万延元年(1860)だといわれていて、前年の安政6年(1859)から反橋や泉水の改修工事を、さらに竹沢庭にめぐらされていた土塀や水樋上門(今の徽軫灯籠の近くにあった)が取外され、蓮池庭と一体化され兼六園の扁額も水樋上門から蓮池門に移され、現在の兼六園の形になりました。それでも“兼六園”というのは、一般的な呼称ではなく、初めて一般公開された明治4年(1872)には、与楽園と呼ばれ拝観日を限定し開放されています。
明治7年(1875)5月7日には、石川県の公園として正式に開放され、名も兼六公園と改め、さらに大正に入り一時「金沢公園」と呼ばれたこともありましたが、大正13年3月兼六園に復しました。
(とはいえ、呼称としての「兼六園」が市民に定着するのは戦後、随分たってからで、今でも年配者の中には「兼六公園」という人も多く、私などはついつい「公園」といってしまいます。)
(現在の兼六園の象徴)
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など
12代藩主斉広公が残したもの
【金沢】
斉広公は30代後半頃から、鬱症状がかなり進んでいたようで、残された書状などによると“藩政のことが気になり、気鬱が増長し、そのことを年寄達が不安に思うだろうと考えるとそれが心労になる”とか“藩主の地位が恐ろしく、恐ろしい身分から逃れたい”などと書かれていて、公務は勤められないといっています。
また、自分は気楽にいたいのに、“大名としての格式が気になり、それがまた心労になり、症状が重くなる”といいながら、政策は、仕法調達銀仕法や十村断獄事件など随分強引で、藩士の風俗の乱れを問題にし、多数の藩士を処罰。さらに余技の耽ることを戒め、女子の琴や三味線を禁止しながら、しかし、自分は能に没頭しています。
従来禁止されていた芝居や遊郭を町の賑わいのため、という上申をまる呑みして許可。また「軽ろき者共の渡世のために」と下層民に仕事を与えるという名目で、当時、全国でも稀な藩公認の芝居小屋と茶屋街が創られています。
いずれにしても、病気がちで、あき性、しかも強引で、まさに迷君斉広公が、成し遂げたという分けではないのに、偶然か!!見方を変えれば、後世、金沢の命運を握るような優れた仕事が残っているのに驚きます。
1、 幕府に歳まで誤魔化して作った隠居所竹沢御殿が「兼六園」に。
2、 軽ろき者共のために許可した遊郭、人気の「ひがし・にしの茶屋街」に。
3、 十村断獄では「豪商銭屋五兵衛」を生むきっ掛けに。
4、 竹沢御殿の建設では「金箔」の全国唯一の国産化へ。
5、 現実逃避から「能」を。
6、 春日山窯の開発から「九谷焼」の再興へ。
7、 金沢の地名由来、金城霊澤の整備が「芋掘藤五郎」伝説の復活に。
8、「金沢城」の再建。
等々、
現在、金沢観光の目玉といわれる拠点や文化、伝説の発掘などは斉広公の治世時に生まれたものだと思うと、斉広公は迷君ではなくて、やっぱ、名君だったといえなくもないのでは・・・。
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行など
玉泉院丸跡・・・新幹線開通にあわせて復元整備
【金沢城玉泉院丸跡】
元旦は曇り空、それでも雨も降らず足場よし、少し遠まわりをして兼六園、金沢城公園を通り初詣に行きました。宮守坂では右手に工事中の玉泉丸庭園が目に入りました。見下ろせば高低差22mの大パノラマは、植え込んだ松には雪吊りが施され掘り込まれた池には水が張られ橋が架かり庭園らしくなっていました。
玉泉院丸庭園は、3代藩主前田利常公により寛永11年(1634)に作庭が始まり、廃藩時まで城内玉泉院丸に存在していた庭園です。この庭園は廃藩とともに廃絶され、かつての庭園の面影は失われていました。
伝承では、利常公が京より庭師剣左衛門を招いて作られたと伝えられています。明治の初めになると外人教師の宿舎に、その後、池も埋められ軍の監獄、大正期には露天馬場、厩が設けられています。戦後、金沢大学開学時には薬草園。昭和30年(1955)から石川県スポーツセンターが設置されました。
二ノ丸の西側にある玉泉丸は、古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があったと伝えられ、隠居して高岡に移っていた2代藩主前田利長公の没後、金沢に戻った正室の玉泉院(永姫)が屋敷を構えていたことから、玉泉院丸と称されるようになったそうです。
≪歴史と沿革≫
天正11年(1583) 前田利家公が金沢城に入城
天正~慶長頃 一帯は西の丸と呼ばれ、重臣の屋敷が置かれた
慶長19年(1614)2代藩主前田利長公正室の玉泉院の屋敷造営
元和 9年(1623)玉泉院逝去し、屋敷を撤去(この後、玉泉院丸と呼称)
寛永 9年(1632) 辰巳用水を開削し城内に引水
寛永11年(1634)3代藩主前田利常公が京都の庭師剣左衛門を招き作庭
延宝 4年(1676)5代藩主前田綱紀公が蓮池御殿を造り周辺に作庭
元禄元年(1688)前田綱紀公が千宗室に作庭を申し付ける
厩をこわし、御亭や露地、花壇を作ることを命ずる
天保 3年(1832)13代藩主前田斉泰公がカラカサ亭の設置を命ずる
安政3年(1856)玉泉院丸に滝がつくられる
安政5年(1858)三十間長屋再建
明治4年(1871)金沢城が兵部省(後に陸軍省)の管轄になる
オランダ人医師スロイスの邸宅が置かれる
明治13年(1880) 兼六園の明治記念之標の土台石組に庭石を転用
明治17年(1884)鼠多門焼失
大正13年(1924)この頃 露天馬場、厩を設置か
明治30年(1955)県スポーツセンター(県体育館の前身)竣工
明治40年(1965)県体育館竣工
平成20年(2008)県体育館を取り壊し、発掘調査に着手
平成21年(2009)県が金沢城玉泉院丸跡調査検討委員会を設置
平成27年(2015)玉泉院丸の庭園及び園地・休憩所等完成予定
玉泉院丸庭園の遺構は140年以上も地中に埋められていたわりに、良好に保存されていたそうで、その上、幕末に描かれた詳細な絵図(横山隆昭氏所蔵)など、貴重な史料が残されていたこともあり発掘調査も進み、それらの史実を参考に池や島などが再現出来たといいます。
あわせて背後の有名な色紙短冊積み石垣などデザイン性に富んだ石垣群の修景など約2haの庭園内は、完成すれば兼六園とは異なる加賀藩の築庭様式では極めて珍しい「城の中の庭」が現代に蘇り“史跡金沢城”の価値をさらに高めることでしょう。
工事は急ピッチで、庭園内を回遊できる園路の整備、さらに庭園の全景を眺められることの出来る休憩施設の建設など、北陸新幹線金沢開業の平成27年(2015)春までには完成の予定だそうです。
西田家庭園「玉泉園」と脇田九兵衛直賢①
【金沢・小将町】
今年4月に北陸新幹線金沢開業に向け、江戸時代の家屋を和食料理店に生まれ変るという西田家庭園「玉泉園(ぎょくせんえん)」にスポットを・・・。そう前回の玉泉丸つながりで玉泉園です。この庭園は江戸時代初期に加賀藩士、脇田九兵衛直賢から4代にわたり約100年をかけて脇田邸に作庭さたもので、庭の名前は、前田利長公の正室玉泉院に因んだものといわれています。
明治11年(1878)脇田家が家の事情から移住した後、数回の転売を経て明治38年(1905)金沢の資産家西田家の所有となり、長く非公開でしたが、昭和46年(1971)から公開されました。昭和34年(1959)11月園内の灑雪亭露地(さいせつていろじ)が金沢市の指定文化財として昭和35年(1960)5月に庭全体が石川県指定名勝として指定されました。
玉泉園は、池泉回遊式の庭園で金沢では兼六園より古く、園内には、現存する金沢最古の茶室灑雪亭露地(さいせつていろじ)や裏千家寒雲亭(かんうんてい)の写しの茶室があります。また、庭園内には街中には珍しいミズバショウが自生し、巨木は作庭以前から茂っていたと伝えられています。
(池泉の水源を兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)付近の曲水から引かれているそうです。)
玉泉園は総面積約720坪(約2,370㎡)。兼六園の樹木をバックに、崖地を利用した上下2段式の庭園です。作庭の脇田九兵衛直賢は慶長7年頃(1605)に玉泉院(2代利長公の室・信長公の4女)の斡旋で家臣の脇田家(禄高450石)の養子となり、大坂夏の陣で戦功があり、御小将(姓)頭、金沢町奉行等を務め、禄高1500石に出世します。
上段の灑雪亭露地(さいせつていろじ)は面積約173坪(約570㎡)、慶安4年(1651)3代藩主利常公に招かれ御茶頭として仕えた千仙叟宗室(裏千家始祖)の指導によるもので、池を中心とする庭園と、庭東部の茶席「灑雪亭」からなり、亭前の茶庭には雲龍陽刻の蹲踞を配しています。
(朝鮮五葉松にまつわるノウゼンカヅラは、初代利家公の室お松の方から賜ったと伝えられています。)
灑雪亭(さいせつてい)の名は脇田家2代当主直能が、藩の招きで来藩していた儒学者木下順庵が庭に遊び詠んだ詩の一節「飛泉蔭雪灑」からとったもので、順庵が命名したといわれています。一畳に台目二畳の利休の侘びを尊ぶ簡素な席だといわれています。
明治38年(1905)西田家の所有となり、西田家2代儀三郎、3代儀一郎、4代外喜雄の3代にわたり個人の手で維持・管理されてきましたが、昭和46年(1971)4月、財団法人西田家庭園保存会の設立により当保存会が寄贈を受け、一般公開されるようになりまいた。
玉泉園の築庭が、全国に6例しかない「玉澗流(ぎょっかんりゅう)」という、幻の様式とされる珍しいものだそうです。「玉澗」とは、中国南宋時代の画僧芬玉澗のことで多くの絵を後世に残しているそうです。
元禄7年(1694)に京都で刊行された「古今茶道全書」の第5巻(後に独立して出版された「諸國茶庭名蹟圖會」)の巻末に三枚の山水図が掲載されていて、その刊行の時期が脇田家3代九兵衛直長が玉泉園を築庭していた時代と符合するそうです。
その三枚の山水図のうちの一枚(玉澗樣山水三段瀧圖)が、玉泉園の東滝を中心とした崖地部分の作庭とよく似ているそうで玉澗流庭園の特色がよく表われいるといわれています。
≪玉澗流庭園の特色≫
1. 築山を二つ設けてある。
2. 築山の間に滝を組んである、
3. 滝の上部に石橋(通天橋)を組んである。
4. 石橋の上部は洞窟式になっている。
玉泉園はこの四つの特色が全て備わっているといいます。
(つづく)
参考資料:「玉泉園パンフレット」「ウィキペディアフリー百科事典」ja.wikipedia.org/wiki/など
玉泉園を作庭した脇田九兵衛直賢②
【金沢・小将町】
脇田九兵衛直賢は、朝鮮の漢城(ソウル)生まれで幼名は金如鉄(キム・ヨチョル)といい、朝鮮の翰林学士金時省の息子でした。7歳の文禄元年(1592)“文禄の役”で孤児になり、宇喜多秀家によって岡山に連れてこられ秀家の正室豪によって養育されました。
(翰林学士(かんりんがくし):中国の唐代以降の官名で、皇帝の意思を表した文書を作る役人。金如鉄は、「金如鐘」という記述もあります。)
秀家が関が原の合戦で敗れ親子共々八丈島に流刑となると、如鉄少年は里帰りした豪(前田利家公の4女)に伴われて金沢に入ります。聡明な如鉄少年は、始め芳春院(利家公正室松)の手元で育てられ、後に2代前田利長公の正室永姫(玉泉院)の養子として養育され、利長公の近習となります。
(永姫の男の養子は、前田利常公、兄信雄の子織田高長と脇田直賢の3人)
20歳の頃、玉泉院の斡旋で、越前以来の前田家の家臣脇田帯刀重俊(禄高450石)の養子となり、脇田姓を名乗ります。利長公の寵愛を受け出世を約束されていましたが、これを妬んだ者の讒言(ざんげん)のため一時屏居し公職を辞すが、大坂冬の陣では越中高岡から駆け付け、前田利常公から賞賛されます。
夏の陣では大阪城玉造口から城内に入り、その功で200石を加増され、後には知行1,500石の大小将頭を拝領します。御算用場奉行、公事場奉行、金沢町奉行などを経て万治2年(1659)に隠居。幼名と同じ「如鉄」と号し、連歌を良くし、藩主にも厚遇され茶会にも招かれといいます。また、高山右近の影響を受け、隠れキリシタンであったともいわれていますが、万治3年(1660)7月に没しました。
2代直能も茶道を能くし千仙曳宗室に師事して名手といわれ、茶杓もよく削ったといいます。この2代が玉泉園のおおよその形を造ったとされ、以後3代直長もまた仙曳宗室門下で茶室も多く手がけた人であったらしく、玉泉園の作庭は4代まで続いたといわれています。
その後の脇田家は5代直康、6代直温と続き、7代直与のとき明治維新を迎えますが、明治11年(1878年)家屋敷等一切を売却し、一家は金沢を離れることになりました。
≪その後に脇田家の消息≫
(その1、脇田巧一)
明治11年(1878)5月14日の「紀尾井坂の変」は、内務卿大久保利通を東京府麹町紀尾井町清水谷で加賀藩の不平士族等6名によって暗殺された事件で「紀尾井坂事件」とも「大久保利通暗殺事件」ともいいます。
その実行犯6人の中に脇田家7代九兵衛直与の3男脇田巧一が加わっています。脇田巧一は暗殺にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になったといいます。
脇田巧一は、明治6年(1873)頃、石川県変則中学の監正となり、生徒松田克之(のちに紀尾井坂の変で、朝野新聞に斬奸状を郵送し逮捕された人物)と県庁に民選議員設立を建言したが却下され辞職します。
翌年、鹿児島から石川に帰郷した長連豪と親交、西郷隆盛、桐野利秋らの人柄を聞き信奉するようになります。明治10年に上京、翌年島田らと大久保利通を刺殺。刑死しました。享年29歳。明治22年(1889年)に大赦になり、墓は谷中霊園と金沢野田山墓地にあります。
(紀尾井坂の変の中心的存在の島田一郎は、加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加し、明治維新後も軍人としての経歴を歩んだ人物で征韓論に共鳴し、明治6年(1877)政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走しています。)
(その2、脇田和)
洋画家で昭和期に活躍した文化功労者の脇田和(わきたかず)は、加賀藩士脇田家の子孫で東京青山生まれ、ベルリンで油絵を学び、色と形が絶妙に調和した繊細で詩情豊かな作風が特徴で、昭和7年(1936)新制作派協会(現在の新制作協会)の結成に加わり、以後同協会展に出品を重ねました。
(兼六坂より)
脇田和(明治41年(1908)6月7日~平成17年(2005)11月27日)
昭和30年(1955)日本国際美術展で最優秀賞。
昭和31年(1956)グッケンハイム国際美術展国内賞を受賞。
昭和39年(1964)東京芸術大学助教授となり、1970年まで同校で教授を務める。
平成10年(1998)文化功労者。
平成15年(2003)先祖の地金沢の石川県立美術館で回顧展が開催された。
参考資料:「玉泉園パンフレット」「石川県史・第三編」「ウィキペディアフリー百科事典」ja.wikipedia.org/wiki/など
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金沢のしきたり展―引札と包み紙―
【武蔵ヶ辻・青草町】
毎年、近江町市場の組合と近江町いちば館、そして金沢アートグミの共催で開催されている「金沢のしきたり展」が、今年は、かって金沢市内で使われた「引札」や「包み紙」を集め金沢アートグミのギャラリーで展示されています。
包み紙は、ショッピングバック、包装紙、お菓子屋や寿司屋の掛け紙など今もお馴染みですが、引札は、今はあまり馴染みがありません。実は、暦が付いたものは、今も年末の会社や商店がお客様に贈るカレンダーで、店名等が刷り込まれたのは宣伝ポスター、小さいのは広告チラシの原型で、江戸時代大阪で引札を町で散らしたので、その後、チラシと呼ぶようになったと聞きました。
引札は始め一色か二色で、よく知られている色鮮やかな引札は、文明開化で商業活動が盛んになった頃、江戸時代に浮世絵が流行ったこともあり、初めは木版刷りが用いられたそうですが、石版印刷が発展するとともに色鮮やかなものが大量に作られることになり、商店のチラシ、手配りのビラなどの商品の広告だけでなく、開店、改装のお祝い、得意先配り、街頭配りなどにも使われるようになったといいます。
明治から大正時代にかけて、金沢でも商店や問屋、製造業や販売元などが宣伝のために作られています。幸い戦災に遭わなかったことや、戦後、大学の先生が収集したこともあり、広告の資料としてだけでなく、独特の色合いと大胆な図柄など、美術的価値から資料館や博物館に所蔵され今もかなり残されています。
また、浮世絵の手造りの伝統を受け継ぐ最後の摺りもので、石版に直接描かれた版で摺ることから手描きの風合で、優れたものは美術品として扱われるものもあります。一方では、その時代の商店が扱った衣食住、日用品や産業、さらには絵に描かれている風俗や道具、また、当時流行った西洋の文物などが描かれていることから歴史資料としても貴重です。
物の本によると、13世紀に一遍上人が「南無阿弥陀仏」の札を出したのが初めといわれているそうですが、広告としては、天和3年(1683)に江戸の越後屋(現三越)が呉服の宣伝に「現金掛け値なし」という引札を十里四方に出したのが引札の始まりといわれています。
(現金掛け値なしは、今や商慣習としては常識ですが、当時は年に1、2回まとめて払う掛けりが大店舗では普通で、越後屋は、現金取引の正札売りにしたのが、大いに当ったと伝えられています。)
引札の語源は、江戸時代の「お客を引く」「引き付ける」から来ているというそうですが、他に、札回し、安売り目録書き、口上書、書付、挿広告とも呼ばれていたそうです。
(若い頃、市内の印刷所には、石版やジンク版に直接描く「描き版」という技術があり、腕の良い職人さんがいました。何回か、その技を見たことがあります。引札と包み紙の展示会を見ていると、あの頃の職人さんの作業風景が眼に浮かび感傷にしたっていました・・・。やっぱ歳やネ~。)
明治の博覧会と博物館―金沢
【兼六園】
先日、調べものがあり、古本を購入しました。読み進めるうちに、兼六園の成巽閣にあった博物館と展覧会(博覧会)のことが書かれているのに目に留まり、調べていた事とは、随分かけ離れていましたが、兼六園と聞いては目を離す分けにもいかず、脱線してしまいました。
書物は、少し古い地元発行のもので、金沢の歴史概略でしたが、かなり詳しく書かれていました。その中には博物館、博覧会がともに、東京でも大阪でも前例がないもので喝采を受けたと書かれています。まさかと思いながらも、金沢が草分けなのかと思うと興味がそそられ調べてみることにしました。
金沢での博覧会は、明治4年(1871)金沢藩が巽御殿(現成巽閣)の隣接地山崎山下にプロシャの鉱山学者デッケンの居宅で鉱山学所を完成させますが、その年7月(旧暦)に廃藩置県により慶寧公は、藩知事を免職になり家族とともに東京に移住します。それに伴い鉱山学所も廃止されデッケンは解任されます。居宅は明治5年(1872)に成巽閣と合わせて、9月12日から30日間(旧暦)、金沢展覧会が開かれています。
(兼六園の成巽閣は、幕末に12代斉広公の正室隆子(眞龍院)の隠居所として造られた「巽御殿」ですが、明治3年(1870)には隆子(眞龍院)が巽御殿でお亡くなり、その間、明治2年(1869)6月(旧暦)に版籍奉還で国の所管となり、14代藩主であった慶寧公は金沢藩知事に任命されています。)
金沢展覧会の展示物は、ウィーン万国博覧会の準備として、その年、明治5年3月10日から4月末日(旧暦)に行われた湯島聖堂博覧会と同様のもので、少し規模が小さく、出品点数も少なかったため、展覧会という名称にしたといわれています。
この展覧会は、民間人の中屋彦十郎(薬種問屋)・森下森八(菓子商)の2人が発議したものでした。湯島聖堂博覧会の5ヶ月後の開催で、これがきっかけとなって、常設の博覧会会場つまり博物館を設けようという動きがおこり、金沢博物館そして後に金沢勧業博物館に繋がっていきます。
(明治になり日本で始めて開催された博覧会は、明治4年(1871)、東京の大学南校物産会や京都博覧会が開催されています。翌5年には、前出の湯島聖堂博覧会は全国に出品を呼び掛け、約600件が集まり展示されたものです。展示の内容は、御物(ぎょぶつ)や各地の文化財、書画、金工品、漆器、陶器、動物の剥製(はくせい)・標本などなど、ありとあらゆる物で、中でも「名古屋城の金の鯱」は大変な人気であったようです)。
博覧会の始まりはやはり東京で、藩政末期にも小規模のものが開催されていますが、大々的な博覧会は前出の湯島聖堂博覧会です。その時の目玉「名古屋城の金の鯱」が金沢にお目見えするのは、2年後の明治7年に開催された豪商木谷藤十郎らによる兼六園の巽御殿(成巽閣)での金沢博覧会でした。
(この辺りにデッケン館が有りました。)
日本の博物館は、明治5年(1872)の湯島聖堂博覧会(文部省博物館)の出品物をもとに、翌年には太政官府に移管され、内務省管轄の博物館のなった伝えられています。
(デッケン館の模写)
金沢博物館は、正式には明治9年(1876)に木谷藤十郎らが博物館設立方願を県に提出され、県が内務省の許可を受けて、デッケン館と成巽閣に金沢博物館を設置されています。
明治の金沢の博覧会、博物館は、やはり2番煎じでしたが、版籍奉還、廃藩置県と続く激動の明治初期、金沢ではその激流の中、外人を招き、また、兼六園や城内に洋館も建て、新しい文物を取り入れ、しかも民間人が主体で博覧会を開催し博物館を造ったことなどを再確認することができました。最近いわれている金沢人は「新しいものと古いものをうまく融合させる」というのは今に始まったことではなく、古い街金沢が持たざるを得ない自浄作用の様なものであり、宿命であったことを痛感しました。
昔―金沢表参道界隈①
【小橋→昌永橋・横安江商店街】
今の金沢表参道は、寛永18年(1641)お東さんの別院の仮堂があった専光寺さんが火災に遭い、奥野屋敷の跡に建てられた真宗大谷派別院の門前町として現在に至っています。古くは東末寺といわれた別院は、加賀、能登、越中からの参拝者が絶えず、門前には仏具商や古着屋などが軒を連ね繁盛したと伝えられています。
金沢では、お東さんが多く我が家でも別院といえば、ここ東別院ということになりますが、若い頃を振り返ってみると、別院については昭和37年(1662)の大火事以外は思い出もなく、むしろ別院よりも門前町の横安江商店街(現金沢表参道通り)の方が印象深いものがあります。
(別院の火災は、元禄3年(1650)宝永6年(1709)天保6年(1853)安政2年(1855)明治9年(1876)そして昭和37年(1662)と、その火災の程はよく分かりませんが6度も見舞われその都度、多くの信者の寄進によって再建されています。他に別院は火災に遭わなかったものの昭和2年には商店街の大半が火災の被害に遭ったといいます。)
昭和34年(1959)天皇陛下の皇太子時代、結婚記念として完成した天蓋式のアーケードが横安江町の繁盛の象徴でした。当時、平日は午後3時頃から夜8~9時頃まで、休みの日には午後から、横安江町でうどんと寿司の出前のアルバイトをしていました。
その頃の横安江町通りでは、アーケードで雨の心配は有りませんが、日中、人出が絶えず、得意な自転車での出前が出来なくて、日曜日など出前はオカモチを頭上高く持ち上げ、もちろん徒歩で人に押されながら配達していました。遠い昔、横安江町は長さ330m、幅8mの通り一杯に洪水のごとく人の波が押し寄せていました。
今、振り返れば、当時の横安江町商店街や小路で繋がる彦三商店街は、まさに全盛時代であったように思えます。その頃の彦三商店街は物販店だけでなく、映画館もあり飲食店や飲み屋街もありました。雑居ビルには、1階がパチンコ屋で2階から上がバーなどテナントが入り上のほうにキャバレーもあり、繁華街の条件でもある夜歓楽街が隣接していました。
(今の彦三商店会入り口・郵便局の後のビルはパチンコ屋とキャバレーが)
その頃、市内で対抗する片町や香林坊の商店街は、昭和31年(1956)から41年にかけてすすめられていた近代化計画の真っ最中、工事中で足場も悪く、買い物客もこの辺り武蔵地区に集中し、日曜日には1万7000人もの集客があったとか、平日も七尾線や北陸本線で勤め先や学校の通う人々が駅前通り経由で横安江町を通り、職場や学校に通っていたこともあり平日も随分賑やかだったように記憶しています。
(繁盛したおでん屋跡と駐車場は飲み屋街跡)
(この辺りに有名な喫茶店モリナガがありました)
(昭和34年(1959)頃は「岩戸景気」といわれていて、「神武景気」や「いざなぎ景気」よりも長く高度成長期でも最長の42ヶ月も好景気が続いた時代で、岩戸というのは「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」として名付けられたとか。)
(つづく)
次回、これより以前の横安江町とその後を予定。
写真提供 横安江町商店街事務所
昭和30年代まで―金沢表参道界隈②
【小橋→昌永橋・横安江商店街】
横安江町は、藩政末期の地図で見ると、武蔵ヶ辻から白銀町に繋がる上安江町から右に入った通りで、町の真ん中に東末寺(東別院)があり、約330mの通りの突き当りには西外惣構の堀があり、その向こうに照円寺が見えます。町は、現在のように町家が連なっていたわけではなく、むしろ武家屋敷の間に小間物屋や古着屋、米仲買や商人宿が20戸ぐらい軒を連ねていたようです。
(明治4年(1871)に近接する元乗善寺町(磯部屋小路)、東末寺町、極楽橋が合併し戸数74戸になり大正5年(1916)には188戸718人になっています。)
(今の別院前から照円寺方面)
(今の目細小路(裏安江町1番丁)
明治も20年後半から30年代になると、日清、日露の戦勝ムードもあり、鉄道も敷設されたことにより加賀、能登、越中からの別院への参拝客が多くなり、金沢駅から歩いて来ることの出来る横安江町は、仏具や小間物、古着の町から、やがて時流を先取りして着るものを扱う繊維や女性を対象にした町に発展していったものと思われます。
(安政年間の地図、名前の有るのは武家地、グレーのところは町家)
大正初期には、横安江町商工会が組織され商店街活動が活発になり、参拝客に留まらず、多くの市民で賑わったといわれています。昭和10年(1935)頃には、商店街の通りにはすずらんの花を模した街灯が設置されたことから「すずらん通り」と呼ばれ、商店街の入り口の大きなゲートには「別院前新天地」と大書されていたそうです。
商店街が大いに様変わりするのは、戦後、昭和20年代から30年代、まさに横安江町商店街の全盛期で、町を牽引したのは太田呉服店やモード中山の隆盛でした。戦後、商品が少ない頃の太田呉服店はキュウリやナスビまで売ったと聞きますが、昭和22・3年(1947・8)から繊維が出回り業績を伸ばし、能登方面のお客様から絶大な支持を得て、呉服中心の繁盛店に発展していきました。
モード中山は、もともと布団屋さんでしたが、東京で婦人服が飛ぶように売れるのを見て、婦人服屋に商買替えをして、金沢一の婦人服屋になっていったといわれています。そして、昭和28年頃には、当時珍しいネオンゲートが設置され、納涼大売出しに点灯式を、他に売出し期間には「おいらん道中」や別院境内での「菊人形」など、市民の目を楽しませるイベントが企画されるなど、商店街は大いに発展し昭和34年のアーケード設置に繋がっていきます。
(ちなみに横安江町の商買替えは、乳母車屋がカバン屋に、文具屋が玩具屋に、帽子屋が毛糸屋など、時流に乗って成功したお店が随分あったと聞きます。)
当時、アーケードの設置にあたり、別院の敷地が広く、極楽橋側にも土塀が繋がっていて、その負担分が大きいため、別院に頼み、土塀のところに3階建ての東別院会館を横安江町の責任で建設し、その家賃で借金を完済したら別院に寄付するということでビル化し1階に11店舗のテナントが入居しています。
(当時の東別院会館)
(ビルは、昨年解体されましたが、昭和37年(1962)の別院の大火事では、ビルがあったため横安江町へは火が入らなかったと伝えられています。)
一方、隣接する彦三商店街は、昭和25年(1950)頃のスタートだそうです。戦後、彦三の大通りがヤミ市になり、畳1枚半程の板戸を並べたような店が通りの両側に立ち並び、物がなかった時代、ヤミ市に行けばなにかあるだろうと、毎日、買い物客や引揚者で賑わったといいます。それが昭和24年(1949)、道路交通法の取り締まりで、立ち退きに遭い尾山商店街と彦三商店街に分かれたことによるのだそうです。
(つづく)
参考資料:「むさい―限りない未来に向けて」平成5年・武蔵活性化協議会発行、横安江町商店街振興組合専務理事篠田直隆氏「横安江町商店街―横安江町商店街今昔、そして未来へ」など
写真提供:横安江町商店街事務所
大名行列が?―金沢表参道③
【小橋→昌永橋・横安江町】
大名行列!!といっても藩政期前田家のお殿様の行列ではなくて、「百万石まつり」の大名行列です。「百万石まつり」は、戦後、昭和21年(1946)6月「尾山まつり」が、翌昭和22年(1947)4月に商店街の連合会が主催の1回目の「金沢商工まつり」がはじまりです。
(戦前、昭和11年4月にも「商工まつり」がありました。全市上げての福引大売出しや広告行列や武者行列があり花電車も出たそうですが、第3回の昭和13年を最後に国家動員法が施行され戦時体制になり中止されました。)
戦後の「金沢商工まつり」は3回目から6月になり、4回目はまた4月にもどり、それが第1回の「百万石まつり」になりました。昭和33年(1958)の第7回から金沢市も参加し、会期は6月になりますが、私が知っている限りですが、コースは今のように金沢駅ではなく金沢城からのスタートでした。当時は、横安江町商店街も通り、東別院で列を整えたとかで、見物客がすごくて、危険を感じシャッターを閉めたお店も有ったといいます。
(最近、寺町蛤坂の妙慶寺のご住職に聞いた話ですが、第1回目は、妙慶寺がスタートだったとか。当時、県の商店街連合会で発言権が大きかったと思われる太田呉服店(横安江町)の松平利吉氏の菩提寺だったこと、また、馬を調達するのに都合がよかったとかで、妙慶寺が選ばれたそうです。祭りが終わってからも、しばらくの間、境内は馬の垂れ流した小便の臭いが消えなかったとおっしゃっていました。)
(横安江町の前田利家公の行列)
(商工パレードのデコレーションカー)
(当時のアルバムより)
その後の横安江町は、前出の昭和33年(1958)の天蓋式アーケードの設置や東別院会館の建設は、さらに商店街の活性化に拍車をかけ、飛ぶ鳥を落とす勢いで雨や雪の心配のない、"横のデパート"として大変な賑わいを見ることになります。しかし、良いことずくめという分けがないのが世の中のようです。
(今も有る東別院の大銀杏)
昭和37年(1963)年7月には、別院が大火事に見舞われます。本堂や、隣の金沢幼稚園を焼失、西側の本町にも延焼し、住宅17棟を全半焼しました。しかし、東側では横安江商店街及びアーケードには被害がなく、近隣の方の話では「ビルと山門近くの大銀杏が火除けになった」と伝えられています。
(昔から銀杏が類焼を防ぐといわれていますし、それも有りなのでしょうが、この大火事で商店街に火が入らなかったのは、後で検証すると本堂に面する東別院会館ビルの西側壁面は猛火で焼けた跡が有り、このビルが商店街への類焼を遮ったというのが本当のところのようです。)
昭和38年(1964)別院の大火事から半年後、未だに雪害が出ると比較される「三八の豪雪」により自慢のアーケードが崩壊します。雪すかしにダンプカーが出動し、まる2日徹夜、3日間で片付きたそうで、当時を知る方の話によると除雪にかかった費用は100万円だったそうです。(当時、高卒の初任給が8,000円~9,000円くらい)
その年には、横安江町では、昭和27年(1952)に組織された協同組合を改組し、県下ではじめての横安江町商店街振興組合が設立され、組合員は94名、理事長松平利吉で昭和42年(1967)には融雪装置をアーケードに付設。昭和44年(1969)に、290mの大理石のカラー舗装、昭和45年(1970)には商店街の共同駐車場や商店街会館も建設され、その間、昭和45年には、理事長で商店街に絶大の功労があった太田呉服店(松平利吉)が倒産というショッキングなことも有り、理事長もモード中山の中山喜作氏に引き継がれています。
(つづく)
参考資料:「むさい―限りない未来に向けて」平成5年・武蔵活性化協議会発行、横安江町商店街振興組合専務理事篠田直隆氏「横安江町商店街―横安江町商店街今昔、そして未来へ」など
写真提供:横安江町商店街事務所
加賀藩のお宝―国宝雉の香炉と前田家の調度
【本多町・石川県立美術館】
あと一年で北陸新幹線が開業すると、多くの観光客が金沢に押し寄せるといわれていますが、そうしたお客様の多くは、石川、金沢の景観や歴史・文化、また、この地に住む人々の優しさ、きめ細かなおもてなし、そして洗練された工芸美術など加賀藩のお宝に、ある種の期待感を持っていらっしゃると思われます。
先日、観光ボランティアガイドの仲間55人と石川県立美術館で、国宝及び重要文化財の「雄雌の雉香炉」と「九谷焼コレクション」のレクチャーをして戴きました。というのも、観光ボランティアガイドの皆さんの中にも美術は難解でと美術館アレルギーという人もいて、美術館へは、道案内に留まる方や館内の展示についてあまり関心のない方もいて、美術館に「国宝」や「加賀藩のお宝」があることも忘れがちという事から美術館にお願しました。
参加人数が多かったので、「国宝雉香炉と九谷焼コレクション」と「前田育徳会尊經閣文庫分館」の2組に分け副館長と学芸員の方には2度にわたり、丁寧で分かり易い解説と美術館の利用方法まで約2時間教えて戴きました。私達のガイドはお客様のご要望でご案内するのが基本ですが、これからはお城や兼六園だけでなく加賀藩や前田家のお宝を聞かれたときは、怯むことなく石川県立美術館をお勧め出来るものと思います。
(国宝雉香炉)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10984267828.html
石川県の工芸美術は、藩政初期、前田家の武具の製造修理をする御細工所にはじまりますが、藩政が安定し平和な時代になると前田家の調度品や贈答品が作られるようになりました。
(御細工所)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11585736675.html
加賀藩における工芸美術の保護育成政策は、歴史的な名作を生み、その伝統を継承する近現代の作家も数多く育ち今に至っていますが、それらの洗練された意匠や高度な技術を駆使した作品が多数を収集展示しているのが石川県立美術館です。現在は、それらの工芸作品の含め所蔵作品は3220件といわれています。
美術館ですから、収集展示は絵画や彫刻、工芸ですが、石川県立美術館の場合は、日本画、油彩画、彫刻は石川県にゆかりのある作家が中心で、何といってもメインは工芸で、加賀蒔絵などの大名道具や、古九谷から再興九谷までの九谷焼のコレクション、それに多くの人間国宝を中心とする伝統工芸作品が質、量とも多いことはよく知られています。
特の「国宝」が年中展示している公立美術館はここだけです。また、加賀藩前田家の前田育徳会尊經閣文庫の分館もあり、年に10回以上の企画展が開催されています。
≪知っているとお徳です。≫
石川県立美術館では
コレクション展、入場料350円(65歳以上280円)・毎月第一月曜日 65歳以上無料。展示は、毎年11月には、県内の国宝の2作品ほか重要文化財集まります。
前田育徳会尊經閣文庫分館では、毎年6月、百万石まつりの時季は武具の展示を行なわれています。etc:
(兼六園の高さに合わせたという1階での建物についてのレクチャなど)
詳しくは石川県立美術館
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/index_j.html
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老舗―金沢表参道界隈④
【小橋→昌永橋・横安江町】
横安江町商店街は、前にも書きましたが、浄土真宗金沢別院の門前町として、古着屋や小間物商が軒を並べたといわれていますが、超老舗といえば、なんといっても別院が出来るず~と以前から商店街の路地を一歩入ったところにある加賀毛針の老舗「目細八郎兵衛商店」があります。
(今の目細八郎兵衛商店)
(目細八郎兵衛商店所在地は、藩政時代から通称目細小路といわれ、明治になると裏安江町1番丁になりますが、現在は安江町11-35。因みに横安江町も裏安江町も昭和の町名変更で消えてしまいました。)
(横安江町商店街通り目細小路角の店、昔は東別院前にも店があったとか)
お店は、天正3年(1575)から針の製造販売を行って439年。前田利家公が、加賀の国を治めるようになる8年も前の創業になります。初代八郎兵衛は、京都辺りの技術に独自の工夫を凝らして「めぼそ針」を作りあげたといいます。「めぼそ」の針の名前は藩主から頂戴したもので、藩の御用を仰せ付かったといいます。昔から「めぼそ針」は糸が通し易いと高く評価され今もその伝統を守り続けています。
(看板の書は元禄時代、前田家の祐筆佐々木志津麿によるもの)
藩政期、前田家は外様大名のため、幕府から厳しい監視の目が向けられていました。武芸を積極的に奨励すれば謀反の嫌疑を受けるため、鮎釣りも足腰の鍛錬を目的に始められたといわれ、武士だけに認められてものでした。
その鮎釣りは、鮎を獲るだけではなく、釣り方も工夫し、毛針は、カゲロウや水中に棲む川虫に似せて、キジ、ヤマドリ、クジャクの羽毛や漆、金箔、蛇皮などを使い、鮎との知恵比べをしたのが加賀毛針の起こりだといわれています。
(明治になり庶民も鮎釣りを楽しむようになると、毛針の需要も格段に増え、毛針職人も多く誕生します。17代目細八郎兵衛が、明治23年(1890)“第3回内国勧業博覧会”に加賀毛針を出展、受賞したことから、加賀毛針の品質と名声が広く全国に広がり、加賀針元祖の名誉を拝することになったそうです。因みの現在は20代目、毛針は石川県伝統工芸品に指定されています。)
そして今、加賀毛針の美しさを、多くの人々に伝えたいと、フェザーアクセサリーを生み出し、伝統工芸である加賀毛針を今の活かし、金沢にしかない希少な美として、新しいものづくりで伝統を守っています。
昭和56年発行の「老舗百年」には、124店舗掲載の中、横安江町商店街から目細八郎兵衛商店の他に、藩政期寛政元年(1789)創業の近八書房、ナカキン、高橋、島谷、林屋、澤田、山田の各商店と飲食店のいしやの9店舗が掲載され、その内藩政期からの店舗は6店舗もありました。
≪番外編・横安江町のカフェー≫
昭和のはじめ、北間の豪農高木正喜氏が、横安江町に「バッカス」というカフェーを経営しています。高木家の親戚が経営する粟崎遊園との関係から、「パッカス」出入りの当時毎日新聞金沢支局長鴨居悠などの文化人が粟崎遊園の芝居や演劇に肩入れし脚本を書いています。
パッカスでは、今風にいうとタウン誌「酒神」を月間で発行し積極的に粟崎遊園を宣伝していたといます。当時のことを書いたものによると粟崎遊園とタイアップして河北潟に船を浮かべ、パッカスマドモゼル20数名の競艶サービスで、月見のイベントを行なっています。
(昔の粟崎遊園・小松砂丘の模写)
このイベントは、今、書かれたものからの想像ですが、かなりのもので、電車や船代、折り詰め弁当にビール付きで2円。規模も5人乗りの船を40数艘といいますから、単純に計算しても200人以上が参加しています。また、当時、パッカスで働く女性は金沢以外の女性が多く、その頃、流行のエログロとは大違いで、上品なお色気でムードがあり、これから起こる戦時色など何処吹く風、モダンで文化的で、当時のインテリが気軽に出入り出来たカフェーだったようです。
参考資料:「むさい―限りない未来に向けて」平成5年・武蔵活性化協議会発行、横安江町商店街振興組合専務理事篠田直隆氏「横安江町商店街―横安江町商店街今昔、そして未来へ」「目細八郎兵衛商店のホームページ」「老舗百年」昭和56年10月、金沢商工会議所発行「粟崎遊園物語」平成10年3月、内灘町発行など
右岸の桜―ワシントンからの里帰り
【梅の橋→浅野川大橋】
3日、明日から寒くなり雪が降るという、午後から“雨”の予想に尻を叩かれ、朝から久しぶりのサイクリングをしました。行き先は、午後から節分の豆まきが行なわれる“ひがし茶屋街”と浅野川河畔の“秋声の道”そして帰りは兼六園経由。午前中の1時間半でした。
(宇多須神社の豆まきは、午後から所用があり、残念、今年は行けませんでした。因みの雨は6時少し前から・・・)
(ひがし茶屋街)
(昨年と変った、豆まき台の付いた宇多須神社)
”秋声の道“は40本以上もの桜の並木で、花見時には、見事な花に多くの市民が押し寄せますが、この時期、道に迷った観光のお客様か駐車場に入る人ぐらいのもので、冷たい川風に早歩きのお客様の姿をたまに目にしますが、3日は曇り、気温も高く、余裕もあり見るとはなし桜の古木を眺めていました。
日露戦争の戦勝記念に植えられて染井吉野だとかで、樹齢100年以上となれば染井吉野の限界を超えています。幹は、右巻きにねじれて、コブだらけ、おまけに幹は裂け、内臓をさらけだしたかのように、血管のような、根なのか枝なのか何本もの筋がはみ出していました。
道の脇にある東山河岸緑地の広場の隅に、近年、和風庭園風の小高い丘が造成されました。その日は、気温が高く雨も降らないためか、近くの保育所(幼稚園)の子どもたちがやってきました。カメラを構え望遠のファインダーを覗くと、行儀よく並んだ子どもたちの手前に「ワシントンの桜、里帰り事業」の標識が目に入りました。
いつも来ているのに、初めて気付き近寄ってみました。標識の裏側には平成24年と書かれていて、右に苗が植えられていました。どうもこの植樹は、金沢育ちの世界的化学者高峰譲吉博士の尽力により米国に贈られた桜を母国日本に戻す「ワシントンの桜・里帰り事業」の一環で、金沢城や市内の大学や緑地に植えられたものの1つのようです。
(緑地の子どもたち)
当時、日米友好の「高峰桜」の植樹事業は、記念式典や演奏会も有り、新聞などで何となく知っていましたが、ここに有る事など露知らず、しかもいつも来ているのに、また、泉寺町の国泰寺さんと博士の関係などを調べた事もあるのに、植樹にあまり関心がなかったのか、2年近くになって、初めて知った次第です。
(緑地の和風の庭)
知っているつもりでも、知らないことだらけ!!そして、あちこちにいろんな繋がりがあり、関心を持つだけで、出歩くたびに発見が有る金沢の町歩き、まだまで長生きできそう・・・。
今日から雪、今晩は兼六園の雪のライトアップが楽しめそうです。
番外!!ご当地映画“さくら、さくら・・・”
【金沢……】
前回の”ワシントンの桜”のつながりから、平成22年(2010)年3月に劇場公開された金沢発のご当地映画「さくら、さくら サムライ科学者 高峰譲吉の生涯」の話を進めようと思いました。この映画は、金沢で育ったアドレナリンの発明者の高峰譲吉博士の伝記で、翌平成23年(2011)5月の公開された「TAKAMINE~アメリカに桜を咲かせた男」の2部からなる作品で、ワシントンのポトマック川沿いに桜並木を植え、日米の懸け橋となるべく、奔走した伝記ドラマでした。
この映画の製作は、従来のご当地映画とは違い、地方を題材に地方発、全国公開の映画で、製作の総指揮(エグゼクティブ・プロデューサー)は地方紙の北国新聞社で、日本で一流といわれるスタッフ・キャストを起用した製作委員会が制作し大手の映画会社が配給したもので、今回から“高峰譲吉伝”を書こうと思っていましたが、その製作体制について興味を覚え、はじめだというのに、もう脱線してしまいました。
詳しいことは分かりませんが、この映画は、地方発という新しいカタチのご当地映画のように思へ制作体制を調べて見ますと、北国新聞社では何作かがこのようなカタチで製作されているのに気付きました。
このような制作体制で制作された映画に、地方紙北國新聞社が創刊115周年記念として出資し、平成20年(2008)3月に公開された「能登の花ヨメ」や平成20年2008年11月に虫プロダクションが制作にあたったアニメ映画「パッテンライ!! ~南の島の水ものがたり~」がありました。
それ以来、北国新聞社が主体で、石川県を中心とした企業や団体、個人からスポンサーや賛助を受け、前出の高峰譲吉伝2作品、平成22年(2010)11月には、映画「武士の家計簿」が製作され、大ヒットを飛ばしたのも記憶に新しく、昨年平成25年(2013)の暮れから公開の「武士の献立」も上々の観客動員だと聞いています。
近年、めったに劇場へ足を運んでことがなかった私も、関心がある地元の題材や北国新聞社やそれに繋がる媒体上げての大宣伝に煽られて、いずれの作品も劇場で大画面を楽しく鑑賞させていただきました。そこで終わっておけばいいのに、また癖で余分なことまで気になりだしたというわけです。
近年の映画製作は、映画会社単独で行われることはほとんどなく、映画会社はその配給網を使い、放送局や出版社などのメディア企業とともに映画を製作する製作委員会方式をとるようです。これは一時的に業務内容が異なる分野の多数の企業が集められ協力しあい映画製作を行なうもので、各団体や企業が多額の資金を必要とする映画製作に対して出資や直接的に関わり成功の導く方法だそうです。
(北国新聞社の掲示板)
素人考えですが、どうもこの委員会方式に、さらに地方とか地元へのこだわりがプラスされたものが北国新聞社方式なのか、製作された映画から地方の“観光促進”はもちろん住民の“ふるさと学習“にも繋があり、今後も、さらなる企業や地元の協力、そして中央省庁のコンテンツ産業への後押しがあれば、興業的にも成功が望め、コンテンツ次第ですが、”柳の下のドジョウ“は、まだまだ2匹や3匹ではないように思えてきましす。
高峰譲吉とワシントンのさくら①
【金沢~】
高峰譲吉博士は、今から100年も前に酵素を使った胃腸薬「タカジヤスターゼ」の創製と止血剤のホルモン「アドレナリン」の発見という今も世界の医療現場で使われている薬を開発した世界的な化学者です。晩年は日米友好に尽くし「無冠の大使」ともいわれました。
金沢では、昭和25年に設立された「高峰譲吉博士顕彰会」が行っている事業の一つとして高峰賞が制定され、毎年、市内の中学生から10名ぐらいが受賞し、受賞者は各界で活躍していることから、知らない人がいないくらい高峰譲吉博士は有名で、金沢が生んだ偉大な科学者であり国際人として金沢人が誇りにしています。
(博士は、年譜によると現在の富山県高岡市で生まれ、1歳の時、父の仕事で金沢に移り、10歳で加賀藩より選抜され七尾経由で長崎に留学しています。京都、大阪で学び、藩の選抜生として七尾語学所で英語を学び、26歳で工部大学校を卒業し、3年間イギリスに留学しています。博士は人に聞かれると「高岡に生まれ、金沢に育て、七尾から長崎に出たから加越能三州が我が故郷」と語っていたといいますが、今も金沢の人の中には、何に拘っているのか金沢生まれといい張る人も多くいます。)
博士のもう一つの偉大な功績は日米親善に力を尽くしていることです。象徴的なのは日米友好のシンボルとして、ワシントンやニューヨークへの桜の寄贈に大きく関わっていることですが、あまり知られていませんでした。私も、近年、映画が製作され、金沢で「日米友好の桜、寄贈100周年記念」の行事が大々的に行なわれるまで、高峰譲吉博士が関わっていた事を知りませんでした。
(一般的にワシントンの桜の寄贈は、当時のアメリカ大統領夫人の桜植樹計画を知った尾崎行雄東京市長が、日露戦争の終結のため1905年、ポーツマス条約の仲介をとった米国への謝意を表し、日本とアメリカの友情に願ってもないチャンスだということから寄贈されたという認識で、大統領夫人の桜植樹計画を博士が東京市長の尾崎行雄に伝え、苗木の寄贈に尽力したことは、知る人は知っていたのでしょうが一般的には知られていなかったようです。)
研究も事業にも成功した博士は、アメリカにあって日露戦争が勃発した明治37年(1904)頃には、主な関心は研究から社会活動に移っていきます。開戦後、日本政府は当時のアメリカ大統領ルーズベルトのハーバード大学の同窓で貴族院議員金子堅太郎をアメリカに派遣し直接交渉を期待しました。
その時、金子は一般市民に「国民外交」と呼ぶ広報活動を行いますが、アメリカに於ける実業界や社交界に信頼があった博士は、各地で開く金子の演説会の人集めやキャロライン夫人はアメリカでの金子夫人代理として協力し、ポーツマスでの日露平和交渉の頃には、アメリカの世論は9割方日本支持となっていたそうです。その働きを金子は「無冠の大使」と称えたといいます。
翌明治38年(1905)には、ニューヨーク在住の日本人によって、日本への関心を深めてもらう目的から「日本倶楽部」が創設され、博士が会長につき、ニューヨークの「高峰譲吉邸」や万博のパピリオンを移築した「松楓殿」を舞台に日本への理解を深める活動をしています。
アメリカへの桜の植樹は、明治17年(1884)アメリカの写真誌記者エライザー・シドモア女史が来日。日本の桜に感動し、ワシントンに植樹しようと市当局に訴えますがなかなか実現しませんでした。転機は、明治42年(1909)タフト大統領の就任により、大統領夫人ヘレン・ヘロン・タフトと旧知のシドモア女史は、大統領夫人にボトマック河畔の桜の植樹を提案しました。
(当時ワシントンにいた博士は、桜植樹の噂を聞き、タフト夫人と面会し、2000本の桜の寄贈を申し込み、週末には博士の提案が受け入れられる手紙が届き、その瞬間、実質的な「ワシントンの桜」が実現しました。)
(平成24年の記念展の資料)
明治42年(1909)日米友好の桜がシアトルに上陸しますが、この桜が検疫で病害虫に犯されていることが判明し、すべて焼却処分されます。その結果、日本外務省は、後に東京大学総長になる農芸化学の権威古在曲直氏に苗木の準備を依頼し万全の準備を整え、明治45年(1912)に再び6040本の桜をアメリカに贈ります。今も日米友好のシンボルとして咲き続けているそうです。
(つづく)
参考資料:「日米友好の桜・寄贈100周年記念高峰譲吉邸と松楓殿」展の資料・金沢ふるさと偉人館(平成24年)
高峰譲吉②アメリカへ
【高岡→金沢→アメリカ】
明治13年(1880)高峰譲吉博士は、英国グラスゴー大学へ3年間留学し、そこで興味を持ったのが、スコッチ・ウイスキーの製法だったといいます。ウイスキーは、大麦のモヤシ麦芽酵素でデンプンを分解し糖化させモルトを蒸留し、ウイスキーになります。
(生誕地・高岡市の高峰公園)
高岡の造酒屋の孫にあたる譲吉博士は、幼い頃から日本酒造りを知っていたようで、デンプンの分解なら、大麦の麦芽酵素より、日
本酒に使う麹(こうじ)を使用したほうが効率的であると考え、麹(こうじ)を使うことにより、ウイスキーが、多く作れると英国留学中に、「高峰式元麹改良法」を考案しています。
(高岡の高峰譲吉博士の銅像前で山野金沢市長)
英国から帰国後、明治16年(1883)農商務省に入省。明治17年(1884)12月16日から明治18年(1885)6月2日まで開催されたアメリカニューオリンズの万国博に事務官として派遣され、そこで出会った米国人女性、キャロライン・ヒッチと婚約します。プロポーズの言葉は「公費で渡米しているから、今は結婚できない。だから、2年間待って欲しい」というもので、当時、日本では官職にある者は外国人と結婚することが出来なく、結婚したのは明治20年(1887)になります。帰国後の明治20年(1886)、専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力します。
官職を得た譲吉博士ですが、ただのお役人になっておとなしくしているわけもなく、英国や米国の活気ある社会を見てきた譲吉は、日本の農業用肥料を改良し、農作物の収穫を飛躍的に高めようと考えます。
(現在のエムザ裏)
そして日本の土壌にあった肥料を研究するとともに、それを製造して販売する会社を設立しています。このような研究開発や、技術指導は、お役所仕事よりも民間企業でやる方が速いと考えたのでしょう。
(その肥料会社は、当時、明治の大実業家渋沢栄一から資金を提供してもらった東京人造肥料会社で、現在の日産化学の前身です。)
(明治19年(1886)帰国した博士には、かねて米国で特許出願中だった「高峰式元麹改良法」を採用したいという連絡を、米国の酒造会社から受けます。)
そして、来日したキャロラインは明治時代の日本での質素な生活に耐えられず、母親から偽の電報を送らせ、明治23年(1890)譲吉博士を含む家族4人で渡米しアメリカへ永住することになります。
(夫人は、その後肝臓を患った譲吉博士を幾度と助けますが、譲吉博士の死後は息子の友人(23歳年下)の男性と再婚するなど、活発な女性だったようです。)
当時30歳半ばになっていた博士は、株主であった渋沢栄一に渡米を止められ、当初渡米を渋っていたそうですが、三井財閥の益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意します。渡米後、譲吉博士の麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人から儲からなくなると怒りを買い、一時は高給でモルト職人を雇うことで和解しましが、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の資本家達が、譲吉博士の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉博士、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、譲吉博士の暗殺を試みたといいます。
その時は、譲吉博士は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の資本家達は譲吉博士の研究所に侵入、結局譲吉を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させたといいます。
当時、日本人はイエローモンキーと呼ばれていた時代。白人は黄色人種など猿並みの動物としか思っていなく、侮蔑などという言葉では言い表せない人種的迫害に遭い、譲吉博士は木っ端微塵に砕かれました。しかも、新しい醸造工場は、譲吉博士の米麹醸造法ではなく、モルトを使った工場で、譲吉博士の考案した米麹ウイスキーは、現在もよくある東西の文化摩擦で挫折してしまいます。
譲吉博士は失意のうちに、重い肝炎にかかり、以後、闘病生活を米国で送っています。
しかし、そこでくじけないのが明治の日本人です。譲吉博士は、麹の研究を通じて、明治27年(1894)、デンプンを分解する酵素であるジアスターゼ(アミラーゼ)を麹菌から抽出することで成功しタカ・ジアスターゼと命名し、特許を申請しました。
(金沢ふるさと偉人館にあるバイエルヘルスケア社から寄贈された
北欧神話でノームと呼ばれる地中を宝を守る地霊の像)
タカ・ジアスターゼは消化剤で、何と、お餅を大根おろしで食べると消化が良いというアレがヒントだそうです。どうも譲吉博士は、日本の独自性にこだわりがあって「欧米の物を作るなら欧米から人を呼んでくればいい、日本人は日本の独自性を発揮すべきだ!」というような事をいっていたそうです。
さらに明治33年(1900)、譲吉博士はアドレナリンの抽出に成功します。廃棄される家畜の内臓から世界ではじめてホルモンを抽出したのです。翌年、アドレナリンの特許を取得します。アドレナリンは、今も止血剤として、あらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献しています。
(ジアスターゼの発見、アドレナリンの発見によって、譲吉博士は巨額の特許収入を得るようになります。)
しかし、アドレナリンについては、譲吉博士の死後、とんでもない言いがかりから問題が起こります。昭和2年(1927)アドレナリンの生成に成功したのは私の方が先で、「高峰譲吉博士の成果は、自分の手法を盗んだ」とジョンズ・ホプキンズ大学のエイベル博士が主張しました。それを受けて米国医学会は、エイベル博士の言い分を全面的に認めてしまい、以降、米国内では「アドレナリン」という名称は廃止され、エイベル博士が名付けた「エピネフリン」という名称が用いられることになります。
裁判が行われたわけでも、証拠の検証が行われたわけでもなく、譲吉博士の家族から、すべてを奪おうという動きだったのでしょうか、しかし40年以上たった昭和40年代(1965~1974)になって、譲吉博士の研究助手だった上中啓三の実験ノートから、エイベル博士の主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベル博士の方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明し、譲吉博士の盗作疑惑は、まったくの濡れ衣だったことが明らかになります。
それが間違いとわかり、譲吉博士が名誉を挽回したのは、平成13年(2001)でアドレナリンの名称が米国内で復活したのが、平成14(2002)でした。そこへくるまで、なんと75年の歳月が流れていました。
(つづく)
参考資料:「日米友好の桜・寄贈100周年記念高峰譲吉邸と松楓殿」展の資料・金沢ふるさと偉人館(平成24年)ほか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89