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ひがし茶屋街近くの円長寺さん

【梅の橋→浅野川大橋・旧木町】
ひがし茶屋街に入る通り沿いに、大きな銀杏の木と海鼠壁が目立つ円長寺さんがあります。金沢城によく似た海鼠壁の御輪堂に関心を持つ観光のお客様もいて、そんな時は、必ずお客様に喜んで戴けるので、ご希望が有っても無くても、御輪堂にご案内することにしています。


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(円長寺の銀杏の木と御輪堂)


このお寺の山号は藤島山。浄土真宗大谷派の寺院で、開山は越前の藤島村(現福井市)超願寺の僧道清が、天正14年(1586)に今の橋場町辺りに創建されたのが起こりで、10年後の慶長元年(1596)に現在地に移転し建立されました。よく知られているのは、前田家3代藩主前田利常公が卯辰山周辺での鷹狩りで、小休憩所に利用したというのが有名です。


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(円長寺の解説板)


そのご縁から、400年後の今も利常公の位牌が安置され、剣梅鉢の袈裟の使用がゆるされているそうです。また、屋根瓦には前田家の剣梅鉢紋が現在もみられます。

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(剣梅鉢の瓦屋根)


境内にある大きな銀杏の木は、小休憩所だった当時、防火のため植えられたものといわれ、現在もこの辺りを火災から守るかのように堂々と聳えています。


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(銀杏の木の下の手水鉢・丸いのが銀杏(ぎんなん))


(銀杏の木には、雄花と雌花の木があり、雄花の木は当然、実(ぎんなん)は出来ませんが、この木は、たまに銀杏(げんなん)が出来る”両性の銀杏“だと何時だったか坊守さんに聞いたことがあります。)


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(御輪堂)


御輪堂(一切経蔵)は慶応元年(1865)閏5月に建立されたもので、中にある六角形の輪蔵(回転式の書架)には、仏教のすべての経典である一切経(大蔵経ともいう)5,408巻の大部分が納められています。この回転式の書架を回すと、収められているお経を全て読んだのと同じ功徳が得られるといわれ、参詣者はキュルルキュルリといわせながら一周させます。


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(傅大士の父子像)


この一切経蔵の書架には、経蔵の考案者で庶民に一切経蔵を広めた傅大士(ふだいし)と2人の息子普建(左)、普成(右)の父子像が正面に安置されています。


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(経蔵の書)

傅大士は中国、南北朝時代(5世紀から6世紀)の在俗の仏教者、「斉」の東陽の人で本名は傅翕(ふきゅう) 善慧大士と号し、双林寺を建てたといわれ、後に、経蔵などにその像が置かれ、「笑い仏」といわれているそうです。


(在俗:出家せず、俗人の状態でいること)


“YUKIZURI”

【金沢・兼六園】
最近、能登七尾出身のお菓子作りの名人が作った“YUKIZURI“が有名になり、そのお陰で、よく問われて困っていた”ゆきつり“”ゆきづり“論争も、今も何故?と問われても”ゆきづり“と断定するしかありませんが、なんとなく決着が付きました。


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(おっと・・・曲芸まがい)


最近、出来立ての新しいお菓子に、金沢伝統の“冬の風物詩”の名称を教えて戴きました。一寸だらしない話ですが、何気に“ゆきつり”とか”ゆきづり“といっていて、改まって人に聞かれると、自信なげに迷いながら小声で”ゆきづり“と応えていました。兼六園に子どもの頃から通っていて何ともお恥ずかしい次第でした。

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(命綱は?)


そう今日は、お菓子ではなく雪吊り(ゆきづり)のお話です。兼六園の雪吊り(ゆきづり)です。その作業は、毎年11月1日に霞ヶ池に長い枝がせり出した「唐崎の松」から始まりますが、近年、11月1日は雨や風で一日延ばしにして、低木から初めていました。今年は青空も顔を出す好天に恵まれ大勢の観光客の見上げる中、芯柱から絶妙の縄捌きが披露されていました。



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(北国新聞夕刊11月1日のYUKZURIの記事)


披露といっても、見世物では有りません。高所での、あまりにも鮮やかな縄捌きは、見方によっては、曲芸のように見えるものですから、例年これを見るために旅の予定に組むという話を聞いたことがありますが、今日は、私も久しぶりに11月1日の雪吊り作業を見ることができました。


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(作業中)


雪吊り作業は、午前9時から始まったそうですが、私が行ったのは、午前11時。“唐崎の松”の5本の芯柱の内、1本は掛け終り、2本目の真っ最中でした。園内随一の枝ぶりを誇るこの松は、5本の芯柱に総数約800本の藁縄で枝を吊ります。


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(作業中)


(“唐崎の松 ”は、高さ9.0m、枝張り20.0m、幹周り2.6m ・芯柱はアテ丸太5本(最大高さ16.0m)・藁縄(荒縄)は、径6、8mmの縄を各芯柱に50~200本使用し、合計約800本になります。)

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(青空の下)

 
雪吊りは兼六園の5人の庭師が中心になり、業者も入って延べ約500人で作業にあたり、作業期間 は今日11月1日から12月中旬の予定で、取り外しは、来年の3月15日頃から約1週間掛けて取り外し、作業開始と逆で、“唐崎の松“が一番最後になります。


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(遠くから望遠で)


兼六園の雪吊りの種類と本数
種類                      本数
りんご吊り  (唐崎の松、巣篭りの松ほか)   54本
幹吊り    (根上の松、播州松はか)      60本
その他    (ツツジほか)           700ヶ所

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(多くの見物客)


使用材料
・藁縄: 径6,8mmの2種類使用 総重量4,000㎏
・芯柱 : アテ丸太、真竹

参考:以前に庭師のから聞いた話のメモなど

今、話題の下新町辺り!!

【浅野川大橋→中の橋】
11月4日は泉鏡花の誕生日だそうです。今年が生誕140周年という事から金沢では記念事業が行なわれ、3日には「鏡花うさぎまつり」が、下新町の久保市さんを中心に、“主計町”と“ひがし”の両茶屋街辺りで行なわれたそうです。


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(泉鏡花記念館)


そうです。というのは、聞いていたのですが、体が一つしか無いので先約が有り他所に出かけていて、下新町、主計町界隈好きの私としては残念至極でした。鏡花ゆかりの地を巡るウオーキングも有り、新聞には、“鏡花の世界1600人楽しむ”の大見出しと楽しそうな写真で報じられていました。


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(11月4日北国新聞記事)

また、久保市さん境内では、東京の神楽坂から老舗の出店や下新町のおでん屋さん、佃煮屋さんが出店し、マーケットも開かれ、浅野川倶楽部では朗読会、主計町の芸妓さんの舞やお座敷太鼓体験とお楽しみが目白押しだったそうです。



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(下新町)


4日は、朝から用事を済ませ自転車で走っていると浅野川大橋あたりで雨になり、文化施設の”1年間バスボート“を利用し泉鏡花記念館で雨宿り、生誕140年目の誕生日、地元の人より、そのことをご存知の観光のお客さまが多くいらっしゃいました。


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(暗がり坂下)


泉鏡花記念館では、その日は”うさぎグッス“を身のつけた人に先着何名かにプレゼントがあり、また、関連イベントとして文化ホールでは「シンポジウム」も行なわれたそうです。


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(久保市さんの大けや木)

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(ひがし茶屋街)


最近、下新町の話題に、東京神楽坂に住んだ鏡花の縁から、東京神楽坂との交流が始まったと聞きます。「鏡花を追ってプロジェクト」と題した事業の実行委員会を立ち上げ、東京で上演される鏡花原作演劇の合同鑑賞ツアーなど、人的交流事業が着々と進んでいるらしく、どうも神楽坂を拠点に活動する作家で泉鏡花文学賞選考委員の嵐山光三郎さんの後押しもあるそうです。


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(あかり坂上)


再来年になった北陸新幹線金沢開業により金沢→東京も2時間半と、ますます近くなるので、交流が深まれば、泉鏡花のご縁が、今に活かされ、鏡花人気もさらに増幅されるように思われます。


聞くところによると、元々下新町界隈と神楽坂はよく似たとこのある町だそうですが・・・。



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(主計町の西内惣構)

金沢の金箔!!金箔の金沢!!

【浅野川大橋→小橋】
金沢の金箔製造は、日本の9割以上とか99%といわれ、「黄金の国ジパング」における唯一の生産地です。そして、今や金沢の観光の拠点として知られる“ひがし茶屋街”では、箔屋さんが何軒もあり、“黄金のトイレ”や“プラチナ入り金箔を2万枚も貼った蔵”など、工夫を凝らし観光客を驚かせています。


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(ひかり蔵の黄金の蔵)


近年、金沢の個性を表現する手段の一つとして金箔が売り込まれ金沢の知名度アップに活用され、“金沢といえば金箔”“金箔といえば金沢”が、かなり浸透していますが、それに乗ずるように、どのお店も工夫を凝らし大いに賑わっているようです。


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(黄金の蔵の解説)


商品も、従来からの素材としての金箔に留まらず、箔を使用した新商品が次々と開発され、装飾品や装身具、食品、さらに箔製造の副産物である“あぶらとり紙”などが観光客を誘い迷わせています。また、昨今の体験ブームから、お箸やブローチ、パネルなどの箔貼り体験が人気です。


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(体験)


それから“ひがし茶屋街”近くには「金沢市立安江金箔工芸館」があります。以前は金沢駅近くにあり、個人が私財を投じて建設し、後に市に寄付された全国でも珍しい金箔工芸館で、平成22年(2010)に、箔業の発祥の地であり、箔の店舗が集積するこの地に移転してきました。


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(安江金箔工芸館)


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(安江金箔工芸館内部)


施設は、企画展示室や常設展示室に箔技術の研究所が併設されたミュージアムで、施設は素晴らしいのですが、以前の金箔工芸館のように箔製品の販売や実演、体験コーナーが無く、民間圧迫からの対処なのでしょうが、観光というより、シ~ンとしていて、お勉強に行くところになっています。


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(ひがし茶屋街の箔屋さん)


金沢の金箔は、今や独占的なシェアーですが、戦前の昭和15年(1940)には、使用制限令や奢侈品等製造販売制限規則が施行され、箔の生産が出来なくなり、箔業は壊滅状態になりました。やがて戦争が終わり、金箔製造が復活すると京都では多く業者が転業していて、大きな箔打ち仕事は金沢にお鉢が廻ってきたということだったと聞きます。


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(ひがし茶屋街の箔屋さん)


さらに昭和25年(1950)、朝鮮戦争が特需景気となり、昭和36年(1961)には親鸞上人大遠忌で箔の需要が増加したそうです。当時の金箔の需要は仏壇製造や仏具などで、素材としての金箔製造が主なものだったそうです。


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(老舗の箔屋さん)


≪話は唐突に・・・。金箔の話ではなく、金沢と金のお話で~す。≫
むかし、むか~し、4万年以上も前、小立野台を蛇行して流れる浅野川と犀川は一つの川だったそうです。やがて海が沈下し、傾斜が急になり、小立野台が侵食され、河岸段丘がつくられたとき、川の上流の片麻岩に含有する“金”が大量に段丘に沈殿したといいます。


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(ひがし茶屋街の箔屋さん)


砂金が一番多く沈殿した地域は、現在の兼六園、金沢城だったといわれていて、15世紀頃、今の金沢城の辺りでは、露天掘りで砂金が採集されたと伝えられています。砂金は当時、金屋という技術集団がいて、砂金目当てに今の尾山神社の所に集まり住み着いたといいます。


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(金屋町跡現尾山神社・金屏風風の装飾、金箔で出来ないのでしょうか?)


そこは金屋達が住み着いたことから金屋町といい、付近の堤では砂金を洗ったと伝えられています。そこは藩政期になると金沢城の出城になり、やがて金谷御殿に、金屋町は森下町の先へ、“堤”は現在の堤町へ移ったといわれています。また、金屋たちは早くから一向宗の蓮如に帰依し、砂金を本願寺に志納したといわれています。


はい、金沢と砂金のお話でした。
金箔と金沢の歴史は、またいつか書きます。

東山の町家アトリエで

【浅野川大橋→中の橋】
金沢では、大学の先生たちが10年ぐらい前から「町家トーク」「町家見学会」「町家人のたしなみ」など、町家、町家と言い出し、普段は非公開の市内の町家を使い、期間限定で、意見交換会やインスタレーション、コンサート、演劇などのアートイベントが開催されるようになりました。


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(シェアアトリエひがしやま荘)


それが、“町家で学ぶ“になり、”住みたい町家を探そう“”町家大掃除“”町家に住もう“”町家の仕事“”町家でアート“と掛け声も随分変化して、この頃は” 町家ショップめぐり“といい、改修された町家めぐりが行なわれています。その間、NPO法人金澤町家研究会が立ち上がり毎年「町家巡遊」という市内の町家を巡るイベントが定着しています。


(聞くところによると、金沢の旧市街地には約8千棟の町家が残っているそうですが、最近では毎年約300棟近くが取り壊されており、「歴史都市」に認定された金沢の都市資産が消滅の一途を辿っているそうです。その状況を打破しようとNPO法人金澤町家研究会が組織され、調査研究活動として設立されたそうです。因みの金沢町家とは、昭和25年以前に建てられた木造住宅のことだそうです。)


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(ひがしやま荘の看板)


最近は、改修したり再生された町家もかなり増え、工芸のショップやアーチストのアトリエ、それから何人かでシェアするところもあり、その場を公開するところも出来ています。近い将来、工房でありながらショップとして金沢観光の一翼を担う存在になりそうな勢いを感じますが、あと一つそこで製作しながら生活が成り立つかどうかが今後の課題だと思います。


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(活版印刷ユートピアノ)


アーチストは、頼まれもしない仕事を、自分の“意思“と”意志”で創ることから、他人が見ると金にもならない仕事に、アルバイトしながらそれでも嬉々として打ち込んでいるのを、別次元に住む人のように思い、勝手にやっているのだからと人毎としてしか見ませんが、誰も霞を食って生きて行けないのですから、非常に難しいことですが、安く住めるというだけでなくアーチストが金になるようなことも含めて研究をしなければ、一過性のものに終わってしまいそうです。


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(活版印刷)


先進地京都の西陣では、伝統工芸西陣織が30年前の5%の出荷しかなく、衰退の一途を辿りだし、西陣産地の継承は、“アーチストの集まりから始まる“として現代アートの作家を町家の仕事場兼住居として貸し出し、今や170組以上が家族と入居していると聞きます。そして、それが西陣に新しい産業を生み、新たな生活スタイルを提案している場になっているといいます。そして、アートやアーチストを文化としてとらえるのではなく、産業としてとらえるといいます。


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(アトリエ内)


今日は、最近オープンで、この間、見てきた東山のシェアアトリエ”ひがしやま荘”を書こうと思ったのですが、書いている内に前に「金沢まちづくり市民研究機構」で研究した、「アーチスト・イン・レジデンス」のことがダブり、そちらに反れてしまいました。今回は”ひがしやま荘”は写真と簡単な紹介にして、またにしますが、入居者の組み合わせが素敵でした。


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(ひがしやま荘の店内)


昭和13年から続く建具屋さんの作業場を、2つのアトリエと3つのものづくりが入居し、中でも、活版印刷のユートピアノやオリジナルの箱を創るHACO:yaなどアートだけに固執するのではなく、しかし、アート関連の職種がシェアしているのが“いいな~”と思います。


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(箱屋の店)


え~と、突然です・・・。何故、町家にアートなのか!ああ、それ以前にアートですが、少しややこしくなりますが、私たちの常識ではアートは作品であり、アーチストはそのアートを生み出す人です。大体は生活において便利という物ではなく、役に立たない物のように思われていますが、よくよく考えると、これがどうして!!その効用は、人類の歴史において図り知れないものがあることに気づかされます。


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(ひがしやま荘の店内)


アートの本質は「感動や沈黙を含んだ奥深いコミュニケーション」といった大学の先生や「異文化のコミュニケーション言語」といった美術館長もいましたが、どうも分かりにくい。工芸やデザインは、お客様の注文によって作られる「製品」ですが、アートは作品で、神が地球を始めて創った?ように、全く新たな表現?であり(創造性)、個人の表出(独自性)で、それが他者とを繋ぐコミュニケーション(意志(思)疎通)ということのようです・・・。


アートはすべての接着材かな・・・。(受け売りで~す。)


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(ひがしやま荘の店頭)


参考資料:金沢まちづくり市民研究機構8Fグループ研究成果報告書「金沢まちなかアーチスト・イン・レジデンス」より

金沢職人大学校の長町研修塾と匠心庵

【長町・大和町・東山】
長町研修塾は、いつもお客様と長町の武家屋敷巡りで露地を見せて戴いていますが、先日、“何時かお茶会を”という思いが叶い、ガイド仲間と情報交換や経験談などを肴にお茶会とお食事会を行ないました。お座敷から障子を開けると、ひんやりと一足早い冬寒が身にしみましたが、露地の品よく配された樹木は、色も形もバランスが良く、紅葉が目に心地よく映りました。


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(匠心庵の露地)


この素敵な露地の長町研修塾は、平成8年(1996)に開校した金沢職人大学校の1期生が修了記念に、平成10年(1998)9月から平成11年(1999)3月にかけて金沢職人大学校の修復技術の総合学習として長町武家屋敷群の修景に合わせ修復されました。


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(長町研修塾)


母屋の建物は、江戸時代末期とか明治初期に建てられた建物といわれていますが、その後、増築・改築を重ね今に至ったものだそうです。建物の後ろにある茶室匠心庵は母屋の修復と平行して大学校で3年間学んだ集大成として建てられたものだそうです。


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(匠心庵)


金沢職人大学校は、木造建築伝統技術の保全・継承と、熟練技術者の育成を目的に設立されたもので、当時の金沢市長の山出保氏が中心となり、9つの組合の皆様が協議を重ね、文化庁をなどの協力を得て開校の漕ぎ着けたもので、全国で初て訓練校でも専門学校でもなく、市出資による無制度の学校です。

(9つの組合は、大工、建具、畳、左官、瓦、板金、造園、石工、表具)


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(大和町の金沢職人大学校)


その設立の経緯は、山出保氏の「金沢の気骨」に詳しく書かれています。切っ掛けは山出氏の気づきと危機感でした。その頃すでに、金沢には宮大工がいても高齢で、当時知り合いの80歳過ぎの棟梁に聞くと「なんとかせんといかん」ということだったそうです。


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(大和町の金沢職人大学校と金沢市民芸術村)


その棟梁が毎日、山出宅に朝早くから訪れてきて、いろいろ熱心に提案するので、山出氏も真剣になり、「職人大学校をつろう」と腹を固めたという話が書かれています。今に思えば、山出氏の気づきがなければ、金沢に残る伝統的で高度な職人技の伝承や人材の育成が途切れてしまっていた、といっても過言ではないように思います。興味のある方はご一読を・・・。


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(金沢城五十間長屋と菱櫓)


職人というのはいくら腕を磨いても仕事があって初めて伝えられるもの、幸い金沢は、戦災に遭っていないこともあり昔の建物の修復や金沢らしいとされる景観などから、職人仕事も求められ金沢職人大学校の修了者達が、神社、仏閣の修理や歴史的建造物の復元、茶室の移転、さらには、金沢城の復元、町家の再生などは、彼等の技と腕が欠かせなくなっています。


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(ひがし茶屋街休憩館)


身近なところでは、私達が観光ガイドの拠点として使わせて戴いている「ひがし茶屋街休憩館」も彼等の仕事で、大工仕事では木象嵌や釘を使わず柱を繋ぐ技術を駆使し、畳は今では皆無の床から手縫いで手間をかけた仕事で修復されています。



金沢職人大学校
www.k-syokudai.jp/‎

大野は醤油と北前船

【浅野川下流大野川河口】
古い町並みの大野は、近年、金沢新港が整備され大野川の右岸の大野町新町には石油基地が日本海に面した一角に小松製作所の金沢工場が建設され産業機械を直接世界各地へ輸出できるようになりました。


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(直源さん①)


古代から大野湊として知られた大野は、漁業と藩政初期からの醤油醸造そして海運業(北前船)で栄えました。醤油は五大生産地の一つに数えられた“醤油のふるさと”で、今も20数軒の蔵が「大野醤油」として醸造され、味は蔵それぞれ、小さな蔵の職人が造るこだわりの醤油が造られています。


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(直源さん②)


北前船で栄えた土地ならではの“進取の気性”と古い町並みを大切にする“郷土愛”が相まって、多くの町が失ってしまった町ぐるみの一体感は、今も住民の“まつり”や“まちづくり”に積極的に関わっている姿から伝わってきます。


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(大野の町並み)


町立ては、安政3年(1856)11月に宮腰町奉行の支配下で大野町になります。藩政期は、隣接している宮腰(現在の金石地区)とともに北前船の寄港地で繁栄しますが、大野の港にも外港機能がありながら、大野町と宮腰町の間で利害が対立することから、争いが絶えず、この状況を見兼ねた加賀藩は、幕末慶応2年(1866)宮腰町と大野町を地域として融合させようと合併させられました。


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(大野の町で玄関先)


新しい町名として「固いこと金石(きんせき)の交わり(固い約束の意味)」から金石(かないわ)を町名として採用され、宮腰地域が金石町本町、大野地域が金石町庄町となりました。(明治の入り上金石町、下金石町となります。)

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(大野の町並み)


(下金石町(金石町庄町)となった大野町は一般的には大野町で通用することが多く、金石という名称は上金石町(宮腰)として認知されるようになり、大野町は様々な不都合が生じることから、当時の石川県庁や明治政府に町名変更を請願し、明治31年(1898)3月12日に下金石町が大野町に改称されることになりました。)


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(直源さんのオエ)


大野醤油の歴史は、3代藩主前田利常公の命で元和年間(1615~1624)。大野の町人直江屋伊兵衛が醤油発祥の地紀州湯浅で醸造法を学び、伝えたことに始まります。その後、金沢の城下形成と人口増加に合わせて醤油生産は根づき、文化年間(1804~1818)には北前船によって能登から北海道へも出荷されるようになり、弘化・嘉永年間(1844~1854)になると、加賀藩の保護を受けたこともあり、醤油醸造業者の数は60軒以上もあったといいます。



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(今の直源さんの蔵)


藩政末期の町並みは、建物の殆どが板葺き屋根で、伝統的な様式の町家は大型の建物が多く、醤油醸造業者や廻船問屋や船主の大きな建物が軒連ねていたそうです。今も昔ながらの木虫籠組の町家や古い醤油蔵がいくつか残り、屋根は瓦に葺き替えいるものの当時の繁栄を今に伝えています。
(因みに有名なお寿司屋さんは回船問屋の建物を改修したものだと聞きます。)


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(町の案内板)


現在、大野は、伝統的な町家が素敵に改修され点在し、見学が出来るところもあります。一方、大野大橋からは雄大な日本海が、大野川には漁船が、そして、遠くに白山連峰が一望できる景観がすばらしく、また、金沢港には豪華客船が時々寄航します。


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(醤油製品)


大野らしさが味わえるものとしては、店として改装された醤油蔵で醤油製品の試食や醤油ソフトクリームを楽しむことができます。


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(直源さんにて)


また、平成8年(1996)開館した「石川県金沢港大野からくり記念館」は、大野町が、県に働き掛けオープンに漕ぎ着けてもので、幕末に大野に移り住み加賀藩のレオナルド・ダビンチといわれた大野弁吉の作品と功績が紹介されています。

加賀藩ゆかりの・・・京都

【京都市内】
京都日帰りの研修旅行に参加しました。金沢観光ボランティアガイドの研修です。テーマは“加賀藩ゆかりの京都”午前7時に金沢をスタートし、午後9時前に金沢着という強行軍でした。


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(智積院)


立ち寄り先は、幹事苦心のプランで二条城、建仁寺、霊山歴史館、霊山護国神社、智積院それから高台寺の駐車場、そこから建仁寺までの徒歩付きで約1万数千歩、この時季、天候不順の北陸人としては、妬ましいくらいの好天の晩秋の一日でした。


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(二条城)


幕末加賀藩の本陣で、金沢に住んだという伝説の俵屋宗達の「風神雷神図」がある建仁寺。加賀藩安達幸之助の墓がある霊山護国神社(時間がなく霊山歴史館のみ)。七尾出身の長谷川等伯の国宝「楓図」などの障壁画が見学出来る智積院。そしてお松の方と懇意であったという高台院(北政所)の高台寺。加賀藩ゆかり?二の丸御殿繋がりでしょうか、よく分りませんが、二条城を楽しみました。


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(建仁寺)


いずれにしても、京都では、当たり前といえば当たり前ですが、何処にも加賀藩との繋がり等は書かれていませんが、幹事の苦心の後が伺えます。特に今回は坂本竜馬の墓より期待していた加賀藩の逸材安達幸之助の墓が、先に寄った霊山歴史館の地図にないことから、興味はいっぺんに覚めてしまいました。(実際には存在します。)


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(京都の町で)


その為、時間が足りなくなったこともありますが、すぐ目の前に見える護国神社へ行くのを飛ばしてしまいました。田舎者の私など“加賀っぽ”は郷土愛が強すぎて、いつも何処でも、興味は加賀藩が中心なってしまうことを改めて自覚しました。


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お勉強の研修旅行でしたが、何といってもこのシーズン、それにこの好天、幹事サマサマです。京都の紅葉狩りは、話には聞いていましたが、こんなに美しいとは・・・このようなのを錦秋というのでしょうか。散り際の精一杯の輝きというか、最後のあがきのようにも思え、目には華やかに、心には寂しさが沁みてきました。


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(智積院の複製画)
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(京都の紅葉)


今日後半は、”加賀っぽ”であることも”郷土愛”も忘れ、只々、京都に見とれ、京都に惚れて、ボ~としていました。その為か、帰りには、ビールを買うのも忘れ、高速道路の入り、イライラしながら3時間半、バスに揺れ揺られて金沢へ。


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少しくたばりましたが、イイ旅になりました・・・。


満天星(どうだんつつじ)見ごろ

【浅野川大橋→中の橋】
寺島蔵人邸の、樹齢350年以上といわれる庭の満天星(どうだんつつじ)は、今年4月、春の開花前に、幹の一部を切断しました。新しく伸びてきた枝の生育を促すためだそうで、老木を切るという“大手術”を行なうことで生育環境の改善を図ったのだそうです。


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(手前は満天星の老木)


春に訪れたときは、名木に白い花が咲き、ほっとしましたが、今度は紅葉です。今年は11月の入ると、お客様から寺島蔵人邸ご指名の予約が入り2度ほど下見に来ました。ご案内した今月中頃には“まだまだこれから”で、残念ながらでした。


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(満天星と乾泉)


樹齢350年以上!!平成20年(2008)頃から枯れ始めたそうで、市で調べたところ、古い庭園であることから土が硬くて、“つつじ”の根が栄養を吸収できていないことが分かり、土壌改良材や肥料を与え、成り行きを見守ってきたそうです。


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(満天星ともみじの落ち葉)


しかし、よく調べてみると、庭の手前の“つつじ“の幹が枯れて空洞化していて、蘇生の余地が無いことが分かり、ほっておくと枯れた枝には虫が寄りやすく、新たに伸びている若木の生育にも影響するという事から、痛々しく見えますが、やむなく切断することになったのだそうです。


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(もみじの絨毯(じゅうたん)と左隅に切断した幹が見える)


今日28日、北国新聞の朝刊に、写真と共の“見ごろ”の文字を見て、所用を済ませ出掛けました。座敷から望め、庭に下り風で落ちた赤い“もみじ”の絨毯(じゅうたん)に黄金色の“満天星”を眺めていると、何故か、忘れ物を思い出し、もう少しそこに座って居たかったのですが、あたふたと寺島邸をあとにしました。


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(黄金色の満天星と三重九輪の塔)


それにしても、今日のお庭は「乾泉(けんせん)」といわれる枯山水に落葉が赤く染め、三重九輪の塔から眺める黄金色の満天星が見るものを惹きつけていました。


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(寺島蔵人邸の座敷にて)


昔、座敷からお庭を眺め「ここに静座すれば一日は両日、もし七十年生きれば、それは百四十年に値する」と詠じた浅野屋秋台の声が聞こえてくるような・・・藩政期にタイムスリップした錯覚に浸れるのも、ここ寺島蔵人邸の魅力なのでしょう・・・。

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金沢の俵屋宗達伝説

【京都・金沢市内】
先日、京都の建仁寺で「風神雷神図」を見ました。複製だったそうですが、私の勝手な思い込みから本物に違いないと写真も控えて撮らずじまい、ここに画像のアップも出来ず今さらながら、自分のそそっかしさに呆れています。


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(京都建仁寺)


超有名な屏風画ですから見なくてもお分かりだと思いますが、パンフレットを写しました。「風神雷神図」は尾形光琳や酒井抱一、鈴木其一のものも画集でしかし知りませんが、元となったといわれる宗達の作品が一番のお気に入りで、今回の旅もこの二曲一双を見ることがお目当ての一つだったのに・・・オリジナル、そんな分けないですよね、いい歳をして田舎者丸出しで~す。


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(建仁寺のパンフ)


藩政初期、金沢には弟子とも息子ともいわれた前田家お抱え絵師の俵屋宗雪の工房があったこともあり、真偽の程は分かりませんが“宗達伝説”が幾つか語り継がれています。今日は私が知っている伝説の内、好きなのを紹介します。


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(京都建仁寺)


その一つは、宗達は「出大工町(現木倉町)の上宮寺前(今は公園)の炭薪屋」伝説。
宗達は、元は炭薪屋で木倉町に住んでいたというものや、京から金沢の木倉町に移り住み京では行方不明扱いだったなど・・・。


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(伝宗達の杉板絵)


(木倉町は、金沢城下町再建に際し宮腰や大野の港から犀川や木曳川を利用して木材を運んでこの辺り(今の長町武家屋敷界隈)に集められたのでは木倉町といったという。)


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(金沢宝円寺)


その二、宝円寺の「画かき宗達墓」伝説
大正3年春、宗達記念会が東京上野公園で開催され、「宗達画集」が出版されることになり、墓の調査を当時の金沢市長に依頼されました。市史編纂の和田文次郎が宝円寺の過去帳(田原屋の條の「泰嶺院宗眞劉達居士 寛永二十年八月十二日」と五輪塔を見つけたことから、以来、その五輪塔を「宗達の墓」としました。金沢では、その年に宗達会を発足させ、以後、現在も宗達忌法要と茶会が行われています。ただ、この五輪塔が「宗達の墓」であるかどうかは議論のあるところで、現在のところは金沢だけで通用する話のようです。


(宗達の生没は、美術年鑑などでは生没年不詳になっています。)


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(金沢宝円寺の宗達の墓)


その三、「伝宗達の杉板画」伝説
寺町の法華宗の承証寺や兼六園の三芳庵の「伝宗達の杉板画」があり、私は、いずれも見ていますが、実際には、前出の俵屋宗雪の工房のものではという話もあります。承証寺の絵は、杉戸にうさぎが描かれていて宗達の絵としては珍しいものだそうです。宗達の筆であるかどうかは、「伝宗達」といわれているので、私には何ともいえません。



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(金沢兼六園の三芳庵)


因みに、宗達の通称は野々村宗達で、俵屋宗雪は喜多川宗雪というらしい・・・。

大野に、日本のダ・ビンチ がいた・・・。

【大野川河口・大野町】
大野弁吉は、日本のレオナルド・ダ・ビンチといわれています。京生まれの天才発明家が、何故、北陸の港町に・・。通り一遍の年表によると、大野生まれの妻“うた”の実家に来て婿になり中村屋を名乗り定住したということなのでしょうが、それでは単なる妻コン男のように聞こえます。果たして・・・。


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(金沢港・石油基地)


無理やりですが、「知と銭と閑の三つのもの備わざれば、究理発明すること能わず」といったという弁吉の残した言葉から察すれば、静かな田舎の村で過ごす・・・。「知」と「閑」は、何となく分かったような気がしますが、もう一つの「銭」は田舎では・・・?


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(大野弁吉)


弁吉は、あまり「銭」には慾が少なかったようで、清貧に甘んじ、根付や書画で生計を立てています。弁吉の才能を聞きつけた隣町の豪商銭屋五兵衛が、金を持参して訪れますが受取らないので、仕事の前金だと言ってやっと受け取ったという逸話が伝えられています。


(あまり知られていませんが、弁吉は銭屋五兵衛の何人かいたブレーンの一人になったといいます。弁吉は黒子に徹し、歴史の表面に出てきませんが外国との貿易など、銭屋五兵衛が海で展開した幅広い商活動のほとんどは、この弁吉の進言によるものとする歴史家もいます。また、当時加賀藩が召抱えようとしたが応じなかったという話も伝わっています。)


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(金沢港からくり記念館)


享和元年(1801)京の羽根細工師の子として生まれ、20歳頃長崎に出て、医学、天文学、理化学を学び、さらに対馬から朝鮮に渡っているそうですが、実に多才で他に馬術、砲術、算術を究めたといいます。30歳頃、加賀の国大野村に移住し、没するまでこの漁村で北前船の寄港地で過ごします。


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(金沢新港)


当時、後に芝浦製作所(東芝の前身)を築いた発明家「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重とは対照的な生き方をしています。時として、奇人・変人扱いされたこともありましたが、現在では弁吉に関する研究が進むにつれ、数々の偉業が明らかになり、その評価は全国的にも高まってきています。


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(からくり記念館内部)


弁吉の発明品の一つエレキテルは、ボルタ電池により電気を起こし、握り棒を両手に持たせ、円盤を回転させるとビリビリと電気ショックを受けるという、現在の電気マッサージ器ですが、今のようにエナメル線がない時代、電線を被覆するのに絹糸を用い、細い絹糸を電線に巻いたというものだったそうです。


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(金沢港)


ビックリするのは弁吉が造った写真機です。当時の写真機は一枚しかプリントできないヨーロッパ伝来の銀板写真が使われていましたが、何枚でもプリントが出来る“湿板写真”で、日本最古といわれる写真機を製作しています。このような写真機はヨーロッパでも造られます。おそらく弁吉のものの方が早いのではと思われますが、製作された年月日の記録が無いのが何とも残念です。


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(からくり人形)


他には「からくり人形」は当然ですが、天文・暦数学の著作や地動説を示す地球儀、測量機器やピストル、望遠鏡、ライターなどを製作していて、有名な著作では「一東視窮録」があり、今で言う「科学百科事典」で、医学・理化学・機械工学に関する当時の最新科学技術が網羅されているそうです。


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(津田吉之助が造った尾山神社)


弁吉は、明治3年(1870)70歳で生涯を終えますが、弟子達は、和算、医術、彫刻、写真など多分野で明治期に活躍します。その中に織機の製作や尾山神社の神門で有名な津田吉之助もいます。現在の絹織物機械「津田駒工業(株)」は吉之助の甥により創設された会社だと聞きました。


金沢港大野からくり記念館
開館時間 9:00~17:00 (入館は16:30まで)
休館日 水曜日、年末年始
石川県金沢市大野町4-甲2-29、TEL:076-266-1311


参考資料:「石川県金沢港大野からくり記念館」ウィキベディアフリー百科事典ja.wikipedia.org/wiki/ 

金沢アートグミのギャラリーに戦艦が

【武蔵が辻】
金沢アートグミのギャラリーが様変わりしています。なんと、面白い戦艦が2隻浮かんでいます。面白い!!といっても人それぞれですので、“私が好きな”といったほうが適切でしょう。紙で作った大きな巡洋艦と空母らしい物体がギャラリーの対角線上に対峙しています。戦っているという緊張感は感じられませんが、何ともユーモラスに見えます。


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(対峙す戦艦(黒猫と白猫)


何が好きなんだ?って聞かれても・・・面白いから・・・って事になりますが、それではしょうがないので、暇に任せて、私の好きさ加減と屁理屈を書き連ねることにします。


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(ポスターと戦艦の模型の模型)


「闘争」がテーマだそうです。そして素材は、昔々私が子どもの頃、雑誌の付録の紙模型を思わせるチャッチィさで、完成度は高くはないが、しかし離れて眺めるとリアリティ感があります。紙相撲のように現実とは程遠く、見方によっては、ドンキホーテイのような無謀で滑稽さが笑わせてくれます。


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(巡洋艦らしき黒猫の戦艦)


また、猫が猫と戦っている様子は、人間同士が戦う現実のようにも見え、しかも、巡洋艦の猫は、紙とは思えぬ軍人らしい凛々しさと堂々とした衿持が窺えます。作者の感性と、その表現力は、ジイーと眺めていると架空の世界が現実に思える瞬間を誘います。


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(堂々とした黒猫)

作者は紙を使うのは、「軽さ」「安さ」「解体・構築がしやすい」「持ち運びが容易」といっているそうですが、戦う戦艦を鉄とは対象的な、「弱くて」「破れやすく」「壊れやすく」「チャッチイ」紙が素材だというのが皮肉っぽくて私の好きなところでもあります。


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(空母らしき白猫の戦艦)


聞くところに因るとバイトをしながら、独自の世界を考察し、せっせと製作しているそうで、今回もバイトに追われ、製作時間が足りず、開催予定を遅らせたとか、しかもまだ手を加えなくてはという事のようですが、私が最近見た好きな作品の一つです。


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(白猫の戦闘機)
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(猫のスケッチ)


まだまだ未完成!?これから手直しやら付け加えるところも有ると聞きますので会期が終わる12月23日まで、どのように変化して行くのか楽しみです。


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(白猫の戦闘機)


作家本人にも興味がわきます。12月7日夜、金沢アートグミのチャリティ・パーティでお逢い出来るかも・・・。

東外惣構の起点!?兼六園山崎山の謎

【兼六園→浅野川左岸(並木町)】
兼六園の小立野口から入ると右側に山崎山があります。紅葉が有名で、他に24基の灯籠(16基)と石塔(8基)があり、よく知られているのは12代藩主斉広公の正室、真龍院様が御室御所の塔を模して造らせたのもので、この塔は時の流れを表しているそうです。


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(晩秋の山崎山)


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(紅葉が散った山崎山)


表に日輪、裏には月が刻まれ、日輪を眺め回ると月が眺められます。たった数歩歩くだけで一日が過ぎて行く・・・。先立った12代藩主斉広公への真龍院様の心情が伝わってきそうな、そんな風情を漂わせています。


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(御室御所の塔を模した塔)


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(山崎山の山頂)
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(山崎の荘を示す解説板)


付近には、伽羅の木、国見灯篭、泉水から見上げる石の庭、卯辰山を借景にした遠州好みの景色、山の周りには樹齢200~300年といわれる欅、銀杏、楓、トチの木などの落葉樹が秋には紅葉名所になりますが、洗練された兼六園の築山と少し違い、見方にもよりますが、庭園の築山として元来作られたものではなさそうな武骨さが窺えます。


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(樹齢300年と思われる大きなケヤキの枯れた根っ子)


昔、この辺りは「山崎の荘」と呼んでいたことから、この名が付いたといわれていますが、そこに高さ9m、周囲160mほどの山がつくられたのは、慶長4年(1599)加賀藩存亡の危機に遭遇したとき、金沢城の周りに惣構を急遽つくって防衛力を強めたということで造られた遺構と見られています。


(山崎の村は、藩政期今の金大医の駐車場辺りへ、その後、上野町に移転させられます。)


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(ケヤキなど落葉樹に覆われた山崎山)


しかし、山崎山の土居は、どうも慶長4年に築かれたものとは言い切れないところがあります。単純な素人考えですが、山崎山の土居は、東内惣構の起点ではなく、慶長15年に築かれた東外惣構の起点だということですが・・・・?


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(延宝金沢図・青色は東外惣構)


惣構とは、金沢城側に防衛施設として土を盛り上げた土居で、記録によると、内惣構は、徳川家との緊張関係が高まったことを受け、慶長4年(1599)に2代利長公の客将高山右近の指揮で造られ、外惣構は11年後の慶長15年(1610))に3代利常公家臣篠原一孝の指揮で構築されたと伝えられています。




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(山崎山の下の池、東外惣構の堀の起点)


東外惣構と堀については、以前にも書きましたが、復習しますと、延宝年間(1673~1681)の金沢図によりと、兼六園山崎山の土居が惣構の起点になっています。図の惣構の堀は、延宝図では水堀ですが、作られた慶長の頃は空堀だったと思われます。


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(この辺りに霞滝が、現在兼々御亭)


水堀になったのは辰巳用水が開削される寛永9年(1632)以後のことになると思われます。現在、山崎山の下にある池は、氷室があったと言い伝えられていますが、この池が氷室に利用されたのは、明治以後のことであり、藩政期は、東外惣構の起点として辰巳用水から引いた水を、現在の兼々御亭辺りにあった霞滝から落下させ、源太郎川に合流し浅野川左岸の並木町から浅野川へ注いでいました。

犀川から浅野川へ・・・辰巳用水①

【上辰巳(東岩)→兼六園→浅野川】
金沢城惣構の堀は全て、犀川より水を引く辰巳用水を流れ浅野川へ排出されていました。厳密には辰巳用水の分水ということになります。実は藩政初期、板屋兵四郎が設計施工した辰巳用水の定義は、犀川上流から金沢城までの区間とされているからです。


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(史跡辰巳用水の石碑)


東の惣構は、上辰巳から旧金沢大学工学部前を通り、昔は天徳院や如来寺、経王寺をひと回りして木曽谷、旧成瀬町を流れる源太郎川が、小立野台から兼六園山崎山下、八坂(昔は霞ヶ滝)を流れる東外惣構の流れと合流し、材木町より並木町、浅野川へ。


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(旧金沢大学工学部前の辰巳用水)


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(並木町の排水口)


東内惣構の流れは、玉泉園の裏(旧脇田家の表)からといわれていますが、多分、金沢城に入る辰巳用水を兼六園で分水しものと思われます。その流れは、小将町から味噌蔵町を抜け主計町の浅野川左岸、大橋の少し下流で排出しています。


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(小将町の碑)

西の惣構は、辰巳用水が涌波や笠舞辺りの河岸段丘に灌漑用として幾筋も分水していますが、その一部が湧水の「大清水」から流れる水に合流、さらに犀川の油堰から流れる鞍月用水に合流し、さらに小立野台を流れる辰巳用水の分水が「美術の小径」の滝から西外惣構の流れを柿木畠で合流し香林坊下、高岡町藪の内、枡形から小橋の下より浅野川へ。

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(大清水と解説)
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(香林坊下を流れる鞍月用水(西外惣構))


(藩政期は、今の紫錦台中学の前の辰巳用水が分水し旧出羽町5番丁(現石引4丁目)から出羽町を流れ今の美術の小径辺りに、そこから壮猶館横(今の知事公舎)の西外惣構に注いでいたものと思われます。)


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(今の美術の小径の滝)


西内惣構の堀は、藩政期、辰巳用水の流れが兼六園を通り百間堀から宮守堀へ、その流れが、今の尾山神社の前を通り近江町を流れ旧母衣町から主計町へ、そして浅野川に注いでいましたが、今はその一部が、近江町用水を流れ浅野川の小橋に注いでいます。


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(尾山神社)

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(復元された宮守堀)
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(復元された主計町の旧西内惣構)


(現在この流れは、少しややこしいのですが、金沢市用水保全条例に基づく名称としては近江町用水までを「辰巳用水」とするそうで、西内惣構堀のあった場所にある辰巳用水というのだそうです。また、最近金沢駅の水の一部が辰巳用水の水だという事を知り、調べると近江町用水が武蔵ヶ辻のエムザ辺りから地下で金沢駅前の都ホテル近くへ、そこからポンプで鼓門へ。30ミリぐらいの口径のパイプで、辰巳用水の水を少しだけ導入しているのだと聞きました。)


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(金沢駅の辰巳用水の解説板)


今回から、辰巳用水について書くことにします。この用水は、今も1日に1,400トンもの水を兼六園や金沢市内に送り続けていますが、造られたのは今から381年前の寛永9年(1632)。前田家三代藩主利常公が小松の町人板屋兵四郎に設計させ1年も満たない期間で施工されたもので、日本の3大用水の一つといわれています。


(日本3大用水、辰巳用水(1632)、箱根用水(1653)、玉川上水(1670)これに赤穂用水を加えて4大用水ともいいます。)


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(兼六園の小立野口裏の取水口)


加賀藩前田家では、表向きの目的は防火用水としますが、実は城の飲料水の確保と防御強化であり、用水を活用した積極的な新田開発も意図されたもので、後の記録によると、この用水を使用する水田の面積は100haを超えているといいます。


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(くらしの博物館前を流れる辰巳用水と碑)


現在でも極めて高い測量技術が要求される約4kmにも及ぶ導水トンネルですが、軟弱地盤を避け屈曲してはいますが、その勾配は極めて正確で必要な水量や流速を得るため水路構造まで、細やかな計算や工夫が随所に施されているそうです。



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(小立野医療センター前を流れる辰巳用水)

何よりも、今もなお現役の用水であることが、その技術の高さを示しています。また、水圧を利用して水を高い位置まで引き上げる伏越の理(逆サイフォンの原理)を取り入れ、しかもこのように大掛かりなものとしては日本で初めてのもといわれています。


(逆サイホンの原理:紀元前312年のローマ水道が初めといわれていますが、昔、読んだ本には、日本でもかなり昔から用いられていたらしく、元国学院大学の樋口清之先生の説によると、飛鳥時代(7世紀)の飛鳥寺の西の噴水に使われていると「続日本書紀」の持統天皇の条にあり、日本人は早くから「サイホンの原理」を知っていたとおっしゃっています。)


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(逆サイホンの原理で造られた兼六園の噴水)


平成22年(2010)2月には、辰巳用水の延長約11kmうち、上流部および中流部の約8.7kmが、「江戸時代の土木技術を知る上で貴重である」として、国の史跡に指定されました。


(つづく)


3代藩主利常公の決断・・・辰巳用水②

【上辰巳(東岩)→兼六園→浅野川】
辰巳用水の取水口は当初、今の東岩より約730m下流に作られた古河にがあり、その後、取水量を増やす目的で約130m上流の“めおと滝”の対岸、雉(鶏)の取水口に付け替えられ、安政2年(1855)にはさらに約600m上流、現在の東岩に移されています。


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(現在の辰巳用水取水口東岩)
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(辰巳ダム上から東岩)


辰巳用水に至る経緯は、天正11年(1583)前田利家公が金沢城に入城しますが、当時の金沢城は小立野台先端の丘の上に位置することから水の便が悪く生活用水は深い井戸に頼っていました。


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(石川門・ここから辰巳用水を取込んだ)


金沢城では、慶長10年(1605)に天守閣が落雷により焼失します。また、元和6年(1620)炬燵の不始末から本丸が全焼するなど火災にあいますが、寛永8年(1631)4月、一藩士が、後に「法船寺焼き」といわれる法船寺門前での放火により、民家1000戸と金沢城の本丸までもが焼失します。


(火災は寛永12年(1635)にも、河原町後ろから出火、浅野川あたりまで1万軒が焼失します。)


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(3代藩主前田利常公)


3代藩主利常公は、この大火を契機に防火用水の建設を幕府へ願い出ようとした矢先、前田家に謀反の疑いありと、二代将軍秀忠公より三ヶ条の詰問状が突きつけられ、前田家にとって最大の危機に遭遇しますが重臣横山康玄を幕府に遣わし、必死の弁明で、どうにか疑念もはれ、大火を理由に防火用水の建設を幕府に願い出で許可を得ます。


(詰問状 1,小将組の強化と城郭修理 2,大阪の陣での追賞 3,船舶、武器等の購入)


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(復元された金沢城五十間長屋)



利常公の本心は、前回もいいましたが「金沢城内の飲料水の確保」「内外の堀に水を満たす」ことにより城の防備を固め、また、用水を利用した積極的な「新田開発」といった目的もあったのでしょう。



辰巳用水工事は、寛永9年(1632)に始まり約9ヶ月と極めて短期間に完成させています。工事は昼夜休みなしの2交替で1人に1日に賄いが4食(当時は普通2食)、それが「加賀の四度飯」といわれ、後々まで超突貫工事の代名詞のようにいわれたと伝えられています。


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(辰巳ダムより犀川)

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(辰巳ダム)


しかし、費用や人員に関する史料はなく、工事費の詳しい費用は試算しか出来ませんが、近接した年代に行われた他の用水のものから推算すると突貫工事であり藩の事業のため、かなりの割増があったと思われます。


(昔、何かの資料から書き写した私のメモには、工事に関わった人数は約14万人。工事費約2,666両とあります?単純計算ですが1日約500人?、工事費は、千両箱が2つ半ちょっと、当時の1両を30万円としても随分安い??)


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(辰巳ダムより加賀の山並み)
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(上辰巳から金沢学院大)


「辰巳用水」を語る上で欠かすことの出来ない人物に板屋兵四郎がいます。豊かな才能と経験から起用されたのでしょうが異例の抜擢で、緊迫した藩の命運を賭けた大土木工事の総責任者を任され、9ヶ月間で完成させています。次回は板屋兵四郎について書こうと思います。


(つづく)

板屋兵四郎・・・辰巳用水③

【上辰巳(東岩)→兼六園→金沢城】
「三壷聞書」には、「…小松町人板屋兵四郎という…」と書かれていて、大阪芝敷村から小松に来たとされていますが、当時、前田家の公事場奉行や算用場奉行などを務めた稲葉左近直富の配下で“下村”という姓の侍だともいわれています。


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(遊歩道の辰巳用水・平成5年遊歩道完成)


(三壷聞書とは、加賀藩の足軽だった山田四郎右衛門(三壷三左衛門)は史書を読み、自ら加賀藩の通史を書き記したもので、鎌倉・室町の簡単な記述から書きおこし、加賀藩における事録を細かに綴り、三代藩主利常公の没までを書き記したものです。)


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(辰巳用水の遊歩道)


兵四郎は元々、和算・測量・数学では知られた人物だったようで、能登で塩田関係の小代官を勤め、その間、寛永7年(1630)には輪島の近くの尾山用水、春日用水の開削をしており、今や能登名所「白米の千枚田」の灌漑も板屋兵四郎の手によるものと伝えられています。


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(今の白米の千枚田)


辰巳用水で兵四郎が行なった画期的な工事は幾つも有ります。取入口を犀川が直角に曲がる地形を利用して造り大量の水を勢いのまま、隧道に流し込ませています。また、隧道は落盤や用水保護のために軟弱地盤を避け、固い岩盤を選んで屈曲させながらも、水流を緩めないように勾配は正確無比で、必要な水量や流速を得るため水路構造まで、細やかな計算、工夫が随所に施されています。


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(遊歩道の図)


究極の技術としては、兼六園から約10mの高低差の水圧を利用し石川橋の土手の上に落とし、南御門の三ノ丸の堀へ、さらに50,2mの二ノ丸へ。伏越の理(逆サイホンの原理)を遣いお城に水を上げています。


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(兼六園霞ヶ池)
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(兼六園のお城への取水口)


(兼六園霞ヶ池海抜52,3m、石川門42,2m、二ノ丸50,2m。当時の導水道管は木管であり、幕末のなり石管に代えられます。)


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(金沢城三ノ丸)
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(二ノ丸にある菱櫓)


このように大事業を成功に導いた兵四郎ですが、用水完成後、工事の機密漏洩を危惧した前田家によって暗殺されたと伝えられていますが、辰巳用水完成の5年後、富山の常願寺川の用水工事の指揮をとったともいわれるなど晩年は謎に包まれています。


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(辰巳用水の概要)


兵四郎の上司で、用水の建設資金調達の責任者であった稲葉左近直富は、寛永17年(1640)に切腹し果てました。罪科は表面的には汚職とされていますが、言い伝えでは稲葉は資金調達のために幕府に無断で大坂への米の輸送路を改修し利益を出しそれにより辰巳用水の建設資金に当てたとかで、前田家は幕府への配慮から政治的に彼を処分したのだと、真しやかに伝えられています。


(板屋兵四郎の暗殺は、このことが喧伝され、稲葉の切腹が兵四郎にすり替わったのではという説もあります。)


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(東岩)


後に兵四郎は、神様になっています。上辰巳と袋板屋町の板屋神社があり、上辰巳町の方が本社で兵四郎が主祭神とされています。また金沢神社の境内に遥拝所があり、兵四郎のご神像が奉納されているそうです。現在も土木や水道関係の業者が工事前に安全祈願や工事成功の祈願に参詣すると聞きます。


(遥拝所と神像は昭和33年(1958)に、板屋兵四郎の子孫の方が奉納したものだそうです。)

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12代藩主前田斉広公と竹沢御殿①

【金沢・兼六園】
竹沢御殿は前田斉広公によって現在の兼六園千歳台から梅林辺りに造られたご隠居所でした。斉広公は10代重教公の次男で、兄の斉敬が早く死んだため、14歳の時、重教公の弟の11代冶脩公の養子になり19歳で家督を受け継ぎ12代の藩主になります。


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(現在の橋爪門と二ノ丸跡)


財政難の厳しい時代、張り切ってスタートしますが、なかなか好転せず、重臣達への不審を募らせ、やがて能に慰めを見出しのめり込んでいったと伝えられています。能に没頭することで、不安やささくれ立った気持ちが鎮まることから、現実からの逃避であったようにも思われます。


(始めは、時勢を洞察し、西洋の学問を導入し治世に極めて熱心であったようですが、中期から能にふけり、苦しい財政を省みることなく、浪費の耽り、その極みは能舞台が2つもある御隠居所、建坪4500坪もあつたという豪壮な竹沢御殿だといわれています。)


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(石川門)


文化5年(1808)7月、26歳の時に金沢城二ノ丸御殿から出火し、2年後の文化7年(1810)7月には御殿再建が終了します。再建費用6900貫目の86%にあたる6000貫目が家臣や領民や豪商の献金によって賄われたといわれ、斉広公は謙虚に「自分は不徳不肖の藩主であるのに、こんな献金があるのは、ひとえに先祖の宿善の候」といって喜びを表したといいます。


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(現在の二の丸跡)
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(現在の橋爪門)


御殿の完成祝いは、金沢城下は2日の休みを令し、「盆正月」の祭りが行なわれ、6回にわたる“規式能”では、造営に尽力した年寄以下藩士が観覧し、職人や町人など数千人を御白州で見物させ、“慰み能”では6000人を招き、いずれも落成した二ノ丸御殿の能舞台で催され、後に斉広公治世における最大のイベントだったと伝えられています。


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(駕籠石ここで斉広公は駕籠を降りる)
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(駕籠石から雁がね橋を渡り書院へ)
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(書院の前の築山(七福神山)


しかし斉広公は、飽きやすいところがあり36歳の時、文政元年(1818)に公務から一時退きたいと言い出し、自ら「御親翰(ごしんかん)」を書いています。


(現代訳にすると「かねがね心労ですぐれず、最近は、目も近眼になり物事があまり見えなくなっている。こんな状態では公務も充分の勤めることは出来ない。これまで大きな間違いも犯さず勤めてきたのを、ここで失敗すれば残念なことになる。この辺りで4,5年公務を退き保養第一に考えたい」と隠居の意向を示しています。)


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(斉広公の寝所の跡に建つ地蔵堂)


文政5年(1822)には幕府に隠居願いを申しで、11歳の斉泰公に、後見人を富山の藩主前田利幹(としつよ)をつけることを条件に許可を得て藩主の座を譲ります。幕府に提出した許可願いには。実際の41歳の年齢を43歳と書き、少しでも年齢を高くして隠居の許可を取りやすくしたようにも窺えます。実際も身体はあまり強くなく、文化15年(文政元)(1818)3月の帰国後、一度も江戸へは行かず国許で過ごしています。


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(写真提供:石川県観光連盟)


斉広公の性格は、自分の思いと藩主としての体裁を保つこととの落差に悩んだといわれていますが、実際に行なった政策はかなり強引なところがあり、裏腹に性格的には繊細で、よく神経症的な症状に陥ったといいます。また、その生涯は5歳の時死んだ父10代重教公と似たところがあったともいわれています。


(10代藩主重教公もかなり強引な政治改革を試み、挫折しています。しかし、後に斉広公もそうであったように隠居後も、藩政を執行します。)


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(後に竹沢御殿の廃材で作ったという斉広公の正室真龍院の隠居所成巽閣)


次回は、竹沢御殿にまつわる逸話やその後の斉広公についてのお話を・・・。



参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など

金沢城二ノ丸御殿より大きい隠居所、竹沢御殿②

【金沢・兼六園】
斉広公は、隠居所竹沢御殿(たけざわごてん)が文政5年(1822)12月に完成し移ります。竹沢御殿は、再建された金沢城二ノ丸御殿3,000坪より大きく壮大な屋敷で建坪4,000坪で、部屋数も200を超えたといわれています。なんと能舞台が二つもあり、斉広公はここで文政7年(1824)7月10日、麻疹で卒去するまで1年7ヶ月、能三昧の日々を送ります。


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(竹沢御殿の書斎があったところと築山(七福神山))

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(七福神山の解説板)


竹沢御殿は、今の兼六園の千歳台を中心に、北は徽軫灯籠(ことじとうろう)の辺りまで、南は小立野、東は兼六坂の際まで、西は広坂の際の22,500坪、今の兼六園の75%以上の広大なものであったといわれ、御殿の周りには2kmにおよぶ塀や土塁をめぐらし、併せて35の門があったといいます。

(後の蓮地庭を繋げ、現在34,000坪になりました。)


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当時、千歳台には11代冶脩公が創った学校明倫堂と経武館を文政2年(1819)2月に千歳台の隅に移させますが、御殿が出来て入ってみると、生徒が騒ぎ喧しいという事から、「生徒たちが火を出したら大変だ」という理由から、現在の中央公園辺りに再移転させています。


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(金谷御殿があった尾山神社)


斉広公の隠居と竹沢御殿の造営の経緯は、文政2年(1819)正月、隠居を年寄に打ち明け、幕府には5月に幕府に建設の申請をします。申請は表向き嫡子斉泰(勝千代)の住居を建てるという名目で願い出、従来の金谷御殿は湿地で、病人が多く出て難儀しているから、軽く家作をしたいと申請しています。


(隠居したお殿様や藩主の子弟が住む金谷御殿には、当時、将軍から拝領した“ひつじ”がいてとても臭かったためという説もあります。)


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(書斎の前の曲水、右に書斎がありました)


隠居所の造営が進められたが、実際に斉広公が隠居したのは、嫡子斉泰公が12歳になる文政5年(1822)になってからで、11月、正式に斉広公の隠居と斉泰公の家督相続の許可は斉泰公が江戸城に登城して将軍家斉公から申し渡されてからになります。どうも大名で隠居するものが国元に滞在したまま認められたというのは極めて稀なことだといわれています。


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(霞ヶ池の亀甲島は竹沢御殿の築山で当時は霞ヶ池は無かった)


築造中、この御殿を家臣は蓮池上の御殿と呼んだが、斉広公は御殿と呼ばせなかったらしい、幕府への申請の文章の手前からもあるからだろうか、事軽くするのが趣旨であるとし御殿ではなく蓮地上の御住居と呼ぶように家臣に指示しています。


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(寝所があったところに地蔵堂)


しかし、完成すると家臣の間には、大国意識が強く、財政負担より格式が優先され、また、斉広公も隠居後も藩政を監督するつもりもあり、役人の部屋や子供や母親たちの部屋、能役者の部屋などが必要になり、事軽くとは裏腹に壮麗な建物になり、以後御住居を竹沢御殿と呼ぶように触れられています。


(竹沢の命名は、斉広公が子供の頃から、所用のものに竹しるしを用いていたためと、金洗沢の沢を組み合わせたといいます。)


財政難のこの時代、造営に係った建築費は、二ノ丸御殿造営の時と同じ資金調達手法で献金を集めたものと思われます。さすがに二ノ丸御殿の約銀6900貫目には及びませんが銀3,000貫目以上。その内2,000貫目が三国の豪商三国屋(宮腰屋)与兵衛から調達したといわれています。


(つづく)


参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など

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