Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all 876 articles
Browse latest View live

御細工所③藩政期から明治へ

$
0
0

【金沢城下】
前回も述べたように、細工者には手厚く保護されていました。例えば細工者が風邪を引けば5日間の休みのほか、家族の看病休暇も認められていたそうです。互助制度ではお米の貸与や弟子の育成費の特別支払いなど、細工者に対する手厚い施策は、それだけで加賀藩の工芸の振興にかける熱意が伝わってきます。


市民が見つける金沢再発見
(最初この辺りに御細工所がありました・新丸跡)


細工者には、町人から採用された者は一代限りでしたが、武士階級から細工者になった者もいて、彼等には世襲が認められ、相続する男子がいない場合や子息が不器用な場合などは婿養子を引き合わせるか、養子を迎えて相続させたといいます。


市民が見つける金沢再発見
(金沢城橋爪門)


藩主や城内の細工御用の仕事で、御細工所の外に発注することもありました。こんな場合御用職人(藩御抱え職人)を使うことになります。このような御用職人は「町奉行支配細工人」と呼ばれ、常に30名ほどいて、彼等の俸禄米も御細工者とほぼ同等で、仕事の指示は御細工所奉行であったといいます。しかし、御細工者は御歩並ですが、御用職人の身分はあくまでも町人であったといいます。


市民が見つける金沢再発見

(城内の鶴丸倉庫)


この御細工所を核とした御細工の仕事も、すべて順調に今に継承されたわけではありません。藩政後期になると短命な藩主が相次ぎ、藩組織の肥大化から出費の拡大による財政が窮迫し、人員の削減などもあり御細工所の勢いが衰えていきます。


市民が見つける金沢再発見
(城内鉄砲狭間)


やがて幕末になると、御細工所を支えていた武家社会が崩壊に向かい、御細工所の機能や御用職人の仕事が停止してしまいます。慶応4年(1868)8月晦日には御細工所奉行が奉行を免じられ、同時に細工者は転職を命じられます。翌月の明治元年(1868)9月に御細工所の組織は廃止され、貞享4年(1687)以来、250余年の歴史を閉じることになりました。


明治維新を迎えると、各地で明治政府は維新による社会の動揺を鎮めるため救助事業が打ち出し、金沢でも明治5年(1872)幕末に卯辰山開拓で作られた物産集会所の建物を壮猶館跡(現知事公舎)に移し金沢区方開拓所(後の区方勧業場)を開設し、製陶部門を中心に授産事業がスタートします。有名な初代須田清華はここで陶画を学びました。


市民が見つける金沢再発見
(磁器のイメージ写真)


また明治10年(1877)には、長町に失業中の金属職人20人を向かえ金沢銅器会社が設立され、御細工所の加賀象嵌が引き継ぎ世界的に注目を集めました。一時は61人もの社員を有し、ウイーン万国博や国内の各種勧業博覧会の出品するものの会社の経営がうまくいかず明治21年(1888)に解散しました。


市民が見つける金沢再発見
(蒔絵のイメージ写真)


(明治初期の金沢の工芸については以下を参照)
ジャパンクタニ円山孫平①
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11220694451.html
ジャパンクタニ円山孫平②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11233521859.html



参考文献:金沢の工芸土壌―加賀藩御細工所の潮流―小松喨一著、北国新聞社2012・8発行・「加賀百万石―前田利常から学ぶ日本と石川の再生―北国新聞1998・10・13の記事、他


PR: 《今が買い時?》注目の新築マンション情報

年寄“加賀八家”

$
0
0

【金沢城下】
加賀藩には、9人のお殿様がいるといわれていたとか・・・。 天和4年(1684)正月、前田綱紀公は旧名の綱利を改め、その年の貞享元年(1684)11月将軍綱吉公より加越能三州に封ずるとの朱印状を受け、翌貞享2年(1685)、「由緒書上帳」を提出しています。こうした中で、貞享3年(1685)11月に綱紀公は加賀藩の藩政最高機関の職制を定めます。


市民が見つける金沢再発見
(城は石垣)


定められた職制によると、他藩でナンバー2以下を家老といいますが、加賀藩では年寄(加賀八家・人持組頭)がいて、家老は年寄の下で、官僚の仕事をしました。それは戦国時代の軍制をそのまま行政組織として整えたもので、臨戦体制に応じられるようにしたので、組という軍役の名称がついています。


市民が見つける金沢再発見


加賀藩の年寄は月番、加判制がとられ、合議で重要な決定事項を決めていました。時代が下るにつれ藩主の意志は直接には反映されず、そういった官僚構造は幕府の老中機構もよく似た構造で有ったものと思われます。


市民が見つける金沢再発見


この綱紀公による加賀藩の職制の整備では、本多政長、前田孝貞(長種系)、奥村庸礼、奥村時成の4人を大老(大年寄)に、前田直作(直之系)、長尚連、横山英盛の3人を人持組頭に任命されます。これより藩の最高機関は、大老―人持組頭―若年寄の順が決まりました。そしてこれらの7人が七手頭として、藩政全般の取まとめ役に当たるようになり、その後、元禄3年(1690)に村井親長を加えて同列とし、これより加賀八家の制度が成立しました。


市民が見つける金沢再発見

市民が見つける金沢再発見


(七手組とは、軍事組織で、前田家は天正期から約70家あった人持を7隊に分け、7家の地位ある重臣が、一つの組の組頭を務めていて、その下に平士が付くという軍事態勢でした。)


≪加賀八家の来歴≫
本多家(5万石):
初代政重は徳川家康の重臣正信の2男で、前田利長公に仕え、その後米沢へ行き、再任して利常公に仕えました。慶長19年(1614)に利長公の隠居料などで幕府から疑問が出されたおり、縁故をたより幕府と前田家の間を奔走し、前田家の危機を救っています。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(本多家跡)


長家(3万3千石):初代連龍より代々能登の守護畠山家に仕え、後、織田信長公より鹿島半郡を与えられ、利家公が能登に入封すると利家公の与力となり、関ヶ原の戦いでは、浅井畷では丹羽長重軍と戦い戦功を上げています。


市民が見つける金沢再発見
(長家跡)


横山家(3万石):初代長隆は、利家に仕え、賤ヶ岳の戦で戦死。2代長知は、慶長4年(1599)9月、利長公が家康から謀反の嫌疑をかけられたとき、弁明のため家康との交渉にあたり、和解に成功しました。


市民が見つける金沢再発見
(横山家跡)


奥村宗家(1万7千石):初代永福は、尾張荒子で利家の父利春および兄利久に仕え、後、利家公に仕え、越中、能登と利家公に従い、末森城の戦いでは、佐々成政と戦いこれを破り、前田家の危機を救いました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見

(奥村宗家跡)


奥村支家(1万2千石):初代易英は永福の2男で、父と末森城で戦い、大阪冬の陣で活躍し、初代藩主利家公から60余年、2代利長公、3代利常公、4代光高公に仕えました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(奥村支家跡)


村井家(1万6千石余):初代長頼は、利家公の召抱えられた最初の家臣で、13歳で仕え、以来緒役に従い、特の越中蓮沼で佐々成政軍と戦い功を上げました。また、利家公死後、慶長5年(1600)の芳春院が江戸へ人質として赴くとき、これに従いました。


市民が見つける金沢再発見
(村井家跡)


前田家長種系(1万8千石):前田家の本家筋といわれ、利家公の長女幸の嫁ぎ先。後の3代藩主前田利常公の幼少時養育しました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(前田家長種系跡)


前田家直之系(1万千石):前田直之の父利政は、利家公の2男で関ヶ原の戦いの後改易されたため、祖母おまつの方(芳春院)に引き取られ金沢で養育されました。藩祖前田利家公と芳春院の直系であったため、代々、子孫は加賀藩中でも別格の家柄とされました。


市民が見つける金沢再発見
(前田家直之系跡)


(本座者は奥村2家、村井家。新座者(府中以来)本多家、横山家、長家。前田家長種系、前田家直之系は、藩主の一族。)


市民が見つける金沢再発見
(前田家直之系の前田土佐守記念館)


それから、叙爵の推薦を受けるのもこの八家からで、位は従五位下にきまっており、これを陪臣叙爵(ばいしんじょしゃく)といいます。江戸時代通してとなるとその陪臣叙爵があったのは、徳川御三家と加賀前田家だけでした。


市民が見つける金沢再発見
(金沢城橋爪門)


加賀前田家では最大4名の叙爵陪臣で、八家の中で最大五万石の本多家と、宗家に近い前田(直之系)家の二家が別格として優先されてほぼ常に叙爵されていたといいます。


参考文献:人物叢書「前田綱紀」若林喜三郎著 株式会社吉川弘文館・昭和36年発行
など

金沢二十五天神巡り(第4回)

$
0
0

【東山界隈】
残暑も厳しい8月26日の午前中、まいどさん会員の40人が集まり勉強会です。今回で4回目の“金沢二十五天神巡り”ですが、何しろ今から260年も前の宝暦2年(1752)菅公850年祭に城下の二十五の天神を巡り俳句集「北の海」を編み、田井天神社に奉納したという記録に基づく寺社巡りのため、現存しない寺社もあり、今回は天神さん所縁の3つの寺社と寺社の跡地、界隈に残る川、道筋、最近、“心の道“に加えられた神社、そして旧卯辰村界隈を巡りました。


市民が見つける金沢再発見
(乗龍寺と西養寺の間を流れていた水の谷川・戦前はここで洗濯もしたらしい)


≪260年前の金沢二十五天神≫
1玉泉寺(泉野菅原神社)→2 西方寺→3真長寺→4願行寺( 祇園摂社)→5 成学寺→6宝来寺(小橋菅原神社)→7宝久寺(犀川神社)→8常光寺(豊田白山神社)→9 成応寺(長田神社)→10出雲寺(豊田白山神社)→11放生寺→12 顕証寺(平岡野神社)→13灯明寺→14持明院(白髭神社)→15 安江社(安江八幡宮)→16 崇禅寺→17浅野社(浅野神社)→18神明社(小坂神社)→19乗龍寺(妙義社共々隣の西養寺に合併)→20来教寺→21 咸応寺(現松尾神社に移安)→22卯辰八幡(現在の宇多須神社)→23天道寺(浅野川神社)→24 乾貞寺(廃寺)→25 天満宮(椿原天満宮)



市民が見つける金沢再発見


19乗龍寺の妙義相殿の跡地(東山2丁目)天台宗
山号は光明山。のち瑞雲山松寿院。西養寺の隣、水の谷川を隔てた地にあり、日御子大明神(現鶴来町日御子)の社僧時代、城の祈祷をして利常公の書を受け、城内の東照宮建立の折に、神役(神職)を併せ務め、妙義社も祀りました。後に乗龍寺も妙義社も西養寺に合併し、明治2年社号を廃止した。乗龍寺からの伝来は不明です。


(群馬の妙義社の祭神は、日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権大納言長親卿)


市民が見つける金沢再発見
(乗龍寺跡)



乗龍寺が合併した西養寺:明治維新に天台宗の觸下の中に復職し神職になるところや廃寺になった寺もあり、お寺の仏像が西養寺に移されました。三社町の豊田白山神社は、藩政期、三社山常光寺という神仏混交の天台宗のお寺で復職に際し、ご本尊の十一面観音像を壁の後ろに隠し、後に觸頭の西養寺に移されました。


市民が見つける金沢再発見
(西養寺)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11166160737.html


20来教寺の多聞天尊像(東山2丁目)天台真盛宗
山号は毘沙門山。弥陀、観音、三十三観音を主尊とするが、一般的には“毘沙門さん”と呼ばれ親しまれている。本堂内陣は珍しく神社様式を取っており、左側内陣は金比羅大権現が中心右側内陣は阿弥陀仏が祀ってあり、馬頭観音、不動明王、毘沙門天が配されています。寺伝では、永禄7年(1564)正林和尚が卯辰山の一本松に草庵を建てたのを開基とし、近江より金比羅大権現を、山城国鞍馬山から毘沙門天を勧請。宝永5年(1708)現在地に移転して、寺号を公称したと伝えられています。しかし、「貞享2年寺社由緒書上」では寛永9年(1632)の創立と書かれているらしい。宝永7年(1710)3月の大火で火元になり、明治の初めにも火災に遭い、古い文書が残っていないため、天神信仰は伝えられていないそうですが、明治の神仏分離令まで有ったという天神画像は今有りませんが、画像のコピーを何かの本で見たことがあり、どこかに移安されているもの思われます。来教寺には現在、天満宮の扁額が2枚掲げられています。


市民が見つける金沢再発見
(来教寺)


http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11157554285.html


21咸応寺の鎮護尊像(鶯町)天台宗
山号は松梅山。慶長10年西養寺真運の弟子任秀が創建。曹洞宗伝灯院の南に接し、天神社の他、護摩堂を有していたというが、神仏分離令により明治2年寺号を廃止し、神霊などは卯辰祇園社(現松尾神社)に移されたそうです。この天神は津田玄蕃邸に有ったものを、その後作事所、さらに咸応寺に渡ったものといわれています。


市民が見つける金沢再発見
(現在の松尾神社)


(松尾神社は、元亀3年(1571)頃、織田信長が近江の安土城内に、松尾大神を祭祀された。天正3年(1575)加賀藩祖前田利家公、越前府中へ入城の頃信長公より賜り、城内に祀り、同9年七尾入城の折も城内に祀り、同11年、金沢入城の折り城内二の丸附近に鎮座し(当時の社名額現存)、藩内の酒商業の守護として祀りあがめられました。その後前田綱紀公の元録11年、領国内酒造商の守護神として祀るべしとの台命があり、翌12年卯辰山麗祗園社の別当福寿院の境内に一社を造営しました。金沢の宮竹屋が酒造家及び酒商家の首棟となり三州の講を結び、以後祭祀におこたりなきことを盟約し、違背なきことを誓い、酒業家の守護神とし奉りました。)



市民が見つける金沢再発見
(現在のこの辺りの地図・現在地は御嶽神社前)


22卯辰八幡の神明相殿 (東山1丁目)
現在の宇多須神社のところにあり、利長公の尊崇厚く、戦勝祈願ばかりではなく、利常公、光高公の安産祈願なども行なった前田家の祈祷所でした。末社天満天神と称されたのは、利常公像のことだといわれています。明治6年利家公像は尾山神社へ、利常公像は昭和12年小松梯天神社(小松天満宮)に移されました。神明相殿は、榊葉明神のことで、昭和20年社格を廃した。


市民が見つける金沢再発見
(現宇多須神社)


市民が見つける金沢再発見

(藩政時代の卯辰八幡宮)


http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11463329041.html


≪東山界隈(昔の卯辰村)の川と道≫
今は、暗渠になっていますが、昔は来教寺の前に小川が流れていて、その川からこの辺りを明治以後「下小川町」「上小川町」といいました。この小川は「水の谷川」といい、水源は一本松(宇多須神社の奥社)の奥にあり、下流は小橋用水に合流し、浅野田んぼを潤していました。


市民が見つける金沢再発見
(元如来寺町)
市民が見つける金沢再発見
(一本松往来・慈雲寺横)
市民が見つける金沢再発見
(一本松往来の道しるべ)


一本松往来は、今も春と秋に行なわれる「宇多須神社」の“お上がり”“お下がり”の神事の道で、昔も今もこの道を通って行なわれています。宇多須神社から蓮昌寺前の通り(藩政時代は元如来寺町)、慈雲寺の墓地の横を通りしばらく行くと二叉路があり、真直ぐ行くと宗龍寺へ、右は一本松往来でその道を行くと、昔の旧卯辰村を縦断し一本松への道に連なっています。今は、馬場小学校前の道を真直ぐ行くと慈雲寺の右側の矢の根川沿いから鶯町の松尾神社に繋がっていますが、この道は昭和32年に作られた新しい道だそうです。



市民が見つける金沢再発見
(鶯谷焼の窯跡)
市民が見つける金沢再発見
(上の道は旧一本松往来。下は新しい道)
市民が見つける金沢再発見
(一本松往来の花屋の温室跡)


一本松往来には、鶯谷焼の窯跡や花屋の温室跡、宇多須神社の“お上がり”“お下がり”の神事費用を全部引受けたという人の屋敷や蓮如上人ゆかりの持名寺、卯辰山開拓の撫育所跡、卯辰村の墓所があり、さらに進むと現在の卯辰山工芸工房横にでます。


市民が見つける金沢再発見
(御嶽神社)
市民が見つける金沢再発見
(御嶽神社の不動明王像)


今回はじめて「御嶽山東山御嶽神社」に参詣しました。近年、前にも書いた東山の「心の道」に加わったとか、御嶽神社は、大正7年(1918)霊峰木曽御嶽山の御嶽大神と一願不動尊を祀る教会で、不動尊は木像の立像で(像は昭和8年に来教寺向かいの宮保さんの作)一丈六尺の巨大な不動明王です。


≪のちに祀られた、この界隈の天神さん≫
番外①:史跡卯辰神社(卯辰天満宮)。慶応3年(1867)卯辰山開拓の折、卯辰山“鳶が峰”に竹沢御殿の天神さんを遷宮し、卯辰山撫育所の守護神としました。

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11500858864.html

番外②東山の菅原神社。ひがし茶屋街の創設に際し、尽力した加賀八家の村井長世と奉行の山崎庄兵衛の頭文字から「村山大明神」として創建された茶屋街の鎮守社。後の菅原神社と改めました。

クリツーと趣都金澤の“金沢ギャラリー訪問”

$
0
0

【金沢武蔵ヶ辻・入江・野町広小路】
感動が覚めないうちに書かんなん!書かんなん!と思いながら、月末、昼は走り回って、夜一つ書くとバタンキュウ~・・・。1日伸ばしにしてきましたが、やっと・・・3ギャラリーのツアーが内容はともかく書けました・・・。


市民が見つける金沢再発見
(川端健太郎)


13回目になる“金沢ギャラリー訪問”は、8月に開催された「第2回金沢・世界工芸トリエンナーレ」のサテライトとして金沢市内及び近郊の21のアートスペースの中で、8月25日現在、開催中のギャラリーのうちの3ヶ所を巡るツアーでした。今回は美術愛好家と作家だけでなく金沢の若手実業家の参加もあり何とも素敵な鑑賞ツアーになりました。


金沢アートグミ(青草町)076-225-7780
ギャラリー点
(入江町)  076-292-2141
ガレリアポンテ
(野町)  076-244-6226


今回のナビゲーターは、金沢21世紀美術館の秋元雄史館長で、現在の金沢の工芸とアートを共の体感し、審美眼と素養を身につけるという触れ込みで、20人の定員がかなりオーバーしたようで、マイクロバスがいっぱいなり一部は別の車を仕立てて付いてくることになりました。


市民が見つける金沢再発見
(ギャラリー点にて)


また新しい試みとして、各人がカメラを持参してお気に入りの1点を写真に収め、懇親会でそれぞれが写した作品を投影し、解説するというもので、工芸やアートの見方や審美眼を磨くと同時にその作品を選んだ人の思いを聞くことも出来、自分との見方の違いなども学べ、素晴らしい企画でした。


市民が見つける金沢再発見

(小曾川瑠那)


(日頃は美術館やギャラリーでは、写真など“もっての外”ですが、駄目だといわれていたことがOKになると、うれしさ倍増、うれしくて、楽しくて・・・縛りから開放されたようで、撮りまくっていました。)


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見

(山村慎哉)

今回のテーマは、一つには「工芸とアート」もう一つは「伝統と現代」ということだそうですが、秋元館長のナビゲーションは素材を通して観るという提案もあり、知っていた筈なのに、改めて“あっそうか”と何とも新鮮な提案に聞こえてきたり・・・。


市民が見つける金沢再発見
(山本基)


また、金沢アートグミで前にも書いた「二十億光年の孤独」という壮大なネイミングの謎も意地も張りも忘れて素直に考えてみることが出来ました。お陰かどうか、この展示は作家の作品を観るだけでなく、3人のキュレーターによる3ギャラリー3様の意図にも目が向きました。


市民が見つける金沢再発見
(高木基栄)


それから、お互いにコミュニケーションを図る分けでもないのに一人で見るのとは違う不思議な刺激もあり、作品もアートや工芸と区別することも無く見えない物を探し、見えるかもと、しつこく観察していました。


市民が見つける金沢再発見
(初代宮崎寒雉と宮崎匠)


そっか・・・原口氏の「オイルプール」が水だったら・・・アートにはならないかも、と思うと廃油という素材を通して原口氏の主張が見えてきたり・・・。また、工芸は時代を超えて昔も今も同じ素材でありながら、同じ形態で用途もあまり変わらないのに別物のような今の表情が見えてきます。


市民が見つける金沢再発見
(原口典之)


まだまだ消化出来ないことが一杯・・・。でも今回の金沢アトリエ訪問は、私にとって、また4~5歳若返ったような、そんな刺激的なツアーになりました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(安達絵美)


ギャラリーツアーを仕切った4人頑張る女性ギャラリストに乾杯!!
参加させて戴き有難うございました。

PR: 行こう!JCBと世界へキャンペーン2013第2弾

金沢“片町夏の会”

$
0
0

【片町】
8月下旬のある夜あるホテルへ、よばれて”片町夏の会“に行きました。古希を過ぎてもまだまだ娑婆ッ気はあるものの、よばれれば何処でも行くという分けではありませんが、主催社交組合の理事長には、3代に渡って浅からぬ縁もあり、懐かしさも手伝って二つ返事で行ってきました。


市民が見つける金沢再発見
(片町スクランブル交差点)


会は、何回か回を重ねているようですが、金沢の夜のレジャーというか、片町のナイトクラブの組合のパーティーで、日頃はライバル関係にある方々が一同に集まりお客様もお招きし行なわれるもので、今回は新聞発表で350名を集め中々盛大なものでした。


私は、20代から50代の前半まで片町が職場で、朝、昼、深夜と駆けずり回りました。それは、それなりに書き応えの有る話もあります。また、何時かという事にしますが、いずれにしても私は紛れも無く”片町育ち“であるということです。


市民が見つける金沢再発見
(パーティーが開催された片町のホテル)


近年、有名人を招いて開催される派手なこのパーティーは地元の新聞や雑誌で紹介されていて、片町育ちとしては覗いてみたいという思いもありました。今回、ワクワクして行くと時代は遠く過ぎ去り、知った顔はほんの数人、それもお客様には皆無に等しく、不況が長く続き厳しい片町で頑張って、頑張って、生き残った何人かの顔見知りの経営者だけ、当然向こうは私のことなどは忘れています・・・。


市民が見つける金沢再発見

(北国新聞の記事)


今回パーティーで、華やいだ会場を眺めていて思い出しましたことがありました。それは戦後25年、昭和45年頃でした。金沢にも大型のホテルがお目見えし、宴会は料亭からホテルに移りつつありました。ホテルの宴会となるとコンパニオンが必要になります。それを埋めたのが、当時のクラブやキャバレーのホステスさんでした。


当時6時半ごろから8時ごろまで、ホステスさんが、お店にまだお客様が少ない時間帯に、ホテルに出張してコンパニオンの代わりをするのです。しかも一般の高卒の初任給が2万円ぐらいのとき、1時間半で3分の1ぐらいのギャランティだったように記憶しています。


(この後、5年ぐらいすると初任給は2~3倍になりますが、それにしても当時のホステスさんは、パーティーの後、お店に出て給料も戴くわけですから随分高給取りだった訳です。)


市民が見つける金沢再発見

(片町①)


しかし、そんなうまい話は長く続きません。というのはその後、時代のニーズは、一般人を集めたコンパニオンの派遣業がそれを担うようになります。そちらがホテルのパーティーの接客をするようになるとホステスさんのパーティーでの接客が無くなります。しかし、それを早めたのが誰でもなくホステスさんであり、クラブの経営者でした。


大きな原因となったのはパーティーのお客様との同伴出勤です。現在はどうか分りませんが、当時、どこのお店でもお客様を連れて出勤すると遅刻は免除されるなどの得点があり、ホテルのパーティーは絶好の集客マシーンだったという分けです。


一部のホステスさんは、パーティーなどはそっちのけで、誘客に懸命で、やがてはホステスさんにはハッキリ断れない男心がホテルへの苦情になり、やがて一部を除いてホテルからの要請がなくなってしまったというのが実情です。


市民が見つける金沢再発見
(片町②)


今回のパーティーでも後半になると、あれだけいたお客様が段々に少なくなっていました。お開きの挨拶の頃には3分の1も居たでしょうか、そんな様子を見ていたら昔のことを思い出しました。


しかし、昔はホテルと各企業のパーティーという、人の“褌”で相撲を取って美味しいところを持って行ったのですが、今は自分たちの営業活動としてパーティーをやっています。そして、何故、商買敵が長い間、呉越同舟でパーティーが続けていけるのかが実感できました。


それにしても、お客様の殆んど皆さんは分け知りのはずですが、口には出さず、知らない振りして・・・。どうも男というのはそんなものなのでしょうネ・・・。


市民が見つける金沢再発見

(片町③)


かく言う私も、その場の持つ雰囲気からか、何か何時に無く人恋しくなって、知らない店に行く気にはなれず、片町では数少なくなった知人の店に顔をだすと、本人は、お休みとかで、またまた消化不良になり、片町に住む、幼ななじみに紹介してもらった店に立ち寄りました。さすがベテランのマダムは、すばやく察して、その幼なじみに電話をしてくれ・・・、痛飲!!


しかし、いつに無く、すっきりした気持ちになり、その日の内に帰宅しました。

第3回観光ボランティアガイド北陸大会in三国湊

$
0
0

【福井県坂井市三国町】
観光ボランティアガイド北陸大会も今年で3年目。今回は福井県の三国湊実行委員会が主催で8月31日と9月1日の2日間に渡り行なわれました。何と北陸3県から30団体250名と北陸大会が始まって以来、最高の参加者が集まり開催されました。


市民が見つける金沢再発見
(第3回観光ボランティア北陸大会)


初日は三国観光ホテルを主会場に東尋坊、雄島、三国神社、三国湊のまちなかや古刹や資料館の現地研修を5グループに分かれ、約2時間、ひとひねりした一寸高飛車にも聞こえるネーミングとは裏腹に熱のこもったおもてなしの地元ボランティアガイド“きたまえ三国”の皆さんのガイドで実施されました。


市民が見つける金沢再発見
(朝、金沢スタート)
市民が見つける金沢再発見
(会場)

市民が見つける金沢再発見
(受付)


翌日は、永平寺の副監院の講演やパネルディスカッション、午後からは福井の語り部発表会などを準備して頂いていました。今回は、体調も考えて日帰りにしましたが、今思うと一寸残念!!


市民が見つける金沢再発見
〈懇親会にて)


私が参加した現地研修会は、東尋坊で、三好達治や高見順の“文学碑の小径”を散策するコースで2時間が用意されていましたが、途中から下りだしたので、苦手な登りが有るかもと思うと、足腰に自信がない私としては迷惑をかけてはと思うと億劫になり、東尋坊の断崖絶壁で、行きのバスで興味深く聞いた東尋坊伝説に思いを馳せたり、商店街を少し歩いたりして過ごしました。


(結果的には、聞いていた集合場所が遠くて、歩き切らず、遅れてしまいバスを回して戴き、皆様に迷惑を掛けてしまいました。この場を借りてお詫びします。申し訳ありませんでした。)

≪バスで聞いた東尋坊伝説・・・≫
昔、平泉寺には数千人という僧侶がいました。その中にいた等仭坊(東尋坊)という僧は、怪力を頼りに、悪事の限りをつくしたという・・・。等仭坊はまさにやりたい放題、好き勝手な悪行は、平泉寺の僧侶を困らせていました。さらに、等仭坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合っていたという・・・。


市民が見つける金沢再発見
(断崖にて)


ある日、平泉寺の僧たちは皆で相談し等仭坊を海辺見物に誘い出し、一同が高い岩壁から海を見下ろせる場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始め、眺めの良い景色も手伝ってか、みなも酒がすすみ、等仭坊も酒に酔って横になり、うとうと眠り始めたという。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(雄島が見える)


等仭坊のその様子をうかがうと、皆の合図に真柄覚念は、ここぞとばかりに等仭坊を絶壁の上から海へ突き落としたとか・・・。崖から突き落とされつつ、この企てに気付いた等仭坊は、もはや手遅れと、近くにいた者どもを道連れにし、等仭坊はまたたくまに崖の下へと落ちて行きました。



市民が見つける金沢再発見
(東尋坊の立体解説)


等仭坊が波間に沈むや、それまで太陽が輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻き、青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、等仭坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでいったという。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(東尋坊の断崖絶壁)


それ以来、毎年等仭坊が落とされた四月五日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったという。以後、等仭坊を東尋坊と書くようになったとサ・・・。


市民が見つける金沢再発見

(文学碑での解説)


(少し調べて書きましたが、どうも「東尋坊伝説」には何通かあるらしい・・・。)


東尋坊で気になったのが「救いの電話」です。電話ボックスの中には無数の10円と―まずは落ち着け―と言う意味なのか煙草が置かれていました。この電話ボックスの中で一服し、思い留まった人も・・・。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(これは東尋坊の崖側に設置された電話ボックス)


市民が見つける金沢再発見
(八角形のみくに龍翔館)

市民が見つける金沢再発見
(みくに龍翔館の北前船の模型・写真OKはこれと山車の二ヶ所)
市民が見つける金沢再発見
(みくに龍翔館の最大の7m、三国祭りの昔の山車)


ホテルの隣に木造5階の八角形のユニークの建物が目を引き、何の予備知識もなく、一人で訪れました。行ってみると三国の歴史や文化、文学などを紹介する博物館でした。さすが歴史の有る湊町、展示品は豊富で、じっくり観だすと興味が募り、一人で結構、楽しんできました。建物は明治の初め九頭竜川改修の指揮を取りに三国を訪れオランダ人の技師が設計した小学校のデザインを模したもので、三国湊を一望する高台に復元されたものだそうで、当時の名前龍翔小学校から「みくに龍翔館」というのだそうです。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(きたまえ三国の笑顔の素敵なガイドさん)


帰路はバスで約1時間一寸、近いのに初めての三国湊でした。北陸大会と三国のボランティアガイド「きたまえ三国」のお陰でした。ありがとうございました。


小立野地区の散策コース(A)の前半

$
0
0

【小立野下馬→天徳院】
初秋のある日、地元小立野のウォーキングのモデルコースを選定するとかで、歴史に詳しい地元の先輩に同行して町歩きをしました。小立野校下(区)は台地で南北縦に長く、一回りすると10kmは超えてしまうので、(A)と(B)の2コースを歩いてみました。


市民が見つける金沢再発見
(このコースの目玉笠舞の大清水、住宅地に湧き出た10畳ぐらいの浅い池で、勘太郎川の水源です。かっえは農地を潤し、また、生活用水としても利用されました。)


(A)下馬→大清水→旧金大工学部→金商高校→天徳院→金大病院→馬坂上→宝円寺。
(B)金沢くらいの博物館→県立美術館裏の散歩→旧欠原町→棟岳寺→樹木橋→福光屋。


市民が見つける金沢再発見
(下馬から小立野の旧道)


今回は、ウォーキングのモデルコースという事で、解説なしでシンプルに拠点だけ写真入りで、(A)コースの前半。小立野下馬から善光寺坂、笠舞の大清水、宝幢寺跡、開渠の辰巳用水、旧金沢大学工学部、上野八幡宮、小立野公民館、小立野小学校、金商高校、鶴間坂、旧弓の町金大医学保健学類、経王寺、如来寺、天徳院を歩きます。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見

(下馬地蔵)
市民が見つける金沢再発見
(亀坂)
市民が見つける金沢再発見

(聞敬寺)
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見

(善光寺坂)
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見

(笠舞の大清水・下の写真のところを曲がる)
市民が見つける金沢再発見
(この階段から上野町へ)
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(道法さんの保存樹この道から宝幢寺跡、上野本町へ)

市民が見つける金沢再発見

(旧金大工学部前開渠の辰巳用水)
市民が見つける金沢再発見

(旧金大工学部)
市民が見つける金沢再発見
(上野八幡神社の芭蕉の句碑)
市民が見つける金沢再発見
(上野八幡神社)
市民が見つける金沢再発見

(金商高校)
市民が見つける金沢再発見
(鶴間坂上)
市民が見つける金沢再発見

(五木寛之氏が昔住んだという東山荘)
市民が見つける金沢再発見

(旧金沢刑務所跡)
市民が見つける金沢再発見

(金大医薬保健学域校舎)
市民が見つける金沢再発見

(経王寺墓地)
市民が見つける金沢再発見

(経王寺)
市民が見つける金沢再発見

(如来寺)
市民が見つける金沢再発見

(天徳院)


約8,000歩5km弱、90分のウォーキングコースです。解説を加えると3時間は懸ってしまいそうです。


続きは次回、善徳寺、等願寺、金大病院、仰西寺、百々女木町、旧林屋邸、馬坂上、宝円寺で、約3,000歩2km弱、30分ぐらいです。

小立野地区の散策コース(A)の後半

$
0
0

【天徳院→宝円寺】
(A)の後半は天徳院から宝円寺まで約1,8km。一旦如来寺の通用門まで戻り、横断歩道を渡り旧土取場永町の善徳寺、等願寺、金大病院前から仰西寺、旧百々女木町(きゅうどどめきちょう)を東へ、突き当りの馬坂上から引き返し宝円寺へ。


市民が見つける金沢再発見

(天徳院)


このコースの特徴は、天徳院、如来寺、善徳寺、等願寺、仰西寺、即明寺、乗円寺、長周寺、一閑院、献珠寺、高源院そして瑞雲寺、宝円寺と13ヶ寺が点在、この地域は小立野寺院群の東側の一角です。

市民が見つける金沢再発見
(如来寺通用門・出入りはOK、最後の人は戸締りを・・・)


市民が見つける金沢再発見
(旧土取場永町の善徳寺)
市民が見つける金沢再発見
(等願寺・善徳寺の小路の突き当たり)
市民が見つける金沢再発見
(工事中の金大病院)
市民が見つける金沢再発見
(仰西寺)
市民が見つける金沢再発見
(百々女木町の石標・小さな土地で野菜つくり)
市民が見つける金沢再発見
(百々女木町の紀元2600年の石碑)
市民が見つける金沢再発見
(五人扶持の松の北陸大学教養別館「林鐘庵」の玄関側の松の剪定)
市民が見つける金沢再発見
(馬坂上・右手の献珠寺、高源院があります)
市民が見つける金沢再発見
(突き当りが宝円寺・手前右側に瑞雲寺)


約1,8kmで、(A)は前半と合わせて6,6km。解説なしで、ひたすら歩けば、2時間もかけずに回れそう・・・。

小立野地区の散策コース(B)

$
0
0

【金沢くらしの博物館→福光屋さん】
スタートのくらしの博物館は、元紫錦台中学校で、旧制金沢二中の本館です。明治32年(1899)に建てられ、同じ頃の建築である小松中学と同じ様式の木造校舎ですが、屋根には小松中学にはない3つの塔が立っていて、卒業生や地元では「三尖塔」と言って親しまれています。どうも、当時、お隣の北陸学院のところのあった北陸英和学校が前年廃校になっていますが、その学校に尖塔が立っていたので近くに作る金沢二中の屋根に尖塔を付けたのだろうと古老が書いているのを読んだ記憶があります。


市民が見つける金沢再発見
(金沢くらしの博物館)


(解説なしのウォーキング・コースですが、母校の校舎でもあり、ついつい思い入れから、書いてしまいました。以後は解説なし・・・。)


市民が見つける金沢再発見
(石川護国神社)
市民が見つける金沢再発見
陸軍の高級将校クラブ金沢偕行社跡)
市民が見つける金沢再発見
(金沢神社)

市民が見つける金沢再発見
(金城霊澤)
市民が見つける金沢再発見
(石川県立美術館広坂別館)
市民が見つける金沢再発見
(石川県立美術館裏の遊歩道)
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(石川県立歴史博物館前の道路)

市民が見つける金沢再発見
(本多の森ホール)
市民が見つける金沢再発見
(出羽町の崖上の道)
市民が見つける金沢再発見
(旧中欠原町)
市民が見つける金沢再発見
(新坂)
市民が見つける金沢再発見
(棟岳寺)
市民が見つける金沢再発見

(棟岳寺の永原甚七郎と水戸の天狗党所縁の碑)

市民が見つける金沢再発見

(日本最初のオランダ医学の先駆者吉田長淑の墓)

市民が見つける金沢再発見
(しだれ桜の慶恩寺)
市民が見つける金沢再発見
(真行寺前の坂)
市民が見つける金沢再発見
(二十人町の石碑)
市民が見つける金沢再発見
(樹木橋より、辰巳用水の分水・下は一本松)
市民が見つける金沢再発見
(波着寺)
市民が見つける金沢再発見
(金メダリストを生んだ柔道塾)

市民が見つける金沢再発見
(福光屋の百年水)


4km弱。ある程度高低差があり、樹木や古刹、そして伝説あふれる古い町を抜け、最後には、“百年水”という白山に染み込んだ雪解け水が百年の歳月を経て、地下150mから湧き出る造り酒屋の福光屋さんの水で喉をうるおすという・・・なんとも素晴らしいコースでした。

やっぱり気になる・・・浅野川。

$
0
0

【浅野川界隈】
昨日の台風18号が嘘のような快晴、台風一過というのでしょうか、今日も青空に誘われ外に飛び出していました。なんやかやと理由を付けて、出歩いています。


市民が見つける金沢再発見
(台風一過!!金沢城石川門)


昨日は、テレビで京都の渡月橋の様子を見ていたら平成20年(2008)の浅野川の氾濫が思い出され、浅野川に行こうと思い立つと、心配!!危ない!!アホや!!ダラや!!の声を背に、ゴルフの合羽に長靴で家を飛び出しました。


市民が見つける金沢再発見
(天神橋)
市民が見つける金沢再発見
(梅の橋)


市民が見つける金沢再発見
(浅野川大橋)
市民が見つける金沢再発見
(中の橋)


小雨が降る中、突風に傘が取られそうになり、閉じて小脇に抱え、下石引の通りを歩き兼六園に入りました。台風にも関わらず、思っていた以上に観光客が多く、私も何時ものコースをゆっくり一周りして金沢城に抜け30分ぐらいかけて天神橋に着きました。


市民が見つける金沢再発見
(浅野川大橋)


幸い金沢では雨も風もたいした事はなく、浅野川は土色の濁流が音を立てて流れているものの、小橋の可動堰は上げられていて、水面は思っていたより低く、あふれる気配は全く無く、かなりの速さで流れていました。その日は久しぶりに天神橋のところから河川敷に下り大橋辺りまで歩きました。



市民が見つける金沢再発見
(閉鎖された「角落し」)


平成20年(2008)の水害で問題になった「角落し」は早々と閉じられたらしく、大橋の辺りで道路に出ようと思うと道は「角落し」が降りていて乗り越えて通りにでました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(角落し)


今回の台風18号は、たいした事もなく、浅野川でも全く何もなく通り過ぎました。あれから5年間、小橋の新しい可動堰は今工事中ですが、梅の橋から大橋間の「角落し」の改修や、常盤橋から昌永橋まで浚渫工事、また辰巳ダムの完成から上流の浅野川放水路の放流量の制限解除と対策は怠りなくですが、今回の台風18号騒ぎでは、人力でなければ出来ない「角落し」が速やかに閉鎖されたことが何よりでした。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(上現在の可動堰・下新しい可動堰の基礎)


9月の浅野川といえば、“秋の七つ橋渡り“ですが、日本でも珍しいこの民俗行事を毎年秋の彼岸前に、言い伝えや約束事などを伝えるために、昼間の浅野川沿いの風情と名所を辿る散策会も兼ねて開催しています。


市民が見つける金沢再発見
(七つ橋渡り)


今年は、すでに2回。あと2回ガイドをすることになりますが、この行事は、長患いで寝たきりになり、子供や嫁に下の世話にはなりたくないと言う思いから、明治の頃、浅野川周辺に住む女性達により密かに続けられてきたといわれています。合理性に欠けるように思われがちですが、何とも金沢人らしい“思いやりの気持ち”が伝わってくる心優しい行事のように思えます。


 ” 風去りて 思いをこめて 橋渡り”

寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園①

$
0
0

【金沢・犀川左岸寺町台】
鈴見山辺りから上がった“居待月”がお庭の樅の木の陰越しに・・・。“料亭金茶寮”さんで金沢出身の俳優篠井英介様をお迎えして開催された”宴”に参加させて戴きました。


市民が見つける金沢再発見
(小立野や卯辰山が借景、金茶寮大広間より)


(この催しは、歳時記「伝統文化に触れ、加賀料理を食す」と称し、加賀の文化の継承の一つとして、金沢の文化を担う方々をゲストに食談と加賀料理を楽しむというもので、今まで60数回、毎月連続で行なわれてきたもので今回が5周年の記念の宴でした。)


市民が見つける金沢再発見
(居待月)


かってこの土地には数万坪を有した横山男爵とその一族の迎賓館ともいわれた別荘と庭園がありました。現在は、この風光明媚な崖ぎわの一帯は、分筆され金沢の高級住宅地に変わっていますが、一番奥に位置した金茶寮さんとお隣の辻庭園の三千坪だけが往時の姿を留めているといわれています。

市民が見つける金沢再発見
(金茶寮の宴)
市民が見つける金沢再発見

(22日北国新聞朝刊より)

横山家は、藩政時代は3万石を拝領した「加賀八家」で加賀藩では重きを成した家柄で、明治から大正には鉱山を開発して、大成功をおさめ「金沢は横山家でもつ」といわれた名門中の名門です。


藩政期のことは、このブログでも高山右近の項や加賀八家のところで少し書きましたが、大正期のこちらの別荘や庭園のことについても興味を持ち知りたいと思っていましたが、実態が分かるものが極めて少なく、思いだけで留まっていました。


市民が見つける金沢再発見
(借景、金茶寮の大広間より)


寺町台については、詳しく書かれたものに70ヶ寺以上もあるお寺さんのもの、また、明治に書かれた森田柿園の金沢古蹟志には、藩政初期3代利常公が実母寿福院のための植えたという桜の話、その後、足軽の組地になった桜畠、風光明媚な崖の上にあったという、藩政期の藩士の別荘に付いて書かれているものはありますが、維新後や大正期、特に横山家別荘と庭園について書かれたものにあまり出会ったことがありません。


市民が見つける金沢再発見
(金茶寮の門)
市民が見つける金沢再発見
(借景、金茶寮より)
市民が見つける金沢再発見
(辻庭園の一部)


わずかに私が目にしたものといえば、父が横山家の家来であったという徳田秋声が大正6年に発表した「菊見」に書かれたものと金茶寮のお隣の現在の辻家庭園のご主人が書かれたものが主なもので他はそれらを下敷きに書かれたのもが大半で、それだけでは実態が中々つかめませんでした。


市民が見つける金沢再発見
(辻庭園の一部)


今回、料亭金茶寮のイベントに加えて戴くことになり、横山家の御当主のご好意で、かって横山家の蔵の中にあった資料の幾つかを見せていただくことが出来ました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(横山家の史料)


史料ともいえる筆で書かれた貴重なもので、今回は読むというより見ただけに終わり、それも興奮のあまり全貌どころか、ボオ~と眺めるだけで、ただ、字面を追うだけで見とれていました。しかし、今まで疑問に思っていた幾つかが、私なりに分かったことがありましたので、まとめることは出来ませんが、これから断片的ですが、何回かに分けて綴ります。

寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園②

$
0
0

【金沢・犀川左岸寺町台】
前回に引続き、寺町、横山家の別荘と庭園です。何故、ここに別荘がということになりますが、そのことについて、横山家の資料には見当たりませんので昔の史料から推測するしかありませんが、ここは市街地からそう遠くはなく、眼下には犀川が流れ、向には金沢城と今の兼六園の緑がすぐ近くに感じられ、卯辰山から朝日がのぼり、夜には月も、さらに戸室山や医王岳が一望できる風光明媚な土地であることに尽きるのではと思います。


市民が見つける金沢再発見
(現在の寺町台から戸室山・医王岳方面)


藩政初期、今の金茶寮辺りから下(しも)にかけて、昭和の中頃まで長良町、桜畠一番丁から十番丁といったところですが、利常公が、金沢城東丸に住んでいた実母寿幅院のために、東丸の太鼓塀に窓を開け、この辺りの城から見えるところに桜を植えさせたといいます。その後、利常公が逝去で公に仕えた足軽などが小松から金沢に帰ってきた時に、その桜の木を切り足軽を住まわせる組地にします。


市民が見つける金沢再発見
(クレーン辺りから白いビルの左のビル(石田病院)辺りまでが横山家別荘)


また、藩政時代、今の金茶寮辺りは、“吹上”と言われています。今以上に風光明媚なところだったと思われますが、たまにキズは、常に風が強く、冬は、雪が「吹上げる」のでそのように呼ばれていたそうです。しかし、それにも勝る眺望から、津田家や小堀家の別荘など、藩士の別荘などもあったといいます。


市民が見つける金沢再発見

(太正時代、このあたりも横山家別荘か・・・)
市民が見つける金沢再発見
(クレーンのところが現辻庭園)

その津田家の別荘は、文政年間に著名の漢詩の大家大窪詩仏もこの津田家の吹上別荘に遊び、お気に入りで、別荘を「水石亭」と名づけたと伝えられています。その別荘は幕末の金沢図にも記載されています。


市民が見つける金沢再発見
(大窪詩仏)


当時から特に有名だったのは、利常公と小堀遠州との繋がりから、加賀藩に2000石で仕えた遠州の孫、小掘新十郎から数えて3代目、金沢町奉行なども務めて小掘永頼(明和2年(1765)82歳で没)は、特に眺望が良いと云われたところに別荘を構えていて、当時の風雅の人々が、その別荘を借り上げて、宴会を催したといわれています。


市民が見つける金沢再発見
(画面の左当りに津田家の別荘があったらしい・・・。)


永頼の没後も有名で、江戸時代中期、寛政期(1789~1801)に当時“与謝蕪村”と並び称されて南画の大家“池大雅”が京より、この別荘に一時、仮住まいをしています。


滞在中に戯れで、壁に “布袋が河を流れる図”を描き、どんなものかよく分りませんが、その絶妙の画筆がこの亭の名物になったといいます。何しろ壁に描いた絵なので、年月が経つにつれ、筆跡が消え、それでもその別荘は明治維新まであったそうですが、今となってはその場所の特定できませんが、別荘の名は「四序閣」と言ったといいます。


市民が見つける金沢再発見
(池大雅)


(残念ですね!!紙に書いたものなら、残っていたのに、お宝が一つ消えしまいました。このような事を、昔の金沢弁は“あったらもんの”といいますが、ほんとあったらね・・・です。)


少し余計なことになりますが、時代は下(くだ)り、幕末イギリスの外交官アーネストサトウは、七尾へ来た帰り、金沢の立寄り、寺町から金沢城を眺め、絵のように美しい城郭といい、お城の周囲の沢山の樹木は公園のように見え、ヨーロッパの厳めしいキャピタルとは大いに趣を異にしていて、緑に包まれた素敵な城だと絶賛しています。


市民が見つける金沢再発見
(望月はこの当り、大正時代はここも横山家の別荘か・・・)


また、私の友人で、新婚時代に、金沢らしいところに住みたいと、2階住まいで、少し不便だったそうですが、作家の曽野文子さんが戦時中疎開で住んだという料理屋の跡に下宿したとかで、何回か聞かされていましたが、昔も今も変わらぬ風光明媚は、金沢人の憧れの土地であります。


(曽野文子が疎開した料理屋の跡は、戦前、今の寺町石田病院の裏の崖ぎわにあった辰村組が経営したという「望月」のこと)


参考文献:森田柿園著「金沢古蹟志」など

瀬戸内国際芸術祭で・・・

$
0
0

【瀬戸内海の島々】
先日、若者達に誘われ、「瀬戸内芸術祭2013」に出かけ、瀬戸内海の島々を巡りました。訪れた島々は小豆島以外、いずれも島民は数百人に満たない島で、当然、高齢者が多く、また、島民の倍どころではない空き家が点在する島々でした。昨年訪れた新潟は山の村々でしたが、今年は海の村々で、どちらも古い空き家や廃校になった小学校に現代アートが、まさに“古い器”に新しい思想や内容が表現されていました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見

(島民100人の島に大勢が押し寄せて)


昔、聞いた話ですが旧約聖書には「古い皮袋に新しい酒を入れるな!!」というのがあるそうですが、近年は、諸般の事情や発想の転換などから新しい思想や内容が古い形式のなかに収まっている場合や、また、入らなければならないという状況もよく見かけます。


市民が見つける金沢再発見
(豊島美術館)


この現代アートの祭典「瀬戸国際芸術祭2013」も、旧約聖書の精神とはまるで逆さまで「新しい思想を古い空き家で展開する」というのが売りの一つで、島で出会った会場係の元気なおばあちゃんも、お客様に”古いモノと新しいモノ“が、新しい価値を生むのだと解説なさっていました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(犬島)


私が訪れたのは会期末で、しかも連休の最中という事もあり、フェリーも高速艇も満員で、島の会場も入場券の他に予約券が必要なところもあり、会場によっては、朝から、もう当日の入場札止めのところが出たと聞きました。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(豊島)


昨今、日本の人口減少は、特に地方では深刻で経済格差、雇用などから、地方の定住人口は減る一方で、瀬戸内海の島々では若者は殆どが島を出て行き、歯止めが効かず、今に至っているそうですが、ならば交流人口をいう事なのか、2010年から3年に1度の現代アートの祭典で、今年は、春、夏、秋の3シーズンに分けて108日間の開催だそうです。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(小豆島)


開催地は、香川県側の瀬戸内海に浮かぶ12島と高松港・宇野港周辺で、島は直島、 豊島、 女木島、男木島、小豆島、大島、犬島 他に春のみの沙弥島、夏のみの伊吹島、そして秋のみは本島、高見島、粟島に180点にも及ぶ作品が展示されています。主催は瀬内国際芸術祭実行委員会・会長は浜田恵造(香川県知事)で、交通機関も潤う、まさに自治体挙げての村おこし、島おこしです。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(小豆島の宿舎観音寺クマグスク)


今回訪れたのは、その内の4島と高松で、金沢からマイクロバスで6時間半。高松で1泊し、1日目は豊島、犬島、豊島から小豆島で1泊し、2日目は小豆島から高松に戻り男木島へ夕方まで、高松からまた6時間半かけて金沢へという2泊2日半の強行軍でした。


市民が見つける金沢再発見
(豊島の波止場)


小さな島は、上陸すると細い道と急な坂の連続で、息を切らせて皆さんに付いていくのがやっとこさ、昔は、我々の年代の人々が四国や小豆島のお寺を巡り何日も歩いたのだそうですから、たった2日、まだまだ負けてはおれません。それにしても、見方を変えれば、現代アートを追って巡る人々はまさに現代版の“おへんろさん”ということなのでしょうか・・・。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(男木島)


作品については、いずれまたになりますが、今回の旅は、会期が後20日前後という事もありますが、何処ヘ行っても都会から来た若者の行列に圧倒され作品も然ることながら、現代アートのパワーなのか、昔からこの土地が持つボテンシャルなのかよく分かりませんが、感動しっぱなしで帰ってきました。


市民が見つける金沢再発見
(イチゴの氷水)


それにしても、書かずにおれないことに、島で行列を着いて食べたイチゴの氷水があります。たかが氷水、されどです。あれには一寸参りました。近くでイチゴのハウスを見ましたが、採れ取れのイチゴで作ったのでしょうか、今まで食べたことのないものでした。旅はやっぱり食べ物です・・・。


市民が見つける金沢再発見
(高松港の月)


最後にこの旅で感じたことに、素人考えですが、金沢や能登でも、土地の持つ潜在力や現代アートにおいて、先発に勝るとも劣らない芸術祭は十分可能なように思いました。そして脳学者のいう「美味しい」と「美しい」を感じるのは同じ部位ということですから、キーワードは、今以上の食の充実のように思います。


(文字通り美しい味が美味しい(オイシイ)ということか・・・。)


PR: 稲田大臣に聞く就職・採用活動開始時期変更-政府ITV

$
0
0
現在の大学2年生からの就職・採用活動開始時期の変更について、内容や背景を解説!

藩政期末の金沢・ひがし茶屋街①

$
0
0

【ひがし茶屋街】

昔の卯辰茶屋町を話せというご依頼があり、今までその場その場でお客様のニーズに合わせて短く当たり障りの無いような話をして来ましたが、もう少しまとまった話にしようと集めている資料を読み返してみました。思っていたより書けない言葉やコトが書かれていて、無難なものになり、おもしろ味に欠けるかもですが、その一部を2回に分けて紹介します。


市民が見つける金沢再発見
(今のひがし茶屋街)


“ひがし”と“西”の遊郭が藩の許可になったのは、今から約190年前、それまでのように黙認するより、むしろ許可をして厳重に監督したほうがいいという事から文政3年(1820)3月。八家の本多政和や人持組の横山蔵人らの風紀が乱れると言う反対もありましたが・・・。


市民が見つける金沢再発見
(今のひがし茶屋街)


金沢町奉行の山崎頼母(たのも)らは、八家の村井長世の後押しもあり、3月25日に藩主斉広公が「軽き者どもの渡世のため」にと言ったらしく、4月4日の令では、


“生活困窮者の救済“


”町民に開放感を与える“


”上納金が入る”


などの期待を込めて、卯辰茶屋町と石坂新地の2箇所が藩から許可されました。


市民が見つける金沢再発見
(当時からある裏山の宝泉寺)


その色里の発起人である綿津屋忠蔵の娘婿に政右衛門という人がいました。何時、娘婿になったのか、また妻女の名前もよくわかりませんが、その政右衛門の素性は、越中・砺波郡経田村の酒造業兼農家の次男坊で、幕末、越中や能登の金持ちが金沢城下で米穀の取引に来ていて、住み着いてはいるものの、彼等には金沢町の人別はなく、旅人(りょうにん)といわれていたそうですが、その旅人の一人だったようです。
(綿津屋政右衛門:文化元年(1804)生まれ、慶応元年(1865)没。)



市民が見つける金沢再発見
(今のひがし茶屋街)


その政右衛門には、当時の“ひがし”の様子も書き留た自伝があります。かな文字と方言まじりで読みにくい文書で、私はどうもよく読めませんが、昔読んで、それを分かりやすく書いた方がいて、私の話は概ねそれに書かれていることですが、少しそれに添って話します。


市民が見つける金沢再発見
(今のひがし茶屋街)


その文書は「綿津屋政右衛門自記」といいます。それによると、当時、政右衛門は卯辰茶屋町で茶屋経営に携り、興行師仲間の元締で、今風に言うと”ボス“でしたが、天保2年(1831)11年間続いた遊廓が閉鎮になり、政右衛門は”生活困窮者救済“を理由に、近くの妙義谷(西養寺下昔乗竜寺)や卯辰八幡宮境内で芝居興行をおこないますが、これも天保9年(1838)政右衛門35歳のとき禁止になります。流浪のすえ、七尾で軽業師の興行師と懇意になり金沢で興行して成功しました。その後、政右衛門はこの地域の分限者として著名になっていったといわれています。また弘化3年(1846)43歳のときは観音院に三重塔を再建し、「三重塔の政右衛門」と渾名されたといわれています。


市民が見つける金沢再発見
(昔ながら大戸)


安政5年(1858)7月11日、12日の夜中、「安政の泣き一揆」が起こりますが、2日間に渡り卯辰山からお城に向かい「ちきないワイヤ~。ひもじいいわいやァ~。食っていけんわいやァ~」と叫んだ泣き一揆も黒幕は、どうも綿津屋政衛門だと言われていますが、今日は“綿津屋”の話ではなくて“ひがしと卯辰山”の話ですから「泣き一揆」の話はこの辺にしてまたの機会にします。



市民が見つける金沢再発見
(今のひがし茶屋街・ガス灯)


さてと、遊郭は卯辰茶屋町と石坂新地で“ひがし”と“西”と通称で呼ばれ、“ひがし”はその年の10月11日に、西は9月11日にOPENしたといいます。約1町四方に囲いを設けて入り口は黒塗りの木戸を立てて番所を置き帯刀の者(侍)や袈裟賭け(坊主)は入場を禁じたといいます。やがて木戸口に刀を預かるところができ、坊主は頭巾をかぶって遊びにきたといいます。


いずれも一歩内に入ると、武士も町人も百姓も、身分階級などかなぐり捨てて、一切合財挙げて歓楽に耽ると言う不夜城だったそうで、当時の自由平等は、まさにここのみで味わえたものと思われます。


市民が見つける金沢再発見
(今のひがし茶屋街・自由軒)


木戸口の番所では、昼夜、役人が勤番で、木戸側に牢屋をつくり、掟を犯して遊びに来たものや、無銭遊興をやったりする不心得物などは、ここに拘留され、働く女性達の笑いものになったのだそうです。また、木戸を通るお客は、地方、遠所とも町方の身元の良いものの子弟または番頭、手代などで、役人が一人一人顔を改めたので、素面を見せる事を嫌う客はいろいろと工夫をして通ったと伝えられています。


(つづく)

参考文献:「世相史話」金沢の花街―近世編―副田松園著

藩政期末の金沢・ひがし茶屋街②

$
0
0

【ひがし茶屋街】
文政3年(1820)に藩の許可を得た卯辰茶屋町のお茶屋には等級がありました。上・中・下の3等に分けられ、別に切店がありました。そのお茶屋は従来の構造で派手さを避けることになっていたそうですが、実際には新築、改築で外観を壮麗にしたり、表側にはそろった格子で、昼は定紋を染め抜いたのれんを吊るし、夜は家名を書いた四角い行灯に火を点けたといいます。中には研ぎの白木に“波”と“兎”を彫った欄間の店や2階残らず絵天井にする豪華な店もあったといいます。


市民が見つける金沢再発見
(ひがし茶屋街・旧3番丁)


抱えの女性は、芸者と娼妓が居たそうですが、花代は金一分(現在25,000円)銀10匁(現在15,000円)銀2朱(現在12,500円)銀5匁、銀3匁などに分け、衣装も下着、帯までその等級によって違え、金1分の女性を全盛(?)としたそうです。全盛の女性は、上・中・下のいずれの茶屋から出ても座敷に出るのは、上茶屋に限られていたといいます。


(換算は1両約10万円として計算しました)


市民が見つける金沢再発見
(ひがし茶屋街・木戸口跡・左の建物は検番(事務所))


勤めは、現在の時間でいうと午前6時~午後2時・午後2時~午後6時・午後6時~午後10時・午後10時以後とし、一昼夜4交代制になっていたそうです。文政の初め頃は、かなり繁盛したようで、昼夜とも酒宴、三弦、小鼓、太鼓の賑わいは、江戸・京・大阪に劣らなかったと書かれています。


市民が見つける金沢再発見
(検番前辺り)


遊び客の中でもお金を払わないものは「桶伏(おけふせ)」と言って、その客を一室に入れて外へ出さないようにしたといいます。そしてそのなじみの女性が折々見舞いにやってきたそうで、女性の中には、お金を都合して立て替て、救い出したこともあったと聞きます。また、そこに働く女性はお客の帰るのを木戸口までしか見送りができなくて外へは一歩もでることは出来ず、もし親元でも抜け出そうものなら、連れ帰り7日の間浴衣1枚で木戸口のさらし、その上でも商買させたといいます。

市民が見つける金沢再発見

(ひがし茶屋街・旧二番丁)


表は華やかではありますが、悲哀な半面をもつところで、随分悲惨な面もあり、無理心中騒ぎもよくあったそうです。また、足軽が囲いの女性と口論になり切り殺してしまった事件などは、最後に足軽は割腹してその刀を首にかけ、立ったまま死んだというもので、その場にいた人々は恐れをなしたと言います。この事件がそのまま「花紅雪東雲(はなくれないゆきのしののめ)」という芝居になり、文政5年(1822)に菊川の「川上南座芝居」で上演されたといいます。


市民が見つける金沢再発見
(現在の菅原神社)


今、宇多須神社の前にある菅原神社のことですが、始めは、前回言いました茶屋街の推進者であった八家の村井長世と金沢町奉行山崎頼母の徳としてこの土地の神として祀ったもので、場所は現在とは反対の旧愛宕一番丁の観音町西源寺の裏にあったもので、村井と山崎の頭文字から「村山大明神」といったそうで、しばらくして現在のところに移されたそうです。なお、天満宮は、官公の祭日の25日にここが許可されたからというもので、後に当時の藩主斉広公を祀るようになりました。


市民が見つける金沢再発見
(村山大明神は上の写真のブロックところにありました・旧一番丁)


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(旧観音町・西源寺)


斉広公がでたので、少し触れますと、文政6年(1823)春、斉広公は今の兼六園のところに竹沢御殿を造ります。その時、両茶屋街は、謝恩の意を表し銀15貫目(現在約2500万円)の運上金を奉っています。また、斉広公の逝去に際し、墓石運搬の役にあたり、またその時、領内では51日間の遠慮に対し、自発的に店を休ませ茶屋一軒ごとに銭3貫文(現在5~6万円)をくばり、生活費に宛てさせています。


市民が見つける金沢再発見
(ひがし茶屋街・旧三番丁)


その先の文政3年(1820)犀川と浅野川の大橋が洪水で流失した時、両茶屋街は、奉行の命に応じて橋の架設費に銀15貫目(現在約2500万円)を上納しています。


市民が見つける金沢再発見
(ひがし茶屋街・旧一番丁)


やがて禁を犯し外の出る女性も出だして、城下の町々ではそのファッションを真似するものも出てきて風紀がますます乱れて、収拾がつかなくなり文政12年(1829)11月、さらに茶屋の造りや抱え女姓の衣装を質素にし、侍の子弟、僧侶、医者などの遊興を締め出し、お客の身元に関わらず遊興費はすべて現金決済になり、店も客方に赴いて催促しないこと、抱え女性には非道の振る舞いをしないこと、実直に営業し高利をむさぼらないこと、客もかぶりものなどで、面体を隠すことが出来ないことなどが布達されました。


一方で、景気低迷の影響のためか、遊興費を値下げし、郭内の見回りも頻度を増やし、大きな茶屋は割屋にするなど改善をつとめたといいます。


市民が見つける金沢再発見
(現在のひがし茶屋街掲示板)


しかし許可されてから11年。天保2年(1831)8月。藩庁施政の方針が改められ風紀上許すべからずとして廃止になりました。


市民が見つける金沢再発見
(昔からの観音院四万六千日のとうもろこし)


それから36年後に慶応3年8月、藩政改革の機運に乗じて再び公許になります。そして9月9日開業しました。これには、どうも卯辰山開拓とは深い繋がりが有るように思えます。卯辰山開拓の史料には“娯楽を持って利するものへの運上”の記述があることからも、開発資金捻出の一環として再開されたものと推測できます。


参考文献「世相史話」金沢の花街―近世編―副田松園著

お天道様に誘われて浅野川散歩

$
0
0

【浅野川並木町→旧御歩町】
台風の影響で不順な天候が続いていましたが、今日は雲一つないお天気にオッチョコチョイの私は、予定表も確認せずに家を飛び出しました。案の定、行き先で気付き、思い込んでいた今日の予定は明日でした。そう、今日は完全にオフ。そのまま帰るのもと、久しぶりの浅野川散歩です。


市民が見つける金沢再発見
(快晴の梅の橋)


旧玄蕃町、旧児玉小路から梅の橋へ。今日のお天気は、今時の北陸には珍しいお天気で、こんな日は外でということになっているのか、浅野川に付く前にも、小学生が金沢城址へ行くという長蛇の行進に出合ったり、梅の橋では、保育所の子どもたちが河原から橋を渡り対岸に行くのに出くわしました。


市民が見つける金沢再発見
(金沢城跡に行く小学生)
市民が見つける金沢再発見
(浅野川左岸からくる園児)
市民が見つける金沢再発見
(園児が梅の橋へ)


橋の上では、最近はやりの結婚式の前撮りです。デレクターらしき人の指示に従い、赤い蛇の目の傘を差したり、とじたり、デレクターの演技指導?で扇子で“未来を指し示すよう“にの指示に素直に応えているのを見て、当事者でもないのに、何か自分に言われているような気がして、照れながら眺めていました。


市民が見つける金沢再発見
(結婚アルバムの前撮り)


子どもたちは、対岸に渡り、河原に下り、石に上るもの、少し濁った川で手を水に入れるもの、河川敷で駆けっこをする子どもたちを対岸から眺めていると、近くに寄って見たくなりました。午前中はオフの身軽さは気侭なものです。

市民が見つける金沢再発見
(右岸を行く園児達)


浅野川は、平成20年(2008)の浅野川の氾濫以来、以前は掘っているのを見た事も無かったのに、最近は度々浚渫工事が行なわれ、今日はお休みのようですが、現在も天神橋の上から川に道が付けられ、ブルで川底を掘っています。


市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
市民が見つける金沢再発見
(園児達の川遊び)


あの頃、すいぶん問題になった「角落し」ですが、今、子どもたちが水際で遊んでいるのを見ていると、喩えでよくいわれる”羹に懲りて膾を吹く“でなくて、本当に良かった思いながら子ども達の元気な姿に見とれていりました。


市民が見つける金沢再発見
(右岸の新しい角落し)


それにしても、子どもたちの動きを見ていると、ハラハラものです。石の上の乗ったり、川の入ったり、おっかけっこで転んだり、”アッ・・・危ない“と、ついに声がでてしまいます。それにしても保母さんは大変ですね・・・。

PR: 大手・注目の広告・Web会社の転職はマスメディアン

Viewing all 876 articles
Browse latest View live