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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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卯辰山⑨浦上村キリシタン(その1)

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【卯辰山湯座屋跡・織座跡・卯辰山養生所跡】
平成10年(1998)10月15日。国道159線卯辰山トンネルの工事現場から身元不明の人骨が発見されました。年代については、江戸末期から明治期にかけてのものだろうということで調査に入ると、明治2年(1870)から金沢に送られ明治6年(1874)に長崎に帰る浦上村キリシタンの死亡者103名の1部である可能性が極めて高いという事が分かりまいた。


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(長崎キリシタン殉教者の碑)


(人骨の数は、40体。その内22体は女性で残り18体は不明で、幼児は5歳以下、成人は60歳まで、成人の身長は145cm前後だといいます。)


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(地図によると山側環状線の卯辰山トンネル管理棟から北西の約200m山に入ったところ)


卯辰山の浦上村キリシタンの幽閉については、前に“卯辰山⑧どじょうの蒲焼”のところで少し書きましたが、明治2年(1870)の浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)といわれるキリシタン弾圧で、江戸時代末期から明治時代初期にかけて長崎で起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件によるものです。


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(望湖台前道路の脇に殉教者の碑の案内)


明治維新で、江戸幕府のキリスト教禁止政策を引きついだ明治政府の手によって村民たち約3700人が、当時の政府の支配領域である富山以西の10万石以上の藩には流罪とされ、金沢には2回に分け516人が送られてきました。(北陸では富山、金沢、大聖寺)


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(湯座屋跡)
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(最近の卯辰山にも・・・)


当時金沢では、やってきた浦上村キリシタンを、織屋跡、卯辰山養生所跡、湯座屋跡、奥のトキエなどの卯辰山の山中の牢屋に幽閉します。飢餓と拷問の苦しみを受ける浦上キリシタンたちを垣間見た一人の外国人がその様子を英字新聞に告発されたのがきっかけとなって諸外国の激しい非難を受けます。言い逃れできなくなった政府は富山・金沢・大聖寺の各藩へイギリス大使と外務省による現地調査を実施されます。



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(織屋跡、現花菖蒲園)


その頃、欧米へ赴いた遣欧使節団一行は、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、明治6年(1874)にキリシタン禁制は廃止され、慶長19年(1614)以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになりました。


(ちなみに、「浦上一番崩れ」とは、寛政2年(1790)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は天保10年(1839)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は安政3年(1856)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことです。)


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(碑文)


織屋跡、卯辰山養生所跡、湯座屋跡は、幕末金沢藩による「卯辰山開拓」の施設跡で、織屋跡は織物工場として建てられましが、維新後開発は中止され、2階建ての建物は空き家となっていたところに浦上から金沢に流された、おもに戸主によって編成されたキリシタン123名(浦上出発時は124名であったが1名が途中脱走)が、明治2年12月(1870・1)から収容されました。



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(殉教者の碑の付近図)


卯辰山養生所跡は金沢藩が建てた病院の跡で、明治5年(1873)6月、大聖寺から移動を命じられた者たちが収容されたといいます。


湯座屋跡は、金沢ユースホステルの裏手に在る谷間で、今の末広運動場横の坂道を下った先にあります。現在建っている興川貞次郎紀功の碑の手前にあったという収容所は「卯辰山開拓」の薬湯の浴場跡で、戸主たちの家族、400名以上が収容されたそうです。


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(殉教者の碑の降り口)


奥のトキエは、二重柵をした16間に4間の牢獄で、改宗の説諭の応じない中心人物が収容され、12月の雪の中、今までの着衣をはぎとり、袷一枚着ただけ寒ざらしにしたと伝えられています。


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(この下の殉教者の碑がある)


今回の終わりとして、写真では見づらい、「長崎キリシタン殉教者の碑」の脇にあるカトリック金沢教会建立の由来解説の文章を記します。



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(「長崎キリシタン殉教者の碑」由来)


「長崎キリシタン殉教者の碑・キリシタン弾圧で信仰を翻さなかった長崎の浦上村キリシタンのうち、政府による明治2年(1869)の金沢藩預けの五百余人は、明治6年(1873)に送還されるまで、卯辰山の花菖蒲園と湯座屋跡の牢舎に幽閉されていた。その間、百余人が折檻、飢餓や病魔で命を落とした。・昭和43年(1969)8月11日、カトリック金沢教会は、このことを後世に伝えるため、ここに碑を建立した。」


(つづく)


参考文献:「キリシタンの記憶」木越邦子著2006・10月、桂書房発行ほか


卯辰山⑩浦上村キリシタン(その2)

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【卯辰山織屋跡・湯座屋跡】
キリシタン信徒は生きて再び浦上に帰るなどとは思いもよらなかったらしく、どこかへ連れ出されて殺されると信じていたようです。着の身着のまま12月4日に船と大雪の中の陸行で金沢に到着。第一弾の戸主を中心とした114人の男子は、その頃、廃屋になっていた卯辰山の織屋跡に収容されます。


(途中逃亡者も出ますが、大聖寺から金沢まで、彼等キリシタン信徒は行きかう人から穴の明くほど顔を眺められ、天狗か化けもの扱いで「耶蘇マも同じ人間じゃないか。目もあれば、鼻もあり、耳もあり、口もあるよ」いわれたという、また、ものの分った堂々とした役人もキリシタン信徒を牛馬扱いにして、人員を調べる時は「一匹、二匹、三匹」と数えたそうです。)


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(織屋跡・花菖蒲園)


記録によると、一行は織屋跡の2階建ての建物に連れてこられ、1階には老人を、2階は壮年が住むことになります。間取りは広く、部屋には新しい畳が敷かれていて、布団は山と詰まれ、火鉢には炭火がさかんにおこしてあり、鉄瓶の湯は音をたて、たぎっていて、一行には思いもかけぬ厚遇だったと書かれています。


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(この下が織屋跡)


彼等キリシタン信徒の生活は、1日に3,4回大声をあげて、お祈りをするのが日課で、食事はそれほど悪くなく、量は1食分が黒塗り碗に1杯。副食は朝夕茄子の糠づけが三切れ。昼は水のように薄い味噌汁、時に“にしんの塩漬け”か“いわしのかす漬け”がでたと書かれています。



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その第一弾のあと、12月8日、後続の410人が金沢藩の猶龍丸で玄界灘を通過して、12月12日七尾に到着し、雪が止まらないので3日後に出発して、1週間ほど歩いて、卯辰山湯座屋跡へ22日~23日に収容されました。


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(金沢ユースホステルの裏の谷に湯座屋跡が)


翌年になると、“はしか”がはやり42人の子供が亡くなり、その後“腸チブス”が伝染しますが、病院での手当で死者は3人ですんだといいます。


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(石川舜台)


8月に入ると金沢藩の仏僧による説得がはじまりました。漢訳の聖書を読み、キリスト教の教理にも通じた高僧、松任本聖寺の松本白華や金沢の永順寺出の石川舜台等が棄教への説得にあたりますが、無学であっても信仰強固な浦上の農民たちには通じなかったといいます。


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(木越邦子著「キリシタンの記憶)


(卯辰山のキリシタンについては、平成18年(2006)に発行された木越邦子著「キリシタンの記憶」に詳しく書かれています。この記事のほとんどは木越邦子さんが、永年にわたってお調べになった貴重な記述からの引用です。)


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(キリシタン殉教者の碑)


一方で、藩政期2030石の上級武士長屋八之門(後長尾)は、卯辰山に幽閉されたキリシタンの監督を命じられ、彼等に接することで、キリシタンの信仰生活に敬服します。幽閉の身ながら憂いも憎しみも悲しみも表すことなく重労働に耐え忍んで行く信仰の偉大さに強く心を打たれたといいます。


明治維新によって武士から髷を切って士族になり、改名し長尾八内になった八之門は、紆余曲折の後、明治13年(1880)51歳で洗礼を受け、金沢での第1号のキリスト教徒となり、その後、労苦の連続のなか多くの貧民を救ったという話が伝えられています。


(次男長尾 巻も、父同様キリスト教の伝道師になり、世界的に著名な伝道家賀川豊彦に「神に酔える伝道家というより愛の芸術家と言った方が相応しい。」といわせたと伝えられています。)


参考文献:「キリシタンの記憶」木越邦子著2006・10月、桂書房発行ほか

キリシタンと金沢①高山右近

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【小将町から市内あちこち】
先月、金沢で藩政初期前田家の客将として26年間(36歳~62歳)、金沢で過ごしたキリシタン大名高山右近の足跡を伝えるギャラリーが開設されました。牧師で観光ボランティアガイド「まいどさん」も務める奈良献児氏が、平成27年(2015)高山右近没後400年を前に、右近が金沢に来て初めに教会を設けた兼六園下の近く、小将町の町家を改修して開設なさいました。


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(ギャラリー・ジュスト)


ギャラリーは、高山右近の洗礼名ジュスト(正義の人)から「ギャラリー・ジュスト」と命名され、毎週火曜日から土曜日まで開館されています。展示は偉人高山右近の功績を広く発信するため、奈良牧師が集められた資料や写真が展示されています。


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(ギャラリー①)


天正15年(1587)豊臣秀吉公がキリシタン禁止令を下し、右近に棄教を迫りますが、右近は領地を捨て、追放を選び淡路島から小豆島に隠れ住みますが、翌年、秀吉公は、家康か利家のどちらかなら、仕えてもよいということから、右近は、利家公の招きにより加賀預かりとなり金沢に住むようになりました。


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(ギャラリー②)


慶長5年(1599)利家公の死後、利長公謀反の中傷を払拭するため、右近は、横山長知らと大坂の家康公に会いに出向きますが、右近は謝絶され、長知が弁明します。その間右近は、金沢城の修築と内惣構を築き上げます。


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(ギャラリー③)


右近は、築城家で茶人、能で知られる文化人ですが、むしろ戦術家であり武将として優れていて、あの徳川家康公をして「右近の率いる一千人の手兵は、他の将の一万人の手兵に勝る」と恐れられたと伝えられています。

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(6月16日の北国新聞の部分)


慶長19年(1614)62歳の右近は、徳川幕府の大禁教令の発布により、国外追放の命を受け加賀を去り、マニラに向け、長崎を出帆しました。


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(キリシタン灯篭)


浄土真宗の家の生れで、今もあまり分っていないのに仏教徒のつもりの私ですが、以前に金沢がルーツの医者で小説家の加賀乙彦氏の「高山右近」を知り、金沢の高山右近に興味をもち、さらに木越邦子氏の「キリシタンの記憶」に至り、今回は、同じ観光ボランティアで牧師の奈良献児氏に巡り逢い、何か縁も感じ、右近の金沢所縁の地を巡ってみたくなりました。


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(ギャラリー・ジュスト)


(つづく)


参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年

キリシタンと金沢②高山右近

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【市内あちこち】
前田利家公は、秀吉公の態度が軟化したことをみはからって、右近について「武勇のほか茶道、連歌、俳諧にも達せし人である」といつてとりなし、京都の伏見で右近に「金沢へ来るがよい、3万石ほど提供しよう」と招きます。右近は「禄は少なくてよい、南蛮寺一ヶ寺でも建ててくださるならまいろう」と・・・、天正16年(1588)右近は金沢に下りました。


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(金沢カトリック教会の高山右近の解説)


前田家お預かりとなった高山右近は、金沢に移り住み、天正18年(1590)には、小田原攻めに前田家に属し十字の幡指物を立て勇猛に戦ったと伝えられています。さらに10年後の慶長5年(1600)の関が原の前哨戦、大聖寺攻めでは、軍奉行を命ぜられます。


(加賀藩でも右近ほど実戦経験豊富な指揮官はいなく、利家公亡き後の動乱では、前田家における右近の立場を一層強固なものとなり、慶長11年(1606)の前田家・家老連署奉書には、右近の名は筆頭にあり、利長公の絶大な信頼を得ていたものと思われます。)


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(金沢カトリック教会の高山右近像)


一方築城家としての右近は、金沢城改修に才能を発揮します。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの後、秀吉公から加増を受けた前田利家公が4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称します。 その後、高山右近が金沢に入る頃には尾山城の大改造を行われたといわれ、その頃、城は再び金沢城に改称されたといいます。


(金沢城の歴史を溯ると、天正8年(1580)佐久間盛政により一向一揆の金沢御堂が攻め落とされ、そこがそのまま金沢城と改称されています。)


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(金沢城の黒い鉄板張りの隅柱)


今も残る金沢城の特徴は、慶長期の右近によるものか、その独特の意匠“漆喰にナマコ塀”“隅柱の黒い鉄板張り“は、垂直線が特徴の西洋風で、特に、城郭の柱は防火上、壁に塗りこむのが普通ですが、国内では類例のない柱を外に出した黒い鉄板張りの意匠は、白壁を引き締め、優美さの中に力強さがうかがえます。


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(尾坂口の大手)


金沢城は、さらに文禄元年(1592)2代藩主前田利長公により再び改造が行われます。郭や堀が拡張され、慶長4年(1599)には、いわゆる慶長の危機に際し、右近によって、新丸の増設、尾坂口を大手に、石川口を絡め手と改め、さらの27日間という短期間に東西の内惣構3kmの空堀が築かれます。


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(西内惣構)
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(宮守堀から西内惣構へ)


慶長10年(1605)には、2代利長公は隠居し、翌年富山城に移りますが、慶長14年(1609)に火災の会い、当時の関野の地に城を建てることになり、縄張りを右近が命じたといわれています。この高岡城は利長公が隠居城として使われたのは短期間で、慶長19年(1614)利長公は死去し、その翌年、一国一城令により、大坂夏の陣から利常公凱旋を待って廃城となっています。


以上、右近の武将、築城家としての足跡を辿ってまいりましたが、右近の金沢に残した足跡は、キリシタンであり「利休の七哲」と呼ばれ文化人として、精神的あるいは文化的側面にも大きな足跡を残しています。


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(公事場と紺屋坂の間に南蛮寺が作られたという)


次回は、その辺りを・・・。


(つづく)


参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、他

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キリシタンと金沢③高山右近

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【市内あちこち】
前田利家公が「武勇のほか茶道、連歌、俳諧にも達せし人である」といったという高山右近評!!何百年も伏せられ、途絶えてしまったと思われた右近の足跡を単に読み物としてではなく、史実として、木越邦子さんは丹念にお調べになり「キリシタンの記憶」にお書きになっています。


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(キリシタンの記憶)


≪右近と茶道≫

高山右近は利休七哲の一人で「利休極上一の弟子也」とされ、今も茶道が盛んな金沢にあって、藩政初期、高山右近が加賀藩の茶道に与えた影響は大きなものであったに違いないと思われます。



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(金沢の茶室)


≪右近と歌≫

片岡家文書に、しき紙二枚を写しとったものである。以下は高山右近の歌二首

一 高山南坊筆

おろか成り おひのなみたの寄気れは

夕日のかけの大和なてそこ(印)



草かれのまかきののこるなでしこを

わかれし秋のかたみともみよ

   金二而一巴ニ唐竹の模様



高山右近の姪が嫁いだ片岡休庵は、利家公が越前府中以来、前田家一門と親交があり兄弟2家の兄の家系で、後に利家公に従い金沢に出て町人となり越前屋と称した家柄町人でした。秀吉公が金沢城滞留中には、前田家の御茶堂役も務めた家といわれています。越前屋と高山右近との深い親交が書かれている由緒帳も残され、今も金沢の某家には右近直筆書簡も伝わっているといいます。


(休庵の子休嘉の妻は、右近の斡旋で加賀藩に迎えられ4000石で仕えた丹波八木の城主だったキリシタン大名内藤如庵の女であったと伝えられています。)




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(市内のかって右近の屋敷跡にある、キリシタン燈籠の写しと蹲)


≪右近と能樂≫

高山南坊の総領十字郎は天下の美少年也。毎日能を致され諸人見物いたしけり。其頃はやり歌に、“能を見よなら高山なんぼう おもてかけずの十字郎を。かやうに童どもうたいけり”というのがあり、高山父子がいかに能の優れていたかが窺えます。(加賀藩史料より)



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(能楽堂の杜若の像)


≪右近と加賀料理≫

金沢を代表する料理に“冶部煮”があります。昔は鶫(つぐみ)や獣肉、今は鴨、鳥等の肉に小麦粉をまぶし“とろみ”を付け、金沢独特の“すだれ麩”などと煮込んだもので、今も金沢の郷土料理として食されていますが、料理法が従来の日本料理とは違うことから、キリシタン文化(南蛮文化)が伝えたものといわれ、高山右近が考案したものではという言い伝えもあります。



(他、南蛮に由来する金平糖や干菓子も高山右近が祖ではという説もあるらしい。)



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(冶部煮)


(つづく)



参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、他


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キリシタンと金沢④高山右近

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【市内あちこち】
天正16年(1588)頃、加賀藩お預りの形で金沢の下った高山右近が最初に住んだのは現在の金沢21世紀美術館の敷地内であったと伝えられています。しかし、利家公の金沢への誘いに対し右近は「禄は少なくてよい、南蛮寺一ヶ寺でも・・・」は、利家公の存命中に実現されたかどうかは定かではありません。


(慶長4年(1599)右近の恩人前田利家公が逝去。利家公は死に臨んで右近の忠誠を称え、2代藩主となる利長公に、右近を大切にするよう遺訓を与えています。加賀藩史料によると「長九郎左衛門、高山南坊世上をせず、我等一人を守り、律儀人に而候間、小宛茶代をも遣わし、情を懸けられ可然存候。」と書かれているそうです。)


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〈金沢で右近のはじめの屋敷があったところだと伝えられています)


外国人宣教師がイエズス会本部に送った記録では、慶長6年(1601)右近の費用で建てた教会で120人の洗礼を授けたという記述があることから、もう教会はあったことが窺えます。



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(右近の屋敷は1世紀美術館のこの辺りか)


さらに、その記述によると120の内12~3人が利長公の家臣で、その後も51人の洗礼の内24人が利長公の家臣だった書かれています。利長公は自らキリシタンになるよう奨励したので、さらに20人の家臣が説教を聴き、母である芳春院や姉妹、また、信長公の娘の正室にもキリスト教の説教を聞き、洗礼を受けることを勧めたといいます。


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(利家公の模写)


このように、加賀藩では藩主利長公の保護下キリシタン宗門は拡大していきます。慶長8年(1603)には、金沢の多くの人を収容できる司祭館を建設し、能登の知行地に2つの教会を設け、1つは右近の弟太郎右衛門が、もう1つは右近の家臣の1人が世話をしたといいます。その頃、北国のキリシタンの総数は1,500人に達していたといいます。


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(豪姫の屋敷跡の案内板)


かって、丹波八木のキリシタン大名、内藤飛騨守徳庵は、関が原の役後、所領を失い加藤清正の所領肥後へ移るが、右近のとりなしで、利長公に迎えられ、知行4,000石を、長男好次は1,700石を受けています。


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(豪姫の屋敷跡)


また、慶長12年(1607)宇喜多秀家の室となった利長公の妹、豪姫は、関が原の役で宇喜多家が没落した後、北政所に仕えますが、洗礼を受け金沢に帰ってきます。それに伴って、宇喜多秀家の従兄弟キリシタンの宇喜多久閑も金沢に入り、知行1500石を受けます。その年、利長公は彼らのために紺屋坂に南蛮寺が新しく建てられました。この年の洗礼者は50人だったと伝えられています。


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(この交差点辺りに南蛮寺が・・・)


このような利長公の手放しのキリシタンへの好意に対して、右近は困惑したこともあったらしい、慶長9年(1604)宣教師が金沢の来たときなどは、多数の家臣たちを前でキリシタン宗門を賛美し、皆はキリシタンにならなくとも、宗門を尊び保護しなければならない、自分はすでの半分キリシタンである、と語ったといいます。


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(金沢城の黒い鉄板の隅柱の意匠は右近によるといわれています)


慶長13年(1608)利長公は、隠居した翌年(慶長11年)からこの年まで、しばしばはっきりとキリシタンになりたいと語っていたが、家康を恐れて実行出来ずにいたといわれています。この年のクリスマスに、右近は自分の費用で豊富なご馳走を準備し、自筆の招待状を送ったところ、大勢の人が来て、右近もキリシタンも心打たれという。この年の洗礼者は140人だったといいます。


(つづく)


参考文献:「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、他


キリシタンと金沢⑤高山右近

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【金沢・長崎・マニラ】
高山右近の年譜などによると慶長18年(1613)12月、徳川家康が「伴天連追放文」を示し、翌年正月幕府は加賀藩に宣教師の国外追放の命じます。引き続き家康から利長公に高山右近、内藤如庵とその一族を京都所司代板倉勝重に引き渡すよう厳命が届けられます。


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(金沢城石川門)


その一昼夜後の慶長19年(1614)正月17日、右近、如庵とその妻子、家臣、100人ほどが加賀を去り長崎へ、7月には長崎よりフィリピンへ出帆しました。その年末にはフィリピンのマニラに到着して市民の歓迎をうけるが、翌年元和元年(1615)右近はマニラに到着後40日にして熱病にたおれ、2月3日帰天、行年63歳。盛大な葬儀をもってイエズス会聖堂に葬られたといわれています。


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(川の流れのごとく)


金沢を立った一行は、右近を先頭に、夫人、横山康玄の嫁いでいた娘ルチア、亡くなった長男ジョアンの子(孫)たち5人、如庵も妻と4人の子と長男トマスの子4人、宇喜多休閑とその子3人。それに利長公の付けた護衛の武士、家臣、下男下女たちで、時節柄、北陸の険しい山路は深い雪で、老体、女、子供にとって、言語に絶する苦しいものであったといわています。


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(キリシタン所縁の庭)


言い伝えによると、護送責任者であった篠原出羽守は、重罪人を護送する駕籠を自分の責任で排して、右近を貴人駕籠で帯刀のままとしようとするが、右近は「殿に相済まぬ」とそれを断ったという。篠原は右近を必ずしも尊敬はしていなかったが、武人としての右近の面目を重んじたのは、さすが“武士の情けを知るもの”と評判になったとか・・・。


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(武家屋敷跡のキリシタン灯篭①)


1~2年前、右近の娘ルチアと重臣横山長知の長男康玄が結婚するにあたり、右近は、信仰のためを思い躊躇したといわれていますが、当時長知は理解をしめし結婚が成立しますが、慶長19年(1614)幕府の大禁教令「伴天連追放文」の発布で、右近の杞憂が現実のものとなり、国外追放の命を受けることになりました。


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(武家屋敷跡のキリシタン灯篭2)


その年、慶長19年(1614)2月、横山長知とその子康玄は突如出家し、若い3代目藩主前田利常公の怒りをかいます。その後、比叡山に出奔し上方方面を流浪します。その年の10月、利常公が大阪冬の陣に出陣するに至ると横山長知は大阪出征の途上の利常公に御目見えし帰参を許されます。夏の陣で、人持組頭として手柄を上げ凱旋し、以後本多政重とともに3代藩主利常公を補佐し、本多・横山両体制といわれる藩体制をつくりあげます。


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(キリシタン灯篭があるというお寺・他二ヶ寺のあるという)

出奔の原因については、派閥や政治路線から奥村摂津栄頼の計略説もありますが、長知は右近を筆頭とする藩内キリシタン武士の理解者であり、右近の娘が長知の嫡男康玄の室の迎えたことにも、その原因があったのではと推察できないこともありません。



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(キリシタン武士が住んだという甚右衛門坂下)


しかし、元和以後の長知の行動は、キリシタン弾圧の先頭にたっていて、その路線変更ぶりから見ると理解しがたいものでありますが、長知と右近との関係は、長知が右近の人格や器量に触発されたものであると思われますが、それ以上に主君利長公への忠誠心によるものが大きかったともいえます。


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(キリシタンの記憶)


長知にとって徳川家への従属は、自ら主唱してきた路線であり、異存のない選択でありますが、それが主君利長公への忠誠心から擁護してきたキリシタン藩士や右近を見殺しにしなければ、その路線を全うできないという深刻な問題は、当時、長知にとっては想定外であったいうことだったのでしょう・・・か?



参考文献::「高山右近」加賀乙彦著、講談社 1999年・「キリシタンの記憶」木越邦子著、桂書房2006年、「地域社会の歴史と人物」”横山長知の出奔と本多政重“木越隆三著、加能地域史研究会2008年、他

金沢二十五天神巡り(第3回)

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【此花町(旧鍛治町)→瓢箪町→浅野本町→山上町】
7月25日。金沢二十五天神巡りの3回目は安江八幡宮スタートで30数名が参加しました。今回も雨が心配されましたが、またまた嘘のような上天気に恵まれました。とは言え、夏真っ最中、約8千歩の道のり暑さに悩まされた2時間、汗を拭き拭き歩きました。
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(安江八幡宮に集合)


15 安江社の八幡摂社(安江八幡宮)
現在地 金沢市此花町11-27
天慶2年(939)河内国誉田(ほんだ)より勧請。安元2年(1176)富樫の外戚安江二郎盛高の再興と伝えられています。味知・住吉の両社を兼帯。藩政期、社家が奉仕した金沢五社の一つで、鍛冶八幡とも云われていて、稲荷・日本武尊石・むすびの社を有し、ほかに郷土玩具「加賀八幡起き上がり」は、この神社に奉納されたのが起こりで、「発祥の宮」を名乗っています。主祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)。合祀:安産の神様 金沢水天宮。文献上も伝承上も、天神と関係はほとんど留めていないらしい。


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(安江八幡宮)

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(日本武尊石)


16 崇禅寺 普門品尊像 (曹洞宗)
現在地 金沢市瓢箪町5-49
菅原山(かんげんざん)と号し、曹洞宗に属していますが、現在では、ほとんど見られない神仏一体の寺院です。開祖は、南北朝の貞和年間(1345~9)、大乗寺3世明峰素哲禅師で、2代朴也和尚のあと長く廃絶していましたが、慶安元年(1648)、能登永光寺住職久外呑了和尚が自分の隠居所に当てるため、藩に願い出て、心蓮社跡の現在地をもらい再興しました。


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(坊守さんのお話)


久外呑了和尚は、3代藩主前田利常公のご落胤といわれ、正月やお盆には、金沢城に登城できる身分だったそうで、天神画像は藩主から贈られたという言い伝えがあります。この画像と観音様の木像が祀られていて、後に新政府による明治元年(1868)の神仏分離令に際して、「菅公を祀るにあらず、菅原道真は観音である。」と申し立て撤去をまぬがれ神殿を仏殿にした。と伝えられています。


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(一文字天満宮のレプリカ)


その御神体は、藩主から贈られたといわれる天神画像の掛け軸で、その座像の上に、きわめて小さい字で2077文字の観音経が記されていて、一見、数字の一に見えるので、「一文字天満宮」と呼ばれています。近いうちの御開帳があるそうです。


安政泣き一揆のころ、卯辰山の侠客で京三度の綿津屋政右衛門等が寄進した「臥牛像」は、頭をなでると頭がよくなると言う言い伝えがあります。


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(臥牛像)


天満宮の内部には、大型の天神縁起絵巻の額が2枚掲げられていて、全国でも珍しいもので、「オテラート」のときに“絵解き”を計画しているそうです。


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(天神縁起絵巻の部分)


○小野太三郎翁之碑前庭に大きな石碑があります。明治34年、太三郎61歳のときに、大変親しい間柄の崇禅寺三香味思閑師の撰により建立したものです。


17浅野社 二十一社別殿 (浅野神社)
現在地金沢市浅野本町1-6-1
社伝によれば長徳3年(997)現在の地に、ご鎮座されて以来、生産の神・病気平癒・更に雨乞いの神として、たいそう賑わったが、永正年間(1504~1520)までの一向一揆により社殿は焼失し荒廃をきわめていたのを享禄2年(1529年)に再興され、春の例祭日には神輿やシシ舞いが出て賑い、更に秋季祭には流鏑馬が行われたとあります。


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(浅野神社)


≪みち草≫
今回は、観光ガイドでも個人的にもあまり通ったことのない、金沢近郊の、小橋用水の水車や豪農の屋敷、旧町名の標識などをコースに組み込み歩きました。


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(水車)


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(旧家屋敷)


18神明社 春日別殿(小坂神社)
現在地 金沢市山の上町40-1
小坂神社(こさかじんじゃ)は、養老元年(717)の創建。春日大社の荘園だった土地で、一時衰退するが、寛永13年(1636)神主高井三喜が利常公に取り立てられ、現在地に300坪を拝領し正月5月9月の祈祷を仰せつかったといいます。この神社も春日大社の末社にあたり「春日さん」として親しまれています。金沢五社の1つで、富士大権現、医祖神堂、白玉大明神を祀り、末社に天神さんがあり、画像があります。



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(小坂神社の天神さん)


≪付けたり≫
① 菅原道真公のご先祖は、現在の藤井寺道明寺辺りの土師氏だといいます。土師氏の祖は相撲で知られる出雲の国の能見宿禰(のみのすくね)で、大和の当麻村の当麻蹶速(とうまのけはや)というものと天皇の命で相撲を取り、能見宿禰が勝ち当麻蹶速を殺す。その結果、天皇より当麻村の土地が与えられ天皇に仕えたという。能見とは「鑿(ノミ)」に関連したと見られ、石材に関わったという推測があります。この伝承は石材を供給する二上山の支配権が「当麻」から「能見」に移ったということを示唆しているといわれています。


② 道明寺周辺は、菅原道真公の先祖である土師氏の根拠地で、道明寺は氏寺で土師寺(はじ)として建立され、今の道明寺天満宮の地にあたりました。当時は七堂伽藍や五重の塔のある大規模なものだったと伝えられていますが、延喜元年(901)道真公が大宰府に左遷されたとき、道明寺の伯母の覚寿尼を訪れた話は有名で、道明寺というのも道真公の死後、道真公の号「道明」が由来とするといわれています。


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③ 天満宮については、明治4年北野天満宮など、天満宮という名乗りを「神社」と改めさせられました。「宮」と名乗るのは、祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためで、「宮」に復活したのは、戦後の神道国家管理を脱してからです。


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(つづく)


次回の天神巡りは8月26日予定

加賀藩の文化政策

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【金沢城下】
加賀藩の文化について“触り”を数分話すことになり、にわか勉強をしました。調べているとついつい深入りしてしまい、余分な事まで書いてしまいました。その話の持って行き場がなくて、分ったような分らない話ですが、ここに書くことにします。


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(金沢城)


藩政期、何処の地方でも、京や江戸の文化が為政者や権力者によって地方にもたされました。前田家も加賀、能登、越中を治めるようになり、武具や城郭の建築、それに付随する装飾を造る芸術家や工人が金沢に招かれ、その技術がこの土地に定着しました。


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(加賀の山並み)


やがて、3代利常公や5代綱紀公の時代になると、それが幕府へのカムフラージュのため武器から工芸品を造るようになり、藩は文化政策を奨励するにいたり、制作される作品や製品は前田家の自家用の調度や贈答品になったといいます。


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(金工家が造ったという石の手水鉢)


また、一流の芸術家や工人からもたらされた技術を根気よさと真面目で忍耐強い、この土地の人々が身に付け、地方で作られるものとしては、きわめて精巧で芸術性と独自性をもつ工芸として定着し、現在の工芸王国と言われる基礎になったともいわれています。


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(茶室)


茶道奉行に招かれた千宗室に伴われ金沢に滞在し後に移住した茶陶の大樋家や釜師の宮崎家は今も金沢にあって金沢工芸界を牽引しています。その他、滞在して工芸技術を伝えた中には、金工、漆芸、あかね染、友禅染、陶磁器など、芸術家や工人が招聘され滞在し、やがて移住して技術や理念が金沢の人々に伝えることになります。


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(抹茶)


金沢の文化は、土着の民衆の知恵が造ったものとは一線を画したもので、工芸にいたっては、民芸運動を起こした思想家柳宗悦が「貴族的工芸」と言っていますが、単なる“もの”ではなく芸術性や独自性が内在する“上もの”の工芸品が今に伝わっています。


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(金沢のお庭)


3代利常公は、鼻毛を伸ばして“虚け者”を装い幕府を欺いたという逸話が残るほどの知恵者だといわれていますが、鮮やかに武器を工芸品にシフトするという柔軟な頭脳の持ち主で、当時、旧豊臣系大名を中心に大名廃絶政策から福島家や加藤家が改易されたにも関わらず一番大きな大名前田家は、明治まで14代、286年間大大名を全うします。


少し言葉足らずでもありますが、一般論としては、大体こんなことなのでしょうが、書きながら思い出したのが、4年前、小説家の童門冬二氏のお話でした。氏の「金沢は武家文化都市」という講演だったと思います。堺や大阪、江戸は商業資本により文化都市で、金沢はそれに比べると唯一“武家文化都市”であるというお話でした。


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(金沢城の石垣)
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(金沢のお庭)


その武家文化都市というのは、千利休の人間対人間の茶道文化に裏打ちされた利休の自信に信長公が気づき“文化を経済政策に取り入れ価値の転換を図る”信長の政策を目の当たりに見てきた前田利家公が信長の意志ともいえる”カルチャーを立国の精神に“を自ら実行したという話しだったと思います。


(報酬を土地から茶器に・・・等々。)


童門氏は、加賀の文化政策は、信長公の文化を経済政策の取り込んだもので、利家公の「挫折」「屈折」「傷み」から得た、心の持ち方から信長の思想を体得したのではないだろうかと、結んでいらっしゃいました。


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〈松)


今回、忘れていた昔のメモから、金沢は、利家公から利常公、綱紀公さらに明治まで「文化によって国を立てる」という信長公と初代利家公のポリシーが連綿と続いけられてきたことに改めて気づかされました。


参考:平成21年小説家童門冬二氏の講演など

利常公の奇行!!加賀文化創出のお殿様

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【城下町金沢】
徳川家康公は、大阪夏の陣の後、「加賀殿は名将である」「23歳で見事な采配をしたらしい」という噂に、利常公を警戒したといいます。そして秀忠公に「利常だけは生かしておいてはならぬ」と意見をしますが、人柄のいい秀忠公は顔をしかめて同意せず、娘婿の利常公をかばったと伝えられています。


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(海鼠塀のうしろが金沢城本丸跡)


その後も利常公は、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして120万石の家領を保ちます。福島家、加藤家と相次いで豊臣恩顧の大名が改易される中、家康公が死ぬ間際に利常公に「おまえを殺したかったが、助けてやる」と言ったという言質を取り、必死で世間に言い触らし世論を味方にしたといいます。


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〈橋爪門①)
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〈橋爪門②)


利常公は、内政においても優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築きました。また御細工所を設立し、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励し、加賀文化の基礎を築きました。


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〈金沢城石川門の石垣)


利常公は、父の初代前田利家公の特長を受け継ぎ立派な体格と能力の持ち主で、その点が数多くいる利家公の子供たちから利長公の後継に選ばれる決め手となったといわれていますが、藩主になると幕府の警戒をかわすため”虚け者“を装って、人を食ったような奇行の逸話が多く残っています。


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〈金沢城①)


幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして馬鹿を装い、病で江戸城出仕をしばらく休んだ後、酒井忠勝に皮肉を言われ、「疝気でここが痛くてかなわぬゆえ」と満座の殿中で大切のところを晒して弁解したといいます。


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〈利常公)


徳川御三家の尾張家に江戸城中で頭巾をかぶることが許されると、利常公も頭巾をかぶって登城し、人に咎められるとその場は謝って頭巾を取るが、すぐにまたかぶり、何度も繰り返すうちについに誰も咎めなくなったといいます。

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〈石川門①)

江戸城中 に「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金」との札が立てられると、ことさらにその立て札に向かって立ち小便をし、「大名が黄金惜しさに小便を我慢するものか」と言い放ったといいます。


わが子の光高公が金沢城内に東照宮を建てようとすると「いつまでも徳川の天下とは限らぬ」と咎めます。


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〈金沢城②)


等々。利常公は幕府と悶着を起こします。その多くはたわいもないものだったといいますが”加賀の前田は特別な家だ““加賀の前田は幕府も思うようにならぬ”ということを、幕府や世間に認めさせることで、そのためには、どんなつまらないことでもやったといいます。


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〈明治時代撮影の堀に水のある石川門)


それらについて利常公は、まことに愉しそうだったといいますが、改易に繋がるようなことはしなかったらしく利常公の傍若無人ぶりは計算されたもので、処罰されるかされないかのギリギリを見極めて、城の石垣など本当に処罰されてしまう修理などは、お家を守るため、極めて慎重であったといいます。


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〈磯田道史著「殿様の通信簿」)


歴史家の磯田道史氏は、著書の中で「果たして、この男は何を究極の目的として生きていたのか。書き終えたあとも、この人間を理解できた気になれない。」とお書きになり、だだ一つだけたしかなのは、「織田信長公を創始とする、中世をぶち壊す狂気の精神を受け継ぐ最後の大名であった。」と書かれています。


参考文献:「殿様の通信簿」磯田道史著、株式会社新潮社、平成20年発行他

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利常公の孫“綱紀公と文化政策”御細工所①

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【金沢城下】
5代藩主綱紀公は、3歳で父光高公が急逝したため、その年に家督を相続し祖父利常公が後見にあたることになりました。しかし、祖父は聡明な孫に「わしに学ぶな」「わしの真似は無理だ、百万石をつぶしかねぬ」と言ったといわれています。


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〈金沢城菱櫓)


利常公は、若さゆえの覇気から徳川家と張り合い、一触即発の危機を経て、老境に至り、自ら生涯をかけた文化事業や農政を綱紀公に引き継がせようと思っていたのでしょうか・・・。そして「加賀守(綱紀公)は今後、江戸の風に従うがよかろう」と・・・。


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〈徳川家の葵の紋)


綱紀公を中心に考えれば、利常公の孫であると同時に、母は大姫で3代将軍家光は義祖父、副将軍の水戸の光圀は義叔父、会津の保科正之は舅で、いうまでもありませんが祖母は2代将軍の娘球姫。綱紀公は徳川体制の偉大な君主の血脈で、利常公のように幕府を刺激し、危ない橋を渡る必要がないことから「わしに学ぶな」と言ったものと思われます。


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〈石川門二の門)


利常公の没後、綱紀公は祖父の期待にこたえ、文化政策での偉業を発展させます。学者で文人として高い教養を備えた綱紀公は、祖父が天性の審美眼で集めた芸術品を、より体系的に収集し、御細工所も綱紀公の時代に整備されます。


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〈石川門)


当時、藩政では、藩の重要なボストとして、めずらしい書物奉行、御細工所奉行、茶道奉行がおかれ、他藩では見られない役職を設け、加賀藩独自の文化政策が実現していきます。


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〈石川門)

御細工所も、貞享4年(1687)綱紀公が藩の「組織格式改め」で、御細工所も奉行が統括する組織になり、利常公が20年かけて基礎をつくり、綱紀公が35年かけて組織や活動の充実に努めました。


(藩内の町人の中から技能に優れたものを選抜して、1代限りですが名字帯刀を許され、御歩並の士分で任用されるようになり、御細工所は町人の憧れの職場になったといいます。)


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〈前田家の梅鉢紋)


加賀藩の文化政策の中で特に注目されるのは、学者、文人としても高い教養を備えた綱紀公の収集による「尊経閣文庫」と「百工比照」だといわれています。文庫は綱紀公の思想や思考の裏付けとなる資料の収集で今の図書館であったものと思われます。以後は「百工比照」と御細工所について進めていきます。



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〈橋爪門)


全国から工芸技術の粋を集め製品や標本が12の箱に整理された「百工比照」は、安土桃山時代から元禄時代に至る伝統工芸の見本やひな型、図案、材料、用途が形態別に整理され、2000点以上が収蔵されたもので、「百工比照」とは工芸百般を比較するという意味だそうです。


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〈綱紀公の模写)


(御細工所の工人は「能樂」を兼芸とされ、」やがて、それが町人に広がり「加賀宝生」として現在にも引き継がれています。)


(つづく)


参考文献:金沢の工芸土壌―加賀藩御細工所の潮流―小松喨一著、北国新聞社2012・8発行・「加賀百万石―前田利常から学ぶ日本と石川の再生―北国新聞1998・10・13の記事、他

“綱紀公と文化政策“御細工所②

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【金沢城下】
細工者は、お目見得以下の御歩並ですが、藩主に御目見得できるエリート集団でした。というのも藩主自身が好みや考え方を直接細工者に申し渡す場合もあり、綱紀公の頃は、二ノ丸御殿に近い新丸にありました。宝暦の大火(1759)以後、城外に転出し今の中央公園の東側一帯にあったといいます。


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(河北門前の新丸(芝生の辺り)に初めの御細工所がありました)
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(宝暦の大火前の河北門櫓図)


御細工所は、綱紀公により貞享4年(1687)に制度化され御細工奉行により統括されます。奉行は職人の採用や技術評価の把握はもちろん、人事管理等職人の環境整備が主要な仕事で、細工者だけでは賄えない時は、城下の町方職人に応援を要請するための城下の職人の把握も重要な仕事であったといいます。


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(宝暦の大火後この辺りに御細工所が)


元禄元年(1688)には御細工奉行の下に三人の細工者小頭が置かれていたが、同3年(1690)には4人になり、職人数は50人を少しこえていて、12人から15人のグループが4つあって、1グループごとに小頭がついていたといわれています。


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(今の河北門)


細工者は、一般の町職人のように期限付きで売らなくては生活できなのとは違い、生活に追われることなく、安心して技術の錬磨に励むことができ、年に1個、あるいは数年に1個しか出来なくても、藩は秀れた製品を期待し、同時に細工者もその間の生活が保障されていたので、自己の能力を十分に発揮できたといわれています。


(文政11年(1828)には細工者の人数は104人を数えています。)


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(前田家の梅鉢紋)


享保(1716~1735)の頃になると、御細工奉行は財政悪化による倹約がさらに重要な役目となります。細工者には技術の程度により、上、中、下と未熟に区別され、と未熟の四段階で、さらに上・中・下があり十段階に格付されていたといい、分業も進んでいたといいます。


(禄高は、上は50俵、中は40俵、下は30俵・加賀では1俵は5斗)



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(石川門)


前にも書きましたが、その資格は御歩の藩士と同格の御歩並で苗字帯刀が許され、そのために、町人で才能あるものは職人となり、細工者を目指したそうです。入所希望も町職人のなり手もきわめて多く、入所するためには細工者小頭の推薦で作品テストが行なわれ選抜されたといいます。


(その頃の金沢の職人は、御用職人(藩御抱え職人)細工者(細工所の工人)町職人があり、御用職人は、藩内外に住みながら藩から扶持を与えられ、藩とは密接に関わった工房を所有する親方で多くの弟子を抱え、今風にいうと経営者であり、デレクターでアドバイサー、そしてデザイナーでもありました。)


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(金沢城の海鼠塀)


文政11年(1828)の史料によると、御細工所の作業は蒔絵細工、漆細工、紙細工、金具細工、絵細工、針細工、具足細工、董物(ふくべもの)細工、小刀細工、象嵌細工、刀鍛冶細工、硎物細工、韘(ゆがけ)細工、茜染細工、城端蒔絵細工、春田細工、輿細工、鉄砲金具細工、鞍打細工、轡細工、大工細工、竹細工、擣紙(とうし)細工、縫掛革細工、鉄砲方御用など時代のよって異なるものの24の部門の職種が記載されています。


(よく分らないものもありますが、江戸後期にも刀鍛冶細工、硎物細工、韘(ゆがけ)細工、具足細工、春田細工(甲冑)、鉄砲金具細工、鞍打細工、鉄砲方御用など、武具に関わる職種もかなりあります。)


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(石川門)


細工者は、勤務態度や勤続年数、技能上達などの実績の応じ藩主から賞与を受けることもあり、兼芸の御能についても貢献度や優秀さに応じて奨励金や衣服が与えられ、逆に処罰では、禁固や追放といった厳しい事例もあったといいます。


(つづく)


参考文献:金沢の工芸土壌―加賀藩御細工所の潮流―小松喨一著、北国新聞社2012・8発行・「加賀百万石―前田利常から学ぶ日本と石川の再生―北国新聞1998・10・13の記事、他


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一寸知りたくなった前田綱紀公・・・。

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【金沢城下】
文武に優れていたといわれている綱紀公は、並みの学というのではなく、確かな根拠をふまえた学識で、好学の将軍綱吉公を感嘆させる学識は、本格的なもので綱吉公の“学”の理解に耐え、特別に厚遇されたといいます。


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(河北門より菱櫓)


図書の収集は、新井白石をして「加州は天下の書府なり」とうらやんだと伝えられていますが、綱紀公は愛書家で、また各部門にわたる優れた研究者であり、122部もの著述があるといわれています。政務繁多の中、その熱意と精力には驚きのほかありません。


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(前田綱紀公の模写)


武技については、幼いころの綱紀公はなかなかのヤンチャもので、大きくなると武芸を好み、刀、弓、馬は奥技をきわめ、火器を重視し、射撃もたくみで、一発数鳥を射たといいます。そして、もっとも好んだのは狩猟で、武蔵、相模の二国の領地を先代よりうけ、帰国すると、領内各所で狩猟と放鷹を何百回も行い、兵法家を同伴しながら機動演習をしたといいます。


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(河北門内側)


このように詩文、武技をよくした綱紀公ですが、書や絵もたくみで、絵はいわゆる美術ではなく、草木・花実・魚鳥、あるいは武器・器械といったものを好んで写生をしたといいます。



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(前田家の梅鉢紋)


茶道は、幼少の頃から習いはじめ、利常公がこれをたしなめたこともあるといわれていますが、千宗室を京より金沢へ招いています。何事にも通じなければ止まらない綱紀公は、割烹の道にまで興味と一家言を持ち、賓客から家臣らへの供応にまで細かい心づかいを示したらしく、また綱紀公自身も好んで包丁を持ったといいます。


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御能は、昔から領国の加賀、能登で、守護の富樫家や畠山家以来の伝統があり、藩祖利家公以来、流派は金春流でしたが、綱紀公は将軍綱吉公の嗜好に添い、宝生流一本にしぼり、「加賀宝生」という伝統を作り上げています。



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(徳川家の葵の御紋)


時代は元禄、将軍は5代綱吉公。綱紀公はことごとく将軍綱吉公のお気に入りで、破格の待遇を受けたといいますので、幕府での学事や御能等々、ほぼお追従ぎみは、うなずけるものの、学徳が高く、仁政をもって知られた綱紀公であっても、あの人間より犬を大切にするという“生類あわれみの令“を積極的に領内に持ち込んでいるところを見ると、いかに学識、見識があったといわれていても将軍のもつ強力な権力のもとでは、全く役には立たないということなのか・・・。世渡り・・・。家訓!!


侍は家を立てることが第一。されば我を捨てろ    芳春院


参考文献:人物叢書「前田綱紀」若林喜三郎著 株式会社吉川弘文館・昭和36年発行

前田綱紀公の82年間

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【金沢城下】
父、4代藩主光高公が急死により正保4年(1648)綱紀公は、祖父利常公の後見で3歳の時、将軍家光公の命で父の遺領を継ぎます。襲封した綱紀公は、それから実に在職79
年。享保8年(1720)81歳で将軍吉宗公に退老を願い出て、翌9年(1721)江戸本郷邸で死去し、柩は金沢に移され野田山に葬られました。ときに82歳、法号は松雲院徳翁一斎居士といいます。


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(金沢城河北門)


話は突然、お金の話に飛びますが、時代は、幕府が諸大名の財産に神経質で、浪費を望み、祖父利常公の浪費もそれに添ったもので盛んに浪費をしますが、出入りの計算が出来る利常公は、一時、借金はあっても、返済の道を考えながらの消費であったようで、綱紀公にはその配慮がたりなかったらしく、ついに開かずのはずの御金蔵に手を付けています。


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(父光高公が創建した東照宮・現在は移転して尾崎神社)


その開かずのはずの御金蔵とは、利家以来の貯銀で、城内の本丸の大獅子・小獅子の二つの御金蔵に収蔵されたものですが、利家公の直封で、軍用のほかは用いない掟となっていたそうです。その金額は、俗に9億8000貫といわれていますが、それは少し過大で、後に学者がその後の消費額から逆算して、10万貫余りと見積もられています。そして、このドル箱に初めて手を付けたのは綱紀公であったといいます。


(当時の1貫目を、分りやすく仮に現在の170万円に置き換えると、9億8000貫は約153兆円(今の日本の税収の約3,5倍?)、10万貫では約1700億円か?)



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(現存する鶴丸倉庫)


消費には一時的のものと、永久的なものがありますが、いずれにおいても綱紀公の大消費は桁はずれてあったようです。それが後に浪費家で贅沢大名だといわれている所以ですが、業績もまた桁はずれで、前にも図書の収集や御細工所など、学事業績を上げましたが、治世に関しては、今回は詳しくは書きませんが、列挙すると改作法の完成、加賀八家と職制の改革、藩士の救済、難民救済、農政統制、非人小屋の創設、国産奨励、等々。綱紀公の藩主としての79年間は名君といわれるのにふさわしい業績を積み上げています。


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(加賀平野の田圃)


御金蔵役人田辺忠左衛門の明和8年(1771)11月の上書によると、綱紀公の時、引き出して消費したものは、後にその分は返納したといわれていますが、綱紀公の死後50年後、6代の吉徳公、そして若くして亡くなる3人の藩主を経て10代藩主重教公が冶脩公に藩主を譲る明和8年(1771)には、ついに返納はできず、すっかり御金蔵は空なっていたといいます。


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(金沢城石川門の枡形)


当時、父の遺知450石を継いで御郡奉行や改作奉行をつとめた高沢忠順の「改作所旧記」には、綱紀公の治世のもう一つの側面が浮かび上がらせています。少しだけ紹介しますと・・・。


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(石川門の石垣)


綱紀公在職中の万治2年(1659)から寛文5年(1665)までに、金沢城下の諸屋敷や地子町の拡大は、30万歩の田畠を失うことになり、さらに御長柄小者や足軽や御歩の召抱えや役小者など町に住む者が多くなり、それらは農民出のものが多く、農村人口の減少からの損失が、かなり影響したものと思われます。


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(金沢城東丸の高石垣)


農政も利常公が心血を注いで作り上げた改作法がゆるみ、せっかく利常公の仁政も、ただ年寄りからとりあげるだけで、人民の恨みを買う結果となり、また、奉行らの勤めぶりも表面の体裁を整えるばかりとなっていたといいます。

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(現存する金沢城三十三間長屋)


綱紀公の業績として高く評価され他国に例のない「非人小屋」についても、その御慈悲をたたえながらも、高沢忠順は、乞食が出てからその対処をするより、凶作と災害対策の手抜きなど農政全般のゆるみを是正するのが先決であるといっているとか。(ご尤も・・・)。


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(前田家の梅鉢紋)


高沢忠順は大変な勉強家で、過去65年もの改作所の記録を抜粋収集し、「改作所旧記」を表し、その剛直な意見は、天明5年(1785)財政に関する遠慮のない建議がたたって閉門を仰せつかり、翌年御免になったといいます。


何時の世も、芭蕉じゃないけど“物言えば唇寒し”ということ・・・か。


参考文献:人物叢書「前田綱紀」若林喜三郎著 株式会社吉川弘文館・昭和36年発行

「二十億光年の孤独」って

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【武蔵ヶ辻・金沢アートグミ】

「二十億光年の孤独」と銘打った展覧会が、武蔵ヶ辻のNPO法人「金沢アートグミ」で、98日まで開催されています。何とも掴みどころのない宇宙を思わせる不可思議なネイミングですが、工芸と現代アートの展覧会です。頭が固いのかネイミングと展覧会の内容が繋がってきませんが、先日、何の予備知識もなくブッツケ本番で見に行きました。


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二十億光年の孤独展と山本基)


ブッツケ本番!!89年前から子供達と現代アートを、作品を観た時の感想を重視し鑑賞するプロジェクトに参加させて戴いてから、作品を頭で理解するというより、五感で感じることに重きを置いて鑑賞することを憶え、ブッツケ本番!!横着ではなく、自分の感性に拘り、聞かない、読まないというのが癖になっていたつもりですが、今回ばかりは、ネイミングや作品群のテーマなど気になって、鑑賞後、すぐ調べていました。


(作品を観た時の感想を重視する鑑賞法:アメリア・アレナスの提唱する対話型鑑賞で、想像力を喚起しながら他者とのコミュニケーションを図ることに重点をおき、作者の経歴や美術史的考察によって価値づける作品観や鑑賞法ではなく、作品と鑑賞者のコミュニケーションを通じた関係によって意味が付加されるというアレナス独自の作品鑑賞法。)


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原口典之のオイルプール)


展覧会は、「工芸と現代アート」をテーマに、古いモノと新しいモノから選んだというのですが、どのような意図でそれらが選抜されたか分りません。インパクトのある不可思議な作品を紹介するというものだそうで、第1室目は1970年代から活躍でドイツの「ドクメンタ6」にも出品したという著名な「モノ派」の原口典之さんの代表作のオイル・プールがオイルの匂いと共に展示されています。


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(初代宮崎寒雉と宮崎匠)


2室は、藩政時代から金沢の工芸を代表してきた茶釜の名工宮崎寒雉の初代と当代のご子息で次期寒雉を継がれるという匠さんの作品、それから砂の作品で著名な山本基さんの砂を使わない作品、そして、吹きガラスの技法を使ったオブジェを制作する高木基栄さん、焼き物による現代的な表現を続ける川端健太郎さん、現代アートの小谷真輔さんら新進作家の作品が何とも絶妙な配置で展示さていました。



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(初代宮崎寒雉)

タイトル「二十億光年の孤独」は詩人谷川俊太郎さんの代表的な詩から借りたものだとか・・・。主催者に聞けば意味ぐらいは分るのでしょうが、意地っ張りですから、いまだに、なんで「二十億光年の孤独」なのかよく分かりません・・・。



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(川端健太郎)



今回の「二十億光年の孤独」展の作品群に共通するのは、誰かがいうように静謐(せいひつ)さと荒々しさが共存し、それぞれに独特のオリジナリティをもつ作品群であった・・・と私も感じました。分ったような分らないことを書いてしまいましたが、ヤッパ、これからも現代アートは、理屈や頭で理解しようとしないことにします。


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(山本基)


それから、この展覧会は、金沢21世紀美術館で開かれた第2回金沢・世界工芸トリエンナーレの関連イベントで金沢市内21ヶ所のギャラリーやショップがそれぞれ展覧会を開いたもので、「金沢アート・スペース・リンク」と名付けられ、7月後半から9月にかけ、それぞれ個性を競うというもので、ギャラリー同士は普段はライバル関係にもありますが、NPO法人の「アートグミ」の呼び掛けで実現したとか・・・。


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(高木基栄)
市民が見つける金沢再発見
(小谷真輔)


そうそう谷川俊太郎さん「二十億光年の孤独」に
・・・
人類は小さな球の上で

眠り起きそして働き

ときどき火星に仲間を欲しがったりする

・・・・・

万有引力とは

ひき合う孤独の力である

 

宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う

 

宇宙はどんどん膨らんでゆく

それ故みんなは不安である

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