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金沢発:遠州一族遺跡

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【金沢市南町~野田山墓地】
一昨年、茶道遠州流の祖であり前田家との深い交流があったという小堀遠州の流れを汲む2家の墓地(本家新十郎、分家孫兵衛家)および屋敷跡などの所在が確定され、この度、関係遺跡の整備保存と先人の遺徳を偲び広げることを目的に”遠州一族遺跡保存会“の設立が成り、5月6日、発会式と屋敷跡に建てられた石碑の除幕式、遠州茶道宗家十三世不傳庵小堀宗実家元の講演会などが行われ、ご縁があり参加させて戴きました。


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(石碑の除幕式①)


午前9時から、バスで有志と整備された野田山の墓地に詣で、あと、南町のニューグランドホテルアネックス前の小堀新十郎屋敷跡に建てられた石碑の除幕式、さらに、ホテルのすぐ隣の金沢市文化ホールの茶室「閑清庵」で記念茶会に参加させて戴きました。


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(野田山墓参)


引き続き、発会式、保存会の結成に際し名誉顧問に就任された遠州茶道宗家十三世不傳庵小堀宗実家元の金沢で初めての記念講演会が行われました。予想以上だという約300名の参加者は、家元の深い見識と実のあるお話に聞き入りました。



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(家元の講演会①)

お話は、遠州の生い立ちから始まり、遠州と前田家、遠州流の茶道、小堀遠州の人物と総合芸術家としての遠州の美意識に至るまで短い時間に関わらず、素人にも分かるように話して戴きました。とはいえ、私自身、どれだけ消化出来たかは分かりませんが、以下、特に私が関心を持った幾つかのうち一つでも二つでも心に刻めればと思い記しておきます。


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(家元の講演会②)


「ご機嫌よろしゅうございます」
家元の耳慣れない挨拶に、場違いなところに来てしまった!!と只々畏まってしまいました。“どうぞご機嫌よくお過ごしください”という相手を気遣う気持ちが込められた言葉だそうで、今よくいわれる”おもてなしの心“だとか、お茶の世界では当たり前の言葉で、意味はともかく、意識過剰かコソバしく気恥ずかしく思いましたが、お話に入るとすぐに忘れてしまいましたが・・・。


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(茶会のあった金沢市文化ホール閑清庵)


「すぐに応える遠州」
前田家の3代利常公、4代光高公とは「茶の湯」の師弟関係であり、また、前田家は後ろ盾でバックアップする関係だったそうで、茶の湯については道具の鑑定や設えから、お点前に至るまでこと細かく質問した往復文書が残っているそうです。家元の話によれば遠州はすぐに応えていたそうです。そして、当代(ご自身)は瞬時に応えているとおっしゃっていまいた。


(千宗室が30歳にして、前田家に仕官出来たのは、遠州によるもので、遠州と前田家の関係は頼めば何とかなるという間柄だったとか。)


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(お茶会)


「綺麗さび」
遠州は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、幽玄・有心の茶道を創り上げ「綺麗さびの茶の湯」と評され、天下第一の茶匠の地位に上りつめ、武芸茶人の筆頭に挙げられました。徳川将軍家茶道師範を得て、「格より入り、格より出る」ことを主義としたそうです。


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(除幕式②③)


「織理屈 綺麗キッパは遠江 お姫宗和に ムサシ宗旦」
織部は理屈っぽく、切れ味のよい刃物のようにきっぱりしているのは遠州、お姫様風の華奢好みは宗和、わび茶に徹しているのは宗旦。利休はありませんが、そぎ落としたシンプルで、遠州はそれに近いがさらに品格が、とおっしゃっていました。
(宗旦(金沢に来た千宗室の父)の“ムサシ”はむさいのむさしらしい・・・。)


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「遠州の造園」
遠州は日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも謳われる、総合芸術家で建築・作庭家でもありました。作庭の特徴は、様々な切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間を作ったこと、反りのない石橋を用い直線と組み合わせることにあります。シャープな直線と曲線の組み合わせ、自然石と切り石との組み合わせなど、京都の清水寺成就院庭園、円徳院庭園、金地院庭園、南禅寺方丈庭園や和歌山の天徳院庭園。そして金沢城の庭園も手がけたといわれています。


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(除幕式④)


「満つれば欠ける」
満月になるとともに欠け始めた月がほどなく三日月となるように、物事は、絶頂期に達すると同時に下り坂になるのが世の道理です。ということから、満月より前日の方がいいという、ゆわゆる不足の美は、不足を心で補うということらしい。


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(茶会②)


「余白の美」
南禅寺の白砂を例に余白の美を語られました。相手に対して心を預けるということで、完全なものより見た人の想像力を喚起するというか、相手の心を引き取っていくということで、遠州は役目で様々な人々と交わる中で会得したものであろうとおっしゃっています。


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(墓参②)


その他、保存会の会長に就かれた本多家15代当主本多政光氏の加賀本多家との関わりや藤堂高虎、禅の春屋宗園のこと等々、短い時間に、盛りたくさんの消化できない多くの宿題を戴き帰ってきました。


PS:お家元は約400年前に分家した一族に心を砕き、わざわざ金沢にまで足を運ばれ、墓参や講演会までなさった懐の深さに唯々感心するばかりです。


ご機嫌よろしゅうございます。


有難うございました。


作家と職人は同じか

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【鈴見橋→浅野川大橋】
先日発行された山出保氏の「金沢の気骨」に“作家と職人は同じか”という件がありました。来沢したフランスのエルメス社のディレクターが市内の工房やお店で、「作家と職人は同じか、違うか。あなたはどっちですか。」と職人や店員に聞きくと、“返事がない”か、あっても不十分であったと言うことが書かれています。


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(山出保著「金沢の気骨」)


そう、観光ボランティアガイドとしては、フランス人から問われることは、まずありませんが、国内のお客様から問われてら何て応えていたでしょうか。幸か不幸か今までには、そこまで聞く人もいませんが、聞かれたら多分“シドロモドロ”で人も自分も分からない話をすると思うと冷汗、脇汗ものです。


私の場合は、多少の知識があるばかりに聞かれもしない余分なことをいいそうです。視点の違う幾つもの見方が整理されないままゴチャゴチャになっているので、聞く人の立場を考えず、勿体つけて難かしくしたり長くなったり、分かったような分からない話になりそうです。


作家(artiste)と職人(artisan)の違いは?
「作品を作るのが作家で商品を作るのが職人」
「神の啓示をうけ創るのが作家で、お客様(こちらも神様)のニーズで作るのが職人」
「宇宙の原理原則をめざして創るのが作家、お金をめざして作るのが職人」


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(画材?道端で見る花々)


「作家は創造性を重視する人、職人は技術に優れているが、創造的精神の乏しい人?」
「職人は、藩政期の士農工商の「工」にあたり、現在いう美術は当時なく、美術は工芸に内包していました。優れた職人は歴史的に尊ぶ伝統があったらしい」


「フランスでは、昔は作家と職人は同一視されていたらしい。近代の分業指向によって両者は分断され、作家は芸術家、職人は無名の縁の下の力持ちのような存在になったとか」
等々。


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(画材?道端で見る花々)


日本では、特に工芸家は職人であり作家という方も多く、そういうこともあり作家と職人の違いを明快に応えられないのでしょう?また民芸と工芸の違いなど、改めて確認しておきたいことがいっぱいです。そう山出氏の「金沢の気骨」は忘れていた諸々を呼び覚ましてくれます。


(金沢の工芸を、かの柳宗悦は“貴族的工芸といい、民芸と区別しています。)


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(”杜若”我が家にあった唯一の”雨山”の染額)


そこで、職人であり作家で、“昭和の友禅斎””加賀友禅そのもの“といわれた友禅作家“木村雨山”氏の語録を子どもにも分かるように書かれた本を引っ張りだして勉強のやり直しをしました。


≪自分の仕事と金沢について≫
「金沢ァ雨が降る。冬ァ雪が降る。そしてその冬ァ長くて寒い。だから、人と人とは身体寄り合うようにいきんなン。大っぴらに大きいことはやれん。小さい、目立たないことでまじめに根気よくやれるもんンで、漆器とか、友禅とか、象眼とか、鮎の毛針みたいもンが発達した。昔の人ァ、仕事を楽しんだと思う。これが金沢の職人の心や。」


≪若い人の指導にあたっては≫
「あなたは、これをかいている時、何か他のことを考えていたでしょう。」


≪若い人には“観る”ことを厳しく教えた≫
「草花は、1分もじっとしていません。生き続け、動いていますから、朝と夕方とではいっしょではありませんよ。」


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(画材?道端で見る花々)


≪職人として作家として≫
「職人だから、注文の品を作ってお金をもらう。しかし、それだけではよい仕事ができない。自分の作ったものが、よいか、悪いか、展覧会で批評をうけなくではだめなんだ。」


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(浅野川右岸より)


≪“雨山”の手本は、日本の自然の姿だった≫
「私の着物は、みんな散歩から生まれたようなもんですね。」


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(浅野川上流)


(雨山は、橋場町生まれで、横山町で住みました、散歩は浅野川周辺……。)


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(画材?道端で見る花々)


≪お金がないわけではないのに、服装や食事も、驚くほで質素だったという≫
「食べるものに手間がかかる食事は、時間がもったいない。」


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(散歩コース?卯辰山)


≪時間をとられることを嫌い、来客には、居留守をつかったらしい≫
いつも朝3時に起きても「わたしは仕事の虫。」「日のたつのが早すぎる。」「もっと時間がほしい。」


そして氏は、責任感からか、一作品ごとに、”雨山”のサインを染めこんだそうです。


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また余分なことまで書いて、なおややこしくなったかも・・・


参考文献:「金沢の気骨」山出保著平成25年4月北国新聞社発行・「金沢の民話と伝説」平成元年10月金沢こども読書研究会発行」

金沢の「奥の細道」を歩く①浅野川辺り

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【山ノ上町→下新町】
今更、私がいうまでもありませんが、松尾芭蕉が高岡から倶利伽羅を見て金沢に着いたのは元禄2年(1689)7月15日(8月29日)でした。馳せ参じた金沢の俳人たちは、7月24日(9月7日)芭蕉が金沢を立ち去るまで、もてなし、句会を催し、芭蕉の心を会得しようとつとめ、金沢の俳壇が、芭蕉一色に塗潰された観があったといわれています。


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(小坂神社集合)


そして芭蕉が「奥の細道」を完成させた同じ年の元禄7年(1694)旅に病み不帰の客となると、その門人たちは各地に句碑を建立して、亡き師の心を石碑にとどめようとしたといいます。金沢においても、長きに渡って芭蕉の足跡を標す句碑が建立され、今もお寺の境内や道端に残されています。


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(小坂神社①)


句碑の場所は、言い伝えや所縁の人々によってそれなりの所に建立されたものですが、散策しながら何時も思うのは、どの句碑の前に立っても芭蕉やその門人たちが、その辺りにいるような思いに駆られ、感慨深いものがあります。


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(金沢市内・宝泉寺より)


10日。久しぶりに仲間達と、句碑巡りしました。今回は浅野川辺りで、句碑だけではなく、芭蕉所縁の人々やその界隈に残る史実や言い伝えをお互いに語り合うもので、金沢の芭蕉の足跡を知り尽くした穴田克美さんを中心に25人、好天に恵まれ和やかな散策会になりました。


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(小坂神社②)


浅野川辺りとは、小坂神社より“心の道“を逆回りして、あめや坂(光覚寺)心蓮社、妙国寺、全性寺、蓮昌寺、宝泉寺、観音町、新町まで、参加者の知識を交換しながら、とは言っても、当然ですが結論はもちろん議論も進展せず、それでも楽しく有意義な2時間でした。


≪小坂神社≫
石碑は石段を登って行くと右側の木陰に、昭和24年(1949)金沢蟻塔会建立の碑で、正面に「芭蕉翁巡錫地 紅果」 と刻み、側面には北枝の句「此の山の神にしあれば鹿と花」と刻まれていますが、今はかなり剥落しています。句は「此の山の神にしあれば鹿と月」という説もあります。


(塩田紅果は、芭蕉の生誕地である上野に生まれ、弁護士・歌人、本名塩田親雄。若いとき作家を志したが父の反対にあい、判事になりました。昭和2年(1927)「蟻乃塔」を創刊。金沢蟻塔会を主宰しました。小坂神社の石段を登り詰めると本殿左手前に紅果の句碑が有ります。)


≪あめや坂≫
飴買い幽霊伝説の光覚寺前の坂は昔から“あめや坂”といわれていました。芭蕉等は7月15日この坂を下り小橋辺りに宿を取ります。曾良の随行日記には“・・・京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死亡ノ由・・・“とあります。


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(北枝の句碑と墓・心蓮社)


≪心蓮社≫
蕉門の十哲立花北枝の墓と句碑、そして芭蕉没後60年、京都に芭蕉堂を興した金沢の高桑蘭更の墓もここにあります。


「しぐれねば また松風の ただをかず   北枝」
「枯葦の 日に日に折れて ながれけり  蘭更」


≪妙国寺≫
江戸後期、京都の芭蕉堂二世を継いだ成田蒼虬(元加賀藩士400石)の墓があります。


「ゆく春は 筏の下に かくれけり   蒼虬」


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(全性寺)


≪全性寺≫
通称赤門寺、鏡花所縁のお寺で、この山門には”大草鞋“の奉納があります。鏡花も芭蕉を意識していたのであろうか・・・。芭蕉の仙台に訪れた折、あやめを藍染緒の草鞋に結んだ・・・。


「あやめ草 足に結はん 草鞋の緒   芭蕉」



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(蓮昌寺の大仏)


≪蓮昌寺≫
北枝とは言い争いが絶えなかったという“秋の坊”は僧寂光と称し、初め蓮昌寺境内にあった末寺に住み蓮昌寺住職の弟子だったという。


「正月四日 よろずこの世を 去るによし 秋の坊」



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(秋の坊の墓)


(この句は、6年も前の正徳2年(1712)に開版された金沢の百花堂文志編「布ゆかた」に、「正月四日 よろずこの世を 去るによし イセ凉菟」が載っているとか・・秋の坊は死に際し、思わずと口に出たのでしょうか・・・。)



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(宝泉寺の句碑)


「ひと雫  今日の命ぞ  菊の露      梅室」 上の写真

「屋の棟に そうて殖えけり 梅柳    梅室」 下の写真


≪宝泉寺≫
俳諧を蘭更に学んだ金沢生まれの桜井梅室の句碑があります。また、曾良の随行日記に、元禄2年(1689)7月21日寺に遊ぶ・・・というのがあり芭蕉はこの日、柳陰軒の句空を訪れたのだろうか・・・。


「散る柳 あるじもわれも 鐘を聞く   芭蕉」


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(芭蕉の句碑)


≪観音町≫
芭蕉から北枝そして綿屋希因へと受け継がれた加賀俳諧ですが、希因は酒造業と銭屋をこの観音町で営んでいたといいます。


「芝舟や 立枝も春や あさがすみ   希因」


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(北枝の住居跡)


≪新町≫
元禄2年(1689)7月17日、新町立花北枝の源意庵の句会にて、芭蕉が発表した句は・・・。


「あかあかと 日は難面も 秋の風   芭蕉」


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(新町・久保市さん境内)


穴田克美さんは、話の内容も深く素晴らしい、そして語りも上手。次回、金沢の犀川辺りから寺町界隈の芭蕉の句碑を巡ります。


(つづく)


参考資料:穴田克美さんの資料を参考にしました。

のとキリシマツツジ

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【中能登町→羽咋市】
14日午後、知人に誘われ中能登町井田の圓光寺さんの“のとキリシマツツジ”を見に行ってきました。何処かの新聞で取り上げられていたとかで、真っ赤なツツジが満開だと聞くと、いてもたって居れなくて二つ返事で出掛けました。


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(圓光寺ののとキリシマツツジ①)


能登有料道路が無料化され、“のと里山海道”になって初めてのドライブです。GWはたいそう込んだと新聞やTVで見聞きしていましたが、その日は平日でもあり、思った以上に車も少なく、有料道路だっただけに信号機の少ない海道は、雑談をしているうちに、アッという間に柳田に、そこから下道を通り初めての圓光寺へ。


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(圓光寺ののとキリシマツツジ②)


こちら高野山真言宗熊野山圓光寺は、伝承によると養老年間(717~724)に、あの“泰澄大師”が近くにある不動滝の麓に草庵を設けたのが始まりだといわれています。中世に入り、この地に那智の“熊野権現”を勧請したことから「熊野神社」の別当となり、江戸時代には加賀八家の長家の菩提寺となり寺運も隆盛したそうです。


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(圓光寺の石碑)


(不動滝は、境内から500m離れた山にあり、滝に打たれると眼病、頭痛に霊験があるとされ、7月5日の滝開きには多くの人が訪れるそうです。)


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(境内にツツジと対照的な色のオダマキ)


圓光寺さんの本尊は阿弥陀如来像。寺宝の藤原時代に製作されという観音菩薩像と勢至菩薩像があり、今日お目当ての「のとキリシマツツジ」は寺院の庭にあり、昭和34年に中能登町指定天然記念物に指定されました。


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(樹齢が何と600年)


「のとキリシマツツジ」は、県内で一番大きいといわれ、庭に真っ赤な花を咲かせていました。根元から6株のツツジが池の後ろに横一列に長さ約13mに連なり、高さは約3m。樹齢が何と600年だとか、すでにカメラを構えた先客があり、私達のあとからも、ぼちぼちと見学者がありました。


(今年の開花は、1週間ぐらい遅れたそうですが、見頃はあと1週間ほど続くそうです。)


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(圓光寺の境内)


花は見事なもので、燃えるような深紅色の花は葉、枝、木すべてを覆い、辺りを真っ赤に染めています。花は成長が極めて遅く、長い年月をかけ能登の人々に大切に守り育てられたそうです。また、能登一円で幸せを呼ぶ花として、嫁入り時に花嫁に持たせたとの伝承が残っているそうです。


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(熊野神社)


お寺を出ると、杉並木の向こうに熊野神社が見え、歩いていくと右側から滝の音らしい音がして好奇心が募り、また、こちらに来れるどうか分からないと思うと、細い山道を前から車が来ないことを祈りながら不動滝まで登っていました。


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(不動滝)


流れ落ちる滝の高さは約20mだそうです。古くから石動山修験者の滝打たれの荒行の道場で、滝壺横に不動尊が安置されていることから不動滝と呼ばれているそうです。今は、がけ崩れの改修にクレーンなどの重機が入り、工事中のため霊験あらたかな雰囲気には少しかけるものの滝壺周辺は水しぶきがあがり、なかなかの迫力でした。


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(永光寺(ようこうじ)


帰り、まだ日が高かったので、羽咋市酒井町の曹洞宗洞谷山永光寺(ようこうじ)に詣でました。開山は瑩山禅師(けいざんぜんじ)で開創700年の古刹。立ち寄っただけですが、掃除の行き届いた古い伽藍と山中の静寂の中に立つと、何故か、また来ようと思っていました。

ほっと石川研修“鈴木大拙館と本多町界隈”

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【金沢・出羽町、本多町界隈】
5月16日。ほっと石川観光ボランティアガイド連絡協議会の総会が石川県立美術館別館で開催されました。今回は“金沢まいどさん“が担当で、午後からの研修コースは「まいどさん」の研修部会が設定した「鈴木大拙館と本多町界隈」です。街中とは思えない原生の森に近い「本多の森」を背景に、西暦547年に草創されたという金沢最古の“石浦神社”や谷口吉生氏が設計した”鈴木大拙館“そして”石川護国神社“などを歩きました。


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(総会会長挨拶)


県内から集まった参加者は110人と多く、10班を2組に分け別館から左右にスタートしました。私達の班は、石川県立美術館別館→石浦神社→本多町→鈴木大拙館→北陸放送松風閣庭園→緑の小径→中村記念美術館前→美術の小径→功業不磨の碑→石川護国神社→石川県立美術館別館のコースでした。



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(会場の石川県立美術館別館)

≪石浦神社≫
大昔、古墳時代(547年)の草創で、金沢最古の宮といわれています。かっては三輪神社を号し、奈良時代には神仏習合となり石浦山慈光院長谷寺と改め、江戸時代には石浦山王、石浦大権現となり、所在も現在の日銀や卯辰山、そして、今の鈴木大拙館辺りに、明治の神仏分離令により 現在地の移り石浦郷の地名をとり石浦神社と改称したといいます。


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(石浦神社)


(加賀國式内等旧社記には:三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷七箇村惣社今属石川郡也と記されているそうです。)


≪鈴木大拙館≫
金沢市出身の仏教学者である鈴木大拙氏への理解を深め、思索の場とすることを目的に、金沢市が平成23年(2011)10月18日に開設しました。施設の設計は金沢市にゆかりの深い日本芸術院会員の谷口吉生氏で、大拙生誕地の近くに立地し、借景となる本多の森との調和や大拙の精神とされる「静か」「自由」の具現化を図ったそうです。


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(鈴木大拙館)


≪旧本多家中屋敷霞ヶ池≫
北陸放送松風閣庭園(旧本多家庭園)は北陸放送の裏にあります。江戸時代初期に加賀百万石の家老本多家の庭として造られたそうで中央に大きな池があります。その池を”霞ヶ池”といい、現在はその畔に陶芸工房があります。以前は公開されていませんでしたが、鈴木大拙館がオープンされてから、通り抜けは出来ませんが鈴木大拙館からのみ松風閣庭園に入ることが出来るようになりました。


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(霞ケ池)

≪緑の小径≫
鈴木大拙館の裏手から本多の森の斜面緑地に沿って金沢市立中村記念美術館までを「緑の小径」といいます。中村記念美術館前の梅林から「美術の小径」に繋がっています。また、中村記念美術館から本多町の通りに出ればすぐに金沢21世紀美術館があります。崖下の鬱蒼とした森の小径ですが、数分歩けば街中です。


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(緑の小径)


≪美術の小径≫
中村記念美術館前の梅林から辰巳用水が滝のように流れる斜面横、階段のある坂道が美術の小径です。登ると石川県立美術館の裏に出ます。石川県立美術館の裏は遊歩道が整備され左に行くと別館裏へ、右に行くと石川県立歴史博物館や石川県立能樂堂や石川護国神社に繋がっています。


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(本多の森)
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(美術の小径)

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(県立美術館裏の遊歩道・今はシャガが群生)


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(陸軍旧陸軍金沢偕行社)


明治31年(1898)大手町に建築され、明治42年(1909)現在地に移築されたものだそうです。


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(旧陸軍第九師団司令部庁舎)


旧金沢城内に建築されたが,昭和45年(1970)に現在地に移築され,その際両翼の一部が切り縮められました。


≪功業不磨の碑≫
明治から昭和の初期に活躍した卿土史家日置謙氏の功績を称えた石碑で、「こうぎょうふま」と読み、意味は“永遠に称えられる立派な業績”で、昭和44年に建立され、書は当時の石川県知事中西陽一氏です。


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(功業不磨の碑)


(日置謙:明治6年(1873)3月4日金沢生まれ~昭和21年(1946)6月6日死亡(74歳)第四高等学校卒。中学校で教鞭をとる一方で「加賀藩史料」「加能郷土辞彙」などを編集され、また、石川県の依頼で大正10年~昭和2年まで「石川県史」5巻を編纂されました。)


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(石川護国神社本殿の「顕忠」の扁額・14代金沢藩藩主前田慶寧公の揮毫)


≪石川護国神社≫
平成23年(2011)に設定された石川護国神社の松竹梅巡りは、幸せや健康、子宝などを祈願する参拝コースで、女性の魅力を磨く「パワースポット」として発信されています。境内にある樹齢600年といわれる五葉松は「平安と長寿」を、キンメイ孟宗竹は「竹の節は、節度ある女性」を示し、紅梅白梅は「雪の中でも花を咲かせる生気と華やかさを持ち、子宝の恵まれる」というのだそうです。


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(石川護国神社)


(五葉松は、昭和10年(1935)神社が卯辰山から遷宮の折、当時石川県庁の前庭から移植された木で、藩政期、加賀騒動で知られる大槻伝蔵の屋敷にあったという、伝説の五葉松らしい・・・。)

ひがし茶屋街と秋聲

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【旧御歩町とひがし茶屋街】
先日、地元の公民館の方々30人と徳田秋聲記念館の企画展「ひがし茶屋街と秋聲」を見学し、その後、“ひがし茶屋街”から、解説にもありました“浅野川桜馬場芝居小屋跡”まで足を伸ばし散策しました。


市民が見つける金沢再発見
(徳田秋聲記念館)


「ひがし茶屋街と秋聲」は、記念館の第27回目の企画展で、茶屋街の歴史に始まり、展示(1)秋聲回想記“明治編”、展示(2)秋聲滞在記“大正編”、展示(3)秋聲旅日記”昭和・平成編”で、小説の抜書きや昔の図面、写真、そして当時の机や旅行カバンなども集められていました。


(平成15年に、“ひがし茶屋街”が舞台の映画「秋聲旅日記」の作品解説もあり、分かりやすい学芸員のお話に聞き入りました。)


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(徳田秋聲記念館)


館内は、カメラを使うことが出来ませんが、秋声が自ら“裏通りを二つばかり横ぎっていくと・・・”と書いているように、記念館は、秋声が少年期に住んだ旧御歩町にあり“ひがし茶屋街”は目と鼻の先、写真など撮らなくても、展示を見て学芸員のお話がまだ頭に残ったままの町歩きですから“ひがし茶屋街”へよくいらっしゃる方も、街がいつもとは幾分か違って見えたことでしょう。


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(旧御歩町)


散策は、旧御歩町から、裏木戸のあったところを入り、今は面影もありませんが八幡宮の鳥居や愛宕社の話をしながら今は宇多須神社になっている卯辰八幡宮、菅原神社、旧愛宕3番丁(老松町)中程から旧愛宕2番丁(中ノ町)旧観音町を通り馬場跡へ・・・。


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(宇多須神社)

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(左、菅原神社・突き当たり、宇多須神社)
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(関助馬場跡)


今回は“ひがし茶屋街と徳田秋聲”です。“ひがし“の歴史とか昔話については、展示もされ、また、ネタもかなり収集していますが、またの機会にして、展示で紹介された秋聲絡みの話を幾つか、それも触りだけ・・・紹介します。


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(現在のひがし茶屋街)


~明治編~
企画展では“茶屋街の光と影”として紹介されていますが、秋声の自伝ともいえる小説「光を追うて」には、零落の淵に臨んだ士族の娘たちが密かに身を売ったことなどが書かれているとか、また、企画展のパンフレットには、次兄の別れた妻が、その後生計が立てられず、”ひがし“の芸者になった下りも書かれていました。


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(ひがし茶屋街)


明治2年山上の建てられた卯辰山芝居が冬季の積雪で営業不振のなり、明治4年馬場の藩政期関助馬場の跡に移され「浅野川桜馬場芝居」が興行されます。秋声は9歳のとき母の連れられて行き、以来芝居好きになったとか・・・。


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(浅野川桜馬場芝居小屋跡、両側は芝居茶屋)


~大正編~
秋声54歳の大正13年8月、次兄の見舞いのため帰省しますが、すでに著名な作家であった秋声は訪問客を避けるため“ひがし”の芸妓屋を営む遠戚の「お絹」の家に滞在します。その辺りのことが短編小説「挿話」の中に書かれていて、大正期の金沢の“ひがし”と“にし”のお茶屋の様子が垣間見えます。


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(ひがし茶屋街)


秋声の父は藩政期加賀八家の横山家の家臣で、次兄もまた横山家が経営する横山鉱業部(北陸の鉱山王と言われた)に勤めます。当時の“ひがし茶屋街は横山一族で持つ“といわれたとかで、横山家の目にかなった一流の芸妓は「横山芸者」と呼ばれたらしい、秋声もそのような縁から、横山家の当主につれられてお茶屋に登楼したなど・・・。


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~昭和・平成編~
料亭「山の尾」は、後に「山乃尾」になりますが、昭和9年秋、すでに64歳の秋声は、次兄の見舞いに再び帰省、山の尾を訪れています。そして、没後60年の平成15年、映画「秋聲旅日記」は、秋声の”金沢もの“といわれる「挿話」「旅日記」「町の踊り場」「籠の鳥」の4編を青山真治監督がオール金沢ロケで作りあげています。


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(山乃尾)


(映画「秋聲旅日記」は、金沢の映画館「シネモンド」主催のワークショップの一環として、竪町商店街との共同企画により製作されました。)


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(秋声が少年期住んでいたところ)


ほんの触りだけ・・・詳しくは、「ひがし茶屋街と秋聲」のパンフレットや秋声の“金沢もの”といわれる小説を、記念館の企画展「ひがし茶屋街と秋聲」は、平成25年7月7日(日)まで開催されています。

(“ひがし茶屋街”の散策の際には、企画展も合わせてご覧になることをお勧めします。)


参考資料:徳田秋聲記念館「ひがし茶屋街と秋聲」のパンフレットなど

金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その1)

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【中央通町→犀川大橋→寺町】
前回に引き続き“松尾芭蕉“金沢10日間の足跡の後半です。5月21日午前10時、中央通町の真言宗養智院さんからスタート。最初のお目当ては、金沢の蕉門の方々より1年も前から芭蕉に入門したといわれている“凡兆”の墓参です。


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(養智院さん)


お御堂は、超満員40名が寿司詰め・・・、外の騒音も聞こえ、坊守さんが気をきかせて戸を閉めてくださったり、参加者の皆さんは、黙して、耳を澄まし、ガイド穴田克美さんの解説に聞き入りました。その後、きれいに掃かれた墓地に入れて戴きました。


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(穴田さんの解説・養智院さんで)


(凡兆は、加賀の国の人。野沢氏とも宮城氏ともいわれ京で医者をしていたとか、剛毅な人、若い頃より俊英で、元禄3年ごろから芭蕉をしばしば自宅の招く、元禄4年に”去来“と「猿蓑」編むが、後に急速に芭蕉から離反したという・・・。芭蕉も一目置いたという人物だといわれていますが、何か事に連座して入獄、出獄後は大阪に移住するが、以後、精彩を欠いたという。)


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(凡兆さんのお墓)


(猿蓑:元禄4年7月3日編集の去来・凡兆編は俳諧の古今集であり、蕉門の最盛期の作品「奥の細道」以後の変貌した俳諧を発表したもので“凡兆”はその選者、自身の発句が芭蕉の句より多く42句を入集し秀吟が多いといわれている。全382句で芭蕉41句、去来25句他、其角25句、北枝2句。)


初しぐれ 猿も小みのを ほしげなり   芭蕉


また、こちらのお寺は、元禄年間、住僧元徹阿闍梨は号を”素然“といい、俳諧をたしなみ蕉門十哲の一人”支考”が来沢の折、金沢蕉門の“北枝”“秋の坊”等と寺の烏水亭で俳諧を開いたと伝えられています。


上行くと 下来る雲や 秋の天      凡兆


すいせんや 時にしらけて 涅槃経   素然


夏の橋 この川上や 菊と月       支考


凡兆のお墓は、五輪で現在は風化が激しく墓面の文字は全く分かりません。また句碑には、養智院の近く旧長門町で亡くなったと書かれているそうですが、よく分かりません。“凡兆”の甥に当たる養智院の“素然”が建てたのかもという言い伝えもあります。


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(養智院さんの凡兆所縁の扁額・小松砂丘書)


(凡兆の祖父弥三衛門は加賀藩で200石の台所横目であったが、残酷な話が「三州遺事」という文書に書かれていて、その文書によると、妻を殺害した侍女を“のこぎりひき”で引き殺し、磔にしたという。「三州遺事」は石川県立図書館協会刊)


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(片町スクランブル交差点にある”芭蕉の辻”の碑)


片町スクランブル交差点の”芭蕉の辻では、かって芭蕉が宿にした宮竹屋そして亀田薬舗の竹雀、小春兄弟を偲び、向かい側にあったという“小杉一笑”の「新七茶屋」に思い馳せながら交差点を渡り金劇前へ、騒音を避けるためガイドを囲い込み耳を澄ませました。


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(現在の芭蕉の辻)


(竹雀・小春は、兄弟で次男の竹雀(宮竹屋武富)は本陣蔵宿”宮竹屋”を継ぐ。小春(亀田勝豊)は三男で長兄勝則から家督譲られ亀田薬舗を継いだ。両家は近くにあり、その向い側に“小杉一笑”の「新七茶舗」が、その裏に、後に野町に移転する願念寺があったといわれている。)


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(現在の犀川大橋)


そして、芭蕉も通った犀川大橋を渡りました。


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(現在の犀川大橋から見える山々)


「途中吟」
あかあかと 日は難面も あきの風    芭蕉


今日は、謎の“凡兆”にのめり込みスペースと時間が足りなくなりました。
すみません。ここまでにします・・・。


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(養智院さん)


(坊守さんから、8月24日養智院さんの「地蔵まつり」のお知らせが、ご利益あり・・・です。)


(つづく)


参考資料:穴田克美さんの資料より

金沢の「奥の細道」②犀川辺り(その2)

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【中央通町→犀川大橋→寺町】
前回、凡兆にのめり込んで、後回しになった犀川辺りの芭蕉の足跡の続きです。私のブログにはもう何回か登場している犀川右岸の芭蕉と希因の“秋”と”春”の句碑を訪れました。大橋からだらだら下っていくと左側の木陰に小松砂丘の書で、高さ1m40cmの自然石に句が刻まれています。


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(犀川河畔①)


初めに句碑が有ったところは、犀川大橋詰めの左岸で、元交番で交番が道路を隔てた下流側に移動したため、前にも書きましたが、小松砂丘さんが、犀川振興会へこの跡地に芭蕉の句碑を建立するよう働きかけたことがきっかけで、昭和33年、犀川振興会と金沢煎餅組合が市や県の援助を得て建立したしたものでした・・・。


(当時、たびたび雪すかしで除雪車に犀川に落とされたとか、それで現在地に移されました。現在、以前の橋詰めは、何とも不思議な三角形の駐車場になっていることからも何方かの私有地なのでしょう。)

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(木陰に句碑2基)


当時の句碑建立の案内状には「芭蕉の秋風吟に配して金沢産の綿屋希因が名作、“芝舟や立枝も春や朝がすみ“を添へ春秋永く犀川の風景を宣掦観光金沢の一翼に寄与したい・・・”とあり、煎餅の“芝舟”と組む辺り砂丘さんの抜け目のないプロデューサーぶりも窺えます。


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(あかあかと・・・の芭蕉の句碑)
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(犀川)


蛤坂を登ると、左側に斉藤一泉の庵があったといいます。その松源(玄)庵の旧蹟を訪ねました。今は民家になっていますが、その近くで、遠く戸室山や医王山、眼下に犀川の流れが一望できる駐車場で“秋涼し・・・”の推敲前の“残暑暫 手毎にれうれ 瓜茄子”について、そして、奥の細道にある「二十日快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑二遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子の刻二成。」の件の解説がありました。


(一泉は、幕府から罪を得て、前田綱紀公に預けらていた一柳監物直興の四国西条以来の家臣斉藤主税ではないかといわれていますが、詳しくは分かりません。奥の細道では、芭蕉を翌21日、臨済宗で生駒万子の菩提寺でる高巌寺の一草庵に案内しています。)


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(松源庵跡の近く)


成学寺もこのブログではたびたび登場しますが、「秋日碑」と呼ばれる碑があります。碑の正面には“蕉翁墳”があり、左側は「あかあかと・・・」の句、右面には「宝暦五乙丑穐金城麦水連中建立」とあります。芭蕉の来沢後60年ぐらい宝暦5年(1755)には、小杉一笑追善句会が成学寺で行われていたと思い込まれていたことが窺えます。


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(成学寺)


(追善句会が願念寺だった事が判明するのは、その後ずいぶんたってのこと・・・。)


本長寺さんの芭蕉の句碑は、大正4年4月の建立で比較的新しいものですが、戸室石に書かれた碑文は痛みが激しく読めなくなり、昭和57年1月、地元の俳人で画家でもあった今は亡き”馬酔木”の同人黒田桜の園の書により改修されたものです。


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(本長寺の句碑の前)


芭蕉が亡くなる元禄7年の春、自画賛の句が金沢の立花北枝の送られてきたというもので、金沢蕉門一同が芭蕉の四十九日の忌に集い、この句を追善の席に掛けて追悼したという金沢に所縁のある吟です。また、季語が2つある芭蕉の句としては珍しい句でもあります。


「春もやゝ けしき調う 月と梅   芭蕉」


(大正時代の建立で、句空庵五世の今村賢外が建立したもの、当時、正岡子規が提唱した新派俳句に抗した旧派最後の大物の宗匠で、明治26年「俳諧新誌」の選者であったというが、本長寺との所縁は知りません。ご存知の方教えていただければ幸です。)


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(願念寺さんで①)
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(一笑塚)
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(一笑の解説板)


今回の最後は願念寺さんです。一日千秋の思いで芭蕉に会うことを待ち望んでいた小杉一笑。芭蕉も金沢の子弟に会うことを楽しみに・・・。その一笑の死を金沢到着の日に知り、芭蕉は驚きと悲しみは如何ばかりであったであろうか。曾良の「随行日記」には「一笑追善会、於○○寺興行」と空欄になっています。


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(一笑のお墓)

よって成学寺、願念寺とも一笑の菩提寺あることを示す証拠をもっていなかったのですが、戦後かなりたってから、殿田良作氏が願念寺の一笑の墓を発見し、一応の結論が下りましたが、墓石には、表「釋 浄雲 浄誉」右面には没した年よりかなりの後の「天明七丁未初春茶屋新七」と刻まれています。また、自然石に「一笑塚」その右に“心から 雪うつくしや 西の雲”の一笑の辞世が、金石の蔵月明氏の筆で刻まれています。


「つかもうごけ 我泣声は 秋の風    芭蕉」


(昭和42年8月に建立され碑は、那谷寺にあった芭蕉の真筆の色紙が、その頃、市内の料理屋に残っていたかことが分かり、その書を高さ1m20cm、幅30cmの御影石に刻み、子孫の小杉潔氏によって建立されました。)


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(つかもうごけ・・・の句碑)


金沢の芭蕉の句碑は、古いものから順に、成学寺、野蛟神社、兼六園、宝泉寺、上野八幡神社、田井菅原神社、本長寺、本龍寺、犀川河畔、願念寺、長久寺で、今回上げた句碑も含めて11基です。


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(願念寺②)


参考資料:穴田克美さん資料・「金沢の文学碑」著者金沢の文学碑編集委員会、昭和43年発行


3日間も秋元氏と

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【金沢市内】
秋元氏とは、金沢21世紀美術館の秋元雄史氏のことです。氏の人物や仕事のことなどを書こういうのではなく、私が先週3日続けてお会いしたということで、めったに会えない人に3日も連続してということは私にとってはニュースでした。


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(陶壁トークでの秋元氏)


とはいってもサシで会ったというのではなく、参加した催しで単なる一参加者として会っただけですが、金沢にいらっしゃったときから、風貌に只ならぬものを感じて関心をもちました。実は私の70数年の人生の中で、煙たい存在でしたが直接・間接的に影響を受けた3人の方と顔こそ違え背丈や風貌がよく似ていたのです。


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(金沢21世紀美術館①)


それは背丈や風貌だけではなく、3人に共通していたのは身体に似合わずデッカイ夢を語ること、そして何かと問題提起をします。しかも心身共に大きく見えて、前向きで“なるほど”と思わせる力があるというか、知らぬ間に洗脳されていたというもので、秋元氏にもそんな匂いが感じられ惹かれるものがありました。


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(金沢21世紀美術館②)


そんなこともあり、惹かれながらも年下の秋元氏とは、サシで話すなど考えたこともなく、多分、前出の3人と同様、何年もしてから仕事上ようやく話せるようになったのと同で、共通の利害関係が無い限り、話しをしても、多分多弁な私も“うなずく”だけで会話にならないような気がするからです。


分けの分からないことをだらだらと書きましたが、今日のお話は、秋元氏とお会いした先週の3つの催しです。いずれも以前から関わっているところの研修会やイベントですが、時間を無理やり、やり繰りして、あわただしい中での参加でした。今もって整理が出来ていないものだらけ、最近、特に忘れっぽくて、もうかなり忘れてしまっていますが写真を頼りに何とか記録として書き残します。



≪1日目≫ミュージアムクルーズの研修会
金沢21世紀美術館がオープンした平成16年以来、参加させて戴いている「ミュージアム・クルーズ」の今年度の研修会です。秋元雄史氏は公務ということもあり、金沢21世紀美術館のコンセプトの1つ“こどもたちとともに、成長する美術館”について、何時もの秋元節は何処かに置いて来たのか淡々と語られていました。何時も聞く話なので、私は、只々ぼんやり・・・。それでも、あとで何をおっしゃいていたのか参加者に聞きまくっていました。私の耳は留守でしたが、目は、照れ気味の秋元氏を捉えていました。


(金沢21世紀美術館が平成16年(2004)のオープンに際し企画された小・中学生を招待するプログラム「ミュージアム・クルーズ」が好評で、翌年から市内の4年生を学校ごとに招待し、コレクション展を鑑賞する企画が実施されました。以後、参加者はクルーズ・クルーという名で呼ばれ50~60人のボランティアが毎年集められ無報酬で手弁当、交通費なしで活動しています。)



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(陶壁トークで菊池金沢西病院理事長と山野金沢市長、秋元館長)


≪2日目≫陶壁ツアー+トーク
今年3月、金沢西病院に完成した陶壁の鑑賞ツアーとこのプロジェクトでデレクターを務めた秋元雄史氏と製作した4人の陶芸作家のトーク会に参加しました。プロジェクトは、造語の“医美同源”なるコンセプトで医療施設とアートの融合の可能性に挑戦したものです。


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(戸出氏の作品と解説)
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(戸出氏のアトリエ訪問)


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(羽場氏の作品解説)
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(羽場氏のアトリエ訪問)


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(田辺氏の作品解説)


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(齊藤氏の作品解説)


秋元氏の目に止まった金沢の若手作家4人の製作過程や秋元氏とのやり取りを振り返るというトーク会でしたが、作家のみなさんは、秋元氏の人柄の反映か、当時の秋元氏の無理難題や大変さを、互いに笑いにして語られていたのが印象的でした。


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(作家4人)


(当日は戸出雅彦氏と羽場文彦氏のアトリエ訪問もありました。陶壁の作家1階戸出雅彦氏 3階田辺京子氏 4階齊藤まゆ氏 5階羽場文彦氏)


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(金沢西病院)


≪3日目≫趣都フォーラム2013
フォーラムは、「アートでまち、人を育てること。アートで文化、経済をそだてること。」がテーマです。会の事業報告の後、別府のNPO法人BEPPU PROJECT代表幹事でアーティストの山出淳也氏の講演、そしてパネルディスカッションの3部構成でした。


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山出淳也氏の話は、興味深々、よく“アートティストの役割は問題提起で、解決にあらず”といわれていますが、氏は別府の街のプロフエッショナルを目指し、知り尽くし、創造力という資本を駆使して、結果、別府の街の問題解決に繋がっていくというようなお話でした。


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パネルデイスカッションの登壇者は“趣都金澤”の顧問でもある金沢21世紀美術館の館長秋元雄史氏がコーディネーターで、山出淳也氏、他、金工大の内田奈芳美講師、建築家で企業経営者の小津誠一氏、デザイン会社社長宮川真也氏とユニークな町づくり活動に関わっている方々で、親しみやすい秋元節で和んだ雰囲気の中、皆さんの持論を引き出していました。


アートのお話では、何時もお金の話が欠落しているように思いますが、今回の山出氏の話は、2億だの、1千万だのと、お金の話もよく出てきました。それにしても、もう少しその経済の話を引っ張りだして戴ければと思いました。


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(金沢21世紀美術館③)


数年前、私も真似て、秋元館長へ直接、あることで問題提起をしました。すぐに出来そうに思いましたが、行政全般に関わることでもあるのか、また、お金の絡む問題なので、今だかってお預けです。多分忘れてしまったのではと思ったりしますが、田舎者は只々信じて待つだけで~す。

着物が目立った“友禅燈ろう流し”

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【天神橋→中の橋】
“友禅燈ろう流し”を書くのが今回で3回目。今年は、最近face bookで“友達”になった素敵な加賀友禅のスタイリストの方に“行きます”と書いたので、美人に弱い私としては”何はともあれ“と出掛けました。


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(ミス加賀友禅)


朝から駆けずり回って遊んでいたので、少々疲れ気味、梅の橋から中の橋を何往復かしました。今年は、幾分浅野川の水量が少ないためか、川に“燈ろう“がうまく流れるように、何時もより川幅を多少太目にし小石の堤防を、川の中に流れの早い小川が作られていて、お世話をなさる方々のご苦労が窺えました。


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(浅野川に小石を積んだ堤防)


浅野川では、セレモニーが行われる梅の橋と大橋間の右岸は当然ですが、中の橋まで、右岸も左岸にも人・人・人。行き交う人の楽しげな姿を眺めていると、よく読む本の中に出てくる昔の浅野川の風情と重なり、あれこれ思い巡らしながら歩いていました。


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(燈ろう)


“木津桃”など露天の店が立ち並んだという大正・昭和、磧(かわら)も狭しと見世物小屋を掛聯(つら)ね・・・、大当したという泉鏡花が描く“滝の白糸”の明治、そして、相撲興行や掛け茶屋や佐々木泉景が描く浅野川大橋の七夕流しの藩政期に思いを馳せながら、最近忘れていた群集の中の孤独を久しぶりに楽しみました。



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(昔の浅野川大橋の七夕)


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(華やいだ雰囲気の右岸)


今年は、心なしが着物姿の女性が多いように思えました。多分、美人の加賀友禅のスタイリストに背中を押されての見物ということかも・・・。加賀友禅の行事ですから女性も男性も着物の人が多のはあたりまえ、今まで気付かなかっただけかも・・・。そういえば何年か前、当時の市長も着物でセレモニーに参加なさっていました。


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(着物の女性が多い)



7時少し過ぎ、市長の挨拶の頃には、まだ日が落ちてはいなくて“燈ろう”が10個ほど流れる頃から暗くなり“燈ろう”の明かりが素敵な友禅模様を浮かび上がらせたもの、東北の震災をテーマにした“日本がんばろう”と書かれたもの、それから、それから、それぞれの思いが描かれた大小の“燈ろう”が次から次に流されました。


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(市長の挨拶)
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(見つけた市長の燈ろう)


流される“燈ろう”は、天神橋から流されるものも含め、その数1200個。今年は39回目の“加賀友禅燈ろう流し“は、水の芸術とも言われる加賀友禅と浅野川の繋がりに感謝を表すもので、本来は友禅業界に携わってこられた故人の霊を慰め、水供養として今後の加賀友禅の繁栄を願うものだそうです。


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(幻想的な風景・・・写真がまずいか・・・)


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(6月1日の北国新聞記事)


しかし今では、業界の行事を超えて金沢の初夏を告げる風物詩。市民が初夏の一夜の幻想を楽しみ、また、親子3代で見物する家など、親子の絆を紡ぐ大切な行事になっています。

卯辰山は“向山(むかいやま)”①

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【卯辰山】
向山(むかいやま)!!私が小学生の頃、卯辰山のことを金沢では誰もが「向山」といっていたような気がします。あれは昭和の中頃だったか・・・。山頂に金沢ヘルスセンターが出来、その頃から「卯辰山」という呼び方が定着したように思います?


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(かって金沢ヘルスセンターがあった見晴らし台より)


金沢城の向にある山だから「向山(むかいやま)」といったのでしょう。それが今では”向山“という者は極めて少なくなりました。とくに若者の中で”向山”などと言おうものならなんとも怪訝な顔が返ってきます。


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(兼六園の向側)


一方”卯辰山“という呼称は、「宇多須山」として歴史に登場するのが室町時代だそうで、その後、正式?には「卯辰山」ながらも、地元の人々は、昔から城の向かい、自分たちの住む町の向かいの”向山“・・・。方角も卯辰(東南東)でなくて、城から卯寅(東北東)の方角であるためか「卯辰山」より「向山」のほうが一般に定着していたのでしょう・・・。


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(山頂の庚申塚・かって歴史の舞台)


(何故、城から卯寅の方角なのに「卯辰山」なのかという疑問は、研究者の資料によると、山は、かって河北郡小坂庄に属していて、その庄の中心から卯辰の方角にあったからだと書かれています。)


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(秋声の文学碑)


向山の通称は、何時ごろからいわれていたのかは定かではありませんが、幕末の記録にもあり、徳田秋声の自伝的小説「光を追うて」にも、秋声ご本人と思われる主人公の姓を「向山」の名をかり“向山等”としています。


(秋声も「向山」には、思い入れが強かったのでしょうか、作品には“小学校時代にも、この山は自分の庭のように行きつけになってゐた。”と書いています。)


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(現花菖蒲園・かって歴史の舞台)
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(現卯辰三社・かって歴史の舞台)
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(現運動場・かって歴史の舞台)
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(キリシタン殉教の碑・かって歴史の舞台)


「卯辰山(向山)」は、今は周辺に多くの文化施設や史跡、碑が点在し、一時ほどではありませんが、金沢市民の憩いの場として親しまれています。しかし藩政期は、城の防衛上の要所として、山の木々は刈り取られ、山頂付近は立入禁止となっていたといいます。


(明治35年(1902)より金沢市では禿山だった山に163,000本の木を植え、明治43年(1910)に市有公園地に、大正4年から公園として本格的に整備されました。)


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(鏡花所縁の摩耶夫人像のお寺)


山の高さは141,2m、周辺8km。山名も前にも書きました 「卯辰山」「向山」の他に“臥龍山”“夢香山”そして丘や峰にも名前があり、春日山、油木山、毘沙門山、愛宕山、摩利支天山、茶臼山、観音山、鳶が峰、鈴見山といい、名前を聞いただけで、何か物語が・・・と思わせる名前もあります。そう~、この山は伝説や伝承の宝庫なのです。


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(日蓮上人の銅像)


次回からそのあたりを幾つか綴ることにします。


(つづく)

卯辰山②”卯辰山開拓(その1)“

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【卯辰山】
幕末、幕府にも長州にも義理立て?した加賀藩は“蛤御門の変“では、以前にも書きましたが、世嗣慶寧公は、何れにも加担すること無く帰国します。その為、数少ない優秀な側近を失いますが、2年後、慶寧公は謹慎も解け襲封します。焦りも多分に手伝ったのか14代藩主になった慶寧公は「三州割拠」を旗印に、加賀藩領内の自立を目指し政治的にも軍事的にも”領内富国強兵“の独自路線にシフトします。


(三州割拠とは:加賀藩領内の三州(加賀、能登、越中)が、藩の保持する権限や利害にこだわり、外からの干渉を排除しようとした。)


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(現在の卯辰山の見晴らし台より市内)


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(慶応3年の卯辰山図)

卯辰山開拓は、慶応2年(1866)4月慶寧公が家督を相続すると、翌慶応3年(1867)3月、藩主としては異例の笠舞の御小屋を巡視したことに始まります。藩主慶寧公は、御小屋の待遇改善を命じ、矢継ぎ早に卯辰山に病院を設立することを告げ、8月には、鎮守である天満宮の地鎮祭が行われています。


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(山の上が天満宮)


(笠舞の御小屋は、5代藩主綱紀公の命により寛文10年(1670)に、飢饉などで自ら生計を維持できなくなった者を救うため設けられた施設で、小屋内では、若い医者の育成に加え収容者への授産も考慮されているところから、他藩にはない保護と更正を目指した加賀藩の仁政を象徴する施設でした。)


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(天満宮)


まさに、この開拓は禿山だった卯辰山に「福祉」「医療」に留まらず、何故か山の中に町を造成し、産業振興、集学所(小学校)、失業対策事業、さらには娯楽遊興施設まで、極めて短期間に富国策としての一大プロジェクトが自動車も無い昔、不便な山中に建設されました。


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(この開発については、昼間でも狐や狸の出る山中に、雨や雪の難を知りながら短期間に巨費を投じ建設したのは、藩が国内の混乱する世情を覆い隠すため、市民に開拓に集中させ、動揺を防ぐ姑息的政策であったという説もあります。)


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(帰厚坂)
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(鳥居のところが帰厚坂)

この開発計画には下敷きがありました。着工の8ヶ月前の慶応2年(1867)10月に発行された当時のベストセラー福沢諭吉の「西洋事情」です。運営手法は、「西洋事情」そのもので“建設資金や運営資金は寄付募る”“貧富に応じての医療費”“看病人の数”“娯楽を持って利する者からの運上”等など、西洋事情の「病院」「貧院」に記されているシステムを丸写しして、一応、自立可能なように帳尻を合わせたもののようにも窺えます。


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(養生所跡(病院)の解説版)
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(養生所と集学所)


敷地は133,9haに及ぶ広大な土地を御用地として7ヶ村から借り上げ、記録では、明治の1年前の慶応3年(1867)9月には、かってない盛大は惣祭り(盆正月)が開催されたといいます。


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(撫育所)


後の資料によると工事は“一気呵成にその計画のすべてを1年半で作り上げた”と書かれていて、当時、養生所(病院)を訪れた人の記述には、突貫工事の安普請だったとも書かれています。


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(開拓録)


(当時の資料としては「卯辰山開拓禄」がありますが、身内が作った自慢の記録集のようで、真偽には疑問が残ります。それでも昔から興味持つ人も多く、今までにも諸説書かれています。それらの多くは推測の域はでませんが、以後、何回かに分けてその顛末を記します。)


(つづく)

卯辰山③卯辰山開拓(その2)

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【卯辰山】
当時の加賀藩は、財政が逼迫し家中には元治元年(1864)から4年間借知が申し渡され、慶応元年には、町方や郡方に5,000貫の借上銀を課しています。卯辰山開拓は、そんな中での一大プロジェクトでした。そして、同時に天保2年(1831)に廃止されていた“ひがし”と“西”の新地(茶屋街)が36年ぶりに再開されています。多分“娯楽を持って利するものへの運上”を期待するもので、開発資金の捻出のための再開であったものと推測されます。


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(現在の帰厚坂)


≪“卯辰山開拓禄”に見る事業概要≫


① 土木開発
天神橋、帰厚坂、帰厚橋、梅渓、蓮池、五十間土手、千杵坂、草花園、日暮ヶ丘、三の坂、滝が丘、咸泉ヶ丘、景雲台、表て坂、子来坂、扇ヶ丘、天然台、玉兎ヶ丘、茶摘ヶ丘


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(卯辰山開拓図)

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(日暮ヶ丘)

② ニュータウン開発
子来町、御廻町、常盤町、御影町、粒谷町、玉兎町、末広町、西御影町(飛び地で今の犀川御影橋辺り)



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(天満宮と常盤町)


③ 産業振興
常盤町:
産物集会所、生産店、揚場、錦絵所、鏡製造所、錫細工所、化同金製造所、錦手陶器所、水機織物、唐紙地製造所、紅染所、製油所、製綿所、製紙所、綿羊小屋
粒谷町:綿糸製造所、晒蝋所、陶器所及び陶器窯、大茶園
御廻町:織り場、撫育店、
子来町:瓦及び陶器所、毛織所、工芸局、鉄工所
御影町:製土所、造硯所、製茶所


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(粒谷町と常盤橋の製紙所)

④ 教育事業
集学所(後の小学校)


⑤ 神社
天満宮、招魂台(仮)


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(天満宮)


⑥ 医療福祉施設
卯辰山養生所、舎蜜局、撫育所


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(卯辰山開拓録の養生所の記述)

⑦ 失業対策
撫育所方役局並び所作所(綿布織物、刀鍛冶場、薬草所、釘鍛冶場、からむし、草履、草鞋、足袋、笠縫、茶摘み、桑取り、養蚕)


⑧ 娯楽遊興施設
芝居小屋(末広町)、寄席、料理屋、鴨鍋屋、茶屋、揚弓場、大弓場、薬湯、馬場


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(料理屋と養生所の一部)


⑨ 軍事
小銃角場


(いずれ詳しく書きたいと思いますが、並べてみると、当時の先端事業や娯楽施設にビックリです。よくよく見て戴ければ、やたら広範囲で、いかに大事業であったかがお分かり戴けると思います。そして、これらの殆ど全てが僅か1年半で建設されたのですから驚きます。)


私には、どうもこの卯辰山開拓は、庶民に対し“新藩主への期待”を煽る仕掛けのようで、只々、庶民をたぶらかす、お神輿だったのでは・・・。と疑ってしまうような杜撰な計画に思えます。無論、これは私の邪推であり、疑り深い老人の下種の勘ぐりでしょう・・・。


何時の世も、若いトップや元首が登場すると、夢のようなコンセプトや政策が打ち出され、影で誰かが知恵を付けたり、コントロールしたと聞きますが、多分それは、大昔の事か、よその国の事、現代はもちろん、幕末の金沢でもある分けがないと信じていますが・・・。


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(卯辰山から金沢城)

しかし、幕末という内憂外患な不安定の時代、藩内の人心動揺を防ぐためという側面もこの開発に込められていたのでしょう・・・か、また、娯楽遊興施設まで設けられ、古代ローマの”パンとサーカス“の匂いもします。しかし、この開発計画は紛れもなく、加賀藩が生き残るための“三州自立割拠”の実現であったことは、実証はといわれても困りますが・・・、私には疑う余地はありません。ウッソウ~。


“三州自立割拠”とは、今風に分かり易く言えば、地方分権ですか? しかし、この割拠策は、後世から見ると、次の時代が読めなかった井の中の“お偉いさん”の悪あがきとしか思えません。皮肉にも貴重なサンプルとして後世に有効な教訓になっています。それにしても、史料が乏しいというのは、何時の世も失敗は語りたくないという人間の性でしょう・・・か。



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(現在の梅の橋から卯辰山)


しかし、この卯辰山開拓は、マクロに見れば金沢に於ける近代化の先駆けであり、藩主慶寧公の功績であり、大いに評価されるべきであることを付け加えておきます。


(つづく


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(現在の天神橋)


参考文献:開拓山人著「卯辰山開拓禄」明治2年2月発行

卯辰山④卯辰山開拓(その3)

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【卯辰山】
卯辰山開拓は、極めて史料が少なく制約があるものの、私の知るかぎりでも大正以後、好事家といわれ方から大学の先生や研究者がお書きになられています。テーマはそれぞれで“三州割拠の富国策”または“藩営まちづくり論”さらには“藩主の救恤(きゅうじつ・御救)”についての研究です。


(救恤(きゅうじつ)は御救ともいい、今風に言うと福祉政策でしょうか。以後福祉政策と記します。)


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(撫育所役所跡地より金沢市街地)


今回は、儒学が説く封建的道徳において、福祉は領主の当然の条件だとする視点から 、加賀藩の福祉政策と「撫育所(ぶいくしょ)」について、研究者の労作を参考に卯辰山開拓を捉えてみようと思います。


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(金沢城石川門)


卯辰山開拓の契機は、前にも書きましたが、14代藩主慶寧公が笠舞の御小屋の待遇改善を命じ、卯辰山への病院(養生所)の設立を告げ、領内(加賀、能登、越中)の窮民の対策を管轄する算用場奉行と町奉行に対して改善策を命じたことに始まります。



加賀藩では、5代藩主綱紀公が他藩にはない”笠舞の御小屋“の設置以後、この恒常的福祉施設を通し福祉政策が実施されてきました。本来、領民の生計破綻に対して福祉政策は封建藩主の必須条件ですが、しかし、一方で、古来から領民同士の相互扶助の慣わしもあり、藩主はそれを前提に支配し、実際に施行される福祉政策は、藩主も領民との関係のもとで行なわれてきたといえます。



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(向の山が卯辰山)


しかし幕末になると、加賀藩も恒常的な財政破綻状態が続くと、藩は福祉政策が従来のように義務を十分果たせなくなり、領民の相互扶助に頼らざることになります。特に天保飢饉に際して、藩の財政悪化は厳しく、困窮者の増加から藩も対応しきれなくなり、藩は裕福町人等に身分相応に福祉行為を求めるようになっていました。


天保9年(1838)には、従来の「笠舞の御小屋」とは別に新規の施設三ヶ所に公費で「棚小屋」を建て、収容者には生業を与え、作業をさせ、各人に除銭をさせ蓄えを作らせ、早く小屋を出て自立するように促しています。


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(卯辰山開拓の時造られた帰厚坂と帰厚橋)

また、藩は町人を世話役に任命し、官民共に取り組む態勢をとり、13代藩主斉泰公は、5代藩主綱紀公の使ったという「養民堂」の古い看板を蔵から取り出し掲げるなど、藩主自身がこの福祉政策により深く心を寄せたことが伝えたれています。


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(上が役所で下に小屋がありました)


推測ですが、襲封した14代慶寧公は、時代の要請から軍制改革は当然としても、実際に領主権力主導による福祉の実施が困難になっていたにも関わらず、現状を省みず取り組んでいます。うがった見方をすれば、慶寧公が福祉政策に力を入れたのも父君の斉泰公の強烈な影響によるものと思われます。


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(上が役所、下が撫育所)


≪撫育所の概要≫
慶応3年(1867)11月、笠舞の御小屋が撫育所と改称され、明治元年(1868)春(厳密には慶応4年春)に卯辰山の地に移転され、移転の理由は病院と貧院は撫育の観点から一体であるということから、前年に作られた卯辰山養生所の隣に設置されました。


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(左の坂上が撫育所)

施設は「親子が入室する株小屋」「独身男性の男小屋」「独身女性の女小屋」に分かれ、撫育人は生業に力を入れるようにと、笠舞にはなかった風呂場が設置されています。撫育所では、撫育人への授産や除銭させた額に利息をつけて出所時に渡すことで、彼らの自立を支援した向きもみられます。


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(上に撫育所役所跡)


具体的には、付属の所作所や屋外の作業場を設け、おかせ、ぞうり、わらじ、たび、笠ぬいの業を興し、また、屋外での茶摘み、桑取り、薬草取り、養蚕などを命じ、その他、薬草所、釘鍛冶場、綿布織場を設置し、その品々を買い上げて、彼らの社会復帰を支援する体制を整えようとしています。


≪撫育所の墓碑≫
現在卯辰町の共同墓地に「卯辰山撫育所千五百六十二人君羊霊位」の墓碑があります。以前は撫育所あとの台地の中腹にあり参詣の人も少なく淋しく不便であったため、昭和40年3月に有志により現在地に移されたものだそうです。


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(旧卯辰村辺り左の道を上がると右の山の中腹に墓地があります)

一説によると、卯辰山開拓に伴い、笠舞の御小屋が卯辰山に移された当時の収容者は3,000人を数えられたといわれています。明治3年(1870)貧民病院を建ててから次第にさびれ、生活が苦しくなり泥棒をする者がふえ、そのため明治6年(1874)に取りつぶされ、その頃までに死亡した1,562人の霊をなぐさめるため建てられた石碑であると伝えられています。


しかし、古老の言い伝えとして“3日3晩燃えつづけ悪臭地に満ちた”というのも聞かれ、また、明治2年(1869)の夏、米飢饉で一挙に死んだという話もあります。なんとも悲惨な話です。墓碑は明治22年(1889)の建立で、碑に書かれた「明治元丁卯年夏死亡」という年号と干支の違いなどもあり、詳細については疑問が残ります。


もう一つは、ここに移されてから1年間に死亡した人の数だとする説もあります。となるとここにいた人々がどのような形で離散していったのか・・・。他に、この地で全員が死亡したという説もあり、詳細はどうあれ、結末は、なんとも淒惨な出来事です。


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(小野太三郎翁)

後日談ですが、明治に入ると公による救済活動は途絶えてしまいます。しかし、金沢では、藩でも中途半端に終わった救済活動を、かって御小屋の小者として勤務した小野太三郎が、日本で始めてといわれている個人が私費で救済活動を行なっています。後に社会福祉法人になりますが、現在も引き継がれていることを伝えしておきます。


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(小野太三郎伝)


(つづく)


参考文献:「金沢・伝統・再生・アメニティー」編者二宮哲雄、御茶ノ水書房。1991・2(第6章幕末期の金沢町における救恤、高澤裕一)「北陸史学」第54号抜粋2005・12(幕末維新期加賀藩卯辰山開拓に関する一考察、宮下和幸)「卯辰町のあしあと」著者西村五門1975・8

卯辰山⑤卯辰山開拓(その4)

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【卯辰山】
今回は卯辰山開拓の核、卯辰山養生所です。養生所は、今風にいうと病院ですが、具体的には医学教授所、種痘所、応用化学研究所(舎密局)を含む総合医療施設でした。元は安政元年(1854)に13代斉康公によって開講された、西洋砲術、鉄砲火薬の製造法を講習するための洋式文武学校「壮猶館」に始まります。


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(壮猶館跡・現知事公舎)


文久2年(1862)壮猶館では、翻訳方であり蘭方医の黒川良安等により「蘭医講読」が始まり、藩士に教授するようになりましたが、慶応2年(1866)壮猶館の弾薬所で火薬製造の発火事故が起こり多数の死傷者を出したため、壮猶館の医学機関の学生・教師を翌年新設された卯辰山養生所に移されました。


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(卯辰山養生所図・卯辰山開拓録より)


種痘所については、安政3年(1856)に黒川良安が知人の児童の種痘を施したのが始めとされ、以後、壮猶館の蘭方医6人が私立の種痘所を彦三で起こしています。後、藩の種痘所が南町に、さらに卯辰山養生所に、しかし山に上では不便であるため、種痘所だけ麓に下ろしています。


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(左建物の一帯が卯辰山養生所)


(当時の天然痘の流行は、年によりますが年間30万人(当時の人口の4%前後か)が死亡、発病者の5人に1人が亡くなられたといいます。天然痘に罹り一命を取り留めた慶寧公は、西洋式病院の必要性を痛感したといわれ、元治元年(1864)藩は種痘所を南町に移転させています。また、慶寧公は世継多慶若(利嗣)に種痘が施されています。)


卯辰山養生所の着工は、慶応2年(1866)4月に養生所の主務を命じられた金沢町奉行の名で「病院仕法書」が示され、6月には病院建設の計画が公表され、それにあわせて身分の高い武士や分限者から冥加という上納金を求め、町人には1日、半日の地ならしなどの労働奉仕の提供を求めています。



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(卯辰山養生所の跡地の看板)


また、6月7日には黒川良安を主附(ぬしづけ)に命じ、6月18日の着工に際しては、各町から人夫として延べ4,5万人の人々が動員され、目印の旗や纏を立てて老若男女が集まり、花笠をかぶり衣装を飾って音頭をとり、賑やかに山を崩し出たといいます。


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(卯辰山天満宮(卯辰神社))

さらに藩は、鳶が峰に前田家ゆかりの天満宮を養生所の鎮守として造営し、9月には、天満天神など三体を遷座され、9月の23日から29日までの7日間、金沢惣祭と称し、町々から獅子舞、作り物、にわか、などが出て、その華やかな祝賀行事は、金沢では、かってない賑わいを呈したと伝えられています。なお、養生所は10月に落成しています。



≪卯辰山養生所の概要≫
(卯辰山開拓禄より・開拓山人(内藤誠左衛門)著)

養生所内諸局 俗事方役所三局 主附同心及び町役人日々相詰惣様の取捌きをなす役所
主附医師貸屋 主附は教師なり、この貸屋ハ主附棟取の内半年交代をもつと此に住す。
棟取所 教師の役所なり
当直副直の役所 当直副直は棟取の助役なり
調合所
診察所
 外より来る病人を診察するところなり
種痘所並出人溜
上等病室
 上等病人とハ治療入室の外衣食薬代は自分に弁す、富なるものなり
中等病室 中等ハ衣食自分に弁し薬種ハ上より与ふ、中貧なるものなり
下等病室 下等ハ衣食薬種惣て上より与ふ、極貧なるもの也
(病室1人1坪で、100人収容か)
看頭部屋 看頭医師ここに住し、看病人を指令し、病室内のことを勤とす
(看病人20人か)
病人向料理所  浴室  狂病の柵
会読所
入塾所 入塾生料理所
延齢泉
 養生所囲内にあり、開拓のとき新に出る清泉なり


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(現在の松魚亭の後ろに卯辰山養生所がありました)


養生所の目的は「貧民の救済のため疾病を診察する傍ら、医学研究の道を拓く」ことにあり藩主慶寧公の難民救済に対する強い思いが窺えます。初めはどうも撫育所のための病院であったのでしょう。管理は、町同心や町役人が当たり、病室は貧富により三等に分かれていて、下等はすべて無料になっています。


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(開拓山人(内藤誠左衛門)著・卯辰山開拓録)

入塾所は医師養成のための施設。この西洋式病院は、浴室を設置し患者の衛生面を考慮し当時の最先端の医療施設だといわれ、棟取(現在の教授役)には、当時藩で評判の黒川良安が任じられ藩がこの養生所に力を注いでいたとか、その他に付属施設として、舎密局、醋酸局、乗馬用十匹をつなぐ厩、牛小屋、普請局が置かれていたといいます。


開所から半年後の慶応4年(1868)4月に出された入所手続に関するお触れには、入所するには、居住地を支配する奉行の印がある願書が必要で、診察のみの場合は願書が不要だということなどが「御用鑑」に書かれているところからも、一般も診察するようになったのでしょう。


しかし、慶応4年(1868)1月から始まる戊辰戦争が奥羽戦争へ、その時出兵した加賀藩の藩士が同じ年、年号が明治と変った10月27日から翌年の明治2年(1869)2月に帰還しますが、負傷藩士(士卒226人)は皆この養生所は収容され、戦病院化したといいます。


また、幼少の頃、見舞いに養生所を訪れ、後に金沢医大の教授のなる金子治郎氏は、”全体は極めて粗末な「バラック」で、廊下に板敷きさえなく、壁は無論板壁であったことを確かに憶えている“と書かれているように、わずか4ヶ月の突貫工事の養生所は「卯辰山開拓禄」に書かれているような施設とはかなりかけ離れていたのではと推測されます。


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(大手町にあった津田玄蕃邸)

さらに養生所は、明治3年(1870)2月、貧病院と改称され一部はしばらく残ります。一方、養生所内で医師の養成を担った医学教授所は、医学館として大手町の津田玄蕃邸に移転し、12月には医学館内に病院を設け診察にあたります。


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(現在兼六園にある津田玄蕃邸の建物)

前出の金子治郎氏は養生所にについて「当時新進気鋭の若手蘭学者が泰西の規模を丸呑みして、これを一気に虹のごとく吐き出さんとせしか気概を窺ふに足るであろう。併し実際は無論声程ではなかった。」と述べられています。


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(彦三種痘所跡地と金大発祥の地の石碑)
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(現在の金沢彦三郵便局・種痘所跡地)


医学館は、金沢大学医学部の前身になるところから、その先が彦三種痘所ということで、現在「金沢彦三郵便局」前の「彦三種痘所跡地」と刻された石碑の側面に「金沢大学発祥の地」とも刻されています。


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(現在の金沢大学病院)


参考文献:「卯辰山と浅野川」平沢一著、活文堂、平成5年「金沢・伝統・再生・アメニティー」編者二宮哲雄、御茶ノ水書房。1991・2(第6章幕末期の金沢町における救恤、高澤裕一)「北陸史学」第54号抜粋2005・12(幕末維新期加賀藩卯辰山開拓に関する一考察、宮下和幸)「金沢大学医学部百年史」明治47年発行・「明治金沢の蘭学医たち」山嶋哲盛著、慧文社、平成17年発行など


卯辰山⑥庚申塚

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【卯辰山】
庚申塚は、帰厚坂から20分ぐらい登ったところにある玉兎ヶ丘(ぎょくとがおか)の北部にあります。ここは卯辰山開拓まで、三つの小山になっていて、今は海抜141mほどですが、開拓に際して山頂を18m削ったので、今より高く159mあり、日本海を往来する船からの目印になっていたといわれています。


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(庚申塚)


当時の庚申塚は“禿げ山”に卒塔婆という細長い板が立ち並んで墓地のような気味の悪いところだったらしい。現在は、整備され公園に生まれ変わり、石碑や句碑が立ち今頃はツツジが何とも美しいところです。ほぼ中央の松の根元、植え込みの中に高さ50cmぐらいの石に「庚」「申」「塚」と刻まれた陶板がはめ込まれています。


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(藩政期の庚申塚、卒塔婆が立ち並んでいる、寺は観音院、卯辰山開拓禄より)


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(殉職警官の碑)


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(鶴彬川柳句碑)


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(平和の子の碑)


今から400年以上も前のこと、姉川の戦いなど、織田信長と越前の朝倉義景の多くの戦いの中で、捕虜になった朝倉義景の侍大将堀左近正之は尾張に連れて行かれ、石牢に閉じ込められるが、左近の母が朝倉家の守り神青面金剛尊に祈念したところ、ある庚申の夜、3匹の猿に助けられ脱出に成功します。


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(つつじの美しい庚申塚)

越前に帰りますが、追っ手を避けるため万蔵坊と名も改め坊主になり金沢に落ち延び卯辰山で主君朝倉義景の守り神青面金剛尊と石に3匹の猿を刻みこみ祀り、この地に庚申堂を建て住みついたと伝えられています。


しかし、前田家が金沢に入城すると、山の上の庚申堂が城中から目障りだということで、元和2年(1616)野町の三間道に移され、卯辰山の跡地は”庚申塚“と呼ばれ今は名前だけが残っています。


野町三間道の庚申堂は、今は跡形もありませんが、聞くところによると、明治の初めにはお寺はもうなく、浄瑠璃や落語の寄席になっていたと伝えられています。


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(今の卯辰山図・赤いところが庚申塚)


≪庚申さん≫
庚申さんの日は身を慎んで夜明かしすると長生き出来るといわれています。干支の庚申(十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで、ほとんどが庚申の年に作られた供養塔だそうです。庚申の年は、60年に1回(近年では昭和55年)。庚申信仰は、道教の説によると、人間の体内にいる「さんし」という虫が、人間が熟睡している庚申の夜、天に上がって“閻魔さん“の部下”司命“に報告するそうで、報告次第では、大きな罪は300日、小さな罪は3日、命を奪うというとか・・・。


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(現在の天神橋から卯辰山)


それで、庚申の日(60日に1回)には、みんなさん徹夜をして「さんし」が報告の行かないように、眠らないのだそうです。


参考文献:加能郷土辞彙など

卯辰山⑦一本松

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【卯辰山】
今、3代目の“一本松”が卯辰山工芸工房のすぐ下に寂しく立っています。しかし藩政期には堂々と城下を見下ろしていたことでしょう。文書によると宝泉寺の“五本松“と並び称せられる向山(卯辰山)を象徴する存在だったようです。


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(3代目の一本松)

慶長5年(1600)加賀藩の太田但馬守長知の家来で、浅井畷の合戦で勲功があった槍の名人井上勘左衛門が亡くなり、寛永2年(1625)に、その灰塚に植えられた松だといわれています。藩政期を通し金沢の名所として知られていて、度々俳句などに詠まれ、元禄期の俳人立花北枝の”一本の 松の力や ほととぎす“や”木枯らしや 卯辰の松の 年とわん“という発句が伝えられています。


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(一本松の解説)


加賀の柴野美啓が著した「亀の尾の記」には、一本松あたりは「春秋遊山人多く、茶屋をかけ、今は金城名所の其の一となり」と書かれていたり、幕末の町人の日記「梅田日記」の解説に若林喜三郎氏は“当時、市民の行楽地についてみると、何といっても卯辰山が第一で、その中心は一本松であった”と書かれています。


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(藩政期の一本松)


当時、この辺りは春夏秋冬の行楽の目標となっていたようで、梅田日記の中にもしばしば書かれ、観音院から庚申塚を一巡して一本松に出るというコースで、この辺り(今の一本松から卯辰山工芸工房辺り)で野宴を開いたと書かれています。以後、戦前まて蓮如忌ともなると多くの市民が野宴を開き賑わったといいます。


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(今の卯辰山工芸工房)


(藩政期、卯辰山は登山禁止と伝えられていますが、確かに軍事的には重要な山で、鉄砲を撃つことや幕張は禁止されていたそうですが、藩政後期、文政11年(1827)には金子鶴村が庚申塚から一本松まで山遊びをし、前出の梅田日記などでも山に登っています。そして今のところ登山の禁止令は見つかっていなと聞きますが?)


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(一本松からの眺望)


初代の一本松については、地元の方が父親から聞いたという記述が平沢一氏の「卯辰山と浅野川」に書かれています。その記述によると「幹の外周は男帯3本分(12m位か?)木の中は空洞になっていたそうで、明治23年(1890)2月23日、乞食が中に入り暖をとるため火を焚き、それが火事になり3日3晩燃えたと書かれています。


(一説には、行楽客の焚き火による失火ともいうのもあります。)


その後、植えられた2代目は昭和54年(1979)に枯死し、現在の3代目は平成10年(1998)に植えられています。


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(すく横に、宇多須神社の奥社があります)


一本松には、もう一つの伝承があります。真偽はともかくこの辺りに伝わる一連の”義経伝説“に繋がるもので、何と奥州に向かう源義経主従が安宅の関を通り過ぎ、この地で休息し、袈裟をこの松の木に掛けたことから「袈裟掛けの松」と呼ばれたといわれ、何時からかは分かりませんが、地元の人々は親しみを込めて、そう呼んでいたといわれています。


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(鹿島神社)


多分、近くにある義経伝説「鳴和の滝」になぞらえての伝承のように思えますが、この近くにはその時、矢尻を洗った川だというので「矢根川」という義経伝説も語り継がれています。


(鳴和の滝とは、「安宅の関」から逃れてきた義経主従がここまでくれば一安心と、今の金沢・鳴和の鹿島神社で休憩します。そこへ弁慶の知恵と義経の勇気に感服した安宅の関守富樫泰家がやってきて地元の酒を差し入れ、その酒で義経主従と富樫は宴を開いたといいます。)


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(現在の矢根川)


謡曲「安宅」では、弁慶が“これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水(勧進帳より)”と舞ったといます。弁慶が舞っているそばには見事な滝が流れており、この滝は「鳴和の瀧」と呼ばれ、それがこの地“鳴和”の地名の由来となったといいます。


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(筧から一筋流れる水)


当時は見事な滝だったそうですが、今は、音のわりには、控えめに一筋ひっそりと流れ落ちています。


参考文献:日置謙編「加能郷土辞彙」平沢一著「卯辰山と浅野川」など

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卯辰山⑧どじょうの蒲焼

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【卯辰山】
金沢では、この時期夏を告げる風物詩といえば“氷室のまんじゅう“が良く知られていますが、いま一つ、忘れられないものに甘辛いタレで焼かれた“どじょうの蒲焼“があります。今では近江町市場にも何軒かあり年中焼かれていますが、昔はあちこちの街角にもあり、お店によっては、普段は別の商売をしていて、この時期だけどじょうの蒲焼屋を開くところもありました。


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(近江町の蒲焼屋)


泥鰌(どじょう)は、今も根強い人気の夏のスタミナ食ですが、栄養面でもカルシュウムは魚類の中で最も多くうなぎの何と9倍近く、鉄分はほうれん草より多く、ビタミンB2はレバーに次ぐ多さで、ビタミンDも豊富で、滋養強壮、疲労回復、はもとろん二日酔いにも効果があるといわれています。


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(1本100円のどじょうの蒲焼)


蒲焼!!子供の頃、私は“どじょう”の事だと信じて疑いませんでした。その頃にも市内の広坂通りには、鰻屋もあり名前も知っていましたが、入った事もありませんので、当然、鰻と蒲焼が結びつきません。それより何といっても高価な鰻は家庭の食卓にはのることもなく、蒲焼といえば“どじょう”だと思い込まされていました。


(味は、焦げとタレの味が強くて、一寸苦味もあり、これがどじょう~といつも思って食べていましたが・・・癖になる味で、これを食べないと金沢の夏が始まらないように思っていました。)


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(横山町の蒲焼屋)


どうも金沢での“どじょうの蒲焼”の起こりは、明治初期に長崎から流されて来た浦上村のキリシタンによるものだいうのが、もっぱらの伝説になっています。伝承では当時卯辰山に軟禁されていた彼らの禁が少しゆるんできた頃、少しでも栄養をつけようと小川で獲った“どじょう”を蒲焼にしたそうです。やがて、それを麓の界隈に売り歩いたことが起こりだというのです。


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(織屋跡・現花菖蒲園)


少し調べてみると金沢の郷土史家和田文次郎氏(1865~1930)のお書きになったものに、、長崎から金沢へ明治2年(1869)に預けられ同6年(1873)に帰されたキリシタンが街中で売り歩いたことにあるとし、その味は、すぐさま金沢の人々の舌を魅了し、その後、大正時代に入ると盛んに作られたとあります。


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(左の道を下ると湯座屋跡)


また、和田文次郎氏が大正から昭和にかけて執筆した「稿本金沢市史」の中では、“どじょうの蒲焼“は“奴豆腐”や“いなだ”と並ぶ金沢の「お盆」の味として書れていて、他に「金沢にては、土用に餅を食い、武家には“鰻”を食い、町屋には“どじょう“を食うを例としたが、今は”どじょうの蒲焼“を”鰻“に代わって食べられる」というようなことが書かれています。


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(長崎キリシタン殉教者の碑への)案内標識

この背景である卯辰山のキリシタン幽閉は、明治期に入り、幕府のキリスト教禁令政策を受け継いだ明治政府により、長崎の浦上村に住んでいたキリシタン住民が金沢市郊外の卯辰山に流されています。浦上のキリシタンが収容された場所は、幕末の卯辰山開拓の跡地で、廃屋になっていた湯座屋跡と織屋跡が当てられたといいます。


昭和43年(1969)8月11日、カトリック金沢教会では「長崎キリシタン殉教者の碑」を建て、碑には「義のため迫害される人は幸せである。マテオ第五章十節」と刻まれています。


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(金沢カトリック教会)


この後、何回になるか分かりませんが、不本意ながら死を覚悟し、金沢に流され、過酷といわれるキリシタン弾圧でも信仰を翻さかった浦上村キリシタン500余名のお話の幾つかを伝えことにします。


(つづく)


参考文献:「キリシタンの記憶」木越邦子著2006・10月、桂書房発行ほか

金沢二十五天神巡り(第2回)

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【三社→長田→本町】
6月27日。金沢二十五天神巡りの2回目40人が石川県女性センターに集合し、参加の皆さんも余り歩いたことの無い三社周辺から駅西、駅前の本町まで2時間。昨日の雨が嘘のような上天気の中、牛歩のごとくゆっくりと長蛇の列をなし五社を巡りしました。


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(豊田白山神社にて)


今回巡る天神さんは藩政期、神仏習合の寺社ですが、明治になり復飾して神社になった豊田白山神社と長田菅原神社、平岡野神社の外はお寺(三寺は、廃寺、移転、寺社分離)として天神さんが祀られています。


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(金沢城下の天神さん・今回はブルーのところを巡る)


≪今回の天神巡り≫
8常光寺 三社摂殿(三社町)天台宗。現在、豊田白山神社
9 成応寺長田本社(長田一丁目)本山派山伏。現在、長田菅原神社
(10出雲寺大社別伝 (*中橋町)天台宗。)
11放生寺奥院尊像(広岡一丁目)曹洞宗。現在も放生寺
12 顕証寺三王摂社(広岡一丁目)真言宗。現在、平岡野神社
(13灯明庵三高(天)天神(*本町) 曹洞宗。)
14持明院白髭別殿(本町一丁目) 真言宗。現在、白髭神社

(10出雲寺は廃寺なり、大社は豊田白山神社へ。13灯明庵は、灯明寺のなり現在大乗寺へ)


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(三社交差点辺りからスタート)


≪第2回の寺社解説≫

8常光寺 三社摂殿(三社町)天台宗。現在の豊田白山神社
「亀の尾の記」によると泰澄作と言う「白山妙理大権現」「十一面観音」が祀られ、また、右に八幡、左に春日神を祀る。他、伝泰澄作の七尺観音、伝恵心僧都作聖観音があり、観音信仰の盛んな社であったが、明治2年復飾し寺号を廃止し、豊田白山神社としました。現在は、天満宮及び廃寺になった「出雲寺」の扁額があります。左側にある天神堂があり、天神さん(渡唐天神画像・網敷天神画像)は本殿に合祀されています。網敷天神画像は出雲寺の御神体であった天神であったとみられています。


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(お寺の建物そのままの現豊田白山神社)


(三社の宮と三社町:元は石川郡戸板12ヶ村の一つで、村の中心に白山神、八幡神、春日神を合祀する三社の宮が鎮座されたことから、三社と呼ばれ、藩政中期から城下の外域の住宅地となり、元禄9年(1696)には三社町となり、一部武士の御用地に接収され、在住農民は今の湯涌町に強制的に移住されています。)


この辺りは、藩政期から三社が付く小名があったと聞きますが、その幾つかは昭和の町名変更で消えてしまいました。それでも道路、水路に藩政期そのままと思われる“ドンド”つずらおり“”七曲り““木揚場”などがあり、明治の町名にも今後、町名復活が期待できそうな町名もあり、町を歩くと思いがけず歴史に隙間に誘い込まれそうな錯覚に陥ります。


三社の旧町名:三社川岸、三社宮ノ右、三社垣根町、三社山田町、三社宮ノ前、三社木揚場など


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(昔からある三社の九折(つづらおり))


9 成応寺長田本社(長田一丁目)本山派山伏。現在の長田菅原神社
現在の拝殿は、藩政初期の建築で金沢城にあった東照権現の護摩堂です。成応寺は長田社の別当寺で、明治元年復飾。天神は、菅原道真の自作と伝えられていたが今は不明。延久元年(1069)後三条院が病気平癒を祈願するため諸国に一社づつ北野社を勧請した内の一つです。


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(昭和54年屋根を修復する前までは雪が屋根から落ちなかった長田菅原神社)


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(平成元年より2年越しで修復された朱丹総漆塗りの拝殿)
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(長田菅原神社で宮司さんに解説していただきました)


10出雲寺大社別伝 (*中橋町)天台宗。(廃寺)大社は豊田白山神社へ
元は天台宗茲眼山常楽寺といいましたが明暦元年(1655)出雲社の再興のより出雲寺と呼ばれるようになりました。明治41年、豊田白山神社に合祀されます。現在、中橋町の跡地は痕跡も残っていません。


11放生寺奥院尊像(広岡一丁目)曹洞宗。現存
元応2年(1320)総持寺を建てた瑩山禅師の建立といわれているが、一時退転。元和元年足利義昭に仕え、その後、光秀、秀吉、秀次に、さらに文禄5年(1596)以後、前田利長公の仕えた津田重久を開基として再建されました。天神は重久の守護仏であったという、忿怒形の天神画像が伝わっています。


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(放生寺の天神画像)
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(放生寺のところに昔大乗寺がありました)

12 顕証寺三王摂社(広岡一丁目)真言宗。現在の平岡野神社
延暦年中、叡山僧が山王を勧請したのに始まります。戦乱のおり一時退転。利常公の氏神だったことから、寛永12年(1635)再興されました。愛染明王画像、宝塔曼荼羅などの社宝を有するが、天神画像は明治元年復飾の際、他の仏像等と共に放生寺に移されました。

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(平岡野神社)


13灯明庵三高天神 (本町一丁目) 曹洞宗。現在の灯明寺は大乗寺へ。
元野々市のあり、大乗寺の寺中であったという。「亀の尾の記」によると、現在地にあった“大乗寺”が本多町に転地の際、そのまま残ったといいます。三高天神画像の他、利家公の画像も伝わっているそうです。三高の名のいわれは不明。(三高天神または三天天神としたものもあるが、これも不明。)



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(左のビル辺りに灯明寺がありました)


14持明院白髭別殿(本町一丁目) 真言宗。現在の白髭神社
真言宗で江林山と号す。白髭の社僧で、白髭社は永長年間(1096~7)の建立といわれ、一時中絶したが寛永年中の復興。社地をいくつか変遷し現在地へ。金沢駅前の木の新保時代が長く「亀の尾の記」には沢田義門奉納の竹布の天満宮画像があると伝えています。現在、天神像及び画像を安置していて、かっては毎月26日に祀っていたそうです。白髭別殿の社僧持明院は蓮寺で有名ですが現在は神宮寺町へ。


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(白髭神社にて、ここの狛犬はライオンでした)


≪天神信仰について≫
本来、天神とは、 天津神(あまつかみ)のことで、雷神でもあり、特定の神の名ではありませんでした。故事、霊験によると“天神さん”は70余を数えるといわれ、本来、菅原道真公だけに称されたのものではなかったのです。


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(長田菅原神社①)


菅原道真公は太宰府へ左遷され、2年後に亡くなりますが、その後に都で起こった様々な災害の殆どが道真公の祟りとされ、災害(特に天災)は祟り = 道真公 = 天神 という考えが浸透していきます。道真公の死後27年後。有名な御所の清涼殿落雷事件がおき、当時の醍醐天皇は余程ショックだったのか、その後すぐ病に伏して、3ヶ月後に亡くなります。


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(長田菅原神社の漆塗りの拝殿)


この清涼殿落雷事件により、道真公は完全に天神としての位置を決定づけられ、時を経て、天暦元年(947)北野天満宮創建をはじめ、後の天皇からの追贈位や御幸等、道真公を鎮めようとするとともに、天神信仰と発展します。


また、神仏集合の進むと道真公の天神は十一面観世音菩薩と同一視され、慈悲の神として崇められる様になっていき、道真公の天神は正式名として「天満大自在天神」という称号を朝廷から贈られています。


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(元禄時代の天神さん・長田菅原神社)


一方で観音さんは三十三身に応化するといわれ、その一つに大自在天身がある為と思われます。道真公が優れた学者でもあったことから、現代では学業の神様として信仰を集めています。


(前田家と天神さん及び金沢の二十五天神については、金沢天神巡り(第1回)を参照。)


(つづく)


次回の天神巡りは7月25日の予定。

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