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お茶屋さんの2階、3軒はしご

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【梅の橋→中の橋】
3軒も!!とはいっても、粋な話じゃなくて、土曜日のまっ昼間、“押寿し作り”と“蒔絵体験”そして“一ヶ月遅れの金沢のお雛まつり”の体験三昧の2時間ちょっと、余韻が残る味わいあるクリツーの体験ツアーでした。


(クリツーとは、金沢クリエイティヴ・ツーリズムの略)


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(押寿し体験)

1軒目は、ひがし茶屋街の「金澤寿し」の2階。今月開店した金沢の家庭に昔から伝わる“お祭りの押寿し”を一寸アレンジしたもので、丸い押寿しの型に青い笹を8枚敷いて、寿し米を万遍なく広げ、その上に、鯖や鮭などの定番の具のほかに、乾燥した甘海老や佃煮、五郎島の薩摩芋、椎茸、加賀れんこんなど地元の食材や錦糸卵、でんぶ、紺のりなどをのせ、しばらく重しをして、丸い型で器の端に4本の竹の棒を2本ずつ上下し4箇所輪ゴム締めて出来上りです。


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(金沢建築訪問vol,6の体験用のチラシ)


当日の参加者は10人限定で、ご夫婦もいらっしって、旦那様は、慣れない手付きでしたが、ご自分で彩りを考えながら具を並べていらっしゃいました。十人十色といいますが、30分もすると彩り豊かでそれぞれが微妙に違う手作りの押寿しが一丁上がりでした。


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(金澤寿し)
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(押寿し)


(ひがし茶屋街には、現在50軒の店舗が有りますが、聞いたところによると平成元年には5店舗だったそうです。)


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(ひがし茶屋街花嫁道中)

お店を出ると、最近、ちょくちょく出くわす、茶屋街の大通りで花嫁道中の真っ最中。素敵な光景に皆さんと野次馬に乗り、しばし道中見物をしました。今日は、少し肌寒いもののお天気もよく土曜日でも有り、人出も上々の道中日和でした。



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(蒔絵体験)
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(蒔絵体験の照乃家さん)

2軒目は、主計町の“照乃家さん”の2階。オリジナル蒔絵万年筆で有名な蒔絵師の田村一舟さんの指導で、朱塗りの杯に蒔絵を施す体験でした。皆さん、プロ用の細い絵筆で、時節柄”桜と花びら”とか、漆器の定番“うさぎ”のデザインなど、好きな模様を選んで描いたあと、その上に貝や銀の粒を張り、銀粉を蒔きました。体験では、一般の人は漆にかぶれるので、ウレタンとかの“漆もどき”を使うそうです。


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(土家さんのお雛さま)
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(お土産になった金華糖)

最後は、同じ主計町の“土家さん”の2階。大きなひな壇に3種類のお雛さんが並んでいました。昔から金沢ではお雛さまに“金華糖”と“すきみだら”をお供えしますが、そんな“金華糖”や“すきみだら”にまつわる奥様の昔話を聞きながら、いける口は、能登の“濁り酒”を車の人は甘酒で乾杯、1軒目で作った“押寿し”を肴に、ちょっとだけ昼酒を楽しみました。女性の方には金華糖のお土産付きの至れり尽くせりの素敵な体験ツアーになりました。お世話のなった皆様ありがとうございました。


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(土家さん)



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(主計町の土家さんでは、知る人ぞ知る横笛奏者“籐舎眞依さん“のおとうさんのお店です。2年後の新幹線金沢開通に備えて、“横笛”のイベントを常時開催する計画を立てているとか・・・。)


千秋順之助②加賀藩の俊才は次男坊

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【常盤橋→天神橋・旧味噌蔵町】
千秋順之助は、加賀千秋家の分家喜兵衛家(200石)7代宗助範為の次男として生まれます。母は音地克比の娘で、音地家は与力で180石の家でしたが克比の時代に100石が加増になり、280石の組頭になり、隠居して眠水といいました。学問のある人のようで、順之助はこの母方の性質を受け継いだのではないかと思われます。


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(金沢城河北門より菱櫓)


藩政期は、次男坊に生まれたら養子にでも行かない限り、将来の見込みが無かった時代、15歳で入った藩校明倫堂で頭角を現し、やがて江戸遊学を願い、昌平黌に学ぶようになると、その才が認められ、舎長になり幕府から俸を給されます。藩はその才が惜しくなったのか金沢に呼び返しました。


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順之助の広い視野は、その江戸遊学中に身に付いたものと思われますが、金沢に帰ると藩校の助教加入に、安政4年(1857)6月に組外に登り、認められ世嗣慶寧の侍読になり、新知100石、別に職俸50石を給せられ、家禄200石の次男坊としては破格の出世をします。


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(加賀富士(大門山))


順之助は、金沢に生まれた人物としては、珍しく剛直な性格だったといいます。金沢は、昔から、あからさまに自分の意見を言わないのが美徳とされ、藩政初期、百万石の外様大名は、取り潰しに遭わないように、幕府の警戒心を避けるため、藩主は自らを主張するのをやめ、ぶつからないようにしたといいます。


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(世嗣慶寧)


3代藩主利常公は、取り潰しを免れるため、愚かさを装ったと伝えられていることもあり、自分を主張しないのが藩士の気風にも伝わっていたようですが、順之助は、そうした金沢の士風と異なっていたそうです。


“書生ッポ”くて、自由な態度が好感を呼び、順之助に近づく人々を引き付けたといわれていますが、徒党を組んで群れるような人物ではなく、同士的結びつきで党派を作り上げることはなく、その党派的動には賛意を示すものの、仲間として共に行動することもなかったといいます。


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(金沢城菱櫓と五十間長屋)


順之助が漢文で書いた「治穢多之議(エタを治むるの議)」には、明治になってもなかなか表れなかった部落解放論の先駆で、身分差別が当たり前の藩政期に、儒教的平等観に基づいた解放論を主張したもとしては初めてといわれています。


(しかも、この様な文章を書いた人物が、事大主義ともいえる当時の加賀藩にいたことに驚きます。)



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(治穢多之議の漢文)


その識見は”蛤御門の変“の早朝京都を撤退に際して、”家名の疵がつく“”今、帰国すれば加賀藩は永久に卑怯者と笑われる“という当時としては常識とされる声に、順之助は、”本当に勤王の心があれば、今、幕府のいうことを聞き、一途に尊王・攘夷を貫く長州藩を撃ってはいけない!!そうすれば近い将来に順逆を誤ったことになる。せめてこの戦の渦中には誰がなんと言おうと入ってはいけない“と京都を立ち退くべきだと主張したといいます。


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(金沢城石川門)

11代将軍徳川家斉の孫に当たる世嗣慶寧の長州藩に気脈を通じるような行動には、事大主義で幕府に付くことを常識とする老臣たちが激怒し、藩主斉泰公にせまり慶寧に従った者たちの処分を求めます。慶寧の行列が大聖寺藩の小松に着くと、順之助は他の藩臣と藩の役人に迎えられ、長町の竹田掃部の屋敷に預けられることになります。


(世嗣慶寧は謹慎、側近の尊攘派の40名近くは処刑(打ち首、生胴、切腹、遠島など)、加賀藩から尊攘派は一掃されます。)


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(竹田掃部屋敷跡、現聖霊病院)

竹田掃部の屋敷は、今の聖霊病院のところにあって大きな屋敷で、その年の10月18日切腹の命を受けると、介錯の武士に伴われ、まるで茶室に招じられたように、淡々と、しつらえられた部屋に向かったといいます。それは順之助50歳の秋でした。


(没後、明治24年(1891)には靖国神社に合祀され、その年の12月に正五位を贈られました。)


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(千秋喜兵衛家一族の墓地・経王寺)
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(千秋順之助の名が見えます。)

金沢の経王寺には、喜兵衛家墓碑前にある燭台の奉献の文字の下に順之助の名がみえ、過去帳には「聞龍院観智日了居士」と記されているそうですが、今は、東京都府中市の多磨霊園に眠ると聞きます。


参考文献:「加賀千秋家」家譜・奈良本辰也著、歴史読本「人間この劇的なる生涯“千秋藤篤”」など



天神さん④卯辰山の天満宮

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【常盤橋→天神橋】
卯辰山の天満宮は、慶応3年(1867)卯辰山開拓の折、卯辰山“鳶が峰”に竹沢御殿の天神さんを遷宮し、卯辰山撫育所の守護神としました。遷宮は8月28日に地鎮祭を行い、市民の御冥加という勤労奉仕などもあり、一ヶ月にも満たない9月23日(11月説もあり)に祭神(官公の画像)をお遷しします。


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(卯辰天満宮(卯辰神社)史跡)


(卯辰山開拓とは、14代藩主前田慶寧公が、福沢諭吉の「西洋事情」に触発され、卯辰山に養生所や撫育所、そして娯楽施設、さらには山麓に工場群を開発した一大プロジェクトですが、激動の幕末、加賀藩が民心を惑わすために行った姑息的政策だといわれていたりして、未だによく分からない開発事業です。)


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(創建時の卯辰天満宮)


天満宮の神殿には祭神天満天神、相殿大国主命、少彦名命の三座が国君(慶寧公)の命により鎮座し、遷座には7日間に渡り、町々は獅子舞や作り物、にわか、囃子などで賑わい、かってない盛大な金沢惣祭(盆正月)だったといいます。町にはのぼり旗がたなびき夜ともなれば軒々には見事な提灯が灯り人々は浮かれ賑わったそうです。


(大国主命(国土開発の神)は、少彦名命(医薬の神)と共に山造り、島造りなど国土開発や農業技術の指導普及、病気を治し薬である酒造りの技術も広めた国造り神といわれています。)



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(現在の天満宮)

明治元年(1868)9月勅許により、天満宮は号を村社卯辰神社に改めますが、祭神の画像は、官公の御自画御自讃の一幅、他に先代(斉泰公)が江州今津甚右衛門宅に御手植した松で彫刻した官公の御木像が同座したと明治2年2月に新刻された開拓山人著(内藤誠左衛門)の「卯辰山開拓録」に記されています。


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(天満宮の額)

開拓事業は、明治元年(1868)春、卯辰山の撫育所へ笠舞のお救小屋を移した後、その年の12月には、藩の財政の行き詰まりもあり、時代が大きく変わったことによるものか、藩の事業は中止になりました。


(明治3年(1870)7月付の“恐れ乍”で始まる文書がありますが、要約すると茅葺の天満宮は尾張町から見ると築2年10ヶ月の建物であるのに、もう風で壊れ見苦しいので修繕しては如何か等々と書かれていて、書いたのは生国西京の竪町入口亀沢丁の商人だといいます。そんな文書を見ると計画的な安普請・・・?いや~只、金が無かっただけかも・・・?)


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(天神橋から山の上の卯辰天満宮)


明治3年12月には、参道の咸泉丘に北越戦争で参加戦死した人々の招魂社が建立され、やがて招魂社が“鳶が峰”の主役に取って代わります。招魂社の拝殿は金沢城二の丸御殿の能舞台を、門も同じ二の丸御殿の唐門が移築され、拝殿には慶寧公の筆による「顕正」と書かれた額が掲げられたといいます。


(招魂社の運営は藩知事(慶寧公)の寄進によるものでしたが、明治4年7月廃藩置県後は有力者の私費により運営されます。明治34年以降は「官祭招魂社」となり、昭和10年(1935年)出羽町に遷宮され、昭和14年(1939年)石川護国神社に改称されました。なお、能舞台は中村神社に唐門は尾山神社の東門として現存しています。)


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(招魂社の格天井・現中村神社拝殿)
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(招魂社の門・現尾山神社東門)

さらに卯辰神社は、明治40年(1907)に、当時殿町にあった郷社豊国神社が、隣接地に遷宮され合併します。現在、天満宮(卯辰神社)は史跡ですが、卯辰山三社(豊国神社・卯辰山天満宮(卯辰神社)・愛宕神社)の中央に在り、今も市民の崇敬を集めています。

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(豊国神社)


(卯辰山三社とは、愛宕神社、卯辰天満宮(卯辰神社)、豊国神社の三社をいい、豊国神社は旧郷社で主祭神は豊臣秀吉公。明治元年(1868)の神仏分離令の折、観音院を主神秀吉公として豊国神社に改称し、後に村社である愛宕社を合祀し、明治19年(1886)、氏子地の殿町に移しましたが、明治40年(1907)、現在地に移し卯辰神社を合併しました。)


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(愛宕神社)


≪余談1≫
昭和48年(1973)2月23日の新聞記事に、卯辰神社神殿の日本刀と掛け軸が盗難に遭いそれが富山で見つかったことが書かれています。14代藩主慶寧公が奉納した菅原道真公の真筆自画像と伝えられるもので、本物かどうかは明らかではありませんが、梅鉢の紋入りの三重の桐箱入りで、一緒に従四位土肥肥後守なるものの真筆の鑑定書も3通入っていたといいます。また、日本刀は、加賀の国の名工“清平作”の御神刀とかで、これは京都で見つかったと報じられています。


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(卯辰三社下の花菖蒲園)

≪余談2≫
明治の卯辰神社は、文学の舞台として、大正8年発表の「所縁の女」や五木寛之が昭和43年~45年発表した「朱鷺の墓」に、この辺りの様子が美しく素敵に書かれています。

“…一重の咲く頃には、枝の花の中から、紫の医王山が見え、遥かに聳えて雪の白山が眺められようと言う処でね…”

鏡花の「所縁の女」より


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(卯辰三社の図)

参考文献:開拓山人著「卯辰山開拓録」明治2年2月新鐫・十月社製作「浅野川年代記」平成2年発行

去年より11日早い“金沢の桜“

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【浅野川大橋→中の橋】
金沢の気象台は3月30日、染井吉野が開花したと新聞発表がありました。去年より11日も早いというので、3月31日、毎年桜を撮影している主計町の“中の橋”へ出かけました。今年は各地でも例年より早いといわれていましたが、金沢は寒い日が続いていたので、そんなに早く咲くと思いもしなかったので晴れ間を待ってバイクを走らせました。


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(開花宣言後、3月31日の主計町の桜)


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(去年の4月8日の主計町の桜・明らかに今年の方が開花が早い)


確かに、昨年4月8日に撮影した写真と比べると、今年は随分早いのがよく分かります。このまま余程冷え込まない限り、昨年は、開花日の4日後の14日には満開でしたので、新聞発表通り4日~6日には主計町の桜は満開のなりそうです。


(開花宣言;2011は4月8日、2012は4月10日、今年2013は3月30日)



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(ぼんぼり①)

ご覧の通り、桜はまだまだ、それでもここまでくると、いかに寒気が続こうが1週間も経たないうちに花盛りですが、咲くまでは暫らくの間、主役は“ぼんぼり”でしょう。花が咲くと脇役どころか目にも留まらないのに、こんなにたくさん有ったのだと思いながらシャッターを切りました。


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(ぼんぼり②)


金沢の花見の“ぼんぼり”は、子供の頃から兼六園やあちこちにあり、春の兆しを告げる新聞紙面には毎年“ぼんぼり“の製作風景が載っていたので、よく知っていたつもりでしたが、桜が咲いていないので、見るものが無くて、しげしげと眺めていました。


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(ぼんぼり③)

よくよく見ると、金沢風というのか、この“ぼんぼり”は、シンプルでちょっと品がよく?六角形で先が広がって形も良い、枠は赤、色はピンクのぼかしや裾に萌黄色のぼかしも入り、黒で書かれた楷書の筆文字が昔と変わらぬスタイルで日本情緒というか、風情を醸し出しています。


夜ともなれば、桜とマッチして白いキャラコを通して“ぼんぼり”のぼんやりとした明かりが桜を照らす風情が、昔、人ごみの中で、美しいと感じて見とれたお花見が想いだされ、同時に、ネオンやイルミネーションの巷も脳裏にチラ付き、ご無沙汰の夜桜見物に、今年こそはと、そんな気持ちになっています。


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(一箱古本市ののぼり旗)
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(テントを張って、店は殆んど源方院の本堂へ)
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(一箱の古本)

3月31日は、主計町の源法院前での恒例の一箱古本市が開催されていました。生憎の雨模様だったとかで、主力は寺の本堂での店開きになったとか、いつもの様に道いっぱいの賑わいはありませんが、狭い本堂では、売る人、見る人、買う人が見分けが付かないくらいごちゃごちゃと一つになっていて楽しそうな雰囲気でした。


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(一寸、寂しいしだれ桜)


境内では、少しだけ花を付けたあの有名な“しだれ桜”は、まだこれからという感じでした・・・。

謡が空から降る①

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【金沢城下・天神橋→浅野川大橋】
“加賀の女(ひと)”という北島三郎のヒット曲がありました。3番の“謡曲(うた)がふるふる 加賀宝生の・・・”という件りですが、加賀の植木職人が木の上で剪定作業の合間に、謡を口すさんでいる姿を、何方がいったのか分かりませんが、金沢人だとすれば少しお国自慢を忍ばせていったフレーズでしょう。他所の人だとすれば、いろいろ・・・・でしょうネ。


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(金沢城石川門)


金沢では、藩政期からお殿様の影響でお能や謡が盛んで、武士だけでなく、お殿様が奨励すれば、逆らわず従順な金沢町人の習い性からか、商人は言うに及ばず、大工や細工職人、植木職人に至るまで、お謡いの稽古に通ったといわれています。


(稽古場は今風に言えば異業種交流のサロンかロビーだったのかも・・・。)


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(今の植木職人は・・・)


今は、どうか分かりませんが、私の同世代だとかなり謡える人がいます。戦後すぐの頃、社会に出ると普通に習いに行ったと聞きますが、私は、ガサツで、それもありますが、文化オ~・・・ノォ~。仕事や金に追われそれどころではなくて、ついに習うこともありませんでした。


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(能楽堂の石碑)

50年も前の金沢では、町のおやじさんや地元の有力企業の社員は日曜日の午前中、料理屋の2階等に集まって謡の稽古というのがざらに有ったらしく、私の駆け出し時代、急用で出入りの印刷屋を尋ねると、社長は謡の稽古とかで、料理屋に駆けつけると稽古の真っ最中。厳粛な雰囲気に圧倒され、すぐに用件をいい出せなくて、正座で長時間待ったことを思いだします。


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(石川県立能楽堂)


金沢ではお能が、町人にまで浸透したのは、藩営の“御細工所”の選ばれた職人に兼業でシテ方以外の笛、大鼓、小鼓、太鼓、地謡を務めさせ保護奨励したのが始まりだそうです。


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(石川県立能楽堂のインホメーション)


爛熟期といわれる12代藩主斉広公の時代、文化8年(1811)に行われた“大規式能”で、出演した役者の総数が259人に及び、当時の江戸五座の役者総数より多く、しかもその内の202人は町人だったという記録が残っているそうです。


(江戸の五座:観世、宝生、今春、金剛、喜多の五座をいう。)


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(石川県立能楽堂)


幕末、金沢で謡が玄人裸足の算用場に勤める町人能登屋甚三郎(梅田甚三久)が書いた日記に、神社の神事能に多くの見物人が出掛けたことや御手役者のこと、お寺の有名な泡吹面のご開帳。さらには雪の2月、はるばる山越えで越中高宮村へ謡いを教えに行った話等が書かれています。如何に藩政期、金沢では、お能や謡が町人に深く浸透していたかが分かる貴重な日記です。



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(今の旧材木町入口)

その日記の中に、謡の稽古の様子が書かれていたので、少し要約して書きます。慶応元年(1865)閏5月晦日から12月15日の半年間、材木町入口の町人木村屋吉三郎、能とや喜太郎、嶋屋源太郎3人と並木町の越中屋太三郎が、師匠である能登屋甚三郎(梅田甚三久)の口移しで“鶴亀”“猩々”“関原与市”“皇帝”“忠信”“飛雲”“吉野静”を習い、100日以上の稽古が終わる12月15日の稽古仕舞に、師匠や先輩等10人が集まり謡い会が催れ、その後、午後7時から10時頃まで、みんなで“ふきたち”や“味噌漬タラの焼き物”“このわた”などを肴に一盃やったと書かれています。


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(幕末の庶民の日記「梅田日記」)

いずれにしても、金沢では、藩政期、多くの町人にお能や謡が身近なものであったことが窺われます。


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(広坂の金沢能楽美術館)


(つづく)


参考文献:「金沢市史」通史編2 近世、藤島秀隆著、平成17年12月刊行・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行

今年、主計町の一人花見・・・

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【梅の橋→中の橋】
こんな時に当たらなくてもいいのにと思うのですが・・・。1・2日前から土・日は強風で雨も降ると天気予報が騒いでいたので、慌てて昨日、満開の桜を撮りに、朝から主計町へ出掛けました。


(今日6日朝、うっすらと雲が覆う“花曇り”新聞の予想では午後3時以後から荒れるらしい・・・。)


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(中の橋から主計町の桜と浅野川)
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(朝霞の浅野川大橋から上流)


毎年、主計町の満開を見ているのだから、今年は“もういいじゃないか”と思う反面、いつ何かがあって、“来年は、もう来れないかも・・・”と思うと、矢も盾もたまらず、浅野川上流の写りが良くない、朝霞の“中の橋”にいました。


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(満開の主計町)


朝10時前だというのに、同じ思いか、想定以上の人出でした。その後、ひがし茶屋街に廻ると、朝から花嫁道中と外国人の観光客であふれています。茶屋街をひと回りして右岸の桜並木に出ると、先ほどのお嫁さんの記念撮影が桜と浅野川大橋をバックに始まっていました。


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(朝、ひがし茶屋街で見た花嫁さん)
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(外人さんで賑わうひがし茶屋街)
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(桜の下で記念撮影)


(好天は昨日で良かった。昨日は友引で結婚式はOK。ちなみに今日だと先負で午前中はNO・・・しかも午後だと強風で雨では、桜の下での写真は無理かも・・・。でも先負だからね~予約はナイナイ・・・?)


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(まだ、これからの緑水苑のしだれ桜)


去年より11日も早かった“金沢の染井吉野”の開花は、気象台では8日早い満開とか、土・日は暴風!!天候不順も何のその、これで終わった訳けではありません。浅野川左岸では、主計町緑水苑の枝垂れ桜や並木町河川敷の遅咲きの八重桜もまだまだこれから、兼六園に行けば、熊谷桜や大桜、福桜、ウコン、御車返しや楊貴妃桜、さらには兼六園菊桜等々有名な桜はこれから、これから・・・。


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(右岸の桜)


中の橋の下流では、いつも無人の釣竿が何本も並んでいました。いつもは人がいないので、何を釣っているのか知らなかったのですが、昨日は、おじさんがいたので聞いてみました。


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(右岸、中の橋下の釣り人と釣糸)


獲物は鯉。2008年7月の水害の後、浚渫工事が始まり、以前より獲れなくなったそうですが、それでも先日は5匹も獲ったといっていました。


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(何が釣れる・・・)

”食べるがか!!”と聞くと、釣るだけといっていました。上流ならいざ知らず、この辺りでは、背骨が曲がった鯉が釣れたりして食べる気がしないそうです。釣れた時のワクワク感と暇つぶし・・・。鮎が釣れても食べないといっていました。

七尾の2つ城跡と山の寺

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【能登・七尾市】能登は、“温泉好き”や“美食家”だけでなく、“歴史好き”にとっては堪りません!!いまさら私が言うまでもありませんが、歴史の深さと、過疎で開発されなかったお陰か、今も残る文化遺産は、本当はそっとして置きたいと思うほど魅力的です。

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(七尾城跡の石垣)


4月7日。花見の時期というのに、急速に発達した低気圧で強風と雨の真っ只中、まいどさん13期の研修会に便乗させて戴き、前田家ゆかりの七尾城跡、小丸山城跡そして山の寺寺院群の見学に行ってきました。


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(七尾城跡のイラスト)

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(小丸山城跡にある長谷川等伯の碑)


今、七尾といったら直木賞作家安部龍太郎さんの歴史長編「等伯」が話題を呼んでいますが、今回は、等伯の故郷、等伯のいた頃からあるという300mの城山に登りました。この城山にある七尾城跡は、その昔、能登畠山の居城で、七尾湾が一望にできる絶景だといいますが、その日はグレーのヴィールが掛かっていて、景色は写真で見るか想像するしかない灰色の世界でした。


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(灰色の本丸跡)


(“七尾”という名は“七つの尾根”(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されたもので、別名として「松尾城」あるいは「末尾城」ともいったそうで、城が七つの尾根のうち“松尾”に築かれたためだといわれているが、今は、七尾城としか聞かない。)

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(七尾城跡の石垣)


七尾城は、天正5年(1577)城が上杉謙信に包囲され、1年にわたって持ちこたえますが、幼い当主畠山春王丸のもと長家と温井や遊佐の重臣同士の対立が、結果として城は孤立し徹底抗戦を主張した重臣の長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された歴史があります。その時、上杉謙信が詠んだ漢詩「九月十三夜陣中作」は有名です。


霜満軍営秋気清

数行過雁月三更

越山併得能州景

遮莫家郷憶遠征


霜は陣営を白くおおい、秋の気はすがすがしい。空には雁の列が鳴き渡り、真夜中の月が冴えざえと照らしている。越後と越中の山々に、今、能登の景色も併せて眺めることができた。故郷にいる家族たちが、遠征のこの身を案じていようと、それはどうでもよい。


(この漢詩では“能登はとったぞ~。家族どもが心配していよるが、どうでもいいことや”と胸を張っているように聞こえますが、“どうでもいいことや”といいながら故郷の家族を忘れない、謙信の優しさも見え隠れしている。ということらしい・・・。とはいえ、それこそ“どうでもいいこと”ですが、この漢詩は謙信が詠んだものでは無いとも聞きます・・・。)


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(七尾城跡の要石"九尺石”)


≪“はろうななお“のガイドさんから聞いた話≫

上杉謙信が、七尾城を取り囲んだ時の話です。難攻不落には兵糧攻めに限るとばかりに1滴の水も城内に入れないようにしますが、数ヶ月後、古府の橋の上に立ち、城山を見ると、城山の山上から白い水が滝のように流れ落ちています。


これを見た謙信は、長期戦をあきらめて、越後へ戻りかけようとしたら、家来の1人が、“白い滝にカラスが群がりはじめたぞ!”と叫ぶので振り返って見ると、それはカラスであり、白い滝のように見えたのは、白米だったのです。謙信は再び引き返して城山を攻め、陥落させたといいます。


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(小丸山城跡)


越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、やがて前田利家公が入城しますが、すでに山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となりますが、天正17年(1589)廃城になりました。


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(小丸山城の絵図)


前田利家公が能登に在国の折、小丸山城に移ったため、開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、非常にしっかりと遺構が残っています。山城の歴史上とても重要な遺跡として、昭和9年(1934)国の史跡に指定されています。


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(食祭市場)


お昼は、七尾フィッシャーマンズ・ワーフ能登食祭市場で、加賀屋さんのお弁当をいただきました。また、食い気が勝ったようで写真を撮るのを忘れてしまいましたが、小さな“ばい貝”や“白魚””チラシ寿司“等々、会費から推し量ってみても決した高額のものではないとは思えますが、しっかり能登が詰っていました。


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(フィッシャーマンズ・ワーフ能登食祭市場)


小丸山城は、前田利家公が織田信長公の指示により能登一国の国主となり、天正9年(1581)七尾城に入城しますが、七尾城は山城であり防御上は利点がありますが、港から離れていて治世・経済上の不自由から、利家公が七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築き移り住みました。天正10年(1582)に築城され、河川と海が堀の役割を果たす水城で、城は能登水軍の本部の役割も果たしたといいます。


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(小丸山城址の桜、兼六園より少し遅い・・・)


山の寺寺院群は、天正9年(1581)、前田利家公が奥能登地域からの城の防御を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地として移転配置したそうで、設置当初は29の寺院があったといわれていますが、現在は16寺で、無住のお寺も多いと聞きます。


寺院間を結ぶ山道は“瞑想の道”と呼ばれ、平成14年(2002)放送のNHK大河ドラマ[利家とまつ]が決定したことで、山の寺を全国に広めるために、数億円を掛けて整備されと聞きます。 (今年の秋には、何年か前から金沢、高岡、米沢などお寺で町おこしをしている都市が集まり開催している「お寺サミット」が開催されるそうです。)


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(瞑想の道の完成碑)


“瞑想の道”は、藩政期を想わせる山間に連なるお寺のある風景は、始めて来たのに懐かしく、雨風で荒れる山道も興味津々、晴れ間を縫って、それなりの楽しいものでした。しばらく行くと視界が開け、前方に、先ほどまでいた七尾城址や小丸山城址が見えるところには、利家公が金沢に去った後、城代として小丸山城を守った兄前田安勝親子の墓がありました。


(この辺りからカメラは電池切れ、後は、秋の「お寺サミット」で撮ることにします。)


ガイドさんの話によると、平成19年(2007)3月25日の能登半島地震で、墓地を囲っていた玉垣などが崩壊したので撤去したのだといっていました。当時を知らないものとすれば実感もなく、ただ聞き入るだけでした。
しかし地震の爪跡が無残な形で留めていたのが、長齢寺の門前だったと思いますが、幕末の勤皇の志士堀四郎左衛門の石碑が2つに折れたまま放置されていたのを見てその凄さが容易に想像できました。


(堀四郎左衛門:百五十石の加賀藩士。明倫堂句讀師で、後、組外番頭で慶寧の近習を兼ねる。“元治の変”後、慶寧公の謹慎にともない能登島流刑。慶応4年(1868)ゆるされて神職となる。明治29年(1896)3月17日歿す。年七十八歳。大正6年(1917)11月特旨を以て從五位を贈られる。)


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(宝幢寺の元禄時代の天井)

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(宝幢寺の元禄時代に建立された本堂)


≪見学させて戴いたお寺≫

浄土宗知恩院末 無量山宝幢寺

(本堂は元禄年間に建立、天井や柱・壁の絵は僧心岩の作。)

曹洞宗總持寺直末 瑞雲山龍門寺
(長谷川等伯の「達磨図」が有名。)

曹洞宗總持寺派直末 天満山徳翁寺
(「ボタンの寺]として有名で、門が二重山門になっている。」)

曹洞宗總持寺派宝円寺末 休嶽山長齢寺

(利家公、父母や兄弟の安勝、利政の肖像画がある。)


今回、見せて戴いたお寺は、どちらも一言で言い尽くせない歴史のある名刹で、他の寺院も含めて秋の「お寺サミット」の時に詳しく書きたいと思っています。


(七尾城址での私の最大の収穫は、永らく、足が痛くて山登りは途中で断念することが多かったのですが、今回、急な登りでも足の傷みも無く登れたこと、訓練のたまものか!)


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(町の掲示板で見つけた七尾市内地図・桜ののところが小丸山城址)


●雨風を忘れてしまいそうなおもろい話もありました。当日お世話にりました“観光ボランティアガイドはろうななお”のみなさん、ありがとうございました。


参考資料:七尾で戴いたパンフレットなど

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天神さん⑤兼六園の金沢神社

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【金沢・兼六園】
兼六園の天満宮は、加賀藩11代藩主前田治脩公が寛政6年(1794)、兼六園の今の梅林に地に創建した藩校明倫堂の鎮守として、田井天神から正遷宮されといわれていますが、鎮守造営時の棟札には「金城霊澤御勧請天満宮鎮守御造営御棟札」と有り、この棟札によると、金城霊澤の鎮護のため、治脩公の命で天満宮のほか、稲荷神、命婦神の社も造営されたのだという話があります。


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(金城霊澤①)


(天満宮は、学校の鎮守と限定せず、金沢の地名の起源といわれる金城霊澤の鎮護と金沢、あるいは加賀藩そのものの鎮守という意味も含めて勧請されたのでしょう。)


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(金城霊澤②)


どうも、聖堂(孔子廟)を設ける予定であったのを、代わりに天満宮を設けたというのは、金城霊澤の名目で勧請されたとはいえ、菅原道真公は学問の神として崇められていることから学校の鎮守であると同時に、前田家は道真公の後裔と称していることから先祖神を祀り、藩の安泰を祈ったということなのでしょうか。


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(石川県立美術館前の一の鳥居)

文政期、12代藩主前田斉広公により、今の兼六園のところに4000坪の広大な隠居所「竹沢御殿」が造営され、学校は今の中央公園のところに移築され、その地にも新たに天満宮が設けられ、社号も学校続鎮守とし稲荷神、命婦神の社も遷宮します。


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(随身門)


兼六園内の天満宮は、そのまま隠居所の鎮守となります。それにより藩が直接祀る天満宮は、学校と竹沢御殿の両御鎮守と称し同様の祭祀が執行されたといいます。兼六園の天満宮は、慶応3年(1867)9月、卯辰山天満宮(卯辰神社)に正遷宮され、建物だけが残りますが、明治5年(1872)に村社竹沢天神社に、明治7年(1874)に社号を金沢神社と改め郷社に昇格します。


(学校続鎮守本社の天満宮の祭神や稲荷神、命婦神の社は、後に椿原神社(椿原天満宮)に移安されたといいます。)


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(拝殿)
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(参道)
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(夢牛)


藩政期の記録には、神事に家中ならびに町方の婦女子と15歳以下の男子の参詣を許すというお触れがだされたといいますが、一般の人が自由に参拝出来るようになったのは、社号を金沢神社と改めた明治7年(1874)5月、兼六園の一般開放からだそうです。


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(御札)
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(拝殿)


現在金沢神社は藩政期、藩校明倫堂の鎮守であったという経緯もあり、学問の神である菅原道真公を祀った金沢市内の神社の中でも市街地に近く、毎年受験シーズンには、数多くの受験生が参拝に集まることで有名です。

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(白阿紫稲荷大明神)


また、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀られています。


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(前田家奉納の慶賀鳥居)


参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著 発行桂書房2006・12月/ 「金沢城下町」藤島秀隆・根岸茂夫監修 発行北國新聞社平成16年6月

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謡が空から降る町②昔

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【金沢市内】
金沢のことを表す言い伝えに“空から謡が降ってくる”というのがあります。庶民までも能樂に親しんでいた様子を表したもので、前回もいいましたが、藩政期、加賀藩の殿様が武家だけではなく庶民にも奨励したことによるものだと思われます。


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(石川県立能楽堂の杜若像)

能樂は“難しいもの”“敷居が高いもの”と思われがちですが、金沢では、そのような歴史から、一般庶民にも親しまれ、大工や植木職人たちも謡を習い仕事の合間に口ずさんだのでしょう。しかし古希を過ぎた私には空から降るのを耳にした記憶はありませんので、多分、随分昔のことなのでしょう。いや~、私が無関心だったのかも・・・。


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(佐野の舞台模型①)

加賀・能登のお能は、中世、能登に諸橋や波寄などの能役者が居住したといわれています。藩政期になると両家とも前田家の庇護を受けます。前田家は初代から4代までは金春流がお家流でしたが、5代将軍徳川綱吉公の影響を受け5代藩主前田綱紀公が9代目宝生太夫と師弟関係となり能を学び、加賀藩では、以後宝生流は“加賀宝生”といわれ隆盛します。


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(金沢能楽美術館の着付けコーナー)

加賀藩から禄を受けていた諸橋喜太夫(喜多流)、波吉信重(金春流)の両能太夫を宝生太夫に弟子入りさせ宝生流に改めさせたといいます。しかし加賀藩が最初から召し抱えていた金春流竹田権兵衛は以後も御手役者の筆頭として、その子孫も300石で京都に居住し金沢、江戸の藩邸を往復したといいます。


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(金沢能楽美術館の試着用の面)

藩政期、加賀藩の大きなお能の年中行事として、二大神事能があります。今も続く大野湊神社の“寺中能“と明治2年(1869)まで続きた卯辰観音院の山王社に奉納する観音御能と称した神事能で、町の人々が集まって神前でお能を興行して祝ったといいます。


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(今の観音院)

卯辰観音院の神事能は、町奉行の支配のもとに諸費用の一切は城下の本町に住む町人の負担とし、本町に桟敷を与え、宝生流の諸橋、波吉両家や細工人が興行ごとに出演したといいます。演ずる役者は、一言一句の誤りや絶句でも進退伺いを申し出たという厳しいものであったが、脇方・囃子方まで藩の扶持を受け、観音院役者として尊敬されたそうです。


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(金沢能楽美術館から21世紀美術館の松)


また、金沢町民のお能としては、太鼓、笛、小鼓を囃子とし、能衣装の代わりに紋服・袴姿で舞う“舞囃子”が行われ、寺小屋でも“読み書きそろばん”のあと口移しで暗誦させたこともあり、先にもいいましたように、一般庶民にも謡が親しまれ嗜んだといわれています。


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(壮猶館跡・現知事公舎横)

余談ですが、幕末になると国事多難のため文久3年(1863)から明治元年(1869)までの6年間はお能が禁止になります。その間、お城の能御用がなくなり多くの能役者が壮猶館の火薬製造に従事し火薬製造中に爆発事故の遭い10数人の犠牲者を出したというアクシデントがあったといいます。


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(今の金沢城)

明治4年(1891)、お能を奨励し保護した前田家も13代藩主斉泰公、14代藩主慶寧公が金沢を去り、金沢のお能もさびれていきます。明治政府では高官が欧米外遊に際し、各国の芸術保護を見聞きしたことから、猿楽といわれたお能も“能楽”に言い換えられ復活するにつれ、金沢でも明治後期に佐野吉之助等によって再興されます。


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(佐野の舞台模型②)

佐野吉之助は履物販売業を営むかたわら、藩お抱えの御手役者諸橋権之進について加賀宝生の伝統を継承するとともに、私財を投げうって装束や面の収集、能舞台の建設に力を注ぎました。そして、明治34年(1901)、金沢能楽会を設立します。


(つづく)


参考文献:「金沢市史」通史編2 近世、藤島秀隆著、平成17年12月刊行・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行

兼六園熊谷桜と旭桜①兼六園の遅咲きの桜

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【金沢市内】
兼六園熊谷桜満開!!熊谷市の方から4月6日、金沢から移植された”兼六園熊谷桜“が満開だという連絡をいただいてから10日目。4月16日の兼六園では、”兼六園熊谷桜“が満開になりました。緋色の山桜系で、その昔、熊谷次郎直実の緋縅の鎧の色から名付けられたと聞きますが、実際には緋色といっても濃いピンクで、この色の鎧だったとすれば、直実は随分おしゃれだったのに・・・。


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(4月15日の兼六園熊谷桜)


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(4月16日の兼六園熊谷桜)


(樹齢300年といわれ、学名は「ケンロクエンクマガイ」といいます。藩政期水戸藩から贈られたものと伝えられていて、花は一重で、牡丹桜とも呼ばれています。)


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(4月16日、満開の旭桜)


雁行橋の袂の旭桜満開!!初代の旭桜は、藩政期長町の村井家から500人が50軒の家を壊して移植したという伝説の山桜で樹齢500年だったといいます。また、徽軫(ことじ)燈篭以前の兼六園の象徴だったともいわれていますが、昭和の初め枯死し、現在は2代目です。


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(2代目の旭桜も上の方の枝が寂しくなりました)

旭桜という名称は、枝振りが絵に描いた“旭”のように枝が何本も広がっているということだそうです。また、初代が枯れた原因は明治時代、西南戦争の戦勝記念の行事で、旭桜にホロを掛けイルミネーションを付け「巨大な象」に見立てて造り祝賀のシンボルにしたためだといわれています。


(泉鏡花の小説に、兼六園の旭桜と寺町松月寺の大桜をモデルに描いた「櫻心中」という哀しい恋物語があります。)


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(4月16日のしだれ桜)


≪瓢池のしだれ桜も満開!!≫何年か前雪害で枝が折れ、かっての華やかさはないものの、海石塔の寄り添う姿は、しなやかで、優雅な雰囲気を留めています。


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(枝が折れて上部が枯れだしたしだれ桜)
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(平成16年4月10日、華やかだったしだれ桜)



これからやがて満開になる桜・・・


天然記念物でした“兼六園菊桜”の初代は御所桜とも呼ばれ、藩が京都の御所から賜ったといわれていました。昭和45年(1970)樹齢250年を全うし、枯死しました。現在の2代目は、2本並べて植えられていますが、柄ごと落花するので、種子が取れないので”接木“して育てます。


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(兼六園菊桜はこれから)

学名は「ケンロクエンコクザクラ」といい、特徴は、花弁が多く300枚を超え、開花から落花まで花の色が3回も変わり、柄のまま落花します。現在、左側の木は金沢の岡田安右衛門氏、右側は京都の佐野藤右衛門氏の労作だといいます。


(花の色は、咲き始めは深紅、満開で薄紅色、落花する頃には白に近づきます。)


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(普賢象はこれから・・・)


普賢象は、サトザクラ系で、花は大輪で淡桃色の八重桜、普賢象というのは普賢菩薩が乗った象のことで、この花の2本の葉化した“雌しべ”が象の花にていることに由来するとか・・・。


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(もうしばらく・・・御車返し)

御車返しは、牛車で通りか掛かったところあまりにもその花が美しかったので車を引き返したという・・・。


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(左、福桜、右、今満開のもう一本の兼六園熊谷桜)

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(あとしばらくの塩釜桜)
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(もうそろそろ・・・楊貴妃)
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(もうそろそろ・・・福桜)
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(10月まで咲くという10月桜)

今日最後は、ずう~と花のない桜ばかりで、ハナシにならないので、桜ではありませんが、4月16日、今日一番美しいと思った“利休梅”を紹介します。


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(利休梅)


兼六園には、約420本の桜があります。その内、約半分の染井吉野は散りはじめましたが、まだまだ満開になっていない桜がかなりあります。


(つづく)

兼六園の遅咲き桜②楊貴妃と関山

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【金沢市内】
≪噴水近くの楊貴妃満開!!≫世界三美人といわれた楊貴妃から名づけられただけあって“楊貴妃”は、満開ともなれば淡紅色になる豊満な八重の優美な姿は名に恥じない優雅さと艶やかさ、品格に惑わされます。サトザクラの一品種で、花は大きく淡紅色で,八重咲き、昔から奈良地方にあった桜で,つぼみは濃紅色であるが,開花時には淡紅色となり花弁数は20枚程であるといいます。


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(17日、満開の楊貴妃)


今年の楊貴妃は、16日に一部の花がほころび、2日ぐらい経てばと思っていたのですが、17日天気も良くて図書館へ行く前に足を伸ばしたところ“何と満開ではありませんか!!”楊貴妃に惑わされ足止めを食っているうちに昼になり、図書館に行くのを諦め家に帰りました。


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(16日の楊貴妃)

楊貴妃は、他の桜のように何本かの花が咲揃って鑑賞に堪えるのと違い、八重咲きで、花が咲くと淡紅色になり、僅か何輪であっても十分鑑賞に堪えるといわれているくらい品格も備わった素敵な花ですが、かといってこっそり拝借してこようと思っても、何か冒しがたい雰囲気を持っています。


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(満天星(どうだん)つつじと楊貴妃)


隣にある萌黄色の葉の“山査子”やその隣の“満天星つつじ”の小さな花や淡い緑の葉っぱが淡紅色の楊貴妃とマッチし、何やら三角関係を醸し出しているような、そして羨ましいようなそんな感じでながめていました。


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(山査子と楊貴妃)


(山査子(サンザシ)は、5月に白い花をつけ、10月には2cmぐらいの真っ赤な実をつけます。実は胃腸の分泌に良く、赤痢菌に抗菌作用があり、続けて飲むと血圧に良いそうです。)


≪散りだした大島桜≫伊豆大島や伊豆半島、房総半島に自生する野生種のサクラの一種で、そのため“大島桜“と呼ぶのだとか、白色または微紅色で五弁の花を付け、ソメイヨシノ・サトザクラなどの母種だそうです。花より団子といいますが、あの桜餅は大島桜の葉を塩漬けして包みます。また、昔は炭に用い薪(たきぎ)桜とも呼ばれたそうです。


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(17日、曲水右岸の白い花の大島桜)
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(時雨亭横の大島桜)


兼六園には、いくつか有るのでしょうが、私が知っているのは、曲水の板橋と勅使橋の間の右岸と時雨亭の横の園外の園丁さんたちの車がよく止まっているところに大きな大島桜が有ります。17日には散り始めていました。


≪兼六園の咲きかけの桜≫開山は、徽軫(ことじ)燈籠の下、売店寄観亭の前にあるサトサクラの一種で、八重桜の代表的な種類だそうです。濃い大輪の紅色の花は華やかな趣の花です。かなりの古木で毎年楽しみにしている桜です。後3~4日か?天気が良いと意外に早いかも・・・。


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(関山これから直ぐに満開になります)


御車返し(みくるまがえし)サトザクラの一種で、一重か八重かでもめて、確かめようと牛車を引き返したという伝説の桜で、兼六園には、大きくはありませんが日本武尊の裏の一角にあります。一重の花と旗弁をもった6~8枚の花弁がある花で、八重一重ともいわれています。


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(御車返し、しばらくおわずけか・・・いや・・・、)


塩竈桜(しおがまさくら)は、松島湾の奥州一の宮塩竈神社から移植されたもので、初代は昭和30年代に枯死しますが、その後も兼六園には塩竈神社から移植され塩竈桜(しおがまさくら)を大切に育てられています。17日遂に花をつけました。


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(17日咲き出した塩竈桜)


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(後継木の塩竈桜)


兼六園では、有名な樹木の後継木を、管理事務所の庭や他の土地でも育てています。


(つづく)

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兼六園の遅咲き桜③赤い花に黄色の花

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【金沢市内】
18日朝の兼六園。日本語を聞いて振り返りました。そう、平日の朝には外国人が多くて日本人と行き交うのはまれです。昔から能登で宿泊され朝早く兼六園というコースでしたが、今年は特に多いのではと思い、写真屋さんの兄ちゃんに聞いてみると、“花見時期から特に!!”という返事が返ってきました。円安、アベノ何とか・・・?有難いことです。


(台湾から来た添乗員さんに聞くと、立山・黒部のアルペンルートに必ず兼六園が入っているとか。)


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(赤い花盛り①)


今日のお客様は、赤い服装が目立ちます。染井吉野が散り今日一番の花盛りは、彼女たちのファッションでした。以前は服装だけでは、どちらの方か分からなかったのですが、季節柄か言葉を聞かなくても今日はよく分かりました。といっても今日は殆どが外国人の方でした。


(アルペンルートは寒いので、台湾では着ないアノラックを新調。赤は流行っているらしい?)


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(赤い花盛り②)
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(赤い花盛り③)

黄色の花は、“ウコン”です。昨日、まだ咲くのには早いと思い通過したのですが、今日行くとビックリ、満開とはいえませんが、ずいぶんと咲いていました。ウコンは、淡い黄緑色のサトザクラで、ショウガ科のウコンを染料にしたウコン色に由来するのだとか、漢字で書くと“鬱金(ウコン)“だそうです。


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(ウコン)


花は八重咲きで大輪が枝に群生すると一際目を引く桜です。花弁は15~20枚ほど、淡い黄緑色なので周りの松などに混じると落ち着いた雰囲気て、桜の花としては、きわめて珍しい品種です。


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(今日も人気の楊貴妃)

今日も楊貴妃が一番人気です。関山は、かなり膨らんできましたが、お客様は、見向きもしなくて素通りでした。意外なのは、散り掛けの兼六園熊谷桜では、人だかりが絶えず写真の撮り合いで、それぞれ得意のポーズをとりカメラに収まっていました。


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(これからの関山①)
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(関山②)


≪これから咲きそうな桜≫福桜が、山桜系に別の種類を交配したサトザクラ系の八重桜です。花より葉が先にでて、茶色の若芽がふき、花は淡紅色で、お楽しみまで、あと数日です。


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(福桜)

兼六園菊桜は、いま一番待ちどうしい、桜です。今日明日というものではありません。満開は5月の入ってからかも・・・?


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(兼六園菊桜)


≪ひっそりと咲いている桜≫十月桜は、年に2度楽しめる桜だそうです。今咲いているのは春咲きで全体の3分の2。10月から翌年の正月頃までにあと3分の1が咲きます。2度咲くといっても、3分の2では、なんとなく寂しさが残ります。花弁は、ほぼ白の八重です。



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(十月桜)
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(冬桜)


落ちた花びらは地へ、そして曲水に流れ“杜若”にまつわりつき、やがて、何処かに消えていきます。そして、時節は過ぎ、兼六園の次の主役“杜若”に替わります。


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(杜若と白いのは花びら)

(つづきは、関山か兼六園菊桜が満開になる頃に・・・)


謡が空から降る町③今

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【金沢市内】
暇に任せて何度か兼六園の剪定作業の下で、耳を澄ませて、気がつけばアホみたいに立っていました。勤勉で作業に集中している職人さんたちからは“シャキ、シャキ、パチッ”という心地のいい鋏の音が聞こえるだけで、謡は降らず・・・でした。


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(剪定中の植木職人)


しかし職人さん達は兼六園の印半纏で昔ながらの超ロング八分丈に脚絆、地下足袋で、金沢の植木職人の伝統を守る気概と心意気が伝わってくるような、そんな気がしました。たまたま、私には降らなかった・・・ということでしょうか。


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(印半纏の植木職人)


というのも、金沢職人大学校では金沢の職人文化の再生と技術の再融合、そして金沢の加賀宝生能楽の振興、発展を目的に、大学校生を対象に「職人さんの謡曲教室」が金沢能楽会から講師を向かえ稽古が行われているそうです。


謡曲教室は初級といいますが“加賀宝生の歴史”“ 能楽の一般教養”“能楽の作法”“研修成果の発表”など、月2日2時間(年間20回)の教室が開かれていると聞きます。


(金沢職人大学校とは、平成8年(1996)に金沢に伝わる伝統技術を守るため、金沢芸術村に設立され、職人技の伝承と、人材の育成に取り組んでいます。設置学科は、本科と修復専攻科があり、本科は9科、植木職人の技術を伝承する“造園“があります。)


≪金沢能樂会≫明治維新による幕藩体制の崩壊によって加賀藩の保護を失い、加賀宝生も衰退しましたが、加賀宝生中興の祖、佐野吉之を中心に金沢能楽会が明治34(1901)年に設立され、以来100年以上の長きにわたって連綿と伝統を受け継がれ、現在も“石川県立能楽堂”において年11回の定例能を催し、通算回数は1000回以上に及び現在にいたっていて、海外公演にも積極的だとも聞きます。


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(能舞台・写真提供:石川県観光連盟)


≪石川県立能楽堂≫広坂のあった金沢能楽堂の本舞台を石川県が譲り受け、移築したもので昭和47年(1972)に、全国で初めての独立した公立能楽堂です。永年、金沢能楽会の事業として金沢市内の中学生の「能楽鑑賞」は、金澤能楽堂から引継がれ現在はこの石川県立能楽堂で行われています。



≪中学生の能楽鑑賞≫遠い昔、当然、私も行きましたが、当時、狂言は、思い切り笑った記憶がありますが、お能は、謡曲が聞き取りにくく、舞も何をやっているのかよく分からなく、しかし、分からないなりに、その厳粛さに圧倒されたことを憶えています。


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(加賀宝生子ども塾のポスター)

≪金沢能楽美術館≫平成18年(2006)の開館という比較的新しい施設ですが、金沢市の伝統芸能である加賀宝生の貴重な美術品など能楽に関する美術品を収集・展示する日本でも珍しい美術館として、昭和初期に広坂にあった金沢能楽堂ゆかりの地に建設されました。


施設は、1階と2階が展示室、3階は研修室となっています。加賀宝生の能舞台を解説し、昭和7年(1932)に建てられていた金沢能楽堂を模型で再現と、能面や能装束の体験コーナーがあり、実際に能面や能装束の着装ができます。2階の展示室では、加賀宝生の能装束や能面が展示されています。3階の研修室で、伝統文化の伝承を目的とした「子ども塾」の活動なども行われています。


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(着付けコーナー)


(体験:般若、翁、 小面、など、能面は約20種類から選ぶことができます。この体験には、金沢の観光ボランティアガイド「まいどさん」が常駐してお手伝いします。)


≪今も続く伝統の神事能≫金沢港に近い金石地区にある大野湊神社の春季大祭で奉納される“神事能”は、今や400回を超え、毎年5月15日に開催されています。大野湊神社に伝わる古文書によれば、神事能の由来は慶長9年(1604)にさかのぼり、加賀藩2代藩主前田利長公が関が原の戦いでの戦勝を記念し、毎年神前に能の奉納を命じたとか。以来、藩主が他界した年などを除いて、今日まで連綿と続いてきたといいます。


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(面打ちのプロセスの展示)


≪金沢能樂美術館の新しい試み≫金沢能樂美術館では、従来の能面と能装束展示会、宝生子ども塾などに加え、最近では「面打ち講座」「親子でミュージアム」「手芸などの手作り体験」「朗読会」「演奏と映像をコラボ演奏会」など、積極的なイベントが実施されています。時には能樂と繋がらないのではと言う人もいますが、素人の考えですが“いや、行ってみたら“とお薦めしています・・・。


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(金沢能楽美術館1階)


話はどんどん脱線していきますが、脱線ついでに最近、感動したイベントを紹介します。4月12日(金)、13日(土)の夜に開催された“金澤現在夢幻@金沢能楽美術館”です。映像作家モリ川ヒロトー氏が手がたもので、趣ある金沢の日常風景を綴った映像と音楽作品の上映会です。


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(羽衣の映像)


4月13日(土)には、特別出演として宝生流能楽師・シテ方・高橋憲正氏が“金澤現在夢幻”の映像と音楽に合わせ、能「羽衣」の舞を2回にわたり公演しました。当日はすぐ満員になり、厳粛の中に格調の高い雰囲気に感動しまいた。


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(仕舞を舞う高橋憲正氏)


金沢らしいこのイベントは、また、能樂文化の継承の一つの方法のようにも思えます。昔から能衣装ではなく紋付袴で舞った、お能の「舞囃子」の現代版のように思え、現代に通用する、お能の新しいアプローチとしてすごく有効なように勝手の思って帰ってきまいた。


(ちなみに入場は無料でした。)


参考資料:金沢能樂美術館のパンフレット他

兼六園の遅咲きの桜④普賢象など

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【金沢市内】
≪普賢象が咲き始め≫24日雨上がり、ワクワクして兼六園へ、淡桃色の八重の普賢象が大輪の花を付けていました。まだ満開とはいえませんが、隣の黄色いウコンと並んでいるので、対照が際立ってなんとも美しい。サトザクラ系の普賢象は、“普賢菩薩”が乗った象のことだそうで、花の2本の葉化した“雌しべ”が象の鼻に似ていることに由来するそうです・・・。


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(普賢象・象の鼻に見えますか?)


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(日本武尊像の裏の普賢象)


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(普賢象とウコン)


≪黄色いウコンは満開!!≫八重咲きの黄緑色の大輪が咲き誇っています。珍しいということもありますが、今日は、いう事なし・・・です。


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(満開のウコン)


≪しばらくお待たせの桜≫日本武尊像の小立野側にある名島桜の後継桜。花弁が100枚以上になるといいます。名島桜は、元々金沢発祥の桜ですが、現在は枯死してしまいました。「なじま」の名称の由来はよく分かりませんが、この桜は、確か“おおはた桜”に“名島桜”を接木したものだと聞いたことがあります。今年の満開は5月に入ってからかも・・・。


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(名島桜の後継木)


≪兼六園菊桜まだ!≫やっと紅色の蕾から、開花して白っぽくなった花が見えだしました。薄紅色になると満開です。もうしばらく・・・です。


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(兼六園菊桜)


≪関山満開!!≫しばらく前までは見向きもされなかった寄観亭の前の関山には、人だかりができています。一日雨かと思っていましたが、午後、私が兼六園に行った頃に晴れ間があり、紅色の華やかな桜が咲き誇っていました。最近は、先っぽに花が付かない枝もかなり増えていますが、満開になるとそんなことも忘れてしまう好きな桜です。

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(今まさに満開の関山)


(まだつづく・・・)

金沢の二十五天神巡り(第1回)

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【寺町→中央通町】
昔、宝暦2年(1752)に書かれた金沢の俳書「北の海」の中に、金沢の“二十五天神巡り”のことが書かれているそうです。全国でも二十五天神巡りが行われていたそうですが、誰が始め、誰が数・順番を決めたかは定かではないらしい。また、時代によって巡る寺社が変わり、数は同じでも順番が違っていたと聞きます。


(金沢の“二十五天神巡り”も同様で、今は残っていない天神さんもあり、また天神画像が現存する神社に移安されたものがあるそうです。)


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(今の泉野菅原神社)


二十五という数字ですが、道真公の誕生日と命日がともに25日であったことから、毎月25日を例祭としていることが多く、藩政期、毎月25日は天神様の縁日であり、とくに旧暦1月25日を「始め天神」、12月25日を「終い天神」とよんで参詣したといい、これが新暦に移行した現在でも25日にはそのように呼ばれているそうです。


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江戸時代の中期には、京では“洛陽天満宮二十五社”巡拝という習わしがあり1番の道真公誕生の地と伝えられる菅大臣神社から25番北野天満宮まで、巡拝が行われていたそうです。江戸でも道真公を祭る25社を“江戸二十五天神”と称したそうで、どうも二十五という数字は、誕生日と命日の25日に合わせたように思えます。


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(六斗林)


金沢でも、宝暦2年(1752)には30社以上の天満宮があったといいますが、25社にしているのも道真公の誕生、命日の因んだ吉数にすぎなかったようで、何故か当時でもよく知られた天満宮が含まれていないものもあり、また、今だからでしょうが天神さんとの関係が明白でないお寺もあります。


(前田家は菅原道真公の子孫といわれているので、前田家に関わる寺社では天神さんを祀るのは当然といえば当然かも知れませんが?)


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(泉野菅原神社の五葉松)

金沢の俳書「北の海」というのは、宝暦2年の菅原道真公の850年祭に、椿原天満宮に奉納された俳書で、その他では、当時の金沢の”天神二十五天神巡り”のことが分かりませんので、その資料を頼りに、時には寺社の方々にお聞きしながら3~4回に分け、寺社を巡ります。


(当時、俳書「北の春」は、金沢に住む綿屋希因の弟子の俳人水巻亭楚雀(通称住吉屋次郎右衛門)が主催した発句集です。)


≪金沢の二十五天神≫
1玉泉寺(泉野菅原神社)→2 西方寺→3真長寺→4願行寺( 祇園摂社)→5 成学寺→6宝来寺(小橋菅原神社)→7宝久寺(犀川神社)→8常光寺(豊田白山神社)→9 成応寺(長田神社)→10出雲寺(豊田白山神社)→11放生寺→12 顕証寺(平岡野神社)→13灯明寺→14持明院(白髭神社)→15 安江社(安江八幡宮)→16 崇禅寺→17浅野社(浅野神社)→18神明社(小坂神社)→19乗龍寺(妙義社共々隣の西養寺に合併)→20来教寺→21 咸応寺(現松尾神社に移安)→22卯辰八幡(現在の宇多須神社)→23天道寺(浅野川神社)→24 乾貞寺(廃寺)→25 天満宮(椿原天満宮)


(前置きが長くなりましたが・・・・。)


≪第1回は、泉野菅原神社から現在の犀川神社まで≫


1玉泉寺 網敷尊影 野町三丁目(旧三間道) 時宗
通称玉泉寺の天満宮といわれ、二代藩主前田利長公の夫人玉泉院が前田家のため、元和3年(1617)秋に、金沢に天満天神堂を建立し、越中新川郡の浄禅寺12代住職を招き別当としました。


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(泉野菅原神社)


2西方寺 鏡尊影 寺町五丁目(旧泉寺町)天台宗
藩政期、天台宗の触頭で、「飴買い地蔵」で有名ですが、“鏡尊影”という道真公が自ら描いたと伝えられる3代藩主前田利常公愛蔵の品が預けられていたことから、「お預け天神」の寺として知られていました。


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(西方寺)


3真長寺 稲荷別社野町一丁目(旧蛤坂町)真言宗
真長寺の稲荷大明神は金沢城内稲荷屋敷に安置されていたお稲荷さんで元和8年(1622)に御城普請で金沢城南西の鎮護のため真長寺に遷座され、このときより藩主より祈祷を命ぜられました。明治になり神仏分離で、明治7年(1874)郷社泉野神社(現在の神明宮)に移しますが、お堂のみ建立し御神体はそのまま真長寺が拝し現在に至っているそうです。


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(真長寺)


4願行寺 祇園摂社 野町一丁目(旧蛤坂町)本山派山伏。現在の八坂神社
加賀藩初代藩主前田利家公の幼友達で本山派の山伏願行寺(現行院とも、宝久寺の双子の兄)が利家公に伴われ、金沢に入城し、城下の鎮護厄除疫病の祈願を命じられました。明治のなり修験道が廃止になり八坂神社と改めました。



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(八坂神社)

5成学寺 袖敷尊像 野町一丁目(旧蛤坂町) 浄土宗
浄土宗で高養山と号し、六斗林に移った玉泉寺(玉泉寺の天満宮)の跡に正保4年(1647)建立されました。本堂は創建当時のままで、江戸初期の建築様式が残っている貴重な建物です。ご住職によると、元玉泉寺の天満宮の跡に建てられたことから、菅原道真公が祀られ、厄除け、学問の神様として信仰され、御開扉は33年に1回、次回は18年後になるそうです。


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(成学寺の袖敷天神)
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(成学寺)


6宝来寺 本社 片町一丁目(旧古寺町) 本山派山伏。現在の小橋菅原神社
藩政期、修験派山伏の宝来寺が別当の天満宮でした。元禄3年(1691)の略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる山伏を社僧とする神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転します。慶長19 年(1614)大阪夏の陣がおこり、藩主前田利常公出陣に際し利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。


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(小橋菅原神社)

7宝久寺 春日四所明神 中央通り(旧犀川堰)本山派山伏。現在の犀川神社
藩政期は中村神社の別社で“宝久寺の春日”と呼ばれ、修験派山伏の觸頭生廉山宝久寺が奉仕していました。また、宝久寺の元祖空峰(祇園社の双子の弟)は、藩祖利家公と幼友達で、大和の国大峰山(山伏修験道の本山)への代参をした間柄で、利家公と共に金沢に移住したのだそうです。天神さんについては、あまり記述ないので神主さんにお伺いすると、昔から祭神ではないが相殿として祀られているというお話でした。利家公との関わりから当然といえば当然だということのようです。


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(犀川神社)


第1回は、4月25日の午前中、天神さんのお陰か好天に恵まれ、春の寺町から犀川沿いを楽しみました。(前日は雨、翌日は雨あられ)

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(参加者)


次回は6月の予定。

山出保さんの「金沢の気骨」

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【下田上橋→旭橋】
金沢市長を平成2年(1990)から20年間務められた山出保さんの“文化でまちづくり「金沢の気骨」”と題する本が今日出版されました。帯紙には、五木寛之氏が練られた言葉で一政治家の自伝ではなく、金沢文化遺産の一つといってもいい労作だとお奨めなさっています。


(自伝ですから「金沢の気骨」ということなのでしょうが、読み進めていていくにつれ、気骨の人は山出保さんだということに気付かされます。今まで私が見聞きした範囲で推し量っても、金沢再生には氏の”気骨“ある決断なくして、成し得なかったのではと思うからです。)


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(山出氏が心血を注いだ金沢21世紀美術館)


発売されたばかりの本でもあり、内容まで書くわけには行きません。また、書評を書くほどの知識も見識もがないので、目次などページページで噴出する真情や心情、そして、教えられる幾つかを拾い書きします。


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(金沢21世紀美術館)

冒頭では、5期20年市長として「苟(まこと)に日に新たに、日々に新たにして、又た日に新たなり」を座右の銘に全力で市政の運営に当たってきたこと、そして、生まれ育った金沢への愛着、歴史と文化を磨き世界に発信し、町を美しく仕上げることへの誓い、そのために自ら町を元気にする「攪拌機(かくはんき)になろうとおっしゃっています。


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(文化でまちづくり「金沢の気骨」)


ああ~。書きだすと長くなりそう。それで今回は“第1章歴史都市に現代をつくる“から”第6章視座を世界に”そして終章まで、私が感じた幾つかのキーワードをアトランダムに紹介させて頂き、一人でも多くの市民の皆様に読んで戴く一助になればと思います。


≪気になるキーワード≫
「夢を見ることの出来ない人は、明日を生きられない」エルンスト・トラー
「スーッとやるんだ」鈴木大拙


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(鈴木大拙館)


「金輪際、威張らない」山出保
「経済と文化は不即不離じゃないですか」山出保
「前田の殿様は湯水のように文化に金を使った」立花隆
「430年金沢は戦禍なし」永井道雄
「内発的発展」佐々木雅幸


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(佐々木雅幸さんの著書)


「観光都市とは言わせない」山出保
「人を信用すれば、その人は応える」山出保
「金沢はサンジャのまち」西田幾多郎


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(ひがし茶屋街)


「現状に甘んじるな」山出保
「歩いて巡って学ぶまち」山出保
「今の日本から失せたものは”湿り気“でしょう」五木寛之


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(五木文庫のある金沢文芸館)


「なりわいの景観」山出保
「金沢は金沢の論理で」山出保
「だめです。参道の原形を壊してしまったら」桜井敏雄
「植木屋の回し者」山出保


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(森の都金沢を象徴する兼六園)


「地方の反骨」山出保
「独自性はサムライ文化」山出保
「文化のまちが最優先」山出保
「作家と職人は同じか」エルメス社5代目ジャン・ルイ・デュマ
等々。


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(確かお住まいは浅野川左岸)


そして山出氏は、人の話をよく聞き、多く人から学びそれを活かす術を教えています。また、かって仕えた3人の市長、徳田與吉郎氏からは「気迫」を岡良一氏は「不屈」、江川昇氏は「熟慮」を学んだとおっしゃつています。そして山出氏から私達は「気骨」を教えて戴きました。


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(金沢駅もてなしドーム)


実は、私にとって忘れられない思い出があります。60歳を過ぎ“暇つぶし”に、当時オープンをするという金沢21世紀美術館のボランティアに参加しました。オープン当日でした。すべてのセレモニーが終わり、市長はお付きの人もなく一人疲れきった様子で、とぼとぼと長い通路を歩いて来ました。そして私は、新聞の写真でしか知らなかった市長に“お疲れさま“と声を掛けていました。


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すると、どこの誰かも分からない私に、なだれ込むように抱きつき、感謝の言葉を述べられたのにビックリするとともに、いい知れぬ感動を覚えました。多分、山出氏はお忘れでしょうが、そのことが有って以来、私のボランティアは、単なる“暇つぶし”ではなくなっていました。


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参考文献:文化でまちづくり「金沢の気骨」平成25年4月・北国新聞社発行

兼六園の遅咲きの桜⑤終わりは…

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【金沢市内】
≪ウワミズサクラ≫終わりは地味な桜です。それも20mの常緑高木に咲く白い小さな花で、無数に小花が長い円柱形に並び咲いています。何しろ高いところなので、知らなければ、見上げることもありませんので気付きませんが、私は、随分前に兼六園の研究会で教えて戴いていたので、4月の下旬から通るたびに見上げていました。ついに1日、写すことができました。やれ、やれ・・・。


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(ウワミズ桜)
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(時雨亭前の道を唐傘山(さざえ山)に向かう左側の常緑の高木です)


≪兼六園菊桜≫今が盛り。2代目ですが、右は京都の佐野藤右衛門さんが何度も増殖を試み昭和36年にやっと成功し、昭和42年に移植されたもの、左の方は金沢の岡田安右衛門さんが増殖したものを市内の戸板公民館から譲られてものです。それから何かの不都合で枯れてしまったらというので、兼六園の事務所横で”後継木”が育てられています。


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(2日、兼六園菊桜2本)
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(2日、事務所横の後継木)


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(2日、今、花咲き誇る名島桜の後継木)


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(2日、塩釜桜もまだ咲いている…)


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(2日、黄色のウコンがピンクッぽくなりました)

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(ウコンは白くなり柄から散っています)



≪主役の座を譲り見向きもされなくなった有名な桜≫

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(2日、旭桜)
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(2日、兼六園熊谷桜)


≪次の兼六園の主役≫これからは480株ともいわれている躑躅(つつじ)五月(さつき)、そして曲水の咲く1万株(4万本)の杜若(かきつばた)が主役でしょう。脇役ともなれば、両手では数え切れない個性的な花々が咲き誇ります。放生池の“ミズバショウ“”黄ショウブ“桂坂にうつむいて優しげに白い花を付ける“エゴノキ”噴水前の”藤“”山査子(さんざし)“などなど。これからの34千坪の園内は、毎日行っても新しい発見があります。


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(豊艶な楊貴妃も花が散り、後の藤棚が出番を待っています)


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(杜若、花はこれから)

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(時雨亭前のつつじ)


子供の頃は、蝉取りや蛍狩りに、学校に行くようになり図書館通い、大人になると繁華街への近道として、今は、朝の散歩コースに、さすがに近いといっても子供の頃のように下駄履きではないので、毎朝行っても旅行者と間違えられます。多分、カメラ片手に目をカガカガにし、好奇心丸出しで歩いているのでしょう・・・。私にとっては“日々是新”な兼六園です。

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