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“五人扶持の松”が見える天神町

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【鈴見橋→常盤橋】
昨年暮れ、田井菅原神社の「鏡餅」を見せて頂いた帰り道、雪が深々と降りしきる天神町で、ふと、鉛色の空を見上げると、目の前に雪吊りの”五人扶持の松”が堂々と突っ立っていました。


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(去年の暮れ、工事現場の先に五人扶持の松が見えた。)

今までにも天神町から”五人扶持の松”を何度か見ましたが、何か松林のようにしか見へなかったのに、雪吊りがあると存在感がまったく違って見えました。雪の降らない日にと思っていましたが、先日、「杜の里」に行く用があり、馬坂を下り、天神町に出たころで、降ってきました。

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(馬坂)

暮れから今までいい天気も有ったのに・・・・と思いながらも12月には気付かなかった、”五人扶持の松”の真下の家と家の間の空地に入ると、目前に急傾斜地の崩壊対策の工事で出来た四角い模様に雪が積もって何とも美しく、それと崖上の松の雪吊りがマッチして、新しい発見でした。


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(急傾斜地崩壊対策で工事が施された崖)


(実は、私は近くに住んでいながら、お庭から“五人扶持の松”を拝見した事がありません。何時か見たいと思っていますが・・・。)

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(青空だったらもっと美しいかも・・・・2月の五人扶持の松)


≪”五人扶持の松”≫
藩政期、与力の吉川牛右衛門(130石)の庭の松で、幕末には、すでに有名で、13代藩主斉泰公が現在の兼六園のところに移植を望んだものの、余りにも枝先が長いために沿道の家150軒の移転が必要と分り計画は頓挫したといいます。


(現在の兼六園にある旭桜の初代は、斉泰公の所望により、長町の村井家から桜の移動に500人の人夫で50軒が壊されたと伝えられています。)


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(五人扶持の松のある北陸大学の林鐘庭)


当時の年寄奥村秀実(17,000石)が斉泰公に民の犠牲による移植であると進言。斉泰公はあっさり了解し、「天下に得難い松であるから、何時までも必ず事なく心して手入れを致すべし」とし、その維持費として五人扶持(1人扶持は1人1日玄米5合)を与えたということから”五人扶持の松”または”知行松”といわれるようになったと伝えられています。


この松は樹齢400年とも450年といわれ女松で、高さ7m、枝振りは南北24m、東西19mいわれています。松一株で100坪。この地に住んでいた与力が、盆栽だったものを庭に植えて丹精して育てているうちにどんどん立派になったといわれています。


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(元総理吉田茂氏)

お屋敷は、現在北陸大学教養別館の「林鐘庭」で、元は大学の創設者元参議院議員林屋亀次郎氏の邸宅でした。林屋邸時代、たびたび茶会が催され、吉田茂氏から中曽根康弘氏まで歴代10人の総理が来訪したといわれ、吉田茂氏は「移植できるもなら欲しい、とても移植できるものではないから断念せざるをえない。」と残念がったという話が伝えられています。


(10人の歴代総理は、吉田 茂氏、芦田 均氏、岸 信介氏、池田 勇人氏、佐藤 栄作氏、田中 角栄氏、三木 武夫氏、福田 赳夫氏、大平 正芳氏、中曽根 康弘氏)



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(林鐘庭の後に見えるビルは金沢大学病院)

この地は、藩政期、与力の武家地で、現在の金沢大学病院も含めて与力町といいました。お屋敷は、明治の末に医師の邸宅になりました。設計は、日本の近代建築における異色の建築家で築地本願寺や湯島聖堂、平安神宮を設計した伊東忠太氏によるものといわれ、昭和に入り、林屋亀次郎氏が取得し、林鐘庵という茶室と林鐘庭という露地を整えました。


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(天神町の通り①)


≪天神町≫
寛永12年(1635)に遷座した田井天神社(椿原天満宮)に因んで付けられた町名です。文化8年(1811)の金沢町名帳によると、上天神町の家数は118軒、下天神町の家数は55軒で、少し数字が合いませんが、上下の天神町を合わせて、町人は104軒、あとは武士、足軽、小者などが49軒だったと記されています。


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(天神町の通り②)
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(こまちなみ保存地区天神町の案内板)


明治4年(1871)には、上下の天神町に加え金浦町、天神社門前、宝円寺門前を合わせ、東より天神町1丁目~4丁目までに区画され、昭和11年(1936)までは、道幅2間弱(3,6m)。道路拡張事業により、北側の家々が一斉に後退し現在の幅員になりました。


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(天神町の天満宮)


参考文献:平凡社「石川県の地名」ほか

旧品川町と品川左門

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【鈴見橋→常盤橋】
旧品川町(きゅうしながわちょう)は、今の天神町2丁目”天神町緑地“辺りにありました。昭和41年の町名変更にともない旧品川町、旧天神町一丁目~四丁目、旧柿木町、旧板前町、旧三十人町、旧田町、旧田町新道を統合し、「新」天神町1丁目、2丁目として再編成されました。その時、三丁目と四丁目が消滅します。


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(現在の旧品川町辺り・天神町緑地のところ金大病院から撮影)

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(町名変更前の旧品川町界隈)

藩政期は人持組品川氏の屋敷地で、初代品川左門雅直は加賀藩3代藩主利常公の近臣でした。利常公が万治元年(1658)10月に逝去され、殉死した近臣が5人とか6人といわれていますが、最後の1人に残った左門は、利常公の“生き延びて子を補佐するように”という遺訓に従い「追腹はせぬ」と決意するも、周囲から殉死を迫られ「追腹」を切ったといいます。


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(切腹の図)


(野田山の前田家墓所には、利常公の墓地の脇に殉死した5人の近臣の墓が並んでいます。品川左門、古市左近、堀作兵衛、原三郎左衛門、竹田市三郎)


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(延宝金沢図より)

左門は、少年時代から美貌で、召し出され利常公に寵愛された人物で、利常公が病没の際、意識を失う直前に左門の名を叫んだといわれています。その絆は並々ならぬものだったのでしょう。一説には、主君と寵臣として性愛的な繋がりが有ったとも伝えられています。


(「つひに子共さへ見ぬ玉の肌へを押はだぬぎ・・・」亡き主君の他、我が子にさえ見せたことのない美しい素肌を見物人の眼にさらす・・・。その死に様は、深い感動をさそったことでしょう。)


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(現在の宝円寺境内・切腹した場所は?)

「追腹」を迫られた左門は、“自分は命が惜しくて生きていたのではない”と言う姿を人々に見せ付けようとしたのでしょうか、2ヶ月後、万治元年(1658)12月4日、前田家の菩提寺宝円寺の境内に幔幕を張り、その幕をまくり公開切腹したといいます。享年34歳。今も忠義で剛毅な武士として言い伝えられています。


(その子孫は 3000石を拝領し人持組(重臣)として代々加賀藩に仕えます。)


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(現在の天神町緑地(旧品川家辺り))


それから5年後、寛文3年(1663)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達されました。この頃になると幕政も武断政治から文治政治へ、朱子学に基づく武士道へと変り、寛文8年(1668)には「追腹」で禁に反したことで宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受け、天和3年(1683)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的に禁令になったといいます。


(品川氏(しながわし)は、花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家で、白川伯王家第21代当主神祇伯参議雅陳王の子である品川左門雅直が始祖です。)



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(現在の天神町辺り)

さらに遡ると現天神町緑地は、“高垣”といわれ、文明の頃、木曾義仲ゆかりの樋口氏の木曾坂城(現宝円寺)の前陣で、樋口氏の縁戚高垣氏の居城であったといわれ、今も天神町には高垣姓の家があるといいます。


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(現在の宝円寺①)

寿永3年(1184)木曽義仲の討死により、夢破れた木曾義仲軍の樋口次郎兼光の一族が、敗残の身を故郷木曾谷に似たこの地に定住したのだと伝えられています。その子孫は文明6年(1474)の“文明の一揆”で若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北したといいます。

(“文明の一揆:兄政親と弟幸千代のよる富樫家の内紛)


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(一向一揆時代の高垣砦の位置)


その後、長享元年(1487)二俣の本泉寺が移った若松の防衛線として、左翼の田井城(現国立医療センター)木曾坂城(現宝円寺)、高垣堡(現天神町緑地)、右翼の椿原堡(現椿原天満宮の上)の“鶴翼の陣”は、守りの要になりました。


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(現在の宝円寺②)


長享2年(1488)、若松の本泉寺を頂点とした一向一揆軍と守護富樫政親が対決した”長享の一揆“での一向一揆軍の勝利が、以後、約100年続く“百姓の持ちたる国”の始まりであったと伝えられています。



参考文献:「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」辰巳明著・「加賀藩十村役田辺次郎吉―十村役の実像を求めて―」清水隆久著 平成8年8月発行・「天神町二丁目の歴史と思い出」紺谷啓著

天神さん②3代藩主前田利常公

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【金沢城下】
寛政16年(1639)加賀藩3代藩主前田利常公は小松城に隠居しました。その2年後の寛永18年(1641)3月、3代将軍家光公の信頼厚い南光坊天海から手紙が届いたといいます。江戸幕府は、その年2月から諸大名を完全に組み込むための政策の一つとして林羅山・鵞峰父子を編集責任者に「寛政諸家系図伝」の編纂が始まりました。


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(金沢城河北門と菱櫓)

手紙の内容を要約すると「幕府は、諸侯の系図の提出を命じている。家康公の在世時から、”源氏の長者“になられているが、前田家は常々”菅原氏“を名のっておられ、現藩主の光高公は家康公の曾孫に当たるのだから、この際”源氏“を名のられるよう・・・・云々」というものだったといわれています。


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翌4月江戸の上った利常公は、この天海の“源氏”への改姓勧告を拒絶し、“菅原姓”に固執します。とはいえ、利常公の夫人珠姫は、家康公の孫にあたり、利常公13歳の元服の際には、家康公から松平の苗字を許され、本姓も“源”を用いています。さらに隠居後の小松城の棟札にも“松平肥後守源朝臣利常”の署名があるといいます。


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(金沢城石川門)

実父、前田利家公が「前田氏は菅原道真公の家系で、6代前に筑紫から尾張の荒子の移住してきた」といったという話はありますが、生前に“菅原”と署名したものはないという。また、実兄の2代藩主前田利長公は、死ぬまで本姓は“豊臣”を用いました。これは徳川氏に対抗する意思表示であると思われますが、慶長の末までは幕府も諸大名の“豊臣姓”の使用を黙認していたといわれています。



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何故、利常公は“菅原姓”に固執したのでしょうか?反徳川の気概!!自主的精神の発露!!・・・・。深読みすれば、“源平”の武門を名のらず「学問の神」を仰ぐことで、天下取りの意思が無いことを幕府に示したともいえなくもありません。明暦3年(1657)の小松天満宮を建立も“道真公―前田家”の学問・文化の系譜の定着を図るためだったのでしょうか・・・?
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(小松天満宮)

徳川家と4代藩主光高公に関わる逸話があります。光高公が曽祖父家康公への崇敬の念から金沢城内に東照宮を造営します。それに対し父利常公は「若気の至り、いらざる事をする」と不満ぶつけ「徳川家がこの先どうなるか分らないのだから、藩主として分別せよ」とたしなめたといいます。


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(金沢城にあった東照宮)


少し脱線してしまいましたが、前田家の本姓“菅原”は、利常公の知恵?道真公を祖先とする!!正確には“先祖と主張する”ということは、子々孫々が菅原道真公の末裔と信じ、深く敬い、それが前田家の信念として継承されていくことを願ったということなのでしょうか・・・。


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(現在の東照宮(尾崎神社)写真提供:金沢市)


5代綱紀公は、天神の子孫であるからには、それにふさわしくあらねばという思いからか、道真公の画像や絵巻、詩文などを精力的に集めています。元禄4年(1691)、かねてより心に誓った10ヶ条の「大願十事」を示しますが、第一に藩祖利家公が祀られる卯辰八幡宮に敬意を表しながらも、利家公の誕生日を天満宮の吉数の二十五日に定めたといわれていす。


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また、歴代藩主は、官公50年祭ごとに総本社、京都の北野天満宮へ代参を派遣し大刀などを奉納しています。前田家が道真公の子孫であることは代を重ねるにつれ、ゆるぎない事実になっていったものと思われます。また、宝暦初年(1752~)頃には、金沢城下の30以上もの寺社には道真公の“天満大自在天神”が祀られ、藩臣および一般領民にも天神信仰が広まって行きます。


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(椿原天満宮)


しかし、現在の通説では、前田氏の本姓は“藤原”で、梅鉢紋は天神信仰から神紋を用いたということのようです。


参考文献:監修藤島秀隆・根岸茂夫「金沢城下町」(前田氏と天神信仰・瀬戸薫著)など

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金沢城下・旧味噌蔵町

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【常盤橋→浅野川大橋】
味噌蔵町の町名は、昭和の町名変更で消滅しましたが、“味噌蔵町(みそぐらちょう)は小学校や公民館の名称として、藩政初期から続く由緒ある名前が今も顕在です。この辺りは、藩政期は武家地で、公式な名称では無いが通称で”味噌蔵○○丁“と呼ばれていたものと思われます。


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(奥村権之佐屋敷跡・ここに味噌蔵が有りました)

(武家地に公式の町名が無いのは、藩臣は各軍事編成上の組分けで、番頭、組頭がおかれたので、藩主と各藩臣との上意下達は、組支配制によって行われ、公式町名が無いのは居住地による人的支配の必要がないからで、町人は居住地による町奉行支配で、公式な町名が必要とされました。武家地は明治になり正式に立町される。)


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(延宝金沢図・奥村権之佐屋敷が元味噌蔵)


“味噌蔵“の町名由来は、藩政初期、当地に軍用の味噌を蓄える蔵があったことに因むといわれています。その“味噌蔵”は「延宝金沢図」には既に無く、書かれているものによると旧町名の味噌蔵町間の町に面した九人橋下通の角家奥村権之佐屋敷のところにあったと伝えられています。



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(町名変更前の地図)


(藩政期、金沢には18有った侍町は全て通称で、書き表すときは、「町」とは書かず「丁」と書いたといいます。真偽は分りませんが、出羽1番丁、彦三1番丁、馬場1番丁、西丁など、例外は長町1番丁、安房殿町など、「丁」は、武士なので田を取って「丁」と書いたと聞いた事があります。なんとなく説得力がありますネ。)


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(九人橋下通の武家屋敷)
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(武家屋敷の説明板)

ある古文書に、元和7年(1621)、その“味噌蔵“の古材で、今も新竪町にある徳栄寺の御堂が再興されたと書かれているとか、であれば、それより前に”味噌蔵“は廃絶したものと思われます。それにしても約400年も前に無くなった”味噌蔵“に因む町名で呼ばれていたことを知ると、ウッソ~。保守的~。ですが、これこそが、”歴史と文化に責任を持つ町金沢”の真骨頂なのでしょう。


(旧町名”味噌蔵町“の復活も近いかも・・・。)


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(九人橋辺り・新築中のガラス貼りの裁判所(新金沢らしさのガラス貼り)


明治5年(1872)頃、北側を味噌蔵下中丁、同片原町、真ん中は九人橋下通、南側は味噌蔵町上中丁、同間の丁、同裏丁になりました。


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(旧味噌蔵町片原町の千宗室屋敷跡)
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(千宗室屋敷の説明板)

旧味噌蔵町片原町は、今は暗渠になっていますが、藩政期の古地図によると、道路の3分の2以上も東内惣構の堀になっていて、片側が惣構の藪で、一方は武家屋敷が立ち並んでいます。千宗室屋敷跡があります。寛文6年(1666)五代藩主綱紀公に150石で召抱えられ、茶道奉行を勤めたと伝えられています。同じく旧味噌蔵町片原町には、寺島蔵人屋敷跡もあり金沢城にも近く城下町の武家地の佇まいを今も残る閑静な町です。


・味噌蔵町下中町(みそぐらちょうしもなかちょう)
現在の町名 大手町、兼六元町、橋場町、尾張町1丁目
(町名変更S41.2.1/S45.6.1)


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(旧下中町・藩政期は雨の日に一方が傘を閉じたという狭い道でした)


・味噌蔵町片原町(みそぐらちょうかたはらまち)
現在の町名 大手町、尾張町1丁目
(町名変更S41.2.1/S45.6.1 )


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(旧河原町・寺島蔵人邸)


・九人橋下通(くにんばししたどおり)
九人橋は東内惣構堀に架けられた橋で、橋番が置かれていて、十人並んで渡ると九人の影しか映らないという伝説から、橋の名がついたという。町名はここから生まれました。
現在の町名 兼六元町
(町名変更S41.2.1 )


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(九人橋下通の石碑)


・味噌蔵町上中丁(みそぐらちょうかみなかちょう)
現在の町名 兼六元町
(町名変更S41.2.1)


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(旧上中町・味噌蔵町小学校)


・味噌蔵町間の町(みそぐらちょうあいのまち)
現在の町名兼六元町
(町名変更S41.2.1 )



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(旧間の町・この辺りが味噌蔵)


・味噌蔵町裏町(みそぐらちょううらちょう)
昭和30年に味噌蔵町東町
現在の町名 兼六元町、橋場町、材木町
(町名変更S41.2.1)


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(旧裏町・あずま建ちのお屋敷)


≪味噌蔵町小学校≫
明治39年(1906)8月に開校。明治43年(1919)から昭和22年(1947)まで、味噌蔵町小学校(旧味噌蔵町尋常高等小学校)は校下(区)の女児が通い、近くの材木町小学校は(旧材木町尋常小学校)には校下(区)の男児が通いました。


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(校下(区)にある金沢城石川門)


今の味噌蔵町小学校の校下(区)は、金沢の中心に位置し、金沢城跡(金沢城公園)・兼六園・尾山神社・白鳥路・浅野川など有名な名所旧蹟のお膝元です。6年生になると、姉妹校で毎年、修学旅行で訪れる加賀藩前田家初代の利家公の出身地名古屋市の荒子小学校6年生に、金沢城跡や兼六園へ自分たちでガイドブックを作りご案内します。


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(味噌蔵町小学校の松本選手のフラフ)

卒業生には、劇団四季の振付師の加藤敬二さんやラピュタ・トトロ主題歌でおなじみの井上あずみさん、そしてロンドン五輪金メダリスト松本薫選手がいます。


参考文献:「角川日本地名大辞典 17 石川県」1981年:角川書店他

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旧味噌蔵町裏町の“徳川さん”

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【常盤橋→天神橋】
最近、雪のお陰で、時間のある時は徒歩で出掛けることが多く、よく旧味噌蔵町を通ります。雪道はバイクが使えないので、スタコラ、すたこら、行ったり戻ったり、子供の頃、大好きだった“道草”を楽しんでいます。


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(店頭の暖簾)

今日はお昼過ぎ、何年か前、来た事のあるお蕎麦屋さんに暖簾が掛かっているのが見えたので“道草”をしました。

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(お店の看板)

旧味噌蔵町裏町(現兼六元町)にあるこのお店のお昼は11時から3時まで、夜は予約制で5時から8時まで、歩くようになってからもよく前を通るのですが、早いか遅いかで、暖簾が掛かっている時に出くわしたことがなかったのです。


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お腹が覚えていました。醤油の“おろし蕎麦”は少し幅広でカタメ、辛味の“大根おろし”と、“オカカ”がのっていて、一味をふって、すすらず、無粋に、よ~く噛んで食べました。他に“牛蒡”と“大根”と“人参”そして何か忘れましたが“葉っぱ”の煮浸し、どれもおいしい、特に白い大根が見掛けによらず、何とも甘くて、つい“何でや”と聞いていました。


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(楊枝と一味)

小さな海老の“炊き込みご飯”に香の物、そして蕎麦湯とコーヒーゼリーが付いて1,000円、“ガッツイテ”いたのでしょうネ・・・。写真を撮るのを忘れてしまいました。いつもです。後になって気付ても・・・です。でも、お腹は大満足!!おいしさの証、一粒も一切れも残っていません。信楽も志野の器も喜んでいるように見えます。


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ご馳走様でした。


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“しつらえ”も素敵です。床の間には、読めなかったけれどセンスのいいお軸、信楽の割れ甕のようなオブジェ、銅板に模様のような緑青がきれいな四角い囲炉裏(いろり)、凝った自在鈎、お料理もそうですが経営者のセンス良さがにじみ出ているように思いました。


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待つ間に、店内にあった雑誌に、お店のことが書いてありました。ご主人は女性の方とか、福井で食べた”おろし蕎麦“に感動しお蕎麦屋さんを始められたらしい「自分が、おいしいと思うものをお出しするだけ。」と書かれていました。


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(菰の掛かった灯篭に小雪がちらちら)

囲炉裏(いろり)の席が8席、テーブル席が6席のお座敷です。今日、お昼時も過ぎていたので、お客様もそう多くはなく、おりからの雪模様で雪見障子から見える灯篭に小雪がちらついて、なんとも風情のある、しかし、一寸寂しい一人お昼でした。


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手打ちそば[徳川]
金沢市兼六元町13-14
TEL076(224)0002 
FAX076(224)0056


天神さん③天神信仰と金沢

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【金沢城下・田井】
天神さんは、“天つ神“の総称で、菅原道真公一人の神号ではありません。元々の天神は天から降ってくる火雷天神で雷の神とされ、雨は農作物の成育に欠かせないもので、雷は”農耕の神“でもありました。


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(稲妻は稲の夫(つま)の意。稲の結実期に多く起こるので、これによって稲が実ると考えられ、稲と交わる(sexする)ので、雨の下に田を書き雷にいう文字なったといいます。)


各地にも火雷天神と同様の伝承から天神(雷神)が祀られたのが天神信仰でした。しかし、あの菅原道真公が藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府で失意のうちに延喜3年(903)没します。


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道真公の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死、さらには京の御所、清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出たことから、道真公の祟りだと恐れた朝廷は、正暦4年(994)に道真公の無実の罪を解き朝廷より正一位太政大臣を追贈されます。

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(大宰府天満宮)

以後、道真公が火雷天神と呼ばれた雷神信仰と結びついたことなどから道真公の神霊に対する信仰も天神信仰といわれるようになったといわれています。


(もともと天神は、日本で皇室や古代の有力豪族の祖先とされる神々、例えば五条天神(少彦名命))


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(北野天満宮)


昔から京都の北野に火雷天神という地主神が祀られていて、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真公の祟りを鎮めようとしました。道真公が亡くなった太宰府の墓所の地に太宰府天満宮が建立されます。寛和3年(987)には「北野天満宮大神」の神号が下され、また、“天満大自在天神”とも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられたといいます。


(明治4年(1871)神社が「宮」と名乗るには、祭神が基本的には皇族で、勅許が必要になり、天満宮は「神社」と改名され、「宮」が復活したのは、戦後、神道の国家管理が終わった後。)


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(椿原天満宮本殿)


(椿原天満宮は、藩政期は“田井天神社”戦前は、”椿原神社といいました。)


鎌倉時代(1192~)になると、怨霊として恐れられることは少なくなり、「天神縁起」によると、その頃の天神さんは“慈悲の神”“正直の神”として信仰されるようになり、江戸時代(1603~)には、道真公が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は“学問の神”として信仰されるようになります。


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北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われ、天神(道真公)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約4000社(明治43年には全国で11,089社)といわれる分社があり、神社の数は、八幡宮、神明宮につづき第3位だそうです。


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金沢では、前に“一向一揆の堡椿原天満宮”のところでも書きましたが、鎌倉時代から田井村には、五条天神(少彦名命)を祀る村の鎮守・産土神であったといわれています。一説には今の兼六坂の“藪の下”と呼ばれる現小将町中学校辺りに鎮座したといいます。
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(菅原道真公)


永仁2年(1294)京都の北野天満宮より分霊をうけ、富樫氏の家臣が主命によって社殿を造営し、衆庶の尊崇を集めたといいますが、その後、田井の村地の移転などにともない何箇所かに転地し、慶長年間(1596~1615)に前田家によって「田井天神社」が一向一揆時代の椿原堡のところに再興されたといわれています。


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(椿原天満宮拝殿)


現在の「椿原天満宮」は、藩政期の「田井天神社」で椿原堡の下に寛永12年(1635)神主職渥見佐平が社頭を造営、寛文7年(1667)以来高井氏が神主職につき、子孫が神主職を相続し、前田家の遠祖と称せられる菅原道真公を祀っています。


参考文献:監修藤島秀隆・根岸茂夫「金沢城下町」(前田氏と天神信仰・瀬戸薫著)など

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古地図に“千秋家”が・・・①

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【常盤橋→浅野川大橋】
延宝金沢図で味噌蔵町を探していたら千秋家が目に留まりました。さらに下って幕末の地図を調べると、近くに他2軒の千秋家が載っています。昔、黒沢映画によく出ていた千秋実の千秋“ちあき“ではなく、金沢の千秋家は“せんしゅうけ”と呼ぶそうです。

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(本家千秋彦兵衛家跡・金沢中央消防署味噌蔵町出張所)

数年前、千秋家ゆかりの人から立派な桐の箱に入った”千秋家の家譜“を譲り受けたのを思い出し紐解いてみました。千秋家は越前府中(武生)から前田利家公に仕えた家柄で、幕末、金沢では12家が「先祖由緒一類附帳」を藩に提出されています。


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(延宝金沢図写し「赤は本家・青は喜兵衛家・緑は三島千秋家」石川県立図書館蔵)


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(桐箱に入った千秋家の家譜)


千秋家の遠祖は、熱田24代大宮司藤原季範(としのり)の3世憲朝で、季範は、後白河天皇や源頼朝の外祖父、憲朝は季範の孫にあたり、熱田大宮司千秋家系に「これより千秋の名起こり申候」とあるそうですが、それより先に季範の長女上西門院統子女房と次女待賢門院璋子女房が共に千秋尼という古文書もあるといいます。


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(千秋家の家紋・三葉柏)


その後、憲朝の子孫が室町時代足利幕府の将軍直属軍である奉公衆になり、やがて一部が越前に居住し、斯波氏、朝倉氏の臣になり、朝倉氏の滅亡後、越前府中で前田利家公の家臣になったのが、千秋山城守の子千秋主殿助と弟の喜兵衛でした。


(現在も越前千秋氏が居住した鯖江市辺りには、40戸の千秋家が確認されたといいます。ちなみに金沢近辺では千秋家はないそうです。)


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(味噌蔵丁九人橋高の本家跡)

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(敬愛病院裏電信柱の左が喜兵衛家跡)
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(敬愛病院正面左、東外惣構脇三島千秋家跡)


藩政期12家の内、味噌蔵丁(町)に居住地があったのは3家。幕末期、本家(500石)にあたる加賀千秋家元祖山城守藤原景能の長子主殿助の直系彦兵衛家の屋敷は味噌蔵丁九人橋高(現兼六元町)にあり、他、分家の2軒は味噌蔵丁藪の内(現兼六元町)にありました。


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(幕末の地図写し・赤、本家(彦兵衛家)・青、喜兵衛家・緑、三島千秋家)

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(手書の千秋家の系図・砺波正夫氏の収集した資料より)

本家の“味噌蔵丁九人橋高”は、現在の金沢中央消防署味噌蔵町出張所のところで、昔は東内惣構の左岸が石垣の高台になっていたので、幕末から明治初期は、味噌蔵丁九人橋高と呼ばれていたものと思われます。


(余談ですが、この土地は、前は金沢第一ホテルで、それ以前にあった“旅館さいとう”は、萌黄色に朱色の平仮名のロゴが金沢の景観にそぐわないという事で問題になり、全国紙を賑わしたのが思い出されます。また、その先は時計屋さんで、大正時代には、北大路魯山人の理解者として知られる細野燕台の屋敷だった聞きます。)


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(地上5階の旅館さいとう昭和52年頃)


分家の2家は“味噌蔵丁藪の内”。古地図によると、加賀千秋家元祖山城守藤原景能の次男の喜兵衛(200石)の系統と、その分家の分家三島千秋家(75俵)の居住地で、喜兵衛家の屋敷は、賢坂辻から敬愛病院裏に通じる坂下の東外惣構(源太郎川)の左岸にあり、千秋三島家の屋敷は敬愛病院の正面左側の東外惣構脇にありました。


(味噌蔵丁藪の内は、東外惣構左岸が防御上藪になっていたので、“藪の内”と言ったものと思われます。今はありませんが、市内には「高岡町藪の内」という地名がありましたが、同じ発想で付けられた通称なのでしょう。)


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(敬愛病院の構内に東外惣構の堀がありました)


この後、何回かに分けて、最近、余り語られていない、越前朝倉家没落後、前田家に仕え、末森城の戦いで奥村永福と防戦した千秋主殿助のこと、そして千秋主殿助の弟喜兵衛より6代目宗助の次男で幕末加賀藩の俊才といわれ、禁門の変(蛤御門の変)に関わった千秋順之助のことなど、ぼちぼち書きます。


参考文献:「加賀千秋家」平成17年発行・他金沢の郷土史家砺波正夫氏の収集した資料など

千秋主殿助範尚と末森の戦い

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【常盤橋→天神橋】
天正12年(1584)9月9日の“末森の戦い”は、前田利家公にとっては唯一の自らの判断で行った戦闘だったといわれています。


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(末森城跡)


末森城に篭城する大将奥村助右衛門永福・元末森城主土肥親真の弟土肥伊予守次茂・千秋主殿助範尚らの篭城軍1,500人が越中の佐々成政軍15,000人に包囲され、落城寸前まで追い込まれ、自害を覚悟した奥村永福は妻・安に、楠公の篭城の例から”なんと気弱な“と諌められ、玉砕覚悟の死闘を繰り広げ、援軍を待ったという伝説の戦闘です。


(永福の妻・安が薙刀を手に「援軍は必ず参る。無駄に命を捨ててはならぬ」と城兵を激励し、粥を炊きだした話はよく知られています。)



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(永福の妻・安)


豊臣秀吉公からは「金沢で城の守りに専念せよ」と命じられていた利家公は、それを理由に反対する家臣の声を振り切って出陣したといいます。援軍は津幡の城に入り、松任城の長男利長軍の到着を待ちます。



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(前田利家軍)

津幡の城での軍議でも出兵反対の声が出ますが、織田信長公ばりに、利家公は一騎駆けで出発し、追いつく兵2,500人とともに、浜伝いに進撃、11日の夜明けに末森城を包囲する佐々軍の背後を突きます。


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(佐々成政)

これに勇躍した末森城兵たちも城から打って出て、挟み撃ちとなった佐々軍は壊滅、このとき佐々軍は12人の主だった武将を失い、2,000人の死者を出し佐々軍は反撃を断念して撤収したといいます。


(利家軍は、敵を追い打撃を与える力まではなく、佐々軍は末森城を落とせなかったが枝城である無人の鳥越城(津幡)を占領しているので、戦いは利家軍の一方的な勝利というより、末森から追い出すことに成功したというか・・・「痛み分け」に近いものだったと伝えられています。)


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(加賀・能登・越中と末森城)


末森城は加賀と能登の玄関口にあたり、越中とも境界を接する要衝の地でした。ここを押さえることができれば、佐々軍は、前田氏の領土加賀と能登を分断でき、その後の軍事行動も展開しやすくなることもあり仕掛けられたのでしょう。


(末森城は、元和元年(1615)、一国一城令により廃城になりました。)


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(千秋家の家紋・三葉柏)

越中の佐々成政は、はじめ羽柴秀吉方であり、前田利家公とも永く友好関係にありながら、小牧・長久手の合戦で徳川家康・織田信雄の連合軍が善戦しているのを見て、家康に与することに心を決めたといいます。


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(千秋一族の家譜)

この戦で篭城した大将奥村助右衛門永福、土肥伊予守次茂、千秋主殿助範尚の内、土肥伊予守は戦死。千秋主殿助は助右衛門と共に城をよく守りきって功を立てるが、天正18年(1590)小田原の役で利家公に従って関東に出陣し、帰途、越中岩瀬で病死します。


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(千秋家系図部分・主殿助範尚とあり、なお範昌は誤とある。)砺波正夫氏資料より

末森の戦いの功で千秋主殿助範尚は、奥村助右衛門永福とともに1,000俵の加増を受け、8,560俵を禄しています。8,560俵は後にいう4,280石に当たりますが、千秋主殿助範尚が没したとき一子彦兵衛範望はまだ幼少のため1,000俵(500石)を受け、そのまま幕末まで500石だったといいます。


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(奥村永福座像・永福寺蔵)

もう一つ千秋家に関わる伝承に、千秋主殿助範尚は越前者で佐々成政の家中に知り合いが多く、これを怪しんだ奥村助右衛門永福は、範尚を二の丸から出丸に移したというもので、寝返りの疑いをかけられたということです。何か永福と範尚との間に確執があったように想像させます。


(千秋主殿助範尚は、弟喜兵衛と天正9年に加賀に入り利家公に仕えるが、それ以前は越前にいました。)


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(前田利家公御感状の写し・千俵加増が記されている。)砺波正夫氏資料より


範尚に裏切りのきざしがなかったことは、戦いの後、利家公や利長公から感状を受け、永福と同じ1,000俵の加増を受けていることからも明らかです。また、永福と範尚との間の確執についても、それは何だったのか?そして、それが有ったのか無かったのか、今となっては知る由もありません。


参考文献:「加賀千秋家」平成17年発行・金沢の郷土史家砺波正夫氏の収集した資料、亀田康範著「末森合戦と千秋主殿助宛の手紙」など

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武佐の広済寺さん“実如上人の親筆”

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【鈴見橋→常盤橋】
3月3日の日曜日。広坂通りを歩いていて武佐の広済寺さんの“法宝物御忌”のポスターを見ました。武佐の広済寺さんは前にも“扇町”や“あかつき屋さん“のところでも書きましたが、ポスターには4時までとあり、先の会合を中座して、扇町まで早足に息を切らせて駆けつけました。


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(広坂通りで見た広済寺のポスター)


前から500年位前に書かれたという“実如上人の親筆”と実如上人似の阿弥陀さんが、3月に開帳になることは聞いていたのですが、まさか2日3日の2日間限りとは知らず、ポスターを見た瞬間、一寸大げさですが、これを逃したら・・・と思い込んでしまいました。


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(武佐の広済寺)


その日は、蓮如上人と実如上人を追悼する法要が営まれ、同時に、お寺の宝物の開帳がありました。


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(白い布が掛かった実如上人の真筆)
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(実如上人の親筆、約500年前の書かれたもので、表具は約250年前とか・・。)


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(追悼法要)


武佐山広済寺は、近江から本山の別院尾山御坊(本源寺?)の看房職として、文亀元年(1501年)、本願寺第8世蓮如上人の命を受けた、聖徳太子の勅命によって創建せられという江州広済寺(近江八幡)の10代厳誓坊祐念の2男祐乗坊が金沢に派遣されたというお寺です。


(本願寺第9世実如上人の命を受けて金沢に一寺を建立したという説もあります。)


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(九世実如まで書かれた掛け軸)

当初、看坊の武佐山広済寺は、今の金沢城跡辺り(他説あり)に尾山御坊(本源寺?)の隣接地に在ったと思われますが、享禄4年(1531)の大小一揆(享禄の錯乱)を経て、天文15年(1546)に今の金沢城跡のところ金沢御堂が建立され、広済寺も本願寺の堂衆、門徒衆の宿所・詰所・番所と共に建てられたそうです。


それが金沢の町の始まりとされ、金沢御堂を巡る内寺内と、周辺に後町、南町などの外寺内で、寺内町が形成されていたといわれています。


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(法宝物御忌)

天正8年(1580)、佐久間盛政軍により金沢御堂は陥落します。その後、3代祐盛は内川郷の山中に難を避け、寛永17年(1640)の5代祐益の時、加賀藩3代藩主前田利常公から安江郷(現在の尾崎神社辺り)に寺領が与えられ、その後、今の扇町の地を賜り移転したといわれています。


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(天正15年(1587)には、嗣子がないことから、本願寺に求め 顕如上人の命で、安休房西周をその嗣子にしたと聞きます。安休は浅井久政(長政の父)の子にして徳川家の姻戚にあたるそうです。お寺には「葵の紋」が見られるのはそのためでしょうか?こんど行ったとき聞いてみましょう。)



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(中央のお軸は、実如上人に似せて描かれたという三方正面の阿弥陀如来)


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(一向一揆ゆかりの品)


武佐の広済寺さんのパンフレットによると、ご開帳の法宝物は、尾山御坊の御本尊で実如上人似といわれた左・右・前いずれから見ても正面という“三方正面の阿弥陀如来”の掛け軸、実如上人親筆の添書き、ほかに、加賀の守護だった富樫政親ゆかりの品、今も金沢城水手門外に残る尾山御坊の頃の伝説“おちよぼ井戸“の絵も描かれた掛け軸などなど・・・がありました。


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(おちよぼ井戸の図)
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(おちよぼ井戸図の掛け軸)


(おちよぼ井戸は、その昔、侍女“おちよぼ”が朝夕仏に供える水を汲んだという井戸で、“おちよぼ”は雲を呼び、雨を降らし、蛇体になって宝物にお参り来たという・・・。)


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(英語のパンフレット表)


武佐の広済寺さんには、日本語のモノクロのパンフレットがありますが、英語版はカラー刷りで日本語のものより立派です。聞くところによると、向かいに人気の金沢町家ゲストハウス「あかつき屋」があり、お泊りになる外国人のお客さまが、よくお寺にいらっしゃるので、檀家の人の協力でお作りになられたそうです。



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(三方正面の阿弥陀如来の掛け軸も刷られている英語のパンフレッット)


参考資料:武佐山広済寺のパンフレットなど

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ひがし茶屋街の“押寿し体験厨房”

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【梅の橋→浅野川大橋(右岸)】
人気の“ひがし茶屋街”は、しばらく行かないと、お店がどんどん増えているのにビックリさせられます。今や箔屋さんや工芸のお店だけでなく、烏骨鶏や佃煮、麩(ふ)のお店など食の有名店も出店し、益々賑わっていくように感じられます。


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(今月オープンした、押寿し体験厨房金澤寿し)


重要伝統的建造物群保存地区だけに、規制もあり外観だけ見ていると気付きませんが、随分お店が増えているようで、一様に、昔の町家の外観をそのままに、何処のお店も、内装は和風テイストを残しながら、今風で合理的に改築された店内は、明るくて素敵です。


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(ひがし茶屋街のお店)


3月に入って旧一番丁、今の箔一さんの横小路、“お蕎麦屋さん”と“「ふ」のお店”の間に昔からお祭りになると、金沢では何処の家でもこしらえた“おふくろの味押寿し”を体験出来る「押寿し体験厨房金澤寿し」が開店しました。


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(お蕎麦屋さんの隣りの押寿し体験厨房金澤寿し)


お店では、年令以外は全て若いという元気な“金沢のおばちゃん”が企画の段階から携わったとかで、嫁いでから毎年、春秋のお祭りになると、わが子の喜ぶ顔を支えに、代々続く嫁ぎ先の味に馴染むのに苦労した、あの頃も忘れ、水を得た魚のように働いていました。


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(店内)

ベテラン主婦の“金沢のおばちゃん”は、手先も腕も達者で、おまけに一言も二言も多くて、船頭が多い小船のように“あっちや、こっちや、あ~だの、こ~だの”と五月蝿いだろうと思いきや、それは初めだけ、一旦決まると一致団結。作業ともなると、慣れた手つきで手早くこなしているそうです。


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(体験の押寿し)

金沢のおばちゃん達は、お料理だけでなく地元のことも知り尽くしていて、しかもお節介、いや親切で前向き、そして全員10年来のお付合いらしく、店長の言を借りれば、元気な“金沢のおばちゃん”は、“指示待ち”どころか、何の指示もしなくても、的確にどんどん作業も仕事も進んでいくそうです。

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(お茶のサービス)


地元を知り尽くした“金沢のおばちゃん”は、押寿し体験のアドバイスだけでなく、お客様のご希望に応じて、“城下町金沢”のこと、そして“ひがし茶屋街”の歴史や文化など、あまり語られない昔話も飛び出すらしく、それを聞きながら、押寿し作りを楽しむのもいいかも・・・。


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(2階のお雛様、金沢のお雛さんは1ヶ月遅れの4月3日)


≪押寿し体験≫
所要時間 約30分
人  数 最大20名様まで(1階10名・2階10名)
金  額 お一人様1,500円
予  約 前日午後3時迄にウェブ・またはお電話にて受け付けるそうです。


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(単品のばら売りの押寿し)


他にお魚や野菜の押寿しを笹に包んだ単品のばら売りや金沢らしい食品の販売もしていました。


押寿し体験厨房
金澤寿し
TEL076-251-8869
kanazawasushi.com/

金沢の4つ目の寺院群は・・・。

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【小橋→応化(おいげ)橋】
3月9日、金沢のホテルで開催された「百年後の国宝を作ろう」キャンペーンの市民講座に行ってきました。今回は”城下町金沢を築いた武将たち“をテーマに、城下町が形成された歴史に焦点を合わせた講演とパネル討論でした。


(「百年後の国宝を作ろう」は石川の伝統と技を駆使して、百年後に誇れる「日本の国宝」をつくることを目指した県民運動で平成6年(1994)作家の堺屋太一氏が提唱して始まったキャンペーンです。)


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(金沢城極楽橋・橋を渡った先に一向一揆の時代、一向宗金沢御堂がありました。)


このキャンペーンは、当初、県民投票などから「金沢城二の丸の復元」と「尊経閣文庫の金沢里帰り」に集約し、地元の新聞社が主催で講演会や探訪会を開催しきたましたが、最近は、金沢について研究者や著名な作家から深く学ぶ講座などが開催され毎回250名ぐらいの市民が駆けつけ熱心に聴講されています。


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(3月10日の北国新聞記事)


前提が長くなりますが、9日の市民講座は、金沢の著名な研究者が登壇され、“城下町を築いた武将”をテーマに藩政初期の金沢の町の形成の経緯について、それぞれの先生方の説が語られました。



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(告知広告)


幾つかの説のなかで、金沢の城下町の形成段階で、町中に集められた一向宗寺院について述べられた先生もいて、聞き耳を立てて聞き入りました。金沢の一向宗(真宗)寺院は藩政期、東・西を合わせて70数ヶ寺が町中に点在していますが、地図を見ると金沢駅周辺にかなりの寺院がまとまっていて、現在も真宗寺院26ヶ寺が東と西の別院を囲むようにあり、藩政期からあったというお寺も多いようにききます。

(註:現在は町村合併や明治以後の建立などで209ヶ寺)


パネル討論の中では、司会者が、“3っも4っもある寺院群”といい、3っとも4っとも断定はされませんでしたが、この金沢駅周辺の真宗寺院群も加え4寺院群ということになります。これからはガイドとして、金沢の寺院群について語る時、いきなり“4寺院群だった”という分けにはいきませんが、3寺院群の他に、もう一つ一向宗(真宗)の寺院群が形成されていたことを認識しておかねばなりません。


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(3月12日、快晴の東別院)


≪現在、彦三から駅前までに真宗寺院が26ヶ寺≫
真宗大谷派18寺
 大谷派(東)金沢別院(安江町)、光福寺(彦三)、乗敬寺(彦三)、広照寺(武蔵町)、勧慶寺(本町)、光専寺支房(此花町)、西福寺(本町)、照教寺(本町)、乗善寺(此花町)、真乗寺(本町)、恵光寺(笠市町)、専光寺(本町)、長徳寺(彦三)、仁隨寺(本町)、報恩寺(笠市町)、発心寺(本町)、聞善寺(瓢箪町)、順教寺 (安江町)、光善寺 (本町)



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(専光寺)


浄土真宗本願寺派8寺 本願寺派(西)金沢別院(笠市町)、光教寺(笠市町)、西源寺(笠市町)、西勝寺(瓢箪町)、照円寺(笠市町)、上宮寺(笠市町)、松立寺(瓢箪町)宗林寺 (武蔵町)


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(12日”ぶらぶら歩き”に真宗大谷派金沢別院に約30人が集まりました。)


実は、いつも浅野川周辺を散策コースにしている私としては、関心もあり、真宗寺院の集積も気付いていて、何回か書いてきましたが、今日12日午前中に仲間と、この辺りの“ぶらぶら歩き”をすることにしていました。そんなことを企画していたので、そのことばかりが耳に入り、他のことは余りよくは聞いていなかったのですが、幾つか“な~るほど”と思ったことをメモっていましたので下記に記します。


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(金沢城菱櫓・鶴丸辺りから)


・お城を中心に町が形成された城下町というのは、世界でも珍らしく、日本には200以上の城下町がありますが、金沢は、今も惣構、寺院群、下屋敷など原型が分るような形で留めている数少ない町である。


・加賀藩前田家は領国としては広いが、金沢は町の規模は小さいく、他の城下町と違うのは、改作法により知行地を守る必要がなくなった家臣団が城下に住み、人が多く人口密度が高かった。


・城下町の形成には、方位、風水、一向宗寺院の移動、軍事上の戦略など、いろいろ考えられるが、藩主らの移動で家臣団の出入りから藩士の住宅問題が派生したことが町の形成に影響したと思われる。


・3寺院群の内、小立野寺院群が卯辰山麓や寺町寺院群と違うのは“藩主前田家の気持“でその時々に作られたお寺の集りである。等々。

(卯辰山麓寺院群約50ヶ寺、寺町寺院群約70ヶ寺、小立野寺院群約40ヶ寺、金沢駅周辺寺院群約30ヶ寺(内曹洞宗4ヶ寺))


話は長時間に渡り諸説の解説が展開され、複雑で分りにくい城下町金沢が少しだけ“な~るほど”と納得出来たような気になりました。


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(金沢城にある金沢御堂の基礎とも手水ともいわれている石)


それから、多くの方々に理解して頂くための「城下町博物館」の創設も提案されました。

左岸は石川郡、右岸は河北郡、田上の駅は・・・

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【浅野川左岸と右岸】
金沢城の石川門は石川郡、河北門は河北郡を向いているからといわれていましたが、一昨年、野々市町が市制施行により、石川郡は昔の話になってしまいました。もう何年かすると“石川県にあるから石川門や”なんていう人は、四方やいないと思いますが、1190年間も続いた県名の元といわれる由緒ある郡の名が消えてしまいました。時代ですかネ・・・。

市民が見つける金沢再発見 (石川郡向きの金沢城石川門)

弘仁14年(823)加賀郡が江沼郡と共に越前から独立し加賀の国になります。加賀郡は、越前国の時代、手取川以北から大海川(免田)以南が郡域でしたが、石川郡を分立した後は浅野川以北から大海川以南となります。


(現在も大海川は加賀と能登の両地方の大まかな境界となっています。)


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(河北郡向きの金沢城河北門)


加賀の国になると、石川郡を分立した加賀郡は後に河北郡とも呼ばれるようになり、江戸時代には正式に河北郡と改称され、現在は、内灘町と津幡町だけが河北郡と呼ばれています。


石川郡は、加賀郡から分立し河南郡と呼ばれていたそうですが、後に廃止され石川郡になりました。郡域は、浅野川以南、手取川以北で、現在の野々市市と白山市で石川郡は消滅しました。


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(浅野川大橋・左岸が石川郡側)


≪浅野川の左岸右岸昔話・田上の駅≫


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(突き当たりの山の下が田上町)

浅野川の右岸の田上にあったという”田上の駅“が実は左岸の今の浅野川大橋辺りだったのではないかという、大昔の話です。


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(右岸の田上町は河北郡でした)
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(今の田上町)

古代律令国家は幹線道路に10km~12kmの間隔で駅家(うまや)を設け、駅にはだいたい5頭ぐらいの馬が常時置かれていたことが“律令”を具体的に運用するための施行細則「延喜式」に記されているとかで、そのなかに「田上駅 加賀国加賀郡 馬五匹常置」と記されているそうです。


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(現在の田上地内・この先が金沢外環状道路)


(加賀の国の駅は、朝倉の駅(加賀市)潮津の駅(加賀市片山津)安宅の駅(小松市)比楽の駅(白山市美川)田上の駅(金沢市)深見の駅(津幡町)横山の駅(かほく市宇ノ気)で地図では田上は山側に入り込んでいて距離も長い)


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(田上地内の金沢外環状道路)


その“田上の駅”というのは、今の金沢大学の近く、浅野川右岸の田上町だということになっていますが、”二俣街道“の起点の若松町より一つ奥にはずれたところで、現在は“金沢外環状道路(通称:山側環状)”が出来、便利になりましたが、つい先ごろまで、山奥に向かう不便なところで、古代に駅家があったとは考えにくいところです。


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(現在の橋場町交差点)


どうも律令時代、現在の浅野川左岸、現在の橋場町は田上郷の郷域で、地形的にも小立野台の先端部、山崎凹市といわれた交通の要衝で、商工業者も集住し、自然に市場が立ったといわれていて旧田上郷の谷頭にあたるこの辺りが“田上の駅“であったという説があります。


後に、応仁・文明の乱の北陸代理戦争の様相を呈した富樫氏が兄弟で争った“文明の一揆”の頃、“田上”の地名を冠した、兄富樫政親側近田上兵部の城が現在の橋場町近辺、多分、久保市乙剣宮の辺りにあったという伝承があります。


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(久保市乙剣宮)

一向一揆軍が勝利する“長亨の一揆“では、田上兵部が高尾城に脱出し、一向一揆軍が田上兵部の城に入り、ここを山崎陣地としたといわれていますが、どうも、この辺りも大昔から”田上“と呼ばれていたようにも思われるところからも、現在は”田上の駅“橋場町説が有力なようです。


参考文献:「消された城砦と金沢の原点を探る」著者辰巳明・発行能登印刷,昭和62年など

ボランティアガイドの“穴水研修”

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【ほっと石川・鳳珠郡穴水町】
3月16日、年に3回の“ほっと石川観光ボランティアガイド”の今年度最後の研修が能登の穴水町で開催され参加しました。県内から過去最高の180人もの参加者だそうです。さすが、歴史好きの観光ボランティアガイドの皆さん、知る人ぞ知る”歴史の町穴水”への期待の大きさを窺わせます。




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(のとふれあい文化センター)


穴水は金沢からバスで1時間半、今まで何回も穏やかで珍しい“ぼら待ち櫓”が見える海岸線を走り過ぎることはありましたが、来るのは、若い頃に釣りに連れて来てもらった時、数年前名物の牡蠣を食べに来た時くらいで、お寺や歴史探訪は始めてです。


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(七尾北湾・かすかに見える"ぼら待ち櫓")


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(17日の北国新聞記事)

飛鳥時代に開創された真言宗の古刹、「宮崎寒雉」の茶釜や梵鐘で知られる鋳物の里中居の鋳物館、古代から近世、現代まで、加賀藩八家長家の始祖長谷部信連の史料なども集めた穴水歴史民俗資料館を回り、短時間でしたが、能登の奥の深さに感じ入り、また来たくなる思いを背負って帰りました。


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(明泉寺)

ガイドは、穴水町ふるさと案内人「里ナビ」の皆さんで、初っ端から今までにあまる見たことも無い佇まいの白雉山明泉寺に案内され、身のすくむ思いがしました。大昔、白雉3年(652)に開創という真言宗の古刹で、境内の国指定重要文化財の石塔五重塔やお堂にある遠い昔の仏像が遺存するのを目の当りにし、表現しがたい恐れを感じていました。


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(国指定重要文化財の石塔五重塔・7m)
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(明泉寺)


お堂では、普通は見られない「紙本着色明泉寺絵図」という巻物を運よく見ることができました。この絵図は室町末期の明泉寺の伽藍の様子が描かれていて、ご住職に丁寧に説明して戴きました。ご本尊は千手観音で、数多くの古い仏像を拝観しました。行基菩薩や弘法大師の作仏が多いとパンフレットに書かれています。


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(紙本着色明泉寺絵図)


(「紙本着色明泉寺絵図」には、“頼朝の墓”と言われている石塔群が描かれています。直接見る時間がなかったのですが、現在も大小70余基の五輪塔や宝篋印塔が立っていて、古来より「鎌倉屋敷」とよばれ能登最大の中世墓地だそうで、生前仏事で頼朝の死後の冥福を祈って建てられたものらしく、五輪塔が“頼朝の墓“だそうです。どうもこの辺りは当時北条氏の土地だったとか…。)


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(来迎寺)


勅定山来迎寺は、嵯峨天皇の勅願により弘仁5年(814)創建された真言宗の古刹で、こちらも古く1,200年も前のお寺で、翌弘仁6年(815)「勅定山」の山号を賜り「勅定山青竜寺」と号したといいます。文治2年(1186)には、穴水町の領主となった長谷部氏の祈祷寺とされたとき再建し、宇留地関寺の阿弥陀如来を迎え本尊とし、寺号を来迎寺と改めたといいます。


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(観音堂と十一面観音)

(観音堂に安置される十一面観音は、信連が高倉天皇から賜ったといわれ、かぶとに忍ばせていた1寸8分の守り仏だそうです。)


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(来迎寺のお宝の一部)


中居の鋳物の歴史は平安時代末まで遡るそうです。前田利家が中居鋳物師を統括支配し,武具や金具などの日用品の鋳造を命じていたそうです。また、穴水町歴史民俗資料館は、古代から、近世、現代まで、穴水の歴史や文化が集積されていて、一目で分るようを展示されています。


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(長谷部神社の横に穴水歴史民俗資料館がありました)


はじめて見て歩いた穴水町でしたが、“駆け足旅”短時間だったからか、年なのか、多分能力不足だと思いますが、十分消化出来ていませんので、この辺にします。何度も言いますが、未練たっぷり“また来て見たい”と思わせる興味深い穴水町でした。


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締めの会長の挨拶で「先人の心を大切のする町」とおっしゃっていましたが、私も同感です。


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そして、自然体でご案内戴いた、穴水ふるさと案内人「里ナビ」の皆さん有難うございました。

加賀尊王攘夷派の学者千秋順之助①

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【常盤橋→天神橋・旧味噌蔵町】
NHKの大河ドラマ「八重の桜」は今度の日曜日3月24日“蛤御門の戦い”だそうです。この変事は“蛤御門の変“といわれ、文久3年(1863)8月18日の政変で失墜した長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願い出るが許されず、元治元年(1864)7月19日、長州藩が京都での勢力回復をねらい引き起こした変事で”禁門の変“ともいわれています。

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(前田慶寧公)


加賀藩では、世嗣慶寧が在京中、攘夷の立場で長州の代弁者として幕府に建白書を出したといわれ、また、京都の加賀藩邸は長州藩邸に近いこともあり、慶寧側近の中には、長州勤王派と通じ、天皇を近江海津(加賀藩領)へ移し共闘する密約も交わしたと伝えられています。


(国許では、保守派年寄などは、慶寧や側近の動きをやめるよう強く進言し、藩内は二派に別れ混乱したといわれていますが、慶寧は尊王派側近を守り年寄たちを諌めたといいます。)


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(蛤御門)


長州藩が幕府連合軍と京都御所蛤御門・堺町御門附近で戦い、京都の中心地が激戦地になり、戦いは一日で終り長州藩は敗北しますが、7月19日朝、長州藩邸等から出火した火災による被害は,21日に鎮火しますが“どんどん焼け”といわれ800ヶ町,27,000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災し大惨事となりました。


長州藩が京都への出兵に際し、加賀藩の尊攘派が、御所警備のため上洛していた加賀藩の世嗣前田慶寧を擁して、長州藩に呼応しようとしたが、“蛤御門の変”の前夜、在京藩臣が集まり大激論の果て、京都を退去する事に決しました。


(金沢では、この一連の変事を、蛤御門の変に関わっていないためか? “元治の変”または”加賀元治の変“さらに”元治甲子の変”と書いたのも見たことがあります。)


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(前田慶寧公の陣羽織)


この顛末は、以前に書いた松平大弐の自刃、加賀尊攘派の一斉弾圧、戊辰戦争までおよびますので、それはまたの機会にして、今回は、撤退を主張した慶寧の侍講千秋順之助について進めます。



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(青のところ、味噌蔵町藪の内が生家)

千秋順之助は、字は藤篤(ふじあつ)号は有磯、顧堂など。千秋主殿助と共に前田利家公に仕えた弟千秋喜兵衛の6代目宗助範為の次男で、味噌蔵町藪の内で生まれ、幕末加賀藩の俊才といわれ、藩校明倫堂より江戸昌平黌に学び舎長になります。


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(家紋三柏)


弘化2年(1845)藩の要請で帰藩、明倫堂助教、世嗣前田慶寧の侍読も兼ねた尊王攘夷派の学者で、数少ない加賀藩尊攘派の中心人物でした。その所論は尊王の大儀に基づき、よく時代の損得を論じ、ついには幕府の衰退を洞察し藩の進退を明らかに決めるよう主張したといいます。 


(つづく)

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