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欠原(かけはら)崖上のお寺③真行寺

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【石引2丁目】

曹洞宗真行寺の山号は、初めは安禅山で後に法隆山。開基尼僧洲岩は、大阪の陣で功績のあった木村重成の縁故の者といわれています。重成の菩提を弔うため庵を結んで真行寺と名づけ、托鉢で維持していたと伝えたれています。寛永8年(16313代藩主前田利常公から百姓町に屋敷を拝領されますが万治2年(1659)小立野に移りました。加賀藩の重臣本多安房守の家老篠井雅楽助は、洲岩の篤信道念に感じ入り、浄財を投じ一宇を建立し、当時、大乗寺15世謙室呑益大和尚を請じて開山第1世とします。

 

 (真行寺門前)

 

木村重成

母が豊臣秀頼の乳母であった重成は、豊臣秀頼とは乳兄弟の関係で幼少より小姓として秀頼に仕え、大坂冬の陣に参加し、井伊直孝や松平忠直の部隊に損害を与え、大坂冬の陣における和議の席では豊臣秀頼の正使として徳川秀忠と会見し、その姿勢が礼に叶っていると評価されています。翌年の大阪夏の陣で井伊直孝の隊と激戦を繰り広げ戦死します。その後で行われた首実検の際、重成の頭髪に香が焚きしめてあり、家康を感嘆させたという逸話も残っています。こうした一連の働きによって全国に名を広がっていきました。

 

篠井雅楽助(しののいうたのすけ)

本多政重の家老で、千石。25歳の時大阪の陣に出軍し武功を上げ、正保2年(1645)本多政重の子で2代政長が家督を相続した時、幼年のため雅楽助が後見になったといいます。

 

 

(真行寺門前の案内板)

 

真行寺の寺宝は、大黒天木造を自仏で運慶作と伝えられています。また、前田土佐守家家臣の武人画家矢田四如軒の掛軸、秘岩摩図。六地蔵尊画像中軸二幅を所蔵しています。大般若経六百巻写経の十二箱も、当山十四世宝慈長山大和尚の手(写経)によるもので、毎月115日、24日に転読します。

 

矢田四如軒(やたしにょけん)

矢田四如軒は江戸中期に加賀藩で活躍した画家で、加賀八家前田土佐守家の家老矢田六郎兵衛広貫として5代当主直躬6代直方に仕えた武人画家です。四如軒の画は、筆に勢があり、いきいきとした絵が特徴的で、多様な画題で多くの画を残しています。

 

 

 (門前から本堂)

 

[厄除地蔵尊]

真行寺の厄除地蔵尊は、開基州岩が、木村重成の菩提を弔う為に草庵に地蔵菩薩を安置し、多くの人々の浄財喜捨で日夜供養していたところ、ある夜、夢の中に地蔵菩薩が現われて堂字の建立を望まれ一層信仰を深め、大いに勧進に努めたと伝えられています。

 

(無漏塔)

 

その後、地蔵尊は病厄災厄を除く霊験が多いと云われ、厄除地蔵尊として多くの人の信仰を集め、更に道路区画整理等の理由で近くの一本松、揚地町、笠舞などの町内各所に安置されていた多くの地蔵尊を地蔵堂に合祀することになり、明治41年より毎年82122日に、各町の有志が集まって協力奉仕して大祭を執行、各町各家の家内安全、息災延命、厄難消除とご利益加護を祈念しています。 

 

 

 

(地蔵堂)

 

(お地蔵さんの逸話が幾つか伝えられています。例えば、横向き地蔵は、笠舞の刑場に引かれていく罪人を哀れに思って石の地蔵様が、横を向いて見送った。とか、処刑される罪人が、地蔵様を目で追った姿を後に家族が仏師に頼んで彫らせたなど・・・、語り継がれています。)

 

 

 (地蔵祭の地蔵さん)

 

[現在の地蔵祭]

「厄除け地蔵尊」は、病厄、災厄、歯痛、耳痛など顔から上の病気に御利益があるといわれ、毎年822日夕方7時より法要が行なわれ、地域の夏祭りとして親しまれています。町内会の有志のお世話もあり、認定子ども園真行寺六美苑の苑児が可愛らしい盆踊りや保護者会による露店も開催され、今も大層な賑わいになります。また、春の降誕会「花まつり」は、真行寺六実苑の前に、甘茶を供し、道行く方々にふるまわれています。

 

 

 (六美苑

(境内の六美苑の運動場)

 

真行寺の境内は、今は認定子ども園真行寺六美苑の運動場に整備されていますが、本堂右手のお釈迦様の母上摩耶夫人の名前が冠せられた摩耶紅が大切に残されています。本堂左手の中庭には、大きな鯉が、また、季節々々には草花や樹木が美しいらしい・・・。

 

 

 

(境内の魔耶紅)

(中庭)

 

[金沢地蔵尊四十八ヵ所巡礼 第二十四番]

 御詠歌

「たかきみね さきだつひとを みるからに われもゆくべき  みちをしるかな」

 

 (安政期の真行寺周辺の絵図)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和7年発行 ほか


勘太郎川①笠舞用水!?

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【石引1丁目→鱗町】

現在、勘太郎川と言われているのは、起点が石引2丁目の風月堂の横から、かっての波着寺の塀沿いに流れる辰巳用水の分流が「ぢごく橋」の下から崖下にある旧一本松で、上(かみ)から流れてくる旧笠舞用水(現長谷川排水路)と合流し勘太郎橋を潜り、思案橋から鱗町で鞍月用水に合流する1,4kmをいいます。

 

 

 (勘太郎川の起点・石引の風月堂)

 

「ぢごく橋」は「樹木橋」!?

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12285108421.html

 

 

(大正6年の稿本金澤市史の地図・中石引から一本松の水路が描かれていない)

 

この勘太郎川は、どうも平成に入って「金沢市が用水保全条例」を施行するにあたり、史料や資料、聞き取りを基に定義付けられたもののように思われます。それ以前は、前にも書きましたが、用水の起点は善光寺坂下の大清水(おおしょうず)と辰巳用水の分流で天徳院が起点になる旧笠舞用水(長谷川排水路)の2説が有ります。

 

(平成15年市から発行された地図・勘太郎川の起点が大清水になっている。)

 

大清水は、藩政期から昭和11年(1936)まで石川郡であるため昔の地図で調べることは出来ませんが、前にも書きましたが起点とは言いがたい、天徳院を起点とする旧笠舞用水は、藩政期から現在の勘太郎川も含めていわれていたらしく、大正6年(1917)発行の「稿本金澤市史」には、勘太郎川という名は書かれていませんが辰巳用水の分流として書かれています。(地図には水路が描かれていません。)

 

 (大清水)

 

大清水(おおしょうず)と勘太郎川??

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12284426761.html

 

藩政期から少なくとも大正6年(1917)まで(昭和に入っているかも?)は、笠舞用水といわれていたようで、その水路は下記の通りだったようです。

 

小立野新町字亀坂→白山坂の下→虹橋一本松の西南に沿い→新坂→上本多町2番丁→百姓町→中本多町4番丁→鱗町から鞍月用水に合流。

 

 

 

(辰巳用水・天徳院側より)

(亀坂下の谷)

(分流が暗渠になっている旧長谷川町)

(虹橋辺り)

 (一本松)

 

以前にも書きましたが、現在の旧笠舞用水は、行政では勘太郎川1,5km長谷川町排水路0,7kmに分かれていますが、一般には当然、近くの人にも、その名は余り浸透していないようです。行政では何か意味や理由があって、そうしたにでしょうが、PCで幾つかのブログを見ると、両方まとめて「勘太郎川」とし、書かれているものが多いようです。

 

しかも藩政期から昭和までの史料や資料には、勘太郎川と言う名前は見当たりません。見落としもあるかも?藩政期から明治、大正、戦前の昭和も調べましたが、例えば「加能郷土辞彙」「金澤古蹟誌」[稿本金澤市史」にも「勘太郎橋」が有っても「勘太郎川」は記載がありません。最近のブログには、それでも勘太郎川の伝説として「かつて石引地内に勘太郎という人物が住んでいたことからこの名がついたといわれていますが定かではない・・・。」と、勘太郎橋伝説」とよく似た伝説が一人歩きしています。

 

   (勘太郎橋) 

 

どうも、”勘太郎川の名称”は、平成に入ってからように思えてなりません??

 

[参考]

「用水保全条例」:金沢には犀川や浅野川を源とする用水(川)は、55筋、総延長約150kmが流れていますが、藩政期には、戦略、物流や灌漑用水として大切に使われていて、延宝図や以後に発行された絵図には、詳しく描かれていますが、今は、その役割を終え、原型を留めていないところもありますが、今も、清らかな流れは人々の暮らしの中に息づき、街並みに独特の風情を醸しだしていて、金沢市では平成8325日に条例第7「用水保全条例」を制定し保全に力をいれています。

 

 

 (用水の変遷)

 

 

用水の保全とは?金沢のまちなみに様々な表情を醸しだし、潤いとやすらぎを与えてくれる用水。それらを大切に守り育てて、身近な生活環境をより快適で、より安全で、より豊かなものにし、後代に継承してゆくための「用水保全条例」を定めたそうです。

 

[基本方針]

市街地の発展に伴い、さまざまな問題が発生している用水の現状。再生への取組みがはじまっていますが、それには市民一人ひとりの協力が不可欠です。

用水景観:歴史的なまちなみや繁華街の賑わい、閑静な住宅街、緑豊かな自然環境との調和を図ります。

開きょ化:必要以上に幅の広い私有橋の撤去や狭小化を図り、通行以外の目的には使用しないように努めます。

清流確保:年間通水を確保し、定期的な清掃を行い清流の確保に努めます。また、水生生物の生息に配慮した用水環境の形成に努めます。

用水利用:消雪水路や消火用水源としての利用を促進します。また、用水沿いの散策路や親水公園などの整備を促進します。

 

(現在の勘太郎川周辺の用水の名称)

 

その1次指定が平成9年(1997623日に辰巳、鞍月、大野庄、寺津、泉、中村高畠の6用水など5用水が指定され、2次指定は長坂、小橋、中島、金浦、旭の4用水が、3次指定で、九人橋川、母衣町川、源太郎川、勘太郎川が、平成12年(20001221日指定されています。

 

(つづく)

 

参考文献:[金沢の用水・こばし」調査報告書 前期 金沢市教育委員会 平成123月・[歩いてみまっし用水の街『金沢』」金沢市 平成156月など

勘太郎川②旧笠舞用水!?

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【石引2丁目→鱗町】

勘太郎川は、文化8年(1811)の金沢町絵図では、辰巳用水の中石引の35番目水門から波着寺の塀沿いを通り、ぢごく橋から谷を下り一本松までの流れを「御水戸捨水」と書かれています。その御水戸捨水は旧笠舞用水(藩政期の名称は不明)と合流し、勘太郎橋へと流れています。

 

 

「金澤古蹟志」には「此の橋は、波着寺前に有り。一説に、此の橋の本名は樹木橋と呼べりともいへり、辰巳用水の落し水に架けたる小橋なれど、昔より橋名を呼び来たり。但し地獄橋の名義は、如何なる由縁より起れるに詳かならず。「じゅもく」を「ぢごく」と呼び誤りたるべし。」とあります。

 

 (川上新町・笠舞組等図より・金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)

 

[笠舞一本松]

文書での初見は、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、笠舞がけ原・同一本松で、卯辰山の一本松と混同するため、小立野一本松と呼んでいたそうです。続漸得雑記に、「昔は小立野の方片側のみ家並びあるが故、一方町といひたりしを、後人の唱えし。故に此の地に一本松と呼べる松なく、いにしへさる大木の古松ありしの傳説もなし。唯町名を一本松と呼べるのみなりといへり。」と「金澤古蹟誌」第5編城南本多町笠舞筋に書かれています。

 

 

(一本松橋に上から見る合流地点)

(一本松の陸橋)

 

合流した勘太郎川の流れはトンネルを潜ります。「欠原②古今あれこれ」にも書きましたが、昭和14年(1939)軍事用に二十人町1番丁から下菊橋を渡り寺町台へ繋るため二十人坂を造るため、二十人町の崖に二つの陸橋(一本松陸橋・揚地町陸橋)を架け坂にしたことにより、崖下を流れていた川を通すため一本松陸橋側にトンネルが造られました。勘太郎川は、そのトンネルを潜り流れは勘太郎橋へと繋がります。

 

  

(勘太郎川のトンネル)

 

勘太郎橋は、上欠原町や笠舞の交差点とも云うべき要路で、4方の道が集まり、急坂を上がり真行寺の坂から石引へ、陸橋を潜り一本松から小立野新町へ、揚地町陸橋から笠舞へ、また川沿いから新坂や嫁坂、手木町から本多町に繋がっています。

 

 

(勘太郎橋の入口)

 

 

[勘太郎橋]

「金澤古蹟誌」第5編城南本多町笠舞筋によると、「此の橋は一本松の往来に架かり。いにしへ勘太郎と云う人架け初めたり。故に勘太郎橋と呼べるにやいふ説あり、實談なるか。一説には、此の橋邊に勘太郎といふもの居住す。故に橋名に呼べり」とあります。

 

 

(勘太郎橋の出口から揚地町の陸橋)

 

 

 

[稿本金澤市史・笠舞用水]

①現手木橋 ②現本多町四の橋 ③現本多町一の橋 時雨平橋(現百地橋)⑤新坂一の橋 法念寺橋は(法然寺橋とも百姓橋とも)

 

 

余談:橋にも川や道路と同じように起点終点があるそうです。橋の起点は橋の入口で橋の終点は橋の出口だそうです。しかし、どっちが橋の入口で?出口か?よく分りません。よく見ると橋柱に橋名が“漢字”で書た方は起点の入口で、反対側の“ひらがな”で書かれた方は終点の出口だそうです。

 

 

 

それと、橋の名前が勘太郎橋のように「ばし」と濁る場合、反対側の“ひらがな”で書かれている方は「かんたろうはし」というふうに濁らずに記されることが多いそうです。このように濁音をとって記されるのはその橋がかかっている川の水が濁らないようにという思いを込めてそのようにしているらしい・・・。

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 

勘太郎川③倉月用水??

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【石引2丁目→鱗町】

現在の勘太郎川の名称は、何時からそのように呼ばれていたのか?現地へ歩き、図書館や役所へ行き調べていますが、なかなか正解に至りません。そんな時、果たしてこんな事を調べて何の役に立つのだろうか?学者や役所の揚げ足を取るだけではないだろうか?と少し悩ましくなってきます。

 

 

 (思案橋)

 

しかし、一日寝るとそんな事もコロッと忘れ、性懲りもなく、天気が良いと現場で、疲れると本を漁ったりしていると、何となく日々充実したような気になります。はい、目標をデッチ揚げて走るのが私にとって若さを保つ秘訣のようです。お陰で、毒にも薬にも知恵にもならないいい加減な知識を得て自己満足しています。

 

 

(昭和6年の勘太郎川周辺の地図)

 

(旧欠原町下の勘太郎川と名前も知らない橋・右に上がると旧新坂町)

 

 

愚痴はこのへんにして、本題にはいります。勘太郎川は、大正から昭和の始めまでは「稿本金澤市史」によると「笠舞用水」と呼ばれていたらしいが、現在、戦前から残っている思案橋(大正152月架)や勘太郎橋(昭和49月架)も橋標には橋名板や橋歴板が刻まれていますが、川の名前の表示が何処にもありません。しかも、森田柿園の「金澤古蹟誌」を調べていて気付がありました。何とそれは、明治の初期までは「倉月用水」と呼ばれていたらしい・・・?

(詳しくは次回までに、まとめておきます。)

 

 

(新坂二の坂から小立野台緑地に上る坂)

(新坂二の橋)

(上は小立野台緑地)

 

川は崖下の谷の風情を昔のままで、かって旧上欠原町の住民が洗濯をした処には、現在、鉄板の手作りの橋と名も知らないコンクリート橋が架かり、今の小立野台緑地の崖下から昔を感じさせる雰囲気とコウド(洗濯用の階段)が残る嫁坂下の「新坂一の橋」に至ります。

 

 

(新坂一の橋の上にあるコウド)

 (新坂一の橋)

 

「新坂一の橋」から「手木橋」「本多町四の橋」「本多町一の橋」まで、この辺りになると水量は少なく、平素は川の真ん中に造られた狭い排水溝に水が流れています。勘太郎川は、旧本多家の下屋敷と「手木町」の間を犀川の方角に一直線に約400m流れて右に曲がると「百地橋(時雨平橋)」が見えてきます。

 

 

 (手木橋)

(現手木町)

 

[手木町]

金澤古蹟誌によると「此の地は、旧藩中は手木足軽の組地なり。此の人々をば世人御手コと呼べり。故に町名をも御手木ノ町と称す。元禄6年(1693)の士帳にも、本多図書邸地安房守下屋敷御手木ノ町方とあり。按ずるに、延宝の金沢図をみるに、此の地辺り悉く皆三十人組及び小頭の組地なるよし記載す。されば延宝の後三十人の組地に移転し、その跡地をば手木足軽の組地と成したるものと聞ゆ。三十人組は、藩候の御手廻りと称する小者にて、手木足軽とは異也」とあります。

 

(延宝の地図には三十人組の組地は記載がない、見間違えか?)

 

 

 (延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)

 

 

 

[手木足軽]

藩政期、露地奉行の支配で、城内等のお庭の諸事に従事し、お殿様が江戸参勤のときは、荷物の宰領を勤めています。元々手木足軽は、戦場で太刀を持って戦うために召抱えられたもので、力量の検査があり、殊に大男が選ばれたといいます。

 

(現玉泉院丸)

 

 

 

また、寛永11年(16342代利常公が、京より剣左衛門を呼び寄せ、玉泉院丸に築山泉水を造るにあたり、御相撲の者50と御鉄砲の者100人が庭造りをしたという。どうも、この御相撲の者が、御手木足軽の始めではと、森田柿園は「金澤古蹟誌」に書かれています。

 

(手木とは、木やりの人が、手木(十手のようなもの)で、指図をするためのものだそうです。)

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 

勘太郎川④倉月用水??

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【石引2丁目→鱗町】

今さら!!でもありませんが、好奇心に駆られた事を調べていると、つい同じ所に何回も行ったり、本や文書であれば、同じ本の同じ項目を何回も読み返してしまいます。そのためか周辺が見えなくなったり、堂々巡りが始まったりますが、それを繰り返していると「ヘイ!!そうだったんだ!!」と気付くこともあり、新たな発見に繋がっていきます。最も“新たな発見”と言っても、私のような素人にとって新しいというだけで、5万と居るご存知の方には、新しくも何でもないのでしょう・・・けど。

 

  

(今の思案橋・左の小路)

 

今回、勘太郎川を調べていくうちに「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」を何度も読返し、あっちこっちにまたがり書かれた記述を組み直して読んでみたりしても、気付かないことも多々あります。厄介なのは、思い込みという先入観から誤謬(ごびゅう)だと決め付けていることが、見逃しの原因のようで反省しきりです。

 

 

(バス停・思案橋)

 

その際たるものが、今回の勘太郎川で、藩政期には倉月用水と言われていたことでした。これなども“知る人ぞ知る“のでしょうが、私の知る限りでも「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」にも誤りもあり、その文中にある倉月用水と言うのは間違いだという見方をしていました。少し考えて見れば、森田柿園氏も日置謙氏も金沢の人で、しかも森田柿園氏は近くの柿木畠に住んでいたので、倉月用水を間違える筈がないのです。

 

(「金澤古蹟志」の記述は後程引用しますが、鱗橋の項に玄蕃川と倉月用水が鱗町で合流するという件(くだり)があり、やっと納得しました。)

 

 

 

(思案橋から勘太郎川) 

 

 

以下は「金澤古蹟志」「加能郷土辞彙」の関係箇所から引用します。

 

[倉月用水]

犀川の金沢を貫通する間に於いて、その右岸油堰から引水し、厩橋から長町川岸に向かうてながれる。金沢牛右衛門橋油屋源兵衛の書上に、もと岩谷牛右衛門上地に防火用の水溜があったのを、正保年中先祖與助が請ひ受けて、堀の跡に油車を建て、川を穿って常水を通じた。それが川下八千石の地を養って倉月用水と呼ばれることになったと。この田地の石川郡西念新保等十三ヶ村に亙るものである。「加能郷土辞彙 p267

 

上記、加能郷土辞彙には、倉月用水起点が油堰(油瀬木)のように書かれていますが、明治に書かれた金澤古蹟志には、倉月用水という項目はありませんが、以下に引用する玄蕃川や鱗橋などに倉月用水の記述があり、それらによると倉月用水は、今の勘太郎川の本流だと書かれています。

 

倉月用水が、今の鞍月用水の「鞍月」ではなく「倉月」と書くことについてはよく分りません。)

 

 

 (天保期の勘太郎川と玄蕃川)

 

 

[玄蕃川]

金澤古蹟誌には「此の川は、川上覚源寺の尻地なる犀川の川除に水戸口を附け‘犀川より用水を取れり。此の水戸口をば油瀬木と呼べり。此の下流は即ち玄蕃川にて、百姓町通りを流れ、鱗町にて倉月用水川へ合併し、油車へいづる成り。昔、油車屋源兵衛といふもの、油車の地に水車を取建てける時、倉月用水のみにては水勢弱きとて、更に犀川より用水をせき入れ、その流水を百姓町へ通し、油車にそそげり。故に彼の堰をば油瀬木と呼び、用水川をも源兵衛川と俗称せしを、後人誤って玄蕃川と呼べりとぞ。一説に、昔佐久間玄蕃のとき、この用水が通ぜり。故に玄蕃川と称すといえども、非也。後人の附會なるべし。と書かれています。「金澤古蹟志 第5編 13P57より」

 

(上記によるとは、今、鞍月用水起点の油瀬木から鱗町で今の勘太郎川と合流するまでの流れが「玄蕃川」だという事が分ります。)

 

 

(川御亭の標柱)

 

[川御亭]

今、上本多町川御亭と称し、町名とす。此の地は倉月用水川たる思案橋の西方を呼べり。右用水川に当たりゆゑに川御亭といふと。但し川御亭とて此の地に藩候の離亭ありたる事、詳らかならず。一説に、昔本多氏下邸岩問屋の圏内に亭ありて、近き頃まで亭の跡とて礎石が残れり。此の亭ありし地は思案橋の近辺なれば、此の事をばそのかみ川御亭と呼びたりし故に、此の地辺に川御亭の遺名あるにやといへり。「金澤古蹟志 第5編 12P40より」

 

岩間屋:藩政期、本多家下屋敷のことを世の人々は“岩間屋”と呼んでいました。藩政初期には、今の牛右衛門橋(現金澤町家情報館前の橋)当たりに屋敷があり、後に故あって禄を辞し、藩から退去し、その跡が本多家下屋敷になり、その辺を岩間屋(岩谷が訛ったものか?)と呼んだそうです。万治2年(16593代利常公が逝去され、小松附諸士が金沢に戻り、この地が藩の用地になり、本多家下屋敷は手木町口に移りますが、人々はその辺り本多家下屋敷を旧地名の岩間屋と呼んだという。)

 

 

(思案橋)

 

[思案橋]

現在、思案橋の名前の由来として流布されているのは、この付近に加賀の筆頭家老、本多家の別邸があり、そこに通う本多の殿様が、”今夜は酒にしようかそれともお茶にしておこうか”と思案したことからこの名がついたと、誠しやかにいわれています。

 

しかし「金澤古蹟志」にある「金沢橋梁記」の引用を要約すると「思案橋」は本多家中(かっちゅう・家臣が住む下屋敷)にあり、この橋は倉月用水川(今の勘太郎川)”に架けられていた。三州名跡誌には、本多氏の元祖安房守政重、加賀藩士と成り金沢へ来た頃、男達の気負い者が多く召仕えていて、この者ども毎日この橋へ出で今日は“西へいこうか東へ往んと「思案」していたので橋名に呼ばれる事とになったと。

 

また、柴野美啓の「亀尾記」を要約すると、この辺りは、石浦野という荒地で、賊魁安藤四郎・藤塚小太郎・同伊豆という者が、この辺り潜伏し居いたが、天正八年柴田勝家により討亡されたという。その頃「しあん某」といふ者がこの地に居住していて、それ故に「思案橋」の橋名に遺されたそうです。一説には、本多氏元祖安房守政重が加賀藩へ勤仕した時、諸国から集まった武士も就いて来たそうで、その中に侠客を名乗る若者達が、いつもこの橋の上に集り、東へ行こうか西へ遊びにいっくか思案していたということから「思案橋」の名が起ったという言い伝があるとか、今按ずるの、両伝説はいずれが正説なのかと結んでいます。「金澤古蹟志 第5編 12巻 P41など」

 

 

 (今の鱗町)

 

[鱗町]

元禄9年(1696)の地子肝煎裁許附に、犀川荒町、いろこ町とあり、此の時代にいろこ町も呼んだりけん。此の町名の起源は詳かならず。此の町は犀川荒町の上にて、倉月用水の川縁より、百姓町への往来なる片原町の町家を呼びたるかど、明治4年(18714月町名改革の時より、荒町と合併して鱗町と称せり。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P48より」

 

 

(今の鱗橋辺り・コンクリートの下に勘太郎川)

 

[鱗橋]

金澤古蹟志によると「金澤橋梁記」に、うろこ橋うろこ町とあり、此の橋は玄蕃川と倉月用水との落合に架けたる往来橋也、右両水皆犀川の分水なりしかど玄蕃川は近き所なるゆゑ、毎も清潔にて水澄みたり。然るに此の橋下にて、清濁の二水落合ひけるに、清濁常に振分れ見るが故に、俗に澄濁橋と雅名す。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P49より」

 

参考ブログ

油瀬木から子守川股地蔵尊まで《鞍月用水①》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11812568033.html

 

牛右衛門橋からあかね屋橋まで《鞍月用水②》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11814781550.html

 

(延宝の金沢図より・勘太郎川と玄蕃川周辺)

 

これらを読むと、今の「勘太郎川」は藩政期に倉月用水と言われていたことが分ります。しかし、書かれたものでは「思案橋」まで、延宝金沢図では、その先に二筋の川に繋がっています。一筋は今の勘太郎川、もう一筋は、今の猿丸排水路と菊川雨水幹線が合流したもので、どちらの川筋が昔の倉月用水か断定しかねます。

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

勘太郎川⑤本多家下屋敷の外濠?ウソ!!

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【石引2丁目→鱗町】

ホント??今回、調べていて私が勝手に思ったことですが!?勘太郎川(倉月用水)は、延宝金沢図(167381でも全長1,4km。その内、約1kmが本多家の下屋敷の外側に位置し、合流する鞍月用水やお城の西外惣構も含めると、10万坪以上と言われた本多家下屋敷(家臣や分家の居住地で安房殿町〈家中町〉)を囲むように造られています。なにも外濠という大げさなものではなくても、他の町との区切りになっていたのではと思われます。

 

詳しくは 石川県立図書館 延宝金沢図 「検索」

 

 

(大乗寺坂より本多町下屋敷を望む)

 

 

それはそれとして、前回、書いたのは「思案橋」まで、飛んで「鱗橋」「鱗橋」を書きましたが、今回は、その間の2つの橋とその周辺に町や寺院にまつわる藩政期のお話です。

 

 

 (黒い線が今の勘太郎川・鞍月用水・西外惣構の堀)

 

(百姓町の標柱)

 

[百姓町]

一向一揆時代には、上石浦村の村落(下石浦町は今の香林坊辺り)でしたが、藩政初期、金沢の町地が追々広まり、村民は町人のなり、村落には町家が建ち、町名も百姓町と呼ぶようになったと伝えられています。

 

(石浦村は、石浦郷七村の一つで、一向一揆時代は安房殿町より長町にかけ法船寺馬場(現中央通町)まであり、藩政期にはことごとく武士、工、商の家屋敷となり、旧下石浦村の裏町には百姓家が長く残り、「金澤事蹟必録」にも石浦村百姓は“34軒残れり”とあり、また、「亀尾記」には、今、田地の草高は「五っ免」で、わずか29名遺れり、その草高は他村に組み込み、その農民も町人となり、その地を百姓町と称したというと書かれているそうです。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

(今の法然寺橋)

 

[法然寺橋]

現在の橋(現遊学館高校前)には、橋名は何処にもありませんが、「金澤古蹟志」や「稿本金澤市史」「加能郷土辞彙」にも書かれていますが、藩政初期の石浦神社の「冩絵図」には法然寺が描かれていて、その前に橋が描かれています。法念寺橋、百姓橋ともいわれていました。

 

 

(石浦神社の「冩絵図」)

 

影向山法然寺は、浄土宗西山禅林寺派。開祖は屋譽貞雲和尚で慶長8年(1603)建立。百姓町(現幸町)の今の勘太郎川(倉月用水)の袂にあり、9代来空の享保15年(1730)に現在地(菊川2丁目38)に移転しました。改作旧記には、寛文(16611673)の頃、犀川川下(仁蔵辺り)に寺があり、“ねい”という女が放火し、寛文6年(1666416日、犀川川下の法然寺下川原で釜煎にされたとあるそうですが、寺記には寺がそこに有ったことも放火のことも記載がなく伝承か・・・。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

 (お銀小金の地蔵さん)

 

 「伝説“お銀小金”」

法然寺に伝わる物語に、「お銀小金」の伝承があります。粗筋は血のつながらない姉妹同士の深い人間愛を描いています。加賀藩士の父が江戸詰めで留守の間、お銀は継母にいじめられ、ついに犀川の河原に掘られた深い穴につき落とされたという。母が違うとは言え、お銀を慕っていた妹の小金は、お銀の居場所を探し当て、自らも穴に飛び込んで果てたといいます。継母は、その死を知ると「わが子かわいと思えば他の子こそ大切に」と改心し、懺悔し自ら髪を切って子供たちの冥福を祈る長い巡礼の旅に出たというお話です。

 

このお話が有名にしたのは、泉鏡花の名作「照葉狂言」の冒頭に主人公の少年(貢)が子供の頃、“おばさんの語り”として聞いた「お銀小金」のお話です。

 

青空文庫:「照葉狂言」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4561.html

 

金澤古蹟志では・・・

小金之墳墓は、「法然寺境内の卵塔場(墓場)にあり。旧伝にいう。昔、この地辺は法島河原で、その犀川の河原だった頃、此の所に於いて男女情死す。“こきん”はその頃の娼妓で、男女共に白接束にて水盃をし、いさましき体にて情死していたと。則ちその所に男女合葬せし墳墓是なりと言い伝えたり。共の年月等は伝承せる・・・とあり、その頃は法然寺がこの地に来てはいない」云々と書かれていています。「お銀小金」の話は後に子供に異母姉妹の情愛を伝えるために創作されたもののようです。「参考:金澤古蹟志」

 

 

 

(石浦橋の橋名板)

 (石浦橋)

 

[石浦橋]

法然寺橋から本多家下屋敷の境界を示すように勘太郎川(倉月用水)が流れ石浦橋に至ります。藩政期の橋名は何と言ったのかは定かではありませんが、本多家下屋敷の一つの出入口だったと思われます。橋を渡ると200m先に一向宗慶覚寺があり、左右に繋がる街は、かって下屋敷の買い廻り品の店が建ち並び、また、慶覚寺の門前町だったことが窺えます。また、橋の欄干は上(かみ)の片方だけで、下(しも)は暗渠になっていますので欄干がありません。確か、昭和30年代には開渠で、右側が自転車と人が通れるだけの細い道だったような記憶が蘇ります。

 

 (旧百姓町の通リ・突き当たり慶覚寺)

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 

勘太郎川⑥産業用「水車」

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【石引2丁目→鱗町】

金沢の水車は、かっては小橋用水で利用され、今、児童公園に設けられた遺産としての木製水車しか見ることができません。金沢でも全国の水車同様、電動機や蒸気機関が普及するまで、揚水・脱穀・製粉・製糸・菜種油などに利用され、藩政期には、線香の製造や火薬の製造などに動力として使用されたという文書がありま。第2次世界大戦後には電動機や内燃機関の普及により国内では衰退します。むろん金沢でも同様でした。

 

(油屋源兵衛の水車があった言われるところ)

 

(元町の小橋用水の水車・2013年撮影

 

(以前には石川県立歴史博物館にあった金沢製糸場の大型の水車の原寸大の模型がありましたが、今はありません。)

 

(金沢製糸場正面に水車が)

 

[水車の歴史]

動力機関としての水車は紀元前2世紀頃小アジアで発明されたといわれています。この発明は、水カエネルギーを最初に動力源としますが、生活に溶け込んだ動力手段としてギリシャにおいて紀元前に小麦の製粉に使われてきたといわれています。因みに歯車は紀元前3世紀にエジプトで使用されていたそうです。

 

日本では「日本書紀」によると推古天皇18年(6103月、高句麗から来た僧が、「てんがい(碾磑)」という水車を伝えたのが初めとされています。日本最古といわれるものは鎌倉期(1290年代)伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」の料紙下絵に宇治の揚水水車が描かれているそうです。以来日本の風土に同化しながら、揚水用や動力用として江戸時代中期(1700年代)には全国に普及したといわれています。

 

 

 (「金沢の用水めぐり」より)

 

金沢では、前にも書くましたが、正保年間(16441648油屋源兵衛が菜種油を取るための水車慶安4年(1651)波着寺横で藩直営の銃薬製造の水車そして文化2年(1805)亀坂で水車を利用して丹波屋(初代太田某)が線香場を操業するなど、辰巳用水の分流(今の勘太郎川系)で、揚水・脱穀・製粉・製糸以外に利用されているのが注目に値します。

 

(戦前の地図・勘太郎川の水車の位置)

 

今回は、明治期に勘太郎川で産業用の水車を拾い上げ、誰が何処で何をするために水車が利用されたかを調べて分ったことだけですが書くことにします。

(資料が少ないので、ご存知の方がいらっしゃいましたらご投稿お願いします。)

 

(旧百姓町の勘太郎川)

 

[百姓町の水車] 金沢市百姓町107(現幸町415

葵製糸場の水車 明治24年(1891)に本多家の士族授産事業として製糸業操業。その後、同じ製糸業で柳水車(柳のドンド)となり柳有隣が経営します。明治34(1901)2月、友田安清と実弟の吉村又男で友田組陶磁器顔料製造所を創業。倉庫風の建物の中で1馬力の鉄製水車が廻り、ハイカラ水車と呼ばれていたそうです。

 

 (この奥の左側に旧百姓町の水車のあったらしい)

 

[友田安清]

日本の陶芸家であり実業家。加賀金沢藩士の子。旧姓は木村。内海吉造、岩波玉山に陶画を幸野楳嶺、岸竹堂に日本画を学び、更に美術工芸品貿易商でありデザイナーの納富介次郎に着画技法を、また、ゴットフリート・ワグネルに顔料調整法を学んだ。明治22年(1889)に石川県立工業学校教諭、明治32年(1899)から7年間、兵庫県出石の陶磁器試験所々長として出石焼の改良指導にあたる。その間、明治24年(1891)には金沢に実弟吉村又男が柿木畠に陶磁器工場友田組を金沢に起し、傍ら洋式顔料の製造を始め実弟・吉村又男と共同経営。明治35年(1902)には水車の動力を利用するため柳水車に移転。やがて林屋次三郎氏の林屋組に参加。林屋組は明治41年(1908)旧藩主前田家や筆頭家老の本多家らの援助を受け、地元有力者によって長町に日本硬質陶器株式会社(現ニッコー株)と改称し、友田安清は、明治41年(1908)以来技師長を務め製陶を指揮、主に海外輸出用の食器類を漸進なデザインと形状で製造し薄利多売方式で販売、そのほか内国博覧会などの審査員なども勤めた。大正7年(19187月死去。享年57歳。

 

 

(旧鱗町の勘太郎川・暗渠右側に長田の水車があったらしい)

 

[長田の水車]金沢市鱗町14(現本多町3丁目1122

長田伊三郎氏経営。当初の主力は、精米・製粉・友禅染用糯粉(もちこ)製造少々であったが昭和10年(1935)頃には、半々になります。水車は木製で、材質はクサマキ、直径7,2m、幅2,7m、マス間91cmで修理は家大工。昭和15年(1940)稼動停止。戦後、稼動しますが水量が少なく能率が悪いため昭和22年(1947)に電力に切り替えるが、昭和34年(1959)中止。

 

[岡田の水車]金沢市鱗町15(現本多町3丁目・・・)岡田某経営

 

 (鱗町の勘太郎川・暗渠の右側に金田の水車があったらしい)

 

[金田の水車]金沢市茨木町72(現本多町3丁目1213

金田徳蔵、先代金田常吉、2代金田常吉経営。明治6年(1873)操業開始。木製水車(クサマキ)精米・製粉。昭和17年(1942)企業合同で食糧営団となり、精米を中止した。昭和24年(19499月より電気動力にした。製粉のみと 森八の銘菓「長生殿」の糯米粉(もちこ)最中の皮用の糯米粉(もちこ)を製造。

 

 (おわり)

 

参考文献:「金沢用水・こばし」調査報告前編 金沢市教育委員会 平成123月発行ほか

 

本多町界隈と一向一揆伝説①

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【出羽町・本多町界隈】

最近、リハビリを兼ねて散歩をします。コースは、石引の家を出ると、幾つかある道を気まぐれで一つ選び本多町界隈を目指します。その辺りは崖の上と下で、地形も複雑で道も狭く昔から公共交通機関もなく、車が普及してからも駐車が不便で、私も歩いて行くのは”大乗寺坂“や石川県立美術館裏の“美術の小径”から本多町の図書館へ行くくらいでしたが、ここ3ヶ月、いろんな道があるのを思い出し散歩やサイクリングをしています。

 

 

 (美術の小径)

 

前回までは、辰巳用水の分流”勘太郎川“沿いを下ったり上ったりして一人遊びをしていていましたが、最近は少し飽きて”よそ見“をするようになりました。昔、何気に素通していた道にも古い家が残り歴史が感じられ、断片的に憶えていた”一向一揆伝説“が繋がりだしました。

 

 

 (美術の小径の隣りに今年復元された歴史の小径)

 

この辺りには一向一揆で、「釈賊」「賊衆」といわれた有力土豪の所縁のところが幾つもあるのに気付きました。それは、一向一揆初期の旧百性町慶覚寺の“洲崎慶覚”であり、油屋源兵衛の先祖の“河合宣久”石浦砦の“石浦主水”石浦主水の叔父で今国立医療センターの“松田次郎左衛門”それに後期の“山本若狭守家藝”の屋敷跡や所縁のところが歩いて廻れる範囲にあり、今度はそれらを詳しく知りたくなりました。

 

 

 (慶覚寺)

 

藩政期には、一向一揆についてはタブーで、今、残されている資料は伝説・伝承や後の推論と思われるものの引用が多く、史実かどうかはよく分っていませんが、伝説・伝承として興味深い口伝が今も数多く残っています。それらは「火の無いところに煙は立たない」の喩えを借りれば、伝説は煙であり、煙の向こうに「何かが見えたらどんなに楽しいだろう」という思いから、また、金沢に住むものとして約500年以上前、どのような体制で何が起こりどのような変貌を遂げたのか、そして、どのように生きたかを知る統べになればと思います。

 

 

(河合宣久の子孫油屋源兵衛が水車を使い菜種油を採る)

 

[一向一揆とは]

応仁・文明の乱では、国の秩序も乱れ、それに乗じて北陸でも「ワタリ」「タイシ」と言われた土豪が蓮如の教えを精神的な支えに、荘園の押領行為を繰り返し旧勢力に対抗していました。文明6年(1474)の「文明の一揆」は富樫家の内紛に関与したものでしたが、文明13年(1481「越中の一揆」においては旧勢力VS一向宗(蓮如の連枝井波の瑞泉寺)と土豪軍の図式で戦い、一向宗側が勝利し、さらに長享2年(1488)の「長享の一揆」に至り、一向宗と土豪の連合軍が守護富樫政親軍を滅ぼし、加賀は「百姓の持ちたる国」と言われるようになりました。その後、享禄4年(1531)には一揆の内戦による「享禄の錯乱(大一揆田VS小一揆)」小一揆の地元蓮如連枝の寺(若松の本泉寺・波佐谷の松岡寺・山田の光教寺)と土豪軍が潰え、加賀は天正8年(1580)の織田軍進攻まで本願寺が治める国だったと言われていています。

 

 

 (石浦主水・山本若狭守の館跡)

 

≪参考≫

“応仁・文明の乱” 応仁元年(14675月、将軍義政の弟義視と実子義尚の相続争いが、斯波、畠山両家の内紛におよび、ついに全国ほとんどの地域を戦場にしてしまいます。これを期に世間の騒動は、まるで荒野に戦車を突き進ませるようなすさまじさで展開します。終焉は文明9年(1477)でした。

 

(本多町周辺・安政期の地図)

 

“加賀の文明の一揆(文明6年(1474))

東軍(細川勝元)赤松・朝倉(西軍を裏切り東軍へ)など 富樫政親・・・・本願寺・白山衆徒  (勝利)

西軍(山名宗全)畠山・斯波など・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 富樫幸千代・・・高田専修寺派  (敗北)

 

“越中の一揆” 文明7年(1475)蓮如が吉崎を退去したころ一揆勢は弱体化します。体制の挽回を図りますが、富樫政親の弾圧がはじまり、坊主・門徒は越中に逃げます。文明13年(1481)越中の福光城主石黒光義富樫政親に呼応して医王山の天台宗惣海寺衆徒と語らい井波瑞泉寺を襲う、一揆軍が防戦に当たるが、湯涌次郎右衛門が率いる湯涌谷勢らの加勢もあり一揆軍が勝利しました。

 

越中の3分の1の砺波郡が「一向一揆の持ちたるような国」になります。この戦いで自信を得た一揆軍が、後に富樫政親に挑み「長享の一揆」に勝利する切っ掛けになったといいます。

 

(現国立医療センター・松田次郎左衛門の城跡)

 

“百姓の持ちたる国” 学校では、加賀は中世の一時期、一向一揆によって約100年間、農民による自治が行われたと学び、石川県を紹介するいろいろなものにもその様に書かれています。これは蓮如の10男実悟の「実悟記拾遺」に述べられた「・……近年は百姓の持ちたる国のようになり行き候ことにて候。」から誤解して伝わったもので、当時は、今われわれがイメージする百姓とは違い、農民=百姓とは全く異なるもので、百姓を被支配階級と理解すべきです。したがって長享の一揆では支配者が守護大名から土豪と連枝の寺に代わり、享禄の錯乱では支配者が本願寺に代わったと理解すべきです。(当時、守護は傀儡で存在していました。)

 

(つづく)

 

参考:ウイキペディアフリー百科事典ほか


本多町界隈の一向一揆伝説②洲崎慶覚その一

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【出羽町→本多町界隈】

百姓町の慶覚寺新竪町の床屋に中学の同級生が働いていて、学校帰りに慶覚寺経由で散髪に行った時に知ったのが初めでした。それから、半世紀が過ぎ、ボランティアガイドを目指し、座学を補うためバイクでの街巡りで、慶覚寺が一向一揆の洲崎慶覚のお寺だということを知ることになります。また、幕末に江戸・京都・大阪で活躍した金沢の俳人桜井梅室のお墓があると聞き見に行ったこともありましたが、それだけに終わっていました。

 

 (慶覚寺)

 

その頃、遠縁の法事で慶覚寺のご住職にお会いする機会があり、その場で、住職が自ら先祖は“海賊(湖賊)”でして、と言っていたのが頭に残っていたのですが、そう、調べるチャンスは幾らでも有ったのに、あれから10年以上が過ぎていました。

 

[慶覚寺(きょうかくじ)]

慶覚寺は、金沢市の百姓町(現幸町)にある真宗大谷派の寺院で、山号を洲崎山と称します。ご本尊は蓮如から直に下賜された高さ48分の阿弥陀如来像で行基作と伝えられています。開山開基慶覚為信は、永享5年(1433625日、もと近江国浅井郷の郷士洲崎次郎右衛門の次男(3男とも)として生まれ、長禄元年(1457)京都東山の大谷本願寺で8世蓮如の弟子となり、慶覚の号を拝命。文明8年(1476)に米泉村(金沢市米泉町)に住み着いて道場を開きます。寛文元年(16613代慶順の代になって金沢市百姓町(現幸町)に移り慶覚寺の寺号を受け現在に至ります。

 

(比叡山と堅田と琵琶湖の図)

 

[洲崎慶覚為信の半生]

洲崎慶覚為信の生没は永享5年(1433)~永正6年(1509)。室町後期の近江の土豪の出で 洲崎兵庫とも称しました。永享11年(14397歳の時、近江天吉寺山頂の天台宗霊場大吉寺で僧となり、山伏より薙刀を習い、文安4年(1447)伊吹山で山伏となり火乱坊明覚を名乗り、宝徳3年(1451)近江甲賀の飯道山に行き「飯道山の四天王」と呼ばれていたといいます。享徳4年(1455)関東を経て奥州まで旅し、翌年近江に帰り堅田で一向宗門徒の娘と所帯を持ち“湖賊”になったといいます。長禄元年(1457)金森(現守山市)の道西・堅田の法住らと共に京都東山の大谷本願寺で8世蓮如の弟子となり、法名慶覚を授かります。

 

 (比叡山と堅田と琵琶湖)

 

 寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒に大谷本願寺を破却されたとき蓮如をかくまい、翌年山門衆徒と高田専修寺門徒の襲撃から救出し、応仁2年(1468)年324日、将軍義政及び延暦寺による堅田湖賊討伐(堅田の大責め)に、堅田衆と共に興の島に避難します。慶聞坊(道西の甥)、下間頼善(蓮如に仕えた坊官)と蓮如の供をして、北国東国へ巡錫し、文明2年(1470)山門との和平成立し堅田に戻ります。

 

 

(比叡山に追われる)

(逃れて越前吉崎へ)

 

 文明3年(1471)蓮如とともに越前吉崎に行き、蓮如の4男蓮誓を後見し、加賀守護富樫政親と交渉に向かい、加賀に居住します。文明5年(1473)蓮如は守護の保護を受けるため、富樫政親の要請を受けて富樫家内紛に介入し、翌年富樫幸千代を倒しますが、富樫政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じ、文明7年(1475)門徒弾圧を開始し、加賀門徒とともに越中に逃れ、文明10年(1478)加賀松根道場を任され、河北郡松根に館を構え、浅野川以北の北国街道沿いの森下・柳橋・小坂・大樋までの荘園を押領します。

 

(押領(おうりょう):平安時代中期以後の荘園制下において武力などの実力をもって他人の所領や年貢などの知行を侵奪する行為。本来は不法行為に相当するが、室町時代末には、北陸の有力土豪が、都の公家の荘園の年貢の押領し勢力を増し、正当な権利者によるものも含めて実力行使を行ないます。)

 

(松根城)

 

これに対して被害を受けた者(公家等)は知行回復の訴訟を行い 越中砺波郡の石黒光義が政親と結んだ門徒弾圧に対抗し、文明13年(1481)越中一向一揆を起こし光義を討ち取り、富樫政親は加賀支配の承認を得るため将軍義尚の六角高頼遠征に従軍しますが、戦費の拡大に反発した国人層と結んで決起します。

 

洲崎慶覚ら一向一揆軍は、長享2年(1488)富樫泰高(傀儡)を守護に擁立し、富樫政親を高尾城に滅ぼしました。慶覚は、後に道場を米泉に構え、蓮如から授かった行基作の阿弥陀如来像を安置し、米泉、西泉、泉野の3泉(現金沢市犀川以南、伏見川流域周辺)を領地とし、かってに「泉入道」と称号を唱え、米泉に道場を構えます。

 

《ワタリ》

近江国琵琶湖湖畔の本願寺門徒は土地から土地を自由闊達に渡り歩いた自由人であったといいます。彼らは蓮如上人の越前吉崎入りに力を貸し、一向一揆には「外人部隊」として登場します。近江門徒の頭の名前は法住(ほうじゅう)といい堅田の人でした。彼は坊主でありながら染物業を営んでおり、配下の者の生業も油屋、麹屋、研屋、桶屋等が多かったそうです。

 

法住らは寛正6(1465)本願寺の勢力拡大を恐れた比叡山の手で京都を追われ、蓮如を6年間かくまい、琵琶湖経由で越前吉崎へ送り届けます。危険をあえておかした行動は蓮如に対する厚き信頼のみならず、法住一門が当時貨幣経済の発展で資力を蓄えたことが自信に繋がりました。

 

「自分は門徒にもたれて生きる」と言いきったという蓮如は、こうした新しい処世観をもった近江門徒との出会いで固まったといわれています。法住の自坊である堅田本福寺には「本福寺門徒記」や「本福寺跡書」の古文書が残り、貴重な歴史資料になっています。法住たちは精力的に活動し吉崎のみならず、「加賀、能登、越中、信濃、出羽、奥州、因幡、伯耆、出雲ヘ越シ商ヲセン」とあり、教線の拡大が商圏の伸張にも繋がったといわれています。

 

(つづく)

 

参考: PCより「慶覚坊の略歴-酔雲庵」

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi_kavPwMbVAhXHw7wKHSCSCZwQFghOMAk&url=http%3A%2F%2Fwww.suwiun.net%2Fnewpage276.html&usg=AFQjCNGIy1ia4bFxrEznrKKkPzdmHOQs2Q

ウイキペディアフリー百科事典( ‎Wikipedia)他

 

 

本多町界隈の一向一揆伝説②洲崎慶覚その二

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【出羽町→本多町界隈】

洲崎慶覚坊について、前回、勝手に本人が「泉入道」と名乗ったと書きましたが、それを後世の人がご丁寧に?「和泉守」と四等官(官員)のように“守”が付いている文書もあります。それらはみんな誤であると森田平次(柿園)が「金澤古蹟志」に書いています。また、諸旧記には洲崎兵庫はみな同人のように載っていますが、その事実は判然としません。当然、利家公から扶持を給わったという洲崎兵庫も、慶覚坊より遥か後の子孫のようです。

 

(慶覚寺境内)

 (慶覚寺境内)

 

今、天神町の椿原天満宮の石段脇の狼煙の松の説明板に書かれている椿原砦を築き屯所にしたという洲崎兵庫も大小一揆(享禄の錯乱1531)時代の人で、洲崎慶覚坊(永享5年(1433)~永正6年(1509))の後の子孫で別人であると言えます。

 

椿原天満宮の狼煙の松の説明板)

 

 

[洲崎慶覚坊、松田次郎左衛門謀殺事件!!]

洲崎泉入道慶覚坊伝によると、「タイシ」の河北郡の棟梁、松田次郎左衛門で田井城(今の国立医療センター)の城主とは、洲崎慶覚坊はライバル関係にあり、慶覚坊は虎視眈々と河北郡を獲ろうと狙っていました。ある時、和睦を持ちかけ、米泉の館の招待し、酒宴中に謀殺します。詳しくはこのシリーズの松田次郎左衛門に書きますが、今回は「金沢古蹟志」の洲崎慶覚坊傳の一部分を引用します。

 

 

 (松田次郎左衛門、慶覚に滅ぼされる!!)

 

[州崎慶覚坊傳]

加賀古跡考に云う。昔、長享年間洲崎泉入道といふ一揆大将、並に一族兵郎十郎左衛門・孫四郎等.石川郡泉村の辺りなる村に居住す。其の館跡は何れの地とも知れざれども.今米泉村に兵庫の塚といふあり。此の辺地泉米泉など、何れも皆一族の居住所なるべしといへり。亀尾記に.米泉村に洲崎泉入道慶覚坊の古墳あり。

 

村中字駒坂といふ所にあり。古松ありしかども近年立枯れと成る。といへり。按ずるに.泉入道が居館は米泉村にあり。飛耳集録に、昔、当国尾山の城本源寺の家老松田次郎左衛門は、河北郡の棟梁として小立野宝憧寺坂を城郭となし、尾山城の押さえに蟠居す。其頃、河南米泉郷に洲崎兵庫と云ふ者あり。石川郡の押領使として、.数年本源寺と威を争ひ、.折を伺ひ河北を取らんと人を巧み謀る事歳久し。然るに松田と和睦し、次郎左衛門を米泉の館へ招き、酒宴中に次郎左衛門を討取り、夫より彼居城等へ又軍を向け、松田が甥石浦主水の居城石浦砦等を不日に攻略す云々。といへり。・・・・・・・・(この後に書かれているのは、同名子孫の記事なので省きます。)

 

○出典は金澤古蹟志第513p53

 

 

 (慶覚寺本堂の甍)

 

参考ブログ

俗諺(ぞんげん)聖徳太子直作の木像

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10909421544.html

 

 

PS:[慶覚寺のご本尊伝説]

 金沢近郊(今は金沢市)に三小牛山(みつこうじやま)という小高い山があります。芋掘藤吾郎伝説にでてくる山で、地名の由来は、昔、金・銀・鉄の精が三匹の子牛となって出たという「亀尾記」などによると、大晦日の夜に藤吾郎のところに黄・白・黒の三頭の子牛が門に入り、翌朝よく調べると、金銀鉄の三つの塊(兜)だったといいます。

 

 (今の三小牛山より金沢を見下ろす)

 

藤吾郎はこれを阿弥陀、薬師の仏像に鋳しめ安置し、残余の金銀は全部人に施したと云う。その阿弥陀像は、後世洲崎慶覚の安置仏に、今は末裔慶覚寺のご本尊で、薬師像は寺町の伏見寺のご本尊だと伝えられています。また、藤吾郎の妻和五の守り本尊の観音像は卯辰山の観音院のご本尊だと云う・・・

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 

慶覚寺(金沢市)Wikipediaにご本尊に写真が載っています。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi8o8fK487VAhXIvbwKHRI9BIgQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%2585%25B6%25E8%25A6%259A%25E5%25AF%25BA_(%25E9%2587%2591%25E6%25B2%25A2%25E5%25B8%2582)&usg=AFQjCNF21ww2PTdz-NflpkxT1hX6k15N7w

 

 

 

本多町界隈の一向一揆伝説③河合宣久

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【出羽町→本多町界隈】

昔から竪町の油屋多田家のご先祖は一向一揆の大将で、前にも書きましたが、その子孫油屋源兵衛が藩政初期、牛右衛門橋辺りで、油を絞るために水車を廻し、水勢が弱いので、今、鞍月用水といわれている犀川の油瀬木から鱗町までの玄蕃川(源兵衛川)を開削したといわれています。

 

 

(多田家五百年の歴史)

 (油車)

 

以後、藩政期、明治、大正、昭和と多田家の油屋は竪町にありました。昭和46年(1971)に事務所や住宅を竪町に残し、工場や倉庫を市内の別のところに移します。今、竪町の敷地には、平成2年(1990)完成した3階建てのHOUSE1991というテナントビルと駐車場、コミュニティハウスがあり、さらに多田家の会社事務所と住宅になっているそうです。

 

 

(五葉松と多田家の駐車場)

 

今、昔の多田家を偲ぶものに、駐車場の隅に樹齢約500といわれている“しめ縄”が巻かれた「五葉松」が現存しています。もとは多田家が代々手入れされてきた“盆栽”だったといわれ、この庭に移植されたのは、今から約200年前の文政の頃と聞いています。

 

 

 (しめ縄の五葉松)

(HOUSE1991から駐車場)

 

[河合藤左衛門 宣久(多田五郎政晴)]

生年不詳~享禄4年(1531)は、戦国時代前期の加賀一向一揆の大将。通称は藤左衛門で、子は右京亮虎春。摂津の清和天皇源氏の流れを汲む多田氏の出身で、由緒書には「姓は源氏、摂津国多田家の氏族は居住したが、103代後土御門院天皇の御代文明中越前に下り、朝倉家に仕え、その後禄を辞して加賀国能美郡河合村(現白山市河合町・旧鳥越村の手取川本流筋の村)に来住して河合藤左衛門宣久と改名、遂に父子郷士となる。本願寺の麾下の宿老の一人」と書かれているそうです。

 

 

 (現在の五葉松)

 

長享2年(1488)本願寺門徒らが加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼした「長享の一揆」では、石川郡富樫庄久安村に城を構え、洲崎慶覚坊や石黒孫右衛門らとともに一揆方の大将を務め、加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼしたという。河合宣久の麾下の部隊は富樫勢の大将本郷春親とその子松千代丸を討ち取り、富樫政親を自刃に追い詰め、加賀を百年近く仏法領国とし「百姓の持ちたる国」といわれ、一向宗は能登・越中と拡大させます。

 

 

(現在の高尾城・タコ城)

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

永正3年(1506河合宣久は、加賀、能登、越中の門徒に甲斐氏の牢人らが加わり越前に侵攻した九頭竜川の戦いで、朝倉宗滴の軍勢に敗れます。その後大一揆といわれた本願寺で実権を握る蓮淳が派遣した下間頼秀・頼盛兄弟と加賀や越前から逃れて加賀に入っていた超勝寺(蓮淳の婿)や本覚寺と組み、小一揆といわれた賀州三ヶ寺(松岡寺・光教寺・本泉寺)の所領を横領し、加賀の門徒衆と軋轢を起こして内紛状態になり、河合宣久小一揆は蓮悟らと能登の畠山氏を頼ります。

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

享禄4年(1531)越前から大一揆朝倉宗滴の軍勢が援軍(超勝寺や本覚寺が越前の戻るのを阻止するためか?)として加わり合戦となると、これに呼応して畠山家俊の軍勢と河合宣久は加賀国に侵攻しますが、下間頼秀らの大一揆の軍勢に敗れ、河合宣久は、享禄4年(153141028日(旧暦126日))に討ち死しといわれています。

 

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

河合宣久の子河合右京亮虎春はその戦で生き残り、後に河合藤左衛門と改称し、倉ヶ嶽麓の石川郡坪野村(現金沢市坪野町)へ退隠し、法躰して才覚と号します。その子源兵衛が松任へ出で町人と成り、坪野屋源兵衛と名乗り、始めて種油を製造します。その子は藤左衛門と云い、藤左衛門の子は多田油店の祖與助です。寛永(16241645)の頃に金沢へ出て木倉町に居住し、種油を商売しますが、正保年中岩谷牛右衛門(今の油車)の揚地を賜り、倉月用水を取入れ、初めて水車を建て、種油を製造したのが、後の多田油店です。

 

 

 

PS: 河合宣久と油屋源兵衛を調べながら、亡き友のことが脳裏をよぎります。40数年前、彼は多田家の遠縁だと言っていたことが蘇ってきました。当時は河合宣久も多田家も知る由もなく、すっかり忘れていましたが、多田家の家譜に、彼と同じ苗字を見つけ思い出しました。彼は子供の頃、お爺さんの影響で剣道を始め、近所の子供達が遊ぶのを横目で見ながら、仲間に入ることなく、弟とひたすら剣道に励みます。お爺さんは相当のスパルタ教育だったらしく、庭の木に縛り上げられたこともしばしばで、かなり厳しい少年時代を過ごしたようでした。

 

 

働くようになってからは、その経験から学び、身について居たのか、洞察力、指導力、説得力、そして愛情も感じられリーダーとしての素質を充分に備えていて、指導者研修でも指導の先生からセンスがあると、お墨付きを戴いていました。当時100人もの部下を上手くまとめていたのが思い出されます。私も長い間、今の今まで、お爺さんのスパルタ教育の成せる技だと思い込んでいましたが、河合宣久や多田家の人々を知り、人の“器”というのは、努力や勉強など後天的なものだけではなく“血筋”もあるということを再確認しました。多分、血筋などは関係ないと思い込んでいたのは、私のように「何処の馬の骨かも分らない者」のコンプレックスだったのでしょうネ!!

 

(つづく)

 

参考文献:「五葉松は語る多田家五百年の歴史」野村昭子著 発行16代多田家当主多田與一郎 2000913日発行 「金沢古蹟志巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行

本多町界隈の一向一揆伝説④松田次郎左衛門

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【出羽町・本多町界隈】

大昔、松田家は京で北面武士だったと伝えられています。代々、聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像が守り本尊だったといいます。松田家は、観應の頃(13501352)、加賀国に来て田井村に住み郷士になります。その聖徳太子直作の木像は、後に田井村の道場に移され、今も、たま~に新聞ネタになることもあります。

 

(北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士で、11世紀末に白河法皇が創設。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されたそうです。)

 

 

 (田井の道場・善行寺)

 

15世紀中頃の松田家は、加賀国石川郡の田井城を居城とする一向一揆の“タイシ”の棟梁松田次郎左衛門で、田井城については「加邦録」によると、奥村河内守の屋敷(現国立医療センター)から出羽町(石引4丁目)にかけての土地を居城とし、松山寺(八坂五山)あたりは二の丸、成瀬内蔵助宅あたりは三の丸(旧成瀬町)で、今の八坂の道はその頃は馬場で、そばの堀は馬を洗うために作ったと書かれているそうです。

 

 

(松山寺・田井城の二の丸)

(旧成瀬町(成瀬内蔵助屋敷跡)・三の丸)

 

(当時、田井村は金浦郷に属していました。金浦郷は石川郡と加賀郡(河北郡)にまたがる23ヶ村からなり、かっては河北郡(室町時代頃から使われていたようで、正式名称には元禄13年)が加賀郡といわれていた。田井、牛坂、牛首、土清水、館の5村は加賀郡(河北郡)で、その中でも田井は一番大きい村だったという。)

 

 

(旧成瀬町)

 

《タイシ》

タイシとは「太子信仰」を指します。聖徳太子を日本における「仏教の祖」として讃え崇めるという思想で、歴史は古く一説によると8世紀「日本書紀」の編纂の頃には存在していたとされ、聖徳太子を“日本の釈迦”として尊崇する貴族の仏教信仰であったと云われています。以降、日本に仏教が定着するようになって聖徳太子は日本の仏教の祖であるとして「太子信仰」が民間大衆にも定着するようになっていったとされています。平安時代に空海によって神仏習合(神と仏を一体とする思想)が広められた後に民衆に定着したとされ、その際に「聖徳太子伝暦」という聖徳太子伝説の集大成ともいえる書物が、太子信仰のバイブルとなっていたようです。

 

 

 (田井の道場・善行寺)

 

州崎慶覚坊の項で触れましたが、“長享の乱”の前、洲崎と松田はライバル関係にあり“ワタリ”慶覚坊次郎左衛門謀殺する事件が起こります。その事件は、慶覚坊密計を廻らし和睦を持ち掛け、日頃仲の悪い松田と甥の石浦主水を米泉の館に招いて酒宴を設け、宴たけなわとなる頃、突然、沈酔した松田を殺害します。

 

参考ブログ

俗諺"聖徳太子直作の木像

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10909421544.html

 

 

事件では、松田の馬丁三右衛門が、敵一人を討ち取り、浅手を負いながら逃れ出て、主人の馬で田井城に帰ります。洲崎松田を討ち取ったことに乗じて田井城に襲い懸ります。三右衛門は主人の討死を皆に告げ、防戦に励みますが勇激な者はみな米泉で討ち取られ、士卒は大将の討死に気落ちし色を失い、多くの士卒は城を捨て逃げ出したと言います。

 

 (田井城本丸跡)

 

田井城に残った士卒は10名とも20とも言われています。その上、松田の甥石浦主水の石浦の砦も陥落し、松田の妻は茫然として途方に暮れ自害をして夫の死出に伴うと言いますが、三右衛門は、それを諫め、主人の妻子を越中砺波の荒木(現南砺市)へ落とします。後にその子は城端城の城主になり荒木六兵衛(他資料には六右兵衛?)という。前田利家公が越中に出向いた時、松田次郎左衛門の由緒を聞き「甲斐々々しき者の子と感じ」子孫を召し抱え、家禄千石を賜り加賀藩に仕えました。子孫の荒木善太夫は代々東末寺(現東別院)と西末寺(現西別院)の間、極楽橋見付角に屋敷を拝領し、その子孫は廃藩まで居住したといいます。

 

 

(極楽橋跡)

(荒木善太夫の屋敷跡)

 

ところで荒木六兵衛は、馬丁三右衛門の子ではと言う説があります?実は、松田の妻子より聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像を形見として三右衛門に与えられていたものを、利家公に召し出された時、この像を俗家に置くのを恐れ、子孫が田井村の道場に納めたという、この伝説が真実であれば?荒木善太夫は、馬丁三右衛門の子孫と言えるかも・・・・。

 

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 ほか

勘太郎川③倉月用水??

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【石引2丁目→鱗町】

現在の勘太郎川の名称は、何時からそのように呼ばれていたのか?現地へ歩き、図書館や役所へ行き調べていますが、なかなか正解に至りません。そんな時、果たしてこんな事を調べて何の役に立つのだろうか?学者や役所の揚げ足を取るだけではないだろうか?と少し悩ましくなってきます。

 

 

 (思案橋)

 

しかし、一日寝るとそんな事もコロッと忘れ、性懲りもなく、天気が良いと現場で、疲れると本を漁ったりしていると、何となく日々充実したような気になります。はい、目標をデッチ揚げて走るのが私にとって若さを保つ秘訣のようです。お陰で、毒にも薬にも知恵にもならないいい加減な知識を得て自己満足しています。

 

 

(昭和6年の勘太郎川周辺の地図)

 

(旧欠原町下の勘太郎川と名前も知らない橋・右に上がると旧新坂町)

(旧欠原町の崖下、勘太郎川は茂み間を抜けています)

 

 

愚痴はこのへんにして、本題にはいります。勘太郎川は、大正から昭和の始めまでは「稿本金澤市史」によると「笠舞用水」と呼ばれていたらしいが、現在、戦前から残っている思案橋(大正152月架)や勘太郎橋(昭和49月架)も橋標には橋名板や橋歴板が刻まれていますが、川の名前の表示が何処にもありません。しかも、森田柿園の「金澤古蹟誌」を調べていて気付がありました。何とそれは、明治の初期までは「倉月用水」と呼ばれていたらしい・・・?

(詳しくは次回までに、まとめておきます。)

 

 

(新坂二の坂から小立野台緑地に上る坂)

(新坂二の橋)

(上は小立野台緑地)

 

川は崖下の谷の風情は昔のまま、かって旧上欠原町の住民が洗濯をした処には、現在、鉄板の手作りの橋と名も知らないコンクリート橋が架かり、この辺りから川の真ん中に排水溝が見え始め、本多町一の橋まで続きます。今の小立野台緑地の崖下から昔を感じさせる雰囲気とコウド(洗濯用の階段)が残る嫁坂下の「新坂一の橋」に至ります。

 

(新坂一の橋の上にあるコウド)

 (新坂一の橋)

 

「新坂一の橋」から「手木橋」「本多町四の橋」「本多町一の橋」まで、この辺りになるとさらに水量は少なくなり、平素は川の真ん中に造られた狭い排水溝にわずかの水が流れています。勘太郎川は、旧本多家の下屋敷と「手木町」の間を犀川の方角に一直線に約400m流れて右に曲がると「百地橋(時雨平橋)」が見えてきます。

 

 

 (手木橋)

(現手木町)

 

[手木町]

金澤古蹟誌によると「此の地は、旧藩中は手木足軽の組地なり。此の人々をば世人御手コと呼べり。故に町名をも御手木ノ町と称す。元禄6年(1693)の士帳にも、本多図書邸地安房守下屋敷御手木ノ町方とあり。按ずるに、延宝の金沢図をみるに、此の地辺り悉く皆三十人組及び小頭の組地なるよし記載す。されば延宝の後三十人の組地に移転し、その跡地をば手木足軽の組地と成したるものと聞ゆ。三十人組は、藩候の御手廻りと称する小者にて、手木足軽とは異也」とあります。

 

(延宝の地図には三十人組の組地は記載がない、見間違えか?)

 

 

 (延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)

 

 

[手木足軽]

藩政期、露地奉行の支配で、城内等のお庭の諸事に従事し、お殿様が江戸参勤のときは、荷物の宰領を勤めています。元々手木足軽は、戦場で太刀を持って戦うために召抱えられたもので、力量の検査があり、殊に大男が選ばれたといいます。

 

(現玉泉院丸)

 

 

また、寛永11年(16342代利常公が、京より剱左衛門を呼び寄せ、玉泉院丸に築山泉水を造るにあたり、御相撲の者50と御鉄砲の者100人が庭造りをしたという。どうも、この御相撲の者が、御手木足軽の始めではと、森田柿園は「金澤古蹟誌」に書かれています。

 

(手木とは、木やりの人が、手木(十手のようなもの)で、指図をするためのものだそうです。)

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻11」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 

勘太郎川④倉月用水??

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【石引2丁目→鱗町】

今さら!!でもありませんが、好奇心に駆られた事を調べていると、つい同じ所に何回も行ったり、本や文書であれば、同じ本の同じ項目を何回も読み返してしまいます。そのためか周辺が見えなくなったり、堂々巡りが始まったりますが、それを繰り返していると「ヘイ!!そうだったんだ!!」と気付くこともあり、新たな発見に繋がっていきます。最も“新たな発見”と言っても、私のような素人にとって新しいというだけで、5万と居るご存知の方には、新しくも何でもないのでしょう・・・けど。

 

  

(今の思案橋・左の小路)

 

今回、勘太郎川を調べていくうちに「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」を何度も読返し、あっちこっちにまたがり書かれた記述を組み直して読んでみたりしても、気付かないことも多々あります。厄介なのは、思い込みという先入観から誤謬(ごびゅう)だと決め付けていることが、見逃しの原因のようで反省しきりです。

 

 

(バス停・思案橋)

 

その際たるものが、今回の勘太郎川で、藩政期には倉月用水と言われていたことでした。これなども“知る人ぞ知る“のでしょうが、私の知る限りでも「金沢古蹟志」「加能郷土辞彙」にも誤りもあり、その文中にある倉月用水と言うのは間違いだという見方をしていました。少し考えて見れば、森田柿園氏も日置謙氏も金沢の人で、しかも森田柿園氏は近くの柿木畠に住んでいたので、倉月用水を間違える筈がないのです。

 

(「金澤古蹟志」の記述は後程引用しますが、鱗橋の項に玄蕃川と倉月用水が鱗町で合流するという件(くだり)があり、やっと納得しました。)

 

  

(思案橋から勘太郎川) 

 

 

以下は「金澤古蹟志」「加能郷土辞彙」の関係箇所から引用します。

 

[倉月用水]

犀川の金沢を貫通する間に於いて、その右岸油堰から引水し、厩橋から長町川岸に向かうてながれる。金沢牛右衛門橋油屋源兵衛の書上に、もと岩谷牛右衛門上地に防火用の水溜があったのを、正保年中先祖與助が請ひ受けて、堀の跡に油車を建て、川を穿って常水を通じた。それが川下八千石の地を養って倉月用水と呼ばれることになったと。この田地の石川郡西念新保等十三ヶ村に亙るものである。「加能郷土辞彙 p267

 

 

(牛右衛門橋と金澤町家情報館)

 

 

上記、加能郷土辞彙には、倉月用水起点が油堰(油瀬木)のように書かれていますが、明治に書かれた金澤古蹟志には、倉月用水という項目はありませんが、以下に引用する玄蕃川や鱗橋などに倉月用水の記述があり、それらによると倉月用水は、今の勘太郎川が本流だと書かれています。

 

倉月用水が、今の鞍月用水の「鞍月」ではなく「倉月」と書くことについてはよく分りません。)

 

 

 (天保期の勘太郎川と玄蕃川)

 

 

[玄蕃川]

金澤古蹟誌には「此の川は、川上覚源寺の尻地なる犀川の川除に水戸口を附け‘犀川より用水を取れり。此の水戸口をば油瀬木と呼べり。此の下流は即ち玄蕃川にて、百姓町通りを流れ、鱗町にて倉月用水川へ合併し、油車へいづる成り。昔、油車屋源兵衛といふもの、油車の地に水車を取建てける時、倉月用水のみにては水勢弱きとて、更に犀川より用水をせき入れ、その流水を百姓町へ通し、油車にそそげり。故に彼の堰をば油瀬木と呼び、用水川をも源兵衛川と俗称せしを、後人誤って玄蕃川と呼べりとぞ。一説に、昔佐久間玄蕃のとき、この用水が通ぜり。故に玄蕃川と称すといえども、非也。後人の附會なるべし。と書かれています。「金澤古蹟志 第5編 13P57より」

 

(上記によるとは、今、鞍月用水起点の油瀬木から鱗町で今の勘太郎川と合流するまでの流れが「玄蕃川」だという事が分ります。)

 

 

(川御亭の標柱)

 

[川御亭]

今、上本多町川御亭と称し、町名とす。此の地は倉月用水川たる思案橋の西方を呼べり。右用水川に当たりゆゑに川御亭といふと。但し川御亭とて此の地に藩候の離亭ありたる事、詳らかならず。一説に、昔本多氏下邸岩問屋の圏内に亭ありて、近き頃まで亭の跡とて礎石が残れり。此の亭ありし地は思案橋の近辺なれば、此の事をばそのかみ川御亭と呼びたりし故に、此の地辺に川御亭の遺名あるにやといへり。「金澤古蹟志 第5編 12P40より」

 

岩間屋:藩政期、本多家下屋敷のことを世の人々は“岩間屋”と呼んでいました。藩政初期には、今の牛右衛門橋(現金澤町家情報館前の橋)辺りに藩士岩谷牛右衛門の屋敷があり、後に故あって禄を辞し、藩から退去し、その跡が本多家下屋敷になり、その辺を岩間屋(岩谷が訛ったものか?)と呼んだそうです。万治2年(16593代利常公が逝去され、小松附諸士が金沢に戻り、この地が藩の用地になり、本多家下屋敷は手木町口に移りますが、人々はその辺り本多家下屋敷を旧地名の岩間屋と呼んだという。)

 

 

(思案橋)

 

[思案橋]

現在、思案橋の名前の由来として流布されているのは、この付近に加賀の筆頭家老、本多家の別邸があり、そこに通う本多の殿様が、”今夜は酒にしようかそれともお茶にしておこうか”と思案したことからこの名がついたと、誠しやかにいわれています。

 

しかし「金澤古蹟志」にある「金沢橋梁記」の引用を要約すると「思案橋」は本多家中(かっちゅう・家臣が住む下屋敷)にあり、この橋は倉月用水川(今の勘太郎川)”に架けられていた。三州名跡誌には、本多氏の元祖安房守政重、加賀藩士と成り金沢へ来た頃、男達の気負い者が多く召仕えていて、この者ども毎日この橋へ出で今日は“西へいこうか東へ往んと「思案」していたので橋名に呼ばれる事とになったと。

 

また、柴野美啓の「亀尾記」を要約すると、この辺りは、石浦野という荒地で、賊魁安藤四郎・藤塚小太郎・同伊豆という者が、この辺り潜伏し居いたが、天正八年柴田勝家により討亡されたという。その頃「しあん某」といふ者がこの地に居住していて、それ故に「思案橋」の橋名に遺されたそうです。一説には、本多氏元祖安房守政重が加賀藩へ勤仕した時、諸国から集まった武士も就いて来たそうで、その中に侠客を名乗る若者達が、いつもこの橋の上に集り、東へ行こうか西へ遊びにいっくか思案していたということから「思案橋」の名が起ったという言い伝があるとか、今按ずるの、両伝説はいずれが正説なのかと結んでいます。「金澤古蹟志 第5編 12巻 P41など」

 

 

 (今の鱗町)

 

[鱗町]

元禄9年(1696)の地子肝煎裁許附に、犀川荒町、いろこ町とあり、此の時代にいろこ町も呼んだりけん。此の町名の起源は詳かならず。此の町は犀川荒町の上にて、倉月用水の川縁より、百姓町への往来なる片原町の町家を呼びたるかど、明治4年(18714月町名改革の時より、荒町と合併して鱗町と称せり。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P48より」

 

 

(今の鱗橋辺り・コンクリートの下に勘太郎川)

 

[鱗橋]

金澤古蹟志によると「金澤橋梁記」に、うろこ橋うろこ町とあり、此の橋は玄蕃川と倉月用水との落合に架けたる往来橋也、右両水皆犀川の分水なりしかど玄蕃川は近き所なるゆゑ、毎も清潔にて水澄みたり。然るに此の橋下にて、清濁の二水落合ひけるに、清濁常に振分れ見るが故に、俗に澄濁橋と雅名す。「金澤古蹟志 第5編 13巻 P49より」

 

参考ブログ

油瀬木から子守川股地蔵尊まで《鞍月用水①》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11812568033.html

 

牛右衛門橋からあかね屋橋まで《鞍月用水②》

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11814781550.html

 

(延宝の金沢図より・勘太郎川と玄蕃川周辺)

 

これらを読むと、今の「勘太郎川」は藩政期に倉月用水と言われていたことが分ります。しかし、書かれたものでは「思案橋」まで、延宝金沢図では、その先に二筋の川に繋がっています。一筋は今の勘太郎川、もう一筋は、今の猿丸排水路と菊川雨水幹線が合流したもので、どちらの川筋が昔の倉月用水か断定しかねます。

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

勘太郎川⑤本多家下屋敷の外濠?ウソ!!

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【石引2丁目→鱗町】

ホント??今回、調べていて私が勝手に思ったことですが!?勘太郎川(倉月用水)は、延宝金沢図(167381でも全長1,4km。その内、約1kmが本多家の下屋敷の外側に位置し、合流する鞍月用水やお城の西外惣構も含めると、10万坪以上と言われた本多家下屋敷(家臣や分家の居住地で安房殿町〈家中町〉)を囲むように造られています。なにも外濠という大げさなものではなくても、他の町との区切りになっていたのではと思われます。

 

詳しくは 石川県立図書館 延宝金沢図 「検索」

 

 

(大乗寺坂より本多町下屋敷を望む)

 

 

それはそれとして、前回、書いたのは「思案橋」まで、飛んで「鱗橋」「鱗橋」を書きましたが、今回は、その間の2つの橋とその周辺の町や寺院にまつわる藩政期のお話です。

 

 

 (黒い線が今の勘太郎川・鞍月用水・西外惣構の堀)

 

(百姓町の標柱)

 

[百姓町]

一向一揆時代には、上石浦村の村落(下石浦町は今の香林坊辺り)でしたが、藩政初期、金沢の町地が追々広まり、村民は町人のなり、村落には町家が建ち、町名も百姓町と呼ぶようになったと伝えられています。

 

(石浦村は、石浦郷七村の一つで、一向一揆時代は安房殿町より長町にかけ法船寺馬場(現中央通町)まであり、藩政期にはことごとく武士、工、商の家屋敷となり、旧下石浦村の裏町には百姓家が長く残り、「金澤事蹟必録」にも石浦村百姓は“34軒残れり”とあり、また、「亀尾記」には、今、田地の草高は「五っ免」で、わずか29名遺れり、その草高は他村に組み込み、その農民も町人となり、その地を百姓町と称したというと書かれているそうです。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

(今の法然寺橋)

 

[法然寺橋]

現在の橋(現遊学館高校前)には、橋名は何処にもありませんが、「金澤古蹟志」や「稿本金澤市史」「加能郷土辞彙」にも書かれていますが、藩政初期の石浦神社の「冩絵図」には法然寺が描かれていて、その前に橋が描かれています。法念寺橋、百姓橋ともいわれていました。

 

 

(石浦神社の「冩絵図」)

 

影向山法然寺は、浄土宗西山禅林寺派。開祖は屋譽貞雲和尚で慶長8年(1603)建立。百姓町(現幸町)の今の勘太郎川(倉月用水)の袂にあり、9代来空の享保15年(1730)に現在地(菊川2丁目38)に移転しました。改作所旧記には、寛文(16611673)の頃、犀川川下(仁蔵辺り)に寺があり、“ねい”という女が放火し、寛文6年(1666416日、犀川川下の法然寺下川原で釜煎にされたとあるそうですが、寺記には寺がそこに有ったことも放火のことも記載がなく伝承か・・・。「参考:金澤古蹟志」)

 

 

 (お銀小金の地蔵さん)

 

 「伝説“お銀小金”」

法然寺に伝わる物語に、「お銀小金」の伝承があります。粗筋は血のつながらない姉妹同士の深い人間愛を描いています。加賀藩士の父が江戸詰めで留守の間、お銀は継母にいじめられ、ついに犀川の河原に掘られた深い穴につき落とされたという。母が違うとは言え、お銀を慕っていた妹の小金は、お銀の居場所を探し当て、自らも穴に飛び込んで果てたといいます。継母は、その死を知ると「わが子かわいと思えば他の子こそ大切に」と改心し、懺悔し自ら髪を切って子供たちの冥福を祈る長い巡礼の旅に出たというお話です。

 

このお話を有名にしたのは、泉鏡花の名作「照葉狂言」の冒頭に主人公の少年(貢)が子供の頃、“おばさんの語り”として聞いた「お銀小金(照葉狂言では阿銀小銀のお話です。

 

青空文庫:「照葉狂言」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4561.html

 

金澤古蹟志では・・・

小金之墳墓は、「法然寺境内の卵塔場(墓場)にあり。旧伝にいう。昔、この地辺は法島河原で、その犀川の河原だった頃、此の所に於いて男女情死す。“こきん”はその頃の娼妓で、男女共に白接束にて水盃をし、いさましき体にて情死していたと。則ちその所に男女合葬せし墳墓是なりと言い伝えたり。共の年月等は伝承せる・・・とあり、その頃は法然寺がこの地に来てはいない」云々と書かれていています。「お銀小金」の話は後に子供に異母姉妹の情愛を伝えるために創作されたもののようです。「参考:金澤古蹟志」

 

 

 

(石浦橋の橋名板)

 (石浦橋)

 

[石浦橋]

法然寺橋から本多家下屋敷の境界を示すように勘太郎川(倉月用水)が流れ石浦橋に至ります。藩政期の橋名は何と言ったのかは定かではありませんが、本多家下屋敷の一つの出入口だったと思われます。橋を渡ると150m先に一向宗慶覚寺があり、左右に繋がる街は、かって下屋敷の買い廻り品の店が建ち並び、また、慶覚寺の門前町だったことが窺えます。また、橋の欄干は上(かみ)の片方だけで、下(しも)は暗渠になっていますので欄干がありません。確か、昭和30年代には開渠で、右側が自転車と人が通れるだけの細い道だったような記憶が蘇ります。

 

 (旧百姓町の通リ・突き当たり慶覚寺)

 

(つづく)

 

《本多町界隈のGoogleマップ》
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82/@36.5548438,136.6600293,17z/data=!4m5!3m4!1s0x5ff83655468566c3:0x8df155c46fde6215!8m2!3d36.5613254!4d136.6562051

 

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻12・巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和171月発行 「稿本金澤市史」金沢市役所 昭和2年( 1927)発行

 


勘太郎川⑥産業用「水車」

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【石引2丁目→鱗町】

金沢の水車は、かっては小橋用水で利用され、今、児童公園に設けられた遺産としての木製水車しか見ることができません。金沢でも全国の水車同様、電動機や蒸気機関が普及するまで、揚水・脱穀・製粉・製糸・菜種油などに利用され、藩政期には、線香の製造や火薬の製造などに動力として使用されたという文書があります。第2次世界大戦後には電動機や内燃機関の普及により国内では衰退します。むろん金沢でも同様でした。

 

(油屋源兵衛の水車があった言われるところ)

 

(元町の小橋用水の水車・2013年撮影

 

(以前には石川県立歴史博物館にあった金沢製糸場の大型の水車の原寸大の模型は今はありません。)

 

(金沢製糸場・絵の正面に水車)

 

[水車の歴史]

動力機関としての水車は紀元前2世紀頃小アジアで発明されたといわれています。この発明は、水カエネルギーを最初に動力源としますが、生活に溶け込んだ動力手段としてギリシャにおいて紀元前に小麦の製粉に使われてきたといわれています。因みに歯車は紀元前3世紀にエジプトで使用されていたそうです。

 

日本では「日本書紀」によると推古天皇18年(6103月、高句麗から来た僧が、「てんがい(碾磑)」という水車を伝えたのが初めとされています。日本最古といわれるものは鎌倉期(1290年代)伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」の料紙下絵に宇治の揚水水車が描かれているものだそうです。以来日本の風土に同化しながら、揚水用や動力用として江戸時代中期(1700年代)には全国に普及したといわれています。

 

 

 (「金沢の用水めぐり」市が発行のパンフレットより)

 

金沢では、前にも書くましたが、正保年間(16441648油屋源兵衛が菜種油を取るための水車慶安4年(1651)波着寺横で藩直営の銃薬製造の水車そして文化2年(1805)亀坂で水車を利用して丹波屋(初代太田某)が線香場を操業するなど、辰巳用水の分流(今の勘太郎川系)で、揚水・脱穀・製粉・製糸以外に利用されているのが注目に値します。

 

(戦前の地図・勘太郎川の水車の位置)

 

今回は、明治期に勘太郎川で産業用の水車を、誰が何処で何をするために水車が利用されたかを調べ、分ったことだけですが書きます。

(資料が少ないので、ご存知の方がいらっしゃいましたらご投稿お願いします。)

 

(旧百姓町の勘太郎川)

 

[百姓町の水車] 金沢市百姓町107(現幸町415

葵製糸場の水車 明治24年(1891)に本多家の士族授産事業として製糸業操業。その後、同じ製糸業で柳水車(柳のドンド)となり柳有隣が経営します。明治34(1901)2月、友田安清と実弟の吉村又男で友田組陶磁器顔料製造所を創業。倉庫風の建物の中で1馬力の鉄製水車が廻り、ハイカラ水車と呼ばれていたそうです。

 

 (この奥の左側に旧百姓町の水車のあったらしい)

 

[友田安清]

日本の陶芸家であり実業家。加賀金沢藩士の子。旧姓は木村。内海吉造、岩波玉山に陶画を幸野楳嶺、岸竹堂に日本画を学び、更に美術工芸品貿易商でありデザイナーの納富介次郎に着画技法を、また、ゴットフリート・ワグネルに顔料調整法を学んだ。明治22年(1889)に石川県立工業学校教諭、明治32年(1899)から7年間、兵庫県出石の陶磁器試験所々長として出石焼の改良指導にあたる。その間、明治24年(1891)には金沢に実弟吉村又男が柿木畠に陶磁器工場友田組を金沢に起し、傍ら洋式顔料の製造を始め実弟・吉村又男と共同経営。明治35年(1902)には水車の動力を利用するため柳水車に移転。やがて林屋次三郎氏の林屋組に参加。林屋組は明治41年(1908)旧藩主前田家や筆頭家老の本多家らの援助を受け、地元有力者によって長町に日本硬質陶器株式会社(現ニッコー株)と改称し、友田安清は、明治41年(1908)以来技師長を務め製陶を指揮、主に海外輸出用の食器類を漸進なデザインと形状で製造し薄利多売方式で販売、そのほか内国博覧会などの審査員なども勤めた。大正7年(19187月死去。享年57歳。

 

 

(旧鱗町の勘太郎川・暗渠右側に長田の水車があったらしい)

 

[長田の水車]金沢市鱗町14(現本多町3丁目1122

長田伊三郎氏経営。当初の主力は、精米・製粉・友禅染用糯粉(もちこ)製造少々であったが昭和10年(1935)頃には、半々になります。水車は木製で、材質はクサマキ、直径7,2m、幅2,7m、マス間91cmで修理は家大工。昭和15年(1940)稼動停止。戦後、稼動しますが水量が少なく能率が悪いため昭和22年(1947)に電力に切り替えるが、昭和34年(1959)中止。

 

[岡田の水車]金沢市鱗町15(現本多町3丁目・・・)岡田某経営(詳しく分りません。)

 

 (鱗町の勘太郎川・暗渠の右側に金田の水車があったらしい)

 

[金田の水車]金沢市茨木町72(現本多町3丁目1213

金田徳蔵、先代金田常吉、2代金田常吉経営。明治6年(1873)操業開始。木製水車(クサマキ)精米・製粉。昭和17年(1942)企業合同で食糧営団となり、精米を中止した。昭和24年(19499月より電気動力にした。製粉のみと 森八の銘菓「長生殿」の糯米粉(もちごめこ)最中の皮用の糯米粉(もちごめこ)を製造。

 

 (おわり)

 

参考文献:「金沢用水・こばし」調査報告前編 金沢市教育委員会 平成123月発行ほか

 

本多町界隈と一向一揆伝説①

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【出羽町・本多町界隈】

最近、リハビリを兼ねて散歩をします。コースは、石引の家を出ると、幾つかある道を気まぐれで一つ選び本多町界隈を目指します。その辺りは崖の上と下で、地形も複雑で道も狭く昔から公共交通機関もなく、車が普及してからも駐車が不便で、私も歩いて行くのは”大乗寺坂“や石川県立美術館裏の“美術の小径”から本多町の図書館へ行くくらいでしたが、ここ3ヶ月、いろんな道があるのを思い出し散歩やサイクリングをしています。

 

 

 (美術の小径)

 

前回までは、辰巳用水の分流”勘太郎川“沿いを下ったり上ったりして一人遊びをしていていましたが、最近は少し飽きて”よそ見“をするようになりました。昔、何気に素通していた道筋も余り変らず、古い家々が残っていて、歴史が感じられ、断片的に憶えていた”一向一揆伝説“が繋がりだしました。

 

 

 (美術の小径の隣りに今年復元された歴史の小径)

 

この辺りには一向一揆で、「釈賊」「賊衆」といわれた有力土豪の所縁のところが幾つもあるのに気付きました。それは、一向一揆初期の旧百性町慶覚寺の“洲崎慶覚”であり、油屋源兵衛の先祖の“河合宣久”石浦砦の“石浦主水”石浦主水の叔父で今国立医療センターの“松田次郎左衛門”それに後期の“山本若狭守家藝”の屋敷跡や所縁のところが歩いて廻れる範囲にあり、今度はそれらを詳しく知りたくなりました。

 

 

 (慶覚寺)

 

藩政期には、一向一揆についてはタブーで、今、残されている資料は伝説・伝承や後の推論と思われるものの引用が多く、史実かどうかはよく分っていませんが、伝説・伝承として興味深い口伝が今も数多く残っています。それらは「火の無いところに煙は立たない」の喩えを借りれば、伝説は煙であり、煙の向こうに「何かが見えたらどんなに楽しいだろう」という思いから、また、金沢に住むものとして約500年以上前、どのような体制で何が起こりどのような変貌を遂げたのか、そして、どのように生きたかを知る統べになればと思います。

 

 

(河合宣久の子孫油屋源兵衛が水車を使い菜種油を採る)

 

[一向一揆とは]

応仁・文明の乱では、国の秩序も乱れ、それに乗じて北陸でも「ワタリ」「タイシ」と言われた土豪が蓮如の教えを精神的な支えに、荘園の押領行為を繰り返し旧勢力に対抗していました。文明6年(1474)の「文明の一揆」は富樫家の内紛に関与したものでしたが、文明13年(1481「越中の一揆」においては旧勢力VS一向宗(蓮如の連枝井波の瑞泉寺)と土豪軍の図式で戦い、一向宗側が勝利し、さらに長享2年(1488)の「長享の一揆」に至り、一向宗と土豪の連合軍が守護富樫政親軍を滅ぼし、加賀は「百姓の持ちたる国」と言われるようになりました。その後、享禄4年(1531)には一揆の内戦による「享禄の錯乱(大一揆VS小一揆)」小一揆の地元蓮如連枝の寺(若松の本泉寺・波佐谷の松岡寺・山田の光教寺)と土豪軍が潰え、加賀は天正8年(1580)の織田軍進攻まで本願寺が治める国だったと言われていています。

 

 

 (石浦主水・山本若狭守の館跡)

 

≪参考≫

“応仁・文明の乱” 応仁元年(14675月、将軍義政の弟義視と実子義尚の相続争いが、斯波、畠山両家の内紛におよび、ついに全国ほとんどの地域を戦場にしてしまいます。これを期に世間の騒動は、まるで荒野に戦車を突き進ませるようなすさまじさで展開します。終焉は文明9年(1477)でした。

 

(本多町周辺・安政期の地図)

 

“加賀の文明の一揆(文明6年(1474))

東軍(細川勝元)赤松・朝倉(西軍を裏切り東軍へ)など 富樫政親・・・・本願寺・白山衆徒  (勝利)

西軍(山名宗全)畠山・斯波など・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 富樫幸千代・・・高田専修寺派  (敗北)

 

“越中の一揆” 文明7年(1475)蓮如が吉崎を退去したころ一揆勢は弱体化します。体制の挽回を図りますが、富樫政親の弾圧がはじまり、坊主・門徒は越中に逃げます。文明13年(1481)越中の福光城主石黒光義富樫政親に呼応して医王山の天台宗惣海寺衆徒と語らい井波瑞泉寺を襲う、一揆軍が防戦に当たるが、湯涌次郎右衛門が率いる湯涌谷勢らの加勢もあり一揆軍が勝利しました。

 

越中の3分の1の砺波郡が「一向一揆の持ちたるような国」になります。この戦いで自信を得た一揆軍が、後に富樫政親に挑み「長享の一揆」に勝利する切っ掛けになったといいます。

 

(現国立医療センター・松田次郎左衛門の城跡)

 

“百姓の持ちたる国” 学校では、加賀は中世の一時期、一向一揆によって約100年間、農民による自治が行われたと学び、石川県を紹介するいろいろなものにもその様に書かれています。これは蓮如の10男実悟の「実悟記拾遺」に述べられた「・……近年は百姓の持ちたる国のようになり行き候ことにて候。」から誤解して伝わったもので、当時は、今われわれがイメージする百姓とは違い、農民=百姓とは全く異なるもので、百姓を被支配階級と理解すべきです。したがって長享の一揆では支配者が守護大名から土豪と連枝の寺に代わり、享禄の錯乱では支配者が本願寺に代わったと理解すべきです。(当時、守護は傀儡で存在していました。)

 

(つづく)

 

参考:ウイキペディアフリー百科事典ほか

本多町界隈の一向一揆伝説②洲崎慶覚その一

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【出羽町→本多町界隈】

百姓町の慶覚寺新竪町の床屋に中学の同級生が働いていて、学校帰りに慶覚寺経由で散髪に行った時に知ったのが初めでした。それから、半世紀が過ぎ、ボランティアガイドを目指し、座学を補うためバイクでの街巡りで、慶覚寺が一向一揆の洲崎慶覚のお寺だということを知ることになります。また、幕末に江戸・京都・大阪で活躍した金沢の俳人桜井梅室のお墓があると聞き見に行ったこともありましたが、それだけに終わっていました。

 

 (慶覚寺)

 

その頃、遠縁の法事で慶覚寺のご住職にお会いする機会があり、その場で、住職が自ら先祖は“海賊(湖賊)”でして、と言っていたのが頭に残っていたのですが、そう、調べるチャンスは幾らでも有ったのに、あれから10年以上が過ぎていました。

 

(境内の桜井梅室のお墓)

 

[慶覚寺(きょうかくじ)]

慶覚寺は、金沢市の百姓町(現幸町)にある真宗大谷派の寺院で、山号を洲崎山と称します。ご本尊は蓮如から直に下賜された高さ48分の阿弥陀如来像で行基作と伝えられています。開山開基慶覚為信は、永享5年(1433625日、もと近江国浅井郷の郷士洲崎次郎右衛門の次男(3男とも)として生まれ、長禄元年(1457)京都東山の大谷本願寺で8世蓮如の弟子となり、慶覚の号を拝命。文明8年(1476)に米泉村(金沢市米泉町)に住み着いて道場を開きます。寛文元年(16613代慶順の代になって金沢市百姓町(現幸町)に移り慶覚寺の寺号を受け現在に至ります。

 

(比叡山と堅田と琵琶湖の図)

 

[洲崎慶覚為信の半生]

洲崎慶覚為信の生没は永享5年(1433)~永正6年(1509)。室町後期の近江の土豪の出で 洲崎兵庫とも称しました。永享11年(14397歳の時、近江天吉寺山頂の天台宗霊場大吉寺で僧となり、山伏より薙刀を習い、文安4年(1447)伊吹山で山伏となり火乱坊明覚を名乗り、宝徳3年(1451)近江甲賀の飯道山に行き「飯道山の四天王」と呼ばれていたといいます。享徳4年(1455)関東を経て奥州まで旅し、翌年近江に帰り堅田で一向宗門徒の娘と所帯を持ち“湖賊”になったといいます。長禄元年(1457)金森(現守山市)の道西・堅田の法住らと共に京都東山の大谷本願寺で8世蓮如の弟子となり、法名慶覚を授かります。

 

 (比叡山と堅田と琵琶湖)

 

 寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒に大谷本願寺を破却されたとき蓮如をかくまい、翌年山門衆徒と高田専修寺門徒の襲撃から救出し、応仁2年(1468)年324日、将軍義政及び延暦寺による堅田湖賊討伐(堅田の大責め)に、堅田衆と共に興の島に避難します。慶聞坊(道西の甥)、下間頼善(蓮如に仕えた坊官)と蓮如の供をして、北国東国へ巡錫し、文明2年(1470)山門との和平成立し堅田に戻ります。

 

 

(比叡山に追われる)

(逃れて越前吉崎へ)

 

 文明3年(1471)蓮如とともに越前吉崎に行き、蓮如の4男蓮誓を後見し、加賀守護富樫政親と交渉に向かい、加賀に居住します。文明5年(1473)蓮如は守護の保護を受けるため、富樫政親の要請を受けて富樫家内紛に介入し、翌年富樫幸千代を倒しますが、富樫政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じ、文明7年(1475)門徒弾圧を開始し、加賀門徒とともに越中に逃れ、文明10年(1478)加賀松根道場を任され、河北郡松根に館を構え、浅野川以北の北国街道沿いの森下・柳橋・小坂・大樋までの荘園を押領します。

 

(押領(おうりょう):平安時代中期以後の荘園制下において武力などの実力をもって他人の所領や年貢などの知行を侵奪する行為。本来は不法行為に相当するが、室町時代末には、北陸の有力土豪が、都の公家の荘園の年貢の押領し勢力を増し、正当な権利者によるものも含めて実力行使を行ないます。)

 

(松根城)

 

これに対して被害を受けた者(公家等)は知行回復の訴訟を行い 越中砺波郡の石黒光義が政親と結んだ門徒弾圧に対抗し、文明13年(1481)越中一向一揆を起こし光義を討ち取り、富樫政親は加賀支配の承認を得るため将軍義尚の六角高頼遠征に従軍しますが、戦費の拡大に反発した国人層と結んで決起します。

 

洲崎慶覚ら一向一揆軍は、長享2年(1488)富樫泰高(傀儡)を守護に擁立し、富樫政親を高尾城に滅ぼしました。慶覚は、後に道場を米泉に構え、蓮如から授かった行基作の阿弥陀如来像を安置し、米泉、西泉、泉野の3泉(現金沢市犀川以南、伏見川流域周辺)を領地とし、かってに「泉入道」と称号を唱え、米泉に道場を構えます。

 

《ワタリ》

近江国琵琶湖湖畔の本願寺門徒は土地から土地を自由闊達に渡り歩いた自由人であったといいます。彼らは蓮如上人の越前吉崎入りに力を貸し、一向一揆には「外人部隊」として登場します。近江門徒の頭の名前は法住(ほうじゅう)といい堅田の人でした。彼は坊主でありながら染物業を営んでおり、配下の者の生業も油屋、麹屋、研屋、桶屋等が多かったそうです。

 

法住らは寛正6(1465)本願寺の勢力拡大を恐れた比叡山の手で京都を追われ、蓮如を6年間かくまい、琵琶湖経由で越前吉崎へ送り届けます。危険をあえておかした行動は蓮如に対する厚き信頼のみならず、法住一門が当時貨幣経済の発展で資力を蓄えたことが自信に繋がりました。

 

「自分は門徒にもたれて生きる」と言いきったという蓮如は、こうした新しい処世観をもった近江門徒との出会いで固まったといわれています。法住の自坊である堅田本福寺には「本福寺門徒記」や「本福寺跡書」の古文書が残り、貴重な歴史資料になっています。法住たちは精力的に活動し吉崎のみならず、「加賀、能登、越中、信濃、出羽、奥州、因幡、伯耆、出雲ヘ越シ商ヲセン」とあり、教線の拡大が商圏の伸張にも繋がったといわれています。

 

(つづく)

 

参考: PCより「慶覚坊の略歴-酔雲庵」

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiVr5ym3M7VAhWKWrwKHWafCzAQFggnMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.suwiun.net%2Fnewpage276.html&usg=AFQjCNGIy1ia4bFxrEznrKKkPzdmHOQs2Q

ウイキペディアフリー百科事典( ‎Wikipedia)他

本多町界隈の一向一揆伝説②洲崎慶覚その二

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【出羽町→本多町界隈】

洲崎慶覚坊について、前回、勝手に本人が「泉入道」と名乗ったと書きましたが、それを後世の人がご丁寧に?「和泉守」と四等官(官員)のように“守”が付いている文書もあります。それらはみんな誤であると森田平次(柿園)が「金澤古蹟志」に書いています。また、諸旧記には洲崎兵庫はみな同人のように載っていますが、その事実は判然としません。当然、利家公から扶持を給わったという洲崎兵庫も、慶覚坊より遥か後の子孫のようです。

 

(慶覚寺境内)

 (慶覚寺境内)

 

今、天神町の椿原天満宮の石段脇の狼煙の松の説明板に書かれている椿原砦を築き屯所にしたという洲崎兵庫も大小一揆(享禄の錯乱1531)時代の人で、洲崎慶覚坊(永享5年(1433)~永正6年(1509))の後の子孫で別人であると言えます。

 

椿原天満宮の狼煙の松の説明板)

 

 

[洲崎慶覚坊、松田次郎左衛門謀殺事件!!]

洲崎泉入道慶覚坊伝によると、「タイシ」の河北郡の棟梁松田次郎左衛門は田井城(今の国立医療センター)の城主で、洲崎慶覚坊とライバル関係にあり、慶覚坊は虎視眈々と河北郡を獲ろうと狙っていました。ある時、和睦を持ちかけ、米泉の館の招待し、酒宴中に謀殺します。詳しくはこのシリーズの松田次郎左衛門に書きますが、今回は「金沢古蹟志」の洲崎慶覚坊傳の一部分を引用します。

 

(早く知りたい方は、「参考ブログ」を・・・・)

 

 

 (松田次郎左衛門、慶覚に滅ぼされる!!)

 

[州崎慶覚坊傳]

加賀古跡考に云う。昔、長享年間洲崎泉入道といふ一揆大将、並に一族兵郎十郎左衛門・孫四郎等.石川郡泉村の辺りなる村に居住す。其の館跡は何れの地とも知れざれども.今米泉村に兵庫の塚といふあり。此の辺地泉米泉など、何れも皆一族の居住所なるべしといへり。亀尾記に.米泉村に洲崎泉入道慶覚坊の古墳あり。

 

村中字駒坂といふ所にあり。古松ありしかども近年立枯れと成る。といへり。按ずるに.泉入道が居館は米泉村にあり。飛耳集録に、昔、当国尾山の城本源寺の家老松田次郎左衛門は、河北郡の棟梁として小立野宝憧寺坂を城郭となし、尾山城の押さえに蟠居す。其頃、河南米泉郷に洲崎兵庫と云ふ者あり。石川郡の押領使として、.数年本源寺と威を争ひ、.折を伺ひ河北を取らんと人を巧み謀る事歳久し。然るに松田と和睦し、次郎左衛門を米泉の館へ招き、酒宴中に次郎左衛門を討取り、夫より彼居城等へ又軍を向け、松田が甥石浦主水の居城石浦砦等を不日に攻略す云々。といへり。・・・・・・・・(この後に書かれているのは、同名子孫の記事なので省きます。)

 

○出典は金澤古蹟志第513p53

 

 

 (慶覚寺本堂の甍)

 

参考ブログ

俗諺(ぞんげん)聖徳太子直作の木像

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10909421544.html

 

 

PS:[慶覚寺のご本尊伝説]

 金沢近郊(今は金沢市)に三小牛山(みつこうじやま)という小高い山があります。芋掘藤吾郎伝説にでてくる山で、地名の由来は、昔、金・銀・鉄の精が三匹の子牛となって出たという「亀尾記」などによると、大晦日の夜に藤吾郎のところに黄・白・黒の三頭の子牛が門に入り、翌朝よく調べると、金銀鉄の三つの塊(兜)だったといいます。

 

 (今の三小牛山より金沢を見下ろす)

 

藤吾郎はこれを阿弥陀、薬師の仏像に鋳しめ安置し、残余の金銀は全部人に施したと云う。その阿弥陀像は、後世洲崎慶覚の安置仏に、今は末裔慶覚寺のご本尊で、薬師像は寺町の伏見寺のご本尊だと伝えられています。また、藤吾郎の妻和五の守り本尊の観音像は卯辰山の観音院のご本尊だと云う・・・

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 

慶覚寺(金沢市)Wikipediaにご本尊に写真が載っています。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi8o8fK487VAhXIvbwKHRI9BIgQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%2585%25B6%25E8%25A6%259A%25E5%25AF%25BA_(%25E9%2587%2591%25E6%25B2%25A2%25E5%25B8%2582)&usg=AFQjCNF21ww2PTdz-NflpkxT1hX6k15N7w

 

 

 

本多町界隈の一向一揆伝説③河合宣久

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【出羽町→本多町界隈】

昔から竪町の油屋多田家のご先祖は一向一揆の大将で、前にも書きましたが、その子孫油屋源兵衛が藩政初期、牛右衛門橋辺りで、油を絞るために水車を廻し、水勢が弱いので、今、鞍月用水といわれている犀川の油瀬木から鱗町までの玄蕃川(源兵衛川)を開削したといわれています。

 

 

(多田家五百年の歴史)

 (油車)

 

以後、藩政期、明治、大正、昭和と多田家の油屋は竪町にありました。昭和46年(1971)に事務所や住宅を竪町に残し、工場や倉庫を市内の別のところに移します。今、竪町の敷地には、平成2年(1990)完成した3階建てのHOUSE1991というテナントビルと駐車場、コミュニティハウスがあり、さらに多田家の会社事務所と住宅になっているそうです。

 

 

(五葉松と多田家の駐車場)

 

今、昔の多田家を偲ぶものに、駐車場の隅に樹齢約500といわれている“しめ縄”が巻かれた「五葉松」が現存しています。もとは多田家が代々手入れされてきた“盆栽”だったといわれ、この庭に移植されたのは、今から約200年前の文政の頃と聞いています。

 

 

 (しめ縄の五葉松)

(HOUSE1991から駐車場)

 

[河合藤左衛門 宣久(多田五郎政晴)]

生年不詳~享禄4年(1531)は、戦国時代前期の加賀一向一揆の大将。通称は藤左衛門で、子は右京亮虎春。摂津の清和天皇源氏の流れを汲む多田氏の出身で、由緒書には「姓は源氏、摂津国多田家の氏族は居住したが、103代後土御門院天皇の御代文明中越前に下り、朝倉家に仕え、その後禄を辞して加賀国能美郡河合村(現白山市河合町・旧鳥越村の手取川本流筋の村)に来住して河合藤左衛門宣久と改名、遂に父子郷士となる。本願寺の麾下の宿老の一人」と書かれているそうです。

 

 

 (現在の五葉松)

 

長享2年(1488)本願寺門徒らが加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼした「長享の一揆」では、石川郡富樫庄久安村に城を構え、洲崎慶覚坊や石黒孫右衛門らとともに一揆方の大将を務め、加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼしたという。河合宣久の麾下の部隊は富樫勢の大将本郷春親とその子松千代丸を討ち取り、富樫政親を自刃に追い詰め、加賀を百年近く仏法領国とし「百姓の持ちたる国」といわれ、一向宗は能登・越中と拡大させます。

 

 

(現在の高尾城・タコ城)

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

永正3年(1506河合宣久は、加賀、能登、越中の門徒に甲斐氏の牢人らが加わり越前に侵攻した九頭竜川の戦いで、朝倉宗滴の軍勢に敗れます。その後大一揆といわれた本願寺で実権を握る蓮淳が派遣した下間頼秀・頼盛兄弟と加賀や越前から逃れて加賀に入っていた超勝寺(蓮淳の婿)や本覚寺と組み、小一揆といわれた賀州三ヶ寺(松岡寺・光教寺・本泉寺)の所領を横領し、加賀の門徒衆と軋轢を起こして内紛状態になり、河合宣久小一揆は蓮悟らと能登の畠山氏を頼ります。

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

享禄4年(1531)越前から大一揆朝倉宗滴の軍勢が援軍(超勝寺や本覚寺が越前の戻るのを阻止するためか?)として加わり合戦となると、これに呼応して畠山家俊の軍勢と河合宣久は加賀国に侵攻しますが、下間頼秀らの大一揆の軍勢に敗れ、河合宣久は、享禄4年(153141028日(126日))に討ち死しといわれています。

 

 

 (多田家五百年の歴史より)

 

河合宣久の子河合右京亮虎春はその戦で生き残り、後に河合藤左衛門と改称し、倉ヶ嶽麓の石川郡坪野村(現金沢市坪野町)へ退隠し、法躰して才覚と号します。その子源兵衛が松任へ出で町人と成り、坪野屋源兵衛と名乗り、始めて種油を製造します。その子は藤左衛門と云い、藤左衛門の子は多田油店の祖與助です。寛永(16241645)の頃に金沢へ出て木倉町に居住し、種油を商売しますが、正保年中岩谷牛右衛門(今の油車)の揚地を賜り、倉月用水を取入れ、初めて水車を建て、種油を製造したのが、後の多田油店です。

 

 

 

PS: 河合宣久と油屋源兵衛を調べながら、亡き友のことが脳裏をよぎります。40数年前、彼は多田家の遠縁だと言っていたことが蘇ってきました。当時は河合宣久も多田家も知る由もなく、すっかり忘れていましたが、多田家の家譜に、彼と同じ苗字を見つけ思い出しました。彼は子供の頃、お爺さんの影響で剣道を始め、近所の子供達が遊ぶのを横目で見ながら、仲間に入ることなく、弟とひたすら剣道に励みます。お爺さんは相当のスパルタ教育だったらしく、庭の木に縛り上げられたこともしばしばで、かなり厳しい少年時代を過ごしたようでした。

 

 

働くようになってからは、その経験から学び、身について居たのか、洞察力、指導力、説得力、そして愛情も感じられリーダーとしての素質を充分に備えていて、指導者研修でも指導の先生からセンスがあると、お墨付きを戴いていました。当時100人もの部下を上手くまとめていたのが思い出されます。私も長い間、今の今まで、お爺さんのスパルタ教育の成せる技だと思い込んでいましたが、河合宣久や多田家の人々を知り、人の“器”というのは、努力や勉強など後天的なものだけではなく“血筋”もあるということを再確認しました。多分、血筋などは関係ないと思い込んでいたのは、私のように「何処の馬の骨かも分らない者」のコンプレックスだったのでしょうネ!!

 

(つづく)

 

参考文献:「五葉松は語る多田家五百年の歴史」野村昭子著 発行16代多田家当主多田與一郎 2000913日発行 「金沢古蹟志巻13」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行

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