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本多町界隈の一向一揆伝説④松田次郎左衛門

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【出羽町・本多町界隈】

大昔、松田家は京で北面武士だったと伝えられています。代々、聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像が守り本尊だったといいます。松田家は、観應の頃(13501352)、加賀国に来て田井村に住み郷士になります。その聖徳太子直作の木像は、後に田井村の道場に移され、今も、たま~に新聞ネタになることもあります。

 

(北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士で、11世紀末に白河法皇が創設。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されたそうです。)

 

 

 (田井の道場・善行寺)

 

15世紀中頃の松田家は、加賀国石川郡の田井城を居城とする一向一揆の“タイシ”の棟梁松田次郎左衛門で、田井城については「加邦録」によると、奥村河内守の屋敷(現国立医療センター)から出羽町(石引4丁目)にかけての土地を居城とし、松山寺(八坂五山)あたりは二の丸、成瀬内蔵助宅あたりは三の丸(旧成瀬町)で、今の八坂の道はその頃は馬場で、そばの堀は馬を洗うために作ったと書かれているそうです。

 

 

(松山寺・田井城の二の丸)

(旧成瀬町(成瀬内蔵助屋敷跡)・三の丸)

 

(当時、田井村は金浦郷に属していました。金浦郷は石川郡と加賀郡(河北郡)にまたがる23ヶ村からなり、かっては河北郡(室町時代頃から使われていたようで、正式名称には元禄13年)が加賀郡といわれていた。田井、牛坂、牛首、土清水、館の5村は加賀郡(河北郡)で、その中でも田井は一番大きい村だったという。)

 

 

(旧成瀬町)

 

《タイシ》

タイシとは「太子信仰」を指します。聖徳太子を日本における「仏教の祖」として讃え崇めるという思想で、歴史は古く一説によると8世紀「日本書紀」の編纂の頃には存在していたとされ、聖徳太子を“日本の釈迦”として尊崇する貴族の仏教信仰であったと云われています。以降、日本に仏教が定着するようになって聖徳太子は日本の仏教の祖であるとして「太子信仰」が民間大衆にも定着するようになっていったとされています。平安時代に空海によって神仏習合(神と仏を一体とする思想)が広められた後に民衆に定着したとされ、その際に「聖徳太子伝暦」という聖徳太子伝説の集大成ともいえる書物が、太子信仰のバイブルとなっていたようです。

 

 

 (田井の道場・善行寺)

 

州崎慶覚坊の項で触れましたが、“長享の乱”の前、洲崎と松田はライバル関係にあり“ワタリ”慶覚坊次郎左衛門謀殺する事件が起こります。その事件は、慶覚坊密計を廻らし和睦を持ち掛け、日頃仲の悪い松田と甥の石浦主水を米泉の館に招いて酒宴を設け、宴たけなわとなる頃、突然、沈酔した松田を殺害します。

 

参考ブログ

俗諺"聖徳太子直作の木像

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10909421544.html

 

 

事件では、松田の馬丁三右衛門が、敵一人を討ち取り、浅手を負いながら逃れ出て、主人の馬で田井城に帰ります。洲崎松田を討ち取ったことに乗じて田井城に襲い懸ります。三右衛門は主人の討死を皆に告げ、防戦に励みますが勇激な者はみな米泉で討ち取られ、士卒は大将の討死に気落ちし色を失い、多くの士卒は城を捨て逃げ出したと言います。

 

 (田井城本丸跡)

 

田井城に残った士卒は10名とも20とも言われています。その上、松田の甥石浦主水の石浦の砦も陥落し、松田の妻は茫然として途方に暮れ自害をして夫の死出に伴うと言いますが、三右衛門は、それを諫め、主人の妻子を越中砺波の荒木(現南砺市)へ落とします。後にその子は城端城の城主になり荒木六兵衛(他資料には六右兵衛?)という。前田利家公が越中に出向いた時、松田次郎左衛門の由緒を聞き「甲斐々々しき者の子と感じ」子孫を召し抱え、家禄千石を賜り加賀藩に仕えました。子孫の荒木善太夫は代々東末寺(現東別院)と西末寺(現西別院)の間、極楽橋見付角に屋敷を拝領し、その子孫は廃藩まで居住したといいます。

 

 

(極楽橋跡)

(荒木善太夫の屋敷跡)

 

ところで荒木六兵衛は、馬丁三右衛門の子ではと言う説があります?実は、松田の妻子より聖徳太子(厩戸皇子)直作の木像を形見として三右衛門に与えられていたものを、利家公に召し出された時、この像を俗家に置くのを恐れ、子孫が田井村の道場に納めたという、この伝説が真実であれば?荒木善太夫は、馬丁三右衛門の子孫と言えるかも・・・・。

 

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 ほか


本多町界隈の一向一揆伝説⑤石浦主水

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【出羽町・本多町界隈】

前回、松田次郎左衛門の項で書きましたが、石浦主水は伯父松田次郎左衛門と洲崎慶覚坊の姦計に嵌り、米泉の慶覚坊の屋敷に招かれ酒宴で、伯父・甥共に泥酔して前後不覚に陥ります。主水はトイレに立つと、薮中に兵が数人隠れているのに気づきます。

 

 

 (今の石浦砦跡)

 

主水は、あわやと思い伯父を起しに行きますが埒があかず、いかに次郎左衛門が剛の者でも、泥酔していたので簡単に討たれ、お供の郎党や手の者も討たれてしまいます。只一人、次郎左衛門の馬丁三右衛門は、主の馬に跨り、田井城に帰ります。主水は堀を越えて道を尋ね、ようやく石浦砦に逃げ返ります。しかし、洲崎慶覚坊が多勢2手に分け、時を移さず田井城石浦砦を目指し旗が天をおう如く押し寄せられ、煙と火に覆われた田井城も石浦砦は落城します。

 

 

 (田井城跡・国立医療センター)

 

[石浦砦跡]

森田柿園の「金澤古蹟志」には、「加府事迹実禄」に云うとして、“石浦砦は、今の慈光院の地なりと。”あり、「三州志故墟考」では“長享の頃、賊師石浦主水、加賀国石川郡石浦に住す。これ堡(砦)は今の慈光院の地邊にありしか、・・・”とあるように今の鈴木大拙館(藩政期は長谷寺慈光院)の辺りに有ったことが窺えます。

 

 

 (今鈴木大拙館の石浦砦跡)

 

50年程前のお話です。今の鈴木大拙館のところに、その頃、地元では少ない東証一部上場会社某鉄工所社長のお屋敷がありました。立志伝中の社長で、他に短大の理事長のなさっていて、金沢の実業界でも頭一つリードしていたように思います。お屋敷は、立派なもので、その頃、お隣に印刷会社の社長で元金沢市長の私邸がありましたが、その家が霞んでしまうほど、金沢でも余り見かけない長い塀に囲まれ、塀の中は見ることができませんでしたが、庭には、後で知ったのですが、今、金沢21世紀美術館にある茶室(山宇亭)があったそうです。その頃でも、通るたびに、私には将来こんな家に住める筈かないと思うほどで、ため息が出て憧れ以上のものを感じたものです。ところがその家から毎日通学で行き交う女学生が出てきました。いつも2人の女学生が坂を上がってきました。私の通学仲間の1人が、もう1人の女学生と中学時代の知り合いで、たまに親しく話しているのを見て、そのお屋敷の君に親しく話しが出来るのではないかと密かに思ったものです。その頃から急に通学仲間が増えました。

 

 

(今21世紀美術館にある茶室)

 

多いときには下級生も含めて79人になり、私の家が待ち合わせ場所になり、束になって通学するようになります・・・。悲しいかな、その威圧感たるやその頃の自分たちには気づきませんでした。幼いですネ!!鈴木大拙館に行くたびにそんな甘酸っぱい思いといきがっていた頃を思い出す今日この頃です。あれから半世紀、続きは・・・、でも、この辺で・・・。) 

 

 

(大乗寺坂より加賀富士が見える)

 (大乗寺坂)

 

[石浦砦の外濠か?霞ヶ池]

今、北陸放送(MRO)の庭園にある霞ヶ池は、昔、もっと大きな池で、一向一揆時代より石浦砦の外濠であったと思われます。永い間に埋もれて、藩政期は本多家中屋敷の庭の池で今は沼のように見えます。池の名前は兼六園の大きな池と同名の「霞ヶ池」と呼ばれていますが、こちらは大昔からあったようです。

 

 

(霞ヶ池)

 

(今、本多町の金沢21世紀美術館の茶室の近く、畳屋橋の辺りは、「霞ヶ野」と呼ばれていたそうです。今、石浦神社の側が小立野台の崖下でその一帯が、毎朝、他所より多く霞が深く立ち、故に大昔より「霞ヶ野」と呼ばれていたようで、

その近くにあった池だから「霞ヶ池」と言われていたのでは・・・?)

 

 

(畳屋橋)

 

 

(つづく)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 ほか

 

本多町界隈の一向一揆伝説⑥山本若狭守家藝

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【本多町界隈】

前田家16代前田利為候は、15代利嗣氏に男子がなく娘婿として七日市藩系から16代として迎えられます。今の前田家当主(18代前田利祐氏)の祖父にあたります。七日市藩は今の群馬県富岡市七日市にあり、藩祖は、加賀藩祖の前田利家公の5男の利孝です。

 

(利為侯の建てた目黒駒場の旧前田家本邸)

(前田利為候)

 (旧七日市藩の藩邸跡)

 

参考ブログ

16代前田家のお殿様②軍人利為候(一)

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12151779543.html

 

 

加賀藩藩祖前田利家公)

 

利孝の母は、前田利家公の側室於古和(明運院)で、一向一揆の首領で石浦砦を守備していた山本若狭守家藝(祖は山本圓正、浅野川左岸諸江に拠点)の娘でした。若狭守家藝は一向宗(浄土真宗)11世の顕如の下で、これ以上抵抗しても無益だと悟り利家公に従い、以後、一揆を収束させる為に働き、その労により利家公は石浦砦跡に、焼失した石浦山王の氏子たちと神仏習合の真言宗石浦山長谷寺(慈光院)の建立を認めたといわれています。

 

 (石浦砦跡・現鈴木大拙館裏)

 

家藝の娘於古和も京の前田屋敷に召し出され、利家公の側室として利孝を産み、利孝は11歳の時、芳春院(まつ)と江戸へ人質として出され、芳春院が帰った後も残り、徳川秀忠に従い大坂の陣で戦功をあげ、元和2年(161612月に幕府から七日市一万石を拝領。於古和はその後、京都の町人山田勘兵衛へ入嫁し、勘兵衛の死後、「妙(明)運」と号し、以後、利孝の元で暮らし、慶安元年(1648)36日に逝去されました。

 

(利孝は利家公の死後、異母兄の利長公が徳川家康と本多正信の主従の画策で「幻の家康暗殺事件」の疑惑をかけ、利長公の生母芳春院(まつ)と共に人質として江戸で幼年期を過ごします。芳春院の帰国後も江戸の残り、幾多の功績から七日市藩を拝領。以後、小藩であったため、本藩加賀藩の財政的援助を受け、また本藩のサテライトとして明治維新まで存続しました。)

 

(七日市藩の系図)

 

(安政の古地図より)

 

[金澤古蹟志では]

石浦砦は、石浦主水が洲崎慶覚坊により落城以来、天正の頃に至り山本若狭守家藝が砦跡を修造し、尾山本願寺(金沢御堂)の守護になり本願寺の下知に随い、この地辺を押領して一揆の魁首となっていますが、天正8年(1580)閏3月、柴田勝家、佐久間盛政が加賀国に討入り尾山本願寺(金沢御堂)以下要害はことごとく落却し、石浦砦も例外でなく山本若狭守家藝も討死したとありますが、信長記、北陸七国志等には書かれていなく、利家公に仕えたのか?は薮の中です。

 

 

(七日市藩の家紋・利家公と同じ紋)

 

山本若狭守家藝は土着の人のようです。城州上賀茂の社蔵注進雑記に載っている永正・享禄中の加賀国金津庄の古文書に、山本興五郎・山本民部丞・山本越前守などの名があり、これらの人々の子孫であるのではと考えられます。富樫記の官地論に、長享2年(1488)石川郡高尾城へ富樫政親の籠城を取巻いた本願寺一揆の賊将中に、山本圓正入道という名前があり、この山本圓正は江沼郡那谷の近くの山本村より出ている人ではといわれています。その山本氏の人々と若しくは同族で山本若狭守家藝もその子孫だとすれば、山本圓正以来世々本願寺の下知に随ひ、一揆の魁首となり、組子を支配していたのでしょう。

 

(この項おわり)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 

本多の森公園と文化施設

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【兼六町・出羽町・石引】

本多の森公園は、兼六園の南側に位置し石川県営の都市公園で、多くの文化施設が整備されています。公園開設は昭和53年(197841日で、敷地面積は5.9ha。開設者は石川県ですが、平成19年(2007)からは指定管理者制度を導入し、公園の管理は指定管理者の「植宗・吉村グループ」が行っています。

 

 (本多の森公園の歴史博物館の門柱)

 

このあたり一帯は、藩政期に加賀藩の筆頭家老本多家上屋敷と武家屋敷が連なる出羽殿町があったところです。 明治期から終戦まで陸軍の施設と練兵場、後に練兵場は陸軍病院の分院になり、戦後は市立金沢美術工芸大学や金沢女子短大の学校用地として利用されていました。周辺は藩政期からあった緑濃い森でおおわれ、森の中には歴史博物館、美術館、能楽堂をはじめとする文化施設が多く、一帯は「兼六園周辺文化の森」として、また、石川県立美術館の裏にある「美術の小径」「歴史の小径」を下ると本多町の「本多公園」で、市立の中村記念美術館鈴木大拙館に繋がっています。

 

 

(本多の森公園の案内図)

 

[本多の森公園の文化施設]

石川県立美術館920-0963 石川県金沢市出羽町2−1

別館石川県文化財保存修復工房)

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwic9OSYtIDWAhXIgbwKHYxXC9MQFggoMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.ishibi.pref.ishikawa.jp%2F&usg=AFQjCNElaro8v5BgVuOISW4vJZ-W_D7T1A

 

( 石川県立美術館)

( 石川県文化財保存修復工房)

 

 

石川県立歴史博物館 920-0963 石川県金沢市出羽町3−1

金沢美術工芸大学の建物を、金沢市から譲り受け、昭和61年(1986)に開館しました。施設は、本多の森公園の緑に囲まれ、多くの文化施設に隣接しています。平成25年(20133月からリニューアル工事が行われ、北陸新幹線開業後の平成272015417日、「いしかわ赤レンガミュージアム」の一環として、敷地内で同居する加賀本多博物館と共にリニューアルオープンしました。建物は明治42年(1909)から大正3年(1914)に建てられた金澤陸軍兵器支廠の兵器庫3棟で類例の少ない建物で平成2年(1990)に国の重要文化財に指定され、平成10年(1998)には旧建設省の50周年を記念した公共建築100選の一つに選ばれています。

 (石川県立歴史博物館)

 

加賀本多博物館 920-0963 石川県金沢市出羽町3−1

加賀藩の家老を務めた本多氏の所蔵品、約1,000点をもとに、藩老本多蔵品館として1973年に開館しました。藩主からの拝領品が多くありますが、中でも豊臣秀吉が命名したとされる「村雨の壷」は、初代本多政重が藩主前田利長公から5万石の加増を固辞した時に代わりに拝領したもので、「五万石の壷」という異名があります。 一旦閉館したのちに、2015417日に石川県立歴史博物館敷地内に同居する形で「加賀本多博物館」としてリニューアルオープンしました。

 

  (加賀本多博物館)

 

[周辺の建造物]

石川護国神社 920-0935 石川県金沢市石引4−18−1

戊辰戦争で戦死した加賀藩の108人の霊を祀るため、明治3年(1870)に加賀藩14代藩主前田慶寧公が卯辰山の鳶ヶ峯に創建した招魂社で、境内が狭く式典を行うのが困難であったため、昭和10年(1935)現在地である旧陸軍小立野練兵場の一角に遷座します。昭和14年(1939)石川護国神社に改称した。

 

 

(石川護国神社)

 

平成12年(200084日、境内の参道に「大東亜聖戦大碑」が建立され、平成22年(2010年)1011日、「輝く天命戦の真実を知れ」と題する副碑の落慶記念式典が催されます。当時、石川護国神社も県の都市公園「本多の森公園」の敷地内に含まれていました。

 

 (大東亜聖戦大碑)

 

 

(私の記憶では「大東亜聖戦大碑」は、特定の団体が独自の主張で建てられたということで、その頃、本多の森公園から外されたと新聞が書き立てていたことが思い出されます。)

 

本多の森ホール・石川県本多の森庁舎 9200935金沢市石引4丁目17

北陸電力会館本多の森ホール(旧石川厚生年金会館):石川県立美術館・石川県立歴史博物館・加賀本多博物館・成巽閣・石川県立伝統産業工芸館・石川県立能楽堂などの隣に位置し、一部庭園部分は本多の森公園に属しています。石川県営兼六園野球場(1973閉鎖)の跡地に昭和52年(197751日に石川厚生年金会館が完成しました。建築家黒川紀章の設計で、熊谷組が施工し、許される建蔽率を最大限利用し、野球場の外野席跡の半丸の形状に沿った扇形の外観で、収容人数は1707席で、今、金沢で2番目に大きさのホールです。平成21年(20091016日にホール部分が「北陸電力会館 本多の森ホール」として開館しました。

 

 

(本多の森ホール)

 

(ホールの名称ですが、ホールは石引4丁目にあり、また、本多の森公園の敷地からはずれていますが、隣りに位置することから「北陸電力会館本多の森ホール」と命名されたのでしょう)

 

厚生年金の不祥事から、平成17年(2005)に施設保有権が社会保険庁からRFD(独立行政法人年金健康保険福祉施設整理機構)に移管され民間への売却が検討され、財団法人厚生年金事業振興団が平成21年(2009)まで運営していたRFOの石川厚生年金会館の大ホールは、北陸電力が9億円で落札されました。

 

 

(本多の森ホール・石川本多の森庁舎)

 

石川県本多の森庁舎:旧石川厚生年金会館のホテル、結婚式場の部分は石川県が取得し、これまで利用していた「石川県広坂庁舎」を廃止し、平成23年(2011314日に「石川県本多の森庁舎」として開設。現在、石川県立生涯学習センター、ジョブカフェ石川などが入居しています。

 

 

石川県立能楽堂 920-0935金沢市石引4丁目183

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjX58rksoDWAhWCe7wKHYLPBrAQFggoMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.ishikawa.lg.jp%2Fnougakudo%2Fnougakudoutop.html&usg=AFQjCNEy4akJOfgqjRDsjptNfEJoHNkQSA

 

(石川県立能楽堂)

 

成巽閣 920-0935金沢市兼六町12

金沢 加賀前田家の奥方御殿成巽閣

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiir9fYsYDWAhUJabwKHfusDbMQFggoMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.seisonkaku.com%2F&usg=AFQjCNHPZX1qTO0quQnMp_MfUUEKQptreA

 

 

  (成巽閣)

 

石川県立伝統産業工芸館 920-0936石川県金沢市兼六町11

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjo8LPzsIDWAhUMfLwKHVa9DNsQFggoMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.ishikawa-densankan.jp%2F&usg=AFQjCNEibQY6nm4B1q-kLJoKmyYxohbyQA

 

 

疑問:Googleの地図に「出羽町公園」とあるのは、本多の森ホールの裏の庭園を言うのではなかと思いますが、その入口に「本多の森公園」のポールが立っています。何故そうなったのか?その経緯などご存知の方教えていただければ幸いです。

 

 

(本多の森公園の看板・本多の森ホールの横)

 

参考資料:石川県/本多の森公園(金沢市)-石川県ホームページ

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjMlo39k_7VAhWEe7wKHVC3B-IQFghMMAM&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.ishikawa.lg.jp%2Fkouen%2Fmap%2Fpark%2Fhonda%2F&usg=AFQjCNESCbtKcH7JSqe0V8zP5UmUxCe4sg

本多の森の主!!初代本多政重①渡奉公

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【出羽町】

本多の森は、原生に近い植生が残る緑豊な小立野台の一角にあり、金沢城の西南に位置します。1万坪余りの広大な敷地は、加賀本多家初代本多政重が加賀藩に再仕した慶長16年(1611)の翌年に上屋敷として拝領します。この上屋敷は当主と家族の住居ですが、本多家の家臣(陪臣)が出仕する場所でもありました。

 

 

(本多家では、例えば寛文11年(1671)の家臣は、給人(知行取り)167人、小姓組60人、歩組177人、足軽140人、小者328人の合計872人とあり、他に侍女は記録のないので、よく分りませんが当主の家族も含めると大変な大所帯であることが分りきます。それらの本多家の陪臣団は、家中町(現在の本多町周辺、約10万坪)を形成して「安房殿町」と呼ばれていました。)

 

 

 

 

 

藩政初期は、まだまだ実力主義や下剋上の風潮が残っていたとはいえ、本多政重は始め徳川家に仕え、その後、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則、前田利長、上杉景勝、前田利光(利常)と七人の主君を仕えた「渡奉公」といわれていますが、周りからは徳川を背負っているように見え、仕えた大名の期待もさることながら、声にならない妬みや反感は半端ではなかったもの想像されます。

 

「武士は二君に仕えず」といわれますが、これは徳川家康が天下を取ってから儒学者の林羅山が中国の古典「史記」から引用したものだと言われています。)

 

 

政重は、天正8年(1580)三河国(現在の愛知県)岡崎辺りで生まれます。本多正信の次男で兄は正純。正信は、謀将として知られた人物で、政重が前田家に斡旋される段階では、2代将軍秀忠を補佐するほどの実力者で、兄正純は、駿府で政治を執る大御所徳川家康の側近中の側近で、政重は、飛ぶ鳥を落とす勢いの門閥の次男坊でした。

 

《参考》

本田正信~智謀を振るった徳川家の名参謀-戦国武将1000記事

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwim-_nW4YzWAhVKfrwKHf7JAc8QFggyMAE&url=https%3A%2F%2Fsenjp.com%2Fhonda-masanobu%2F&usg=AFQjCNE34CBs7M-5TUbKc-_GwLb1-_203Q

 

政重が親元で育ったのは12歳まで、その頃、徳川家の譜代の家倉橋長右衛門の養子となり名は倉橋長五郎と改め、14歳で徳川家にはじめて奉公し、天正18年(1590)には、家康の関東移封に従い江戸に入ります。ところが18歳の慶長2年(1597)に徳川秀忠の乳母大姥局の子岡部荘八を諍いの末に斬殺し江戸に居ることが出来ず出奔します。出奔後は大谷吉継の家臣となり、その後、宇喜多秀家の家臣となって2万石を与えられ正木左兵衛と称します。

 

(岡部壮八の斬殺では、朋友の戸田為春が加担していたといわれています。)

 

 

慶長5年(1600)の関ヶ原では宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦しますが、西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲。西軍方ではあったが家臣の立場でもあり、正信の子であったためともされるが、罪には問われませんでした。その後、福島正則に仕えますがすぐに辞去し、慶長7年(1602)には前田利長公3万石の家臣として仕えます。しかし慶長8年(1603)旧主宇喜多秀家が家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多氏縁戚の前田家を離れます。

 

 

 

この頃、父正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣直江兼続は、慶長9年(1604)閏8月政重を婿養子に迎え兼続の娘於松を娶り、上杉景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称しています。兼続は勝吉に幕府権力と結びついて上杉家を取り仕切る役割、実子の平八景明には江戸における対幕府交渉の役割を期待し「直江体制」の維持・強化を図ろうとします。慶長10年(1605817日に於松が病死しますが、兼続の懇願により養子縁組は継続され、慶長14年(1609)に兼続は弟大国実頼の娘阿虎を養女にして嫁がせます。慶長14年(16095月末から7月初旬までの間に本多安房守政重と名乗ります。

 

(上杉家中では受け入れに反対する声もあり、直江兼続の弟大国実頼が政重を迎えに上京した使者を斬殺して出奔したと言われます。他家の人間に直江の家を渡すのは許せなかったのでしょうか・・・。)

 

 

 

慶長16年(1611)に上杉氏のから離れ武蔵国岩槻に帰りますが、慶長17年(1612)に幕府は、政重を前田家に送り込もうとして藤堂高虎に仲介をさせ、その結果、政重は前田家に帰参し3万石を拝領。家老として若い前田利常公(利長の弟)の補佐にあたります。

 

 

阿虎は、加賀にいる政重の許へ入りますが、この時に本庄長房(政重以前の兼続の養子)、鮎川秀定、志駄義種、篠井重則ら多くの者が上杉家の了解のもと、政重に仕えます。加賀本多家中の半数以上を旧上杉・直江家臣出身者が占めるのはこのためで、これには上杉家のお家の事情による人材、禄高減らしも窺えます。

 

(上杉家は関ヶ原後、米沢に移り30万石(以後15万石・18万石)になりますが、会津120万石当時と藩士は同数の6000人を抱え、藩の財政は困窮を極め、武士はクワ持ち、女達は機を織って生計を立てたといわれています。)

 

(つづく)

 

参考文献:「嵐のあしおと―近世加越能の群像―」田中喜男編(大野充彦著)株式会社静山社 198212月発行 「高岡法科大学紀要第20号 本多政重家臣団の基礎的考察―その家臣団構成について」本多俊彦ほか

本多の森の主!!本多政重②親の七光り

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【出羽町】

本多政重の帰参について加賀藩は拒否するどころか、徳川家との今後の関係悪化を懸念し幕府の意向の従うしかないと思っていたらしく、慶長16年(1611812日、藤堂高虎の斡旋から3ヶ月後に政重に利常公は5万石という破格の家禄を約束します。さすがに政重はその内2万石は辞退し、旧禄の3万石で登用されます。

 

   

  (本多家上屋敷跡)

 

当時、前田家では、徳川ににらまれるような、豊臣縁故の侍が多く召し抱えていたので、家中に何か騒動でも起これば、ひとたまりもなく潰されてしまう恐れから、幕府の意思を背負った政重に、家臣団統制を委託しようと利常公は政重に、「しまりの儀、まかせ入申候」とその任務を執拗に要請します。

 

ところが政重は、利常公の意図に従わず、なかなか家臣団統制の任務を引き受けようとはせず、新参者で若輩の身“御年寄衆なみの御奉公はいよいよ御免”にしてほしいと利常公の要請を蹴飛ばしますが、幕府との仲介については進んでやろうと約束します。

 

 (本多蔵品館パンフより)

 

慶長18年(1613)前田家に幕府が突如利長公の隠居領である越中国新川郡を召し上げると言い出し、政重は前田家の意を察し、江戸や駿府に事態の収拾につとめ奔走、その間、政重の人脈を活かし江戸や駿府へ7度も出向き、前田家は、事なきを得たと伝えられています。この功績により2万石を加増され、政重は、前田家に不動の地位をきづきます。

 

(本多家の言い伝えによると、この功績により本多家に、さらに5万石から10万石への加増の話がありましたが、政重が辞退したため、代わりに「村雨の壺(ルソンの壷)を拝領したという。この壺は別名「五万石の壺」とも呼ばれ、本多家ではとりわけ大切にされ、現在、「加賀本多博物館」で展示されています。)

 

≪参考ブログ≫

加賀本多家の歴史・名品-加賀本多博物館

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiN94Wn-5LWAhXHfrwKHeT_DDEQFgh2MAU&url=http%3A%2F%2Fhonda-museum.jp%2Fhistory-gallery%2F&usg=AFQjCNFG1J1LN2w21Ve0w46UQwb8KX8B5Q

 

慶長19年(1614)大坂の陣を前に、前田家からの使者として、江戸や駿府へおもむいた政重が、家康や秀忠、そして、父や兄と何度も会談をし、前田家に対する徳川の信頼を勝ち取っています。

 

 

(加賀本多博物館入口)

 

政重は、大坂の冬陣では前田家の先鋒として従軍しますが、真田幸村(信繁)に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、幸村(信繁)は後世に名を残します。この敗戦の後に兄本多正純の命を受け、真田信尹(徳川家康旗本・幸村の叔父)と連携して幸村を水面下で調略に当たったと言いわれていますから、なかなか、侮れない人だったようです。

 

(政重が、真田幸村に提示した条件は「信濃一国」と言う破格のものであったと言われています。)

 

慶長20年(1615)閏63、従五位下安房守に叙任され、翌元和元年( 1616) 家康死去、父本多正信も死去します。元和5年 (1619)には、 二男政久を人質として江戸に差し出します。

 

 

 (本多家上屋敷跡・現石川県立歴史博物館)

 

元和8年(1622)には、宇都宮155千石の兄正純は「日光釣天井事件」で失脚では、一歩間違えれば悲運の底に転落のところ、幕府から一ヶ月後「いまで同様、前田家のもとで奉公にはげめ」と書状が届きます。兄の罪は問わないというもので、当時、罪は一類に及ぶという連座、縁座を免れ、政重は大きな七光りを失う事となりますが、これ以降は、幕府に対する交渉の術もなくなってしまった事になりますが、この頃には、政重は、もう、どっぷり前田家の人となり、政重本人の人格によって受けた篤い信頼は、もはや、父や兄の七光りを使う必要もなかったものと思われます。

 

(かって仕えた主君は、大谷吉継は関ヶ原で果て、宇喜多秀家は流罪、福島正則は改易となり、養子先の直江家は断絶。さらに、権勢を誇った本多の総領家さえ断絶する中で政重の家系は、前田家の八家として末永く存続します。)

 

 (本多家上屋敷図)

 

正保4年(16473月にようやく致仕し、4男政長に相続。その3ヵ月後、63日政重は病を得、しずかに生涯を閉じます。法号「大夢道中」享年68歳。死因は主君前田利長公と同じ悪性腫瘍であったと言われています。

 

(本多政重の項おわり)

 

参考文献:「嵐のあしおと―近世加越能の群像―」田中喜男編(大野充彦著)株式会社静山社 198212月発行 「高岡法科大学紀要第20号 本多政重家臣団の基礎的考察―その家臣団構成について」本多俊彦ほか

出羽町と篠原出羽守一孝

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【出羽町】

出羽町という町名は、藩政初期から元禄の頃まで出羽殿町。以後幕末まで出羽14番町と呼ばれていたようです。一番町(丁)は篠原出羽守一孝の屋敷地(NTT出羽町ビル)で、24番丁(町)は上・中級の武家の邸宅で数10戸の武家屋敷が建っていましたが、廃藩後、追々屋敷が朽ち田畠になったといいます。

 

 (篠原家跡)

 

明治4年(1871)には藩政期、奥村家の下屋敷(家中町)を出羽町5番丁に改め、明治19年(1886)には1・23・番丁と4番丁の一部と隣の下鷹匠町や欠原町までの5万余坪を軍が買上げ高低差を平均し出羽町練兵場になり、やがて一部が軍の施設になります。民家はありませんが地図には地籍は残っています。

 

 (出羽町練兵場跡)

 

(軍事施設:師団長官舎(現県立美術館別館)第九師団兵器庫(現県立美術館・県立歴史博物館)偕行社(現能楽堂他)官祭招魂社(現石川護国神社)ほかに水道低区配水地(現石引駐車場)など、昭和10年代の地図より)

 

 

 (軍事施設跡)

 

昭和39年(196441日の住居表示の改正により、出羽町は、大通りの旧下石引町も含めて、大方が石引4丁目になり、昭和39年(1964)以前、藩政期本多家の上屋敷のあったところは下本多町と呼ばれ、崖下に広がる藩政期本多家の中屋敷や下屋敷のあったところと同じ本多町(上・中・下)で括られていましたが、昭和39年以降は本多家の上屋敷跡が出羽町に変ります。

 

 (幕末地図の本多家と篠原家)

 

藩政期も篠原家より本多家は格上で、敷地も旧本多家の方が広いのに、本多町ではなくて出羽町なのか疑問も残りますが、苦肉の策か?まずは出羽町の町名が消えず、明治4年から昭和39年と少し違う場所ですが出羽町の名が残りました。現在の出羽町は、出羽守所縁の篠原家の一部邸地跡にNTT出羽町ビルが建ち、隣には石川県立歴史博物館と石川県立美術館と別館の3館があり、民家はありません。

 

 

(篠原家跡)

(本多家跡・真ん中の入口までが本多家)

 

[篠原出羽守一孝]

永禄4年(1561)尾張国に生まれ、幼名虎、後勘六。前田利家公の妻まつの従兄弟篠原弥助長重の養嗣子で、後に利家公の弟佐脇藤八郎の息女を娶ります。16歳の時、越前府中で前田利家公の近侍となり、禄130石を賜り、次いで柳瀬及び末森の役に功がり、天正18年(1590)豊臣秀吉東征で利家公に従い出陣。

 

 

(篠原家の門・現在は彦三緑地の門)

 

天正19年(15916月従五位下肥前守に叙任、後に利長公の肥前守を称するに及び出羽守と改め、文禄4年(15951700石。慶長4年(1599年)、利家が大坂で死去した際には嫡男利長公に充てた遺言で「出羽の事、せがれより我等側に召仕、心持能く片口なる律義者にて、城など預け置候て能き者にて候。その上末森の時分、若年に候得共手前殊の外能く候間、我等姪聟に致し候。関東陣之刻も八王寺にて能く候。」と載せられています。「口が堅く律義者」なので重用するように指示しています。

 

利長公の時代には横山長知や奥村栄明と共に執政として国政を司り、大坂の陣にも参陣し大坂両陣の後15,650に上り、元和2年(1616722日夜に没し享年56歳。

(古い記述には多く篠原を笹原と記載されています。)

 

参考文献 :「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 など

 

城普請の名人篠原出羽守一孝

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【金沢城公園】

篠原出羽守は、利家公が遺言にあるように、口が堅く律義者で、しかも末森の戦いでは病気を押して出陣し小田原征伐でも力戦。大坂で利家公が亡くなると棺を守って加賀に帰ったことでも知られ、大坂の冬・夏の両陣では部隊長として活躍するなど、前田利家公の信頼を一身の集めた勇猛な武将であったことは言うまでもありませんが、城づくりにおいても前田家では客将高山右近と並び称せられる築城の名人でした。

 

 

 (初期の石垣・丑寅櫓)

 

加賀藩最初の通史といわれている「三壷聞書」を要約すると、文禄元年(15922代利長公が初代利家公の命による金沢城の高石垣普請で、東の方が2度も崩れ、なかなかうまく積むことが出来ず、利長公は悩んでいたところ、上方にいた利家公は、家臣の篠原出羽守に石垣の施工方法の詳細を指示され、金沢に下った篠原は石垣普請の采配に取り組みます。これが利長公にとって面白くなかったのか「出羽よ、父上が指示された通りにやるがよい。」と、さっさと越中守山城に帰ってしまいます。

 

 

(東丸の2段積みの石垣)

 

篠原出羽守は、8割まで石垣を築いたところで、少し段を設けて高石垣を完成させます。利長公はこの工法が気にくわず、腹を立て「途中に段のある石垣にするのなら、誰も苦労はしない。我は段を作らず、すっきり上まで積み上げたかったのだ。その方がずっと攻防性に優れ、見た目もあっぱれではないか。しかし、出来栄えはまずまず上々じゃ」と利長公は嫌味を残したと伝えられています。

 

(利長公が越中守山城に帰ったのは、ふてくされヘソを曲げて帰ったというよりも、金沢城修築と同時に守山城や守山城下町の修築を進めるためだとか、金沢に滞在している間に守山城で家臣たちの小競り合いがあり利長公としては越中の家臣の意思統一が、尤も重要だったためだと言われています。)

 

 

 

 (初期の自然石積み)

 

金沢城の修築は、文禄・慶長の二度にわたる秀吉の朝鮮出兵で名護屋城や朝鮮で造られた倭城の築城と平行して進められ、肥前名護屋・大坂・京と秀吉に随行し、補佐役として陣頭指揮にあたっていた前田利家公は、名護屋城や倭城の高度な石垣技術を金沢城の高石垣に活用、篠原出羽守に指示し修築したと言われています。

 

 

 (石積みの解説)

 

その後、慶長4年(15998月、2代利長公がお国入りなされ、篠原出羽守は越前金津までお出迎えに出、金津で御飯を用意しますが、利長公は食事を取らず直ぐに立たれ、出羽守は面目を失いますが、少しも屈せず、急ぎ金沢に帰り、御落着の御膳を用意します。利長公はご機嫌も直り、快く御膳を召上り、それより利家公の時のように召仕えるようになったと言われています。

 

 

(高山右近の西内惣構)

 

また、3代利常公が家督相続以前のことですが、金沢城の河北門の升形を築きますが、篠原出羽守が上方から御使いで帰り、出来上がっていた高山右近の用意した石を見て「この所は、お城の大手なので、門の石が小さくてみすぼらしい。」と言い、打ち壊し築き直したことに利常公は「もし家督を御譲られれば、出羽を成敗する。」とが腹を立てますが、いざ家督が譲られるとなかなか成敗も思いいたらず断ち切れになってしまいます。

 

 (左東内惣構・右東外惣構)

 

[篠原出羽守一孝と高山右近]

こんな話もあります。金沢城の惣構ですが、安土桃山時代や江戸時代初期に城を防御するために造られた堀や土居で、金沢城では二重になっていて、内惣構は慶長4年(1599)に2代藩主利長公が高山右近に、外惣構は慶長15年(1610)に3代藩主利常公が篠原出羽守に造らせています。

 

 

(高山右近像)

 

 

篠原出羽守一孝と高山右近は、互いに金沢城の修築や造成に取り組みます。惣構でも内惣構が右近、外惣構を一孝が担当し共同作業も多かったと思われますが、信義と出しゃばらない性格の右近と、無口で頑固ですが律儀で信義を重んじる一孝は、表立って対立はしていなかったらしいが、個人的な付き合いはさすがになかったものと思われます。

 

 

 (櫓の石垣)

 

大阪の陣を前、慶長19年(1614)幕府の大禁教令「伴天連追放文」の発布で、高山右近に金沢退去命令が下り、長崎までの護送役が篠原出羽守でした。加賀藩が用意した囚人護送用の籠を見て「加賀藩に多大な功績を示した高山右近に対して、無腰でこんな物に乗せるのは言語道断。途中で逃げたり、刺客に襲われた時は、私が責任を取って切腹すれば良いだけだ!!」として、上級武家の輿を用意させ、自分の大小刀を右近に差し渡そうとしたと言われています。

 

さすがに右近も「ご厚意はかたじけないが、殿(利長公)や若殿(利常公)の意に反する。」と大小は辞退したと言われています。本音のところで主義や立場での反目はあった二人はお互いを認めあっていてことがよく分る逸話です。このことからも加賀藩では武士の鏡として篠原出羽守一孝は尊敬と称賛を集めたと言われています。

 

 

 (金沢に残るキリシタン灯篭)

 

篠原出羽守は、利家の妻お松の方の従兄弟の養子で、妻は利家公の姪と前田家一門です。一時は2代利長公3代利常公に煙たがられますが、優秀で律儀者な出羽守は、仕えた3代の藩主には信頼が篤く、また、それに応え前田家のために尽します。

 

参考文献 :「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行。「高山右近」加賀乙彦著、講談社 平成11年発行:ほか


本多家上屋敷は太田長知の屋敷跡

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【出羽町・金沢城】

太田長知(おおたながとも)、サァ~誰や~ァ・・・?って事になりますが、長知は加賀藩初期の重臣で利家公の正室お松の方(芳春院)の姉の子、第2代藩主前田利長公の従兄弟でした。天正15年(1587)九州征伐の豊前巌石城戦や天正18年(1590)武蔵八王子城攻撃で軍功をあげ、慶長5年(1600)利長公の大聖寺攻めに従い、帰途浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍を勤め奮戦します。叙爵は従五位下但馬守。禄高は15千石。 屋敷は今の石川県立美術館辺りにありました。

 

 (今の県立美術館辺り)

 

[太田但馬守長知御成敗の事]

その太田但馬守長知が慶長7年(160254。金沢城内で前田利長公の命により横山長知に殺害されます。利長公は初め山崎閑斎と横山長知の2人に太田殺害を命じますが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗します。

 

(金沢城)

 

成敗の様子は、幾つかある文書では多少違うそうですが、利長公の言行録「象賢紀略」では、この時、太田は横山の帷子を斬り、助太刀の勝尾へも肩に一太刀をあびせ、更にその場にもう一人いた者にも、転んだ拍子にそのすねに脇差があたり、3名に怪我を負わせて、必死で防戦したとあり、後々人々はこの太田の奮闘ぶりを賞賛したといわれたそうですが、殺害された長知の遺体を利長公は城内の極楽橋の橋詰めに置き見せしめとします。

 

(今の極楽橋)

 

横山長知(よこやまながちか)は、山城守、通称大膳といわれ、禄高は3万石。加賀八家の一つ横山家の2代目です。 天正10年(1582)父長隆とともに前田利家公に仕え、慶長4年(1599)には、利長公が家康から謀反の嫌疑を受けた時、弁明に赴き、前田家は事なきを得た功労者です。「伴天連追放文」の発布で、高山右近に金沢退去命令が下った時、右近と縁戚関係にある横山親子は京都に閉居しますが、大阪の陣の時に参戦し、その後は加賀藩の執政として国政を預かります。 (永禄11年(1566)~正保3年(1646))

 

山崎閑斎、長門守長徳(やまざきながのり)は、天正11年(15834月の賤ケ岳合戦後、利家公、利長公に仕え、慶長5年(1600)加賀大聖寺城攻撃の軍功により加増され、1万4千石領有します。(天文21年(1552)~元和6年(1620))

 

 

 (前田利家公銅像)

 

[太田但馬守長知殺害の理由]

長知は数々の戦で利長公に従って種々の戦功を挙げてきました。浅井畷の戦の後にはその戦功をねぎらって感状を送られ、利長公にとっては従兄弟であり功績者の一人でした。誅殺されたことが近隣の国々に知らされると、いずれの藩も事情が飲み込めず、何故、誅殺されたのか訳もわからず困惑気味だった様子を伝える文書が残されています。加賀藩に於いても太田が屋敷で、狐の子を殺した報いで殺されたと訳の解らない話が飛び交い、取り調べもしないままの太田殺害には狐の仕業としたことに、利長公は後悔したといわれています。

 

 

 (今の県立美術館辺り)

 

どうやら太田殺害の原因は、太田の利長公妾との不義密通といえそうです。太田粛清にあたり、横山と共に利長公の命を受けた山崎閑斎は、約束の時間に遅参し、直接殺害には関わらなかったことで、事件の後それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったと言われているのは、その事に連座した女中の中に山崎の縁者がいたからだと伝えられています。

 

「象賢紀略」には、太田が殺された後、御手掛衆(妾)の「おいま」をはじめ、中使の者5人が目を竹筒で抜かれ、見せしめとして家中の人持衆十人ほどに示し、その後殺害されたと言われています。

 

「象賢紀略」は、別名「利長公御代之おぼへ書」とも言われています。)

 

(金沢城の石垣)

 

他の文書に「太田但馬守誅せらるヽ事」と言うのがあり、その文書では太田は関ヶ原以後、江戸への御使を勤めていますが、家康とたいそう懇意になり、浅井畷のことを尋ねたりして饗応し、馬や刀などまで賜り、利長公はこれを聞いて「如何思召候哉」と言われたとあり、横山と山崎に太田の殺害を命じたのだと書かれているそうです。

 

太田の不義密通、そして、あまりに懇意になりすぎた家康と太田の関係、家中が横山派と太田派の二つに割れる危機。これらが複雑に絡み合った結果、太田の誅殺されたのが真相のようです。

 

 (今の金沢城石川門)

 

この事件の前年慶長6年(16019月に、徳川秀忠の2女珠姫が利長公の養嗣子後の利常公のもとに輿入れされ、公儀の手前、太田の不義密通、幕府と太田の関係、そして家中が二つに分かれることはなんとしても隠し通さねばということもあったのか・・・?はたまた利長公の嫉妬か・・・?

 

そのために作られた狐の話だったのでしょうか?狐の報復による奇異な事件とすることで真相を闇から闇へ葬り去る必要があったのでしょうか?

 

真相が解明されない不可解な事件だけに、殺された太田に同情する者がいたり、ひいては利長公自身がそれを悔やんだりといった話が出来上がったのでしょう。

 

参考ブログ:

二人の長知~太田但馬守誅殺事件~

http://shungansho.fc2web.com/mayoimiti/mayoi~4.htm

出羽の皿屋敷は“更屋敷”

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【石引4丁目】

皿屋敷!!と聞けば「播州皿屋敷」「番町皿屋敷」などの怪談話を思い出します。お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「いちま~い・・・にま~い・・・ 」と皿を数える気味の悪い情景を想像し、ビギリまくる人もいそうですが、藩政期の金澤城下には56箇所もあったといいます。

 

 

 (本多の森ホールから広坂方面を望む。下がっている)

 

幕末から明治の郷土史家森田柿園(平次)がまとめた「金澤古蹟志」第四編 巻十 城東小立野臺中の「皿屋敷」には「出羽一番町入口也。延宝金澤図16731681に、永原左京第地と出羽一番町の入口との間なる明地となしたり。・・・・」と書かれています。その明地は、宝暦(17511764)のころより明治維新まで藤田氏邸地だった屋敷地が皿屋敷と言われたところでした。

 

 

 (能楽堂前の皿屋敷跡か?)

 

昔から、低地で水捌けが悪いところを皿屋敷と言ったらしく、ここ藤田氏邸地は延宝以前より明地で、皿屋敷と言われたのはかなり古く、昔から、そこはいばらが生い茂る湿地で子供等に語る昔ばなしでは、播洲皿屋敷はこの辺りだったのでは?と言われていたそうです。

 

 

 (金沢神社裏下っている)

 

この播洲皿屋敷伝説は、大筋ではアッチコッチで言われている皿屋敷伝説と概ね同じく「お菊」と言う腰元(金沢では下女)が、お揃いの南京皿を1枚壊し、それに怒った小幡播磨という武士により殺され死骸を井戸に投げ込まれたと言う話で、毎夜死霊が現われ残った皿を数えだし泣きだすというもので、小幡播磨はどうも実在の人物で、何でも父小幡駿河と共に2代藩主利長公に仕え、小幡播磨は父の遺知7000石を拝領していたが、播磨の後はお家断絶になったと伝えられています。

 

 (能楽堂前から石川県立美術館)

 

参考:最近、金沢歴活の「金沢怪異・怪談」2017729日と30日の前・後編に金沢の皿屋敷のことが、詳しく書かれています。

 

(石川県立美術館より成巽閣を見上げる)

 

皿屋敷は更地のことだったの?

金沢の皿屋敷伝説の謎(前編)

皿屋敷伝説は群馬からやってきた?

金沢の皿屋敷伝説の謎(後編)

http://rekikatsu.com/category/%e9%87%91%e6%b2%a2%e3%81%ae%e6%80%aa%e7%95%b0%e3%83%bb%e6%80%aa%e8%ab%87/

 

上記前編によると「屋敷」というのは家のことを指すものだと思われますが、江戸時代の用語では、家の建っている土地のことを「屋敷」と呼んだそうです。

 

つまり、皿屋敷というのは、更地(さらち)だったことなのか?そういえば、低地で湿地と言えば家を建てるには条件が悪く、それが原因で放置され永年明地になっていたのでしょう。

 

 (幕末の地図の出羽1番町辺り)

 

確かにあの辺りは、今は低地のようには見えませんが、実際にはかなり低く、明治の練兵場の造成では高低を平にしたという記録もあり、私の子供の頃には、金沢美専(現石川県立歴史博物館)の反対側金沢国税局(現石川県立能楽堂)の敷地がもっと道に迫り出し土手も今より高く道も今よりかなり狭かったように思います。

 

小学校のころ氏神様の石浦神社の祭礼の帰り、広坂から上がると兼六園球場(現本多の森ホール)の裏までが少し上がっていたようで、家に帰るまでかなり疲れた記憶があります。

 

 (能楽堂と石川県立歴史博物館の間の道)

 

蛇足:私が住んでいる旧出羽町5番丁(現石引4丁目の一部)は、当時は民家10数軒と他に教会と空き地、病院がある小さな町でした。昔の今もコミュニテイーとしては、平成12年(2000)に町名が復活した下石引と飛梅町で“三交会”という町内会が形成されています。

 

(香林坊・片町)

 

(石浦神社)

 

子供の頃、友達と石浦神社や香林坊・片町へ歩いて行く時には旧兼六園球場(本多の森ホール)の後から旧金沢美専(金沢美術短大)や旧金沢女専(金沢女子短大)の前を通り広坂を下りました。

 

 

参考文献:「金澤古蹟志」第四編 巻十 城東小立野臺中「皿屋敷」  森田柿園(平次)他

金沢城へ合図か?寺町の高岸寺

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【寺町5丁目】

日蓮宗妙榮山高岸寺(こうがんじ)は、前田家家臣の高畠石見守一族の菩提寺で、石見守の弟日饒(にちじょう)上人を開山とします。「高岸寺由緒書」によれば元は石川郡鶴来にあり、大豆田へ移り、天正15年(1587)割出の下屋敷を寺地としますが、その後、今の諏訪神社の地に移転、寛永13年(1636)に現在地に建立されました。

 

(高岸寺)

 

高畠石見守定吉(天文5年(1536)~ 慶長8年(160313日(1603213日))は、前田利家公の正室まつの母が再嫁した畠山直吉ので、前田家と高畠家との絆はことのほか強く、利家公より一歳上の定吉も「荒子七

人衆」として常に利家公と激戦をとものした側近中の側近でした。

 

幼少より利家公に仕え、利家公が家督を継ぐと200石を受け、天正の初めに利家公の末妹・津世姫を妻とします。天正11年(1583)鶴来の舟岡城代、文禄2年(1593)七尾の小丸山城代になり、当時の高畠家の禄高は17千石。加賀藩では後の加賀八家クラスの高禄でした。

 

利家公の死後、関が原の戦い前に豊臣側支援を強く主張した定吉は、2代利長公や芳春院(まつ)と対立し、関が原の合戦時は金沢城の留守役を務め、翌年、剃髪し隠居。その後、京の移り一年足らずで息を引き取ったといいます。子孫の禄高は次第に減じ700石になり、屋敷は現在の日本銀行金沢支店のところにありました。

 

(鐘楼堂より)

 

高岸寺本堂(建立は文久元年(1861)は、日蓮宗寺院方丈型の大規模本堂として貴重なもので、鐘楼堂(建立は寛政9年(1797)以降)は、今、鬼子母神をお祀りしている祠堂の上にのる2階建です。このように本堂と鐘楼堂が一体となった建物は余り類がなく、鐘楼というよりは「見張り台」のように見えます。そうだとすれば、3代利常公の頃まで、寺町寺院群の中核は高岸寺で金沢城の出城の役目を担い軍事的に重要な地点だったことが浮かび上がってきます。

 

(突き当たりが金沢城 辰巳櫓)

 

(今の辰巳櫓)

 

本堂と鐘楼堂、附 棟札7枚(むなふだななまい)は金沢市有形文化財です。 平成2051日指定。

 

(撞かずの鐘)

 

≪鐘楼堂の鐘≫

そのは藩政期、周辺に不審な動きがあれば、金沢城へ合図を送るためのものであったと伝えられています。かっては「撞かずの鐘」と呼ばれ打ち鳴らすことはほとんどなく、金沢城の「見張り台」であることを隠すための鐘楼建築で、藩の機密事項に当たるため文書はなく口伝で代々語り継がれていたそうです。は戦時中供出しますが、平成22年(2010)から本堂および鐘楼堂の修復工事にあわせて「撞かずの鐘」を復元し平成24年(2012423日に落慶法要を厳かに執り行っています。

 

 (本堂と鐘楼堂の解説板)

 

鐘楼堂は、一寸不安に感じる普通の梯子を登ると、狭い空間に大きな鐘がありました。花頭窓から金沢城の石垣も見え、鐘つき棒はり固定されていて撞けなくなっていましたが、6人も入ると満員になり鐘に頭に当り、かすかに鳴ってしまってハラハラさせられました。

 

 

≪修復中の曼荼羅の額≫

明治元年(18684月、明治政府が神仏分離令(神仏判然令)を布達すると、やがて廃仏毀釈の行動へと発展します。日蓮宗では、神仏分離令に引き続き、同年1010日に「法華三十番神の称を禁止」する旨の令を下され、また天照大神、八幡大菩薩を曼茶羅に配祠することも禁じられます。

 

 

(修理中)

(薄い群青で消してある、天照大神・八幡大菩薩)

 

配祠とは、神社の主祭神に添えて、その神様と縁故のある他の神様を祀ることをいう。

 

(修復中の曼荼羅の額には、天照大神、八幡大菩薩が消されていますが、修復後は消されたママにするそうです。)

 

  (13代斉泰公の揮毫)

 

3代利常公が命名した「犀枩軒」≫

茶室「犀枩軒」は、今、現存しませんが、3代利常公が名付け、13代斉泰公が揮毫したという「犀枩軒」の額が残っています。歴代藩主が野田山墓地に参詣のおり、お立ち寄りになられ、茶室でお茶を献上したと伝えられています。

 

≪板戸の図≫

高岸寺の板戸は、もともと金沢市高尾で農家を営んでいた中山久左衛門家にありましたが、昭和の中頃に宅地開発のために高岸寺に移されてきました。中山家は、高岸寺の先代住職の実家にあたり,今も個人宅に同様の板戸が数枚残されているといわれています。

 

 

(板戸:獅子図は狩野派の画風で、花鳥図は具象的な描かれています。これらは写実性重視の傾向が強くなる江戸後期のものらしい・・・。)

 

 

参考文献:日蓮宗妙榮山高岸寺パンフレット他

 

本因寺(ほんにんじ)因は“にん”と読む。

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【寺町5丁目】

犀川左岸、桜橋から通称Wと呼はれるジグザクに折れ曲がった坂を登り、片側木々が鬱蒼と茂る(本因寺墓所)細い道を真っ直ぐ行くと寺町の大通りに出ます。右に折れ下(しも)へ少し歩くと最初のお寺が、法華宗本門流興冨山本因寺(ほんにんじ)です。元和元年(1615)京都本能寺第十二世伏見宮日承の弟子である真浄院日得上人を開山に迎えて建立されました。この年に大坂夏の陣が起こり、当時、江戸幕府は武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定し、着々と支配体制を整えていました。

 

 

        (犀川左岸からW坂) 

 

当寺には、横山康玄の乳母の他、小田原北条家の家老職であった松田家、中条流の冨田勢源から剣術を相伝された関流剣術関重秀、加賀藩の初代御茶堂頭をつとめた遠州茶道の市井友仙等の菩提寺です。

 

(寺町の本因寺)

 

横山康玄の乳母、興冨院殿本日因大姉を弔うため、元和6年(1620)横山家の申し出により現在の寺地を拝領します。ちなみに、横山康玄は加賀藩の家老で、加賀藩3代藩主前田利常公が江戸幕府から謀反の嫌疑を受けた際に、必死の弁明をしてその嫌疑を晴らすという功績を挙げます。

 

現在の建物は延享元年(1744)第6世隆善院日應上人の代に再建されたものです。

 

横山康玄の父親である横山長知もやはり加賀藩2代藩主前田利長公が徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた際に江戸城に赴き弁明をしています。父子2代に渡って対徳川家交渉で活躍します。彼ら父子の横山家は加賀藩の「加賀八家」のうちの一家として、藩政期、藩の重臣として重きをなしました。

 

 

(寺町の本因寺・安政期の地図より)

 

 

≪前田利長公に仕えた北条家所縁の松田家≫

松田尾張守憲秀は後北条氏の家臣で、北条早雲以来、家老職を勤めた家柄で、当時は北条氏家臣団中最高の2798110(松田一族では3922995)という知行を食む大身だったといいます。

 

 (本因寺の庭園より墓所)

 

相模松田家は藤原鎌足を遠祖とし、その13代目藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に土着します。14代藤原経範は波多野に改姓し、波多野氏の開祖となり、19代義常は松田郷に住み、その子有常は松田を称して松田次郎と名乗り、松田氏の始祖となります。当時波多野氏から分かれた一族は松田の他に河村、広沢、大友、菖蒲、沼田、大槻、小磯、宇治等があります。

 

 

(本因寺の庭園)

 

≪北条家と松田家≫

天正8年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐では3代北条氏康の仕えた松田尾張守憲秀は、当初は徹底抗戦を主張するも、秀吉側の堀秀政らの誘いを受けて長男・笠原政晴(政尭)と共に豊臣方に内応しようとします。しかし、次男直秀の注進で5代北条氏直によって事前に防がれ、憲秀は監禁、政晴は殺害されたといわれています。

 

この事件は、北条家に降伏を決意させることとなったといわれていて、この結果、子の政晴については積極的に内応をしようと次男直秀に相談していたという経緯があったために、憲秀とは違い即座に死罪となったと推測されますが、一説には政晴が僧になり静岡県三島市の蔵六寺を開山し、寛永3年(1626)に60歳で病死したという寺伝も残っています。

 

 

 

 

≪松田家と惣構≫

松田憲秀の次男直秀5代北条氏直に従い高野山に入り、北条氏直死後は四郎左衛門憲定と改名し、豊臣秀次公に仕え、その後前田利長公禄高4,000で招請され、高山右近の配下として内惣構を10ヶ月で完成させ、慶長19年(16147月に金沢で没します。

 

金沢の内惣構は、防御力が最強といわれた小田原城をモデルにしたもので、土塁の高さは10m、用水の幅は7m、土塁には竹と木が植えられています。2代藩主利長公は、慶長4年(1599)高山右近に命じて金沢城の防備のため東西内惣構が造られ、11年後、慶長15年(16103代利常公が同じ目的で篠原一孝に命じて東西外惣構を造られます。

 

 

松田四郎左衛門憲定の子四郎左衛門憲里(2000石)には、子がなく絶家。後に娘の子をもってお家再興を願い出て松田九郎右衛門憲信は200を拝領し、長町3番丁に200坪の屋敷を構え、また、松田外次郎憲一が400石が古道の見え、菩提寺は同じく寺町法光寺。憲里の弟四郎兵衛500は、屋敷は長町4番丁で、菩提寺は寺町本因寺(ほんいんじ)にあります。

 

幕末の侍帳によると、両松田家は幕末まで加賀藩に仕え、松田九郎右衛門憲信家は200石で役職は御馬廻組、松田外次郎憲一が400石で役職は筑前守様御小将。弟の子孫松田昇五郎元郷家は150石で役職は筑前守様御側小将。

 

 

金沢には、本因寺のお墓にように時には一見金沢とは関係なさそうな家名を見つけることがあります。初代利家公のころの人材は、本座者(荒子衆や越前衆)に加え、新座者といわれた朝倉、六角、能登畠山の遺臣が主流でしたが、2代利長公の時代になると、急成長する中で広く人材が集まります。例えば、北条家の場合は、藩政初期鬼川(大野庄用水)開削したという富永家猪俣家など、由緒帳を調べると上杉家真田家、里見家など名高い武家の家々が名を連ねています。

 

参考資料:本因寺(ほんにんじ)のパンフレット、金沢観光ボランティアガイド宮内昌克氏の調査資料他

金沢21世紀工芸祭「工芸回廊」①はじめに

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【ひがし茶屋街~主計町】

金沢21世紀工芸祭(104日→1126日)の「工芸回廊」は、主催の金沢創造都市推進委員会(金沢市)のパンフレットによると、金沢21世紀工芸祭は、工芸のまち金沢が開催する工芸フェステバルで、「工芸回廊」「趣膳食彩」「金沢みらい茶会」「金沢みらい工芸部」「金沢アートスペアリング」「工芸建築展」「国際工芸シンポジュウム」「KOGEIトーク」8つのメインコンテンツの1つで、工芸を通して金沢の魅力を発信する活動で、今年は3年目になる「オールジャパン工芸連携21世紀鷹峯フォーラム2017年石川・金沢」(106日→1126日)に合わせ開催したようです。

 

 

「工芸回廊」開催日20171019()22()開催時間10:0017:00

会場東山エリア18カ所、主計町エリア10カ所、その他、合計35カ所で開催

主催 金沢創造都市推進委員会 金沢市 

共催後援 公益社団法人金沢青年会議所 NPO法人趣都金澤  金沢アートスペースリンク

 

 

21世紀鷹峯フォーラム」事業とは?

100年後に残る工藝のために」中立的な立場から、文化と産業、暮らし、観光をはじめ、伝統と現代、あらゆるジャンルと工芸を結び繋げ、さまざまなきっかけを築いていく事業で、 連携規模を拡げるため、2015年京都、2016年東京、2017年石川・金沢を舞台に、「21世紀鷹峯フォーラム」を実施しています。

 

 

詳しくは

「オールジャパン工芸連携鷹峰フォーラム」

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=5&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjd05De2oXXAhXGxbwKHUqAAXIQFgg5MAQ&url=http%3A%2F%2Fthecreationofjapan.or.jp%2Fproject%2Fall_japan&usg=AOvVaw29kC5qtrrPkmGHoMhv-W61

 

 

金沢21世紀工芸祭「工芸回廊」2010年から市のバックアップで金沢青年会議所が主催で市内のNPO法人趣都金澤や金沢アートグミなどが共催で開催された「かなざわ燈涼会」の一環として市内の袋町、尾張町、下新町、主計町、ひがし茶屋街など広い地域の町家で展開された若手工芸家の作品を展示したものを発展させたもので、第一回は2010729日から81日の3日間開催されました。

 

それ以前は、この時期、市の観光交流課が主催で「友禅染めの行灯」「二俣紙で作られた小行灯」を約200個飾り、ひがし茶屋街をほのかなあかりで彩り、ボランティア観光ガイド「まいどさん」が案内するイベント「夏の夜夢あかり」が開催されていました。

 

 

過去のブログ

「今年より、明日から“かなざわ燈涼会」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10603226880.html

 

「浅野川工芸回廊に思う・・・」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10975349189.html

 

あれから7年間、作家も会場も多少かわりましたが、工芸と伝統の町家のコラボがホワイトキュウブの展示会場では醸しでせない作品の表情や趣を味わうことが出来ところがよかったのか、金沢らしい工芸のイベントになっています。

 

 

 

「工芸と町家」のコラボ、当然と言えば当然ですが合わない筈が無い、また、観光客にも普段は眺めるだけの町家が無料で入れるのがメリット、このスタイルを続けていけば、今後「工芸回廊」狙いで金沢に訪れるお客さまもいるのではと思いました。それに作家が常駐しているのがうれしいかぎりです。しかし見せ筋は出来ましたが、売れるかどうかは、これからの課題ですネ!!

 

 

2015年からは、秋の開催になり、翌2016年には、クラフト創造都市金沢を舞台に、工芸と街の魅力を発信する大型工芸フェスティバル「金沢21世紀工芸祭」と名称を変え、今年はその第2回。本祭に先駆け、オープニングイベント「meets KOGEI」を910日(土)、金沢21世紀美術館(広場)で開催。開放的な広場には、石川県の作家が手がけた酒器と、地酒と料理で、器を通じて工芸に親しむイベントも開催されました。

 

(つづく)

 

参考資料:町家に広がる工芸の世界「工芸回廊」のパンフレットより

小説「西郷の首」①2人の加賀藩足軽の志

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【金沢】

今年の929日に発行された伊東潤著「西郷の首」は、来年のNHKの大河ドラマ「西郷どん」と言うことで、予備知識としていろいろ読んでみたくなり、アマゾンで調べていたら「西郷の首」が引っ掛ました。解説を読むと、主人公が加賀藩の足軽で、よく知っている人物の物語りでした。早速、取り寄せて、今、半分ぐらい読み終えました。

 

 

(前田家の墓地のある野田山より今の市街地)

 

小説「西郷の首」は、約500ページに及ぶ本格歴史長編ですが、西郷が出てくるのは、実質4ページほど。小説の“西郷の首”は、武士の世から維新へと時代が移り変わる象徴として、使われています。本書の主人公は、千田文次郎(登文)・島田一郎(一良)という、実在の人物ですが無名の加賀足軽で親友だったと言われています。背景に書かれていることでは、明治維新に日本が変わった事を知ることができます。

 

(西郷の首にある左白禿山と医王山・奥医王・手前戸室山)

 

物語は、文次郎、一郎の視点で進み、文次郎は時代の流れに順応し、軍人となります。西南戦争のあと、西郷隆盛の首を拾った男で、もう一人の島田一郎は時代の流れに抗うかのように政治結社を結成し、紀尾井町事件で、大久保利通の暗殺を企てる反政府活動に身を投じます。2人は、激動の時代に翻弄されながらも、日本を良くしようと幕末から維新を懸命に生き抜きます。

 

 

 (野田山入り口にある島田一郎の墓)

 

加賀藩は百万石の大藩でありながら、藩としては幕末維新の動きにすっかり乗り遅れてしますが、私の大好きな幕末の金沢と地元の人しか知らない隠れた偉人が、作家伊東潤氏の筆により、読みやすく素敵は文章で、しかも分かりやすく描かれています。

 

 

(明治の金沢城石川門)

 

加賀藩では、13代藩主斉泰公は幕府側で藩論は概ね保守派、しかし徳川家の孫である世嗣慶寧公は朝廷側に付きます。禁門の変で、多くの勤皇派は粛清され、一時慶寧公も謹慎になり、戊辰戦争では、幕府側として京を目指すが、いったん引き返し、改めて官軍につき、多くの血を流した加賀藩士たちも、維新の恩恵を受けられませんでした。加賀藩は、百万石の大藩だけあって人材も豊富で、彼らはいかに優秀であっても、明治政府では大臣やそれに次ぐ地位に就いた者はいません。

 

 

出来るだけ早くこの本を多くの方々に読んで頂きたく、急ぎ、読み終えた第一章「蓋世不抜」について書きたいと思いますが、なにしろ「本作品の全部または一部を無断で複製、転載・・・など、あるいはウエブサイトへの転載等を禁止」などの条件もあり、私が過去に書いた市内の寺社や紀尾井町事件、元治の変など拙い文章を参考に添付します。

 

(延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwj7ob63tpXXAhWBjJQKHWFJD8cQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Ftrc-adeac.trc.co.jp%2FHtml%2FImageView%2F1700105100%2F1700105100100060%2Fenpo-kanazawav2%2F&usg=AOvVaw3AqvGUmaXB6EtWYVRmj-Mq

 

 

≪第一章に登場する加賀藩の人物≫

千田文次郎・島田一郎・澤田百三郎・福岡惣助・前田斉泰・前田慶寧・小川幸三・浅野屋佐平・杉村寛正・陸義猶・本多政均・宮崎栄五郎・島田金助・島田冶三郎・奥村栄通・横山外記・松平大弐・山辺沖太郎・井口義平・堀四郎左衛門・千秋順之助・山森権太郎・藤懸庫太・不破富太郎・長連恭・大野木仲三郎・青木新三郎・白銀屋与左衛門・永原甚七郎など。

 

 

拙ブログより

「島田一郎」①~⑤

島田一郎①紀尾井町事件

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11883474463.html

「福岡惣助」

寺町台“寺活の寺院”承証寺②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12030571228.html

 

(福岡惣助のお墓)

 

「松平大弐・前田慶寧」

大弐が死んで!!なんと庄兵衛

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11308900520.html

「千秋順之助」

加賀尊王派の学者千秋順之助①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11494764038.html

「永原甚七郎」

欠原の崖上のお寺①棟岳寺

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12290705614.html

 

(今の長町千田邸辺り)

 

登場人物の多くは、私が、よく親しんだ人々が網羅されていますが、上記のブログでは、私が昔から諸々で得た知識や私の読解力の不足から多少違いもあると思いますが、ご容赦ください。また、小学校や中学校で同級生だった人の親族や知人もご先祖様といて登場します。その人達や私が子供の頃に聞いた話など、間違って理解したこともあるやに思いますが、そのあたりは素人の書くものとして重ねてご容赦願います。

 

(つづく)

 

参考文献:大戸宏著「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話」月間アクタス 北国新聞社発行ほか

周縁散歩“加賀藩未曾有の変事「安政の泣き一揆」を伝えたい”

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【金沢天神橋→卯辰山→ひがし茶屋街】

KANAZAWA FRINGE(カナザワ・フリンジ)の前夜祭が今夜あり参加予定です。113日~5日まで金沢21世紀美術館では「周縁から、動き出す。KANAZAWA FRINGE」という、国内外からアーチストやクリエーターか金沢に滞在し作品を制作するアーチスト・レジデンスプログラムの体験や発表や展示が行われます。

 

 

(ポスター)

 

「周縁」という、あまり聞き慣れない言葉ですので、聞くと「まわり」とか「周辺」という言葉が返ってきました。辞書で繰ると、もののまわり・ふち「大都会の周縁部」とあり、ビンときませんので、英語のFRINGEで調べてみました。

 

 

英語ではFRINGEは、ヘリ、末端、縁、周辺、外れ、また、主流から逸脱した一部の集団、非主流派、分派(集団)、過激派グループと訳されるそうですが、「周縁から、動き出す。」というフレーズはどの辺りの意味なのか、よく分かりませんが、ようは、滞在するアーチストやディレクターが街や人々との出会いから生まれる作品ということらしく、それなら伝えたい所があり、無理やり納得して、先日、私は台湾のアーチストと出会い散歩しました。

 

 

(金沢21世紀美術館の掲示板)

 

プログラムは、1から5まであり、わたしは、参加型の作品「Walk with Me」に参加させて戴きました。台湾の若い女性アーチストでウェイ・シンエン(Wei Hsinyen)さんと金沢市内を散歩するもので、最初は若い女性と久々にデートが出来ると喜んでいました。

 

 (泣き一揆で叫んだところ)

 

日が迫ってくると、英語が出来ないので心配になり、それでも筆談でと思いましたが、散歩に選んだコースは、幕末のお話をしなければならないので、難しいのではと不安になり、英語の出来る友人に手伝って貰うようにお願いしました。

 

 

(日暮ヶ丘にあがる鳥居)

 

生憎、当日は台風が通過する日に辺り、延期になり、3日後に友人も空けて頂き、天気もよく何とか、1時間半の山歩きで、途中で私が足手まといになりかけましたが、何事もなく予定通り散歩を終えました。

 

散歩のコースは、「安政の泣き一揆」ゆかりの地をめぐるコースで、日頃、観光客にはこちらからお誘いしないところで、主に市内の小学生や町内会の古里学習や藩政期の金沢の庶民の生活や事件に興味のある人をご案内しています。今回は、外国のアーチストに昔の金沢の庶民や為政者やそれに繋がる人々の行動を知って戴き、どのように感じたのか知りたいと思ったからです。

 

 (七稲地蔵とお墓)

 

≪コース≫

寿経寺の七稲地蔵とお墓→観音院→日暮ヶ丘(叫んだ場所と言われています。)→宝泉寺(当時のランドマーク五本松)→八幡町→ひがし茶屋

 

(七稲地蔵・寿経寺前)

 

《この騒動の特徴》

 民衆のシュプレシ・コールによる、非暴力的一揆ですが、騒動は金沢市内だけに留まらず、短期間で全藩領域に拡大したことにあります。金沢町で目立った打ちこわしはなかったにも関わらず首謀者は厳刑に科せられています。藩が受けた衝撃の強さを表しているということでしょう。加賀藩史料によると「御国初以来二百五十年之間に未曾有之変事」であったと記述されています。

 

参考ブログ

伝説ですか事実ですか「安政の泣き一揆」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11282842364.html

 

 

現在、観光客に人気の「ひがし茶屋街」とは目と鼻の先。幕末の象徴とも言える幾つかな遺跡は、ひっそりとしかし存在感を残し往事を伝えています。


小説「西郷の首」②明治2年、文次郎と一郎は「御歩並」に

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【金沢】

2章「鉄心石腸」では、日本国内の状況や加賀藩のことが詳しく書かれ、文次郎と一郎は、福岡惣助の未亡人卯乃をめぐり、小説ならではの淡い恋やフィクションだから書ける郷土の偉人高峰譲吉の少年時代を義賊(農作物泥棒)として登場させ、笠舞の「お助け小屋」や卯辰山の「養生所」「撫育所」に繋いでいきます。

 

 (金沢城)

 

鉄心石腸(てっしんせきちょう):いかなる困難にも負けない、鉄や石のように堅固な精神。文次郎と一郎は目指すところが多少異なりますが、時に意見が対立し激論となることもありますが、互いに精神は堅固で仲もよかった・・・。

 

(卯辰山の養生所)

 

慶応元年(1865)主導権は幕府から薩長両藩に移り始める年で、慶応2(1866)1月に薩長同盟が成立。加賀藩では、13代斉泰公が隠退願いを幕府に提出し、2月には14代となる慶寧公が江戸に上ることになり、千田文次郎と島田一郎は、その隊列に加わります。7月下旬に金沢に帰還し、新藩主慶寧公を祝うため、月末まで盛大に「盆正月」が催されます。

 

「盆正月」:加賀藩では藩政期、民衆が集まることを嫌う藩は、町人が金沢町で惣祭を行うことを禁じていました。その代わり前田家の嫡子誕生や官位昇進などの慶事などで、藩の命令により城下挙げて祝ったのが「盆正月」で、庶民のガス抜きとしても機能しました。

 

 (金沢城・三十間長屋)

 

8月初旬には、加賀藩へ一橋慶喜より上洛の要請が届きますが、年寄1人を上洛させ、慶寧公は事態を静観していいます。しかし、京都にいた将軍家茂が亡くなり、第2次長州征伐は中止になり、京の混乱は避けがたく、慶寧公は、禁裏の守備を条件に上洛します。一方、加賀藩においては、新たな方針「三州割拠」が打ち出され、加賀、能登、越中を割拠し、福沢諭吉の西洋事情等を取り入れ「殖産興業」「富国強兵」を努め、幕府にもその反対勢力にも与しないことを実行します。

 

 

(壮猶館の門)

 

物語は、砲術や航海術そして蘭学や西洋医学など西洋の学問を教える「壮猶館」、さらには鈴見の鋳造所、牛坂弾薬所、七尾の軍艦所など藩の施設や「梅鉢海軍」の活躍。やがて戊辰戦争から北越戦争に発展するくだりまで実の克明に書かれています。

 

拙ブログより

「三州割拠」「戊辰戦争」「笠舞お助け小屋」「卯辰山開拓」

卯辰山開拓(その1)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11548045886.html

「高峰譲吉」

高峰譲吉①~⑤

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11769823496.html

「卯辰山養生所」「卯辰山撫育所」「北越戦争」

卯辰山開拓(その4)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11554734677.html

「笠舞お助け小屋」

小立野古地図めぐり④亀坂と御小屋坂

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11902550557.html

 

さらに、執政本多政均の失政への怒り、そして藩の洋式部隊の伍長を仰せつかり、戦争へそして終結。文次郎や一郎が足軽より一段階上がり「御歩並」にそろって昇格し、切米30を受け、明治2(1869)「版籍奉還」までが、克明に生きる姿が、史実にフィクションを交え、分かりやすくお書きになっています。

 

 (西郷隆盛)

 

当時は日本の植民地化を狙う諸外国に、幕府は対応しきれず、不平等条約と言われた日米修好通商条約を締結します。そんな中で「これではいけない」という志を持つ若者たちが次々と現れ、志士活動に邁進します。そして、その大半が死んでいきますが千田文次郎、島田一郎は明治までしぶとく生き残ります。

 

それでも彼らの生き残りにより明治政府は樹立されますが、その恩恵に浴し、明治政府の顕官の座を独占したのは、薩摩・長州・土佐・肥前といった維新の原動力となった藩出身の志士たちで、この4藩による藩閥が明治政府を形作っていきます。

 

(つづく)

 

参考文献:「西郷の首」伊東潤著 平成29929日 角川書店発行

(伊東潤略歴1960年神奈川県生まれ。早稲田大学卒業。「国を蹴った男」で吉川英治文学新人賞、「巨鯨の海」で山田風太郎賞と高校生直木賞を受賞。ほかの著書に「悪左府の女」など。)

「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話」大戸宏著 月間アクタス(平成84月号)北国新聞社発行ほか

小説「西郷の首」③加賀っぽの燃える情熱!!

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【金沢・東京・名古屋・鹿児島】

先が見えない金沢藩では、明治元年(18689月に藩政改革が行われ、左幕派の執政筆頭本多政均を据え置かれます。第3「気焔万丈」では、明治2年(1869)の「版籍奉還」から明治8年(1875)名古屋鎮台より歩兵七連隊として金沢に創設された6年間が描かれています。ここでは、当時の国内情勢や金沢県(石川県)、そして2人の青春のいら立ち、そして熱い情熱が伝わってきます。

 

 (金沢城石川門・明治には7連隊の門)

 

気焔万丈(きえんばんじょう):焔が高く燃え上がるように盛んな気勢という四文字熟語。侃々諤々!!意気込みが他を圧倒する熱い議論に燃える“加賀っぽ”たち・・・。

 

 

 (島田一郎)

 

明治2年(18695月。旧幕臣が箱館で降伏し、明治維新が成り元勲たちは外夷を跳ね返せる政治体制を目指します。新政府は封建制度から脱却を目論見、土地も人も天皇にお返しする「版籍奉還」が行われます。

 

しかし、加賀藩では、薩長土肥の新政府が2年後に「廃藩置県」を行い、藩の徴税権や徴兵権など根こそぎ独占することなどは思いもよらず、「列藩の標的」を目指し、金沢藩は新政府の方針に率先して従います。

 

「列藩の標的」とは、金沢藩が“全ての藩の手本”になると見た新政府が言わせた天皇の言葉で、その言葉に感動した慶寧公は素直にその言葉に従います。そして、2年後「廃藩置県」まで藩主慶寧公は藩知事と呼ばれ、武士階級は士族とし、足軽以下を卒族、それ以外は平民とされ4階層になります。

 

 (千田文次郎)

 

≪参考≫

拙ブログ

武士の既得権益①!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12174183919.html

武士の既得権益②!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12174260382.html

明治の金沢“政治結社”忠告社から盈進社まで

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12197003651.html

 

≪明治2年~明治8年の出来事≫

国内では

明治2年版籍奉還。明治2年大村益次郎の死。明治4年廃藩置県。明治411月~明治6年まで、特命全権大使岩倉具視を団長に使節団46名、留学生59名で欧州へ立つ。(加賀藩では15歳の慶寧公の嫡男利嗣が参加、加賀藩士は選ばれていない。)明治6年、西郷の留守政府の人事問題や西郷隆盛の征韓論で岩倉使節団の対立が激化。明治6年、徴兵令が正式に公布され国民皆兵制に、10月、西郷正式辞表提出し帰郷。明治7年、板垣、後藤、江藤、副島の前参議は「民撰議院設立建白書」を左院に提出。明治72月、不平士族4500人の挙兵し佐賀の乱が勃発。

 

金沢県(石川県)では

明治2年、卯辰山開拓終焉。明治2年、農民暴動。明治2年、本多政均暗殺事件。明治の最後の仇討ち。明治3年、慶寧公、書画骨董売却で農民救済。明治4年廃藩置県により慶寧公藩知事免職、金沢藩(加賀藩)の終焉に伴い藩主慶寧公東京移住(明治6年慶寧公薨去享年45歳)。明治48月、薩摩の内田政風が金沢県の初代大参事(権令、県令)により、正義党(後の忠告社)杉村憲正、陸義猶が台頭、この年旧加賀藩の歩兵隊は解体され県下隊として新たに出発。明治8年歩兵七連隊の創設。

 

 (金沢城の鼠多門・写真は明治)

 

文次郎と一郎

明治2年、福岡惣助の後妻卯乃の死。明治3年、文次郎の妻糸と嬰児の死。明治4年、文次郎は県下隊から名古屋の陸軍へ。 明治5年、一郎25歳で上京し仏兵学を学ぶが習得速度遅く軍席抹消。明治5年、長連豪上京し一郎を訪ねる。明治6年、一郎、長連豪を伴い金沢へ戻り政治結社三光寺派の結成。

 

(今の東別院)

 

≪参考≫

1.本多政均は、明治2年(186987日金沢城二ノ丸で、白昼堂々、登城してきた政均に不満を持っていた与力山辺沖太郎、井口義平により暗殺されます。事件後、実行犯は切腹になりますが、共犯者は軽い処分となり、本多家の家臣達は共犯者の処分が軽いことに激怒し、仇討ちを誓います。はじめは100人以上の家臣が・・・、月日が経過するうちに15人数に減ります。明治4年(187112人が共犯者3人の仇討ちを果たし、翌明治5年(1872)に切腹を命じられます。その後、明治政府は仇討禁止令を出し、そのため、この仇討は加賀の忠臣蔵とか日本最後の仇討とも言われます。

 

2.現在、石川県が金沢県ではないのは、明治4年の「廃藩置県」で、金沢藩は金沢県と改名されますが、明治5年に石川県、七尾県、新川県に整理されます。金沢は石川県の端っことなってしまったため県庁は美川(本吉)に移されてしました。美川町は石川郡にあったために「石川県」と命名され、明治6年、七尾県が廃止となったために再び県の中央である金沢に県庁をもってきて、そのまま石川県と呼ばれるようになりました。他の説に、当時、金沢には不平士族が多くそれを避けるため、石川郡の本吉(美川)に県庁を設けたのだという。また、宮武外骨が昭和16年(1941)に出した「府藩県制史」で、戊辰戦争で幕府方についた県には永久懲罰として、県庁所在地と県名と違えたという説も聞きますが、宮武外骨は反骨ジャーナリストで、こじつけ論をまことしやかに面白く書き、大まじめに騙された諸氏の顔を見て舌をだすということもあり、どうもその類だったのでは・・・?

 

(つづく)

 

参考文献:「西郷の首」伊東潤著 平成29929日 角川書店発行

(伊東潤略歴1960年神奈川県生まれ。早稲田大学卒業。「国を蹴った男」で吉川英治文学新人賞、「巨鯨の海」で山田風太郎賞と高校生直木賞を受賞。ほかの著書に「悪左府の女」など。) 「石川百年史」石林文吉著昭和47年石川県公民館連合会石林文吉著 「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話」大戸宏著 月間アクタス(平成84月号)北国新聞社発行ほか

 

小説「西郷の首」④西郷隆盛と大久保利通と2人の”加賀っぽ“

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【金沢・東京】

明治8年(18752月、金沢寺町の大円寺で、正義党が政治結社忠告社となり、結成式がおこなわれ、招待された島田一郎が、三光寺派100人を引き連れ訪れ、招待されない者の入場を断れ、乱闘騒ぎを起こすところから第4章「擲身報国」が始まります。

 

 (金沢城の月)

 

「擲身報国ていしんほうこく」 一身を投げ打って国に報いるという四文字熟語。文次郎、一郎は・・・。

 

 

 (金沢寺町・大円寺)

 

その頃、国家の政治体制は、木戸や板垣が参議の復帰し、挙国一致に近い態をなしてきます。帝国議会開設に1歩近づいてきます。一方、金沢では、3月に忠告社を押す権県令内田政風も高齢を理由に県権令を辞し、当時、“忠告社でなければ人に非ず”と言われ県の要職を独占していた忠告社は県政の実権を失います。

 

 

 (千田文次郎)

 

千田文次郎登文(せんだぶんじろうのりふみ):弘化4年(1847)金沢生まれ。実家は足軽笠松家4男。16歳で足軽千田家の養子に入る。養父仙右衛門が急死し末期養子のため切米50俵を33俵に、剣道を好み小野派一刀流の道場に通い剣道指南役を目指す。戊辰戦争では藩兵の下士官として参戦、西南戦争では中尉で西郷隆盛の首を発見。日清戦争では大尉で戦場で拾った赤子を抱いて奮戦。日露戦争にも従軍し名を馳せる。生涯乃木将軍を尊敬し、石川乃木会や在郷軍人会を創設。昭和4年に81歳で死去。石川県出身。

 

  (島田一郎)

 

島田一郎朝勇(しまだいちろうともいさみ):嘉永元年(1848)金沢生まれ。幼名は助太郎。祖父久兵衛は持筒足軽の倅で島田家の養子に入って割場付足軽。父金助も養子で割場付足軽から横目、下屋敷下役などを歴任。両人とも株買いの養子であったといわれています。母は町人の出でしたが、嘉永3年に没したため、島田一郎は継母に育てられます。後に藩の陸軍少佐になる。やがて軍をやめ反政府活動(三光寺派)として立つ。(日露戦争で戦死した弟の島田冶三郎が家を継いだといわれています。)大久保利通暗殺事件を企て実行。明治11年(1878)刑死。石川県出身。 

 

 (三光寺)

 

物語は、足軽の小倅2人文次郎と一郎は、やがて文次郎は陸軍軍人となって西南戦争に参戦し、薩摩軍が隠した西郷隆盛の首を発見、もう一方の一郎は反政府活動に傾倒し400人の不平士族を束ね武装蜂起を企てます。そして2人は友情と生き様を伝えてくれます。

 

 

 戦力は、薩軍(私学校・不平士族軍)が約3万、新政府軍は約7万。薩軍は旧熊本城の鎮台を取り囲みますが、新政府側は素早く察知し、新型の武器を保有する兵力を送り込みます。開戦から7か月、新政府軍死者6403人、薩軍死者6765にのぼる最大の士族反乱は新政府軍の勝利に終わり、西郷隆盛の切腹によって西南戦争は終結します。

 

 

  (西郷隆盛)

 

≪西郷の首伝説≫

西郷が切腹した後、「西郷の首」は新政府軍の千田文治郎中尉により発見され、新政府軍の指揮官山県有朋らによって確認され、胴体とともに鹿児島の西郷南洲墓地に埋葬されたとされますが、西郷隆盛生存を信じる一部の信奉者の“未発見説”“偽物説”がくすぶっていました。後に金沢で発見された千田中尉の「履歴書」の中に「西郷ノ首ナキヲ以テ、登文ニ探索ヲ命ゼラル」「探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ、登文、首ヲ●(もたら)シテ、浄光明寺ニ到リ山県(有朋)参軍、曾我(祐準)少将ニ呈ス」という記述があり、埋葬された首が本物であることがはっきりしたことで、その伝説は終止符が打たれます。

 

≪参考≫

拙ブログ

明治の金沢”政治結社“①忠告社から盈進社

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12197003651.html

島田一郎①紀尾井町事件

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11883474463.html

島田一郎⑤終焉とそれから

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11888275384.html

 

 

  (大久保利通)

 

読み終えて、最近、論客の1年生議員がいう西郷隆盛の言葉「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」が耳に響きます。なるほどこういうことを言うのだ!!そういえば登場する人物は?少なくとも主人公はそうではないのかと思いながら、なにやら清々しさを感じていました。惨たらしい戦争の場面や切腹、生胴や刎首が克明に書かれているのに・・・。作者の筆力によるものか?主人公達の一身を犠牲にする本気の覚悟と無私の心の成せる事なのか、多分両方相まってのことでしょう。同じ郷土を持つ者として誇らしい反面、あらためてテロの愚かさが痛いほど分りました。

 

 

 (小説「西郷の首」)

 

この小説は、「西郷の首」という題名ですが、金沢を舞台とした幕末から明治維新、明治初期に活躍した2人の男の物語です。是非、ご一読を・・・。

 

参考文献:「西郷の首」伊東潤著 平成29929日 角川書店発行

(伊東潤略歴1960年神奈川県生まれ。早稲田大学卒業。「国を蹴った男」で吉川英治文学新人賞、「巨鯨の海」で山田風太郎賞と高校生直木賞を受賞。ほかの著書に「悪左府の女」など。) 「石川百年史」石林文吉著昭和47年石川県公民館連合会石林文吉著 「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話」大戸宏著 月間アクタス(平成84月号)北国新聞社発行ほか

長町ひるさがり―南州翁の首―

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【金沢・長町】

今日は、西南戦争で西郷隆盛の“首を拾った男”といわれた千田文次郎登文中尉の金沢でのお話です。実は、金沢観光で知られる長町武家屋敷の一画に千田家があります。金沢市内の方でもあまり知らないようですが、今は、孫平衛氏の未亡人で香道の先生と身内の家族が住んでいらっしゃるそうです。たまに香道や学生の庭や池の作業ボランティアなどでテレビや新聞で紹介されていますが、町の賑わいとは隔絶するような幅のある大野庄用水と土塀に囲まれています。

 

 

  (長町の千田家)

 

その大野庄用水を挟んだ向かいには、観光客の方が、一寸休憩したり、トイレに行ける長町武家屋敷休憩館があります。そこは私も関わっている金沢観光ボランティアガイドの詰所になっていて、向側の千田家の土塀の切れ目に大野庄用水の「長町三の橋」が架かり、小路の左側に千田家の門があり、右側に公開されている藩政期には“1200武家屋敷野村家”があります。

 

 

 (橋の向い側が長町武家屋敷休憩館)

 

10数年前に、新人ガイドの私が観光ボランティアガイドで「長町武家屋敷休憩館」へ当番で出勤し、待機中に先輩に長町がらみのガイドトークを教わっている中に、向かいの千田中尉の話になり、興味を持つと、後日、その先輩から「西郷の首を拾った男」の記事が載っている雑誌のコピーが送られてきました。

 

(今もそうですが、当番は新人、中堅、ベテランの3人構成で毎日変わります。なかなか慣れなくてガイドに出られない新人もいたりして、先輩と組むことで、地域のガイドネタの勉強が出来、早くガイドが出来るようになります。)

 

 

 (瓦の土塀が大戸家その隣り板屋根が千田家)

 

先日、小説「西郷の首」手にしたとき、その「西郷の首を拾った男」を思い出し、スクラップを調べるとコピーは感熱式で、10数年も経ると劣化して字が読めなくなっていました。それで版元へバックナンバーを尋ねるやら雑誌のコピーがないかメンバーに聞くなどして、やっと取り寄せますと、何と執筆者は、千田家の隣にお住まいだった元新聞記者で郷土史家の大戸宏(おおとこう)氏だということが分かりました。

 

 

  (大戸宏著「長町ひるさがり」)

 

大戸氏は、昭和52年(1977)~昭和64年(1989)まで、金沢小説小品集五巻86を自費出版され、昭和 53年(1978)発行の「長町ひるさがり」は鏡花市民文学賞を受賞され、地元では有名な方で、早速、図書館へ行きバックナンバーを調べてみると、その「長町ひるさがり」「南州翁の首」という題名で載っていました。400字詰め原稿用紙で16枚の短編で、調べるとそれより20も前の昭和 33年(195812に初めてお書きになっていて、私が始めて読んだ月刊アクタスの記事から38も前に書かれたことが分かりました。

 

(月刊アクタスの西郷の首を拾った男)

 (長町ひるさがりー南州翁の首ー)

 

≪以下は「南州翁の首」にある首発見のくだりの引用≫

 

“中尉と従卒が再び腰を上げて捜索をはじめ、やがて門の側溝の中に、白い木綿布でくるんだ首級があるのを発見するまでには、ものの三分とかからなかった。小躍りしながら重い布包みを抱えて駈けて行く途中、本陣跡の哨所につく一箇分隊の兵卒たちとすれ違った。

「あったぞお。見つかったぞお」

大声あげて走る主従の二人を下士と兵卒たちがあっけにとたれて見送っていた。“

 

 

 

 (長町武家屋敷野村家その左隣りが千田家)

 

≪金沢小説小品集Ⅱ「長町ひるさがり」の跋の「読者のご参考までに」を、千田登文の孫千田平衛氏お書きになっていますので、以下引用≫

 

市内の武家屋敷といわれる一画、わが家と宏さんの家も三代続いた隣同士で古い家の多い長町でも息の長い部類です。第一巻の「梅本館の乃木将軍」と第二巻の「南州翁の首」は私の祖父・千田登文にまつわる実話で、恐らく晩年の祖父の口語りや陣中日記が、祖父か父から宏さんの父上に伝わり息子の彼が独特の筆致で小説にまとめたものです。

 

戦犯裁判を扱った「父の鼓動」の主人公の憲兵大佐「野郎がいる戦場」の五人の兵士、皆、金沢の人たちで、短い創作小説とはいえ切々と胸を打つものがあります。「南州翁の首」は彼が既に発表した作品ですが、今回は歩兵七連隊の軍旗が登場するので懐かしい方のいらっしゃることでしょう。宏さんは常に謙虚で誠実な人です。

 

作品中の人物、場所、日時など各篇にわたって細心の気くばりがうかがえます両家ともかっては陸軍のメシを食った仲ですが、何かにつけ心の通う隣家のあるじの健闘を祈っています。と結んでいます。

 

 

(大野庄用水と武家屋敷野村家その後ろの木の所が千田家)

 

≪大戸宏氏が執筆された「南州翁(西郷)の首」≫

昭和 33年(195812「南州翁の首」起稿 ・ 昭和 53年(19784「金沢小説小品集Ⅱ長町ひるさがり―南州翁の首自費出版 ・ 平成  8年(19964  迷宮の旅「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話―西郷の首を拾った男―」月刊アクタス4月号

 

 (長町三の橋と千田家)

 

大戸宏(おおとこう):大正14年(19251月元旦~平成16年(200431日。

金沢の長町で職業軍人、警察官だった父・多次郎の6男として出生。旧石川県立金沢第二中学校四十二回生。陸軍航空学校第十二回生、陸軍飛行学校第七回生。昭和2012月、金沢師管区司令部参謀部で復員。北国新聞記者として入社、編集局整理部長、事業部長、広告局長、販売局長を経て学校法人金沢女子短期大学常務理事、法人本部長、同大学教授(文章表現学)で退職。社会福祉法人聖霊病院常務理事、北陸日米協会、ユネスコ石川、石川県民謡協会、兼六民謡会などの関係。金沢市民文学賞選考委員、用水モニター、長土塀公民館長などに奉仕。昭和53年に泉鏡花市民文学賞を受ける。広坂教会籍カトリック信徒。

(経歴は、大戸宏氏のお書きになってものを参考にしました。)

 

参考文献:金沢小説小品集Ⅱ「長町ひるさがり―南州翁の首」北国出版社 昭和53年(19784月発行(「南州翁の首」は、昭和33年(195812月・大戸宏著)迷宮の旅「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話―西郷の首を拾った男―」月刊アクタス北国新聞社出版局 平成 8年(1996 4月号

 

金沢21世紀工芸祭②「工芸建築展」

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【金沢】

この秋、「工芸」という言葉が多くの新聞に載りTVSNSに露出され、金沢のあちこちで工芸イベントが開催されました。しかも金沢の若手の作家の作品が町家やホテルを舞台に展示され、従来の工芸ファンに留まらず多くの若いファンが駆けつけ盛り上がりました。

 

 

 

この時期金沢では、過去の東京、京都で開催された21世紀鷹峰フォーラム」52日間に渡り開催され、金沢や石川の作家の作品だけでなく、広く日本の新進作家の作品や国内外の作家やギャラリーや美術館長などを迎えて、工芸の新たな市場を生むためのジンポジューム等が開催されました。

 

 

 

もともと工芸は、金沢にとって藩政期から明治維新そして戦後復興期と金沢を支えてきましたが、近年は、作家はともかくとして工芸産業の衰退期。そこにパッと火をつけたのが平成24年(2012)に、21美の秋元館長がアートとしての新しい工芸として提唱した「工芸未来派」が開催されます。

 

 

 

●工芸未来派について拙ブログ

百万石工芸復興の父―島田佳矣

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11264279168.html

20120530

工芸未来派サテライトを見て

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11341333322.html

20120830

 

 

今回のお話は、「建築を、ひとつの工芸として考える」をテーマに、117日(火曜日)〜1119日(日曜日)まで、金沢21世紀美術館地下市民ギャラリーに於いて開催された「工芸建築展」について私なりに感じたことを思いつくままに書くことにします

 

 

 

この展覧会は、工芸と建築を×(掛け算)ることで新たな文化が生まれるという可能性に掛けたもので、工芸と建築の垣根を無くして考える実験的な試みで、今の21美秋山特任館長の提唱からスタートして、過去に何回かフォーラムが開催され、私も参加させて頂きましたが、この掛け算が頭の固い私にはピンとこなくて、言葉の定義から入り、+(足し算)しか思いつかず「工芸的建築物」と訳してしまい、具体的には茶室や明治の洋館のような手造りの建物が頭にこびり付いて離れませんでした。

 

 

工芸という曖昧な概念と建築というこれまた曖昧な概念では、まともに考えると、益々こんがらかって、それでよく似た例を調べてみると、著名な工芸家が言った美術のような工芸を「美術工芸」工芸としての美術を「工芸美術」言うのや、明治のウィーン万博でドイツ語Kunstgewerbe(クンストゲヴェルベ)を美術工業(工藝)と訳したあたりまし遡りますが、益々、工芸建築が分からなくなり、お手上げ状態で付いていけなくなりました。

 

 

●工芸について拙ブログ

美術工業って!?

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12121084797.html

2016124

工芸って何!?

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12119955765.html

2016221

 

 

ところが“百聞は一見にしかず”です。11人の9出品作は、それぞれの分野(建築家・デザイナー・画家・工芸家)の作家の作品で、その人達のコラボ作品などもあり、従来の定義を意識しない新しい物や工芸的とも建築物とはいえない作品などもあり、私のような固い頭で思う工芸建築」とは全く違う展示でした。なんじゃこりや?思いながら、よくよく観察すると、私が思う”工芸建築の定義”の作品展示ではなく、工芸建築という言葉そのものを作品にした展示であり、そう云う事だったのかと納得しますと何か面白くなってきました。

 

 

●工芸建築について悩んだ拙ブログ

工芸建築って!?

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12132992933.html

2016226

 

 

 

作品は、11人の作家による9点の作品が展示されていました。パンフレットによると狙いは、材料から生産までのものづくりのサイクルを見直す契機としたい。モダニズムの生産システムに影響を受けた建築として、乗り越えることができるかどうか。同時に、工芸と建築に張り付く概念を変え、作り方も変えることができれば面白いと思っています。とあります。

 

 

そして、開催された13日間に14,000人の多くの来場者を迎え盛況のうちに終わったそうです。

 

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