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広坂通りから柿木畠②旧上下柿木畠

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【広坂1・片町1・上下柿木畠・柿木畠】

表題を“旧上下柿木畠”としましたが、昭和41年(1966)の住居表示変更で、旧上柿木畠が全て広坂1丁目に表示が変更になったと思い込んでいました。今回、調べて見ると「早川浩之の内科医院」辺りから鞍月用水をまたぐ一角が、どっこい、今も”上柿木畠“として残り、日本キリスト教団金沢教会横の鞍月用水から竪町まで町名”下柿木畠“が残っていました。

 

(残っていた上柿木畠)

 

平成2年(1990)に発行された読売新聞金沢総局の「金沢百年町名を辿る」の中に、当時住人の話に「なぜか(町名が)残ったんですね。変更の話はなかったようです。・・・・」と語ったという記事があります。町名変更に対し住民の反対もないのにこの上柿木畠10(現在、他に上柿木畠4-1のマンションカーサ・フォテスク16戸有り)下柿木畠の5(現在、ビル2棟と後は駐車場)が残った経緯はよく分かりませんが、平成15年(2003101日に柿木畠の町名が復活し、従来からの上柿木畠、下柿木畠と、町名として“3つの柿木畠”が存在しています。

 

(Googiマップの上柿木畠)

 

≪明治以後の上下柿木畠の変遷≫

藩政期から明治41871)まで柿木畠は一つの町でした。その年の金沢の新定区画で柿木畠は第二区に所属することになり、その時、上と下の柿木畠に分離します。翌明治5年の改定区画で前の第二区から第九区になり、その第三番組が上柿木畠に、第一番組が下柿木畠に属することになります。以後、明治91876)の改定では、金沢が第十大区になり、小一区から小十区に上下柿木畠は小七区に、明治111878)には金沢は一連区から七連区に、上下柿木畠は二連区に所属します。

 

 

(元上柿木畠で今、柿木畠の日本旅館)

 

明治221898)には市制が敷かれ、金沢区は金沢市になり、第一区から第十二区までになり、上下柿木畠は第三区に属します。さらに明治25年は、金沢市の区画は第一区から第七区になり、上下柿木畠は第二区の所属となります。当時、金沢市には536の町があり、各町筋に所属し、上下柿木畠は竪町筋(36ヶ町)に属しています。

 

(新定区画は、廃藩置県後まもなく実施された地方行政区画制度で、20年近く、住民の意向とは全く無関係で、行政立場から施行されたもので、旧支配体制を払拭し近代的合理制を実施しようと云う姿は窺えますが、こう頻繁に変わったのでは、今の時代で有れば、非難轟々、炎上ものですネ!!)

 

(元柿木畠の町並み(現在柿木畠後ろは金沢市役所)

 

≪明治13年(1880)の「皇国地誌」≫

上柿木畠

「厩橋ヨリ東方宮内橋ニ至リ、北方広坂通ニ接シテ西ニ折レ、茨木町ニ通ス。三町(約327m)許、幅広キハ七間(約12,0m)狭キハ弐間(約3,6m)属巷(まちなか)西南ニアリテ里見町ニ通ス」

 

 

(元このあたりまで、上柿木畠・現広坂1丁目・白い塀は市役所別館の工事現場)

 

下柿木畠

「片町ノ北頭ヨリ東南ニ入リ、厩橋ニ至リ、南ニ折レ竪町ニ通ス。弐町三拾三間(約808m)許。幅広キハ四間(約7,2m)、狭キハ壱間三尺(約2,7m)。又属巷(まちなか)西ニアリ」

 

(下柿木畠の宮保旅館跡の駐車場・明治の初代金沢市長稲垣義方の屋敷跡)

 

(Googliマップ・下柿木畠)

 

P,S

日本キリスト教団金沢教会前は、今は暗渠になり歩道ですが、かっては開渠の鞍月用水が流れ、そこは厩橋とも御厩橋とも言われた橋が架かっていました。「御」を付けらて呼ばれたのは、藩政期、この付近が御厩町と呼ばれたのは加賀藩士の御馬役の者の住居があり、そこに預けられた馬の厩舎があったところから町名が付けられたたといわれ「御厩町柿木畠」と書かれた記録もあります。その近くに有ったので御厩橋と言われたもの思われます。

 

(金沢教会・この前の鞍月用水が昭和41まで、上と下の柿木畠の境界)

(金沢教会前の「旧」の字が埋められて柿木畠の石標)

 

明治になり、この厩橋を境に柿木畠が上と下に分離しますが、今、歩道のところに「柿木畠」の由来を刻んだ「まちしるべ」があります。これは金沢市の文化事業の一つで、町名地名文化遺産として継承するため設置されたものです。町名の他、坂や堀、用水などについて伝える標柱が昭和541979)~平成222010)にかけて金沢市内の224ヶ所に設置されたものです。

 

設置された当時、この場所は「広坂(ひろさか)1丁目」でしたが、平成15年(200310月に町名が復活したため「旧」の文字が埋められています。)

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢百年町名を辿る」平成2年(1990)読売新聞金沢総局発行・:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他


広坂通りから柿木畠③柿木畠と森田柿園

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【柿木畠】

私が知る”加賀藩・金沢城下の由来・沿革””町のなり立ち””そこに住んだ人々”のことは、幕末から明治後期まで柿木畠住人の森田柿園(平次)の著作「金沢古蹟志」はじめ柿園の著作物が殆どを占めていると云っても過言ではありません。

 

(金沢城)

 

思えば観光ボランティアガイドになって10数年、町を歩く中で沸いた疑問や思ったことを図書館の駆け込み「金沢古蹟志」を引っ張り出し、ページを繰ってメモったりコピーをしていました。最近では家で調べられるようになり、今まで溜まったコピー類はファイルにし大切に保存しています。

 

(森田柿園夫婦「金沢柿木畠」より)

 

ところで、前にも拙ブログ「広坂通りから香林坊③「金沢古蹟誌」の香林坊」森田柿園(平次)を少し書きましたが、もう少し辿ってみたくなり調べてみます。

 

 

(今の柿木畠)

 

森田家の元祖は、越前吉田郡森田村(現福井市)の出身で、初め加賀藩士中川家に仕え知行40石の陪臣の家柄でした。4代の森田盛昌は「自他群書」「漸得雑記」「咄随筆」などの著作があり、その頃は嶋田町(金沢駅の辺り)に住んでいたそうです

 

(今の柿木畠)

 

平次の曽祖父にあたる7代の武右衛門のとき御馬廻組の茨木氏に仕えて50石、柿木畠に移ったのは、森田文庫の柿園が描いた地図には8代の作左衛門のとき、文化7年(181053日買請とあります。そのとき家禄は60石、家を「柿園舎」と名づけたのは柿の木にちなんだのでした。9代の大作良郷は文武諸芸にすぐれ、「続咄随筆」「泰雲公10代重教)御年譜」「続漸得雑記」などの著作があります。

 

 

(赤丸が森田家・現在の地図に書き込む)

 

9代の大作良郷の長男が森田柿園(平次)で、平之祐、良見とも称し、祖父にならって柿園と号し、家督60石をついで茨木氏(2050石)に仕えますが、明治になり、金沢藩の寺社所、民政寮の神祇方役所、金沢県・石川県の社寺係に勤務して神仏分離をはじめとする神社行政に、深い学殖に基づいて卓抜した手腕を発揮しました。

 

 

(森田柿園の書いた図・「金沢柿木畠より」)

 

石川県と足羽県(現福井県)との間に、白山の頂上と山麓18ヵ村の帰属問題が生じたとき、綿密な考証によって石川県への所属を実現させたのは大きな功績でした。

 

 

(白山の下山仏)

 

明治9年(187654歳で石川県を退職してから加賀藩関係の記録類の編纂や著述に専念し、明治18年から30年まで旧藩主前田家の嘱託となり編纂事業に従事し、前田家をやめてからも執筆を続けましたが、85のとき縁側から落ち腰を打ってから歩行が困難になり、やがて病床につい翌年明治41121日に逝去されます。

 

非常に勉強家で、眠るのは1日わずか34時間、用事のない時は目を閉じて視力の衰えるのを予防したという逸話があります。お墓は、金沢駅西の曹同宗放生寺にあります。

 

 

(金沢柿木畠」より)

 

≪著作・編纂≫

記録・文書集

「加賀藩国初遺文」「国事雑抄」「松雲公採集遺編類纂」

著名な著作

「白山復古記」「白山記攷証」「白山神社考」「金沢古蹟誌」「加賀志徴」「能登志徴」「越中志徴」「加賀貨幣禄」「万葉事実余情」「越中万葉遺事」「加越能氏族伝」

遺族が石川県立図書館に寄付

「森田文庫」の他、著作稿本や手写本など・・・。

 

●森田柿園の著作や編纂したものは91種類に及んでいます。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他

広坂通りから柿木畠④森田柿園の「金沢古蹟誌」

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【柿木畠】

さすが森田柿園、地元柿木畠には思い入れが有ったのでしょうか「金沢古蹟誌 巻13の柿木畠の項「城南柿木畠百姓町筋」57ページ内、柿木畠辺りが30ページも割かれていています。

 

(元御厩橋の柿の木)

 

柿木畠は、寛永8年(1631)と12年(1635)の火災で、この一帯を火除地にするため、藩士に邸宅を移転させ空地にし、駄洒落の柿のもと火止まる(柿本人麻呂)と柿好きの藩主前田利常公に因み柿の木を植えます。しかし萬治元年(1658)利常公が小松で御薨去され、仕えていた藩士が金沢に戻ったため、再び藩士の邸地となりますが、地名はそのまま残りました。

 

(元厩橋界隈)

 

元禄時代には武家の邸宅も柿木畠と称す!!

≪柿木畠≫

此の地は今(明治以降)宮内橋の辺より、南は竪町口茜屋橋を境ひ、西は御厩橋までの問を上柿木畠とし、御既橋より香林坊橋までの間をば下柿木畠と称す。元禄六年(1693)の士帳に、柿木畠川除或は柿木畠水車の方などと記載し、其の中間に居住する諸士の邸宅をば、皆柿木畠と載せたり。此の地辺、むかしは都て火除地の為、柿木を植置かれしゆえに柿木畠と称し、その邸地となりにし後は町名に呼ぶとなれり。(原文)

 

(駐車場のところが森田柿園の屋敷跡)

 

宝暦年間、森田柿園の屋敷は柿や梨の接木畑でした!!

≪接木畑≫

宝暦八年(1758)の金澤図に出せる接木畑は、ここに描ける如し。但し宝暦三年(1753)癸酉の絵図には、御畑地と記載す。接木畑は、柿木畠の畑中に柿木或は梨木等の果樹などを継ぎ卸し、木種を培養せる畑地なしゆゑに、接木畑と呼びたるなるべし。(原文)

 

(宝暦八年の接木畑の図)

 

利常公は「柿が大好物」だった!!

≪柿木畠来歴≫

三壷記に云ふ。元和二年(1616)の頃、瀧與右衛門と云ふ者、石川・河北両郡裁許被仰付代官等も其の下司に随ふ。才川大橋より坂の上畠にて所々小松あるを町地となし、町中に挟まれる諸寺院を泉野へ移し、下口惣構の内の寺共は浅野川山の際へ移し、才川がけの上野に柿木畑・栗林・ぶとう棚、山のかたはしに、いちご畠をつけさせられ、野田道右手の野原に油木数十本植ゑさせられ、三ッ屋の在所に土蔵を立て、木の実を取入れ云々。菅家見聞集には、元和二年(1616金澤中町々立替り、町中に有之寺庵をば、泉野並に浅野川山際へ集められ、野田道に並松を植え渡し、道並に馬場を付けられ、此の辺りに柿木畠・栗木林・葡萄棚・覆盆子(いちご)畑・油木等を植えせしめられ、宮越に直道を付けたり。右の事共今枝内記下知を以て、瀧與右衛門是を奉行すとあり。浅野茂枝曰く、 利常卿は都て菓物を甚だ数寄好ませ給ふにより、菓物を指上げけるに依って賜へる御書、或は御印をなし下し給へる献上目録共、旧家に多く持ち伝へたり。其の御書等を見るに柿の実を殊に好かせられし事知らせけりと。今按ずるに、柿の御書左の如し。

石川郡四十萬村全性寺所蔵

四十萬道場より柿・梨一折、祝着之よし心得候て可申候。

謹言。

九月廿四日       利光 印  

         (原文・当時の金沢の様子も窺えます。)

 

(当時、すでに利常公柿が大好物だったことは有名で、柿の実の献上を受けたときの礼状やその分け与えた時の記録が残っているそうです。また、正徳元年(1711)の記録の中には、種の無い柿を加賀・能登・越中の三国で調査した記録もあるらしい・・・。)

 

 

(今の柿木畠のシンボルマーク)

 

その他、多くの文書に柿好きの利光(3代利常公)が書かれています。小松に在城の頃、小松葭島(あしじま)に美濃の八谷柿を植えさせたり、美濃よりつるし柿を取り寄せ、その皮を粉にし御菓子師に命じ米粉を混ぜ団子をつくり「柿搗(かきつき?)と名付けたとか、それほど利常公は柿が大好物だったようで、金沢では、柿が植えられたところは、柿木畠を始め、木の新保の常福寺前の畑地や材木町の柿木町などに有ったといいます。これらはみな利常公召上用に植えられた地だと伝えられています。

 

今では、柿木畠の地名は火除け地として「柿のもと、火止まる(柿本人麻呂)だけが有名になり、利常公が柿好きだったコトは伝えられていないようですネ・・・・。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他

 

広坂通りから柿木畠⑤町名復活と柿木畠昨今

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【柿木畠→21世紀ロード柿木畠】

今年も、柿木畠では、盛大に12回柿木畠「水掛けまつり」85() に開催されたそうです。今年は見物に行けなかったので、聞けば参加者一丸になり「水掛け神輿」担ぎ、「柿木畠(カキ)」と「活気(カッキ)」を掛けた“カッキー、カッキー、カッキーナ”の掛け声とともに、いつもの石浦神社から勇壮に街を練り歩き「商売繁盛、無病息災、家内安全」を祈願し、沿道のあちこちから水を掛けられ盛り上がっていたとか・・・。

 

(水かけ神輿・石浦神社)

 

平成18年(2006)手探りでスタートした 「水掛け神輿」でしたが、最近では留学生神輿も加わり、本神輿、女神輿、そして街の活性化に協力する企業神輿も出て「水掛け神輿」は人気を呼び、見ている側にも元気が出るお祭りとして、毎年楽しみにしている柿木畠の夏の人気イベントとしてすっかり定着している様子です。

 

(企業神輿)

(町にひらめく水掛け神輿の幟)

(第12回の水掛け神輿のポスター)

 

かって、この柿木畠一帯は、藩政初期火除地として柿の木が多く植栽されていた防火の町としての歴史があり、そのコトに因み 「水掛け神輿」を実施することになり、柿木畠振興会には神輿がなかったため、振興会の会員たちが一から手作りで仕上げお手製神輿を準備し、平成18年(200610月の 「柿まつり」に際して、記念すべき第1回「水掛けまつり」 が行われたそうです。

 

「柿まつり」は、平成5年(1993から柿木畠の伝統芸能である「柿木太鼓」を復活し、秋に商店街の定番イベントとして開催しています。平成22年(2010には、新しい要素をプラスし、誰でも好きなカレーを商店街の各飲食店が特色を出して提供する 「カレー博in柿木畠」を企画し、平成29年(2017には、会場を金沢市役所庁舎前に移し、柿木畠人気の和、洋、中華、多国籍料理店が、心を込めてこの日だけの特製カレーを作ります。 今年(2018)も、930に金沢市役所庁舎前で開催されます。)

 

(青い線の内が復活した柿木畠)

 

平成15年(2003101、金沢の町名復活5番目の町として、昭和39年と41年の町名変更で広坂1丁目と片町1丁目と呼ばれていた旧上下柿木畠の一部が町名復活で「柿木畠」と呼ばれるようになり、その1年後の平成16年(2004109に開館した広坂1丁目の金沢21世紀美術館とも連携し、美術館入館者を対象としたサービスの開始や美術館と柿木畠商店街の情報を一体化したオリジナルマップを作成するなど、美術館の訪問者が、柿木畠にあふれ、気軽に食事や買い物が楽しめるようになり、最近では行列の出来る有名店も出現しています。

 

(商店街)

 

この町は、広坂の金沢21世紀美術館金沢市役所に挟まれた通りを進み、金沢市役所裏に今も残る西外惣構堀を右に曲がると柿木畠商店街があります。この商店街は飲食店が多いのが特徴で、おでん・寿司・居酒屋・蕎麦といった和食だけでなく、中国料理、フランス料理、スペイン料理、イタリア料理、韓国料理と国際色豊で、金沢21世紀美術館のお膝元、外国人観光客が多く訪れます。

 

(柿木畠商店街地図)

 

(柿木畠は藩政初期からある町名で、まちの真ん中で西外惣構堀と鞍月用水が合流し、香林坊橋から長町川岸を流れ、昔は、中央小学校辺りで二方に流れ、一方は升形から浅野川に至る流れは西外惣構堀で、もう一方は鞍月方面に流れ灌漑用水として今も健在です。)

 

参考ブログ

あかねや橋から香林坊橋まで《鞍月用水③》

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11820372014.html

 

(柿木畠復活を契機に植えられた柿の木)

 

今の柿木畠は、旧柿木畠では由緒ある柿の木の姿が見られなかったのですが、柿木畠復活を契機に、地元商店街は、「柿の木」を町まちの木として、町内の各所に植え、まちの緑を演出しています。なお、平成15年(2003101日に、金沢市の旧町名復活運動により広坂一丁目の一部だけが柿木畠として復活し、昭和39年に片町1丁目だったところは、そのまま片町1丁目ですが、町内会は変わらず上柿木畠町会、下柿木畠町会で、商店街は名称柿木畠振興会として連帯しています。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行ほか

柿木畠の明治女流俳人伝説中川富女①

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【旧上柿木畠】

   わが恋は林檎のごとく美しき     富女 

 

明治の女流俳人中川富女は、明治8年(1875)金沢生まれ。角川学芸出版の「鑑賞女性俳句の世界」松井貴子氏「百万石の光彩、そして闇」に、明治30年(1897)前後の金沢俳壇で鮮烈な光彩を放ちながら、わずか2年ほどで忽然と消えた俳人として紹介されています。

 

(中川富女の藤屋旅館の在ったところ)

 

富女の母乾は士族の出で、富女は次女。本名は小牧であったが、お富と呼ばれていたそうで、踊りと三味線の素養があり、明治22年(1889)に上柿木畠に有った藤屋旅館(中川伊平)の養女になります。この家に京都の三高より学制改革で四高に転校して来た正岡子規の同卿で河東碧梧桐と三高で同窓の竹村秋竹が下宿したことで富女俳句に結び付けます。

 

(明治25年(1892)俳句の革新が正岡子規によって唱えられ、芭蕉を批判しそれに繫がる俳諧を月並みで俗調として、客観的で写実的で、ありのままに表現する句をよしとし、特に蕪村を高く評価します。)

 

 

 (坂の上が四高・元下柿木橋)

 

富女は、竹村秋竹から俳句を勧められ俳句を作ったのが明治29年(1896)。一年後に結成された「北声会」に入会します。金沢では明治29年(1896)に正岡子規高浜虚子、河東碧梧桐と同郷松山の竹村秋竹が四高に編入し、子規の俳句革新に呼応した作品を四高北辰会の雑誌に発表し、明治30年(18975月に金沢に「北声会」を発足させます。秋竹は、この会発起人の一人で仮会主になりますが、「北声会」の発足の3か月後、明治30年(18978月に東京帝国大学英文科に進学して金沢を去ります。

 

(金沢の「北声会」は、明治304月、北川洗耳、得能秋虎、竹村秋竹たちが興し、旧派に対抗する金沢の子規派の俳句団体で、5河東碧梧桐は京都から北陸を旅し、秋竹の下宿に滞在します。ここで富女の俳句を見て、その才能に驚き、賞賛し、子規に富女の天才的な感性と美貌を伝えたと言われています。)

 

参考ブログ

蕉風俳諧、最後の人園亭萎文(いぶん)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11248348346.html

 

(俳句は「座」の文芸です。江戸の前期、松尾芭蕉の時代の前に、貞門、談林の俳諧があり、芭蕉も、まずそうした文芸サロンの世界の宗匠、つまりプロとして立とうとします。「宗匠」が仕切る俳諧の「座」は、文化サロンであり、武士や大店の主人とか、俳諧のプロたち、つまり男の世界で、女流は数少なかったかったそうです。)

 

 

 (柿木畠は、今も俳句の町です)

 

秋竹が俳句の師であり恋仲であった富女は、秋竹が東京に出ると彼を追うように東京の伯母を頼り上京します。明治31年(1898)に秋竹と共に子規庵を訪れています。子規は富女「句材の豊かさと天性の俳想」と彼女の美貌と天才的な感性に驚きます。

 

 

 (柿木畠、突き当りが藤屋旅館跡)

 

その時、子規は“富女北国より来る”と前書し「行かんとして雁飛び戻る美人かな」と詠み、啓発を受けた富女は俳句に嵌って行ったもの思われます。正岡子規は、富女加賀の千代以上に詩材が豊富であると賞讃したそうですから、相当な俳人だったのでしょう。

 

富女は、子規の病床を訪ねた唯一の若い未婚の女性であったそうです。富女は問われるままに、金沢の自然、風物について語り、子規の病状について尋ねますが、自ら進んで俳句の話をすることはなかったと伝えられています。

 

 

 (町には俳句が・・・)

 

富女の上京の目的は、秋竹との結婚でした親の意に反して富女との結婚を望んでいましたが、結納を交わすまでに至ったにもかかわらず、突然、秋竹が破談にします。このために、富女は俳句も止めてしまったと推測する説があります。明治34年(1901)、東京にいた伯母の料亭に寄寓してからは不明です。

 

一説には、小松の伯母の芸者置家で芸妓見習をしたあと、明治34年(1901)に上京し、柳橋か新橋で芸妓になって1年ほどで落籍され、明治3536年頃に死亡したという話ともう一つは、明治43年(191012月、金沢で理髪店を営む砂田某と結婚し、養子を迎え、大正3年(19146月に夫が死亡し、富女は大正14年(1925106日に大阪で没した。享年51歳。

 

冒頭の、“わが恋は林檎のごとく美しき”は、叶わなかった過去の恋の追憶をリンゴに託して詠んだ作品だという説が有力ですが、俳句のプロの中には、この句は現在の恋愛宣言を言うのか、過去を振り返るのかがはっきりしないという人もいるそうです。

 

(つづく)

 

参考文献:「鑑賞女性俳句の世界」―第1巻女性俳句の出発― (株)角川学芸出版 2008131発行他

柿木畠の女流俳人②富女と謡曲

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【柿木畠】

明治42年(1909821日、10年ぶりに金沢を訪れた河東碧梧桐は町の彼方に見える医王山の峰々が靄(もや)っていた。金沢停車場に降り立ち、ひと雨来そうだなと思った。

齢若い書生が迎えに来ていた。開口一番、心に気にかけていたことを口にしていた。

 「君、富女という俳人を知っているかい」

 「俳句をなさる方ですか」彼は眼鏡を人差し指で持ち上げて訊ねた。

「ああ、竹村秋竹について俳句を学んでいた女性だよ。吾が恋は林檎の如く美しきの句をつくった人だ」・・・(同人誌桜坂「玉響の人」剣町柳一郎の楽譜帳より)

 

(明治の金沢停車場)

 

富女の俳句は、日常の観察の中かに見えるひとときの雅があり、近代と前近代が交差する明治日本を反映し、江戸の残照、西欧の香気を感じさせ、子規の写生論を実践していると評されています。また、それらの表層を覆いながらも、自己本来の眼差しの特質を静かに活かし続けたと「百万石の光彩 その闇」の筆者松井貴子氏が書いています。その眼差しの鋭さ、的確さが鈍り、強い心の動きが句から失われたとき、彼女は俳句を止めることを決めたのかも知れないとも書かれています。

 

それは初恋であろう竹村秋竹との恋に破れたことが、すべてで有ったと言っても過言ではないのではと推測されます。

 

(河東碧梧桐)

 

私が知る富女の俳句は、22歳当時の発句ですが、その中に金沢の能楽が潜んでいることが気付きます。泉鏡花は母が能楽の鼓の家の出でありので当然としても、当時、金沢では、庶民の中に謡曲が流行っていたのか、武家の出の母を持つとはいえ年端もいかない二十歳そこそこの娘が謡曲の素養があったのだと思うと、当時、寂れた金沢であっても文化度の高さが偲ばれます。

 

(兼六園)

 

短 夜 に 長 生 殿 の 酒 宴 哉

城 落 ち て 小 鹿 或 夜 月 の 啼 く

旅 僧 の 笠 に 露 あ り 朝 さ む し

 

いずれの句も謡曲から想を得た句だと思われます。子規が富女の美貌だけではなく「句材の豊かさと天性の俳想」に彼女の天才的な感性に驚いたのには納得です。

 

始めの句「短夜に長生殿の酒宴哉」は友人に誘われ兼六園の20年祭に行ったときの句で、生来、弱い体質で、賑やかな事を好まないのに、加えて、予想以上の人出に花火の音に圧倒され、人の少ないところを見つけしばらく休み、9時頃帰宅したと解説に書かれえいますが、生活が掛かっていたのか?後に良く芸妓が務まったものと思われます。

 

 

(兼六園)

 

他に子規好みの句や和歌的な素養を感じさせる句、西欧的な雰囲気を感じさせるもの、色の対比した句、遠近法を意識したものなど、絵画的構成もあり、わずか2年ばかりの発句活動でしたが、子規も評した「句材の豊かさと天性の俳想」が窺えます。

 

天 守 閣 高 く 若 葉 に 夕 焼 す

ト ン 子 ル を 出 れ ば 岨 の 若 葉 哉

白 き 石 に 黒 き 毛 虫 の 横に 這 ふ

昼 の 蚊 の 大 寺 ひ ろ く ゆ た り と ぶ

古 書 読 め ば 蚊 を 打 ち し 血 の 痕 黒 き

 

先日、ふと勝手に思ったことですが、正岡子規が唱える写生論は、見たものを頭の中で再構築して表現する方法で、現代アートのロシア出身でドイツやフランスで活躍した画家で美術評論家のカンディンスキーが、始めて抽象絵画を発見し表現した絵画の発想によく似ているような気がしてきました。

 

 

   (カンディンスキー)

 

≪竹村秋竹≫

富女と俳句の先生で恋人であった竹村秋竹(本名修)(明治8年(1875)~大正4年(19151227日享年41歳)は、松山市末広町生れ。河東碧梧桐とは伊予尋常中学校・三高共に同期生であったから、碧梧桐や虚子の影響で俳句をはじめたらしく、学制改革で金沢の四高に転校すると、彼の地で「北声(聲)会」が発足。彼はこの会発起人の一人で仮会主ででした。明治30年(1897)のことで、前年には、子規から「俊爽」と評せられ将来を期待されていたが、明治34年(1901)、子規には断りなしに「明治俳句」を発行、これは「日本」・「ほとゝぎす」の俳句から選抜されたものであり、子規も同じく「春夏秋冬」を編さん中であることから子規の不興を招き、秋竹は子規一門から問責され、一門をはなれ俳壇から遠ざかり、晩年は寂しいかぎりであった。

 

 王城の石垣に鳴く蛙哉秋竹  (明27年刊「俳句二葉集」)

 二百十日破蕉に風は無りけり    秋竹(明28年)

 

参考文献:「鑑賞女性俳句の世界」―第1巻女性俳句の出発― (株)角川学芸出版 2008131発行他

 

石引の「御山まつり」に思う

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【石引通り】

923日、小立野地区では、38回「御山まつり」が盛大に開催され、初めてじっくり見物しました。このお祭りは、確か、地元で商売していた私の同級生達の石引商連青年部ら?が中心になり第1回が開催したと聞いています。以来38年間、殆ど寝るだけの地元だった私はゆっくり見物したこともなく、見たのは自宅の近くで休みの日、用達しのついでに見たぐらいでした。今年は、石引で開催されている金沢21世紀美術館の「東アジア文化都市2018・変容する家」もあり、初めてじっくり見物しました。

 

(石曳き)

(御山まつりと変容する家のポスター)

 

藩政初期、金沢城を築くいた時、お城の石垣の石を戸室山から田上の橋を渡り小立野に引き上げ亀坂を通り、お城へ運ぶ「大石曳き」の再現で約20人の上半身裸の曳き手が台上に載せた石を丸太で転がし、前を校下の子ども達が引っ張り、引台の後ろには、地元の子ども達の行列が続いていました。

(子ども達が頑張っていました)

 

ここで、いい機会なので、数年前、石引の由来を話したことがあり、石引の町名を調べたのを思い出し、話しただけで、記録としてまとめていなかったので、今日はその時に調べて内容を記すことにします。

加賀藩では、藩政初期以来、戸室山から金沢城まで約12kmの道のりを幕末まで石垣の石をダンプも重機も無い昔、おびただしい量の石を押したり曳いたりして運んでいます。

 

 

(昔ながらに丸太で転がしていました)

 

(戸室石は、約40万年前の火山活動で形成された「安山岩」で、18000年前にがけが崩れて、今、見えるような山が形成されました。)

 

 

(金大病院前にアトラクション広場)

 

「石引」の町名ですが、石を金沢城まで運搬した道だから「石引通り」とか「石引町」といわれるようになったといいます。山で切り出される石は、戸室石(角閃石安山岩(かくせんせき・あんざんがん)といいますが、金沢城築城のため最初に切り出されたのは、今から421年前、天正20年(1593)、前田利家公の時代です。その後、市内大火の際等、城内再建の度に切り出して運搬も繰り返されました。

 

資料によると幕末まで、7期に分けて記録されています。はじめは大勢の住民が動員されて運ばれましたが、幕末頃になると二輪や四輪の地車といわれる引っ張る運搬車が使われて効率化されるようになっています。

 

現在、戸室山・キゴ山には、埋蔵されている石材は100万トンといわれています。金沢城に使用されている石は推定20万トン(約12万個)ですから、金沢城の規模であれば5つの城は出来ることになります。(20万トン÷12万個=1個約167kg)

 

のちに、山にも広い石引道(幅五間(9m))ができますが、初期のころは道が狭く多くの人が肩に担いで運び山を降り、田上では、橋ではなく土嚢を積んだところを渡り、野坂から小立野台に上げています。

 

参考ブログ

小立野の旧上野村③野坂・牛坂・大阪

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12371833175.html

 

上野から亀坂、石引を通って金沢城に至りました。その中でも小立野の亀坂は、石を引っ張るとき亀の歩みのようにゆっくりになったとか、谷は深く亀の甲羅を逆さまにしたような形だったとか、難所であったことが伝えられています。今も石引1丁目の端にある下馬地蔵は、石を運ぶ人々の平安無事を祈る祠だったと言われています。

 

そして石引の町名が文献に表れるのは、今から322年前の元禄9年(1696です。最初の石引きの作業から約100年後。そのころに町名が定着したことになります。

 

実は、私が調べた限りでは、「石引」という町名は全国どこを探してもありません。尋ね歩いた分けではありませんが、地名辞典や町名の本それに地図やインターネットを検索すると、地名としては、四国の山の中など数ヶ所有るだけです。

全国には、城下町は江戸時代250以上もあり、お城は、ほとんどが「石垣」が用いられ、石伐り場から距離は遠い所も近い所もありますが、間違いなく石を引いて城を築いたのに、何故か石引という「町名」は他には見つかりません。ということは石引という町名は日本で一つ、大げさに言えば世界で一つという事になります。一人よがりですが、これは調べる価値があると無理やり思い込み、調べたわけです。

 

(厚い辞典を熱くなって繰り返し探しました。インターネットの郵便の住所もさがしましたが、石引という町名が見つかりません、日ごろする事が無い閑人ですからいい暇つぶしです。歴史家ではありませんが、それなりに資料を集めて仮説を立て、詰めて行きますが、結論は、私の勝手な推論で、少し怪しいかも知れませんが、中間報告をさせて頂きます。)

 

他の城下町での石の運搬について例では、大阪城の石は、瀬戸内海の島々にしか無かったということなのでしょうが、当時は陸より海の方が運び易かったのでしょう。金沢で陸路を運んだのは、やっぱりこの辺の人の力です。その力の根底にあるのは金沢の人の従順で勤勉さによるもの、という思いに至りました。人力で運んだ量は約12万個だといわれています。その長い道中については、安太(あのう)という、石垣造りのプロ集団の指導があってのことですが、実際に運ぶのは人力。人々にとっては命がけの重労働だった分けです。

 

それが、約100年も時間を経て、金沢の人々が、先人の労苦を讃(たたえ)えて名前を残して置こうと思ったのでしょう、「石引」という名を残したのではと・・・、私が知る限り、こんなことはどこにも書いてありませんので、歴史家ならこんな乱暴なことは書きませんが、素人ならではの苦し紛れの推測です。

 

この「石引」という町名は、私には、金沢の人々の“根性良し”の象徴のようにも思えます。また、考え方によっては従順で勤勉な金沢人に与えられた勲章のように思えます。

 

 

(外人も見物)

 

すみません。素人考えで、異論の有る人もいると思いますが、本当のことを、ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて頂ければ有難く思います。

 

(石垣の面積は30,000㎡。1㎡当たり石4個で計算すると約12万個。明治なり崩れたのを入れると約15万個か?)

 

 

(露店の出て賑わっていました)

 

こんな話を聞いたことがあります。苦労の多かった田上から高い小立野へ上げずに、浅野川に沿い賢坂辻に運ばなかったのか、疑問に思っていたのですが、ある研究者によると、どうも今風に言うと「パフォーマンス」だったとか、わざわざ人の多い石引の通りを運び、市民に威勢とお殿様の権威を見せ付けるパレードだったのではないかといっています。一寸、眉唾ですが、見物人も書かれた昔の絵などを見るサモあらんと思います。

豆腐一丁!?卯辰の七面さん蓮覚寺

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【東山2丁目】

先日、小立野公民館の行事「史跡めぐり」で、日蓮宗の蓮覚寺さんに行ってきました。私は初めてのお参りでした。藩政期から、室町時代の作とされる秘仏の画像七面大明神を祀っていることから「卯辰の七面さん」と呼ばれ、所願成就と云うことで、何もかも上手くいくと言うので、宗派を越えて多くの信者が詣でたといいます。

 

(蓮覚寺)

 

画像の七面大明神は、19年に一度のみ開帳ということから、平素は寛文元年(1661)作の胡粉極彩色木造の七面大明神を拝んでいますが、木像は家康の側室於万の方(長勝院、天文17年(1548)~元和5年(1620)から加賀藩初代前田利家公の側室寿福院が、側室同士の誼(よしみ)から?戴いたと伝えられています。

 

(於万の方は、物部姓永見氏の娘で、通称おこちゃ、於万の方、小督局ともいわれ、結城秀康の生母。)

 

(七面堂・正面木造の七面大明神)

 

七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神で、七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになります。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれます。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297919日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われています。

 

(七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られていて、その姿は役の小角の姿で、日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰がありました。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒された姫君説話の舞台です。)

 

(蓮覚寺の解説板)

 

蓮覚寺(れんかくじ)さんは、 山号は本学山。寺記には、開基勧寺院日長が元和2年(1616)小庵を結び、当初は彦三辺りあり、弟子善行院日安(元石動山の修行僧)に小庵を譲られます。境内には七面堂があり、先に記した七面大明神の画像(伝説では土佐信之作といわれていたが、現在は土佐派と作といわれています。)があり、河北郡五箇庄清水谷村より出た当寺の開山檀那の清水屋清右衛門蓮覚日就が信仰し、善行院日安と謀り、日安は元々真言宗の僧であったが、京都の妙顕寺の12世玄孝院日尭の教えを受け改宗、寛永9年(1632)京都の本持妙顕寺の請い寺号を得ます。寺号は開山檀那の清水屋清右衛門蓮覚日就の名によるものです。

 

(蓮覚寺本堂)

 

(註:清水屋右衛門は金沢古蹟志によるもの、善右衛門と書かれたものもあります。また、画像は文明の頃清水谷の直乗寺に安置されていたと書かれています。)

 

 

(七面小路)

 

≪七面小路≫

金沢古蹟志には、七面小路を、蓮覚寺の前通りより高道町に通じる往来也。とあり、その蓮覚寺は七面繁盛せしより、小路の名に呼びて、今も七面小路と称す。とありますが、お堂の老朽化と昭和38年の38(サンパチ)の豪雪で建物の傷みが激しく、昭和39年に本堂の正面を逆向きにし改築しました。現在は七面小路が裏にありその沿道は住宅が建てられ向かいの妙泰寺や全性寺が続き、昔、巡礼街道といわれた風情が残されています。

 

(妙泰寺)

(全性寺と巡礼街道)

 

≪蓮覚寺の墓所≫

〇加賀藩主3代前田利常生母の寿福院の実家である上木新兵衛家の歴代墓所がある。

 

(上木家の墓)

 

〇辰巳用水を開鑿した板屋兵四郞のものと伝わる墓があります。その墓碑名は、今読めませんが木屋と有ったそうで、お寺の大奥様の話では長い間お盆になると板谷さんと云うご夫婦が墓参にいらっしゃったとおっしゃっていました。

 

 

(板屋兵四郎の墓といわれる墓)

 

〇尾佐竹猛のお墓があります。猛は加賀藩の儒者の子として羽咋郡高浜で生まれ明治の法律家でしたが、判事に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけ、研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴。一方で、大正13年(1924)に吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を設立し、「明治文化全集」などを編集しました。

 

 

(尾佐竹猛の墓)

 

他に金沢の金城学園の創立者加藤せむのお墓があります。

 

(蓮覚寺の墓所・昔はもう少し山の方にあったとか・・・)

 

一寸残念だったのは、加賀万歳で謡われている「豆腐一丁蓮覚寺」の由来!?

 

参考資料:金沢古蹟志第12編巻3350P・小立野の「史跡めぐり」の資料・蓮覚寺の前上人さんの奥様のレクチャーなど


「釣天井があった家」森山の足軽屋敷跡

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【森山二丁目(旧森山5番丁)】

今、流行の「断捨離」ではありませんが、暫くぶりに本棚の整理をしていたら数年開いていない本「加賀能登の家」が目に触れました。内容は地元に残る古い家屋敷が白黒の写真に解説付きで載っていて、解説には、確か昔中学校で習った先生も執筆されていたことを思い出しページを繰ると、2人の中学時代の先生と何年か前に古文書を習った先生も執筆なさっていました。

 

(加賀能登の家)

 

「加賀能登の家」は、昭和50年(1975)。当時の北国出版社が建築学視点より、時間に生き、生活に生きる家と人にスポットをあてた記録と家の意味を考えたもので、当時の金沢経済大学教授田中喜男氏が編者で、能登28軒、金沢54軒、加賀16軒の98を郷土史家、中学・高校の教諭等の識者58名が執筆に当たったものです。)

 

(我が家の本棚の一つ)

(加賀能登の家のページ)「釣天井のある家 山下家」

 

 

たま~に見ると新鮮に感じで、本の整理を中断して眺めていると、結構嵌ってしまいページを繰っていました。現存が確認出来る大野醤油の直江家や豪農の本岡家、尾張町の石黒家、飴の俵家、本多町の横山家など、他に職人の家や老舗の豆腐屋、足軽屋敷など、あれから40数年の歳月が流れ、今はどうなっているのだろうと云う思いがつのり、是非、見たいと言う衝動に駆られ、先日行動に移しました。

 

(山下家の現在)

(昭和50年頃の山下家)

 

一回目に定めたのは、中学時代の先生が執筆された森山2丁目16「釣天井のある家 山下家」という足軽屋敷です。Googleの地図を開くとすぐ見つかりました。果たしてどうなっているのかワクワクして自転車を走らせました。石置き屋根がトタンに変わっているのだろうか?いやいや建物もあの特長あり板塀もすっかり消えてモダンな家が建っているのでは?と想像すると興奮が止まりません。

 

(安政年間の絵図・大組足軽組地(角)は併設の角場)

(昭和24年頃の森山町小学校周辺)

 

山の上町の光覚寺前の飴屋坂を下り、森山町小学校の前から地図で調べた森山善隣館横の小路を入ると一直線に走り最初の右を曲がると板塀が目に入りました。そこから暫く行くと右に40数年前と同じような板塀と塀を突き破った桜の木がありました。写真で見る40年前の桜の木は細かったのに!!そういえば、当の先生も当時40半ば、私も30半ば、つくずく、過ぎし歳月を思い知らされました。

 

 (今の森山善隣館・白い建物は森山町小学校)

(反対方向から見た山下家の板塀)

 

塀はそのままの姿でしたが、真新しく感じられます。家は建て替えても板塀の風情はそのまま残したのでしょう?表札を見ると40数年前の記事と同じ山下貞雄とあり、お人柄がうかがえます。お声を掛けようか迷いましたが、取材でもないし、自分だけの楽しみでやっているので、町並みを眺めながら帰ってきました。

 

(森山2丁目は、明治になり、森山2番丁~5番丁や上田町などになりますが、藩政期には大組足軽組地で、鉄砲の訓練をする“角場”付きでした。大組足軽とは、加賀藩の戦闘要員としての主力部隊の内、鉄砲隊となる足軽で、その住居地が大組足軽組地で、その外の足軽には、中組足軽 持方足軽とも、弓足軽7隊、鉄砲足軽4隊で編成する全7組の足軽。先手組足軽 7組の人持組配下に属し、弓足軽7隊、鉄砲隊足軽14隊で編成された足軽。)

 

参考ブログ

足軽資料館①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12223773596.html

足軽の暮らし②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224101306.html

足軽の仕事③

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224366501.html

 

 

「加賀能登の家」の釣天井のある家の原文

 

 

(森山2丁目(旧森山5番丁)

 

参考文献:「加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和5010月発行

 

人馬同居!?のシルクスリーン工房

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【金沢市北袋町】

湯涌温泉近く北袋町に、近郷の明治・大正期の貴重な建物を保存活用するため、金沢市が整備し里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」があります。5つの登録有形文化財を含む古民家を改装し、専門設備が完備した銅版画、リトグラフ、木版画の版画制作工房や草木染、藍染、織の染織工房シルクスクリーン工房と交流研修施設、宿泊棟、ギャラリーがあり、誰もが使える自由な創作活動作品発表の場となっています。

 

 

(金沢湯涌創作の森)

 

金沢湯涌創作の森の施設は、昭和49年(1974)当時、湯涌温泉ホテル白雲楼の敷地に有った付属施設「江戸村」の姉妹施設として北袋町の里山に「檀風苑加賀記念館」としてオープンします。近郷から移築した建物には、金箔・象嵌・木地・和紙の制作用具など、重要有形民族文化財45075を含む1万点余りが収集されていました。しかし、ホテル白雲楼が平成9年(1997)の倒産に伴い9月「檀風苑加賀記念館」「江戸村」が閉園になり、平成10年度(1998)金沢市が「檀風苑加賀記念館」「江戸村」を取得。「檀風苑加賀記念館」は平成15年(200310月、里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」として再オープンしました。)

 

参考ブログ

金沢湯涌創作の森

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj_rdmnrvjdAhUKdt4KHQAVAKMQFjAAegQIBRAD&url=http%3A%2F%2Fwww.sousaku-mori.gr.jp%2F&usg=AOvVaw3aLjthDBIQeOfsxrcJNU-X

 

 

私と「金沢湯涌創作の森」の関わりは、再オープンの翌々年だったか、今、金沢21世紀美術館の副館長黒沢伸氏が「金沢湯涌創作の森」に転勤され、金沢21世紀美術館でお世話になったよしみで、催事や小学生のアートフル林間学校のボランティアとして参加させて戴いたのが始めでした。以来10数年、当初は若かったので小学生のアートフル林間学校、肝試し、打ち上げでは泊り掛けも厭わずやってまいりましたが、数年前から体力の衰えもあり、付いて行けなくなった矢先、昨年、病気で入院というアクシデントでボランティアも行くのも止めてしました。

 

(アートフル林間学校)

 

先日、「加賀能登の家」を見ていて「人馬同居の家 宮下家」の記事があるのに気付き、何回も本を見ていたのに、何10回も訪れているのに、今まで、そこが同じところだということに気付かなかったのが、はがゆく思いながら、ブログを書こうと当時の写真を探しますが、見つからず2年半ぶりに出かけました。

 

(今、シルクスクリーン工房)

(昭和50年当時の馬屋付きの住居)

(今の馬屋外と内)

 

車を走らせながら、10数年間のいろいろなことが思い出されます。何回目かの

アートフル林間学校で子ども達と裏山に登ると息が上がり、モタモタしていると子ども達が何回も迎えに来て無理をして頂上に登ったり、球技をすると足の衰えに気付かされ、暫くして動脈硬化と狭心症と診断され、冬場に入院し直ると翌年には、多少無理と知りながらもアートフル林間学校に復帰していました。

 

(アートフル林間学校)

 

また、子ども達と川に行き作ったボートのレースや子ども達の中には泳ぐ子も、また、肝試し、案山子づくり、消しゴム版画やシルクスクリーンで自分だけのTシャツづくりなど、それから、夕食のバーベキュー、その後のアイスクリームづくりなど、今、思うと子ども達に引っ張られながら楽しんでいたのだと気付かされます。

 

(案山子)

 

こんなことも有りました。炭焼き小屋が廃墟になり、そこにカブト虫が涌くほど繁殖し、採り放題状態になると、初めは多くの子ども達が喜んで採っていましたが、余にも多いので飽きてしまったのか?ゴキブリに見えたのか?帰るときには随分余ってしまったという記憶があります。

 

一番印象に残っているのは、平成20年(20087 28日早朝、浅野川では記録的豪雨に見舞われ、湯涌地区は孤立してしまいました。その日、金沢創作の森には宿泊していた親子がいて、湯涌街道は不通で当然北袋町の金沢創作の森は孤立状態でした。その時、東京出身の所長が市内の者でも余り知らないキゴ山から歩いて宿泊客の食料を運んだと聞いたときは、よくそんな道を知っていたものだと感心しながらも感動したのが思い出されます。

 

(みんなで植えた朝顔)

(シルクスクリーン工房・小学生の作品)

 

久しぶりに訪問し、シルクスクリーンの講師の方と再会し、今度は作品づくりにお邪魔することを約束してきました。

 

人馬同居の家 宮下家           (原文)

 

 

「旧江戸村」は江戸時代の武家屋敷、商家、農家、10数棟門や土塀が立ち並ぶ博物観光施設で昭和42年(1967)湯涌温泉街の山の中腹にホテル白雲楼の施設せしたが、施設を引き継いだ金沢市は、文化財保存上、より適した温泉街北側の金沢市湯涌荒屋町35番地1への再移築に平成22年(20109月、農家3棟、武士住宅1棟、商家2棟、宿場問屋1棟、武家門1棟、総計8棟の移築が完了し、新たに「金沢湯涌江戸村」をオープンしました。)

 

参考文献:「加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和5010月発行 金沢湯涌創作の森のHPより

浅野川大橋を渡ると・・・旧森下町の古風な町家

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【東山2丁目】

今、賑わっている「ひがし茶屋街」に繫がる浅野川大橋たもと、旧森下町の通りに、気になる昔の町家が連なる一画が有ります。その中でも看板も無く、商売もしていない素朴な町家ですが、何故か存在感のある角家が目を引きます。

 

(浅野川大橋)

 

(東山2丁目の越沢家周辺)

 

そこは大正・昭和初めから戦後まで茶道や古美術界で活躍された裏千家師匠の故越沢宗見(号竹窓庵得瘦叟)の家で、今も表札には越沢とあるので、そのご子孫の方が住まわれているのでしょう。先日も、女性の方が玄関に自転車を止めて入られるのを見ました。

 

(大通りに面した越沢家)

 

建物については、昭和50年(1975)発行の「加賀能登の家」“粋人好みの床しさ 越沢家”と題した歴史研究者牧久雄氏の記事があります。外観は当時の記事の写真と殆ど変わっていないようすが、今と違うのは、大通りに面した4間と側面の2間の葦のすだれと丸太で組んだ覆の下方に隙間がありません。大通りの激しい車や人の動きから、砂や石が入らないように板の枠で囲ってあります。結構しっかり作られていて、大通りから中が見えず、住んでいる人の気配を消しているようです。

 

(越沢家と旧森下町の通リ)

 

通りからは1階建てのように見えますが2階建ての建物です。江戸時代の名残か屋根が低く見えるように造られ、外見は小屋根の上は低い格子が嵌っていて、その上の屋根は、向かい側から見れば明り取りのように見える屋根があります。横から見ると2階建てそのものですが、前を歩いていても2階建てに見えないように工夫されています。

 (この辺り建物は、江戸時代、殆どが平屋でした。)

(越沢家の側面)

 

建物内部は、前出の牧久雄氏が書かれたものですが、外から眺めるだけしか知らない私には、読んでいくと興味津々、是非、いつか自分の目で見たいと思うようになりました。記事のよると、玄関を入るとほの暗く、天井の低い家の中の様子は、いかにも時代流転の佇すまいだそうです。

 

(越沢家の玄関)

 

そして柱ですが、すべて紅殻塗りで、釘は一切使わず、カスガイに似た特殊な器具を要所に打ち込んであり、奥まった土蔵は、まことにしっかりしたもの。こじんまりした茶室の素材は粋人好みの床しさが心を引くと書かれています。

 

通り沿いの葦のすだれは、内部から外は透いで見えますが、外部から内が見えなく、外からの光は部屋の中からぼんやりと照らし、風通しもよさそうです。

 

(越沢家)

 

家の言い伝えによると、呉服商だった初代越沢太助が、明治初期、花道師浅野氏から買ったもので、建坪は約80坪(264㎡)。今から40数年前の語られた親戚の方の話では「この家はこれまで大掛かりな修理をしたことがなく昔のままです」と書かれています。また、こんな話も書かれています。昭和38年(1963)の豪雪で屋根雪に立ち会った大工によると、これくらいの積雪では絶対倒壊しなとか、また、地震にも強いと太鼓判を押したとか、あれから40数年果たして現在は?私でなくても覘いて見たくなる興味津々の建物です。

 

 

(越沢家)

 

この家の主、茶人越沢宗見(本名太助・号竹窓庵得叟)は、茶道の世界では、全国的にも知る人ぞ知る人と言われていますが、その実力は?宗見が茶道具を収める木箱に御書附(御書付、箱書、とも云う)をすると、作品の価値が高まったといわれているそうです。

 

金沢の前田利家公創建の寺護国山宝円寺の境内には、越沢宗見の彰徳碑があります。建立は昭和17年(1942)に建設されたもので、地蔵尊の形態がとられています。2段目に彫られている竹窓庵得叟というのは越沢宗見の号で、台座の文字は横書き3段になっています。また、その年月の記入のところに同じ金沢東山に生まれの20歳上で昭和22年(1947922日公職追放を受けた直後の25日、熱海で投身自殺した法学博士清水澄(トオル)の名も見えます。

 

(宝円寺の越沢宗見に彰徳碑)

 

著作には「宗見茶話集(昭和25年)」や「越沢宗見翁茶道聞き書き抄(昭和45年)」があります。

 

参考文献:加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和5010月発行 追想・護国山宝円寺(曹洞宗) 著者園崎善一 平成148月発行

 

専光寺さんと加賀の千代女①

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【本町(旧田丸町)】

先日、市民参加の企画「まいどさんと歩く、升形と駅周辺寺院巡り」のご案内をしました。前回3月に実施した一回目が好評で、二回目を開催することになり、下見と合わせ今週2度コースを歩きました。1回目は下見でまいどさん24人の仲間と、2度目は市民公募で集まった43人のお客様をガイド3人で分担して歩きました。コースは金沢駅から専光寺さん、西福寺さん、金沢一中発祥の地、そしてお目当ての今年復活した「升形」、横安江町、東別院、西別院、徳田秋声の兄正田家跡、今「まちの踊り場」を巡る2時間です。

 

(専光寺のおがみ)

 

「升形」については以前に書きましたので、今日の話は、護方山専光寺さんです。今年7月に虫干しで初めて訪れ、御堂や寺宝も拝見し、興味を持ち調べるようになり、後ほど由来など詳しく書きますが、専光寺さんは、一向一揆以前から金沢近郊や市内にあり、しかも浄土真宗の3代覚如の弟子となった志念上人が開祖で、上人は88後嵯峨天皇の孫で鎌倉7代征夷大将軍惟康親王の御子あることを知りました。

 

(冬桜、3月頃まで咲きます)

 

以前のガイドでは専光寺さんは門前を通るだけでしたが、数年前に境内の冬桜を見つけ金沢駅から長町への古地図巡りのガイドで花盛りの3月頃に県外のお客様をご案内して喜ばれましたが、その隣ある加賀の千代女(尼)のお墓では、碑の存在は存じていましたが、千代女は松任の人で、千代女といえば聖興寺と云う先入観もあり、まさかお墓だとは思わず、顕彰碑か何かだと思っていました。

 

(加賀の千代尼(女)のお墓)

 

(下見の時に始めて加賀の千代女のお墓だという事を知り、子どもの頃から千代女で知っている一般的な話をしても、私より知識がある会員に響かないと思い、咄嗟に千代女の事は知らないと云ってスルーしてしまい、その後、慌てて調べて本番では恥をかかずに済みましたが、今回は、度忘れや、間違い、特に浄土真宗では常識の「報恩講」を質問され、中途半端な答えしか言えず、お客様の助け船に救われるなど、予習と新たな勉強が足りないことに気付きました。)

 

「報恩講:浄土真宗の宗祖親鸞の祥月命日の前後に、宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要で、本願寺三世覚如が、親鸞の三十三回忌に『報恩講私記(式)』を撰述したことが起源といわれ、浄土真宗の僧侶・門徒にとっては、年中行事の中でも最も重要な法要です。真宗大谷派(お東)1121日〜28日」

 

仏旗がなびく報恩講の専光寺の門)

 

≪護方山専光寺さん≫

真宗大谷派に属する護方山専光寺は、開創以来700年の名刹です。浄土真宗本願寺三世覚如の弟子志念上人が石川郡大糠(大額)に創建したと伝えられ、永享9年(1437)に本願寺七世如から下付された「三帖和讃」「加州吉藤専光寺」とあり、この時点で専光寺5世康寂が寺基を石川郡大野庄吉藤(現在の専光寺町)に移し、大野庄内では、門徒はもとより、領主臨川寺からも厚く信頼されていました。

 

 

(専光寺)

 

本願寺七世存如からは他にも聖教類を下付されており、また文明3年(1471)には八世蓮如から「親鸞絵伝」を下されていたことから、蓮如以前の加賀において、屈指の末寺とされていました。

 

 文明14年(1482)には、「臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状」に専光寺の記載があり、

北加賀の大野庄の最有力本願寺寺院と考えられていたようです。 加賀守護・冨樫政親を滅ぼした長享2年(1488)の長享一揆では、加賀の大坊主としての動向が「官知論」に記されており、「四山大坊主」の一員として重きを為していたと書かれているそうです。

 

 

(専光寺)

 

八世 蓮如以後、明応2年(1493)には本願寺九世実如(蓮如の子)から、専光寺開基の志念絵像が下付されているそうですが、2年後の明応4年(1495「大野庄年貢算用状」には専光寺の記述はなく、この頃には連枝の寺賀州三ヶ寺(若松の本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)の下に置かれていたことが推測できます。

 

(仏旗と隣りのビルに写る金箔を貼ったおがみ)

 

享禄の錯乱には賀州三ヶ寺派(小一揆)に属していたようで、乱後の本願寺十世証如の日記「天文日記」に「吉藤下」「専光寺下」として、もと専光寺門徒が本願寺の直参門徒に組み入れられています。

 

その後、天文20年(15512月に本願寺十世証如に「赦免」された享禄の錯乱及び天文の乱関係者が「加州牢人四十人」とあり、この中に専光寺も入っていたのではないかと考えられています。

 

 

(専光寺の門の脇の石標)

 

この時代になるとかつての隆盛もなく、そのまま石山合戦の時期を迎えたと考えられています。 慶長元年(1596)、専光寺8世康元の時、前田2代利長公に金沢後町に寺地を与えられ、その後若干の変転後、専光寺9世康宣が前田3代利常公から現在の寺地(金沢市本町)に替えられて現在に至っています。

 

藩政期には、加越能の総録所として一宗を薫事し、触頭としては136ヶ寺の触下を有し、その教線は、越後・佐渡・出羽・奥羽にまで及び、専光寺10世康照東本願寺12世教如上人の女を室に迎えてから、再三東本願寺の宗主の子女を迎え姻戚関係を持ち現在に至っています。

 

 

(専光寺発行のごあんない)

 

 旧地の石川郡吉藤は専光寺が転出した後、旧地名の吉藤が消えて専光寺村となり、現在、金沢市専光寺町の吉藤神社に吉藤の名が残っています。現在の専光寺は門とその後ろに見える本堂の大きさが大坊であることが窺えます。

 

(つづく)

 

参考文献:「専光寺のごあんない」他

専光寺さんと加賀の千代女②

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【本町(旧田丸町)】

専光寺さんの築地塀は5本の筋塀です。この5本筋は定規筋(じょうぎすじ)ともいい最高格を表わすものだそうで、金沢で多く見られるのは3本筋のもので、4本筋のものも幾つかあります。5本筋は京都御所、門跡寺院、東本願寺及び西本願寺などにあり、金沢では、ここ専光寺と東別院、西別院、大谷廟所に見られます。

 

(専光寺の筋塀5本筋)

 

筋塀とは、寺院などに見られる塀に白色の横筋(線)を刻んだもので、仏教建築と共に大陸から伝わり、奈良時代に宮殿や寺院などで始められました。5本筋のもので最も格式のある筋塀は壁面に須柱(すばしら)を並べ、5本筋を入れたものです。須柱とは、築地塀の壁面に一間ごとに並ぶ柱のことです。)

 

≪専光寺の法宝物≫

専光寺さんでは、毎年72526日の「法宝物虫干し御絵解」で、法宝物虫干しの機会に所蔵の文化財を、お参りの前後に、門徒の方や文化財に関心のある方に、ご覧になれるよう取り計らっておられますが、今年は725日に仲間の紹介で拝観させてい戴きました。

 

(広間での法宝物虫干しと絵解)

 

前回「専光寺さんと加賀の千代女①」の≪護方山専光寺さん≫で紹介した親鸞上人の真筆「三骨一廟」、存如上人真筆「三帖和讃」長享の一揆の「鶴丸の旗」それから蓮如上人の「御叱りの御書」などが目の前で見ることが出来、穴の開くほど見て来ました。写真撮影は、近くで撮ることは出来ませんが、お聞きすると新聞記事のように遠くから虫干しの雰囲気を伝える程度の写真なら良いというお話でしたので撮らせていただきました。

 

(虫干しで法宝物拝観)

(本堂)

 

≪専光寺の梵鐘≫

第二次世界大戦で戦局が悪化した日本では、武器生産の金属資源の不足から、昭和16年(194191日に施行された「国家動員法」に基づく金属類回収令により梵鐘が供出することになり、金沢でも多くの梵鐘が供出されました。その中で戦争に巻き込まれなかった15の梵鐘があります。専光寺の梵鐘は、一度供出されますが潰されず残ったものです。

 

(鐘楼と梵鐘)

 

(この梵鐘は、富山県高岡の藤田善六作で明治時代の製造です。明治のものは後2口あり、12口は江戸時代の名工作のものです。)

 

≪加賀千代女(尼)≫

千代女(元禄16年(1703)~安永4年(1775)享年73歳)は、俳人。号は草風、法名は素園千代、千代尼などとも呼ばれ、松任の聖興寺には遺品などを納めた遺芳館があります。松任(白山市)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたといいます。 12歳の頃、奉公した本吉(美川)の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶために弟子となり、16歳の頃には女流俳人として頭角をあらわしました。

 

(朝顔イメージ1)

 

17歳の頃、諸国行脚をしていた美濃に各務支考の後を継いだ蘆元坊(ろげんぼう)が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められます。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に蘆元坊に才能を認められ、指導を受けました。その事から名を一気に全国に広めることになります。

 

明治44年(1911)に、城丸花仙が著した「千代尼」には、18歳の享保5年(1720)大衆免大組組地(今の森山小学校)足軽福岡弥八に嫁ぎ、翌年、弥市が誕生、5年後の25歳で、夫を亡くし、その翌年122月に愛児弥市も亡くなり、5月に婚家をでて実家に帰ったとあります。

(未婚だったという説もあります。)

 

(朝顔イメージ2)

 

≪千代女の俳句≫

朝顔 つるべとられて もらい水  

朝顔 つるべとられて もらい水

(にをやに変えたのは35歳ごろとか・・・。)

 

だと、水を汲みに行くのは自力で、は切字でより強く詠嘆したもので、に変わったのは、自分朝顔も同じ生を戴いたもの同士という事から千代の自我が薄れたと云われ、お互い仏様から賜わり水を汲ませて戴くという他力になったと云う説があります。

 

に変わった転機は千代女35歳頃といわれていますが、浄土真宗のお坊さんの西山郷史氏によると、35歳は、祖師親鸞さんはじめ、仏教界における転機になった話を千代女が説教の場で聞いていたから、だったかもしれないからと言っています。(西山郷史)

 

(専光寺のお庭)

 

一方では、真蹟(聖興寺蔵)千代晩年刊行「千代尼句集」には、朝顔の句形で載っているそうです。朝顔と改案した真蹟が見られるのも、句の主眼が朝顔にあることを明確にするための試みだったのでは?朝顔は切字。句の姿とするとという小休止があると、格調高く本格的ですが、朝顔と切ると何(誰)につるべをとられたのか分からない。肝心の情景の輪郭自体があいまいになってしまう。最終的に朝顔の措辞を選んだ背景にはそうした心の経緯があったという解釈もあります。と書かれています。(山根公)

 

当時も超有名な句「朝顔や(に)・・・」には、こんな伝説もあります。その頃、松任は水の便が悪く、深井戸は450軒に一本と数は少なく、隣の井戸が遠く貰い水など出来なったのでは、というので松任の井戸ではない!?という疑問が生じ、井戸は奉公に行った本吉(美川)か?嫁ぎ先の大衆免足軽組地か?幼なじみの綿谷希因の家にあったのだろう?と根拠もない、いいかげんに推測が、何時しか、行ったことも無い江戸にある三田の「薬王寺」というお寺にある井戸が、今も「加賀千代女の井戸」と呼ばれているそうです。

 

(専光寺)

(専光寺の埋骨処)

 

生涯1700句を詠んだと言われる千代女です。代表的な句と言われている句に以下の句も含まれています。何れもよその人が詠んだ句だといわれています。いずれにしても、当時、超有名女性俳人は千代女だけ、女性のデリケートな心情を詠んだ句は、千代女の句になってしまったのかも・・・?

 

「トンボ釣り 今日はどこまで 行ったやら」

「這えば立て 立てば歩めの 親ごごろ」

「起きて見つ  寝て見つ蚊帳の  広さ哉」

 

何とも謎の多い不思議な女性だったのでしょうネ・・・。益々興味が募り、嵌ってしまいそうです。

 

(専光寺の千代尼の時世の句)

 

そして時世は

「月も見て 我はこの世を かしく哉」          

 

参考文献:「妙好人千代尼」西山郷史著 臥龍文庫 2018120日発行。 加賀の千代(女)」研究の第一人者俳文学会員山根公氏の中日新聞記事の引用。 まいどさんの渡辺三弘氏「戦争に巻き込まれず生き残った梵鐘」より

作庭記と兼六園①

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【兼六園・十間町】

何年か前に「兼六園全史」“第三節 兼六園と作庭記“に触れ、その写本が金沢の古美術商谷庄さんの所蔵だと言うことを知り、一度調べてみたいと思っていまいしたが、なかなか神輿が上がらず、また、文章だけの記述は読んでいてもチンプンカンプン。私には、手に負えないモノだと思い込んでいました。

 

(兼六園霞ヶ池)

 

最近、兼六園全史を調べる機会があり、またまた“第三節 兼六園と作庭記“に引っかかり読んでいると、一部ですが各章に書かれている内容は、兼六園の実景と合わせて述べられ写真も添えてあるのを見て、これを参考にすれば、私にも時間を掛ければ出来そうに思へて取り組んでみる気になりました。一回目の今回は、「作庭記」の概要最古の写本がある金沢の古美術商谷庄さんに付いて記すことにします。

 

(兼六園全史の作庭記)

(兼六園雪づり)

 

≪作庭記の概要≫

「作庭記」は、平安時代に寝殿造の庭園に関することが書かれた日本最古の庭園書で、「作庭記」の名称では江戸時代中期に塙保己一の編纂した「群書類従」に収められているそうです。それ以前は「前栽秘抄」と呼ばれ、まとまった作庭書としては世界最古のものと言われています。

 

(「前栽秘抄」:作庭記という題名は江戸時代からで,塙保己一が集輯した「群書類従」に収録(362)されて広く知られるようになったと言われています。最古の写本とされる金沢市の谷村家本(2巻,重要文化財)にも表題はなく、古くは「前栽秘抄(せんざいひしよう)」と呼ばれ、関白藤原頼通の庶子で修理大夫となり,伏見の自邸が名園で知られた橘俊綱(10281094)が、若年より頼通の邸宅高陽院(かやのいん)をはじめ,多くの貴族の作庭を見聞し,かつ自らの体験をもとに、当時の口伝等をまとめた記録より編集したものだそうです。)

 

 

(噴水)

 

その内容は意匠と施工法であるが図は全く無く、すべて文章で、編者や編纂時期については諸説ありますが、橘俊綱であるとする説が定説となっており11世紀後半に成立したものと見られています。最も古い谷庄さんの写本には、奥書に「正応第二(1289)」と書かれているそうです。

 

正応第二は正応2年。弘安の後、永仁の前。正応元年(1288)から正応6年(1292)までの期間。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。)

 

 

「作庭記」の特徴は、当時、王朝の住宅建築様式の土地の在りようにあたって、もっとも重視された四神相応観が庭作りの上でも重要視されており、さらに陰陽五行説に基づいたもので、王朝の住宅建築様式である寝殿造りを前提として説明されています。

 

(兼六園以前の竹澤御殿平面図)

 

内容は、前半において立石の概要に始まり、島・池・河などの様々について論じ、滝を立てる次第、遣水の次第を詳述しています。後半においては立石の口伝に始まり、その禁忌を具体的に書かれ、樹、泉について述べられ、最後に雑部として楼閣に触れています。そのような特徴を持つ「作庭記」は、造園史家の中でも最もよく研究されている作庭書です。

 

橘俊綱:摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれますが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために讃岐守・橘俊遠の養子とされ、摂関家の子弟にもかかわらず、修理大夫や尾張守などの地方官を歴任。位階は正四位上にとどまります。造園に造詣が深く、日本最古の庭園書である「作庭記」の著者とされています。巨椋池を一望にする景勝地指月の丘(現在の桃山丘陵の南麓)に造営された伏見山荘は、俊綱自ら造園を行い「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛されています。

 

≪金沢の古美術商谷庄さん≫

初代庄平は、加賀八家長大隈守に仕えた武士で、加越能文庫にある谷村家の由緒書によると7代目が庄兵衛で、明治維新後、庄平と改名したそうです。道具屋を始め、明治16年(1883)柳町(現在の本町2丁目)に店を構え、当時、武家よりたくさんの道具が売りに出され、連日の如く競り市が開かれ、多忙を極めたといいます。

 

(谷庄さん)

 

初代は、長州征伐や北越戦争に従軍した武人らしく、身体はたくましく士魂を捨て切れなかった人だと伝えられていたそうです。維新後は商運に恵まれ、店は順調に発展し、柳町から安江町、東別院隣の横安江町へ移ります。2代目庄平の時、昭和2年(1927)の彦三大火に罹災し、現在の十間町は、大和田銀行(現福井銀行)金沢支店が博労町に移るまでいた跡地だそうです。昭和37年(1962)に東京・銀座に東京店を、金沢の店舗は和洋並立の店舗兼住宅として、国登録有形文化財(建造物)に指定されています。

 

(今もある谷庄の茶室は裏千家今日庵の閑雲亭を倣ったものだそうで、襖には旧小松城にあった狩野探幽筆飲中八仙の絵襖が用いられていて、細野燕台(金沢出身の漢学者)が松永安左エ門(電力王)と小林一三(東急創設者)の両茶伯を伴い来訪した時、松永氏がこれを所望したところ、小林翁から窘められて思い止まったという逸話が残っているらしい・・・。)

 

(十間町の谷庄さん)

 

25代目は、大正7年( 191810月創立の(株)金沢美術倶楽部の社長も務め、美術業界の発展にも大きく貢献。茶道隆茗会の代表理事、淡交会石川支部の顧問、大師会、光悦会などの全国的な大茶会の世話人を務めるなど、茶道文化の発展にも尽力されました。当代は6代目谷村庄太郎氏で、平成22年(2010)より代表取締役に就任し、古美術商として、また、茶道文化の発展にご活躍です。

 

谷庄さんは、商売柄とはいえ、その所蔵する名宝は多く、上記「作庭記」の他重要文化財に指定をうける五十嵐道甫作と伝えられる「秋野蒔絵硯箱」が所蔵されているそうです。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢の老舗」本岡三郎監修 昭和466月北国出版社発行 「兼六園全史」

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiu4Zz3oLfeAhVB7mEKHTUECpIQFjAAegQIBxAC&url=http%3A%2F%2Ftanisho.co.jp%2Fhistory%2F&usg=AOvVaw2MfNEfnjO4hc4noit2Qkbh(谷庄さんのHPより)他

「兼六園」で具現化された仏教・神仙思想など

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【兼六町】

平安時代、京都では庭園に「阿弥陀信仰」による浄土の世界を写すことが流行ります。浄土とは仏様の住むところで、西方浄土 (極楽浄土) のいう極楽往生のことで、庭としては浄土曼荼羅を具現化したものです。理想境としての池泉を大きくうがち、蓮を植え,八功徳水(はっこうとくすい)を湛える清浄香潔な景色を中心に構成されます。治安2年(1022)に藤原道長は前代未聞の浄土世界を忠実に再現した寺院を建立します。

 

 

(兼六園瓢池)

 

九山八海

九山八海とは須弥山を軸にこの世のはずれである鉄囲山に接する南瞻部州(なんせいんぶしゅう)の大海までの間に九つの山と、その間に形成される八つの海をいうもので、庭に島々を浮かべ、平庭に立石や築山をあげて九山八海を具現し観賞者へ仏理を教えます。

 

(二俣の本泉寺の九山八海)

 

加賀藩は藩政期以前、一向宗徒による治政時代があり、今の兼六園瓢池辺りが蓮池と呼ばれていたらしい、蓮池と云うのは一向宗の寺院の前濠のことで、その頃には、この辺りに九山八海の庭があっても決して不思議ではないと思われます。二俣の本泉寺には、今も蓮如上人が作庭されたと言われる「九山八海の庭」があります。

 

(本泉寺山門)

 

神仙三島・五島

仏教伝来は、わが国の思想形成に大きく影響を及ぼしたのは、中国大陸の神仙思想でした。神仙三島とは,中国の三神山すなわち蓬莱(ほうらい)・瀛州(えんしゅう)・方丈(ほうじょう)の三山で、また大海に浮かぶ神仙すなわち仙人が住む三島を意味します。庭園では九山八海と共に池泉の中島や枯山水庭の石組、平庭の築山などは暗示的です。神正五島とは三島に、「岱与(たいよ)員きょう(いんきょう)二島を加えたものです。有名な竜安寺石庭は比喩的だと言われています。兼六園の瓢池は、蓬莱・瀛州・方丈の三島が構築されているそうです。

 

(兼六園の瓢池)

 

鶴亀庭

中国道教思想に基づき、不老長寿を願い、慶祝を表すもので、鶴、亀に見立てたもの(島等)を造くったもので、兼六園では、亀頭を模した石柱がある亀甲島(蓬莱島)とを模した唐崎の松があります。その他にも亀石や鶴を模した植栽があります。

 

 

(蓬莱島の亀頭石)

(瓢池のえん州島の亀石)

 

滝と竜門瀑

日本では美しい自然風土は、多雨な気候とも関係し,大小の河川や渓谷美をつくり、そこに滝や沢をつくりました。庭の滝は大きな鏡石と呼ばれる据石を中心に組まれ,滝は不動明王の居処として、不動石が組まれ、天端(てんぱ)には庭全体の主人としての観音石を据えたそうです。古くから滝石組は,音羽の滝,那智の滝,日光華厳滝,奥州厳美渓などが手本となっています。兼六園の「翠滝」は、七瀬滝と呼ばれていたものを、11代治脩公が安永3年(1774)に改修工事を行っています。

 

 

(瓢池の翠滝)

 

廻遊式庭園・林泉庭

幕藩体制の確立とともに大名時代には、その財力を傾けた廻遊式庭園が現れます。江戸には大名の上・中・下の各屋敷には書院の裏の庭として大庭園が営まれ、それぞれの国表の有る城下町にも庭が次々と庭園が出来ました。ある所では明るい解放的な池泉庭とし,またあるところで幽邃(ゆうすい)な深山の景をつくったりしました。これなどは自然を凝縮した林泉庭といいます。前田家の江戸表の庭園は、家康から利常公が拝領した辰口新殿、本郷の育徳園、根岸の冨有園などがありました。

 

(兼六園の霞ヶ池)

 

大名庭園

大名が作庭したものの多くが廻遊式庭園ですが,そのはじまりは,織田信長が安土城または岐阜城の御殿の周囲に作庭したことにより、豊臣秀吉が聚楽・伏見両城に風雅を楽しむための一画「山里曲輪」を築いて、茶の湯を楽しんだことで流行を生みます、徳川家康は山里曲輪として西の丸をつくり、後に吹上へと徳川家光が築きあげたのです。これら城と関わりがありますが大名の中には,元和偃武により城の改修ができなくなりましたので、庭づくりと称し,山里曲輪的な築城したものが多くなります。岡山後楽園・金沢兼六園・水戸偕楽園をはじめ、城に隣接して形成された廻遊式庭園がこれです。このような庭園

を城郭庭園といいます。

 

(兼六園の雪吊り)

 

縮景庭

廻遊式林泉庭の多くが、その思いを自然に求めていますが、手本となる風景がある場合、凝縮して作庭しました。多くが壮大な庭ですので,中国の浙江省の西湖、湖南省洞庭湖にその手本を求めましたが,わが国の名勝である松島,天の橋立及び東海道と富士山なども多く,京では近江八景・瀬戸内の景などにも求められました。兼六園霞ヶ池の、新潟の親不知滋賀の琵琶湖、それに謡曲の杜若石橋などが縮景と言われています。

 

(兼六園霞ヶ池の杜若)

 

露地

戦国乱世から天下統一に進むにつれ織田信長は配下の武将へ、合戦の論功行賞を与えていましたが、その基盤となった土地が足りなくなり、信長は土地に代わり刀剣、茶器、家紋や姓氏などを与えます。その中でも単なる茶碗として片づけられない茶陶が一国の封地に相当する価値を生じさせていくもので、いわゆる名物です。こうして茶の湯は、武将間に流行し信長、秀吉の配下には出身が商人でありながら茶道の指南役の千利休らを大名格に取り立てます。利休は「侘茶」「さび茶」を説き、その教えは小堀遠州ら武士との関わりは、山里曲輪を出現させ、廻遊庭の中に茶亭、四阿(あずまや)を造らせます。また、喫茶のための茶亭とそれに付属する踏石、蹲踞(手水鉢)からなる茶庭としての露地が利休によってあみ出されました。兼六園には、藩政期から現存する露地は瓢池の夕顔亭があります。

 

(夕顔亭)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務局.兼六園観光協会 昭和511231日発行 

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiV-4PFieDeAhVSFogKHbaMC1kQFjAAegQICBAB&url=http%3A%2F%2Fwww2u.biglobe.ne.jp%2Fgln%2F20%2F2031.htm&usg=AOvVaw3dSsR_DxOYBKSLuEDuMcg0


作庭記と兼六園②

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【兼六園】

すみません。暫く休んでいましたが、今回から何回になるか分かりませんが、日本最古の造園資料の写本「作庭記」(谷村庄平蔵)と兼六園の関係を少し調べてみる事にしました。作庭記の項目順に、原文と簡単な解説、そして兼六園との関係を記します。

 

 

 (石をたてん事、蓬莱島の亀頭)

 

作庭記とは:前回「作庭記と兼六園①」でも書きましたが、平安時代に書かれた日本最古の庭園書で、「作庭記」の名称は江戸時代中期に塙保己一の編纂した「群書類従」に収められて知られるようになりましたが、それ以前は「前栽秘抄」と呼ばれていました。まとまった作庭書としては世界最古のものと言われています。「作庭記」は寝殿造りの庭園に関して書かれたもので、その内容は意匠と施工法ですが図は全く無く、すべて文章で編者や編纂時期については諸説ありますが、書いたのは橘俊綱であるとする説が定説となっており11世紀後半に成立したものと見られています。永年、加賀藩(金沢)の前田家に所蔵されたもので、今は縁あって金沢の谷庄さんが所蔵されています。奥書に「正応第二(1289)」と書かれているそうです。

 

作庭記(原文)

1石をたてん事、まつ大旨をこころふへき也

石を立てるということは、石を立てるには違いないのですが、現在云うところの「造園」「庭師が庭を造る」という事で、石を立てる事とは即庭を造ることで、まずは大局を考え、概略のデザインを頭に描かねばならない。自らの心に従い、自ら尋ね歩き居場所を見つけ、立てようとする石や池の形に従い、自らが持っている山水の風情を思い廻らせ、ここしかないという場所に立てる。

 

 (赤線の内は兼六園・かっては屋敷とある竹澤御殿と蓮池御殿でした)

 

兼六園の“石をたてん事、まつ大旨を心得べき也”

ご存知のように、現在の兼六園は次々と藩主が継ぎ足していった庭園ですので、一連の地形を構想してデザインされたものではなく、最初から渾然一体でない事がわかります。しかし、後に現在の広さを得て、大局を考え概略のデザインが描いたように思われます。

 

 

(蓮池御殿の瓢池)

 

一、昔の上手の立置きたるの大要を心得たのは有様をと

して、家主の意趣を心に書けて、我風情を廻して、

立つへき也

(庭石の様子は、昔の名作、施主や庭を造る人の心が産み出す味わい

(感情的・情緒的)が渾然一体である。)

 

前田家草創期、2代利長公時代に京の庭師賢庭を金沢に招集し作庭につとめさせた話もあり、その先、一向一揆の時代には、今の北園(蓮池庭)にすでに蓮池があったらしく、当時の一向一揆の寺院の前濠を蓮池といっているところから、金沢御堂の庭であったことが窺え、一向宗の「九山八海」の作庭思想が生かされているように思われます。

 

 

(琵琶湖を模した霞ヶ池)

 

一、国々の名所を思いめぐらして、おもしろき所々、わが ものになして、おおすがた、そのところになずたえて、やわらげたつへき也

(名所旧跡の姿形、その面白さを自分のものとした上で、それらをモデルにしますが、「和らげて」立てよ、面白さを強調して突きつめて立てるのではなく、やわらげて、言わば心の形に仕上げてから立てる。)

 

  

   (白竜湍の黄門橋)

 

兼六園の白竜湍(はくりゅうたん)に架かる黄門橋は、3代利常公、5代綱紀公時代に、手取峡谷に架かる橋黄門(中納言)橋を模して作ったといわれていて、藩政期は能楽の「石橋(唐土清涼山の石橋)」を模したものとされた縮景で、他に名所旧跡の姿形としては、縮景には「杜若(かきつばた)」「徽軫灯篭(ことじとうろう)」などがあり有名なところでは、琵琶湖を模した“霞ヶ池”には、「竹生島」「親不知」は面白さを強調して立てるのではなく、当時の作庭者の心に写る形に仕上げらているように思われます。

 

 

 (社若・かきつばた)

 

2殿舎をつくるとき、その荘厳のために、山をつきし、これも祇園図経にみたり。池をほり石をたてん所には、先地形をみたてて、たよりにしたがいて、池のすがたをほり、島々をつくり、池へいる水落ならひに池のしりをいだすへき方角を、さたむへき也。南庭ををく事は、階陰の外のはしらより、池の汀にいたるまで六七丈18m~21m)、若内裏儀式ならば、八九丈24m~27m)にもおようへし。拝礼事用意あるへきゆえ也。但一町の家の南面に、いけをほらんに、庭を八九丈をかは、池の心いくはくならざん歟。よくよく用意あるへし。堂社なとには四五丈も難あるべからず。

殿舎を造るに当たって、建物と山と池との関係を述べたもので、祇園図経:東洋における記事で、インドの作庭が書かれているが、後世の擬作か?階陰:寝殿正面の階上に出した庇か。内裏儀式:内裏の儀式用の南庭。

 

(兼六園の揮毫・蓮池庭と一体化するまで、兼六園は呼ばれていなかった)

(竹澤御殿と塀で区切られた蓮池庭時代の絵図)

(竹澤御殿は8年かけて壊された)

 

 兼六園の“殿舎を作るとき、その荘厳のために・・・”

現在の兼六園(竹澤御殿なき庭園と蓮池庭)は、庭園として作庭したものではなく、本来の作庭記のよる寝殿つくりの庭園と違います。当時は現在の霞ヶ池の真ん中まで竹澤御殿があり、霞ヶ池も前庭が狭いが、その大きな御殿は、それを修飾するための山、池水を作ってあり、今の蓬莱島が半島で築山になっていました。13代斉泰公により殿舎を壊され、今の霞ヶ池を掘り拡げ島にします。掘り出した土を積み上げ栄螺山(さざえやま)を作りました。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所   兼六園観光協会 昭和5112月発行

 

作庭記と兼六園③

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【兼六園】

作庭記では、もっとも重視された四神相応観が庭作りの上でも重要視されていて、さらに陰陽五行説に基づく理論化が窺えます。また王朝の住宅建築様式の寝殿造りを前提とした説明がなされていて、その内容は、前半において立石の概要に始まり、島・池・河などの様々について論じ、滝を立てる次第、遣水の次第が詳述されています。

 

(真弓坂の石)

 

3、池と寝殿と橋

《原文》また島ををくことは、所のありさまにしたかひ、池寛狭によるへし、但しかるへいき所ならは、法として島のさきを寝殿のなかはにあてて、うしろの楽屋あらしめんこと、よういあるへし。楽屋は七八丈にをうよふ事なはれは、島はかまへて、ひろくおかまはほそけれと、池によるへきことなれは、ひきさはりたる島なとをきて、かりいたしきを、しきつつくへきなり。かりにいたしきをしくことは、島のせはきゆへなり。いかにも楽屋のまえに、島のおほくみゆへき也。しかれはそのところををきて、ふそくのところに、かりいたしきをはしくへきとそ、うけたまはりおきて侍る。

 

(霞ヶ池の蓬莱島)

 

(島を置くには、池の広さ狭さによるべきで、庭の性格や用途によっては、島の端を寝殿の中央にあたるように配置し、島の後部に楽屋をつくるのが決まりで、楽屋は七八丈にのなるから、島を初めから広くして置きたいが、結局池の大きさによることだから、時には中央の島から後方へ引きさがって別の島などを置き、仮板敷を敷き続けるようにする。そこで島の前方は普通にとって、楽屋として不足の部分に仮板敷を敷くのだと聞いています。)

 

《原文》又そりはしのした晴の方よりみえたるは、よにわろき事なり。しかれは橋のしたには、大なる石をあまたたつるなり。又島より橋をわたすこと、正しく橋かくしの間の中心にあつへからす。すちかへて橋の東の柱を、橋かくしの西の柱に、あつへきなり。

 

(瓢池の鶴を模した島(方丈?)と水亭)

 

(反り橋の下が、晴の方?から見えてしまうというのは、もっと悪いことで、そこで、橋の下方に大きな石を数多く立てます。また島から橋を渡すには、正確に橋隠しの中心を避けるようにします。すじかうようのして、橋の東の柱を橋隠しの西の柱にあたるべきです。)

 

《原文》又山をつき野すちをくことは、地形により、池のすかたにしたかふへきなり。又透渡殿のはしらをは、みしかくきりなして、いかめしくおほきなる山石のかとあるを、たてしむへきなり。又釣殿様の柱に、おほきなる石を、すゑしむへし。

 

(瓢池の亀頭がいくつも見えます)

(瓢池の島にある亀の石)

 

(山とか野すじを置くのは、地形により、池の姿に従うのである。また透渡殿の柱も短くしきるのは、どっしりとした大きな出石の角ばったものを立て、また釣殿の柱にも大きな石を据えるのがよい。)

 

(透渡殿)

 

透渡殿(寝殿造りで、寝殿と対屋(たいのや)とをつなぐ、両側に壁のない渡り廊下。透廊(すいろう・すきろう) 

釣殿(寝殿造りで、池に面して東西に設けられた建物で東釣り殿・西釣り殿と呼ぶが一方を省略したものが多い)

 

兼六園では

残念ながら現在の兼六園には、寝殿はありませんが、池も橋もあり、勿論島は有りますので、島について述べると、島は池の広さ狭さ(寛狭)によって決めるとありますが、兼六園霞ヶ池では蓬莱島が一つありますが、池の大きさ広さからみて少ないように思えます。また、旧蓮池庭の瓢池は、2つの島に見えますが、実際は3つで、前々回「兼六園・・・神仙三島五島」で述べたように、中国大陸の神仙思想で、中国の三神山蓬莱(ほうらい)・瀛州(えんしゅう)・方丈(ほうじょう)の三山があり、石で造られた亀も模されています。また大海に浮かぶ神仙(仙人)が住む三島を意味します。三神仙島を築いたのは蓮池庭の作庭者5代藩主綱紀公で、また、13代藩主斉泰公も霞ヶ池に蓬莱島を浮かばせています。

 

 

(瓢池)

 

中国,渤海にあったという伝説上の神山、蓬萊・瀛洲・方丈を指し、海に浮かび15匹の大亀にささえられていたらしく、仙人たちが住み不老不死の薬があるという。先秦時代、渤海沿岸の燕国や斉国の神仙の術を行う人たちが唱え、秦の始皇帝や漢の武帝らの心をつかんだといわれています。文献には、華麗な御殿のたつ仙郷をあるが、実は蜃気楼の発生と関係するらしい。歴代の宮中の池や上元節の山車(だし)等に三神山が作られたそうです。

 

曲水が霞ヶ池にはいる虹橋(徽軫灯籠脇)と、瓢池日暮橋が当てはまります。虹橋では琴の筋を表す小滝と虹橋の間には、石を配され、また、日暮橋の周りには亀の頭を模した石が配されています。

 

(日暮橋)

(能久平氏の木船亭のあったところ)

 

野筋と言うのは、なだらかな丘陵で、どんな平庭でも少しはあります。兼六園の野筋の場所は、虎石の南池畔でそこから譲葉に行く辺りにあり、かっては能久氏の別荘が建っていて、家の池畔のせり出し、大きい岩石の家の柱を持たしていたそうです。今は能久邸はないが池畔より噴水に至る所に野筋があり、ここがこの項に合致しているとされています。

 

能久平氏は、明治の名士で、兼六園に木船亭をつくり、伊藤博文や乃木大将、高橋是清などを招く。)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行

作庭記と兼六園④

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【兼六園】

4、石と池の関する基本

《原文》又池ならひに島の石をたてんには、当時水をまかせてみんことかなひかたくは、水はかりをすゑしめて、つり殿のすのこしたけたと、水のおもとのあひた、四五寸あらむほとを、はからいて、所々にみきりしるしをたておきて、石のそこへいり、水のかくれんほと、水のおもてよりいてんほとを、あいはからい、へきなり。池の石は、そこよりつよくもたえたるつめいしををきて、たたあけつれは、年をふれとも、くつれたふるることなし。水のひたるときも、なをおもしろくみゆるなり。島ををくことも、はしめよりそのすかたにきりたてて、ほりおきつれは、そのしきしにきりかけきりかけたてつる石は、水まかせてのち、その岸ほとひて、立たる石たもつことなし。たたおほすかたをとりおきて、石をたててのち、次第に島のかたをには、きさみなすへきなり。又池ならひにやり水の尻は、未申(西南)の方へいたすへし。青竜の水を白虎の方へ、出すへきゆへなり。池尻の水をちの横石は、つり殿のしたけたのしたはより、水のおもにいたるまて、四寸五寸をつねにあらしめて、それにすきは、なかれいてんするほとを、はからいて居へき也。

 

(白竜を表す龍石)

(白虎を表す虎石)

 

(また池や島に石を立てるには、水を引くのが困難な場合、水草を据え釣殿のスノコ下桁と水面の間、四五寸位を計り、所々に目盛の印を付けを置いて、石が池の底に入り、水に隠れる度合い、水面から出る度合いを計るべきです。池の石は底から強く支えた積み石を置いて、立てあげ置けば、年数をへても崩れて倒れる心配はなく、水に干しあがった時にも面白くみえるのです。島を置くにも、始めからその形に切り立てて掘って置いた場合、その岸に切りかけ切りかけ立てた石は、水を入れた後で、岸がふやけて、折角立てた石が持ちません。ですから、大雑把に島の形を取っておいて、石を立てたあとで、次第に島の形に刻んで行くべきである。また池や遣水の尻は西南へ出すのが良く、それは青竜の水を白虎へ出すという趣旨です。池尻の水落の横石は、釣殿の下桁の下端から水面まで四五寸ばかり、いつもすかして置くように、そしてそれ以上になれば、流れ出るような程度を計って据えるべきです。中でも庭上に家屋が接近して三尺以上の石を立ててはいけない。もしそれを犯したならば、主人はその家に居住することなく、終わりにはそこは荒廃の地になる。また離れ石は、荒磯の沖や山の先、島の先に立てるべきであるとか聞く。離れ石の根元には、水面に現れない程度に、大きな石を2つ3つ、三鼎に掘り沈めてその中に立てて、詰石を打ち入れるのである。水の流れは青龍から白虎へ、これは風水思想で西南の方角へ出すのが良いという。この良い理由はよく分らないが、池尻の水落ちの横石は、釣殿の下桁の下場より、「水のおもにいたるまで、四寸五寸をつねにあらしめて、それに過ぎれば、流れる程を、計らいておるべきなり。」とあり、釣殿との調和を保ち、かつ水を保つというより、流れ落ちさせるために置かれる石でしょう。)

 

 

(亀頭石を立て直した時支えの積み石がみえます・現在は見えません)

 

兼六園では

最近、霞ヶ池の蓬莱島の亀頭石が倒れ、立て直しをした時の写真では、岸がふやけないように、亀頭石を強く支えるため積み石を置いて立てられています。これなども作庭記の教えによるものなのか!?また、霞ヶ池も瓢池も水の取入口は、西南(未申)にあります。すべての水の流れは東から西に流すのが作庭記の本則で、その代表が曲水です。これは兼六園に限らず加賀藩では村井家、長家、横山家(今の知事公舎)などの庭園はことごとくこの様になっています。遣水(やりみず)は水を塞ぎ水面を高くして庭に流しいれるもので、もっぱら平坦な庭を曲折して面白く流すもので、兼六園は平坦な庭は幅広く曲折しているので“曲水”という、険峻な場所は蓮池庭の、幅細き「白竜湍」となっています。長町の武家屋敷の庭に惣構の堀(鞍月用水)や鬼川(大野庄用水)から曳いた遣水がありますが、藩政期一時禁止されたと書かれています。(加賀藩史料)

 

 

(翠滝の周りの立て石)

 

《原文》凡滝の左右、島のさき、山のほとりの外は、たかき石をたつる事、まれなるへし。なかにも庭上に、屋ちかく三尺にあまりぬる石を、たつへからす。これををかしつれは、あるし居ととまる事なくして、つひに荒廃の地となるへしといへり。又はなれいしは、あいそにおき、山のさき、島のさきに、たつへきとか。はなれ石の根には、水のうえにみえぬほとに、おほきなる石を、両三みつかなえにほりしつめて、その中にたてて、つめ石をうちいるへし。

 

(滝や島の先、山のほとり以外には、高い三尺以上の石は家屋近くに立てるのは主人不在、庭の荒廃を招くという。離れ石も、その際には他の見えない石を、根元に据えて詰めるようにする、と教えています。後の教えはよくわかるが、なぜ大石を家近くに立てたらいけないのか理由がよく分らない、多分ここが大切な部分だと思われます。)

 

(黄門橋・石橋)

(獅子岩)

(白龍湍)

 

兼六園では

瓢池の翠滝や、長谷池の滝には左右役石の代りに、雄雌の2つの滝があります。また、黄門橋(石橋)には、上に役石があり、今年ヒックリ返った霞ヶ池の蓬莱島の亀頭石は厖大な石灰岩があります。どうもこの石灰岩は越前産で、よく似たものが旧脇田家の玉泉園の石灰岩と一緒に福井県から持ってきたものと言われています。作庭記には「屋近く三尺に余る石を立べからず」とありますが、その亀頭石は、元竹澤御殿の築山に有ったもので、その禁忌(してはいけない)に添うものであったのだろうか?

       

5、枯山水事

《原文》一、池もなく遣水もなき所に、石をたつる事あり、これを枯山水となつく。その枯山水の様は、片山のきし、或野筋なとをつくりいてて、それにつきて石をたつるなり。又ひとへに山里なとのやうに、おもしろくせんとおもはは、たかき山を屋ちかくまうけて、その山のいたたきよりすそさまへ、石をせうせうたてくたして、このいゑをつくらむと、山のかたそわをつくし、地をひきけるあいた、おのつからほりあらはれなりける石の、そこかしことこなめにて、ほりのくへくもなくて、そのうゑもしは石のかたかとなんとに、つかわしらをも、きけかけたるていにすへきなり。石をたつることあるへし。但度のおもには石をたて、せんさいをうへむこと、階下の座なとしかむこと、よういあるへきとか。

すへて石は、立る事はしくなく、臥ることはおほし。しかれとも石ふせとはいはさるか。

  石をたつるにはやうをたつるにはやうやうあるへし

 

 

(山崎山の石)

 

(池もなく遣水の無いところに石を立てる(造園)ことでを「枯山水」と言っています。この枯山水様式は、片山の岸やまたは野筋(なだらかな丘陵)などを造り出し、それに取り付けて石を立てるものです。また専ら山里などのように面白くしようと思えば、高い山を家屋近く築き、その山の頂から且つ出裾の方へ石を少々立て下して、この家を造る、為に山の片側の険しい処を崩し、土を取り除いたために自然に掘りあらわせた石が、底深く平らに拡がっていて堀のようでもないから、その上または石の片角などに、束柱をも切かけたという体にすべきです。何物かを手がかりとして、小山のさきや、樹のもとや、束柱のきわ等に取り付けて、石を立てることがある。但し庭面には石を立て、前裁を植えることや、階下の座敷などを敷く事に意を用いるべきであるとか言う。すべて石を立てることは少く、臥せることが多い。けれども石ぶせとは言わないのである。石を立てる様式はいろいろあります。)

 

 

 (栄螺山)

 

(親不知)

 

兼六園では

山の険しい処の末に、土のみ除かれて石の片面があらわに出ている面を”山の片岨(かたそば)と言い、栄螺山の片面霞ヶ池の親不知の場面、山崎山の一面にこの様な処が見られます。土のみ除かれて地面の底から生えている石のみが残っているのがあるから、その石は根強く立てねばならない。山崎山の一面、栄螺山の一面にその様に見える石がこれです。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行

作庭記と兼六園⑤

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【兼六園】

6、立石様(大海の様式)      

《原文》大海のやう 大河のやう 山河のやう 沼地のやう 葦手のやう等なり

一、大海様は、先あらいそのありさまを、たつべきなり。そのあらいそハ、きしのほとりにはしたなくさきいでたる石どもをたてて、みぎハをとこねになして、たちいでたる石、あまたおきざまへたてわたして、はなれいでたる石も、せうせうあるべし。これハミな浪のきびしくかくるところにて、あらひいだせるすがたなるべし。さて所々に洲崎白はまみえわたりて、松などあらしむべきなり。

 

 

 (徽軫灯籠上辺り)

 

(訳:大海の様式、大河の様式、山河の様式、沼地の様式、蘆手の様式等です。一、大海の様式は、先ず荒磯の様に立てるべきです。荒磯は、岸のほとりには不恰好に尖った幾つかの石を立て、汀を床根として立ち出た石を、数多沖の方へ立てつづけて、その他に離れ出た石も少々あるのがよい。これはみな浪の厳しい所で石の洗い出した姿で、所々にずっと洲崎や白浜を見せて、松などを植えるべきです。)

 

 

 (徽軫灯籠辺り)

 

兼六園では

曲水が終り霞ヶ池の注ぐところ、丁度、徽軫灯籠(ことじとうろう)辺りがこのように出来ています。荒磯のように現し、尖ったゴツゴツとした石が並び、あたかも越前の東尋坊のような、一寸大げさですね?いずれにしろその様な石組みがあります。また、見ようによっては、親不知のところもその様に見えます。

 

7、立石様(大河の様、山河の様)

《原文》一、大河のやうは、そのすがた竜蚫のゆけるみちのごとくなるべし。先方をたつることは、まづ水のまがれるところをハじめとして、おも石のかどあるを一たてて、その石のこはんを、かぎりとすべし。口伝アリ。

その次々をたてくだすべき事。水ハむかう方をつくすものなれバ、山も洋もたもつ事なし。その石にあたりぬる水ハ、そのところよりおれ、もしハたわミて、つよくいけば、そのすゑをおもハヘて、又石をたつべきなり。そのすゑずゑこのこころをえて、次第に風情をかへつつたてくだすべし。石をたてん所々の遠近多少、ところのありさまにしたがひ、当時の意楽によるべし。水ハ左右つまりて、ほそくおちくだるところハ、はやけれバ、すこしきひろまりになりて、水のゆきよハる所に、白洲をバをくなり。中石はしかのごときなるところにをくべし。いかにも、中石あらハれぬれバ、その石のしもざまに、洲をバおくなるべし。

 

(訳:一大河の様式は、その姿が竜蛇の行く道の様になるのである。先ず石を立てるには水の曲折した所を初めとして、主石の角のあるのを一に立て、その石の要求を限度とすると口伝があります。その次々に石を立て行く。水は向う方の土地を崩すものであるから、山も岸も保てないので、その石にあたった水はそこから折れ、また、たわんでつよく行くから、その末を考えて、また、石を立てるべきです。その末々は、この要領をのみこんで、次第に風情を変えながら立てます。石を立てる所の遠近や場所の様子に従って、その時々の趣向により水は左右の岸がせまり、細く落ちるのが早くなるので、少し広くして水の行きが弱まる所に白州(白い砂か小石)を置きます。中石はそのような所に置くとよい。勿論中石があらわれたならば、その石の下の方に白洲を置きます。)

 

 

 (徽軫灯籠辺り)

 

兼六園では

虹橋の下、辺りにある副石は、流水以上に地面を侵食しないよう座っています。曲水が著しく曲がって霞ヶ池には入るところが丁度それを現しています。石が水の流れに抵抗しています。これ以上水が突き当たらないように求めている石で、その後、幾つか石を繰り返仕立てると水はたわみ、やがてその姿が風情になる、この辺りがこの項に当たるところか?

 

 

(山崎山の曲水の取り入れ口)

 

《原文》一、山河様ハ、石をしげくたてくだして、ここかしこにたひ石あるべし。又水の中に石をたてて、左右へ水をわかちつれバ、その左右のみぎハには、ほりしづめた石をあらしむべし。

 已上両河のやうは、やりみづにもちゐるべ

(訳:一、山河の様式は、石を数多く立て、ここかしこに伝い石があるのである。又水中に石を立て、左右へ水を分けたならば、その左右の汀には、掘り沈めた石を据えるべきです。以下の両河の様式は、遣水にも用いらるべきものです。遣水にも、一つを車一両に積みわずらう程の大きさの石がよいとされています。)

 

 

 

兼六園では

山河の様式では、水中にある放置された石でも水分け石伝え石の様に、役目を持った石もあります。水分け石は、山崎山の下七福神山の川幅の広い曲水にあり水を川幅いっぱいに拡げるためのものです。また、伝え石は、かって瓢池親不知に存在したらしく、瓢池では、海石塔下より向こう岸の傘下に渡るところの今も有りますが堰石がもっと幅が広く人が伝え渡ったらしく、もう一つ夕顔亭竹根石の前辺りから瓢池の池中の飛び石を伝わって翠滝の麓へ行けたと聞いています。

 

(傘下に繫がる堰石(せきいし))

(夕顔亭竹根石より翠滝へ飛び石があった)

 

(梅林や時雨亭の作庭記を模した河の石組)

(梅林の州浜を模した遣水)

 

平成に造成した梅林時雨亭の遣水には、水分け石伝え石を模した石や州浜を現す川石を配しています。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行

兼六園と作庭記⑥

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【兼六園】

8、立石様(石の置き方、沼の様・葦手の様)

《原文》一、沼様は、石をたつることはまれにして、ここかしこのいり江に、あし、かつみ、あやめ、かきつはたやうの水草をあらしめて、とりたてたる島などはなくて、水のおもてを眇々とみすべきなり。池様といふは、溝の水の入集れるたまり水也。しかれば、水の出入の所あるべからず。水をバおもひがけぬところより、かくしいるべきなり。又水のおもてを、たかくみすべし。

 

(金城池(放生池)のあやめ)

 

(一、沼の様式は、石を立てることはまれで、ここかしこの入江に、あし、まこも、あやめ、かきつばた等の水草を植えて、島などはなくて、水面は果てしなく広く見せるべきです。池の様式は、溝の水が入れ集った溜まり水です。ですから、水の出入の所であってはならないので、水は隠し、思いがけない所から入れるべきです。また水の面は高く見せねばならない。)

 

(金城池(放生池)の水草と睡蓮)

 

兼六園では

まこも、あやめ、かきつばた等の水草を植え、島などはないのに、水面を広く見せている金城池(放生池)は、まさに沼の様式にあてはまるように思われます。平成の梅林も水が入るところは隠されています。

 

(かきつばた、あやめ等やコウホネ、水芭蕉の水草が咲きます)

 

《原文》一、葦手様は、山などたかからずして、野筋のすゑ池のみぎハなどに、石所々たてて、そのわきわきに、ござさ、やますげやうの草うゑて、樹にハ梅柳等のたをやかなる木をこのミうふべし。すべてこのやうハ、ひららかなる石を品文字等にたてわたして、それにとりつきつき、いとたかからず、しげからぬせんざいどもをうふべきとか。

石のやうやうをば、ひとすぢにもちゐたてよとにはあらず。池のすがた地のありさまにしたがひて、ひとついけに、かれこれのやうをひきあハせてもちゐることもあるべし。池のひろきところ、しまのほとりなどにハ、海のやうをまねび、野筋のうへにハ、あしでのやうをまなびなんどして、ただよりくるにしたがふなり。よくもしらぬ人の、いづれのやうぞなどとふハ、いとおかし。 

(野筋の草)

(小笹が見えます)

 

(一葦手の様式は、山など高くしないで、野筋(なだらかに丘陵)の末や池の汀などに石をところどころにたてて、その脇々に、小笹ややますげ等の草を植え、樹には梅柳等のしなやかな木を選んで植えます。すべてこの様式は、たいらな石を品の文字の形等に立てわたして、それに取り付け取り付き、あまり高くなく又あまり茂らない前裁を、植えるべきだという。石の様式をそれ一途に用いたて言っているのではなく、池の姿や土地の有様に随って、一つの池に、あれこれの様式を引き合わせて、用いることも有るはずです。池の広いところや島のほとりなどには、海の様子を学び、野脇の上には、芦手の様子を学びなどして、ただ場所によるのである。よく知らない人がどの様式などと言うのは滑稽です。)

 

(金沢神社の神橋・上流に水の取入口があります。)

(山崎山下木の陰に辰巳用水取入口があります。)

 

兼六園では

ここは金城池(放生池)があてはまります。この池は昔から幾度も作り変えた形跡があり、古地図では、現在2倍位あるときもあり、又、全く無く陸地のみの時代もありました。しかしながら、池はなくとも水は流れていたことは確かです。金城池の水の取入口は金沢神社神橋の上流より隠し入れてあり、また、さすが溝の水の溜まり水の如く見せる様にして、水の出口を見えない様にして地下に埋めてあります。また往昔の瓢池はその名(蓮池庭)の通り、蓮が植えてあり、水の入口を明らかにしていない。一方曲水の山崎山の取入口は、梢が広がる処の入るように、隠し入れる様にしてあり、この点も水の取入口を隠し入れる項の模倣した例といわねばならない。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行

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