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作庭記と兼六園⑦

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【兼六園】

9、池河のみぎはの様々をいふ事

《原文》鋤鉾鍬形。池ならびに河のみぎはの白浜は、すきさきのごとくとがり、くわがたのごとくゑりいるべきなり。このすがたをなすときは、石をバうちあがりてたつべし。

池のいし□海をまなぶ事なれバ、かならずいはねなみがへしのいしをたつべし。

(訳:鋤(すき)(ほこさき)(かま)形。池ならびに河の汀の白浜は、鋤(すき)先のように尖り、鍬(かま)形のように刻み込むべきで、この姿を作る時には、石を汀から離して立てねばならない。池の石は、海を学ぶので、必ず岩根の浪隠しの石を立てるべきです。)

 

(霞ヶ池に浮かぶ蓬莱島)

 

兼六園では

この項の場所は、兼六園では極めて少ない。蓬莱島の形は亀になぞらえていて別名亀甲島とも云います。これは唐より伝わる神仙思想を強調したもので、理想の土地を彼岸とする仏教思想にも通じるものです。兼六園の蓬莱島は、かって竹澤御殿の築山だったもので、霞ヶ池を拡大した際、大海に浮かぶ蓬莱孤島を模したものと聞いていますが、亀になぞらえてあるので亀頭の形の岩根浪返し石が立っています。他に浪返し石としては、内橋亭下より親不知、譲り葉の辺りに多くあります。曲水の月見橋下は両岸殆ど石がなく、砂岸に社若(かきつばた)だけが生えているように見えます。これは池河の汀の様子を現しているように思われます。

(月見橋)

(月見橋のしも)

(赤丸が、竹澤御殿の築山、ここ辺りが今の蓬莱島)

 

10、嶋姿の様々をいふ事

《原文》山嶋、野嶋、杜島、礒島、雲形、霞形、洲浜形、片流、干潟、松皮等也

一、山しまは、池のなかに山をつきて、いれちがへかへ高下をあらしめて、ときは木をしげくうふべし。前にハしらはまをあらせて、山ぎハならびにみぎハに、石をたつべし。

(訳:山島、野鳥、牡鳥、磯島、雲形、霞形、洲浜形、片流、干潟、松皮等である。

一山島は、池の中に山を築いて、入れ違い入れ違いに高低を造って、常磐木を沢山植え。前には白浜を設けて、山ぎわや汀に、石を立てます。)

 

(蓬莱島の対岸の州浜を模した岸辺)

 

兼六園では

山島は、他の名勝では多い場所ですが、兼六園では霞ヶ池の東に台木を並べ川石が入り州浜が作られています。庭園には、州浜形を多く取り入れた庭と、そうではなく巨岩が険しくそびえ立つ庭と、そしてこの両方を折衷した庭がありますが、兼六園にはこの取組が少ないようです。そもそも州浜とは海中に突き出た州の有る浜です。

 

 

(平成の造成の梅林・作庭記にある州浜を模す)

 

《原文》一、野嶋は、ひきちがへかへ野筋をやりて、所々におせばかりさしいでたる石をたてて、それをたよりとして、秋の草などをうゑて、ひまひまにハ、こけなどをふすべきなり。これもまへにハ、しらはまをあらしむべし。 

(訳:一、野島は、引き違い引き違いに、野筋(なだらかな丘陵)を作って、所々に背だけを表わした石を立て、それをよりどころとして秋草などを植えて、隙間々々には苔などを伏せ、ここも前には白浜を設けるのです。)

 

(西側より望む蓬莱島・燈籠が亀のシッポを模す)

 

兼六園では

野島は、霞ヶ池蓬莱島の1部で見られ、よく見るとなだらかな丘陵の所々に背たけを表わした石や燈籠を立て、それをよりどころとして草などを植えて、隙間々々には苔などを伏せてあります。

 

《原文》一、杜しまは、ただ平地に樹をまバらにうゑみてて、こしげきに、したをすかして、木のねにとりつきつき、めにたたぬほどの石を、少々たてて、しばをもふせ、すなごをも、ちらすべきなり。

(訳:一、杜島は、ただ平地に樹をまばらに植えつくして、繁った杜の下をすかして、木の根に取りつき取りつき目立たない程の石を少々立て、芝もふせ、また、砂をも散らすべきです。)

 

(兼六園には島は少ない・鶺鴒島)

 

兼六園では

杜島は、鶺鴒島で見かけます。鶺鴒(せきれい)は日本書紀のイザナギ、イザナミの尊に男女和合の道を教えた鳥といわれ、藩政期、大名家は世継ぎが絶えるとお家断絶ということもあり子孫繁栄が最大の関心事だった事によるものとも言われていますが、島は平地に近く、島は人間の一生が表現されているといわれ人生の三儀式である「誕生」「結婚」「死」をそれぞれ「陰陽石」「相生の松」「五重の石塔」で表し、配置されていて、別名「夫婦島」ともいうそうですが、他では余り見かけない珍しい構成だそうです。松などの樹木はまばらに植えられています。

 

《原文》一、磯しまは、たちあがりたる石をところどころにたてて、その石のこはんにしたがひて、浪うちの石をあららかにたてわたして、その高石のひまひまに、いとたかからぬ松の、おひてすぐりたるすがたなるが、みどりふかきを、ところどころうふべきなり。

(訳:一、磯島は、直立した石を所々に立て、その石の湖畔に随って、浪打の石を荒く立て渡して、その高石の間々には、あまり高くない松で、年数を経、姿がすぐれており、緑深いものを所々に植えるべきです。)

 

 

(瓢池の岩島(鶴亀島))

 

兼六園では

磯島は、この項には島が瓢池に浮かぶ岩島(鶴亀島)があります。島は不老長寿の島神仙島をかたどった三つの島の内の一つで、この岩島は瀛州(えいしゅう)を模したもので、松が鶴の羽のように植えられています。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行

 


作庭記と兼六園⑧

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11、島姿の様々をいう事

《原文》一、雲がたハ、雲の風にふきなびかされて、そびけわたりたるすがたにして、石もなく、うゑ木もなくて、ひたすらすにてあるべし。

(訳:一、雲形は、雲が風に吹きなびかされて、たなびき渡った姿で、石もなく植木もなくて、一面に白州であるべきです。)

《原文》一、霞形ハ、池のおもてをみわたせば、あさみどりのそらに、かすミのたちわたれるがごとく、ふたかさね三かさねにもいれちがへて、ほそぼそと、ここかしこたぎれわたりみゆべきなり。これも、いしもなくうゑきもなき白洲なるべし。

(訳:一、霞形は、池の面を見渡すと、浅みどりの空に、霞の立渡った様に、二がさね三がさねにも入れちがへて、細々とここかしこがとぎれ渡って見えねばならない。これも、石もなく植木もない白州であるべきです。)

 

 

(蓬莱島の対岸の州浜)

 

《原文》一、洲浜がたはつねのごとし。但ことうるわしく紺の文などのごとくなるはわろし。おなじすわまがたなれども、或ハひきのべたるがごとし、或ハゆがめるがごとし、或せなかあハせにうちちがへたるがごとし、或すはまのかたちかとみれども、さすがにあらぬさまにみゆべきなり。これにすなごちらしたるうゑに、小松などの少々あるべきなり。

(訳:一、洲浜形は、普通の洲浜の様にそます。但しあまりきちんと紺の紋などの様になるのは宜しくない。同じ洲浜形であるけれども、或はひきのばした様に、或はゆがめた様に、或は背中合せにうちちがえた様に、或は洲浜の形かと見えるけれども、やはりそうではない様に見えなければならない。これに砂をちらした上に、小松などを少々植えるがよい。)

 

(片流?沼は春から初夏にかけて杜若が)

 

(沼に初夏には杜若が咲きます)

 

《原文》一、片流様ハ、とかくの風流なく、ほそながに水のながしをきたるすがたなるべし。

(訳:一、片流様は、あれこれの風情もなく、細長に水を流し置いた姿です。)

 

(氷室跡が干潟?)

 

《原文》一、干潟様ハ、しほのひあがりたるあとのごとく、なかバハあらハれ、なかバハ水にひたるがごとくにして、おのづから石少々みゆべきなり。樹ハあるべからず。

(訳:一、干潟様は、潮の干あがった跡の様に、半ばはあらわれ、半ばは水に浸った様にして、自然に石が少々見えますが、樹はあってはいけない。

《原文》一、松皮様ハ、まつかはずりのごとく、とかくちがひたるやうにて、たぎれぬべきやうにみゆるところあるべきなり。これハ石樹ありてもなくても、人のこころにまかすべし。

(訳:一、松皮様は、まつかわずりの様に、とかく喰違った様で、とぎれそうに見える所があるべきで、これは石や樹があってもなくても、人の心にまかせるのです。)

 

(小立野口から入ると鶺鴒島が、その右側にある島)

 

兼六園では

この項は、日本の他の名勝に最も多い場所と聞いていますが、兼六園には少なく、雲形霞形のような、一面が白州を模した所は殆どありません。しかし、昔の写真によると僅かに蓬莱島の汀の一部にあるらしいのが、今は霞ヶ池が水嵩を増し州浜が水に浸ったため見ることが出来ませんが、対岸の一画にその趣が残っています。

 

(蓬莱島の対岸の州浜)

 

大体、自然の州浜はいろいろと変化に富んだ事例もありますが、庭園に取り入れるのに極端な変化を好まず単調なものを好としているそうです。また、兼六園では、平成に造成された梅林や時雨亭がありますが、造成に際し、「作庭記」をよく研究され造られたことが窺えます。新しい間は、ワザとらしさが目立っていましたが、造成から30年も経ち、最近では趣も出て来て、私には、それらしく見える様に思えます。

(鶺鴒島のすぐ隣りの草の島)

(鶺鴒島の隣りの島、浪隠しの石か?

 

他、片流様は、幾つか思い当るところもありますが、干潟様、松皮様については、潟や沼の様式のように思われますが、兼六園では、見逃しているのか?よく分りません。もし、ご存知の方がいらっしゃいましたら、お教え戴ければ幸いです。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行

作庭記と兼六園-上―⑨

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【兼六園】

12、一、滝を立る次第

《原文》滝をたてんには、先水をちのいしをえらぶべきなり。そのみづおちの石ハ、作石のごとくにして、面うるわしきハ興なし。滝三四尺にもなりぬれバ、山石の水をちうるわしくして、面くせばミたらむを、もちゐるべきなり。但水をちよく面くせバみたりといふとも、左右のわき石よせたてむに、おもひあふ事なくは、無益なり。水溶面よくして、左右のわきいしおもひあひぬべからむ石をたておほせて、ちりばかりもゆがめず、ねをかためてのち、左右のわき石をバ、よせたてしむべき也。その左右のわきいしと水落の石とのあひだハ、なん尺何丈もあれ、底よりいただきにいたるまで、はにつちをたわやかにうちなして、あつくぬりあげてのち、石まぜにただのつちをもいれて、つきかたむべきなり。滝ハまづこれをよくよくしたたむべきなり。そのつぎに右方はれならば、左方のわきいしのかみにそへて、よき石のたちあがりたるをたて、右のかたのわきいしのうゑに、すこしひきにて、左の石みゆるほどにたつべし。左方はれならば、右の次第をもちて、ちがへたつべし。さてそのかみざまは、ひらなる石をせうせうたてわたすべし。それもひとへに水のみちの左右に、やりみづなどのごとくたてたるはわろし。

 

 

ただわすれざまに、うちちらしても、水をそばへやるまじきやうを、おもはへてたつべきなり。中石のをせさしいでたる、せうせうあるべし。次左右のわき石のまへによき石の半ばかりひきをとりたるをよせたてて、その次々は、そのいしのこはんにしたがひて、たてくだすべし。滝のまヘハ、ことのほかにひろくて、中石などあまたありて、水を左右へわかちながしたるが、わりなきなり。その次々ハ遣水の儀式なるべし。滝のおちやうハ様々あり。人のこのミによるべし。はなれをちをこのまば、面によこかどきびしき水落の石を、すこし前へかたぶけて居べし。

つたひおちをこのまば、すこしみづおちのおもてのかどたふれたる石を、ちりばかりのけばらせてたつべきなり。つたひおちハ、うるわしくいとをくりかけたるやうに、おとす事もあり。二三重ひきさがりたる前石をよせたてて左右へとかくやりちがへて、おとす事もあるべし。

 

(兼六園のパンフレットより)

 

(訳:滝をたてるには、第一に水落の石を選らばねばならない。その水落の石は、作り石の様に面の滑かなのは面白味がない。滝が三四尺にもなれば、出石の水落が美しくて、面の癖づいたものを用いるべきです。但、水落がよくて面がよく癖づいていても、左右の脇石をよせ立てるのに釣合わなければ、無益です。水落の面がよくて、左右の脇石も釣合いそうな石を立て終えたら、少しもゆがめずに根元をかためてから、左右の脇石をよせ立てさせます。その左右の剛石と水落の石との間は、何尺何丈あっても、底から頂きまで、埴土をやわらかに打ちこしらえて、厚く塗りあげてから、石まぜにただの土も入れて築き固めるべきです。

 

(翠滝のアップ)

 

滝は第一にこれをよくよく用意すべきで、その次に、右方が上座であれば、左方の脇石のかみに添へて、よい石の直立したのを立て、右の方の脇石の上に、少し低く左の石が見える程度に立てよ、左方が上座ならば、右の次第で反対に立てるのです。さてその上の方は平らな石を少々立て渡し、それも専ら水のみちの左右に、遣水などの時の様に立てたのはよくない。ただ忘れた様に散らして立てても、水をそばへはやらない様に考えて立てなければならない、中行の背の出たものも少々あってよい。次に左右の脇石の前に、よい石の半はほど低い石をよせ立て、その次には、その石の望むにしたがって、立て下すのです。滝の前は殊の外に広く、中石など数多くあって、水を左右へ分けて流したのが格別よい。その次には、遣水の儀式が宜しいであろう。滝の落ち方は種々あって、人の好みによります。はなれ落ちを好むならば、面に横かどのきびしい水落の石を、少し前にかたむけて据えるのです。伝い落ちを好むならば、少し水落のおもての角の欠けた石を、少しばかり仰向かせて立てるがよい。伝い落ちは、整然と糸をくりかけた様に落すこともある。又二三重に低い前石をよせたてて、左右へあれこれやりちがえて落すこともあります。

 

 

(夜のライトアップ)

 

兼六園では

この項は、滝造りの経験に基づく技術的な事が書かれています。多分、兼六園の滝はこれに習い造られたもと思われますが、やったことのない私には“そうなんだ!!”と言わざるを得ません。兼六園にある小立野の高台は、板屋兵四郎の辰己用水により藩政期初期に水を引くことに成功し、兼六園には滝が幾つかあり、高低何れも自由です。中でも翠滝は日本屈指といわれる雄大なもので、滝への流れは霞が池から瓢池東北に落下する高さ6.6m、幅1.6mの大滝です。

 

(翠滝の水源は辰巳用水→霞ヶ池)

(霞ヶ池より遣水へ)

(遣水)

(翠滝上)

(翠滝)

 

安永三年177411代治脩公のよって改修されます。起伏に富んだ自然の地形を生かした滝は、観る滝であると同時に音を聞いて楽しむ工夫がなされています。滝壺はなく布落ちで、一度落下した水は石に当たって砕け広がり、瓢池に注ぎ落ちる仕掛けで、水量豊富で滝音も大きく、荘厳さは他の庭には見られない規模で人工の滝とは思えない見事さです。

 

 

(瓢池より翠滝)

 

治脩公の改修前は、七瀬滝と云ったらしく、滝の上には、今、黄門橋にある自然石の獅子岩があったそうです。治脩公の計画は中島御亭(滝見御亭・今の夕顔亭)の新設と滝の改修でした。しかし、滝の改修中の視察で“幅はよいが、水量が少なく、滝壺がないため滝の音がよくない”と意に染まなかったため工事のやり直しを命じます。そこで庭師は、石を下から積み上げていたのをやめ、大石を上から落とし自然に積み上げ、水を流すと以前より滝音が良くなるなど、庭師が手を尽くし二十日後、治脩公は「凡ソか程大キナル滝ハいまた不見位也」と云っています。

 

 

(瓢池の小滝)

 

また、翠滝は兼六園の中でも大規模な石組みがなされている場所で、滝付近は奥深くて、渓谷風に多くの石が組まれています。滝口の左右は巨石を配した力強い石組みで、豊富な水量を生かした自然風の趣であり庭園にある人工の滝とは思えないほど雄大で荘厳な姿は、四季のうつろいを楽しむことができるのも翠滝の魅力です。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行

作庭記と兼六園-上-⑩

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【兼六園】

13、滝を立てる順番

《原文》滝を高くたてむ事、京中にハありがたからむか。但内裏なんどならば、などかなからむ。或人の申侍しハ、一条のおほぢと東寺の塔の空輪のたかさは、ひとしきとかや。しからば、かみざまより水路にすこしづつ左右のつつみをつきくだして、滝のうへにいたるまで用意をいたさば、四尺五尺にハなどかたてざらんぞとおぼえ侍る。

 又滝の水落のはたばりは、高下にハよらざるか。生得の滝をみるに、高き滝かならずしもひろからず、ひきなる滝かならずしもせばからず。ただみづおちの石の寛狭によるべきなり。但三四尺のたきにいたりてハ、二尺余にハすぐべからず。ひきなる滝のひろきハ、かたがたのなんあり。一二ハ滝のたけひきにミゆ。一にハ井せきにまがふ。一にハたきののどあらはにみえぬれバ、あさまにみゆる事あり。滝ハおもひがけぬいはのはざまなどより、おちたるやうにみえぬれバ、こぐらくこころにくきなり。されば水をまげかけて、のどみゆるところにハ、よき石を水落の石のうゑにあたるところにたてつれバ、とをくてハ、いわのなかよりいづるやうにみゆるなり。

 

(瓢池と翠滝)

(虹橋から分流の噴水の間の遣水にある布滝)

 

(訳:滝を高く立てることは、京中(京都)では難しい。但し、内裏(天皇に住む御殿)などならばそうとも限らない。或人の申したことには、一条の大路と東寺の塔の空輪(空間?)の高さは等しいのです。そうすると、上の方から水路に少しずつ左右の堤を築き下して、滝の上に来るまで用意をし、四五尺の高さには必ず立てられるであろうと思われます。(平安京の一条の大路は、今の右京区の北野辺り・東寺は、中京区の京都駅辺り・距離約6km)

 

(京都の東寺五重塔)

 

また、滝の水落の巾は、高下にはよらないのではないか。自然の滝を見ると、高い滝は必ずしも広くなく、低い滝でも必ずしも狭くはなく、ただ水落の石の寛狭(広さ狭さ?)によるのです。但し三四尺の滝になると、二尺余より過ぎてよくない。低い滝の広いのは、色々と難がしい、一つには滝の丈が低く見え、一つには井堰と紛らわしい。一つには滝の咽喉が明らかに見えるので、浅い様に見えることがあります。滝は思いがけない岩の間から落ちた様に見えると、木暗く奥ゆかしい、だから水を流しかけて、咽喉が見える所には、よい石を水落の石の上に当る所に立てたならば、遠くからは岩の中から出る様に見えます。)

 

国宝東寺の五重塔は、京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇ります。天長3年(826年)空海により、創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末で、雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644)に徳川家光の寄進で建てられたものです。

 

 

(瓢池の親滝(大滝)の翠滝)

 

兼六園全史の「作庭記」解説によると、「作庭記」の編者は京在住者であるため、京都付近を題材として説いてあるところが多い。とりわけ本項は京の南北の落差の少ないことを云っています。京都は明治初期の琵琶湖疏水が出来るまでは何も出来ない。と云い、極端な枯山水等の作庭発達も容易に頷けるというのである。と述べています。また、高い滝は巾広くても高所ゆえに細く見え、低い滝は細巾であるが巾広く見えるものである。と云い、これは作庭上短を補うため滝の落口を曲げるとか、隠蔽するとか、編者は心憎いほど上手く書いている。・・・・とあります。しかし、解説者は、滝の高低、水落石の寛狭と、巾を述べてありますが、兼六園の翠滝「作庭記」そのままを写さず、加賀の郷土色を残した庭園法が窺えると述べています。

 

(瓢池の小滝)

 

兼六園では

兼六園の翠滝那智の滝を表現したと云われていますが、樹木の鬱蒼としている処だけがよく似ているそうですが、写真で見る限り滝そのものは似ていません。那智は巾細く見え翠滝は広くみえる。これは滝の長さの長短、視野の広狭によるもですが、兼六園特異の折衷滝(長短の良いところを取り1つにしている滝)を醸し出しています。翠滝は、巾を細めるわけにもいかず、とはいえ落差や最大限。これを高く見せる手段としての瓢池小滝は、つとめて低滝として親滝(翠滝)を活かしてあるところが非凡といえます。

 

(那智の滝)

 

(上から望む長谷池と時雨亭)

(長谷池の大滝)

(長谷池の小滝)

 

また、後に造られた長谷池にある大と小の滝は、作庭記に述べられる京都の作庭そのままと云われていますが、これが京都にあれば“枯山水”であったと思われますが、幸いに水が豊かな兼六園では、遣水を引き、現在でも僅かながら水を落しています。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行

作庭記と兼六園-上-⑪

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【兼六園】

14、一、滝のおつる様々をいふ事

 向落、片落、伝落、離落、稜落、布落、糸落、重落、左右落、横落

むかひをちは、むかひて、うるわしくおなじほどにおつべきなり。かたおちは、左よりそへておとしつれバ、水をうけたるかしらあるまへ石の、たかさもひろさも、水落の石の半にあたるを、左のかたによせたてて、その石のかしらにあたりて、よこざまにしらミわたりで右よりおつるなり。つたひおちは、石のひだにしたがひて、つたひおつるなり。はなれおちハ、水落に一面にかどある石をたてて、上の水をよどめずして、はやくあてつれバ、はなれおつるなり。そばおちは、たきのおもてをすこしそバむけて、そばをはれのかたよりみせしむるなり。布をちは、水落におもてうるわしき石をたてて、滝のかみをよどめてゆるくながしかけつれバ、布をさらしかけたるやうにみえておつるなり。糸おちは、水落にかしらにさしいでたるかどあまたある石をたてつれバ、あまたにわかれて、いとをくりかけたるやうにておつるなり。重おち水落を二重にたてて、風流なく滝のたけにしたがひて二重にも三重にもおとすなり。

 

(百間堀往来の広坂に近い側に有る滝)

(百間堀往来の広坂口(藩政期には坂下門)

 

(訳:向落、片落、転落、離落、稜落、布落、糸落、重落、左右落、横落。

向落は、正面に向って整った形に同じ様に落すべきです。片落は、左からそえて落したならば、水を受ける頭のある前石で、高さも広さも、水落の石の半分にあたるものを、左の方によせ立てるならば、その石の頭にあたって、横の方に白み渡って、左から落ちるもので、伝い落は、石の壁に従って落ちます。離れ落は、水落に一面に角のある石を立て、上の水を淀めないで早くあてれば、離れて落ちます。稜落は、滝のおもてを少し脇に向けて、稜を上座の方から見せ、布落は、水落におもての滑らかな石を立てて、滝の上を淀ませ、ゆるく流しかければ、布を晒しかけた様に見えて落ちます。糸落は、水落に頭にさし出た角の数多くある石を立てたてば、沢山に分れて、糸を繰りかけたように落ちます。重落は、水落を二重に立てて、別段技巧を用いないで、滝の丈に従って、二重にも三重にも落すのです。)

 

(華厳の滝)

(白山の姥滝)

 

兼六園では

この項は「兼六園全史」の解説によると、滝の落ちる様子を見て名づけたもので、翠滝“向落”と云っています。また、瓢池から百間堀往来(旧坂下門→石川橋→紺屋坂)に落ちる2つの滝も“向落”で、作庭記には「うるわしく同じ程に落べきなり」と理解されていますが、それは、“ドーと一挙に落下して雑音が入らない滝“だと云う事らしく、那智の滝華厳の滝もこれに属しているそうです。この滝の落ちる音は、人生のおける長寿の本質を捉えているように聞こえ、加賀宝生の謡曲では、一音でよどみが無く謡うのを”華厳の滝の落ちるように謡え”と云うそうです。これは水量が多い事によるものですが、水量が少なければその様な音にならないのは当然です。しかし、水落の頭の石の格好によって変化する事もあると云われています。

 

(ドーと一挙に落下する翠滝)

(ドーと一挙の落下する翠滝の下、百間堀往来の滝)

 

糸落、左右落、は水量によって変化するもではありません。例えば白山蛇谷の「姥滝」は作庭記に書かれている“糸滝”に属しているが、四季を通じて変わらないと書かれています。

 

(滝ではないが、琴に糸を模した虹橋の瀬落とし)

(番外・藩政期に有った兼六園山崎山から内惣構に落とす滝)

 

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行

作庭記と兼六園‐上-⑫

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【兼六園】

15、二、滝のおつる様々をいふ事

《原文》或人云、滝をバ、たよりをもとめても月にむかふべきなり。おつる水にかげをやどさしむべきゆへなり。滝を立ることは口伝あるべし。からの文にもみえたる事、おほく侍るとか。不動明王ちかひてのたまはく、滝ハ三尺になれバ皆我身也。いかにいはむや四尺五尺乃至一文二丈をや。このゆへにかならず三尊のすがたにあらハる。左右の前石ハ二童子を表するか。

不動儀軌云、

  見我身者  発菩提心  聞我名者  断悪修善  故名不動云々

我身をみばとちかひたまふ事ハ、必青黒童子のすがたをみたてまつるべしとにハあらず。常滝をみるべし、となり。不動種々の身をあらハしたまふなかに、以滝本とするゆへなり。

 

(兼六園虹橋の分流から噴水に至る遣水の小滝)

 

(訳:或人が言うには、滝はたよりをもとめても月に向うべきで、それは落ちる水に月影を宿らせる為です。滝を立てる事に就いては口伝があり、中国の書物にも記されていることが、多いと言うことです。不動明王が誓って言われるには滝は三尺になれば皆我が身です。四尺五尺乃至一丈二丈になれば勿論の事で、この訳で必ず三尊の姿にあらわれるのです。左右の前石は二童子を表すのであろうか。不動儀軌に云うには、見我身者。発菩提心。聞我名者。断悪修善。故名不動云々。我が身を見ればと誓い給うことは、必ずしも青黒童子の姿を見たてまつれというのではなく、常に滝を見よということです。それは不動が種々の身をあらわし給う中に、滝を以て本とするからです。)

 

不動明王:密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。 五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王らと共に祀られる。不動三尊とは、不動明王の左右に矜羯羅童子・制多迦童子を配した仏像・仏画の構図である。)

 

見我身者。 発菩提心。 聞我名者。断悪修善 聴我説者。 得大智恵。 知我心者。 即身加持。は不動明王の本誓を述べた仏の功徳をほめたたえる詩、山伏の祈祷の定型でお経ではなく修験道において独自に創作されたもののようです。)

 

兼六園では

滝を立てるには中国の書物に記されている口伝があります。月の向かうベきで、落ちる水に月影が見えなければならない。(兼六園翠滝は月に向かっていない)不動明王は、滝は3尺あればみな我が身で、大きくなればなるほど皆我だと云ったと伝えられています。

 

熊野の那智も日光の華厳も岐阜の養老も信仰で成り立っています。ですから付近に神社仏閣が寄り添うように存在し、那智は熊野那智大社、華厳には日光山中禅寺、養老には養老神社があります。北陸では立山の称名滝、医王山の三蛇ヶ滝行者の修行場になっていました。

 

(医王山の三蛇ヶ滝)

 

口伝は、兼六園の翠滝にもその形跡が残っていて、対岸の日暮橋の袂の海石塔(十三重の塔の変形)が密教の口伝を生かし、脇の傘亭を配しているのは神仙思想に習い立派人物の憩いの場を演出しています。また、竹澤御殿に勤めた寺島応挙の収集した金子雪操筆「蘭亭曲水図」にも翠滝下によく似た絵が描かれています。夕顔亭の邯鄲手水鉢(伯牙断琴の手水鉢)など、滝に配する密教伝説は「作庭記」の約束が守られています。

 

(翠滝の岩組)

(寺島蔵人が収集した「蘭亭曲水図」の部分)

(寺島家の所蔵品図録)

 

海石塔:昔、朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち帰ったものを後に豊臣秀吉が、前田利家公に贈ったという説もありましたが、灯篭の石材の全てが地元産(青戸室、坪野石等)という事が分りました。近年、研究者の調査で、元は十三重の塔で、玉泉院丸の有った物で、利常公が小松城に半分の七重の塔を据え、明治になりその七重の塔が能美市寺井の奥野八幡神社に移された物だそうで、海石塔はその十三重の塔の六重分で、明治になり玉泉院丸より移されたものか?本来、塔は三重とか五重など重ねは奇数。偶数の六重は有り得ないのだという。)

 

(海石塔)

 

邯鄲手水鉢(かんたんちょうずばち):この手水鉢は2つの伝説があり、一つ「伯牙断琴の手水鉢」は、自らの琴の音を最も理解した友人の死を嘆き、「一生琴を奏でない」と誓った名手伯牙が琴を枕にし、横になる姿が浮き彫りにされている説が有名ですが、もう1つの邯鄲手水鉢は、能の曲名で、物語は蜀の国の若者(盧生)が人生に疑問を持ち、仏道の師を求めて羊飛山へ赴く途中、邯鄲(かんたん)の里で雨宿りをし、宿の女主人が、不思議な枕を勧められ昼寝をすると楚国の帝の使が来てその若者を起こし、譲位の勅を伝え、都へ導かれてに即位した若者(盧生)は満ち足りた栄華を味わうというお話です。即位50年の酒宴では舞童の舞を見て、自分も立って舞い興じるが、それはすべて夢の中の出来事で、宿の寝台に寝ていたのだったというお話。)

 

(邯鄲手水鉢(伯牙断琴の手水鉢)

 

拙ブログ

夕顔亭②露地

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(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行 「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「武家屋敷寺島蔵人邸跡所蔵品録」財団法人金沢市文化財保存団 平成73月発行

作庭記と兼六園-上-⑬

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【兼六園】

16、遣水事

《原文》一、先水のみなかみの方角をさだむべし。経云、東より南へむかへて西へながすを順流とす。西より東へながすを逆流とす。しかれバ東より西へながす、常事化。又東方よりいだして、舎屋のしたをとおして、未申方へ出す、最吉也。青竜の水をもちて、もろもろの悪気を白虎のみちへあらひいだすゆへなり。その家のあるじ疫気悪瘡のやまひなくして身心安楽寿命長遠なるべしといへり。

四神相応の地をえらぶ時、左より水ながれたるを、青竜の地とす。かるがゆへに遣水をも殿舎もしハ寝殿の東より出て、南へむかへて西へながすべき也。北より出ても、東へまわして南西へながすべき也。経云、遣水のたわめる内ヲ竜の腹とす、居住をそのハらにあつる、吉也。背にあつる、凶也。又北よりいだして南へむかふる説あり。北方ハ水也。南方ハ火也。これ陰をもちて、陽にむかふる和合の儀歟。かるがゆへに北より南へむかへてながす説、そのりなかるべきにあらず。

水東へながれたる事ハ、天王寺の亀井の水なり。太子伝云、青竜常にまもるれい水、東へながる。この説のごとくならば、逆流の水也といふとも、東方にあらば吉なるべし。

(現在の七福神山)

(江戸時代末期の七福神山・当時は竹澤御殿書院の庭)

 

(訳:一、先水のみな上の方角を定める。書物で云うには、東より南へ向かい、西へ流すのが順流です。西より東へながすを逆流とします。よって東より西へ流すのが常とする。また、東方より出だして、舎屋の下を通り、未申(ひつじさる・西南)方へ出すのが最も好とする。青竜の水で、諸々の悪気を白虎の道へ洗い出すといわれている。その家の主の疫気悪瘡の病を無くし、身心安楽寿命長遠なるという。

(四神相応図)

 

四神相応の地を選ぶとき、左より水が流れのは青竜の地とし、かるがゆへに(それゆえに)遣水をも殿舎もしくは寝殿の東より出て、南へ向い西へ流すべきで、北より出ても、東へ廻して西南へ流す。書物で云うには、遣水のたわめる内を竜の腹とし、居住をその腹にあつるのを吉とする。背にあつるのを凶とする。また、北より出して南へ向う説あり。北方は水で、南方は火です。これ“陰”を持ちて、“陽”に向うる和合の儀かな。かるがゆへに(それゆえに)北より南へ向へて流す説、その理なかるべきにあらず。

水東へ流れたる事は、天王寺の亀井(四天王寺の中心伽藍の中にも龍が棲むという”龍の井戸”伝説)の水なり。太子伝(聖徳太子の伝記)で云う、青竜常にまもれる霊水は東へ流れる。この説の如くならば、逆流の水也といふとも、東方にあれば吉である。)

 

(青龍を象徴する竜石)

(曲水の竜の目)

 

四神相応(しじんそうおう):東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいいます。四神の中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五黄」と呼ばれています。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や朝鮮と日本では大きく異なっています。

 

 

(曲水より鑓水への分流、取り入れ口)

(鑓水の小滝)

(鑓水の流れ翠滝へ)

 

鑓水(やりみず):庭園などに水を導き入れて作った流れ。曲水:庭園または林、山麓(さんろく)をまがりくねって流れる水で、ごくすいとも云う。曲水の宴:水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事で、略して曲水、曲宴ともいう。因みに兼六園では行なわれた記録は見当たりません。

 

(板橋)

 

兼六園では

遣水は、東より発して西へ流すのを本則としています。兼六園では、辰己用水が山崎山下から入り土橋から西に向かい鶺鴒島から花見橋をくぐり板橋に至り北東に向かい七福神山の雪見橋から月見橋そして虹橋を経て霞ヶ池の注ぐ曲水(遣水)と、月見橋板橋の中間から曲水の分流が暗渠になり成巽閣裏門辺りの地下を流れ、崖下で小滝になり、遣水が続きます。(加賀では西より東に流れる川を逆川(さかさかわ)と言っています。)

 

(雁がね橋(亀甲橋)

(木橋)

(木橋と月見橋の間にあった姫小松(五葉松)現在は枯れて無い)

(雪見橋から亀甲橋、木橋、月見橋、虹橋まで)

黄門橋白龍端の末流は右折れして三芳庵の本館の下を通り、未申(西南)の方に流れ下ります。金沢は日本海側ですから流れは東から発し西に下りますが、関東の芝離宮の鑓水も「作庭記」で云う伝統を重んじて東から西に流れています。

 

(白龍端の黄門橋)

(流れは三芳庵の下は入る)

(三芳庵の地下を流れ)

(流れは三芳庵本館下より瓢池へ)

 

岡倉天心は、「日本の庭園は自然そのままの姿を写し取ったかのようなものがほとんどですが、西欧の庭園の特徴はシンメトリーに木を刈りこんだり花を植えるなどして徹底的に自然に逆らい手を入れている点にあります。自然に寄り添う庭と対峙する庭とでもいったところでしょうか。」といっています。

 

(白龍端下の夕顔亭と瓢池に望む三芳庵水亭)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 

 

作庭記と兼六園-上-⑭

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【兼六園】

17、弘法大師高野山・・・。

《原文》弘法大師高野山ニいりて、勝地をもとめたまふ時、一人のおきなあり。大師問テのたまはく、此山に別所建立しつべきところありや。おきなこたへていはく、我領のうちにこそ、昼ハ紫雲たなびき、夜ハ露光をはなつ五葉の松ありて、諸水東へながれたる地の、殆国城をたてつべきハ待れといへり。但諸水の東へながれたる事ハ、仏法東漸の相をあらはせるとか。もしそのぎならバ、人の居所の吉例にハあたらざらむか。

或人云、山水をなして、石をたつる事ハ、ふかきこゝろあるべし。以土為帝王、以水為臣下ゆへに、水ハ土のゆるすときにハゆき、土のふさぐときにハとゞまる。一云、山をもて帝王とし、水をもて臣下とし、石をもて輔佐の臣とす。かるがゆへに、水ハ山をたよりとして、したがひゆくものなり。但山よはき時ハ、かならず水にくづさる。是則臣の帝王をおかさむことをあらハせるなり。山よはしといふハ、さゝへたる石のなき所也。帝よハしといふハ、輔佐の臣なき時也。かるがゆへに、山ハ石によりて全く、帝ハ臣によりてたもつと云へり。このゆへに山水をなしてハ、必石をたつべきとか。

 

(栄螺山(さざえやま)より霞ヶ池)

栄螺山(さざえやま)解説板)

(栄螺山(さざえやま)の山頂の三重宝塔)

 

(訳:弘法大師高野山に入り、勝地を求めた時、一人の翁に出会い。大師が此山に別所を建立するべき所はあるか聞くと、翁応えて、我領のうちにこそ、昼は、紫雲たなびき、夜は、露光をはなつ五葉の松ありて、諸水東へながれたる地の、殆国城(弘法大師の拠点)をたてつべきは待れといへり。但、諸水の東へながれたる事は、仏法東漸(仏教は東(インド)からやってくる)の相をあらはせるとか。もしそのぎならば、人の居所の吉例(非常に良い)といえる。

 

(五葉松が有る、2年前の木橋)

(五葉松が無い、最近の木橋袂)

 

或人が云には、山や水路・池等を作り、石を立てる(ここでは居所として整備するといった広い意味)ことは非常に深い意味がある。以土為帝王(中国故事に出てくる理想の帝王)、以水為臣下(同家臣)のように、水(家臣)は土(主)の意志に沿って動き、土(主)が自重せよと言った時は動かない。

 

(主)が弱いと言う事は支える石(家臣)が無くなると言う事。だからこそ、山(主)は石(家臣)よりも全てに対してただしくあるべきだ。同時に帝王は良い家臣がいてこそ存在することが出来る。だからこそ、山があり、水があり、そして石があることが(拠点となる建物や庭を作る)必須条件となる。)

 

(「今は昔、弘法大師わが唐にしてなげしところの三鈷落ちたらむ所を尋ねると思ひて弘仁7年(816といふ年の6月に王城を出でて尋ねるに大和国宇智の郡に至りて一人の猟人に会ひぬ。その形面赤くしてたけ八尺ばかりなり。(中略)即ちこの人大師を見て過ぎ通るにいはく、何ぞの聖人のあるきたまふぞと。大師のたまはく、われ唐にして三鈷を投げて禅定の霊穴に落ちよと誓ひき。今その所を求め歩くなりと。猟人のいはくわれは南山の犬飼なり。われその所を知れり。すみやかに教へたてまつるべしといひて犬を放ちて走らしむる間犬失せぬ。そこに一人の山人に会ひぬ。大師はこのことを問ひたまふに、ここより南に平原の沢あり、これその所なり。明くる朝に山人大師に相具して行く間密かに語りていはくわれこの山の主なり。すみやかにこの領地をたてまつるべしと。山のなかに百町ばかり入りぬ。山のなかはただしく鉢をふせたる如くにて莚にり峯八つ立ちて登れり。桧のいはむ方なく大きなる、竹のやうにて生ひ並びたり。そのなかに一つの桧のなかに大きな竹股あり。これを見るに喜びかなしぶこと限りなし、これ禅定の霊堀なりと知りぬ。大師この山人は話人ぞと問いたまへば丹生の明神となむ申す。今の天野の宮これなり。犬飼をば高野の明神となむ申すといひて失せぬ」と、はなはだ説話風ですが「作庭記」と同調のものが書かれいることが明らかです。(弘法大師入定の地・今昔物語 ( 11-25 ) 保安元年(1120)より)

 

兼六園では

「兼六園全史」の筆者は能楽にも造詣が深く、今回の弘法大師と兼六園との繫がりを謡曲「高野物狂」を例にお書きになっています。また、作庭と君臣を山・水・土の関係を謡曲「国栖」を例示し「それは君を舟、臣は水、水よく舟を浮かむとも、此の忠勤によもしかり」とあります。

 

(高野山の金剛峯寺)

(栄螺山(さざえやま)の山頂の三重宝塔)

 

謡曲「高野物狂」は、此の項に意訳してあるところが有るとし、「中にも三鈷の松、大同2年?のご帰朝以前に、我法成就円満の地の。しるしに残り留まれとて。三鈷を投げさせたまひしに、光と共に飛び来たり、此の松枝の梢にとどまる。」以上は謡曲文であるが、これは三鈷の松といって五葉松である。兼六園内にも五葉松(姫小松・一昨年枯れる)が所々に有り、太子の旧蹟を物語るところもある。即ち我が郷里で大師の言伝えの現存する処は、能登の法吼山法住寺だけである。この法住寺の桜で刻した仏像を「栄螺山(さざえやま)山頂三重宝塔内に納めたと云う。

 

(金沢養智院の伝承によれば、ご本尊地蔵菩薩は加賀延命地蔵と称され、天長2年(825)弘法大師が北国を巡錫された時、能登の国吼桜山に登り一の霊木を以って一刀三礼して彫刻されたと伝えられています。)

 

 

 

拙ブログ

養智院と鬼川

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11456182597.html

 

また、前期謡曲文“高野物狂”によると大同2年?は大師のご帰朝の年に当たる、兼六園千歳台大同2の地蔵の刻印と同じ年号である。この地蔵は12代斉広公の枕石である。以上を見ると三重塔も斉広公像を納む。何か斉広公と大師と関連がある様に思えてならぬ。と、筆者は感慨深げに書かれています。

 

 

 

(註:大同元年(80610月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺 (ちくしかんぜおんじ )に、そして大同4年(809)、朝命により上京し 高雄山寺( たかおさんじ) に入住しました。)

 

 

 (空海弘法大師)

 

(空海は歴代天皇の篤い帰依を受け、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきました。また、一宗の根本道場として東寺を賜り、43歳の弘仁7年(816)には、嵯峨天皇より高野山を賜りました。45歳の弘仁9年から4年間余りは、高野山を中心に過ごされ、修法や著述などにいそしまれました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 


作庭記と兼六園-上-⑮

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【兼六園】

18

《原文》一、水路の高下をさだめて、水をながしくだすべき事ハ、一尺に三分、一丈に三寸、十文に三尺を下つれバ、水のせゝらぎながるゝこと、とゞこほりなし。但値すゑになりぬれバ、うるハしきところも、上の水にをされてながれくだる也。当時ほりながして水路の高下をみむことありがたくハ、竹をわりて地にのけざまにふせて、水をながして高下をさだむべき也。かやうに沙汰せずして、無左右く屋をたつることは、子細をしらざるなり。水のミなかみ、ことのほかにたかゝらむ所にいたりてハ、沙汰にをよばず。山水たよりをえたる地なるべし。道水ハいづれのかたよりながしいだしても、風流なく、このつまかのつま、この山かの山のきはへも、要事にしたがひて、ほりよせよせおもしろくながしやるべき也。

南庭へ出すやり水、おほくハ透渡殿のしたより出テ西へむかへてながす、常事也。又北対よりいれて二棟の屋のしたをへて透渡殿のしたより出ス水、中門のまへより池へいる〓常事也。

 

(時雨亭の新しい鑓水)

(山崎山下の辰巳用水取り入れ口・曲水(鑓水)の入口)

 

(訳: 一、水路の高下を定めて、水を流し下すことは、一尺に三分、一丈に三寸、十文に三尺を下つれば、水はセセラギを流れは滞こうりがない。しかし流れたの末流は、麗しきところも、上の水に押されて流れくだります。当時、堀を流して水路の高下を見向くことありがたくは、竹をわりて地にのけざまにふせて、水をながして高下を定めつべきで。かような内容は内密にせず、無左右く屋を建てることは、子細をしらざるなり。水の皆上、ことの他に高からむ所にいたりては、沙汰にをよばず。山水にたよりを獲たる地なるべし。道水はいづれのかたより流し出だしても、風流なく、このつまかのつま、この山かの山のきはへも、要事に従がひて、ほりよせよせ面白く流しやるべきです。

南庭へ出すやり水、多くは透渡殿の下より出て西へ向かえて流す、当たり前の事です。又北対よりいれて二棟の屋の下をへて透渡殿の下より出す水、中門の前より池へ入るのが当たり前の事です。)

 

(白龍端の上から下の流れ)

 

兼六園にて

兼六園の蓮地庭を流れる「白龍端」は、「急勾配で、そのせせらぎの音は、琴の調べに似ている」と云われていますが、その下流には、夕顔亭があり、その夕顔亭の別名は「聴琴亭」と云われたのもこの辺から来ているのでしょうか?

 

(夕顔亭)

 

19

《原文》遣水の石を立る事は、ひたおもてにしげくたてくだす事あるべからす。或透廊のしたより出る所、或山鼻をめぐる所、或池へいるる所、或水のおれかへる所也。この所々に石をひとつたてゝ、その石のこはむほどを、多も少もたつべき也。

 遣水ニ石をたてはじめむ事ハ、先水のおれかへりたわみゆく所也。本よりこの所に石のありけるによりて、水の、えくづさずしてたわミゆけバ、そのすぢかへゆくさきハ、水のつよくあたることなれバ、その水のつよくあたりなむとおぼゆる所に、廻石をたつる也。すゑざまみなこれになずらふべし。自余の所々はた〓わすれざまに、よりくる所々をたつる也。とかく水のまがれる所に、石をおほくたてつれバ、その所にて見るハあしからねども、遠くてミわたせバ、ゆへなく石をとりおきたるやうにみゆる也。ちかくよりてみることはかたし。さしのきてみむに、あしからざるべき様に、立べき也。

 

(かきつばた)

 

(訳:遣水の石を立る事は、ひた面にしげく立て下す事あるべからす。あるは透廊の下より出るところ、あるは山の端を廻るところ、あるは水の折れ返るところと 。この所々に石をひとつ立てて、その石のこはむほどを、多も少もたつべきです。

 遣水に石をたてはじめむ事は、先水の折れ変り撓みゆく所で。本よりこの所に石のありけるによりて、水の、えくづさずしてたわみゆけば、その筋替えゆく先は、水の強く当たるとなれば、その水の強く当たりなむとおぼゆる所に、廻石をたつる。すゑざまみなこれに習うべし。自余の所々はただ忘れざまに、よりくる所々を立てる。とかく水の曲がれる所に、石を多く立てつれば、その所にて見るはあしからねども、遠くて見わたせば、ゆへなく石をとりおきたるやうに見ゆる也。近くよりて見ることはかたし。さしのきてみむに、あしからざるべき様に、立べきです。

 

(兼六園虹橋)

(虹橋辺り)

(霞ヶ池の落とし口)

(鑓水沿いの春日灯篭)

 

兼六園では

曲水より霞ヶ池の入る虹橋の処、此処に石を立ててあります。よって曲水の少し上、杜若の処には石が少ない、これは作庭記の云わんとしている処です。霞ヶ池落とし口裏の小滝から翠滝上の至る処がこれで大石が無くて春日灯篭が立っています。また、白龍端を下る曲がりに至るところには石と草で水面が定かではないが、流れは三芳庵本館に至ります。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行 「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「武家屋敷寺島蔵人邸跡所蔵品録」財団法人金沢市文化財保存団 平成73月発行

作庭記と兼六園-上-⑯

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【兼六園】

20、 

《原文》遣水の石をたつるにハ、底石、水切の石、つめ石、横方、水こしの石あるべし。これらはミな根をふかくいるべきとぞ。

横石は事外ニすぢかへて中ふくらに、面を長くみせしめて、左右のわきより水を落たるが、おもしろき也。ひたおもてにおちたる事もあり。

遣水谷川の様ハ、山ふたつがハざまより、きびしくながれいでたるすがたなるべし。水をちの石は、右のそばへおとしつれバ、又左のそバヘそへておとすべき也。うちゝがへうちゝがへこゝかしこに、水をしろくみすべき也。すこしひろくなりぬるところにハ、すこしたかき中石をゝきて、その左右に横石をあらしめて、中石の左右より水をながすべき也。その横石より水のはやくおつる所にむかへて、水をうけたる石をたてつれバ、白みわたりておもしろし。

 

 

(大和武尊の前から七福神山へ)

 

(訳:遣水の石を立てるには、底石、水切の石、つめ石、横方、水越しの石が有るべきで、これらは皆、根を深く入れるべきです。

横石はことの外、筋交へて中をふっくらに、面を長く見せて、左右の脇より水を落ちるのが、お面白い。しかし面に落ちる事もあり。

遣水は、谷川の様で、山二つの狭間より、厳しく流れる姿を良い。水落ちの石は、右のそばへ落としつれば、また、左の傍ヘ添えて落とす。打ち違え打ち違え、ここかいしこに、水を白く見える。少し広くなるところには、少し高き中石を置き、その左右に横石をあらしめて、中石の左右より水を流すべきで。その横石より水の早く落とす所に向かへて、水を受けたる石を立てれば、白みが行き渡り面白い。)

 

(七福神山の雪見橋)

(木橋の下)

(木橋の上)

兼六園では

兼六園の曲水中、亀甲橋下の水の中石(横石)または「徽軫灯籠(ことじとうろう)」付近から噴水の処に入る細流、白龍端はみんな、「鑓水谷川のさまは、山二つが狭間より厳しく流れるたる姿なるべし」に相当する処です。

(虹橋の上)

(虹橋したの鑓水口)

(虹橋下の鑓水の流れ)

 

21

《原文》一説云、遣水ハそのミなもと、東北西よりいでたりといふとも、対屋あらばその中をとおして、南庭へながしいだすべし。又二棟の屋のしたをとをして、透渡殿のしたより出て池へいるゝ水、中門の前をとおす、常事也。

又池ハなくて遣水バかりあらば、南庭に野筋ごときをあらせて、それをたよりにて石ヲ立べし。

又山も野筋もなくて、平地に石をたつる、常事也。但池なき所の遣水ハ、事外ニひろくながして、庭のおもてをよくよくうすくなして、水のせゝらぎ流ヲ堂上よりミすべき也。

遣水のほとりの野筋にハ、おほきにはびこる前栽をうふべからず。桔梗、女郎、われもかう、ぎぼうし様のものをうふべし。

又遣水の瀬々にハ、横石の歯ありて、したいやなるををきて、その前にむかへ石ををけバ、そのかうべにかゝる水白みあかりて見べし。

又遣水のひろさは、地形の寛狭により、水の多少によるべし。二尺三尺四尺五尺、これミなもちゐるところ也。家も広大に水も巨多ならば、六七尺にもながすべし。

 

(亀甲橋、木橋の下、月見橋)

 

(訳:一説云、遣水は、その源、東北から西に出でたりと云うが、対屋あらばその中を通して、南庭へ流すべし。又二棟の屋の下を通して、透渡殿の下より出て池へいるる水、中門の前を通すのが常識です。

又池は無くて遣水ばかりあれば、南庭に野筋を造り、それを頼りに石を立てる。また山も野筋も無くて、平地に石を立てるにが常識です。かつ、池なき所の遣水は、事のほか広く流して、庭のおもてをよくよく薄くして、水のせせらぎの流を堂上より見すべきで。

遣水の畔の野筋(なだらかな丘陵)には、多く蔓延る前栽を植えるべからず。桔梗(キキョウ)、女郎(オミナエシ)、吾亦紅(ワレモコウ)祇帽子(ギボウシ)様なものを植えるべし。

 

また、遣水の瀬々には、横石の歯ありて、下屋なるを置きて、その前に向かい石を置けば、

そのかうべにかかる水白みあかりて見べし。

また、鑓水の広さは地形の寛狭により、水の多少によるべし。二尺三尺四尺五尺、これ皆持ちところ也。家も広大に水も巨多ならば、六七尺にも流すべし。)

 

(兼六園の地図に竹澤御殿の建物を書き込む)

 

(緩やかな、七福神山下亀甲橋の流れ)

兼六園では

本項の「庭の面をよくよく薄くして、水のせせらぎの流れを堂上より見えるようする。」とあるのは、千歳台、元竹澤御殿正面、七福神山前を流れる曲水の辺りを現していて、亀甲橋の辺りに曲水は、広く浅く緩やかです。また、「下屋なるを置いて、その前に向え石を置けば、その首にかかる水、白みあかりて見ゆべし」は白龍端の谷底の向へ石を云うのでしょう。それは、白龍端の水は白く見えたからと思われます。

 

(白瀧端下の白い流れ)

 

以上「作庭記-上-」完

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行 「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「武家屋敷寺島蔵人邸跡所蔵品録」財団法人金沢市文化財保存団 平成73月発行

作庭記の兼六園-下-①

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【兼六園】

22、立石口伝

《原文》石をたてんハ、先大小石をはこびよせて、立べき石をばかしらをかミにし、ふすべき石をばおもてをうへにして、庭のおもにとりならべて、かれこれがかどをふみあハせ、えうじにしたがひて、ひきよせたつべき也。

石をたてんにハ、まづおも石のかどあるをひとつ立おおせて、次々のいしをバ、その石のこはんにしたがいひて立べき也。

石をたてんに、頭うるハしき石をば、前石にいたるまでうるハしくたつべし。かしらゆがめる石ヲバ、うるハしき面にみせしめ、おほすがたのかたぶかんことは、かへりミるべからず。

又岸より水そこへたていれ、また水そこより岸へたてあぐるとこなめの石ハ、おほきにいかめしくつづかまほしけれども、人のちからかなふまじきことなれバ、同色の石のかど思あたらんをえらびあつめて、大なるすがたに立なすべきなり。

石をたてんにハ、先左右の脇右前石を寄立むずるに、思あらぬべき石のかどあるをたてをきて、奥石をばその石の乞にしたがひてたつるなり。

 

 

(千歳台の枕石・斉広公の寝所跡)

 

《訳:石を据えるにはまず大小の石を運んできて、立石になる石の頭を上にし、臥石になる石の頭を上にし、庭の表に重ならないように一つ一つ並べて、大小の石の大きさや、見映え、組み合わせ、釣り合いなどを見ながら、かねてからの構想にしたがって据えてゆくべきです。

石を据えるには、まず主石の見映えある角、形を持った石を一つ据えてから、その主石に対して、大きさ、姿が一定の空間構造をなす上にもっとも当てはまるように、次々の石を据えてゆくべきです。

石を据えるには前石などに至るまで、頭部の形の良い石を、それぞれ安定するように据えるべきで、石の頭がゆがんでいる石は、頭が安定した姿になるように立ててその全体の姿が傾いていても、意に介することはない。

また岸から水底へ立ていれ、また水底から岸へ立ち上がる大磐石は、大きくていかめしく続くことが望ましいが、労力が大変であるから、同じ色で似た襞のある石を選びあつめて繋ぎ合わせて一つ石に見せるようにすべきです。

主石へ対して左右の脇石や前石を組むのに、主石にふさわしいのを据えて、その奥のいわゆる見込みの石(見越石)を先に据えた主石や脇石に対して、大きさ、姿が一定の空間構造をなす上にもっとも当てはまるように据えてゆくべきです。)

 

 

(霞ヶ池の亀頭石)

 

兼六園では

立石は、縦の方向に長く据えた石で、横石は、横の方向に長く使ったものをいい。平石は、 高さのない平ぺったい石をいいます。また、伏石というのは、お椀を地面に伏せたような甲羅形になるものをいいます。他に平天石や斜石があり、 平天石は、平石と違い、石にある程度の高さがあり、なお、かつ石の天端が平らなもの、斜石は、石を斜めに立てて据えたものをいいます。兼六園では、水が豊富なので枯山水の庭園はなく、石が連なる庭は、強いて言えば、山崎山七福神山に見られます。

 

 

(七福神島に七福神の石組)

(山崎山の石組)

 

一昔前までは平泉の文化財といえば中尊寺金色堂でしたが、近年、世界遺産に登録されたこともあり、金色堂にプラスして周辺の毛越寺庭園の知名度も上がっていますが、この庭園は平安時代に造られたもので、その当時の作庭のマニュアル「作庭記」が現代にも伝わっています。兼六園では、江戸時代中期の様式が多く、竹澤御殿時代以後昭和44年(1969に明治百年記念事業として増設された「梅林」「時雨亭」の様式に作庭記小堀遠州好みが窺えます。

 

 

(曲水の石組)

 

作庭記の造型理論は大和絵!!

「作庭記」の著者は藤原道長の孫、即ち関白頼道の子である橘俊綱であるというのが定説です。平安時代の中期、藤原文化の全盛期で、従って内容は、寝殿造り建築に即応した庭園の造り方や当時の造園手法を詳しく記した造園書です。その影響は大きく、平安中期は勿論のこと、末期から鎌倉初期にまで及び、庭園が形成される色々な要因として、当時の社会情勢や生活様式非常に重要であるが、さらに直接的なに影響を与えるのは、その時代に流行する絵画です。当時大きな支配力を持っていた大和絵の造形理論(思想)にかなり忠実で、平安後期の庭園を作庭記流庭園とか大和絵的構成の庭と言われています。

 

作庭記流の特徴は庭石による造形が極めて消極的、女性的で、石組が女性的であるためには石組を受ける地形、すなわち、野筋のすじ(女性の乳房のような形の低い築山)の起伏や池汀の輪郭も当然単純無変化で、作庭記流の要点は以下の通りです。

 

(駕籠石・駕籠のプラットホーム)

(瓢池の亀石)

 

「大和絵」の定義は、時代によって意味・用法が異っている。 平安時代から14世紀前後までは、画題についての概念であり、日本列島における故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物事物に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。 14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、平安時代に確立された伝統的絵画様式を大和絵と称するようになった。一方「唐絵」(漢画)は宋以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった。

 

 

(真弓坂上の石組・白っぽいのはメノウの原石)

 

① まろやかな曲線で囲まれた大きな池泉が庭の中央を広く閉めている。

② 中島の形は小判型で少しも角ばったところがなく、低い姿勢を示している。

③ ふっくらと盛り上がった野筋がゆるやかな傾斜をしめしている。

④ のどかな傾斜線が、そのままなだらかに池そこへつ

ながって行くので、池岸が直角に切り立ってなく、

池底も急角度に深くならない。

⑤ その最後の条文に「屋の軒」近くに三尺に余れる

のを立つる事特に憚るべし。

三年のうちに主変事あるべし。また石を逆さまに立

つと大いに憚るべし」と記しいる。

 

以上のように庭石を据えるに当って、あれも悪いこと

悪いと手も足もとも禁止するのでうかつに布石されない

ことになる。

   

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 他

作庭記と兼六園-下-②

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【兼六園】

23、或人口伝云

そわがけの石は、屏風を立てるがごとし。

すぢかへやり、とをよせかけたるがごと。きざハしをわたしかけたるがごとし。山のふもとならびに野筋の石ハ、むら犬のふせるがごとし。豕むらの、ハしりちれるがごとし。小牛の母にたハぶれたるがごとし。

凡石をたつる事ハ、にぐる石一両あれバ、をふ石ハ七八あるべし。たとへバ童部の、とてうとてうひひくめ、といふたハぶれをしたるがごとし。

石をたつるに、三尊仏の石ハたち、品文字の石ハふす、常事也。

又山うけの石ハ、山を切り立てん所にハ、おほくたつべし。しばをふせんにはに、つづかむところにハ、山と庭とのさかゐ、しバのふせハてのきはにハ、わすれざまに、たかからぬいしをすゑもし、ふせもすべき也。

又立石ニきりかさね、かぶりがた、つくゑがた、桶すゑといふことあり。

又石を立にハ、にぐる石あれバおふいしあり、かたぶくいしあれバささふるいしあり、ふまふる石あれバうくる石あり、あふげる石あれバうつぶける石あり、たてる石あれバふせる石あり、といへり。

 

 

(龍石の椿・石組み)

 

(訳:岨崖(そばがけ)の石は屏風を立てたように据えるべきです。あるいは斜めに立て違えたりして、戸をはずして立てかけた様に据えるべきです。それら石の気勢と気勢が交差することによって美的関連が生じます。

山のふもとや野辺の石は、群犬の様に据えたり、野豚が走り戯れている様に据えたり、子牛が母牛に甘えて戯れている様に据えます。

また、石を据える事は、逃げる石が一つあれば、追う石は八、七つ(逃げる石より数多く)あるべきです。例えば、鬼が狙う子供を取らせないようにする、鬼に対抗する側のみんながかばって防ごうとし、あちらこちらへなびくさまを、石の気勢の駆使によってあらわすように石を組めということです。

 

(三尊仏組の例)

 

石を三つ組むにも、三尊仏組だと品文字のように据えることが常で、何れも脇石は庭の広く空いている方が少し低めに据えるのが良い。

また、山留めの石は山を切り立てたような処に多く据えるべきです。芝生の庭に接続するところには、山と芝庭の境、つまり、芝生の終わるところによく気をつけねばわからないぐらいに、あまり高くない石を据えるのがよい。

また、立石は石かどの斜と斜を利用して組み合わせ、正面から見てすき間のないように重ね組ます。かぶる形はうつむきにかぶっている石の形。机形は机を据えたように、または机代りとし利用できるように上の平らな石を据えることです。桶すえは桶のくれ(側面)のように迫持(せりもち)になっており、背後から土砂の圧力を受ける場所に利用されています。

また石を据えるには、逃げる石があれば追う石があり、傾く石があればそれを支える石があり、踏みつける様な石があれば、踏みつけられる石があり、仰向いた石があれば俯(うつむ)いた石があり、立っている石があれば座っている石があるというように、変化がありながら、全体から見て、起伏、抑揚、間隔、大小、強弱のバランスがとれ有機的一体に見えるようにすべきです。)

 

 

(兼六園に何気なく立つ石)

 

兼六園では

一般的に、庭石の据え方として、山天平天があります。 山天は文字通り石の角の部分を頂点にする据え方で、平天は平らな面を上に向け、その面を水平にする据え方です。庭石を据える前に、まず据えようとする石の形や石理をよく見て、どのように据えたら、その石を最大限に生かし美しく据えることができるかをイメージすることが大切で、どの部分を天端にして、どこを見つき(石を据えたとき正面に見える側面部分。)とするか、どれくらいの高さに据えるか、ということです。そして、実際に据える際に最も基本になることは、どっしりと安定感がでるように据えることです。根入れをなるべく深くして、末広がりに石が大きく見えるよう据えます。“根が切れる”根を入れのが浅すぎると、石が浮いたように見え、実に不安定で、石が小さく見えてしまいます。なお、どう据えても根が切れてしまったり、顎等の石の欠点が見えてしまう場合は、その部分に添え石を宛がったり、下草などを添えて隠すようにします。

 

 

(七福神山に立つ石組)

 

五石、七石・・・と多数の石を組む場合でも、一石、二石組、三石組を基本単位として、組み合わせることによってまとめられます。 例えば五石組の場合は、「3・2」、「3・1・1」、「2・2・1」など、七石組では「3.3.1」,「3.2.2.」などの組み合わせが考えられます。 庭はこうした複数の石組みの集合体で、庭を構成する要素の気勢が強ければダイナミックな庭になり、おとなしく均一的な気勢をもっていれば、安定感のある落ち着いた庭になります。七五三石組(しちごさんいしぐみ)15の石を‘753)の3群の石組として配置し、全体を一つの構成として見せるもので,( 七五三は陽数として古来より目出度い数とされた。)

 

 

(からかさ山)

 

本項では、群犬の様に据えたり、野豚が走り戯れている様に据えたり、子牛母牛に甘えて戯れている様に据えます。また、逃げる石が一つあれば、それを追う石は八、七つ(逃げる石より数多く)を、例えば、鬼が狙う子供を取らせないようにし、鬼に対抗する側のみんながかばって防ごうとし、あちらこちらへなびくさまを、石の気勢を駆使するこによって表すように石を組めということです。

 

 

(山ノ上町心蓮社・心字池の周りの燈籠と三尊石)

 

「三尊石」とは、中央に中尊となる少し大きめの石を縦長に立て、左右に脇侍となる小さい二つの石を組んだもので、「三尊仏」を意匠した庭石組の基本となっています。金沢では山上の浄土宗心蓮社の庭の三尊仏が有名です。

 

(仏教の三尊仏(釈迦如来と文殊・普賢菩薩。阿弥陀如来と観音・勢至菩薩。薬師如来と日光・月光菩薩)になぞられて組まれた3個の立石。)

 

拙ブログ

心蓮社の開祖は長氏の生き残り

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11465262448.html

 

陰陽石

男根と女陰を象徴した石。子孫繁栄の願いを込めて組まれたもので、江戸時代の大名庭園で流行しました。 子孫繁栄は『御家』の存亡に直結していただけに、現代ほど医療が発達していなかった時代において世継ぎは多いほど安心でした。

(兼六園では、鶺鴒島にあります。)

 

拙ブログ

兼六園の鶺鴒島(せきれいしま)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11970841140.html

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 ほか

作庭記と兼六園-下-③

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【兼六園】

24、石の据え方。

《原文》石をバつよくたつべし。つよしといふは、ねをふかくいるべきか。但根ふかくいれたりといへども、前石をよせたてざれバ、よはくみゆ。あさくいれたれども、前石をよせつれバ、つよく見ゆるなり。これ口伝也。石をたててハ、石のもとをよくよくつきかためて、ちりバかりのすきまもあらせず、つちをこむべきなり。石のくちバかりにみたるハ、あめふれバすすがれて、つひにうつをになるべし。ほそき木をもちて、そこよりあくまでつきこむ也。

石をたつるにハ、おほくの禁忌あり。ひとつもこれを犯つれバ、あるじ常ニ病ありて、つひに命をうしなひ、所の荒廃して必鬼紙のすみかとなるべしといへり。

 

 

(栄縲山の石組み)

 

(訳:“石をバ、強く立つべし”は、崩れないよう深く据えるべきで、崩れないようにというのは石を深く入れてあるか、実際には堅固で根の浅い石より強いが、見た目には前石のある方が強そうにみえます。これは言い伝えです。

石を据えたならば、石の根元(土を)よく突き固めてすき間のないようにする。(表面)ばかり突き固めても、下(地中)すき間があれば大雨の時など下の隙間へ水と泥が入り、石の根元がゆるんで傾く原因となります。始めから一度に土を入れず、少しずつ土を入れながら三cmぐらいの細い棒で突き固め、地面近くになってから太い棒で突き固めるのが良い。石を据える上で多くの禁止事項があり、これを、一つでも犯すと主人が病気になり、命を失い、その家が荒廃して鬼の住み処となります。)

 

 

(兼六園の石組)

 

25、禁忌(石の禁止事項)

一もと立たる石をふせ、もと臥る石をたつる也。かくのごときしつれバ、その石かならず霊石となりて、たたりをなすべし。

一ひらなる石のもとふせたるを、そばだて、高所よりも下所よりも、家にむかへつれバ、遠近をきらはず、たたりをなすべし。

一高さ四尺五尺になりぬる石を、丑虎方に立べからず。或ハ霊石となり、或魔縁入来のたよりとなるゆへに、その所ニ人の住することひさしからず。但未申方に三尊仏のいしをたてむかへつれバ、たたりをなさずう。魔縁いりきたらざるべし。

一家の縁より高き石を、家ちかくたつべからず。これををかしつれバ、凶事たえずして、而家主ひさしく住する事なし。但堂社ハそのハバかりなし。

 

 

(霞ヶ池の亀頭石と護岸)

 

(訳:1.もと立っていた石をふせたり、もと臥せていた石を立てたりすると、その石が必ず霊石となって祟りをする。

2.平盤のもと伏せていたものを立てて、高所や低所からでも、家に向けるならば、遠近(近場、遠場に)問わず祟りをする。

3.高さ四尺・五尺もある石を東北に立てはいけない。或は霊石となり、悪魔が入ってくる足がかりとなるから、その家に人が永く住みつくことができない。但し南西に三尊仏の石をたてむかえれば祟りをしない。悪魔も入ってこない。

4.家の縁よりも高い石を、家の近くに立ててはならない。これを犯したならば、凶事が絶てないし、しかも家主は長く住む事ができない。但し社寺の堂舎ならばその祟りはない。

5.三尊仏の立石を、正しく寝殿に向けては成らない。)

 

(親不知)

 

兼六園では

兼六園では、霞ヶ池護岸、親不知によくこの石組みが有ります。また、山崎山の麓に閑散と置かれた石も“地下の竜宮城“より生え出た石の如くと、兼六園全史の筆者は表現しているように、地上の現れた部分は氷山の一角の如く見える石が多い。この石は強い。

 

 

(山崎山麓の石組)

 

また、禁止事項として祟りを呼ぶ石のことが書かれています。”もと、伏せていた石を高所からでも近所からでも家に向けて立てるなら祟りがあり“また、”家の近くに高い石を立ててはならない。それを犯せば凶事がたえない“”高さ45尺もある石を東北に立ててはならないが三尊仏を立てれば祟りはない“”など、石を立てるに辺り禁止事項が書かれています。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 ほか

作庭記と兼六園-下-④

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【兼六園】

26、禁忌(建築と石の関係においての禁止事項)

《原文》一、三尊仏の立石を、まさしく寝殿にむかふべからず。すこしき余方へむかふべし。これををかす不吉也 。

二、庭上に立る石、舎屋の柱のすぢにたつべからず。これををかしつれバ、子孫不吉なり。悪事によりて財をうしなふべし。

三、家の縁のほとりに大なる石を北まくらならびに西まくらにふせつれバ、あるじ一季をすござず。凡大なる石を縁ちかくふする事ハ、おおきにはばかるべし。あるじとどまりぢうする事なしといへり。

四、家の未申方(南西)のはしらのほとりに、石をたつべからず。これををかせば、家中ニ病事たえずといへり。

五、未申方(南西)に山ををくべからず。ただし道をとほらバはばかりあるべからず。山をいむ事ハ、白虎の道をふさがざらんためなり。ひとへに□てつきふたがん事ハ、ハバかりあるべし。

六、山をつきて、そのたにを家にむかふべからず。これおむかふる女子、不吉云々。又たにのくちを□むかふべからず。すこしき余方へむかふべし。

一臥石を戌亥方にむかへべからず。これををかしつれバ、財物倉にとどまらず、奴畜あつまらず。又戌に水路をとをざす。福徳戸内なるがゆへに、流水ことにハバかるべしといへり。

七、雨したりのあたるところに、石をたつべからず。そのとバしりかかれる人、悪瘡いづべし。檜皮のしたたりの石にあたれるその毒をなすゆへ也。或人云、檜山杣人ハ、おほく足にこ□病ありとか。

八、東方に余石よりも大なる石の、白色なるをたつべからず。其主ひとにをかさるべし。余方にもその方を剋せらむ色の石の、余石よりも大ならむを、たつべからず。犯之不吉也。

 

(三重の宝塔)

(三重の宝塔のある栄螺山の解説)

 

(訳:1、三尊仏の立石を、まっすぐに寝殿にむけてはならない。すこし他の方角に向ける。これを犯せば不吉です。

2、庭上に立てる石は、舎屋の柱の筋(見通し)に立ててはならない。これを犯せば、子孫に不吉です。悪事によって財を失うという。

3、家の縁のほとりに、大きな石を北へ頭を向けたり、西へ頭を向けたりして据えれば主人は一年も無事に過ごせない。およそ大きな石を縁近くふせることは、大いに憚らねばならない。主人がとどまり住むことがないと言われる。

4、家の南西(未申)の方角の柱のほとりに石を立ててはならない。これを犯せば、家中に病気が絶えないという。

5、南西(未申)の方角に山を置いてはならない。ただし道を通すならば憚らない。山を忌むことは白虎の道をふさがないためである。ひとえに(?)で、築きふさぐことは憚りがある。

6、やまを築いて、その谷を家に向けてはならない。これを向ければ、女子が不吉である。また谷のくちを(?)向けてはならない。少し他の方角へ向けるのがよい

7、臥せ石を北西の方角に向けてはならない。これを犯したならば、財物が倉にたまらないし、雇人も家畜もたまらない。また北西に水路を通さない。これは福徳が戸内にあるために、流水を殊の外憚らねばならない。雨垂の当たるところに石を立ててはならない。そのとばしりのかかった人は、悪瘡がでる。檜皮の滴りが石に当たるところが毒をなすからである。ある人が言うには、檜山の仙人は多く足に(?)病があるという。

8、東方に他の石よりも大きな石の、白色のものを立ててはならぬ。そこの主が人に犯されるのである。他の方角にも、その方角を打ち負かす目立った色の石で、他の石よりも大きなのを立ててはならぬ、これをおかせば不吉である。

 

 

(栄螺山より霞ヶ池)

 

兼六園では

石組みは、その時代背景に基づいた思想や祈念を表現します。 仏教の世界観をテーマに、須弥山、九山八海石組みで象徴したり、釈迦三尊・阿弥陀三尊・不動三尊など三石を用いて現わしたり、また、道教の影響を受けて蓬莱山や鶴亀などをかたどった石組が庭に組まれ常世の繁栄や長寿延年を祈念しました。現代の和風庭園にも、そのような石組の技法は踏襲されていますが、思想的な意味合いは薄れ、もっぱら自然風の佳景を表現するべく組まれることが多い。

 

 

(三尊石の例)

 

初期の兼六園は、11治脩公が易学を究めた儒者新井白蛾を学頭に向え藩校明倫堂を開学するが、白蛾、老齢のため3ヶ月足らずで病没のためか?易経の権威が学頭であるのに、兼六園は丑寅方面(北東)の鬼門もあまり考慮を払われていない。斉広公、斉泰公時代には、未申方(南西)に園内三尊仏として「蠑螺山(さざえやま)」が、また、丑寅方(北東)には「御室の塔(山崎山)」が造られますが、兼六園は、現在のような広範囲なものではなく、各期に於いて幾つかの庭が寄合わされ大きくなります。

 

 

(山崎山の御室の塔)

 

その一つ一つの丑寅方(北東)には、みなその時期じきに魔よけを施してあったものと思われます。最後に、兼六園が今の様な広さに完成した頃(斉泰公時代)には兼六園全体とした“三尊仏”を考慮したものと思われます。竹澤御殿未申方(南西)に当る「未申方(南西)に山を置くべばからず。但し道を通らば憚あるべからず」とあるから、思うに、霞ヶ池と竹澤御殿間大道があったらしく、これと池とにより、この不吉を取除いたものと「兼六園全史」の著者がお書きになっています。

 

 

(新井白蛾が学頭を勤めた明倫堂)

 

新井白蛾:加賀の人で、若くして易経を極めます。易経は、儒教の中心思想で、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説くもので、儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典で、加賀藩11代治脩公が藩校「明倫堂」を開講する寛政4年(17922月学頭に命じられ、藩主の待講を兼ねます。禄は300石を食み、別に職俸50石を賜っています。当時、すでに79歳だったので514514日持病の癪気のため病没。518、金沢野田寺町宝勝寺(現在の寺カフェ)で葬儀、野田山に葬られます。嫡子升平が200石で跡目相続し藩に仕えます。)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 ほか

作庭記と兼六園-下-⑤

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【兼六園】

27、禁忌 禁止事項

一名所をまねバんには、その名をえたらん里、荒廃したらば、其所をまなぶべからず。荒たる所を家の前にうつしとどめん事、ハバかりあるべきゆへなり。

一弘高云、石□荒涼に立べからず。石ヲ立にハ、禁忌事等侍也。其禁忌をひとつも犯つれバ、あるじ必事あり。其所ひさしからずと云る事侍りと云々。

山若河辺に本ある石も其姿をえつれバ、必石神となりて、成崇事国々おほし。其所に人久からず。但山をへだて、河をへだてつれバ、あながちにとがたたりなし。

一霊石は自高峯丸バし下せども、落立ル所ニ不違本座席也。如此石をバ不可立可捨之。

又過五尺石を寅方ニたつべからず。自鬼門入来鬼也。

 

(訳:1、名所を模写するには、その名を得たち地が荒廃したならば、その所をまねてはならぬ。荒れた所を家の前に写しとどめることは憚るべきことだからである。

2、弘高(先達か?)が言うに、石は荒涼に立ててはならぬ。石を立てるには禁忌のことなどがあり、その禁忌を一つでも犯すならば主人に必ず事故があり、そこは長く保たない、といったことがある。山または河辺に元あった石も、その姿を変えれば必ず石神となって祟りをなすことは国々に多い。その所には人が久しく居ない。但し山を隔てて、河を隔てて、遠くへはなれたならば、強いてと祟りはない。

3、霊石は高峰からころがし落としても、落ち立つ所に、本の座所に違わず立つのである。このような石を立ててはならぬ。捨てるべきである。また、五尺以上の石を東北東にたててはならぬ。鬼門から鬼が入り来るからである。

 

兼六園では

兼六園では、縮景として、近江八景(霞ヶ池)手取峡谷の黄門橋(白龍端)、那智の滝(翠滝)京・御室(山崎山辺り)等、国内の名所を模しているところが多い。特に加賀藩主は上京するごとに江州の景色を愛でているし、12代斉広公の後室真龍院は、京の前関白鷹司政凞の女です。また、12代斉広公・13代斉泰公は加賀宝生の完成者でもあり、100有余の謡曲は京都周辺の景色を謡ったものが多い、したがって京都辺りの名所を模したものが多いのでしょう。

(近江八景の竹生島を模した亀甲島(蓬莱島)霞ヶ池)

(近江八景・唐崎神社の松を移植)

 

28 禁忌 山の禁止事項

一荒磯の様ハ面白けれども、所荒て不久不可学也。

一嶋ををく事ハ、山嶋を置て、海のはてを見せざるやうにすべきなり。山のちぎれたる隙より、わづかに海を見すべきなり。

一峯の上に又山をかさぬべからず。山をかさぬれバ、崇の字をなす。水ハ随入物成形、随形成善悪也。然ば池形よくよく用意あるべし。

一山の樹のくらき所ニ、不可畳滝云々。此条は□あるべし。滝ハ木ぐらき所より落たる□そ面白けれ。古所もさのみこそ侍めれ。なかにも実の深山にハ、人不可居住。山家の辺などに聊滝をたくみて、其辺に樹をせん、はばかりなからむか。不植木之条、一向不可用之。

一宋人云、山むしハ河岸の石のくづれおちて、もとのかしらも根になり、もとの根もかしらになり、又そばだてたるもあり、のけふせるもあれども、さて年をへて色もかはりこけもおひぬるハ、人のしわざにあらず、をのれがみづからしたる事なれバ、その定に立も臥もせむも、またくはばかりあるべからず云々。

 

(近江八景の浮見堂を模した霞ヶ池の内橋亭)

 

(訳:1、荒磯の様は面白いけれども、ところが荒れて長く保てないから、学んではならぬ。

2、島を置くには、山島をおいて、海の崖の見えないようにするとよい。山のとぎれの間から、少し海を見せるべきである。

3、峰の上にまた山を重ねてはならない。山を重ねたならば、祟りの字をなすからである。水は入れ物に隨って形をなし、形に隨って善悪をなすものである。そうであるから、池の形はよくよく注意しなければならない。

4、山の樹の暗い所に、滝を畳んではならない。この条の解釈には差がある。滝は木ぐらい所から落ちることこそ面白い。古所も専らそのようになっている。中にも実際の深山には、人が居住することは出来ない山家の辺などに、いささか滝をこしらえて、その辺に樹を植えることに憚はないであろう。樹を植えないという条は、一向に用いる必要がない。

5、宗の人がいうに、山または河岸の石が崩れ落ちて、断崖や谷底にあるものは、古くから崩れ落ちて、もとの頭も根になり、もとの根も頭になり、また峙っているものもあり、仰向けに臥せるものもあるけれども、さて年を経て色も変わり、苔も生えているのは、人の仕業ではなく、石が自分自身でしたことであるから、その定めによって、立てるも臥せるも全く憚りはない。)

 

(山崎山の御室の塔)

 

禁忌(きんき)とは、「してはいけないこと」の意。タブーとしての禁忌には道徳的な含みがあるのに対して、他の用例では、技術的、科学的な根拠によって禁じられている。

 

兼六園では

1、新磯の様態は面白いが、荒れているところを学ぶべきではない。

2、島を置く事は、山島を置いて海の果てを見せないようにするべきで、山のちぎれた隙間から、わずかに海を見せるべきである。

3、峯の上に、また、山を重ねてはならない。山を重ねるのは「祟」の字を作ってしまう。水は入るものに従って形を成し、善悪というのは形の成り立ちに従うのである。だから池の形というのはよくよく用意しておくべきである。

4、山の樹木の暗いところに、畳滝は駄目であるという。この条は(再検討?)すべきである。滝は木で暗い所から落ちている様子が面白いのである。古い所も、そのように侍っている。なかにも本当の深山には人は住めない。山家の辺などに聊滝を(たくみて=巧妙に配置して?)そのあたりに樹を植える、などというのは、憚り(遠慮)がないのではあるまいか。不植木という条項は、一向に用いるべきでない。

5、宗人が言うには、山もしくは川岸の石が崩れ落ちて、もとの頭も根になり、もとの根も頭になり、又、そばだてたというのもある。のけ臥せるというのもある。だが、歳を経て色も変わり、コケも覆うというのは人の仕業ではない。己が自らしたことであれば、その定めによって立ても臥せもしようが、そうではないので、まったく憚り(遠慮)ありようがないと云う。(実際に兼六園では、趣味優先で、科学的な根拠は・・・?)

 

(噴水)

 

この項では、具体的に禁忌(タブー)が上げられています。今の兼六園では、当時、禁忌(タブー)としか思えない「噴水」が、今は人気のスポットになっています。禁忌(タブ-)は、先例や先達が示した事なのでしょう。作庭記を含め東洋や日本の伝統では、造園は、自然に従い自然に逆らわないという思想から、自然は、時代と共に変化しても有るがままの自然に、手を加えることを敢えて避けてきたのでしょうか?

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 ほか


作庭記と兼六園-下-⑥

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【兼六園】

29、禁忌 水の禁止事項

《原文》一池はかめ、もしハつるのすがたにほるべし。水ハうつはものにしたがひてそのかたちをなすものなり。又祝言をかなにかきたるすがたそなど、おもひよせてほるべきかなり。

一池ハあさかるべし。池ふかけれバ魚大なり。魚大なれバ悪虫となりて人を害□。

一池に水鳥つねにあれバ、家主安楽也云々。

一池尻の水門は未申方へ可出也。青竜の水を白虎の道へむかへて、悪気をいだすべきゆへなり。池をバ常さらさらふべきなり。

一戌亥方に水門をひらくべからず。これを寿福を保所なるゆへなり。

一水をながすことは、東方より屋中をとおして、南西へむかって、諸悪気おすすがしむるなり。是則青竜の水をもて諸悪を白虎の道へ令洗出也。人住之ば、呪詛をはず、悪瘡いでず、疫気なし、といへり。

 

 

(霞ヶ池より、亀甲島(蓬莱島)を望む)

 

(訳:1、池は亀または鶴の形に掘るのがよい。水は器物に従ってその形を成すものである。また祝言を仮名に書いた姿だなどと考えて掘るべきである。

2、池は浅い方がよろしい、池が深ければ、魚が大きくなる。魚が大きければ、悪虫となって人を害するからである。

 

(霞ヶ池の水抜き)

 

(霞ヶ池は、現在面積は約58002、深さは最も深いところで1.5あります。)

 

(池の水鳥)

 

3、池に水鳥が常にいれば、家主は安楽である。

4、池尻の水門は、南西(未申)へ出すべきである。青竜の水を白虎の道へ迎えて悪気を出すからである、池は常によく浚わなければならない。

 

(やり水(曲水)の清掃)

 

5、北西(戌亥)に水門を開いてはならぬ。北西は寿福を保つところである。

6、水を流すことは、東方から屋中を通して、南西(未申)へ向かえて諸悪気をすすがせるのである。これはすなわち青竜の水で、諸悪を白虎の道へ洗い出すのである。人がここに住めば咒咀(呪咀・じゅそ)を受けず、悪瘡がでず、病気がないという。)

 

(以上、四神相応的思想が強く働いています。)

 

 

(瓢池の鶴亀島)

 

兼六園では

霞ヶ池の蓬莱島は別名亀甲島ともいい、島が亀の形をしています。同じ兼六園の瓢池にも鶴亀を配していて、鶴を模した松の木があります。文政の頃、竹澤御殿の出仕し、後に金森宗和流を継ぐ、今の桜橋にあった2000石取りの九里家の庭にも有ったという。鶴亀を配するのは、陰陽道と云うか神仙思想の庭造りの定形であったようです。しかし兼六園全史の作庭記の筆者(山森青碩翁)によると、金沢では、古来亀形石を商うことを庭師は嫌ったが、これは作庭上忌むべきからと云うべきである。と書かれています。

 

 

 

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 ほか

作庭記と兼六園-下-⑦

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【兼六園】

30、禁忌 石の禁止事項

《原文》一石をたつるに、ふする石ニ立てる石のなきは、くるしみなし。立る石ニ左右のわき石、前石ニふせ石等ハ、かならずあるべし。立る石をただ一本づつかぶとのほしなんどのごとくたてをくことは、いとおかし。

一ふるきところに、をのづからたたりをなす石なんどあれバ、その石を剋するいろの石をたてまじへれバ、たたりをなす事なしといへり。又三尊仏の立石をバ、とをくたてむかふべしといへり。

一屋ののきちかく、三尺ニあまれる石を立ること、大ニはばかるべし。東北院ニ蓮仲法師がたつるところの石、禁忌ををかせることひとつ侍か。

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

(訳:1、 石を立てるに、臥す石に立つ石ないのは差し支えないが、立つ石に左右の脇石、前石としての臥せ石などは、必ずなければならない。立つ石をただ一本ずつ、兜の星などの様に建てて置くことは、誠に笑うべきことである。

2、 古い場所に、自然と祟りをする石などがある時には、その石を打ち負かせる色の石を立て替えるならば、祟りをすることがないと言われている。また、三尊仏の立石を、遠く立て迎えるようにと言われている。

3、 家屋の軒近くに、三尺に余る石を立てることは、殊に憚からねばならぬ。三年のうちに主人は変事が起こるであろう。また、石を逆様に立てることはおおいに憚らねばならない。東北院に蓮仲法師が立てた所の石に、禁忌を犯したことが一つあるとか。)

 

兼六園では

本項には、兼六園に関することが無いことから、ここでは脱線。橘俊綱が「作庭記」の著者だと考える上で見逃せない事があるので調べます。“東北院に蓮仲法師が立てた所の石に、禁忌を犯したことが一つある”言ったのは誰なのだろうか!?推察すると?蓮仲法師が東北院石立てした以後の人物である事は間違いないことから、その石立てを「禁忌を犯している」と判断できる“作庭力の持主”で、それを公言できるだけの地位の人物であることが浮かんできます。現在の研究では、その人物は、宇治殿(橘俊綱)にしぼられています。次項では、さらに詳しく説いています。

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

31

《原文》或人のいはく、人のたてたる石ハ、生得の山水ニはまさるべからず。但おほくの国々をみ侍しに、所ひとつにあはれおもしろきものかなと、おぼゆる事あれど、やがてそのほとりに、さうたいもなき事そのかずありき。人のたつるにハ、かのおもしろき所々ばかりを、ここかしこにまなびたてて,かたはらにそのごとくなき石、とりおく事ハなきなり。

石を立るあひだのこと、年来ききをよぶにしたがひて、善悪をろんぜず、記置ところなり。延円阿闍梨ハ石をたつること、大旨をこころえたりといへども、風情をつたへえたり。如此あひいとなみて、大旨をこころえたりといへども、風情つくることなくして、心なんどをみたるばかりにて、禁忌をもわきまえず、をしてする事にこそ侍めれ。高陽院殿修造の時も、石をたつる人みなうせて、たまたまさもやとて、めしつけられたりしものも、いと御心にかなはずとて、それをバさる事にて宇治殿御みづから御沙汰ありき。其時には常参て、石を立る事能々見きき侍りき。そのあひだよき石もとめてまいらせたらむ人をぞ、こころざしある人とハしらむずると、おほせらるるよしきこえて、時人、公卿以下しかしながら辺山にむかひて、石をなんもとめはべりける。

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

(訳:或人の曰く、人の立てる石は、生得の山水に勝りようがないという。但、多くの国々を見て回り、その1つに“あはれおもしろきものかな”と感動したことがあっても、やがてそのほとりに、周辺にはたいしたことのない石の風景が無数にあることが見えてくるはずで、人が石を立てる際には、そのおもしろいところばかりをここかしこに真似て立てるわけで、かたわらに、普通の石の風景を取り置くということはない。

石を立る間のことは、年来聞き及んだことに従い、善悪を論ずることはなく、記し置いたところにある。延円阿闍梨は、石を立てることの大旨をこころえてはいたが、風情をつたへえたり。如此あひいとなみて、大旨をこころえたりといへども、風情つくることなくして、心の形なんどを見ただけで、禁忌をもわきまえず、高陽院殿修造の時も、石を立てる人みな失せて、たまたまさもやとて、めしつけられたりしものも、いと御心にかなはずとて、それをばさる事にて宇治殿(橘俊綱)御自ら御沙汰ありき。其時には常参(常に来る)て、石を立る事能々見きき侍りき。そのあひだよき石もとめてまいらせたらむ人をぞ、志ある人とは、しらむずると、おほせらるるよしきこえて、時人、公卿以下しかしながら辺山にむかひて、石をなんもとめはべりける。)

 

 

(写真は「山水並びに野形図」兼六園全史より)

 

兼六園では

この項では、加賀藩でもう一つの重要な造園資料「山水並びに野形図」の巻末の系図に出てくる延円阿闍梨「作庭記」高陽院殿修造の事情が書かれていますので、今回はその事について記します。「作庭記」の「高陽院殿修造の時も、石をたつる人みなうせて?それをばさる事にて、宇治殿御みづから御沙汰ありき。その時には常参りて、石を立る事能々見きき侍りき」という文章でありますが、高陽院の修造は、数度ありますが、宇治殿(橘俊綱)の父藤原頼通の死(承保元年(1074)以前)では、長暦3年(1039)の炎上では長久3年(1042)の再建。天喜2年(1054)の焼亡では康平3年(1060)に再建がされます。資料によると、長暦3年は炎上で、3年ばかり後に早くも行幸がある程の再建がなっています。しかし、天喜2年(1054)の焼亡の折は、その再建は6年後のこととなっています。恐らくこの工事こそ、「作庭記」の著者が、「石を立てること、能々見きき侍りき」した時であろう?宇治殿(橘俊綱)のそばで、石立てのことを見聞きできる人物?延円阿闍梨以後の人物?巨勢弘高とほぼ同年代、もしくはそれ以後の人物?前回の記しましたが、蓮仲法師による東北院石立て以後の人物で、その石立てを「禁忌を犯している」と判断できる作庭力の持主であるとともに、それを公言できるだけの地位の人物と云う結論がみえてきます。「作庭記」が纏め上げられるまでには、絵師の巨勢家(弘高)や宋人などからの伝承、延円阿闍梨からの伝承等々、幾つかの秘伝書があって、これを集約したのが「作庭記(前栽秘抄)」ということになるのでしょう。

と云うことから“作庭記”の著者は宇治殿(橘俊綱)と云うことなる??

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

延円阿闍梨(?1040) 平安時代中期の絵仏師。藤原義懐(よしちか)の子。法成寺薬師堂の柱絵,高陽院(かやのいん)の屏風(びょうぶ)絵などをえがく。また造園にもすぐれた。現存する作品はないが,醍醐(だいご)寺の「不動明王図巻」の中に延円のかいた2童子像の写しがのこる。長久元年死去。通称は飯室阿闍梨(あじゃり),絵阿闍梨。名は縁円ともかく。

 

高陽院(賀陽院):平安京の中御門大路南、大炊御門大路北にあった、桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅。後冷泉(ごれいぜい)・後三条天皇の里内裏(さとだいり)ともなり、のち藤原頼通の邸となる。貞応2年(1223)焼亡。

 

山水並野形図(せんずいならびにのがたのず)室町時代中期に編纂されたと考えられる庭園に関する秘伝書。著者は未詳。日本では「作庭記」に次いで古い。鎌倉時代以後の庭園の新しい展開を背景にしていると考えられる。「兼六園全史」によると、応仁の乱直前の書写で、応仁の乱直後、前田家初代利家公の室松(芳春院)が京の残存古典資料を買い集めた物の中に有ったもので、以後、「作庭記」と共に前田家造園資料として藩の諸庭の造園に多大な影響を与えた。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「図解庭師が読みとく作庭記・山水并野形図」他

作庭記と兼六園-下-⑧

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【兼六園】

32、樹事 宅相にもとづいて、各種の木の配置の方法を述べる。

《原文》人の居所の四方に木をうゑて、四神具足の地となすべき事 

経云、家より東に流水あるを青竜とす。流水なもしそのけれバ、柳九本をうゑて青竜の代とす。西に大道あるを白虎とす。若其大道なけれバ、楸七本をうゑて白虎の代とす。

南側に池あるを朱雀とす。若その池なけれバ、桂七本うゑて朱雀の代とす。

北後にをかあるを玄武とす。もしその岳なけれバ、檜三本うゑて玄武の代とす。かくのごときして、四神相応の地となしてゐぬれバ、官位福禄そなはりて、無病長寿なりといへり。

凡樹ハ人中天上の荘厳也。かるがゆヘニ、孤独長者が祗陀(洹)精舎をつくりて、仏ニたてまつらむとせし時も、樹のあたひにわずらひき。しかるを祗蛇太子の思やう、いかなる孤独長者か、黄金をつくして、かの地しきみてて、そのあたひとして、精舎をつくりて、尺尊ニたてまつるぞや。我あながちに樹の直をとるべきにあらず。ただこれを仏にたてまつりてむとて、樹を尺尊にたてまつりをはりぬ。かるがゆへに、この所を祗園給孤独薗となづけたり。祗蛇がうゑにき孤独がその、といへるこころなるべし。秦始皇が書を焼き、儒をうづみしときも、種樹の書おばのぞくべしと、勅下したりとか。仏ののりをとき、神のあまくだりたまひける時も、樹をたよりにとしたまへり。人屋尤このいとなみあるべきとか。

 

(現在の七福神山)

(幕末期の七福神山・今は無い柳の木があります。)

 

(訳:人の居所の四方に木を植えて四神具足の地とすること。天象と合致する地相、庭相の地とする。経に云う、家より東に流水あるを青竜とする。もしその流水がなければ、柳を九本植えて青竜の代りとする。西に大道のあるのを白虎とする。もしその大道がなければ(キササゲ)七本をうえて白虎の代りとする。南の前に池のあるのを朱雀とする。もしその池がなければ、桂九本を植えて朱雀の代りとする。北後に丘があるのを玄武とする。もしその丘がなければ、桧を三本植えて玄武の代りとする。かようにして四神相応の地として住むならば、官位福禄がそなわって無病長寿であるという。凡そ樹は人間世界、天上界における最も荘厳なものである。だから孤独長者が、祇陀太子所有の土地を買い、祇園精舎をつくって、仏に奉ろうとした時も、樹を買ったり運んだりする費用を措しいと思い心をなやました。それをきいた祇陀太子が思うよう、「孤独長者はどんな人物だったのだろうか、彼が財力にものをいわせて、地に敷き満たした土地分で、精舎をつくり、釈尊に献上するとは。自分(祇陀太子)は、むやみに樹木の対価を採るべきではない。対価をとらず、樹を釈尊に献上するのである。だからこの場所を祇樹給孤独園と名づけてのであり、秦の始皇帝が書物を焼き捨て、学者を生き埋めにしたときでさえ、樹のことを書いた書物だけは焼かないように命じたという。仏が法を説いたときは菩提樹下で行い、久遠里の命が錦津見神の宮へ下りた時も、井戸ばたのユスカツラヘまずおりられた。人の住居には樹を植えることが最も大切である。)

 

孤独長者:須達長者のこと。孤独の人を哀れみ施しを行なったことから、給孤独長者、孤独長者と呼ばれた。

祇園精舎:須達長者が舎衛国の庭園を買って、釈迦の為に施入した寺院。

 

(現在の兼六園地図に四神相応図を置いてみる?)

 

33、樹事 四神以外の木の配置の方法、禁忌についての説明。

《原文》樹は青竜白虎朱雀玄武のほかハ、いづれの木をいずれの方にうへむとも、こころにまかすべし。但古人云、東ニハ花の木をうへ、西ニはもみぢの木をうふべし。若いけあらば、嶋ニハ、松柳、釣殿のほとりニハかへでやうの、夏こだちすずしげならん木をうふべし。

槐ハかどのほうにうふべし。大臣の門に槐をうゑて槐門となづくること、大臣ハ人を懐て、

帝王につかうまつらしむべきつかさとか。門前に柳をうふること、由緒侍か。但門柳ハしかるべき人、若ハ時の権門にうふべきとか。これを制止することハなけれども、非人の家に門柳うふる事ハ、みぐるしき事とぞ承侍し。つねにむかふ方ニちかく、さかきをうふることは、はばかりあるべきよし承こと侍りき。門の中心ニあたるところに木をうふる事、はばかるべし。閑の字になるべきゆへなり。方円なる地の中心に樹あれバ、そのいゑのあるじ常にくるしむことあるべし。方円の中木ハ、因の字なるゆえなり。又方円地の中心ニ屋をたててゐれば、その家主禁ぜらるべし。方円中ニ人字あるハ、因獄の字なるゆへなり。

如此事にいたるまでも、用意あるべきなり。

 

訳:樹は青竜・白虎・朱雀・玄武のほかは、いずれの樹をいずれの方に植えようとも、思うままでよい、但し古人が云うには、東には花の木を植え、西には紅葉の木を植えよということである。もし池あらば、その島には、松や柳を植え、釣殿の近くには楓類の夏に木立が生い茂り、涼しそうな木を植えるのがよい。槐(えんじゅ)は門のほとりに植えるべし、大臣の門に槐(えんじゅ)を植えて、槐門(カイモン・大臣の門の別称)というのは、大臣は人を懷(なげ)て、帝王にお仕え申し上げる役目だからろいう。(槐は懷と同音か?)門前に柳を植えることに、いわれはあるだろうか?特別にはないけれど、ただ、門前の柳は、それ相当の高貴な人や、あるいは高位高く、権勢ある家柄の所に植えるのが良いようです。門前に柳を植えるのが良いようです。門前に柳を植えることに、反対する分けではないが、下層の人の家の門前に柳を植えることはみっともないことであると伺ったこともある。また、日常さし向う方向の近くに、榊(さかき)を植えることも、かならず障りがあると、門の中央にあたるところに木を植えることも、障りがあるであろう。「閑」の字になっていまからである。方形円形の土地の中央に、樹木あれば、その建物の主人は、常に苦しみごとが絶えないであろう。方形円形の内には「困」の字だからである。また、方形円形の土地の中央に、覆屋を建てて、とどまっていれば、そこの主人は拘束されるであろう。方形円形の内に人字があれば、「因獄」の字だからである。このようなことに至るまでも、遠慮することが必要である。

 

(真弓坂上にキササゲ)

(兼六園瓢池のキササゲ・他に2本山崎山の下にあります)

 

キササゲ:長さ30cmもの豆のような実が、冬の間じゅう枝先にぶら下がり、中国を原産地。野生化したものが日本の各地で見かけ兼六園にも4本あります。実の形がササゲ(豆)に似た木であることから名付けられ、他にアズサ(梓)と呼ばれることもあるが、本種は数あるアズサと呼ばれる木のうちの一つに過ぎない。 葉をはじめ、全体に大振りで、個人邸で使われることは少ないが、利尿作用のある実を乾燥させて生薬(梓実=シジツ)に使うことでかつて植えられたらしい。6月~7月にかけてクリーム色の花が、キリ(桐)のように立ち上がる。直径は2cm程度だが、内側に紫色の斑点があって美しい。

 

兼六園では

清竜、白虎、朱雀、玄武の他はいずれの木をいずれの方に植えむとも心に任ずべし。に云うには、屋敷の東に有る流水を青竜とし、もしその清流がなければ柳の木を九本植えて、その代用とする。西に大道のあるのを白虎とする。もしその大道がなければ、(キササゲ)七本をうえて白虎の代りとする。南の前にのあるのを朱雀とする。もしその池がなければ、桂九本を植えて朱雀の代りとする。北後にがあるのを玄武とする。もしその丘がなければ、桧を三本植えて玄武の代りとする。とありますが、兼六園では、辰巳用水の取り入れ口が東にあり、四神相応に適っていますが、東以外は、前にも記しましたが、時代により、敷地も範囲にも変化があり、残念ながら上記に条件には適っていましんが、現在も、(キササゲ)やの木は何本か存在し、柳は幕末の絵図に残っています。

 

(東の桜)

(西の紅葉)

 

作庭記には東に花の木を植え、西の紅葉の木を植うべしと記していますが昔の兼六園はともかく、今の兼六園は本項の通りになっています。千歳台以東は桜(旭桜・塩釜桜・菊桜など)や杜若、ツツジ、皐月の花の園になり、西は瓢池周辺には紅葉が多いまた、園内島はきまりきった松の木がある(蓬莱島(亀甲島)・鶺鴒島)、思うに植木は枯れる、また、伐ることも出来る、兼六園では、何時の時代も作庭記に注意し、改良が出来るようにしてきたのでしょう。

 

(松の木の蓬莱島(亀甲島))

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「図解庭師が読みとく作庭記」小埜雅章著 (株)学芸社 20085月 ほか

作庭記と兼六園-下-⑨

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【兼六園】

34、一、泉事

《原文》人家ニ泉ハかならずあらまほしき事也。暑をさること泉にハしかず。しかれバ唐人必つくり泉をして、或蓬莱をまなび、或けだもののくちより水をいだす。天竺にも須達長者祗洹精舎をつくりしかバ、堅牢地神来て泉をほりき。すなはち甘泉是也。吾朝にも、聖武天皇東大寺をつくりたまひしかバ、小壬生明神泉をほれり。絹索院の閼伽井是也。このほかの例、かずへつくすべきにあらず。泉ハ冷水をえて、屋をつくり、おぼいづつをたて、簀子をしく、常事なり。冷水あれどもその所ろ泉にもちゐむこと便宜あしくは、ほりながして、泉へ入べし。あらはにまかせいれたらむ念なくハ、地底へ箱樋を泉の中へふせとおして、そのうへに小づつをたつべきなり。若水のありどころ、いずみより高き所ニあらば、樋を水のいるくちをバ高て、すゑざまをバ次第ニさげて、そのうゑに中づつをすふべし。ただしそのつつよりあまりいづるなり。ふせ樋ハ、やきたるかわらもあしからず。

作泉にして井の水をくみいれむニハ、井のきはに大きななる船を台の上に高くすゑて、そのしたよりさきのごとく箱樋をふせて、ふねのしりより樋のうへハ、たけのつつをたてとをして、水をくみいるれバ、をされて泉のつつより水あまりいでてすずしくみゆるなり。

泉の水を四方へもらさず、底へもらさぬしだい。先水せきのつつのいたのとめを、すかさずつくりおおせて、地のそこへ一尺ばかりほりしづむべし。そのしづむる所は、板をはぎたるおもくるしみなし。底の土をほりすてて、よきはにつちの、水いれてたわやかにうちなしたるを、厚さ七八寸ばかりいれぬりて、そのうへにおもてひらなる石をすきまなくしいれしいれならべすゑて、ほしかためて、そのうへに又ひらなる石のこかはらけのほどなるをそこへもいれず、ただならべをきて、そのうへに黒白のけうらなる小石をバしくなり。

一説、作泉をば底へほりいれずして、地のうへにつつを建立して、水をすこしものこさず、尻へ出すべきやうにこしらうべきなり。くみ水ハ一二夜すぐれバ、くさりてくさくなり、虫のいでくるゆへに、常ニ水をばいるるなり。地上ニ高くつつをたつるにも、板をばそこへほりいるべきなり。はにをぬる次第、さきのごとし。板の外のめぐりをもほりて、はにをバいるべきなり。簀子をしく事ハ、つつの板より鼻すこしさしいづるほどにしく説あり。泉をひろくして、立板よりニ三尺水のおもへさしいで、釣殿のすのこのごとくしく説もあり。これハ泉へおるる時、したのこぐらくみえて、ものおそろしきけのしたるなり。但便宜にしやがひ、人のこのみによるべし。当時居所より高き地ニほり井あればバ、その井のふかさほりとをして、そこの水ぎはより樋をふせ出しつれバ、樋よりながれいづる水たゆる事なし。

 

 

(成巽閣裏の井戸)

 

(訳:住まいには泉がなくてはならないものである。暑さを避けるには泉にこしたものはない。それだからこそ唐人は必ず人口的な泉をつくり、蓬莱にヒントをえたり、或いは獣の口から水を出したりしている。天竺にも須達長者祇池精舎をつくったところ、堅牢地神がやって来て泉を掘った。甘泉がすなわちそれである。我が国でも聖武天皇が東大寺をつくったので、小壬生明神が神泉を掘った。羂索院(けんさくどう)の閼伽井(あかい)がそれである。このほかにもその例が数えきれないほどである。

(屋)は、冷水を確保してから覆屋をつくり、大井筒を立て、簀子(すのこ)縁を敷くのが一般的で、冷水があっても遠いとか不便なところであれば、流し来たって便利な手近の泉へ導く方がよい。開渠にするのが都合が悪ければ、地中へ箱樋を水源から泉まで伏せ通して来て、その上へ小高をたつべきである。もし水源が泉よりも高ければ水のとり入れ口の樋を水源の水位のゆるす限り高くして、それよりも泉の方を低くし、そのうえに中筒を据えればよい。但し、その中筒の高さを水源の水位より、ちょっと低くすれば、その水源の水がふき出て中筒からあふれるのである。土中に埋める臥せ樋は、永持ちさせようと思えば、石を蓋覆いにして、かぶせるとよい。もしくはよく焼いた瓦でも悪くない。)

 

羂索院(けんさくどう):東大寺建築で、天平勝宝4年(752)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂です。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、現在も法華堂、また三月堂ともよばれるようになります。閼伽井(あかい)は仏に供える閼伽の水をくむ井戸

 

(小糸の桜)

 

兼六園では

兼六園の井戸で有名なのは、千歳台に井戸の中から桜が顔を出している桜があります。兼六園にある400本の桜の中で、風変わりで異端とも言われていますが、井戸はかなり深い本物の井戸で、「小糸の桜」という伝説の桜と井戸です。

「昔々、小糸という美貌の女中がいて、お殿様から寵愛を受けますが、小糸は従わずお手打ちにされ、井戸に投げ込まれたという、彼女は恨みを込めて桜になったというお話です。何時の頃から云われたかは不明ですが、これに似た話には、あの有名な「番丁皿屋敷」など、恨みが亡霊となり、夜な夜な鬼にあり出るという凄みある伝説が全国各地に多くありますが、兼六園では、美しい桜に生まれ変わり人々に愛される優雅な話になっています。」

 

 

 

(兼六園の井戸)

 

「兼六園全史」兼六園と作庭記の項には、現在園内の井戸が10箇所ある(内湧水2ヶ所也)、竹澤御殿絵図面(魚泡洞版)を見るに井戸の数が極めて多い。また、若水のかけひ(筧)も限りない。と書かれています。一般的には藩政初期の辰巳用水の完成により、金沢城の空堀は水濠になり、防衛上にも多大な役割を果たし、同時に城内の飲料水の供給という大きな役目も担った?と伝えられていますが、どうも、藩政期を通して、金沢城や竹澤御殿の飲料水は井戸だったようです。

 

(竹澤御殿図)

 

そして、特に成巽閣裏門西南の井戸は良井であったので、成巽閣ではこの水脈を辿って掘ったところ、これもまた良井であるとのことであると書かれています。

 

 

(成巽閣の裏・赤門)

 

石川県金沢城調査研究所所長の木越隆三木越隆三氏の「辰巳用水誕生の新説」によると、江戸時代の文献には、辰己用水が飲料水に使われたと云う記録がなく、飲料水は井戸であったとある。(平成21年(2009122日北国新聞投稿)

 

 

(今の兼六園から金沢城)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「図解庭師が読みとく作庭記」小埜雅章著 (株)学芸社 20085月 ほか

作庭記と兼六園-下-⑩

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【兼六園】

35、作泉 水の汲み方、泉の施工特に側面底面の工法の説明。

作泉にして井の水をくみいれむニハ、井のきはに大きななる船を台の上に高くすゑて、そのしたよりさきのごとく箱樋をふせて、ふねのしりより樋のうへハ、たけのつつをたてとをして、水をくみいるれバ、をされて泉のつつより水あまりいでてすずしくみゆるなり。

泉の水を四方へもらさず、底へもらさぬしだい。先水せきのつつのいたのとめを、すかさずつくりおおせて、地のそこへ一尺ばかりほりしづむべし。そのしづむる所は、板をはぎたるおもくるしみなし。底の土をほりすてて、よきはにつちの、水いれてたわやかにうちなしたるを、厚さ七八寸ばかりいれぬりて、そのうへにおもてひらなる石をすきまなくしいれしいれならべすゑて、ほしかためて、そのうへに又ひらなる石のこかはらけのほどなるをそこへもいれず、ただならべをきて、そのうへに黒白のけうらなる小石をバしくなり。

 

(虹橋前の金沢城二ノ丸に上げる、用水の取入口遺構)

 

一説、作泉をば底へほりいれずして、地のうへにつつを建立して、水をすこしものこさず、尻へ出すべきやうにこしらうべきなり。くみ水ハ一二夜すぐれバ、くさりてくさくなり、虫のいでくるゆへに、常ニ水をばいるるなり。地上ニ高くつつをたつるにも、板をばそこへほりいるべきなり。はにをぬる次第、さきのごとし。板の外のめぐりをもほりて、はにをバいるべきなり。簀子をしく事ハ、つつの板より鼻すこしさしいづるほどにしく説あり。泉をひろくして、立板よりニ三尺水のおもへさしいで、釣殿のすのこのごとくしく説もあり。これハ泉へおるる時、したのこぐらくみえて、ものおそろしきけのしたるなり。但便宜にしやがひ、人のこのみによるべし。当時居所より高き地ニほり井あればバ、その井のふかさほりとをして、そこの水ぎはより樋をふせ出しつれバ、樋よりながれいづる水たゆる事なし。

 

 

(翠滝上の大きな器(船)

 

(訳:人工の湧水装置は作泉をつくって井戸の水を汲み入れるには、井戸の脇に大きな器(船)を台の上に高く据えて、その下から、先にのべたように箱樋を伏せ器(船)の尻から樋の上までは竹の筒を立て通して水を汲み入れれば、泉の筒から水が出て涼しく見える。泉の水を脇へも底へも漏らさないようにするには、まず井戸を堰き止める筒の板のとめ(角落し)を、隙のないように造って、地の底へ一尺ばかり掘り沈める。その沈めるところは、板を繋ぎ合わせたものでも差しつかえない。底の土を掘り捨ててよい粘土へ水を加え柔かに捏ねたものを厚さ78寸ばかりに塗って、その上に面の平な石を隙間なく押し込んで並べ、それを干し固めてから、その上へまた平な石の45寸くらいのものを、ただ並べて、更に白黒のきれいな小石を敷くのである。一説につくり泉を土中へ掘り入れずに、地の上に筒をたて、水を使えば底まできれいに水が無くなるように造ってもよいとある。)

 

翠滝の上、升の上に簀子(すのこ)

 

兼六園では

兼六園内大升2(翠滝の上、虹橋の上)辰巳用水の石管で、翠滝上は金谷御殿等へ、虹橋上は金沢城への流水口です。作庭記での(井の傍らに大きな船様のものを台上に乗せて筧(かけひ)用として出す。「水堰」)です。升の上に簀子(すのこ)が敷いてあります。

 

(虹橋上の升の上に簀子(すのこ)

 

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「図解庭師が読みとく作庭記」小埜雅章著 (株)学芸社 20085月 ほか

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