Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

真松商売と“七木の制”

$
0
0

【加賀藩金沢城下】
藩政期、金沢でも仏教の葬式や年忌法要、正月には仏花として松花が使われ、特に正月には、武家も町家も、真の若松(真っ直ぐ上に伸びた松の若木)が必要とされ、この松を使うことは神仏の区別がなかったといわれています。


市民が見つける金沢再発見
(真松のイメージ))


一方、元禄16年(1703)の古文書(石黒傳六家文書)には、”真松商売禁止に付触書”があり、松の密かな販売や郡方より売りに来たものを買い取ることを禁止するお触れで、加賀藩の松など七つの樹木の伐採を禁ずる“七木の制“によるもののようです。



市民が見つける金沢再発見
(仏花)


別の古文書によると、元禄16年(1703)より先か後かまではよく分かりませんが、一部の業者に”真松商売“を許可していたことを思わせる記述があります。何しろ当時、金沢の人口は、すでに10万人を超え、松花は許可された業者以外に、闇で売られていたものも多く、それに対しての禁止のお触であったのでしょう。


市民が見つける金沢再発見-大門松

(正月用の大門松)

77年後の安永9年(1780)の古文書(加越能産物方自記)には、許可を受けていたと思われる花商売の業者から“恐れながら申上候”という願書が提出されています。


市民が見つける金沢再発見-豊松

(正月用の豊松)

その願書を要約すると、”以前から許可され享保年中(1716~1735)重ねて郡奉行から6人のみに許可されている「真松商売」にも関わらず、越前、越中や他所より、密かに仕入れて二葉松や五葉松を売る散花屋が出てきたので、自分たちで見廻り、また、冥加金白銀10枚宛差上げる”旨のもので、翌天明元年(1781)には、6人が改めて許可されています。


(その時、改めて許可された6人は、上材木町荒木屋権兵衛、尾張町梅沢屋次兵衛、安江木町高岡屋弥三右衛門、上材木町権兵衛せがれ久兵衛、安江木町弥三右衛門同居人喜三右衛門、成学寺門前江津屋久之丞です。)


市民が見つける金沢再発見-若松
(正月用の若松)


その後、それらの家々が、どのように継がれて行ったのか、よく分かりませんが、文化8年(1811)の金沢町名帳には、6家以外の本堀川の真松商売越中屋平吉(現金子花店)が見えます。



市民が見つける金沢再発見

(東山の高橋花店)

安永10年4月(天明元年・1781)に、“花屋共松木商売縮方に付触書”が木の板に書かれ藩から渡されています。要約すると”これより花屋共は6人より二葉松、五葉松を買請け商売すること、6人は時々見廻り、紛らわしい松木の取扱いが有れば、咎めそれぞれ届け出ること”というもので、現在東山の高橋花店に所蔵されています。


市民が見つける金沢再発見

(縦36cm×横101cmの木板の”触書”東山高橋花店所蔵)


幕末、柴野美啓が書いた「亀の尾の記」には、現在の橋場町の枯木橋辺りで12月25日から立った「大晦日市」では、雪中に小屋を建て、種々の品物が売られているなかに、仏花に供する真松を売る店も多く”おびただしき数“だったと記されているそうです。


市民が見つける金沢再発見
(現在の枯木橋辺り)
市民が見つける金沢再発見
(現在の枯木橋)

参考文献:「加賀藩史料」日置謙著・「加賀藩の入会林野」山口隆冶著・「金沢、まちの記憶五感の記憶」小林忠雄著・「金沢市史、資料編7近世5」金沢市史編さん委員会編集など


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles