【加賀藩(加賀、越中、能登)】
“七木の制(しちぼくのせい)”とは加賀藩の禁伐木で、この樹木の伐採を禁止する制度は時代や藩の要請で幾度か変ります。史料的所見は寛永4年(1627)の能登奥郡で、それ以前元和年間にも能登奥郡には七木の禁伐木がありましたが、加賀藩三州(加賀、越中、能登)で「七木の制」として定められたのは、寛文3年(1633)だといわれています。
(彦三の武家屋敷跡の巨大な松)
寛文以後、禁伐木の七つの樹木は何回か変わっています。最後の慶応3年(1867)には、松(まつ)、杉(すぎ)、樫(かし)、槻(けやき)、檜(ひのき)、栂(つが)、唐竹(からたけ)の七つの樹木が三州共通の七木になっています。初めから終わりまでの禁伐木は、松、杉、槻で、檜、栗、桐、漆、樫、栂、唐竹は三州(加賀、越中、能登)や時代により出入りがあったものと思われます。
(註:栂(つが、とが、モミノキ)槻(ケヤキ、欅)唐竹(カラタケ、マダケ)
(長町で見かけた松)
中世の加賀、越中、能登では森林に富み、樹木の伐採については問題にすることもなかったのですが、戦国時代も終り藩政期に入ると、町が一斉に復興や築城など建築土木の事業が興り、材木の需要が高まりました。
(長町で見かけた巨木)
そのため町周辺の山林は伐採され荒廃し、大雨が降ると洪水氾濫により、人命、財産、田畑などが被害を受けます。しかし当時の治水の技術が未熟であったため堤防を築いても出水ごとに決壊し、そのたびに農民がたえず水害に悩まされます。そのため藩では治水対策として、河川の復旧対策として山林の諸制度に取り組みました。
(橋場町の通りの木)
一方では、軍事物資としての側面も窺え、樫は槍の柄、竹は旗竿や刀の目釘、松は城にこもった時の燃料やタイマツに使われるためのものだったと書いたものを見たことがあります。
(樹齢1000年といわれる神明宮のケヤキ①)
(樹齢1000年といわれる神明宮のケヤキ②)
他には、越中の奥山には、御締山(おしまりやま)と称して常人の出入りが出来ない国境の山では、奥山廻り役が20~30人の人夫を従えての年に一度の大掛かりな見廻りをしたといわれています。盗伐者を戒めるものであったということですが、国境防衛の意味も有ったのではないかと思われます。
(長町武家屋敷跡の庭の樹木)
「七木の制」で定められていた樹木は、藩が直々経営する“御林”という山林以外の、村人が自由に伐採できる入会地の”百姓稼山”でも届け出が必要だったそうで、この規則は家屋の周囲、庭先でも同様だということですから、極めて厳しい制度といえます。
(橋場町の屋敷の松②)
明治になると、むやみに木が切れなかった金沢の町は、町の半分以上が元武家屋敷で、その庭には巨木が生い茂り、日あたりが悪いため結核の原因などといわれ、伐採されたものもありました。しかし、戦時中は、樹木が森をなし、そのため爆撃のターゲットを免れたと、もっともらしい言い伝えもあります。
(旧御歩町の火除けモミノキ)
戦災を免れた金沢は、当時はまだ町中にはビルも少なく、街路や公園だけでなく、家々にはそれなりに樹木が植えられていて、戦後しばらくまで“森の都”とよばれていました。今はコンクリートだけの我が家も当時は、猫の額ほどの庭に松、柿、イチジク、南天、山椒、椿、石榴などが季節を伝えていました。
(ビルの谷間の松)
今も、探し歩けば、ビルの陰の寺社や武家屋敷跡などで樹齢100年ぐらいといわれるような巨木に出会います。
(御歩町の松)
参考文献:「加賀藩史料」日置謙著・「加賀藩の入会林野」山口隆冶著ほか