【兼六園→浅野川左岸(並木町)】
兼六園の小立野口から入ると右側に山崎山があります。紅葉が有名で、他に24基の灯籠(16基)と石塔(8基)があり、よく知られているのは12代藩主斉広公の正室、真龍院様が御室御所の塔を模して造らせたのもので、この塔は時の流れを表しているそうです。
表に日輪、裏には月が刻まれ、日輪を眺め回ると月が眺められます。たった数歩歩くだけで一日が過ぎて行く・・・。先立った12代藩主斉広公への真龍院様の心情が伝わってきそうな、そんな風情を漂わせています。
付近には、伽羅の木、国見灯篭、泉水から見上げる石の庭、卯辰山を借景にした遠州好みの景色、山の周りには樹齢200~300年といわれる欅、銀杏、楓、トチの木などの落葉樹が秋には紅葉名所になりますが、洗練された兼六園の築山と少し違い、見方にもよりますが、庭園の築山として元来作られたものではなさそうな武骨さが窺えます。
昔、この辺りは「山崎の荘」と呼んでいたことから、この名が付いたといわれていますが、そこに高さ9m、周囲160mほどの山がつくられたのは、慶長4年(1599)加賀藩存亡の危機に遭遇したとき、金沢城の周りに惣構を急遽つくって防衛力を強めたということで造られた遺構と見られています。
(山崎の村は、藩政期今の金大医の駐車場辺りへ、その後、上野町に移転させられます。)
しかし、山崎山の土居は、どうも慶長4年に築かれたものとは言い切れないところがあります。単純な素人考えですが、山崎山の土居は、東内惣構の起点ではなく、慶長15年に築かれた東外惣構の起点だということですが・・・・?
惣構とは、金沢城側に防衛施設として土を盛り上げた土居で、記録によると、内惣構は、徳川家との緊張関係が高まったことを受け、慶長4年(1599)に2代利長公の客将高山右近の指揮で造られ、外惣構は11年後の慶長15年(1610))に3代利常公家臣篠原一孝の指揮で構築されたと伝えられています。
東外惣構と堀については、以前にも書きましたが、復習しますと、延宝年間(1673~1681)の金沢図によりと、兼六園山崎山の土居が惣構の起点になっています。図の惣構の堀は、延宝図では水堀ですが、作られた慶長の頃は空堀だったと思われます。
水堀になったのは辰巳用水が開削される寛永9年(1632)以後のことになると思われます。現在、山崎山の下にある池は、氷室があったと言い伝えられていますが、この池が氷室に利用されたのは、明治以後のことであり、藩政期は、東外惣構の起点として辰巳用水から引いた水を、現在の兼々御亭辺りにあった霞滝から落下させ、源太郎川に合流し浅野川左岸の並木町から浅野川へ注いでいました。