【上辰巳(東岩)→兼六園→浅野川】
辰巳用水の取水口は当初、今の東岩より約730m下流に作られた古河にがあり、その後、取水量を増やす目的で約130m上流の“めおと滝”の対岸、雉(鶏)の取水口に付け替えられ、安政2年(1855)にはさらに約600m上流、現在の東岩に移されています。
辰巳用水に至る経緯は、天正11年(1583)前田利家公が金沢城に入城しますが、当時の金沢城は小立野台先端の丘の上に位置することから水の便が悪く生活用水は深い井戸に頼っていました。
金沢城では、慶長10年(1605)に天守閣が落雷により焼失します。また、元和6年(1620)炬燵の不始末から本丸が全焼するなど火災にあいますが、寛永8年(1631)4月、一藩士が、後に「法船寺焼き」といわれる法船寺門前での放火により、民家1000戸と金沢城の本丸までもが焼失します。
(火災は寛永12年(1635)にも、河原町後ろから出火、浅野川あたりまで1万軒が焼失します。)
3代藩主利常公は、この大火を契機に防火用水の建設を幕府へ願い出ようとした矢先、前田家に謀反の疑いありと、二代将軍秀忠公より三ヶ条の詰問状が突きつけられ、前田家にとって最大の危機に遭遇しますが重臣横山康玄を幕府に遣わし、必死の弁明で、どうにか疑念もはれ、大火を理由に防火用水の建設を幕府に願い出で許可を得ます。
(詰問状 1,小将組の強化と城郭修理 2,大阪の陣での追賞 3,船舶、武器等の購入)
利常公の本心は、前回もいいましたが「金沢城内の飲料水の確保」と「内外の堀に水を満たす」ことにより城の防備を固め、また、用水を利用した積極的な「新田開発」といった目的もあったのでしょう。
辰巳用水工事は、寛永9年(1632)に始まり約9ヶ月と極めて短期間に完成させています。工事は昼夜休みなしの2交替で1人に1日に賄いが4食(当時は普通2食)、それが「加賀の四度飯」といわれ、後々まで超突貫工事の代名詞のようにいわれたと伝えられています。
しかし、費用や人員に関する史料はなく、工事費の詳しい費用は試算しか出来ませんが、近接した年代に行われた他の用水のものから推算すると突貫工事であり藩の事業のため、かなりの割増があったと思われます。
(昔、何かの資料から書き写した私のメモには、工事に関わった人数は約14万人。工事費約2,666両とあります?単純計算ですが1日約500人?、工事費は、千両箱が2つ半ちょっと、当時の1両を30万円としても随分安い??)
「辰巳用水」を語る上で欠かすことの出来ない人物に板屋兵四郎がいます。豊かな才能と経験から起用されたのでしょうが異例の抜擢で、緊迫した藩の命運を賭けた大土木工事の総責任者を任され、9ヶ月間で完成させています。次回は板屋兵四郎について書こうと思います。
(つづく)