【上辰巳(東岩)→兼六園→金沢城】
「三壷聞書」には、「…小松町人板屋兵四郎という…」と書かれていて、大阪芝敷村から小松に来たとされていますが、当時、前田家の公事場奉行や算用場奉行などを務めた稲葉左近直富の配下で“下村”という姓の侍だともいわれています。
(遊歩道の辰巳用水・平成5年遊歩道完成)
(三壷聞書とは、加賀藩の足軽だった山田四郎右衛門(三壷三左衛門)は史書を読み、自ら加賀藩の通史を書き記したもので、鎌倉・室町の簡単な記述から書きおこし、加賀藩における事録を細かに綴り、三代藩主利常公の没までを書き記したものです。)
兵四郎は元々、和算・測量・数学では知られた人物だったようで、能登で塩田関係の小代官を勤め、その間、寛永7年(1630)には輪島の近くの尾山用水、春日用水の開削をしており、今や能登名所「白米の千枚田」の灌漑も板屋兵四郎の手によるものと伝えられています。
辰巳用水で兵四郎が行なった画期的な工事は幾つも有ります。取入口を犀川が直角に曲がる地形を利用して造り大量の水を勢いのまま、隧道に流し込ませています。また、隧道は落盤や用水保護のために軟弱地盤を避け、固い岩盤を選んで屈曲させながらも、水流を緩めないように勾配は正確無比で、必要な水量や流速を得るため水路構造まで、細やかな計算、工夫が随所に施されています。
究極の技術としては、兼六園から約10mの高低差の水圧を利用し石川橋の土手の上に落とし、南御門の三ノ丸の堀へ、さらに50,2mの二ノ丸へ。伏越の理(逆サイホンの原理)を遣いお城に水を上げています。
(兼六園霞ヶ池海抜52,3m、石川門42,2m、二ノ丸50,2m。当時の導水道管は木管であり、幕末のなり石管に代えられます。)
このように大事業を成功に導いた兵四郎ですが、用水完成後、工事の機密漏洩を危惧した前田家によって暗殺されたと伝えられていますが、辰巳用水完成の5年後、富山の常願寺川の用水工事の指揮をとったともいわれるなど晩年は謎に包まれています。
兵四郎の上司で、用水の建設資金調達の責任者であった稲葉左近直富は、寛永17年(1640)に切腹し果てました。罪科は表面的には汚職とされていますが、言い伝えでは稲葉は資金調達のために幕府に無断で大坂への米の輸送路を改修し利益を出しそれにより辰巳用水の建設資金に当てたとかで、前田家は幕府への配慮から政治的に彼を処分したのだと、真しやかに伝えられています。
(板屋兵四郎の暗殺は、このことが喧伝され、稲葉の切腹が兵四郎にすり替わったのではという説もあります。)
後に兵四郎は、神様になっています。上辰巳と袋板屋町の板屋神社があり、上辰巳町の方が本社で兵四郎が主祭神とされています。また金沢神社の境内に遥拝所があり、兵四郎のご神像が奉納されているそうです。現在も土木や水道関係の業者が工事前に安全祈願や工事成功の祈願に参詣すると聞きます。
(遥拝所と神像は昭和33年(1958)に、板屋兵四郎の子孫の方が奉納したものだそうです。)