【金沢・兼六園】
竹沢御殿は前田斉広公によって現在の兼六園千歳台から梅林辺りに造られたご隠居所でした。斉広公は10代重教公の次男で、兄の斉敬が早く死んだため、14歳の時、重教公の弟の11代冶脩公の養子になり19歳で家督を受け継ぎ12代の藩主になります。
財政難の厳しい時代、張り切ってスタートしますが、なかなか好転せず、重臣達への不審を募らせ、やがて能に慰めを見出しのめり込んでいったと伝えられています。能に没頭することで、不安やささくれ立った気持ちが鎮まることから、現実からの逃避であったようにも思われます。
(始めは、時勢を洞察し、西洋の学問を導入し治世に極めて熱心であったようですが、中期から能にふけり、苦しい財政を省みることなく、浪費の耽り、その極みは能舞台が2つもある御隠居所、建坪4500坪もあつたという豪壮な竹沢御殿だといわれています。)
文化5年(1808)7月、26歳の時に金沢城二ノ丸御殿から出火し、2年後の文化7年(1810)7月には御殿再建が終了します。再建費用6900貫目の86%にあたる6000貫目が家臣や領民や豪商の献金によって賄われたといわれ、斉広公は謙虚に「自分は不徳不肖の藩主であるのに、こんな献金があるのは、ひとえに先祖の宿善の候」といって喜びを表したといいます。
御殿の完成祝いは、金沢城下は2日の休みを令し、「盆正月」の祭りが行なわれ、6回にわたる“規式能”では、造営に尽力した年寄以下藩士が観覧し、職人や町人など数千人を御白州で見物させ、“慰み能”では6000人を招き、いずれも落成した二ノ丸御殿の能舞台で催され、後に斉広公治世における最大のイベントだったと伝えられています。
(駕籠石ここで斉広公は駕籠を降りる)
(駕籠石から雁がね橋を渡り書院へ)
(書院の前の築山(七福神山)
しかし斉広公は、飽きやすいところがあり36歳の時、文政元年(1818)に公務から一時退きたいと言い出し、自ら「御親翰(ごしんかん)」を書いています。
(現代訳にすると「かねがね心労ですぐれず、最近は、目も近眼になり物事があまり見えなくなっている。こんな状態では公務も充分の勤めることは出来ない。これまで大きな間違いも犯さず勤めてきたのを、ここで失敗すれば残念なことになる。この辺りで4,5年公務を退き保養第一に考えたい」と隠居の意向を示しています。)
文政5年(1822)には幕府に隠居願いを申しで、11歳の斉泰公に、後見人を富山の藩主前田利幹(としつよ)をつけることを条件に許可を得て藩主の座を譲ります。幕府に提出した許可願いには。実際の41歳の年齢を43歳と書き、少しでも年齢を高くして隠居の許可を取りやすくしたようにも窺えます。実際も身体はあまり強くなく、文化15年(文政元)(1818)3月の帰国後、一度も江戸へは行かず国許で過ごしています。
斉広公の性格は、自分の思いと藩主としての体裁を保つこととの落差に悩んだといわれていますが、実際に行なった政策はかなり強引なところがあり、裏腹に性格的には繊細で、よく神経症的な症状に陥ったといいます。また、その生涯は5歳の時死んだ父10代重教公と似たところがあったともいわれています。
(10代藩主重教公もかなり強引な政治改革を試み、挫折しています。しかし、後に斉広公もそうであったように隠居後も、藩政を執行します。)
(後に竹沢御殿の廃材で作ったという斉広公の正室真龍院の隠居所成巽閣)
次回は、竹沢御殿にまつわる逸話やその後の斉広公についてのお話を・・・。
参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など