Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

金沢城二ノ丸御殿より大きい隠居所、竹沢御殿②

$
0
0

【金沢・兼六園】
斉広公は、隠居所竹沢御殿(たけざわごてん)が文政5年(1822)12月に完成し移ります。竹沢御殿は、再建された金沢城二ノ丸御殿3,000坪より大きく壮大な屋敷で建坪4,000坪で、部屋数も200を超えたといわれています。なんと能舞台が二つもあり、斉広公はここで文政7年(1824)7月10日、麻疹で卒去するまで1年7ヶ月、能三昧の日々を送ります。



(竹沢御殿の書斎があったところと築山(七福神山))


(七福神山の解説板)


竹沢御殿は、今の兼六園の千歳台を中心に、北は徽軫灯籠(ことじとうろう)の辺りまで、南は小立野、東は兼六坂の際まで、西は広坂の際の22,500坪、今の兼六園の75%以上の広大なものであったといわれ、御殿の周りには2kmにおよぶ塀や土塁をめぐらし、併せて35の門があったといいます。

(後の蓮地庭を繋げ、現在34,000坪になりました。)



当時、千歳台には11代冶脩公が創った学校明倫堂と経武館を文政2年(1819)2月に千歳台の隅に移させますが、御殿が出来て入ってみると、生徒が騒ぎ喧しいという事から、「生徒たちが火を出したら大変だ」という理由から、現在の中央公園辺りに再移転させています。



(金谷御殿があった尾山神社)


斉広公の隠居と竹沢御殿の造営の経緯は、文政2年(1819)正月、隠居を年寄に打ち明け、幕府には5月に幕府に建設の申請をします。申請は表向き嫡子斉泰(勝千代)の住居を建てるという名目で願い出、従来の金谷御殿は湿地で、病人が多く出て難儀しているから、軽く家作をしたいと申請しています。


(隠居したお殿様や藩主の子弟が住む金谷御殿には、当時、将軍から拝領した“ひつじ”がいてとても臭かったためという説もあります。)



(書斎の前の曲水、右に書斎がありました)


隠居所の造営が進められたが、実際に斉広公が隠居したのは、嫡子斉泰公が12歳になる文政5年(1822)になってからで、11月、正式に斉広公の隠居と斉泰公の家督相続の許可は斉泰公が江戸城に登城して将軍家斉公から申し渡されてからになります。どうも大名で隠居するものが国元に滞在したまま認められたというのは極めて稀なことだといわれています。



(霞ヶ池の亀甲島は竹沢御殿の築山で当時は霞ヶ池は無かった)


築造中、この御殿を家臣は蓮池上の御殿と呼んだが、斉広公は御殿と呼ばせなかったらしい、幕府への申請の文章の手前からもあるからだろうか、事軽くするのが趣旨であるとし御殿ではなく蓮地上の御住居と呼ぶように家臣に指示しています。




(寝所があったところに地蔵堂)


しかし、完成すると家臣の間には、大国意識が強く、財政負担より格式が優先され、また、斉広公も隠居後も藩政を監督するつもりもあり、役人の部屋や子供や母親たちの部屋、能役者の部屋などが必要になり、事軽くとは裏腹に壮麗な建物になり、以後御住居を竹沢御殿と呼ぶように触れられています。


(竹沢の命名は、斉広公が子供の頃から、所用のものに竹しるしを用いていたためと、金洗沢の沢を組み合わせたといいます。)


財政難のこの時代、造営に係った建築費は、二ノ丸御殿造営の時と同じ資金調達手法で献金を集めたものと思われます。さすがに二ノ丸御殿の約銀6900貫目には及びませんが銀3,000貫目以上。その内2,000貫目が三国の豪商三国屋(宮腰屋)与兵衛から調達したといわれています。


(つづく)


参考文献:「兼六園を読み解く」長山直冶著・平成18年・桂書房発行「よみがえる金沢城」平成18年・石川県教育委員会発行「魂鎮め・12代藩主斉広一代記」中田廉(雪嶺文学)・平成25年・雪嶺文学会発行など


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles