【小橋→昌永橋・横安江町】
横安江町商店街は、前にも書きましたが、浄土真宗金沢別院の門前町として、古着屋や小間物商が軒を並べたといわれていますが、超老舗といえば、なんといっても別院が出来るず~と以前から商店街の路地を一歩入ったところにある加賀毛針の老舗「目細八郎兵衛商店」があります。
(今の目細八郎兵衛商店)
(目細八郎兵衛商店所在地は、藩政時代から通称目細小路といわれ、明治になると裏安江町1番丁になりますが、現在は安江町11-35。因みに横安江町も裏安江町も昭和の町名変更で消えてしまいました。)
(横安江町商店街通り目細小路角の店、昔は東別院前にも店があったとか)
お店は、天正3年(1575)から針の製造販売を行って439年。前田利家公が、加賀の国を治めるようになる8年も前の創業になります。初代八郎兵衛は、京都辺りの技術に独自の工夫を凝らして「めぼそ針」を作りあげたといいます。「めぼそ」の針の名前は藩主から頂戴したもので、藩の御用を仰せ付かったといいます。昔から「めぼそ針」は糸が通し易いと高く評価され今もその伝統を守り続けています。
(看板の書は元禄時代、前田家の祐筆佐々木志津麿によるもの)
藩政期、前田家は外様大名のため、幕府から厳しい監視の目が向けられていました。武芸を積極的に奨励すれば謀反の嫌疑を受けるため、鮎釣りも足腰の鍛錬を目的に始められたといわれ、武士だけに認められてものでした。
その鮎釣りは、鮎を獲るだけではなく、釣り方も工夫し、毛針は、カゲロウや水中に棲む川虫に似せて、キジ、ヤマドリ、クジャクの羽毛や漆、金箔、蛇皮などを使い、鮎との知恵比べをしたのが加賀毛針の起こりだといわれています。
(明治になり庶民も鮎釣りを楽しむようになると、毛針の需要も格段に増え、毛針職人も多く誕生します。17代目細八郎兵衛が、明治23年(1890)“第3回内国勧業博覧会”に加賀毛針を出展、受賞したことから、加賀毛針の品質と名声が広く全国に広がり、加賀針元祖の名誉を拝することになったそうです。因みの現在は20代目、毛針は石川県伝統工芸品に指定されています。)
そして今、加賀毛針の美しさを、多くの人々に伝えたいと、フェザーアクセサリーを生み出し、伝統工芸である加賀毛針を今の活かし、金沢にしかない希少な美として、新しいものづくりで伝統を守っています。
昭和56年発行の「老舗百年」には、124店舗掲載の中、横安江町商店街から目細八郎兵衛商店の他に、藩政期寛政元年(1789)創業の近八書房、ナカキン、高橋、島谷、林屋、澤田、山田の各商店と飲食店のいしやの9店舗が掲載され、その内藩政期からの店舗は6店舗もありました。
≪番外編・横安江町のカフェー≫
昭和のはじめ、北間の豪農高木正喜氏が、横安江町に「バッカス」というカフェーを経営しています。高木家の親戚が経営する粟崎遊園との関係から、「パッカス」出入りの当時毎日新聞金沢支局長鴨居悠などの文化人が粟崎遊園の芝居や演劇に肩入れし脚本を書いています。
パッカスでは、今風にいうとタウン誌「酒神」を月間で発行し積極的に粟崎遊園を宣伝していたといます。当時のことを書いたものによると粟崎遊園とタイアップして河北潟に船を浮かべ、パッカスマドモゼル20数名の競艶サービスで、月見のイベントを行なっています。
(昔の粟崎遊園・小松砂丘の模写)
このイベントは、今、書かれたものからの想像ですが、かなりのもので、電車や船代、折り詰め弁当にビール付きで2円。規模も5人乗りの船を40数艘といいますから、単純に計算しても200人以上が参加しています。また、当時、パッカスで働く女性は金沢以外の女性が多く、その頃、流行のエログロとは大違いで、上品なお色気でムードがあり、これから起こる戦時色など何処吹く風、モダンで文化的で、当時のインテリが気軽に出入り出来たカフェーだったようです。
参考資料:「むさい―限りない未来に向けて」平成5年・武蔵活性化協議会発行、横安江町商店街振興組合専務理事篠田直隆氏「横安江町商店街―横安江町商店街今昔、そして未来へ」「目細八郎兵衛商店のホームページ」「老舗百年」昭和56年10月、金沢商工会議所発行「粟崎遊園物語」平成10年3月、内灘町発行など