【高岡→金沢】
高峰家は、足利時代、現在大阪府和泉市の和泉の郡宰(郡奉行)の高峰刑部を初代とし、2代目仁左衛門、3代目慶庵は医師で京、江戸で医術を学び福井の松平家の侍医になります。国替えで越後高田へ移り、4代仙庵、5代元稜、6代幸庵、7代幸伯と代々医業の家だったそうです。
8代目(高岡初代)高峰幸庵は、京、江戸で学び、眼科を専門としながら、ヨーロッパの医療器具に関心を持ち、自らも製造しています。文化11年(1813)に高岡に初めて蘭医学を伝え開業し薬剤の製錬法を教示していました。
高岡の町では名声が高まり1日に1000服の薬が出るほど繁盛し、同業の嫉妬から、他国者の永住を許さない藩の制度から訴え出るものまででるようになりました。そんな中で高岡の有力者たちは、何とか高岡に残ってほしいと奔走し、高峰家も日蓮宗から臨済宗に改宗し国泰寺の寺侍の扱いとなり、藩の制度に触れることも無く御馬出町に住むようになりました。
(高岡の高峰家跡の解説文)
その8代目幸庵には子がなく、高田の人長野金次右衛門の娘トキ子を養女に、後に松井利右衛門の子、玄台を婿に迎え高峰家を継がせています。その9代目玄台は、江戸の昌平黌で儒学を学び、後に蘭方医に転じ業を修め帰郷します。その子剛太郎が、後の10代目高峰元稑(げんろく・明治になって精一)で譲吉博士の父です。
(母は、高岡の造り酒屋(津田屋)娘ゆき(幸子)で、譲吉博士は高峰家の長男として生まれ、兄弟は5男7女の12人でした。)
10代目元稑(精一)は、江戸で学び23歳で帰郷し医業に当たりますが、舎密(せいみ・現在の化学)も修め、安政2年(1855)壮猶館舎蜜方臨時御用に任じられ金沢に赴任し、百石十人扶持を受け化学実験に明け暮れる生活を送りますが、後に御姫様付医師になり、やがて前田家の典医に昇進します。また、慶応3年(1867)卯辰山開拓の養生所にも関わり、明治3年(1870)医学館創設とともに棟取になりました。
高峰家の菩提寺は、金沢市寺町5丁目の臨済宗国泰寺で、高峰家のお墓には、譲吉博士の父、母、弟3人、妹3人がまつられています。譲吉博士は大正11年(1922)7月22日ニューヨークのレノックス・ヒル病院で逝去されウードローン墓地に埋葬されています。日本へは大正11年9月22日遺髪が到着し、26日青山墓地に埋髪されています。
(他、高峰家の先祖代々のお墓は、高岡の国泰寺にあります。)
参考資料:臨済宗国泰寺「国泰寺と高峰家」より