【武蔵ヶ辻→寺町5丁目】
高峰譲吉博士は1歳の時、父の壮猶館への赴任に伴い、金沢に移り住み新竪町、南町を経て石屋小路(現エムザ裏)に転じ、長崎遊学の10歳まで過ごしました。10歳といえば今の小学校4年生。以来、金沢に定住することなかったといわれていますが、父精一や兄弟も金沢に住んでいて、記録では、大正2年には国泰寺へ墓参に訪れています。
≪旧高峰邸旧梅本町≫
前田家の本家筋前田長種家の屋敷跡の一部で、明治5年(1872)高峰家が買い取り開業医として居宅を新築しました。当時の建物は、瓦葺2階建で部屋数は11室あり、母屋の1階に診察室、2階には当時珍しいガラス戸を入れ、柱はオランダの原書を調べペンキを塗り、天井はサラサ模様の壁紙を貼ってあったといいます。後に増築された平屋は質素そのもので、現在黒門前緑地に移築されています。母屋の新築時は博士19歳、東京の工部省工部寮に行っていたころですから、もしかすると帰省した時、こここで寛いだのではないでしょうか。
(ここには、昭和の50年頃から、一時、香林坊にあった大神宮が有り、現在は駐車場になっています。)
(明治の高峰家)
≪黒門前緑地≫
平成7年(1995)まで、金沢地方検察庁検事正官舎の敷地でした。平成13年(2001)、官舎の一部と、その土塀を廻らす屋敷構えを保存するとともに、高峰譲吉博士ゆかりの家屋を移築し、公園として整備したものです。
(藩政初期は、宇喜多秀家の室“豪”の居所だといわれていますが、寛文12年(1672)以後、藩の財政や郷村機構のトップの役所の御算用場で、現在の黒門(藩政期は西丁口御門)前緑地と尾崎神社に位置し建物約350坪だったそうです。最上層は御算用場奉行、その配下に改作、郡奉行を置いていました。算用場跡は、明治に入り、暫らくの間、藩の学校や商法会社になっていたことも有ったと聞きます。)
≪明倫堂跡≫
11代藩主冶脩によって寛政4年(1792)現在の兼六園内に設立されますが、竹沢御殿の建立のため文政5年(1822)旧仙石町(現石川四高記念館)に移転します。設立の目的の一つに身分を区別しない四民教導がありましたが、実際には武士の師弟以外への開講はかなり限定があり、平士、下級武士、陪臣の師弟が多く、人数は200名~300名でほぼ一定であったといわれています。授業内容は、和学、天文学、本草学など多岐にわたるものだったそうですが、朱子学を尊重した漢学が多くを占めていたようです。譲吉博士は、8歳で入りますが、慶応元年(1866)藩が諸士師弟を洋学研修のため長崎に派遣される事になり10歳で長崎に赴きました。
(高峰譲吉の少年時代、右から2人目)
(明倫堂跡、石川四高記念館)
≪壮猶館跡現在知事校舎≫
ペリー艦隊の来航(1853)により幕府を始め、各藩は洋式軍備が整備されました。加賀藩も、安政元年(1854)に洋式軍隊養成学校壮猶館(そうゆうかん)を金沢の柿木畠に開校しました。高峰元稑(譲吉博士の父)は、舎蜜方御用(化学)、土清水製薬所御用、翻訳方御用兼、軍艦方御用兼帯など多くの役職に付き、明治になると精一と改め医学館の三等教諭になり、明治13年石川県富山病院の院長に就任しています。
≪金沢ふるさと偉人館≫
様々な分野で活躍した、金沢が生んだ偉人、木村栄、鈴木大拙、高峰譲吉、藤岡東圃、三宅雪嶺等の生涯や業績を紹介しています。高峰譲吉博士の胸像は、広坂公園(現県立美術館別館)より移築したものです。
(金沢ふるさと偉人館)
(金沢ふるさと偉人館のワシントンの桜)
≪金沢一中跡≫
譲吉博士は、大正2年(1913)5月2日、亡き両親の法要のためこの国泰寺を訪れ、金沢第一中学で講演もしています。当時、寺町、大桜向いに弟の家が有ったと聞きます。
≪国泰寺≫
臨済宗摩頂山国泰寺は、高峰家の菩提寺です。六斗の広見を挟んで玉泉寺の隣にあるためか2代利長夫人玉泉院の二十五回忌法要の折、小松から利常がお参りに訪れ、装束をここで改めたと伝えられています。境内の秋葉権現を祀るお堂は火ぶせの神として尊信されています。
(国泰寺)
(国泰寺、大正2年譲吉博士が訪れて時の記念写真)
(六斗の広見:六斗という地名は、平安時代に六動太郎光景と言う武士が住み、樹木が生い茂っていたので六動林と呼ばれました。それが転じて六斗林、六斗と言われたと伝えられています。藩政期は、幕府巡検使を出迎える場所でもありました。金沢の現存する広見として一番大きく約1,300㎡で、二番目は横山町の約1,000㎡です。
広見は藩政期、火災に際して類焼を防ぐためと防衛戦略上から造成されたものです。また、荷車の回転など庶民の生活にも活用されたとも言います。寛文7年(1667)の金沢最古の地図には、一定規模以上の広見だけで89箇所が確認でき、内70箇所が川や堀など水辺に接しており、金沢城に近い側に多く配置されています。犀川や浅野川の大橋には両側に設けられています。)
(おわり)