【金沢・十間町】
十間町という町名は、家が10軒あったとか、町の間数が10間(18m)あつたからなどと伝えられていますが、金沢古蹟志によると18世紀初めには、町筋は3町2間5尺(約280m)あったといいます。
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(十間町から下堤町方面)
藩政初期、十間町の突き当たり、現在の日本郵政の前で「女性の人市」が立ったと伝えています。家中、町方奉公をしたい女性が、富田家土蔵、塀の腰に集まり、求人側と給金等を取り決め引き取られたといわれていますが、寛文9年(1669)の定書では、女奉公人に立集まることを禁じているそうです。
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(富田家跡(現日本郵政))
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(藩政期の十間町周辺・延宝金沢図より)
文化8年(1811)の町絵図や町名帳によると、町の間数212間(約381m)あり、総家数60軒、米仲買4軒(肝煎含む)、薬種5軒、医師3軒、大阪薬種問屋宿などとあり、江戸三度棟梁の名も書かれています。
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(現在の十間町)
(藩政期5代前田綱紀公の招きで当時著名な本草学の稲生若水が十間町に住み、そのためか医師や薬種関係の家が多かったそうです。)
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(現在の十間町・観光バスの駐車場)
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(現在の十間町・近江町の駐輪場)
米仲買が多いのは、藩政期加越能三国の米価を決め、藩米、藩士知行米の売却を業務とする米仲買座が設けられていたからだそうです。明治になり一時、米仲買座が商法会社に吸収され博労町(御算用場跡)に移りますが、明治18年(1885)に米商会所として十間町の戻り、明治26年(1893)株式会社金沢米穀取引所と名称が変更されました。
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(金沢米穀取引所跡、現近江町パーキング)
金沢米穀取引所は昭和14年(1939)まであり、町には米相場の仲買人の店が立ち並び活気を呈したといいます。米相場は一面で投機、ぼろ儲けも有り代わりに一攫千金の夢破れスッテンテンになることもあり、ある種の危ない匂いのする町でもあったともいえます。戦後、食糧管理制度の制定により金沢米穀取引所は廃止されました。
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(十間町側の近江町市場入口)
戦後は、繊維王国石川の中心地として、繊維問屋が通りに軒を連ねた時代もありました。今は、様変わりし近江町市場の広場や駐車場、駐輪場になっているところもありますが、老舗の紙問屋や旅館、古美術商が昔の面影を残しています。
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(現在の十間町・老舗の紙問屋)
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(現在の十間町・老舗の旅館)
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(現在の十間町・老舗の古美術商と旅館)
(前田家の参勤交代:参勤(金沢→江戸)が93回、交代(江戸→金沢)が97回。合計190回、金沢と江戸の間を移動しました。この内、9回を上街道(福井回りの東海道4回、中山道が5回)181回が下街道(富山回り)を利用しました。)
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(現在の十間町・古美術商の昭和始めの洋館)
参考文献:「金沢古蹟志」「稿本金沢市史」「金沢百年・町名を辿る」など