【金沢・今町・中町】
今町は、中世の石浦七ヶ村の一、今市村だったとか・・・。この辺りには一向一揆の時代、凹市(久保市)や今市という市場が立ったと伝えられています。中町辺りは、藩政初期に大工の拝領地という記録もあります。町割りは東西5本の道路に対し、南北の道が直角に交差し、甲州流兵法といわれ攻めづらいように道を配した城下町金沢としては、珍しく整然とした町割りになっています。
(東西5本の道路は、東西の内惣構の内側にあり、現在の大手町(お堀通り)、旧殿町通り、旧今町通り、尾張町通り、新町通りで、現在、大手町お堀通りと旧殿町通りの間にある旧梅本町の通りは明治4年廃藩置県後に出来た通りです。)
(延宝期の中町周辺・大手町の解説板より)
(現在の周辺地図・大手町の解説板より)
今町の町名は、北陸道の尾張町に対して、新町と同じく新しく立てた町ということから”今町“と言ったと書かれたものもありますが、寛永8年(1631)の石浦郷七ヶ村氏子地図に、現在の場所から少し離れた西町あたりに今市村地が記載されています。
明和2年(1765)の慈光院上申書(石浦山王社)によると今市村は、今は近江町の隣町にあるが退転したと申伝がありますが、明治の歴史家森田柿園の金沢古蹟志では「其の村跡少し隔つといえども其村地にてあるなるべし」と書かれています。
(石浦郷七ヶ村とは:石浦村、笠舞村、保島村、朱面野村、木新保村、今市村、山崎村で、慶長11年8月10日の石浦七ヶ村氏子連判に名がある石浦山王社の氏子を数えて石浦郷としたものにすぎないものだと、森田柿園は書いています。)
(今町通り・旧上今町より)
文化8年(1811)頃の今町は、東西の内惣構の内側に位置する本町で、尾張町、新町、十間町、近江町と並ぶ金沢城のお膝元。商家は米仲買5軒、銀仲商2軒、旅人宿11軒、蔵宿商1軒、質商4軒、古手買5軒、武具商3軒、江戸飛脚所2軒のほか、十村宿、女奉公人口入など富裕商人の町でした。下今町は中町を含め47軒、上今町は山崎町を含め42軒が描かれています。
下今町の南側の中町から十間町に至る道路沿いには武家地で奥野家、佐藤家、富田家の大身の屋敷が連なっています。前にも書いた「元治の変」の松平大弐の屋敷が、中町東側の角、現在のNHKのところにありました。
(明治19年(1886)には佐藤家の屋敷跡に豊国神社が遷宮されたが、明治40年(1907)に卯辰山に移りました。)
中町は、大手門(尾坂門)に繋がる主要な道路ですが、前にも書きましたが、この辺りは一向一揆時代は小坂村で、旧跡には小坂神社が有ったと言う説もあり、藩政初期、金沢城下の町が広がり、小坂村(オッサカ)は現在の大樋口に移転させられ、小坂神社も春日山の現在地に移転したのだと伝え聞きます。
参考文献:「金沢古蹟志」「稿本金沢市史」「金沢百年・町名を辿る」など